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個人的な体験
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【この小説が収録されている参考書籍】
個人的な体験の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.38pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全39件 1~20 1/2ページ
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大江健三郎は空間把握能力に長けている。 登場人物がその時どの方向を向いているのか、向いた先に何があるのか、その何かを利用してどういう動作をしたのか、事細かに書かれているので詳細に情景が浮かび上がる。まるで1つの映画を見ているかのように視覚的に。また映画では再現できないような嗅覚触覚も含めた五感の細かい情報が多いので読書体験としてはこの上ない。 この作品の主人公は、鳥(バード)。空の怪物アグイーの中の「不満足」と言う作品の出てくる人物でもある。最初は疑問から始まり中盤あたりで確信に変わるとき、とてもとても驚いた。 人間の悪いところを全部出し切った前半中盤だった。途中気分が悪くなるほどでもあった。しかし最後のチャプター13はとんでもなかった!とても感動した。 読み終わったあとに、声出して笑ってしまうぐらいにすごかった。 勇気をもらえる作品だった。 この作品は、あとがきに変わる「 かつて味わったことのない 深甚(しんじん)な恐怖感が鳥(バード)をとらえた。」 まで含めて、1つの大きな作品となっていくと思った。 どん底まで落ちた後の上昇とその上昇に至るまでの動機や思考の分岐点が上手く描写されていた。 | ||||
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大江健三郎は初でした。 文学部出でも何でもないので、 大した感想は書けませんが、、。 まず、表現が詩的で、 緻密に情景を描写するよりも、 脳に感情として入り込んできます! ここがすごい 「眠りのイソギンチャクの触手の波状攻撃 = 睡魔」 「それはのんびり眠っている二十日ねずみだ = 萎縮したいちもつ」 など笑いのペーソスもあり! あと小説が若いと感じました。 稚拙というのではなく。 性的な文章の割合が多いのと、 文章の勢い、 感情的な表現などが、 20代の若者の若々しいエネルギーを 感じました。 最後で主人公のバードが、 それまで固執していた考えから唐突に考えを改め、 会心したように走りだすところの唐突具合が、 ストーリー的に違和感に感じる人もいるのではないでしょうか⁇ 世間では覚醒とか気づきとか言われるのかもしれませんが、 自分が、単純に今まで固執していた自分の考えに飽きて、 別の考えの方がしっくりきたらその考えに取って変えるタイプなので、 全然不自然じゃなかったです。 大体が、こうやって軌道修正してくもんじゃないでしょうか。 ひょっとすると、この唐突さは大江にもある性質だったので、 ストーリーに織り込んだのかもしれないですね。 ストーリー的には、 改心の手前で、赤ちゃんに直接触れるシーンが盛り込まれているので、 ここら辺でうまく感情の動線を導こうと思っていたのかもしれません。 注意しないといけないと思ったのは、 大江が後書きで書いてますが、 ストーリーを埋め尽くす欺瞞の思考回路は、 大江自身の障害を持った子供に対する考えを書いたのではなく、 あくまでマイナス面からそれを捉えた場合を 表現してるにすぎないそうです。 陽側のくさびとして 肝臓の無い子供の父親の登場と、 デルチェフさんが登場しますが、 僕にはデルチェフさんの道徳的中途半端さが気になって、 いまいち登場させた意味がつかめませんでしたが、、。 何を意味してたんだろう。 読んだ人に考察を促す爪痕を残す小説と言うより、 個人的には感情に直接訴えかける、 芸術的な油彩画を見たような感じでした。 読んでよかったです。 | ||||
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「難解」 という意味合いではなく、読んでいて楽しくない。書いてあることはわかるが、そこに共感があるわけでもない。同調もできないし、否定したいとも思わない。 どこまでいってもそれは「個人的な体験」なのであり、読者が追体験するようなことでもないし、思い馳せることでもないのだというふうに咀嚼した。 もしもそういった意味でタイトルがつけられ、そのように物語があるのなら、とてもよくできた作品だと思う。 ストーリーはさておき、修辞はどれも小気味いいし、表現の幅が広いので、文章には飽きない。 | ||||
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やはり難解でした。 でも、わかりにくい文学があってもいいと思う。 読み手の慣れも必要なのだろう。 | ||||
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この作品が或る文学賞を受けた、そのパーティの席上、河盛好蔵が「大江君、この作品で君は大作家になった!が、私は認めない!」と言い放った。傍らで、それを聞いた江藤淳は、生涯、二度と大江作品について語ることをしなかった。たとえフィクションの形式でも、身近な(あるいは実在の)誰かを、その魂を傷つけていいのか?河盛さんは、一言も語らずに、そのことを大江本人に突きつけた!それに衝撃を受けた江藤淳は、大江を批評の対象から外した。数十年ぶりに読んでも、圧倒される「世界文学」!河盛さんが語らずに提起した「問題」に、読者一人一人が、応えるだろう。 | ||||
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「沖縄ノート」でその文体の読みにくさに苦闘して以来、敬遠してきた作家であるが、初期の作品である本書には、読みにくさはなく、むしろテンポは良い。 ご自身が、障害のある子を育てた「個人的な体験」を基に書かれ、障害を持つ子を受け入れれず、手を下さずにひたすら死を願う自己欺瞞と葛藤する苦悩が描かれている。 それは偽らざる人間の本性であると思う。 現実世界で大江氏は、その障害のある子を受け入れるから、ハッピーエンドを予想していたが、その展開が急であるうえに明るすぎるから多少の違和感を覚える。 | ||||
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本作はかなり昔に一度読んでいて、強く印象に残っていたので、再読のため購入。元不良の知的な青年が主人公で、昔の日本の若者たちの生態の一部が描かれていて強く興味をひかれ、また、降りかかってくる「問題」の性質的にコメントしづらい面もあるが、それに直面した主人公の思考や感情の動き、特に最終的な「結論」に至るまでの過程を読んでいくのが正直言って面白かった。ただ、記憶に残っていたよりは「問題」以外の要素、予備校での話や外交官の話や情人とのS○Xシーンなどが結構あって、それらが総合的に主人公という人間を描き出しているとも言えるが、若干「問題」への焦点のあたり具体を弱めているような印象も受けた。ただ、やはり今作も構成が見事だし、文章も初期の短編と比べると良くも悪くもすっきりしていて、その心情描写や着眼点は唯一無二の代物だった。会話も含蓄に富んでいて面白かった。最後に著者自身がコメントしている、2個のアスタリスク以降の部分も、確かにかなり賛否両論ありそうだが、それはそれで別に良いのではないかと思った。星4.5があれば、ぜひ星4.5をつけたいのだが、ないので星4評価。大江健三郎ファンには間違いなくお勧めだが、本書の概要を調べて興味を持った人は、ぜひ一読をお勧めする。 | ||||
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川端康成より難解でした。 | ||||
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主人公のバードから始まって、比喩などとして様々な動物が提示され、さながら動物園のようだ。 小説の構造としては、動物たち、竜と怪物と植物的存在、人間たち・大人たち、このような三つのグループによって謂わばイメージのレベルで階層的に構成されており、その優劣がプロットを終結させるように思える。書き出しは「鳥(バード)」となっており、鹿の比喩がすぐに続き、アフリカの地図へと導かれる。これは動物たちが犇く世界を暗示しており、動物たちは弱肉強食のエゴイズムの世界を暗示している(ホッブス風万人の闘いの世界)。竜の刺繍のジャンパーの若者たちや怪物としての赤子やそれと通ずる植物的存在とは、突然の暴力や悲劇的アクシデントを表し、制御不能の外的世界との接触を意味し、即ち運命を暗示している。突発的アクシデントとそれに絡むエゴイスティックな対応を受容し乗り越えて、あるいは「やりすご」す態度や行動によって、(マキャヴェリ風に言えばフォルトゥナに対するヴィルトゥの獲得によって)人間的世界が作られるという構造を持つだろう。 人物間の関係としては、プロットの大部分を主人公と行動を共にする火見子は後のバードを体現する存在だと言え、この突然の来訪者であるバードを処女喪失の際と同様に受け入れ慰め励まし(時に反撥し)運命を共にしようとする。また、終盤では少年性から抜け出たバードと訣別し「少年じみた男」と旅立つという、バードが脱ぎ捨てた少年性を自ら背負い込むという受難のある種神話的あるいは母性的女性像を表している。義父母も火見子に類似して、トラブルを起こす娘婿を宥めすかし受け入れる存在である。 むしろ登場人物について問題なのは、デルチェフさんと菊比古だろう。火見子が引用したブレイクとデルチェフさんが引用したカフカとでは、真逆のことを教えている。それは利己的世界から利他的あるいは共同体的規範的世界への移行を示すだろう。だが、デルチェフさんも(恐らく彼にとっても明瞭でない)利己的かつ献身的態度という両義的行動によって破滅する。菊比古は、火見子の言う「多元的な宇宙」からひょっこり現れたように登場する。菊比古はバードを慕う年少の若者であったが、唐突な再会ではむしろ反目しあうようであり、以前のような少年男子たちの世界からの両者の脱却が再会の場で示されており、アルコールの身体的拒絶がそれを強調するとともにバードは決心し、運命を受け入れつつも果敢に行動する人間の大人の世界へと踏み出す契機となる。 バードの回心は唐突であるのか。頭を擦る仕草の伝播や模倣、寝籠の赤子を守る行動、赤子の叫喚への忍耐など、直接に障害を持った赤子の受容というのもあるが、二日酔いによる嘔吐を告発されたことによる解雇の場面での、年少者の偽証を撥ねつけ自らの責任を負う言動に少年的世界・エゴイズム的世界から大人たちの規範的世界への移行が見て取れるだろう。 | ||||
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アマゾンで買った大江健三郎全小説6で読み始めました。冒頭の部分を読んで、ここはまるでアップダイクの走れウサギ読んでるみたいだと思いました。走れウサギでは、主人公が少年と一緒にバスケットボールをして疎外感を味わいます。大江健三郎は、たくさんの外国小説を読んでますが、アップダイクからも影響を受けています。以上ご参考までに。 | ||||
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のっけから、新生児よりアフリカ旅行!という主人公が、妻の出産に際し、勤務中でもないのに街を徘徊しゲーセンで暇つぶしという、現代人からすると異様な光景が展開されている。 子供の誕生後もまるで他人事、それどころか双頭の怪物呼ばわりしてこの障碍児の早世すら希求しちゃう始末。 とここまでは、当初の無責任ぶりからすれば決して不自然ではないし、障碍児を持つ親が決して持ちえない考えとまでは言い切れまい。 その後憂える産後の奥さんまでほったらかして女友達宅で淫蕩の限りを尽くし、もう彼が犯罪でも犯さなければ辻褄が合わないだろうという段階にまでエスカレートするのだが、結末は皆様ご存じの通り。 この結末自体に異論はない、というかあのまま坦々と物語が進行していたら、何とも後味の悪い悲惨な結末ということで、別の意味で文学史に残ってしまったかも知れない。 問題は、あの真逆の結末への変換プロセスが、ほんのわずかな、それも 訳もなく急に気が変わった という程度の描写だけで済まされていること。 本来であれば、もう少し紙面を費やして、あの結末に至るまでの話を盛る必要があっただろうし、またそうしなければそれまでの内容との矛盾は解消されないだろう。 どうもこの著者の作中人物って、何の前触れもなく、それも今までと全く相反する重大決断を平然とやらかす傾向があり、今回も唐突な変節ぶりに開いた口が塞がらなかった。 主人公が長年、バード(鳥)とあだ名されているくらいなので、身勝手で刹那的なのはある程度理解できるが、しかし同じ人間がこんなに簡単かつ瞬時に変節できるものなのか・・・少なくとも私には無理です。 うろ覚えだが、著者は、結末を決めてから筆を進めるという手法に懐疑的だったようなので、こういう内容になるのはむしろ自然な流れとも言えなくもないが、一方で矛盾や伏線未回収といった傷が残るのは如何ともしがたい。 例によって、微に入り細をうがった描写と豊饒な修辞が冴えわたり、こういう作風が好みの方にはたまらない作品なのでしょう。 しかし個人的には、映像だったら超絶スローモーション確定の詳細描写と、一つの情景に複数の修辞を重ねる手法には食傷してしまったし、また赤ん坊に対する「茹でたエビ(カニ?)のように赤い」といった形容には、首をかしげてしまった。 エログロ描写は本書にもふんだんに詰め込まれ、お取り込み中に女友達の肩を噛みしめて流血させるなど、読者が怖気立つような描写が当たり前のように披露されている。 もっと唖然とするのは嘔吐シーン。 女友達の家で1回、予備校の講義中にもう1回!・・・しかも予備校生の面前で大々的にやらかしたうえ、その結果物を、憧れのアフリカ大陸になぞって事細かに描写するに至っては、もうアッパレという他ない。 これが当時最先端の描写ということならば、それはそれで芸術的と見做されたのでしょうが、嘔吐の精密描写、しかもそれが複数回に渡ってお披露目されるなど前代未聞なため、面食らってしまった。 以前本書と類似した代表作の一つを読んだが、何でもカンでもごった煮の鍋料理みたいな、味も方向性も定まらぬ作風でしっくりこなかったこともあり、今回は仕切り直しの意味も込めて挑戦しました。 本書の方がテーマも釈然としているし、心理描写も秀逸で好感が持てました。 まあ最終的に、私の拙い感性ではこの偉大な作家の本質は理解不能、と判明しましたが、奇抜な描写や修辞を含め、他の作家なら批判を恐れて忌避するような深刻なテーマに取り組んだ意気込みは、素直に評価したい。 | ||||
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鳥(バード)という男の個人的体験についての物語である。 妻が妊娠そして出産。生まれたのは 脳疾患を持った赤ん坊だった。 バードは、飼育されていた。社会の当たり前のルールに沿って生きていた。 なぜ飼育されるようになったのか?誰に飼育されているのか? 大学院の中退後アルコールを飲み過ぎていた。バードは社会と、義父、義母、妻に、常識的に飼育されていた。 バードは頭の中では、この現実から逃げ出すことを考える。アフリカへの冒険旅行を夢見る。でも、アフリカにはいくほどの現実的な勇気はなかった。そして、妻以外のヒミコと性の快楽におぼれようとする。妻と子供から、現実の事態を逃れようとする。そして、子供の死を願う。随分と身勝手な父親なのだ。寄るべきところがどこにもない。性の快楽に溺れても、現実は変わらない。 ヒミコとの共同作業。殺すことへの共同策謀。ソビエトの核実験とのかかわり合いなど。 結果としてバードは脳疾患の子供を、たとえ植物的な存在になろうとも命を大切にしようとする意志を持ち、アフリカへの冒険旅行を断念する。この自分の置かれた現実に生きようとする決意をもつ。 現実を受け止める勇気で立ち向かう。この子の将来がどうなるか?ということよりも、自分の素直に現実に向きあうことによって、大きく世界が変わる。違うことを受け入れることで、世界が成り立つ。脳疾患の子供は、鳥の声を聞き分けて、音の世界に自由に飛び立つ。やっと、親と子は、鳥(バード)であることでコミュニケーションできることに気がつくのだ。精神的にさまよう中で、現実を受け入れるということは、勇気が必要だという個人的な体験が、物語となった。 大江健三郎に突きつけられた現実に、事実を受け入れて、生きていくしかなかったのだ。 | ||||
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再読。テーマが明確でメッセージがはっきりしているので比較的読みやすい方です。主人公の名がバード(鳥)という、どことなく童話的で、外国文学を読んでいるみたいで、「ね、バード」などと言うところが妙に印象的です。また、「火見子」こちらは神話のように響きます。作者は深刻な重苦しさの中に、希望のようにほんの少しの軽みを、そしてこの作品がフィクションとして読まれることを意図していると思います。 唐突なエンディングにはたしかに驚きましたが、ホッとしたことも確かです。この結末でよかったと思います。 | ||||
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大江健三郎の小説はいつも読み辛い。 しんどい、辛い、思考がぐるぐるとぐろを巻いているようで、 こっちも呑み込まれて行ってしまいそうで、大変。 障害児の問題は、このご時世、この時代、安易に口にすることができない。 それとも、当事者だから言えること、感じることなのか。 大江健三郎だから、作品にできることなのか。 読みながら、とにかく複雑な気持ちになり、重苦しい気分になる。 | ||||
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前半のアフリカ旅行に行きたいという夢、頭に瘤ができた子供が生まれてきたこと、木材所の体験、それらはすべて個人的すぎて共感できないお話になっている。まるでそれは主人公の悪い部分をあえて見せるように描いています。共感できないからこそ、読者はいくらでも批判的かつ客観的に捉えることができる内容になっています。 後半は前半と取って代わって物語の一般化が推し進められています。例えば、子供の将来をどうするかという夫婦間の争いがあります。この問題は主人公に限った固有のものではなく、ごくありふれた困難になっています。つまり、主人公のこれまでの出来事は、一般的な出来事の結果として生じているということを強調しようとしています。それによって、これまで同感することのできなかった物語を一気に馴染みのあるものに引き寄せています。その結果、主人公の果敢に生きようとする姿に感動することができるような物語になっています。 | ||||
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大江健三郎の代表作。題材の勝利というに留まらず、これは兜を脱がざるを得ない。 参りました傑作です、と。 ところで、妻の出産入院中に、他の女と寝てたのは不問なんですか?と、思うのだが、まあ、それは見過ごしてもいい夫婦関係なんだろうってことで。 | ||||
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生まれた子の脳に障害があって、まだ母親が産後の入院中に、父親が浮気している。ひどい時代だ。そんな時代でも、母親は終始赤ちゃんの心配をしている。 結末は、安易に思えた。大江健三郎には障害児がいて、大江光さんという後に作曲家になった素敵な人だ。そのお父さんが、なぜこんな安易な結末を、と思った。著者の後書きでは、「アステリスク以降=ハッピーエンド部分」に批判が多かったが、著者にとってとても大切で決して削るなどできなかった旨が書いてあった。はっと気付かされた。 障害児の受け入れを、障害を持たない人と話すのは難しい。それは受け入れでさえないのだ。何といえばこの感じを伝えられるか、それは「障害ではなかった」としか言いようがないではないか。この子はこういう子で、このままで、私の大切な子。受容ではなく、もちろん拒絶や諦めなんかじゃなく、この子の存在は喜びでしかない。負け惜しみでも、開き直りでもなく。なんていうか…やっぱり、「障害ではなかった」としか言いようがないんだ。 昭和の時代は、長文を書いて、有名な作家じゃないと皆に読んでもらうのも難しいし、何とも大変だったなあと思う。いまならツイッターに一言、それで桁違いの人たちの見てくれるんだから。そして久しぶりの文学は読みにくかった。名作が読み継がれるみたいな文化は、これからどうなっていくんだろう。 | ||||
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主人公の名「バード」というのはチャーリー・パーカーの仇名から取ったんだろうけど、実際、パーカーとかマイルス・デイビスなどのモダンジャズが似合いそうな作品。映画化するなら彼らの曲を是非とも使用してほしい。作中で描写されるレモンとかグレープフルーツが、蛍光塗料でも塗ったかのように光って薄暗い背景から浮かび上がって見えてくるように感じられる。ラリッて書いたのか? | ||||
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脳髄に異常のある愛児をめぐる父親《鳥》の物語だ。 大江文學としては非常にわかりやすい構造である。 《個人的な体験》という言葉は、元来、基督教の用語のようで、天使のすがたをみたり、聖母マリアの聲をきいたりする、というような、科学的には実証不可能だが、《個人的にはたしかにおこった奇蹟》のことを意味するようだ。本作では、脳髄に異常をもって誕生した我が子の生死について父親である《鳥=バード》という渾名の主人公が四苦八苦したすえに、ハッピーエンドをむかえるまでの心理劇である。あきらかに、脳髄に障碍をもった子供とは、大江氏の愛息である光君の隠喩であり、畢竟、本作は疑似私小説として――三島由紀夫が『仮面の告白』で疑似私小説を執筆したように――、また、主人公と愛児にもたらされる奇蹟として、二重の意味での《個人的な体験》となっている。 さきにのべたとおり、本作は見事なハッピーエンドである。《ハッピーエンドにこそふかみがある》と執筆したのは古井由吉氏だったとおもうが、発表爾時、本作の《ハッピーエンド》の部分は賛否両論をまきおこした。三島由紀夫が《喜劇におわらせれば辻褄があうというような安易な結末》などというように評論していたことを記憶している。たしかに《あとがき》で大江氏自身が披瀝しているように、《あの結末》を削除しても物語は成立したはずだ。問題は序盤にも登場した不良少年たちが此処でも登場することである。序盤、暴力をもって不良少年たちに敗北した主人公は――此処の描写は流石、大江氏らしい見事なものである――、結末において、暴力をもちいずに少年たちに勝利したことを認識する。いまだに暴力に依存している不良少年たちが疵付いているのと対照的に、主人公は自身の精神にも愛児の肉体にも健康をとりもどしている。中盤で、当時――冷戦時代か――のソ連による核実験の記述があったはずだが、大江氏の描破する主人公の暴力にたよらない幸福という《勝利》は、人類レベルでの非暴力による問題の解決をうながしているのではないか。そんなことが可能ならば、それこそ人類にとっての《個人的な体験》になるのかもしれない。 大江氏の愛息光君は鳥の聲をききわけられた。 本作の愛児も父親《鳥》の聲により奇蹟をおこしたのかもしれない。 | ||||
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"Sooner murder an infant in its cradle than nurse unacted desires"- Willam Blake 本作にでてきた、印象深い一節です。 脳に腫瘍のある子どもを見捨てるか、 それとも≪共存≫の道へと歩み出るか。 ぼくは、この本にでてくる、いくつかのブレイクの詩の引用が、この小説の世界を膨らませているように思えるのです。 | ||||
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