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クォンタム・ファミリーズ
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クォンタム・ファミリーズの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.71pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全31件 1~20 1/2ページ
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泣いた。 最後の子供の言葉 いろんな可能性を捨てて今を生きている。 いろんな可能性が同時にある。(かもしれない) ただ、今を肯定することが正しいか(それしかできないか) やはり愛の物語 侑子の愛、親の愛 最後は罪を認めて、告白して、悔い改めることで救い また、どんな可能性や状況があっても目の前の人を愛する。 それ以上はない。 ゲームを楽しむためには、リセットとしてゲームを意識する必要がある 終わらないゲームはゲームではない。 | ||||
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一気に読まされた。 思想家・東浩紀の様々な”種”に触れられる作品だった。 扱ってるSFの題材の量子論もすごくよかった。 | ||||
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哲学者・東浩紀さんの三島由紀夫賞を受賞したSF長編です。おもしろいです。 ジャンル的にはパラレルSFのスタイルを採っていますが、連載中の原題が『ファントム・クォンタム』だったように、作者は、哲学者ジャック・デリダの【幽霊】を量子論に置き換えて書いています。 主人公は、量子論による、有り得たかもしれない過去の選択について悩み続けます。 デリダの理論では、常に、過去に選択できたかもしれない選択肢が、後になって本人によって発見される可能性を持ち続けるので、その意味でこの物語の主人公も、『ありえたかもしれない過去の亡霊=ファントム』に追いかけられる。 まさに、量子論的平行世界の可能性や、作中で論じられている村上春樹さんの短編作品の主人公のように。 (故にデリダは、過去を解釈し引き受けるのが『主体』であると論じます) あと、この物語の主人公・葦舟住人は、ストーリーの最後に、虚構でしかない家族と現実を肯定しますが、ここには現実とフィクションのポストモダン的な等価性という以上に、かつて東さんが評価した舞城王太郎さんのパラレル小説『九十九十九』へのオマージュあるいは読み替えが見て取れるかも知れません。 (過去に宇野常寛さんは『九十九十九』を批判し東さんは好評しました) それから東さんはライトノベルやゲームのパラレル性を扱った著書『ゲーム的リアリズムの誕生』などで、ライトノベルを、キャラクターのデータベースから生み出される引用的作品と論じています。 そこから、この作品に登場する人物の『渚』や『汐子』『風子』は東さんの好きなアニメ作品【CLANNAD】の登場人物から取られていると解釈できます。 (もっとも渚とシンの組み合わせは、エヴァンゲリオンの引用とも取れます。渚=渚カヲル、シン=シンジ) 恐らく作者の東浩紀さんは、初期のデリダ思想の評論『存在論的、郵便的』から『ゲーム的リアリズムの誕生』に至るまでの思想の決算として、この作品を描いたのだと私は思います。 そういう意味では、東浩紀によるゲーム小説と呼べるかも知れませんね。 なので、もし読んでよく分からなければ、上記の二冊を読むとすんなり理解出来ると思います。 ところでふと思ったのですが、デリダ論と量子論の組み合わせの平行世界SFって、実はありそうでなかった新しいスタイルではないでしょうか。 だとすれば、本書刊行後に制作された平行世界SFアニメ〈Steins;Gate〉にはデリダが影響を受けたハイデガーの名前が出てきますが、あるいは本作か東さんの一連の著作の影響かもしれないですね。 | ||||
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まず、この物語の先入観として東浩紀にはかわいい娘が二人いるということがある。 これを知っているか知らないかでは話がちがってくる。 ぼくは知っている人として読んだが、知らない人が読んだらどう思うか難しい問題だ。 まるで、孤独な男が架空の家族を作り上げて物語を書いているかのように思うかもしれない。 そんなところが魅力的だ。 家族関係について妄想をもたらすことが精神病患者には多いが、 ネットで公にその関係を公開している東浩紀とその家族の関係が妄想であると思わせる記述には、 はっとさせられるものがある。 そして、登場人物である父は悩み、自分は狂っているとすら言及し、 妻と子供に対して、その関係性を疑い、幻想の中へと落ちていく。 これは、古今東西の小説を見ても稀有な成功例であり、唯一「百年の孤独」が 「クォンタムファミリーズ」より刺激的に幻視しているといえるかもしれない。 ああ、思い出した。「死者の代弁者」も家族テーマの傑作であった。 自分の妻の産んだ子供が実の娘だと信じられない。そんな悩みはよくある男性の悩みである。 我が父も、ぼくら兄弟が本当に自分の息子なのかを疑い、母をなじっていた。 父と子供の関係とはそれほどまでに疑惑の濃いものであり、 それを描き出した東浩紀の「クォンタムファミリーズ」はまさに期待されていた家族小説といえるであろう。 そして、このあいまいな関係性しかもたない家族を肯定する結末によって結ばれるこの物語は、 父と子供の関係、夫と妻の関係のかくもあるべきという姿である。 例え、疑惑があろうとも、その疑いを娘に向けるわけにはいかない。 せいぜい妻に向ける程度が許される程度であろう。 実の娘に「おまえなんかおれの子供じゃない」といっていじめてしまうのは、 いくら狂気にとりつかれているからといっても、父として失格であるのはまちがいない。 だから、妻には、いくら嘘であっても愛していると告げ、生きていくしかないのが父なのである。 だから、東浩紀の「クォンタムファミリーズ」は素晴らしい家族小説である。 ただ、難解な小説かもしれないので、文章は読みやすいが中高生程度の量子力学の知識はもって読んだ方がよいであろう。 東浩紀がツイッターで会話をしていたのが当たり前の2009年に読んだなら、より一層幻想的な小説であっただろうが、 それが忘れられていく中でもし読み継がれるなら、この父と娘の物語はどう読み解かれていくのであろうか。 あの時のツイッターのブロック騒動も一大文芸的場面であったといえよう。 | ||||
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前のレビューの方の言葉に「強姦(…中絶)」という表現を見つけ、少しだけ不思議に念いました。 私たち日本人の女子の名は「子(こ)」を基調としていた時代から、夢いっぱいに「音(ね)」や「花(か)」などに韻を踏むものに移り変わってきているようにおもわれます。氏は過去の因習を「渚(なぎさ)」と言う新しい名の女性に託し「妻・友梨花(ゆりか)」の感情を揺るがす。女性的な精神と肉体には一番の精神的「強姦」はすでに見えているかもしれません。物語という言葉のなかでなら、どうせやるなら精神と肉体とバランスを持たねばヒトの脳は狂ってしまうほどだとしたら。 次の世代の女の「子」たちは、惰性的な恋愛感情ごときは吹き飛ばしてしまうかの如くその名に「風」や「汐」を含みながら家族を取巻き、女親としての彼女たちの因縁は増幅される。この物語り外なら日々の暮らしで紛らわされ、どうでもよくなってしまうところですが、諸社会問題的に氏の内側はソトなのでしょう。「強姦」と名指しされる描写は主人公男性の重大な物語です。とつぜんには社会問題にし難いため、薄ら笑いから爆笑でからかわれ続けるたぐいの。 「同時テロ報道」から描き始める近親愛の脱構築現象としては書き方が難しいことも順を遡る不思議な件があちこちにきらめきます。「夜中の遊園地」は宮部みゆきには殺人現場のように使われてしまいますし、村上春樹の近著には「やったかやらないか」よくわからない強姦が描かれていますが。男性の欲の文章化に男性である氏が挑むのには当たり前とはいえ度肝を抜かれましたが、情はヨミ手に任せ、欲と情が別々にクリスタライズされても、最愛という形容の中の女性の業には、されすぎはない、というところに家族になってからの愛を支える男性の命をさらに支える骨太さがあるとしたら、精神的「強姦」問題をいい加減にしない、という分もどこかにとあるとおもうのですが。 さいごに、この本のレヴューは恵まれているとおもいます。 | ||||
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面白い!難しい哲学や批評の本を書く東氏とは別人、いや、明晰な頭脳があるからこそ書けるのでしょうね。 | ||||
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多世界解釈に基づく並行世界の解釈をベースに、現代に蔓延する現実感のない時代感覚を表現しようとしているようにも 見える新感覚小説。 用語が難解であるものの、科学哲学を専攻してきた私にとって、単語や用語、世界観は楽しくもありつつ、考えさせられ、 このような小説に出会えたのを嬉しく感じた。 ただ、既存のSF小説は一線を画しており、気楽に読んで理解出来るかと問われれば、そうでない人もたくさんいるだろう ということは否めない。 作者独自の世界観は納得出来るところもあり、こういった小説を通して自己の哲学を伝えようとしているのではないかとも 思えて、このような世界観を描いた小説の将来性は買いたい。 個人的には好きな作品ですが、多くの人が読んで理解出来るかどうかはかなり疑問です。 一度、手に取ってみて検討されてもいいかと思います。 | ||||
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はじめなんの話かわからなかった。 が、読み進めていくにつれ深みに入りはまりました。 | ||||
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つくづくレビューに恵まれない作品である。 でもそれがクォンタムファミリーズという作品だ。 この本を手に取る人はおそらく東浩紀の ・SF作家として ・思想家として ・オタクとして のいずれかの面に興味を持っている人でしょう。 だからこの本を読むと自分が注目していなかった側面を見つけて戸惑う。 結果、様々な想いを綴ったレビューが書かれることになる。 壮大な失敗作?ハイブリッドな思弁小説?それともSF/文学の確定記述の貯蔵庫から生まれたシミュラークル? わからない・・・でもいろんな妄想を掻き立てる小説であることにはに違いない。 | ||||
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私には理解できませんでした。不向きだということが分かりました。苦痛でした。 | ||||
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評論家、東浩紀の初小説。三島由紀夫賞受賞作でもあるけど、やっと読むことができた。量子論をベースにした並行世界モノ。SF好きなので、楽しめはしたんだけど、なぜ今、「家族」なんだろう? 東浩紀の評論は、以前から読んではいるけど、それほど精通しているわけではないが、どうしても関心は、彼がこの小説で何を言いたいのかが気になってしまう。SF小説という体裁を取りながら、彼の思想が溢れ出してきてはいるのだが、私自身の能力では読解は難しい。単に量子論的並行世界を舞台にしたSF小説として読めば、よくできた話で、読んでいくうちに物語に引きこまれていく。こういった小説好きな私としては、非常に魅力的に感じた。 でも、この小説に込められた著者の現代社会的な批評については、どうも馴染めなかった。現代社会に生きる私たちの抱える孤独がテーマにあるようにも思われるのだが、なぜそれが「家族」の問題になるのだろう?もう一度、改めて読んでみたい気がする。 彼の小説家としての能力は買う。SF的な想像力やディテールの書き込みも私好みだし、「NOVA」に連載中の「火星のプリンセス」も面白い。小説の執筆は、これからも続けて欲しい。期待している。 | ||||
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ひどい・・・ ユーズドで買ったのであまり威張れないけど 本当に、ひたすら時間とお金を無駄にしたと言う感想。 パラレルワールドなんてパロディにするにも陳腐すぎる設定に、どんどんパラレルワールドを重ねれば分かりにくくなるのは当たり前。 関係代名詞だらけの文章がわかりにくいのは理の当然で、作者としては頭が良いのを自慢したいのかもしれないが、本当に、わかりにくいストーリー。 難しくして前衛を気取りたいのかもしれないけど、自分と言う存在が、2つのパラレルに、4つのパラレルに、と、パラレルワールドを増やして行けばわかりにくくなるのは当たり前。 朝生とかで泣きそうになりながら頑張っているし、結構、楽しみにしていたのに・・・ もっとまじめに読者に理解させる文章を選んで、ちゃんと推敲してから書いて欲しい上、人物描写は本当に酷すぎる。今時の携帯小説でももっとまともだと思う。 こちらの頭が悪くて、わかりにくいのだと思いたいが、 購入した中古の本では、前の読者の方がいろいろメモしていて、下線やメモ書きで、必死に理解しようとした後が残っていて、 「ああ、やっぱり、気合いを入れてメモしながら読んでも、誰にでもわかりにくい小説なんだ」と、素直に納得できる。 作者は、放射能が怖くて、東京から逃げ出したりしているそうだが 現在の降下レベルでは、内部被曝と会わせても、がんも奇形も増えない範囲なことは事実なので、まあそう言う人なのでしょう。 悪い事は言わない。東京ではなく、日本から出て行って、小説を日本語で書くのは止めた方がベストと思う。 | ||||
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著者は批評家として以前から日本における純文学の閉鎖性を批判し、SFや推理小説、ライトノベルなどのいわゆる通俗小説の新しさを擁護して、文芸誌を根城とする純文学は多様な方向に開かれ異種混合すべきであると主張してきました。 本作はそのような彼が考える現代の小説のありうべき姿を、何とか一つの作品として結実させようとする意欲を十分に感じることのできる一冊となっています。 ただ、SFに疎い私には本作のSF的設定や筋立てがどれほどのものか分かりかねますが、純文学としての評価となると、稚拙な比喩表現や情景描写、童貞の妄想っぽい性描写、過去のトラウマで話の背景を立てる使い古された手法など、決して褒められたものではありません。 したがって、文芸誌的な小説観を前提とすればとても読めた代物じゃないのですが、「越境的」な「ハイブリッド」な小説としては一つの試みとして評価できると思います。 ところで、そのような批評家としての著者の言い訳に付き合うような読み方を止め、一冊の物語として本作を読んでみるとどうでしょうか。 一言でいえば、つまんないです。 このつまらなさは先に述べたような純文学としての稚拙さに起因するのかというと、それは違います。そこは苦笑を生むだけ楽しめるところです。 この何の感興もわかない読書体験は、ひとえに著者がキャラクターというものを生きた人間として描けないことに尽きます。 著者は、アニメやマンガ、ライトノベル、エロゲームを愛好しときには批評することでよく知られています。そして、これらのオタク的なジャンルはキャラクターの存在というのが作品に対し実に大きな要素を占めているのは周知のことでしょう。 したがって、著者の書く小説もまたキャラクターの存在が大きいものになるだろうという予想があったわけですが、実際に読んでみると、あたかも棒人間のアニメをみているようなキャラクターの薄っぺらさを目の当たりにし驚くばかりです。 これはつまり東浩紀という人の本質が、実のところアニメやラノベなどよりもはるかに思想や純文学サイドに存在する、そういうタイプの人間であるということではないでしょうか。 この点に関して、真逆に位置するのが村上春樹だと思います。 本作にはその村上春樹と彼の作品が、焦燥感と羨望の入り交じったような妙な雰囲気で登場するのですが、そのときだけは往人というキャラクターが生きています。 | ||||
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【語りえぬものについては、沈黙しなければならない】byウィトゲンシュタイン しかし、それを語って聞かせようというのが、小説的試みになるのかと思う。 筆者は、現代思想批評で名を馳せる論者で、本作にもその豊富な知識が援用されていて、おもしろく、 パラレルワールドという陳腐なSF設定をアカデミックな理論構成で説明してやろうという企みは、通常の 作家にはないもので至極意欲的だが、恐らくそこは成功していないだろう。 それよりも性(倒錯的)や暴力、家族に関わる描写がよく、旧来的な作家的作文と思えるような部分が 引き立っているのが、不思議なくらいだが、なるほど文中に言及されるPKディックや村上春樹はもとより、 中上健次、村上龍、大江健三郎などの作例がそこここに感じられて、これは筆者の文学に対するオマージュにも 成っているようだ。 対して現代思想を用い、小説の大体を構成しているSF部分は、当初から破綻含みの結末を 覚悟の上で描かれたものかと思う。援用される現代思想は、既に自らの過ちを認め、その終焉を宣言されたとも 言われており、筆者は、正直にこの状況を反映させながら、小説自体も(不可避的に)躓かせてしまっている。 いずれにしても豊かな内容の作品で、本作の重要なモチーフのひとつにウィトゲンシュタインもあるかと思う。 その著書『哲学探究』のなかで、 「家族的類似」とは、ゲーム」(独: Spiel)という語をとりあげ、「ゲーム」と呼ばれている全ての外延(対象)を 特徴づけるような共通の内包(意義)は存在せず、実際には「勝敗が定まること」や「娯楽性」など部分的に 共通する特徴によって全体が緩くつながっているに過ぎないことを指摘し、これを【家族的類似】と名付けた wikiより では、【家族】というものは、畢竟、【家族的類似】なのだろうか?? _こんな問いが胸を突きます。 本作にこうして穿って伺えるよう、現在は、多くの意味で哲学思想の転換点に差し掛かっているようで、 西洋に於いて神学が科学へと成り代り、現代文明の成果をその思想より工学に見よう筆者には、共感したい。 人間存在が科学されて行ってしまう昨今、現代人の不安は尽きないのだけれども、しかしやはり家族とは、 唯一無二の現実であり、本作にも日常的な倫理感性を伝える終章にそのことが実感されるので、どうかご安心あれ。 哲学の終焉を越えて尚、語りえぬものについて語ってみせる行為(小説)とは、何よりもまず現実によく試練され ながら再び組み直されてゆく思想(創造)の機会であり、それは安易に権威化するような象牙の塔には成りえない。 そういうことを眼目としながら、筆者も小説という表現を試したような気がするし、それならそれで新しく、 賢明で果敢な対応であると思う。 本作評価は、☆三つでご勘弁。 探究(1) (講談社学術文庫) 論理哲学論考 (岩波文庫) 精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察 | ||||
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SFとか量子とか難しい事は抜きにしても 楽しめる作品。 タイムラインや登場人物によって重層的な構造(マジックリアリズムっぽい?)を取っていて その手の作品が好きな人は楽しめるのではないでしょうか | ||||
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ふぅ、やっとこ読み終わりました。 正直面白かったです。 量子物理学の理論からなるSFの部分と、家族の絆からなる部分が上手く絡み合い展開していく物語。 それは、完璧な人生を求めながら生きるのだけど、満たされない人たちが、並行世界とゆう可能性の中でも個に宿る性に翻弄されていってしまう。 後半に、主人公の往人は、どんな並行世界でも因果応報とゆうか、宿命の中でしか生きられないとゆう悟りに似たような内的経験をします。 最終章、完璧でありたいとゆう人格を支えていた嘘が、反転して他者の理解(愛)へと変わって行くのですが、そこには神ではなくとても人間的な主人公が描かれています。 面白いです。 | ||||
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性描写が言わば、大友克洋+筒井康隆だ。 葦船(葦原将軍、虚航船団)。 でも読み終わると結局、筒井康隆『文学部唯野教授』と同じく 柄谷行人コンプレックスかと思った。 (古くは浅田彰『構造と力』、栗本慎一郎『鉄の処女』と同様) 文学を辞める/批評を辞める 世界の未来を語る/世界の未来を語らない 柄谷行人を知った者ほど人生が狂う。 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』 いま世界の未来について語るやつは、自分探しくんか単なるバカかどっちかだ。 | ||||
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私はこの作者についてはまったくしりません。そしてこの物語に出てくる本も一冊も読んだことがありません。 先生に進められ貸してもらえたので読んだ。その程度のはいりをしました。 読み終わった率直な感想としては、見たことのある感じ、それらに比べても尋常じゃなくわかりづらいということです。 あと終わり方に爽快感がないこと。それが読んだあとになんともいえない、「はぁ・・・・まぁたしかにおわりましたけど・・・はい」ってな感じになりました パラレルワールドについて哲学的数学的にかったったらどういったものになるかというようなのがベースになっているように感じます。 でも難しい言葉が羅列されていますがライトノベルとかパラレルワールドについての漫画とかを読んだことのある人はフィーリングで読めます。自分は読めました。 ストーリーに関して言えばいまいちです。深くは言えませんが終盤でだいぶ置いてけぼりを食らう用な感じがあります。そして総まとめで説明タイム。 ちょっとリアルさを残しすぎたあまりいまいちでしたね。 あと売り文句の中にある「壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。」これにはクビを傾げたくなりますね。全体的にそんな絆を戻すとかいう正義感なんて微塵も感じない作品でしたし、どちらかといえば復讐、罪、告白 この三つが重要なキーワードであると思います。 この人がどうであれ作品的には☆2です。 自分は個人的に冒頭の雰囲気の感じからするとxbox360ゲーム「シュタインズゲート」のほうが似たような雰囲気があり、さらに分かりやすく、面白かったとおもいます。難しい言葉を並べているだけで本質はゲームとかと何ら代わりがない、そして主人公が35歳のロリペドっという印象でした | ||||
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核家族から量子家族という変化、というのがタイトル。 でも、あまり気にすることはない。 東は娘ができたあと、その娘の未来ということを、すごく考えたんじゃないかな。あるいは、娘がいなかった未来も。 そうした可能性の中で、いなかったかもしれない娘への愛情が、父親が贈ってあげることのできる未来として、その可能性として示されたものなんだと思う。 そこには、テロのような暗澹たる現実も含まれているけれども。 ということは思う。 でもね、どうしてもこの作品に厳しくなってしまうのは、娘ができたっていう気持ちのストレートさに対して、東の切れ味が鈍っているんじゃないかって、少し甘いんじゃないかって、そんなことを感じてしまうから。 東の娘はまだ幼いからそうなのかもしれないけれども、もっと成長した娘と対峙していくのは、楽じゃないと思う。だいたい、別の人格なんだから、思い通りになるわけないし。 悪い作品じゃない、というか、けっこう楽しい読書だったので、星4つでもいいんだけど、同じ娘がいる身として、どうしても、ということで。 | ||||
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評論家、東浩紀渾身の初小説。 3つ4つからなる平行世界をもとに、 ひと家族が時代と空間を超えて、 それぞれの“ありえたかもしれない人生”が交錯しあう。 ちょっとややこしいのだが、それを上回る面白さがあった。 あれ?これどーなってんだ?と思いつつも、 どんどん読み進めてしまう「惹き」がある。 それは、今この世界で生きていることで生じる 問題意識がぞんぶんに注がれているからだ思う。 ネット世界における、コミュニケーションや実存… その中でも、印象に残っているのは「35歳問題」だ。 (私自身がアラウンド35歳ということも大きい) ちょっと長いが、以下、35歳問題のベースとなっている 村上春樹の小説「プール」から重要箇所を抜粋する。 「ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、 決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。 生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、 残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。 ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。 直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、 ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。 それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、 いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。」 村上春樹が、 「なしとげられる《かもしれなかった》こと」を 亡霊と比喩していることに対し、東は作中で主人公に、 「ひとの生は、なしとげられる《かもしれなかった》ことに支えられている」 と肯定させているのだ。 世界はありえないくらいに複雑になっている。 やれやれ。 と言ったところで、なんの気休めにもならない。 この小説は、ハッピーエンドではない。 しかし、前述の東の肯定に希望を感じた。 次回作、多いに期待です。 | ||||
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