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【この小説が収録されている参考書籍】
個人的な体験の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.38pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全33件 21~33 2/2ページ
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大江先生が芥川賞から次つぎへと賞を受賞され、ついにはノーベル文学賞 までに至った経緯の中で、非常に重要な作品だと思います。 読書離れをして、携帯ばかりいじっているような世の中で、色んな意味で、 この本を読んでほしいと拙に願います。 ただ、本の好みはありますが、中には読書を中断してしまう人もいるでしょうが それは、文学というものの世界観になじめていない人であろうし、また一方で 純粋に毛嫌いする人もいるかもしれません。 私的な感想を述べますと非常に大江文学の中で読みやすい本です。 是非ともチャレンジしてもらいたいものです。 | ||||
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バードは障害を持って生まれてきたわが子の衰弱死を願います。勤めていた予備校では失態を演じてクビになり、火見子のアパートに入り浸るようになります。最初から240ページまでの人間的に弱いバードの気持ちはなんとなく理解できたつもりでした。 ところが240ページから252ページまでのたったの12ページで、バードはまるで別人のように人間的に成長してしまいます。章が変わっただけでいったいどうなってしまったのでしょう。きっかけすらない突発的な人格に変化に戸惑ってしまいました。 | ||||
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大江健三郎の長編小説を読むのはこれが初めてであり、 色々と新鮮な驚きを感じながら読んだ。 一般によく言われているように、技巧を凝らした文章で、やや読みにくいのは確か。 翻訳っぽい文体やストレートな性描写は、その後の村上春樹あたりに影響を与えているかも知れない。 障害を持って生れた子供から逃げ出すことばかり考える主人公に共感出来ないという意見もある様だが、 男というものは生まれたばかりの子供に対しては意外と実感が持てない物であり、 主人公のこの様な態度は非常に良く理解出来る。 主人公の渾名である「バード」とは、「チキン」つまり臆病者を暗示しているのではないかと私は思うのだが、どうだろうか? 最後の場面で、義父から「きみにはもう、バードという渾名は似合わない」 と言われる所は「きみはもう、逃げてばかりいる臆病者ではない」と解釈できる。 火見子が語る「多元的な宇宙」は、とても興味深い世界観であり、 また物語の中でも伏線としてうまく活かされている。 はじめて大江健三郎を読もうと考えている人にお薦めの一冊。 | ||||
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主人公の鳥(バード。あだ名)が、障害を持って生まれた赤ん坊から、狡猾に、自己欺瞞を押し隠して、逃げようとし、最終的には、「欺瞞なしの方法は、自分の手で直接に縊り殺すか、あるいはかれをひきうけて育ててゆくか(p.247)」しかないことを認め、「ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるために」受け入れることを選択するに至る物語。 その間の鳥(バード)とその周りの人物のできごと、感情、行動が、ものすごく濃厚なんです。 障害を持つ赤ん坊、それを取り巻く人々、二日酔状態で予備校で講義して嘔吐、ア○ルセックス、外交官の出奔、過去の縊死、これから起こすかもしれない、人の手を借りた殺人。。。 それぞれが、季節が夏なこともあってか、非常に濃密な感じでかかれます。げっぷしそうな感じ。 人物、感情を表す比喩に動物を多用してたりするあたりも、なんだか得体の知れなさを加速してる気がしました。 たとえば、「病んだイタチのように狡猾」「恐怖のメガネザル」「個人的な不幸のサナギ」「こそこそと穴ぼこへ逃げたがっているドブ鼠」とか、「眠りのイソギンチャクの触手」、「棘だらけで赤黒い欲望と不安のウニ」だったり。 赤ん坊を育てていくことを決意した鳥(バード)に対して情人である火見子が言うはなむけのせりふ 「あなたはいろいろなことを忍耐しなければならなくなるわ」 が若い僕には重く印象的でした。 | ||||
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初期の作品が持つ猥雑さが、障害を持った長男の誕生という出来事を経て、これ以降長くこだわっていく親子の在り方を通じてしか世間や世界と関わっていくことができなくなっていくという作者自身の在り方に収斂されていく様を記録した作品です。この作者の場合、他の作品から切り離して読んでこそ浮かび上がってくるものが多い(ある時期までは)ので、必要以上になにかと関連付けると読み誤りの原因になるような気がします。 | ||||
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大江の小説は難解である。しかし、少しずつでも大江と格闘する中で、彼の作品の持つ意味が理解できてきたような気がする。大江に関心を持ち始めて、10年以上たってから、手にしたこの作品。読み終えた後 確実に、自分の中の魂が再び生きる方向のベクトルへと向かっていることに気がついた。個人的体験以降の小説の中で大江自身の想像力による2つの実験が試みられる。1つは障害を持った子を引き受ける事を放棄してしまった場合、怪物アグイーがその代表作といえよう。また、障害を持った子どもを引き受けて行くことを決意していく場合、洪水は我が魂に及びなどのその代表作であろう。大江を知るためには、この個人的体験は絶好の入門書なのである。私は10年かかってこの作品と出会ったが、大江に初めて入門する人はこの「個人的体験」から読むことをおすすめする。 | ||||
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これは主人公の個人的な体験である。たとえば、外国で核開発が行われていても、何の興味も持てないことに愕然とする。 異常を背負ってきた子供から逃げるため、友達である火見子とのセックスに励み、酒におぼれる。だが、それでも主人公は子供に対する恐怖から他のことは目に入らない。塾を首になり、希望の象徴であったアフリカは単なる逃亡先に変貌する。 そんな後ろ向きの主人公が恐怖と向き合い、すべてを受けとめていく。すなわち、子供から大人に成長する過程を描いた青春小説ともなっている。それは、バードと子供の頃のあだ名のまま呼ばれていることからもわかる。 最後の部分。確かにいくらなんでもご都合主義となってしまうだろう。前を向いただけですべてが上手くいくほど、世界は優しくはない。だけど、それでも著者は書きたかったと語る。そんな魂のこもったラストだ。 | ||||
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昔、或るポーランド人の女性に、この本の英語訳を贈った事が有る。彼女の祖国が、激動の中に在った時代の事である。彼女に、私は、多くの日本文学の英訳本を与えたが、彼女にこの本(「個人的な体験」)の英訳本を与えた時、私は、その裏表紙に、ポーランド語で「希望」を意味する単語を書いた。--この物語の終わり近くで、祖国を捨てようとする東欧の外交官が、主人公(バード)に辞書を贈る時、彼の国の言葉で「希望」と書くのをまねて--この本は、私にとって、衝撃であった。我が子が、重度の障害を持って生まれると言ふ運命の悪戯(いたずら)の中で、主人公(バード)は、過去の恋人を再び訪れ、そして、遠い東アフリカへの旅立ちをも夢想する。しかし、最後に、彼は、突然、自分の運命を受け入れ、その子供を育てる事を決意する。この物語に、若い私は、打ちのめされた。その驚くべき結末を予告するかの様に、物語の終わり近くで、主人公(バード)に辞書を贈る東欧(バルカン)の外交官は、彼にカフカの言葉を教える。--「生まれてくる子の為に、父親が出来る事は、ただ待つ事だけなのだ」--私が、彼女に、この本を与えて20年以上が経った。彼女の祖国を含めて、世界は、激変した。その9・11後の世界で、私が、「希望」を意味する単語と共に、この本を贈った彼女は、今、何処で、どう生きて居るだろうか? (西岡昌紀・内科医) | ||||
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大江作品はこれが最初になりますが、読みやすいのに、表現がカッコ良く、感銘を受ける一作です。 また、キャラクターの性格も、印象に残る人間ばかり。 必ずしも綺麗な人間ばかりではないけれど、それ故にリアリティがあります。 | ||||
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主人公が自己の責任を引き受けるに至るまでのあらゆる瞬間において、 痛いほど冷徹な自己洞察に貫かれています。 それが自己と他者を導くという希望と、その面白さに気付くことができました。 どちらかというとノンフィクション好みでしたが、 小説で他者を経験する醍醐味を教えてくれた作品です。 | ||||
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大昔、初めて読んだときの印象は忘れてしまったが、今回読み直してみてエネルギーに溢れた作品だと思った。 絶望的な状況で逃避してしまい、自分の立場を悪くしてしまう主人公。しかも読んでいる自分でも解決策が浮かばない。ますます悪化していく状況に主人公はどう立ち向かうのか、そもそも立ち向かうことができるのか否か・・・。 新潮文庫版の作者によるあとがきでは作品の終わり方を巡る意見に対して反論が書かれている。自己弁護する内容なのだが、これがまた読み応えがある。たしかに両者の言い分はそれぞれ一理ある。本編読後の大きな楽しみだ。 | ||||
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大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したときに、何か一冊読もうと思ったのだけれど、どうも彼の小説はおそろしくむずかしいものばかりだというのが世間一般の通り相場でした。そこで文学に造詣が深く、大江の大ファンだという友人に、何か私みたいな<文学素人>でも読める大江作品を紹介してほしいと頼んだのです。そして「読んでいる途中で投げ出す心配が少ない作品」として紹介されたのがこの「個人的な体験」でした。 確かにこの本はとても読みやすい小説です。そして「障害をもって生まれてきたこの子を、私は引き受けて生きていくことができるか?」という設問に対して私自身、主人公とともに激しく苦悶し、現実逃避の心を抱き、そして最後にはひとつの決意のようなものが胸の中にかすかに生まれるのを感じたのです。 物語によって与えられる悦びというのは、まさにこのように登場人物という他者の人生を生きるという経験でしょう。この小説にはそういう経験と悦びを与えてくれる力があると思います。主人公の人生そのものがたとえ苦いものではあっても。 | ||||
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大江健三郎はデビュー作「死者の奢り」で全国の医学部解剖学教室を敵に回した。私の医学生時代の解剖学教授は憤激に耐えぬという調子で大江の名を挙げていたものだった。この作品では産科・小児科を敵に回している。この作品にでてくる医者はみんなろくでもない医者ばかりだ。大江光氏が生まれたころの医者はこんな奴らばかりだったのか? 世紀も変わったというのに現代の医者もこの小説にでてくる産科医小児科医と同じ様なものだと言われたら、我々小児科医は怒るだろう。しかし、実状はどうだろう。怒る権利があるだろうか。 今の解剖学教室での献体の保存法は「死者の奢り」に描写されるような原始的な方法ではない(あれでは献体してくださった方に失礼なばかりか、時間をかけてじっくり解剖を進めることもままならず教育の役に立たない)。しかし、今の小児科医や産科医は大江の小説にでてくる酷い状況からすこしは進歩しているだろうか。進歩していると思いたいが。 大江は障害児の父親の心境を実に的確に描写している。自身が障害者の父なのだからさもありなんと思うが、自らの内面をここまで掘り下げることができるのはさすが大江健三郎だと思う。 障害があっても大江光氏ほど立派に成人されたら父としては良いだろうと言っては僻みに過ぎるか? それと、最後の「アスタリスク以降」の節はやはり余計だと思う。井伏鱒二氏が「山椒魚」の末尾を切り落としたような決断はないものだろうか。 | ||||
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