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クォンタム・ファミリーズ
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クォンタム・ファミリーズの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.71pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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泣いた。 最後の子供の言葉 いろんな可能性を捨てて今を生きている。 いろんな可能性が同時にある。(かもしれない) ただ、今を肯定することが正しいか(それしかできないか) やはり愛の物語 侑子の愛、親の愛 最後は罪を認めて、告白して、悔い改めることで救い また、どんな可能性や状況があっても目の前の人を愛する。 それ以上はない。 ゲームを楽しむためには、リセットとしてゲームを意識する必要がある 終わらないゲームはゲームではない。 | ||||
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一気に読まされた。 思想家・東浩紀の様々な”種”に触れられる作品だった。 扱ってるSFの題材の量子論もすごくよかった。 | ||||
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哲学者・東浩紀さんの三島由紀夫賞を受賞したSF長編です。おもしろいです。 ジャンル的にはパラレルSFのスタイルを採っていますが、連載中の原題が『ファントム・クォンタム』だったように、作者は、哲学者ジャック・デリダの【幽霊】を量子論に置き換えて書いています。 主人公は、量子論による、有り得たかもしれない過去の選択について悩み続けます。 デリダの理論では、常に、過去に選択できたかもしれない選択肢が、後になって本人によって発見される可能性を持ち続けるので、その意味でこの物語の主人公も、『ありえたかもしれない過去の亡霊=ファントム』に追いかけられる。 まさに、量子論的平行世界の可能性や、作中で論じられている村上春樹さんの短編作品の主人公のように。 (故にデリダは、過去を解釈し引き受けるのが『主体』であると論じます) あと、この物語の主人公・葦舟住人は、ストーリーの最後に、虚構でしかない家族と現実を肯定しますが、ここには現実とフィクションのポストモダン的な等価性という以上に、かつて東さんが評価した舞城王太郎さんのパラレル小説『九十九十九』へのオマージュあるいは読み替えが見て取れるかも知れません。 (過去に宇野常寛さんは『九十九十九』を批判し東さんは好評しました) それから東さんはライトノベルやゲームのパラレル性を扱った著書『ゲーム的リアリズムの誕生』などで、ライトノベルを、キャラクターのデータベースから生み出される引用的作品と論じています。 そこから、この作品に登場する人物の『渚』や『汐子』『風子』は東さんの好きなアニメ作品【CLANNAD】の登場人物から取られていると解釈できます。 (もっとも渚とシンの組み合わせは、エヴァンゲリオンの引用とも取れます。渚=渚カヲル、シン=シンジ) 恐らく作者の東浩紀さんは、初期のデリダ思想の評論『存在論的、郵便的』から『ゲーム的リアリズムの誕生』に至るまでの思想の決算として、この作品を描いたのだと私は思います。 そういう意味では、東浩紀によるゲーム小説と呼べるかも知れませんね。 なので、もし読んでよく分からなければ、上記の二冊を読むとすんなり理解出来ると思います。 ところでふと思ったのですが、デリダ論と量子論の組み合わせの平行世界SFって、実はありそうでなかった新しいスタイルではないでしょうか。 だとすれば、本書刊行後に制作された平行世界SFアニメ〈Steins;Gate〉にはデリダが影響を受けたハイデガーの名前が出てきますが、あるいは本作か東さんの一連の著作の影響かもしれないですね。 | ||||
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まず、この物語の先入観として東浩紀にはかわいい娘が二人いるということがある。 これを知っているか知らないかでは話がちがってくる。 ぼくは知っている人として読んだが、知らない人が読んだらどう思うか難しい問題だ。 まるで、孤独な男が架空の家族を作り上げて物語を書いているかのように思うかもしれない。 そんなところが魅力的だ。 家族関係について妄想をもたらすことが精神病患者には多いが、 ネットで公にその関係を公開している東浩紀とその家族の関係が妄想であると思わせる記述には、 はっとさせられるものがある。 そして、登場人物である父は悩み、自分は狂っているとすら言及し、 妻と子供に対して、その関係性を疑い、幻想の中へと落ちていく。 これは、古今東西の小説を見ても稀有な成功例であり、唯一「百年の孤独」が 「クォンタムファミリーズ」より刺激的に幻視しているといえるかもしれない。 ああ、思い出した。「死者の代弁者」も家族テーマの傑作であった。 自分の妻の産んだ子供が実の娘だと信じられない。そんな悩みはよくある男性の悩みである。 我が父も、ぼくら兄弟が本当に自分の息子なのかを疑い、母をなじっていた。 父と子供の関係とはそれほどまでに疑惑の濃いものであり、 それを描き出した東浩紀の「クォンタムファミリーズ」はまさに期待されていた家族小説といえるであろう。 そして、このあいまいな関係性しかもたない家族を肯定する結末によって結ばれるこの物語は、 父と子供の関係、夫と妻の関係のかくもあるべきという姿である。 例え、疑惑があろうとも、その疑いを娘に向けるわけにはいかない。 せいぜい妻に向ける程度が許される程度であろう。 実の娘に「おまえなんかおれの子供じゃない」といっていじめてしまうのは、 いくら狂気にとりつかれているからといっても、父として失格であるのはまちがいない。 だから、妻には、いくら嘘であっても愛していると告げ、生きていくしかないのが父なのである。 だから、東浩紀の「クォンタムファミリーズ」は素晴らしい家族小説である。 ただ、難解な小説かもしれないので、文章は読みやすいが中高生程度の量子力学の知識はもって読んだ方がよいであろう。 東浩紀がツイッターで会話をしていたのが当たり前の2009年に読んだなら、より一層幻想的な小説であっただろうが、 それが忘れられていく中でもし読み継がれるなら、この父と娘の物語はどう読み解かれていくのであろうか。 あの時のツイッターのブロック騒動も一大文芸的場面であったといえよう。 | ||||
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前のレビューの方の言葉に「強姦(…中絶)」という表現を見つけ、少しだけ不思議に念いました。 私たち日本人の女子の名は「子(こ)」を基調としていた時代から、夢いっぱいに「音(ね)」や「花(か)」などに韻を踏むものに移り変わってきているようにおもわれます。氏は過去の因習を「渚(なぎさ)」と言う新しい名の女性に託し「妻・友梨花(ゆりか)」の感情を揺るがす。女性的な精神と肉体には一番の精神的「強姦」はすでに見えているかもしれません。物語という言葉のなかでなら、どうせやるなら精神と肉体とバランスを持たねばヒトの脳は狂ってしまうほどだとしたら。 次の世代の女の「子」たちは、惰性的な恋愛感情ごときは吹き飛ばしてしまうかの如くその名に「風」や「汐」を含みながら家族を取巻き、女親としての彼女たちの因縁は増幅される。この物語り外なら日々の暮らしで紛らわされ、どうでもよくなってしまうところですが、諸社会問題的に氏の内側はソトなのでしょう。「強姦」と名指しされる描写は主人公男性の重大な物語です。とつぜんには社会問題にし難いため、薄ら笑いから爆笑でからかわれ続けるたぐいの。 「同時テロ報道」から描き始める近親愛の脱構築現象としては書き方が難しいことも順を遡る不思議な件があちこちにきらめきます。「夜中の遊園地」は宮部みゆきには殺人現場のように使われてしまいますし、村上春樹の近著には「やったかやらないか」よくわからない強姦が描かれていますが。男性の欲の文章化に男性である氏が挑むのには当たり前とはいえ度肝を抜かれましたが、情はヨミ手に任せ、欲と情が別々にクリスタライズされても、最愛という形容の中の女性の業には、されすぎはない、というところに家族になってからの愛を支える男性の命をさらに支える骨太さがあるとしたら、精神的「強姦」問題をいい加減にしない、という分もどこかにとあるとおもうのですが。 さいごに、この本のレヴューは恵まれているとおもいます。 | ||||
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面白い!難しい哲学や批評の本を書く東氏とは別人、いや、明晰な頭脳があるからこそ書けるのでしょうね。 | ||||
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多世界解釈に基づく並行世界の解釈をベースに、現代に蔓延する現実感のない時代感覚を表現しようとしているようにも 見える新感覚小説。 用語が難解であるものの、科学哲学を専攻してきた私にとって、単語や用語、世界観は楽しくもありつつ、考えさせられ、 このような小説に出会えたのを嬉しく感じた。 ただ、既存のSF小説は一線を画しており、気楽に読んで理解出来るかと問われれば、そうでない人もたくさんいるだろう ということは否めない。 作者独自の世界観は納得出来るところもあり、こういった小説を通して自己の哲学を伝えようとしているのではないかとも 思えて、このような世界観を描いた小説の将来性は買いたい。 個人的には好きな作品ですが、多くの人が読んで理解出来るかどうかはかなり疑問です。 一度、手に取ってみて検討されてもいいかと思います。 | ||||
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はじめなんの話かわからなかった。 が、読み進めていくにつれ深みに入りはまりました。 | ||||
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つくづくレビューに恵まれない作品である。 でもそれがクォンタムファミリーズという作品だ。 この本を手に取る人はおそらく東浩紀の ・SF作家として ・思想家として ・オタクとして のいずれかの面に興味を持っている人でしょう。 だからこの本を読むと自分が注目していなかった側面を見つけて戸惑う。 結果、様々な想いを綴ったレビューが書かれることになる。 壮大な失敗作?ハイブリッドな思弁小説?それともSF/文学の確定記述の貯蔵庫から生まれたシミュラークル? わからない・・・でもいろんな妄想を掻き立てる小説であることにはに違いない。 | ||||
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評論家、東浩紀の初小説。三島由紀夫賞受賞作でもあるけど、やっと読むことができた。量子論をベースにした並行世界モノ。SF好きなので、楽しめはしたんだけど、なぜ今、「家族」なんだろう? 東浩紀の評論は、以前から読んではいるけど、それほど精通しているわけではないが、どうしても関心は、彼がこの小説で何を言いたいのかが気になってしまう。SF小説という体裁を取りながら、彼の思想が溢れ出してきてはいるのだが、私自身の能力では読解は難しい。単に量子論的並行世界を舞台にしたSF小説として読めば、よくできた話で、読んでいくうちに物語に引きこまれていく。こういった小説好きな私としては、非常に魅力的に感じた。 でも、この小説に込められた著者の現代社会的な批評については、どうも馴染めなかった。現代社会に生きる私たちの抱える孤独がテーマにあるようにも思われるのだが、なぜそれが「家族」の問題になるのだろう?もう一度、改めて読んでみたい気がする。 彼の小説家としての能力は買う。SF的な想像力やディテールの書き込みも私好みだし、「NOVA」に連載中の「火星のプリンセス」も面白い。小説の執筆は、これからも続けて欲しい。期待している。 | ||||
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SFとか量子とか難しい事は抜きにしても 楽しめる作品。 タイムラインや登場人物によって重層的な構造(マジックリアリズムっぽい?)を取っていて その手の作品が好きな人は楽しめるのではないでしょうか | ||||
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ふぅ、やっとこ読み終わりました。 正直面白かったです。 量子物理学の理論からなるSFの部分と、家族の絆からなる部分が上手く絡み合い展開していく物語。 それは、完璧な人生を求めながら生きるのだけど、満たされない人たちが、並行世界とゆう可能性の中でも個に宿る性に翻弄されていってしまう。 後半に、主人公の往人は、どんな並行世界でも因果応報とゆうか、宿命の中でしか生きられないとゆう悟りに似たような内的経験をします。 最終章、完璧でありたいとゆう人格を支えていた嘘が、反転して他者の理解(愛)へと変わって行くのですが、そこには神ではなくとても人間的な主人公が描かれています。 面白いです。 | ||||
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評論家、東浩紀渾身の初小説。 3つ4つからなる平行世界をもとに、 ひと家族が時代と空間を超えて、 それぞれの“ありえたかもしれない人生”が交錯しあう。 ちょっとややこしいのだが、それを上回る面白さがあった。 あれ?これどーなってんだ?と思いつつも、 どんどん読み進めてしまう「惹き」がある。 それは、今この世界で生きていることで生じる 問題意識がぞんぶんに注がれているからだ思う。 ネット世界における、コミュニケーションや実存… その中でも、印象に残っているのは「35歳問題」だ。 (私自身がアラウンド35歳ということも大きい) ちょっと長いが、以下、35歳問題のベースとなっている 村上春樹の小説「プール」から重要箇所を抜粋する。 「ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、 決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。 生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、 残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。 ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。 直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、 ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。 それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、 いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。」 村上春樹が、 「なしとげられる《かもしれなかった》こと」を 亡霊と比喩していることに対し、東は作中で主人公に、 「ひとの生は、なしとげられる《かもしれなかった》ことに支えられている」 と肯定させているのだ。 世界はありえないくらいに複雑になっている。 やれやれ。 と言ったところで、なんの気休めにもならない。 この小説は、ハッピーエンドではない。 しかし、前述の東の肯定に希望を感じた。 次回作、多いに期待です。 | ||||
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これは年の離れた姉から、ひょいと気まぐれに贈られた作品のひとつです。 僕は小説を読む際はいつも特定の登場人物に感情移入し、進んでいくという方法なのですが、実に根気と忍耐の必要な作品でした。 メモ等を取りながら読み進めることをオススメします。 結論から申しますと、素晴らしい作品です。 複雑ですがいくつかの主題をつかむことができればその完成度の高さに驚かされます。 この分量で、これだけの内容を納めることが可能だったことにも脱帽です。 僕は読み物として純粋に楽しむことが(時に混乱もありましたが)できました。 | ||||
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2007年、作家で大学教員でもある葦船往人(あしふねゆきと)はある日、見知らぬ人物からの電子メールを受け取る。それは2035年の世界に暮らす彼の娘・風子(ふうこ)からのものだというのだが、彼にはそもそも娘はいない。このメールをきかっけに、本来この世界では存在しなかった並行世界に生きる家族が、時空の垣根を越えて交錯していく…。 朝日と産経の新聞書評に取り上げられているという事実だけで手にしたのですが、作者の東浩紀の名前も、彼が日本の現代思想界を牽引してきたスター的人物であることも全く知らぬまま読み始めたため、本書に登場する難解な専門タームの連なりに最初のうちは面喰いました。 しかしそうしたタームにある程度の割り切りと見切りを決め込んだ上で腹を据えて読み進めると、これは中途で投げ出すどころか巻を措くことが難しいSF小説であると感じました。 生まれてこなかったはずの子どもをまじえた家族関係が存在しうる世界にある日突然放り込まれるという展開は、P.K.ディックの短編『地図にない町』の結末を連想させますが、本書はそのディックの短編の結末から始める小説のようにも見えます。 事実、本書はディックの『ヴァリス』などのアリュージョンや、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』への言及がそこかしこに現れます。そうした幻想的並行世界に幻惑される悦楽を好む読者には、とても魅力的な物語といえるでしょう。 しかしそんな仕掛けを礎としたこの小説が描くのは、「量子的に拡散してしまった家族を再縫合する」物語です。 そしてやがて見えてくるのは、その家族とともに「偽物だけれど唯一の、まちがいだらけだけどやりなおしの出来ない人生を歩む」ことの尊さ。 その結末に強くうなづく読者は決して私だけではないと思うのです。 | ||||
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著者と同じ年に生まれた者として、十数年前の著者の批評家としてのデビューには ちょっとした興奮をおぼえました。 本作は著者初の単独小説ということで、期待半分、「つまらなかったらどうしよう」 という思い半分でページをめくりました。 そして、「われらの時代」の小説が誕生した、という強い印象を受けました。 量子力学とネット社会をたくみに結びつけた設定は知的興奮を誘いますが、 それはさておき、私がぐっと来たのは、小説全体を通じて主人公にまつわる寂寥感でした。 本作のプロット自体に真新しいものはないのかも知れません。 『1Q84』がそうであったようなパラレル・ワールドものだといえます。 しかし、プロットの源に本物の孤独が置かれたことで、他に換えがたいものになっていると思いました。 愛する家族がいて、仕事があって、自分の思想を支持するフォロワーたちもいる。 にもかかわらず埋められない主人公の孤独が、文章からじわじわにじみ出る様子に、 うなずき、泣きました。 この孤独の質が世代特有のものなのかどうか分かりません。しかし少なくとも私にとってこの小説が、 それが参照するP.K.ディックやグレッグ・イーガンよりも、そして何度も言及される村上春樹よりも 忘れがたい、近しいものになったのは、その何ともいえない、絶対的な孤独のトーンにおいてでした。 | ||||
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批評家東浩紀氏初の小説。 内容は複雑で、緻密な計算、複線があり一読しただけではわからないけれど、 物語として非常に面白く読めた。 また、批評家としての側面がいくつかの並行世界の描写や設定に表現されており、 道州制、表象、村上春樹論、情報処理、集合知、世界経済などのキーワードが随所にでてくる。 ただ素晴らしいのは、それを登場人物に語らせすぎない点だ。 批評家としての部分を抑え、小説として破綻しないバランスがいい。 そしてこの本は、批評されること、そのコミュニティの中には著者も含めて、 広がりを見せることで価値を持つ本であろう。 | ||||
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この本をネタバレ抜きで、何の前提知識も持たずに読める人がいたら、その人はとてつもなく幸運だと思う。 「東浩紀読者」の一人として、東浩紀をこれまで読み続けてきた立場からすると、この本は著者の98年のデリダ論文「存在論的、郵便的」のモチーフを、2000年代のウェブ想像力を交えた上で物語化した本という位置づけになるだろう。「届くかもしれなかったけれど届かなかった手紙」というデリダの思想について、これほどまでに見事に物語化した東浩紀はやはり凄まじい知性の持ち主だと驚嘆する。 が、そんな東浩紀の変遷や略歴を全く知らず、いきなり書店で偶然この本を手にとって読む人こそが、一番の衝撃を受けるのではないだろうか。小説が好きな人、村上春樹が好きな人、ゲームが好きな人、ネットが好きな人、人生つまらんと思って生きてる人etc. とにかく、「東浩紀」という固有名を全く知らない人が、「誤配」によってこの本に到達することを願って止みません。(もしも可能であれば、東浩紀について何も知らない状態でこの本を読みたかった…) | ||||
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非常に設定が複雑で、率直な第一印象は「もう何が何だかわからんwww」みたいな感じ。互いに時間差のある平行世界の中、あの人の人格がこの人でその人の何年後の姿があの人で…みたいな。 でも、つまらなかったのかと言えば決してそんなことはない。複雑怪奇な設定も何故かとてもリアルに感じられるし、何より無駄なストーリーがない。収束しないストーリー、偶有的なストーリーも含め『クォンタム・ファミリーズ』の中では全てが必然性を持つように思える。 今まで特にデリダやらの現代思想には馴染みがなかった自分のような読者がこの小説を手に取ったこと自体が、この小説の“貫世界通信”的なものなのかもしれない。だとすれば、現代思想ファンでもなく、SF好きでもなく、この本を見て「わたしは読まなそうな本だな…」と思う人こそ、この小説を特権的に味わう資格があるのかもしれない。 | ||||
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