クォンタム・ファミリーズ
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クォンタム・ファミリーズの総合評価:
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泣いた。 最後の子供の言葉 いろんな可能性を捨てて今を生きている。 いろんな可能性が同時にある。(かもしれない) ただ、今を肯定することが正しいか(それしかできないか) やはり愛の物語 侑子の愛、親の愛 最後は罪を認めて、告白して、悔い改めることで救い また、どんな可能性や状況があっても目の前の人を愛する。 それ以上はない。 ゲームを楽しむためには、リセットとしてゲームを意識する必要がある 終わらないゲームはゲームではない。 | ||||
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一気に読まされた。 思想家・東浩紀の様々な”種”に触れられる作品だった。 扱ってるSFの題材の量子論もすごくよかった。 | ||||
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哲学者・東浩紀さんの三島由紀夫賞を受賞したSF長編です。おもしろいです。 ジャンル的にはパラレルSFのスタイルを採っていますが、連載中の原題が『ファントム・クォンタム』だったように、作者は、哲学者ジャック・デリダの【幽霊】を量子論に置き換えて書いています。 主人公は、量子論による、有り得たかもしれない過去の選択について悩み続けます。 デリダの理論では、常に、過去に選択できたかもしれない選択肢が、後になって本人によって発見される可能性を持ち続けるので、その意味でこの物語の主人公も、『ありえたかもしれない過去の亡霊=ファントム』に追いかけられる。 まさに、量子論的平行世界の可能性や、作中で論じられている村上春樹さんの短編作品の主人公のように。 (故にデリダは、過去を解釈し引き受けるのが『主体』であると論じます) あと、この物語の主人公・葦舟住人は、ストーリーの最後に、虚構でしかない家族と現実を肯定しますが、ここには現実とフィクションのポストモダン的な等価性という以上に、かつて東さんが評価した舞城王太郎さんのパラレル小説『九十九十九』へのオマージュあるいは読み替えが見て取れるかも知れません。 (過去に宇野常寛さんは『九十九十九』を批判し東さんは好評しました) それから東さんはライトノベルやゲームのパラレル性を扱った著書『ゲーム的リアリズムの誕生』などで、ライトノベルを、キャラクターのデータベースから生み出される引用的作品と論じています。 そこから、この作品に登場する人物の『渚』や『汐子』『風子』は東さんの好きなアニメ作品【CLANNAD】の登場人物から取られていると解釈できます。 (もっとも渚とシンの組み合わせは、エヴァンゲリオンの引用とも取れます。渚=渚カヲル、シン=シンジ) 恐らく作者の東浩紀さんは、初期のデリダ思想の評論『存在論的、郵便的』から『ゲーム的リアリズムの誕生』に至るまでの思想の決算として、この作品を描いたのだと私は思います。 そういう意味では、東浩紀によるゲーム小説と呼べるかも知れませんね。 なので、もし読んでよく分からなければ、上記の二冊を読むとすんなり理解出来ると思います。 ところでふと思ったのですが、デリダ論と量子論の組み合わせの平行世界SFって、実はありそうでなかった新しいスタイルではないでしょうか。 だとすれば、本書刊行後に制作された平行世界SFアニメ〈Steins;Gate〉にはデリダが影響を受けたハイデガーの名前が出てきますが、あるいは本作か東さんの一連の著作の影響かもしれないですね。 | ||||
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まず、この物語の先入観として東浩紀にはかわいい娘が二人いるということがある。 これを知っているか知らないかでは話がちがってくる。 ぼくは知っている人として読んだが、知らない人が読んだらどう思うか難しい問題だ。 まるで、孤独な男が架空の家族を作り上げて物語を書いているかのように思うかもしれない。 そんなところが魅力的だ。 家族関係について妄想をもたらすことが精神病患者には多いが、 ネットで公にその関係を公開している東浩紀とその家族の関係が妄想であると思わせる記述には、 はっとさせられるものがある。 そして、登場人物である父は悩み、自分は狂っているとすら言及し、 妻と子供に対して、その関係性を疑い、幻想の中へと落ちていく。 これは、古今東西の小説を見ても稀有な成功例であり、唯一「百年の孤独」が 「クォンタムファミリーズ」より刺激的に幻視しているといえるかもしれない。 ああ、思い出した。「死者の代弁者」も家族テーマの傑作であった。 自分の妻の産んだ子供が実の娘だと信じられない。そんな悩みはよくある男性の悩みである。 我が父も、ぼくら兄弟が本当に自分の息子なのかを疑い、母をなじっていた。 父と子供の関係とはそれほどまでに疑惑の濃いものであり、 それを描き出した東浩紀の「クォンタムファミリーズ」はまさに期待されていた家族小説といえるであろう。 そして、このあいまいな関係性しかもたない家族を肯定する結末によって結ばれるこの物語は、 父と子供の関係、夫と妻の関係のかくもあるべきという姿である。 例え、疑惑があろうとも、その疑いを娘に向けるわけにはいかない。 せいぜい妻に向ける程度が許される程度であろう。 実の娘に「おまえなんかおれの子供じゃない」といっていじめてしまうのは、 いくら狂気にとりつかれているからといっても、父として失格であるのはまちがいない。 だから、妻には、いくら嘘であっても愛していると告げ、生きていくしかないのが父なのである。 だから、東浩紀の「クォンタムファミリーズ」は素晴らしい家族小説である。 ただ、難解な小説かもしれないので、文章は読みやすいが中高生程度の量子力学の知識はもって読んだ方がよいであろう。 東浩紀がツイッターで会話をしていたのが当たり前の2009年に読んだなら、より一層幻想的な小説であっただろうが、 それが忘れられていく中でもし読み継がれるなら、この父と娘の物語はどう読み解かれていくのであろうか。 あの時のツイッターのブロック騒動も一大文芸的場面であったといえよう。 | ||||
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前のレビューの方の言葉に「強姦(…中絶)」という表現を見つけ、少しだけ不思議に念いました。 私たち日本人の女子の名は「子(こ)」を基調としていた時代から、夢いっぱいに「音(ね)」や「花(か)」などに韻を踏むものに移り変わってきているようにおもわれます。氏は過去の因習を「渚(なぎさ)」と言う新しい名の女性に託し「妻・友梨花(ゆりか)」の感情を揺るがす。女性的な精神と肉体には一番の精神的「強姦」はすでに見えているかもしれません。物語という言葉のなかでなら、どうせやるなら精神と肉体とバランスを持たねばヒトの脳は狂ってしまうほどだとしたら。 次の世代の女の「子」たちは、惰性的な恋愛感情ごときは吹き飛ばしてしまうかの如くその名に「風」や「汐」を含みながら家族を取巻き、女親としての彼女たちの因縁は増幅される。この物語り外なら日々の暮らしで紛らわされ、どうでもよくなってしまうところですが、諸社会問題的に氏の内側はソトなのでしょう。「強姦」と名指しされる描写は主人公男性の重大な物語です。とつぜんには社会問題にし難いため、薄ら笑いから爆笑でからかわれ続けるたぐいの。 「同時テロ報道」から描き始める近親愛の脱構築現象としては書き方が難しいことも順を遡る不思議な件があちこちにきらめきます。「夜中の遊園地」は宮部みゆきには殺人現場のように使われてしまいますし、村上春樹の近著には「やったかやらないか」よくわからない強姦が描かれていますが。男性の欲の文章化に男性である氏が挑むのには当たり前とはいえ度肝を抜かれましたが、情はヨミ手に任せ、欲と情が別々にクリスタライズされても、最愛という形容の中の女性の業には、されすぎはない、というところに家族になってからの愛を支える男性の命をさらに支える骨太さがあるとしたら、精神的「強姦」問題をいい加減にしない、という分もどこかにとあるとおもうのですが。 さいごに、この本のレヴューは恵まれているとおもいます。 | ||||
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