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星の子
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星の子の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.71pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全147件 101~120 6/8ページ
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本の帯の「主演 芦田愛菜」に惹かれて,今村夏子さんの『星の子』を読んだ。中学3年生の林ちひろが主人公の,新しい宗教を信じる家族の物語である。印象に残ったのは,南先生が「ウイルスに負けない体を作ろう」というプリントを読む場面である。「誰もがウイルスに感染するとは限りません。ではなぜウイルスに感染する人としない人がいるのでしょう。その違いは一体何なのでしょう。……免疫力。」著者が意図したことか,そうでないことかは分からないが,この「ウイルス」を「宗教」という言葉に読み替えると,何か宗教を暗示しているような気がした。「神聖な場所で見る神聖な星は人の運命を変える力を」持つ。ラストは,年に一度の星々の郷の宿泊施設で,主人公と両親が夜空を見上げ,みんなで流れ星を見るまで,いつまでも星空を眺めつづけた,という場面で終わった。 | ||||
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胸がぎゅっとするほど辛いシーンもあるのですが、主人公目線で淡々と進んでいくのが不思議と心地良く、あっという間に終わってしまいました。見たことあるようで、でも全く見たことの無い日常のカケラを、繋ぎ合わせたお話し。 読後の感想は人によって違うと思います。 二連休の前の日とか、体は疲れてるけどトロンと読書したい時にオススメの一冊。 | ||||
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宗教という難しいテーマを、否定も肯定もせず淡々と描いている。確かに、物心ついたときには既に家庭の中にはこの新興宗教が入り込んでいた主人公にとってその存在を疑問に思わないのは当然である。 思春期になるといくつかの出来事をきっかけに自分の親がおかしいのでは?と思い始める主人公も結局教団のイベントに参加し続けていて、そういう家に産まれると案外そんなもんなのかもなと思わされた。 印象的なラストは賛否あるようだが、私はこの終り方がとても気に入っている。 奇妙な宗教にどっぷりの親が、けれど主人公を愛する気持ちは宇宙より大きいのを感じたし、全ての始まりもまた主人公への愛故だったわけだ。 しかしそれがよくわかるシーンであると同時に、不穏な空気も漂わせている。 何度も繰り返される流れ星の会話と、少しずつ近寄る両親。これが娘を解き放ち叔父夫婦へ預ける決意の表れなのか、はたまた離したくない一心で忍び寄る影に攫わせるつもりなのか。 読み手に委ねる終わり方ではあるが、個人的にはハッピーエンドであってほしい。 | ||||
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次女の健康上の問題から新興宗教団体に属する事となった家族の変化と、それを取り巻く社会(学校、近隣住民、親戚)からの多面的な視点から描いた本です。周囲からすると異常に見える信仰上の行動が、当の本人からすると若干の違和感を感じながらも生活の中に組み込まれているさま、周りとのギャップを感じながらもそれを受け入れていかざるを得ない子供心境など、ストーリーや文体は淡々としているのですが、読者に何かを感じさせる、そんな内容になっています。周囲(マジョリティー)からすると異常な事も当の本人(マイノリティー)からは普通となっており、それを感じながらも何とか上手く行きていく子供の姿には考えさせられるものがあります。 | ||||
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サクサク読めるお話でした。自分が中学生の時を思い出しました。 | ||||
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一見淡々としたわかりやすい文章から、主人公の負うものの過酷さが逆に鮮明に見えてくる。 読み進めるうちに胸がかき乱されて、基本的には心優しい人々がうまく生きていけないことや、自分自身の中にしかない答えをなかなか見つけられないことへの虚しさを覗き込んでいるような気持ちになりました。 さまざまな解釈ができる深い表現でこの作者、この作品のファンになりました。 | ||||
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(※ 本稿は、本書初版単行本のレビューの再録です) 今村作品は、『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』に続いて3冊目。 本書『星の子』は、芥川賞候補作になった作品だが、前の2冊に比べると、しごく真っ当な小説に仕上がっていて、若干の物足りなさを感じた。 題材的には「新興宗教」を扱っており、語り手は新興宗教の信者家族の娘で、たしかにその少し変わった家族の様子や、周囲との軋轢なども描かれているので、そこに何か意味慎重なもの、特殊なものを読み取ろうとする人もいるのだろうが、私としては、これはごく普通の家庭の、ごく普通の素直な娘の、意外に波乱の無い「小市民的生活」を描いた小説だと感じた。 信仰宗教だから何か「おかしい」はずだとか、周囲との軋轢がもっとあるはずだとかいうのは、信仰宗教に対する先入観による色眼鏡的な評価であって、少なくともこの小説は、そのような「世間並みの偏見」の上には書かれておらず、普通に新興宗教を信じ、周囲との若干の軋轢をさほど大きな問題とは考えず、自分たちの信じたものに素直に生きている人たちの物語だと、私にはそう思えた。 かく言う私も、幼い頃から新興宗教に入信した家庭の子供であったし、大人になってからは、あるきっかけで信仰批判者に転じたのだけれども、しかし、だからと言って、新興宗教の信者たちが、世間並みにまともで、世間並みにいい人たち、いや、世間並み以上にいい人が多い、という評価は、今も変わっていない。 私が宗教や信仰を批判する場合、そこで問題にするのは、いわゆる知識階級の人たち(つまり、指導者階級)の論理的一貫性の問題であって、普通の信者には、もともとそんなものを求めはしない。なぜなら、普通の人は、新興宗教の信者であろうと、無宗教者であろうと、論理的一貫性なんてことなど問題にもしなければ、そもそも考えたこともないからである。 例えば「私は宗教なんか信じません」と言っている人の大半が、なにかの危機的な局面では、心の中で「神さま、どうかここだけは助けてください」と祈ったり、観光で有名神社の境内などに入ると何か「清浄感」を感じたり、結構しばしば無根拠に自分の直感を信じたりなどしているのだから、そんな人が新興宗教の信者を特別視するのは、他ならぬ自分も、そして他人をも見えていない証拠であって、論理的一貫性なんてものについては考えたことのない証拠なのである。 そして、そんなふうに「世間の普通の人々」を見ている私からすれば、本作の主人公やその家族は、非常にまともで素直な「暖かい家族」だとしか言いようがない。 たしかに、その宗教の部分に引っかかってしまう人(近親者)がいるというのは避けられない事実だが、それは家族を含めた「他人に期待するものの違い」として、仕方のないことなのではないか。 それはちょうど「面食い」といっしょで、そこにこだわるかこだわらないかは、所詮は個人の避け得ない個性の問題で、良し悪しの問題ではないからである。 私の場合、宗教には厳しいが、それは宗教に完璧を求めるから厳しいのであって、宗教を見下しているから厳しいのではない。 普通の信者のように、結果オーライではなく、首尾一貫して欠けるものがない真理を体現するものとしての宗教を求めるから、新興宗教は無論、世界宗教だって、ぜんぶ基本的にダメだ、となるのであって、人間が完璧でないのは初めから分かっていることだし、だからこそ、普通の人に求めるのは、そういうところではないのだ。 本書に描かれた主人公の家庭は、とても素敵なそれであり、主人公はとても素敵な、家族想いのお嬢さんだと思う。それでは、文学にならないとでも思うのなら、それも文学についての「権威主義的な偏見」だと、私は思う。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 【補記】(2019.07.12) 以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。 つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。 なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。 『こちらあみ子』(2) 『あひる』(4) 『星の子』(3) 『父と私の桜尾通り商店街』(5) 『むらさきのスカートの女』(1) ================================================== あなただって変な人:今村夏子論(拡張版) 一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』 本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。 現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。 今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。 おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。 ------------------------------------------ ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論 一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』 今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ------------------------------------------ 私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。 よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。 しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。 「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。 「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。 例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。 なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。 「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。 そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。 しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。 「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。 彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。 「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。 「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。 「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。 「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。 こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。 たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。 もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。 . | ||||
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芦田愛菜主演映画の原作ということで読んでみた。内容は両親と共にズブズブの宗教活動を続ける次女を主人公とした話。全体的にゆるい暗さが漂うも次女の視点がとぼけているので読みやすい話になっている。ラストが曖昧だったのでもう少し描いて完結すべきだった。 | ||||
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今村作品は、『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』に続いて3冊目。 本書『星の子』は、芥川賞候補作になった作品だが、前の2冊に比べると、しごく真っ当な小説に仕上がっていて、若干の物足りなさを感じた。 題材的には「新興宗教」を扱っており、語り手は新興宗教の信者家族の娘で、たしかにその少し変わった家族の様子や、周囲との軋轢なども描かれているので、そこに何か意味慎重なもの、特殊なものを読み取ろうとする人もいるのだろうが、私としては、これはごく普通の家庭の、ごく普通の素直な娘の、意外に波乱の無い「小市民的生活」を描いた小説だと感じた。 信仰宗教だから何か「おかしい」はずだとか、周囲との軋轢がもっとあるはずだとかいうのは、信仰宗教に対する先入観による色眼鏡的な評価であって、少なくともこの小説は、そのような「世間並みの偏見」の上には書かれておらず、普通に新興宗教を信じ、周囲との若干の軋轢をさほど大きな問題とは考えず、自分たちの信じたものに素直に生きている人たちの物語だと、私にはそう思えた。 かく言う私も、幼い頃から新興宗教に入信した家庭の子供であったし、大人になってからは、あるきっかけで信仰批判者に転じたのだけれども、しかし、だからと言って、新興宗教の信者たちが、世間並みにまともで、世間並みにいい人たち、いや、世間並み以上にいい人が多い、という評価は、今も変わっていない。 私が宗教や信仰を批判する場合、そこで問題にするのは、いわゆる知識階級の人たち(つまり、指導者階級)の論理的一貫性の問題であって、普通の信者には、もともとそんなものを求めはしない。なぜなら、普通の人は、新興宗教の信者であろうと、無宗教者であろうと、論理的一貫性なんてことなど問題にもしなければ、そもそも考えたこともないからである。 例えば「私は宗教なんか信じません」と言っている人の大半が、なにかの危機的な局面では、心の中で「神さま、どうかここだけは助けてください」と祈ったり、観光で有名神社の境内などに入ると何か「清浄感」を感じたり、結構しばしば無根拠に自分の直感を信じたりなどしているのだから、そんな人が新興宗教の信者を特別視するのは、他ならぬ自分も、そして他人をも見えていない証拠であって、論理的一貫性なんてものについては考えたことのない証拠なのである。 そして、そんなふうに「世間の普通の人々」を見ている私からすれば、本作の主人公やその家族は、非常にまともで素直な「暖かい家族」だとしか言いようがない。 たしかに、その宗教の部分に引っかかってしまう人(近親者)がいるというのは避けられない事実だが、それは家族を含めた「他人に期待するものの違い」として、仕方のないことなのではないか。 それはちょうど「面食い」といっしょで、そこにこだわるかこだわらないかは、所詮は個人の避け得ない個性の問題で、良し悪しの問題ではないからである。 私の場合、宗教には厳しいが、それは宗教に完璧を求めるから厳しいのであって、宗教を見下しているから厳しいのではない。 普通の信者のように、結果オーライではなく、首尾一貫して欠けるものがない真理を体現するものとしての宗教を求めるから、新興宗教は無論、世界宗教だって、ぜんぶ基本的にダメだ、となるのであって、人間が完璧でないのは初めから分かっていることだし、だからこそ、普通の人に求めるのは、そういうところではないのだ。 本書に描かれた主人公の家庭は、とても素敵なそれであり、主人公はとても素敵な、家族想いのお嬢さんだと思う。それでは、文学にならないとでも思うのなら、それも文学についての「権威主義的な偏見」だと、私は思う。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 【補記】(2019.07.12) 以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。 つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。 なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。 『こちらあみ子』(2) 『あひる』(4) 『星の子』(3) 『父と私の桜尾通り商店街』(5) 『むらさきのスカートの女』(1) ================================================== あなただって変な人:今村夏子論(拡張版) 一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』 本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。 現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。 今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。 おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。 ------------------------------------------ ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論 一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』 今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ------------------------------------------ 私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。 よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。 しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。 「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。 「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。 例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。 なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。 「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。 そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。 しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。 「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。 彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。 「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。 「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。 「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。 「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。 こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。 たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。 もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。 | ||||
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長年苦しんできた家族の病が、新興宗教団体とかかわることで不思議なことに治癒・完治したことをきっかけに両親がはまり込み、子供を含めた家族全体がその団体に飲み込まれ、やがて子供たちがその被害者となり家庭が崩壊するという、巷間よくある話。話の流れも文章も不満はないが、内容そのものが面白くない。 | ||||
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数時間で読み終えてしまいますが、作中のいたるところに伏線であったり、余白であったりが織り込まれているので、読後に曰く言い難い余韻が残ります。 | ||||
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日本人に忌避されやすい宗教ネタを、ここまで抵抗感を与えずに書けるのは凄いのかもしれない。 「自分にも起こり得た話」の風刺として、考えさせられる点もある。 しかし、他のレビューを見てなるほどと思ったが、一般的な小説と同じ感覚で読むと、「主人公がバッドエンドな目に合わなくて良かった」という感想しか出てこない。 言ってしまえばヤマもオチも読後の爽快感もないので、啓発本の一種だと思って読むことをお勧めする。 | ||||
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初めての作家の初めての作品を読了。宗教にはまる両親と、自分との葛藤が興味深く描かれている感じです。このテーマで小説が一冊書けるんですね。他の作品も読んでみたくなりました。 | ||||
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びっくりするくらい何もなかった。誰かの日記を読んでるような。もしかしたら日記の方が面白いかも。いつ山場が来るのかと思っていたら…終わった | ||||
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終始どこか童話を読んでいるような、やや幼さを感じさせる語り口調でした。 新興宗教にはまっている家族とはこんなものかなと思う反面、ちょっと入り込めないようなのんびりさもあった。 昔、飯星景子さんを某新興宗教からオヤジさんが脱退させようとした事件がありましたが、あれを見ていると、もっと家族関係は複雑になるのではないかと思えた。 私も以前、カルトに少し入っていたことがあるが、まず家族一色になるのは不可能に近いと思えた。家族でも性格や価値観がまるで違うからだ。 そういう意味ではややリアリティに欠ける気がした。 でも、もしかしたらこういう家庭もあるのかな? | ||||
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芥川賞候補は冗談だろうと思うが、「スピリチュアル」とか「サイキック」といった、一見無害な言葉で近づいてくる新宗教の怖さを描き出したのは斬新。とくに、批判精神を持つ前にすっかり両親のスピリチュアルな暮らしに取り込まれてしまった少女を主人公に据え、淡々ととりつかれた人々の日常を描き出したところに説得力があると思う。そしてその反対に、批判精神があったが故に一家と断絶してしまう姉のエピソードは痛ましい。 実は私の妻が「サイキック・ヒーラー」を自称する者に入れ込んでいて、そのヒーラーが波動を込めたと称する水を毎月のように購入し、飲用にするほか子供たちや自分の体に霧吹きで掛けたり、部屋にまき散らしたりしている。先日も「神様とのつながりを強化するペンダント」なるものを1つ8万円で購入していた。私はなんとか断ったのだが、妻と子供で併せて3人分買っていた。幸い(?)『星の子』の教団ほどにはむしらないヒーラーのようだが、毎年80万円くらいはつぎ込んでいるのではないだろうか。 そのヒーラーはグーグルプラスに自分のコーナーを持っているが、そこでしょっちゅう(それこそ毎週1回くらいの勢いで)地震の予知をしている。そして予言は当たり前のように何度も外れている。一週間ほど前にも「フォッサマグナのあたりに地震の予兆が」などと言っていたが、その直後に大阪北部地震(2018.06.18)が起きた。その前にはやはり「日本のどこそこで地震が起きる」と言っているときにメキシコで地震が起きた。このように予言が外れたときでも妻を始め信者たちは「教祖の祈りが神に通じて、日本国内で予定されていた地震が他の国に移転された」などと言って納得している。朝鮮が盛んにミサイル発射を繰り返していたときには「東京に何千発ものミサイルが落ちるところが霊視できる」と宣っていたが、実際には現在朝鮮関連で緊張緩和が進んでいるのはご承知の通り。冷静に見ていればこのヒーラーにサイキック能力なぞないことがわかるだろうに、一旦信じ込んでしまった者がその信念を変えることは難しい。それはフェスティンガーの『予言が外れるとき』で知ってはいたが、そういう「信じ込んでしまった者」の不気味さ、愚かさを「星の子」は描き出すことに成功している。この本を読んで気持ち悪くなった人は非常に正しくこの本を読み取っているのだろうと思う。 と、これだけ褒めるならもっと星を付けてもよさそうなものだが、残念ながらこの本には救いも破綻もないところで星3つとした。わかりやすい結果を唐突に付けられても困るのだが、それにしても主人公の今後について、あるいは消えてしまった姉のその後についてなど語るべき事があるだろう。その意味ではPart2があるのか?と疑っているところである。 | ||||
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…オチが、ない すべての話にオチを望む訳ではない。オチなしで、それが自然な場合は左程気にしないんだが、どう考えても、オチ来る話でしょ?これ 続きもんであるとしたら導入部として納得するが、単品だとしたら「撒いたモン、回収する気、ゼロ?」 が、読後感だ 読んでる最中ほどほどに楽しんだから、良し | ||||
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ラストは怖い。 読み終えた瞬間震えた。 主人公ちひろの小学生から中学生時代の視点で物語は進む。 後年の回想や第三者視点の三人称のようなものはなく、最長でも中三時に小学生時代を回想した内容や母の育児ノートで知った事実しか出てこない。 そんな視点の中では、両親は霊感商法にハマって貧乏になってはいるが、幸せそうに見える。 教会の子供たちはみんな素直で、お互い過ちがあったら謝り合えるし、集会は学校よりも楽しく過ごせる。 ちひろ視点では、「おまじない商法+自己啓発セミナー」みたいなもので、悪い印象はないのだ。 小中学校で同じ学校に通う友達もいるので、引っ越してもほぼ同じ地域にいると見られる両親は近所の評判になっているはずで、学校でいじめもあったはずなのだが、ちひろ視点ではそういう描写はない。 中三時に、あこがれだった男性教諭から傷つけられても、クラスメイトはすごくいい子たちばかり(ちひろ視点)なのだ。 しかしもちろん、外には妹夫婦の人生を救おうとする叔父たちもいる。 両親がハマっていく状況を見ていて止められなかった姉は、高校にいかなくなり自傷行為を思わせる状況の末、家出してしまう。 外から見れば、不幸な家庭の不憫な子供であるちひろなのだが、当の本人は両親大好きで今の状況をあえて崩したくはない。 とはいえ、中三にもなると両親の行動の異常さは感じていて、外の人の視点も気にはしている。 叔父の家族は過去の強硬手段とは一転して粘り強く両親と話を重ね、ちひろにも優しく手を伸ばす。 ちひろにとっては分岐点的な状況で物語は終わる。 とくに何も起きない。 モンスターが姿を現すまでが恐ろしいホラー映画のように、ここで終わるから怖い。 両親や姉のその後やちひろの成長後が描かれていたら、モンスターが現れた後の興ざめな結末にしかならないだろう。 | ||||
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両親や宗教の描写に気持ちが悪くなった。。 文章は読みやすいが淡白。小学生向けって感じ。 登場人物の未来を描いて終えて欲しかったです。 もう一度読みたいかと聞かれたら絶対にNOと答えます。 | ||||
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「え?おわり?」 と思ってしまった私は、話にオチがあることに慣れてしまっているのだろうか。 ハラハラドキドキ、最後にドンデン返しの裏切りですっきり…と言った類の小説はたくさんあるが、『星の子』は違う。 一人の少女の生活の一片が語られている、そんな感じだ。 主人公ちひろの人生は、小説が終わっても静かに続いていくのである。 | ||||
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