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敦煌
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【この小説が収録されている参考書籍】
敦煌の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.52pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全93件 1~20 1/5ページ
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この小説には、支えるための細部描写や世界観の必然的な説明が欠けていると思う。全体的に浮いていて、井上靖が描く「西域」の世界が本当に存在したとは信じられなかった。たとえば、主人公の趙行徳が書道に秀でており、仏教の理解も深いという設定があるが、 書道の何がどう優れているのか、曹延惠の一言しかなく、仏教理解についても具体的な経典や思想に触れる描写がない。これでも小説として成立はするけれど、優れた作品とは言い難い。 また、たとえば邸宅の壮麗さや人物の品格を描写する箇所でも 「邸宅が立派だった」「人物に品があった」と言われても、それだけでは読者は情景を思い描けない。文字で世界を構築しているのだから、もっと具体的な描写が必要だと感じる。 一番の違和感はここにある: 舞台は漢代、西域という戦略的に重要な地域。主人公の趙行徳は回鶻(かいこつ)の王女と恋仲になる。二人は「一年後に再会する」と約束を交わすが、行徳はその後、彼女を友人に預け、自身は戦乱に巻き込まれるのを恐れて約束を果たさなかった。 回鶻の王女は彼を待ち続けたが、やがてあきらめ、西夏の李元昊の側妃となる。ある日、元昊とともに街を騎馬で練り歩く際に行徳が彼女に近づくと、彼女はそれを避けた。そして数日後、行徳への想いを示すため、城楼から身を投げ自殺してしまう。 ここで、彼女の死の一因は、約束を破った主人公にある。それにもかかわらず、行徳はこう語る: 「回鶻女子のことを思い出すと、行徳は自らの内に崇高な静けさを感じた。それは、旧知への愛でもなければ、無念の死者への哀れみでもなく、純粋に完璧な存在への賛嘆であった。『すべては因縁である。』行徳は仏教の言葉を使って言った。彼は、朱王礼にはこの因縁という言葉の意味は分からないだろうと考えたが、それ以外にもっと適切な説明は思いつかなかった。」 この「すべては因縁」という言葉は、男主人公が儒教から仏教へと精神的な重心を移していく象徴のつもりかもしれない。後に「蔵経洞」のエピソードが続くなら、その始まりとしての描写かもしれない。 でも、それでも私は思ってしまう。「すべては因縁」って、ちょっと綺麗ごとすぎない? そこには、あなた(主人公)が撒いた種の結果という“因果”があるのでは? それを「因縁」とまとめて美化してしまうのはズルい。せめて「これは罪だ」と一言言ってほしい。……まあ、「罪だ」と言われると沈騰の顔が浮かんできちゃうけど(笑)。 どうしても、彼女の死に対して少しも罪悪感を抱かず、「純粋で完璧な存在への賛嘆」と片付けてしまうのは、ちょっと気持ち悪い。高貴な出自の女性があなたに惚れて身を投げたのに、あなたはただ「美しいものだったなあ」と眺めているだけなんて。 それに、作者は日本人であることもあって、文化的な違和感を覚えた。まるで日本の物語を古代中国の名前や地名に置き換えただけのようで、「中国歴史小説」とは言えない気がする。中国人ならそんなふうに考えたり行動したりしない。まるで、メリメの『カルメン』を無理やり中国風に改変して、登場人物の名前を林黛玉にして『紅楼夢』の中に押し込んだような感じだ。林黛玉は、そんな言動を絶対にしない。 この本の人物設定から、物語の背景、世界に存在する一草一木に至るまで、ひとつとして「信じられる」ものがなかった。 | ||||
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. 西暦1026年、宋の時代。湖南の田舎に暮らす32歳の趙行徳(ちょう・ぎょうとく)は、官吏任用試験を受けるために都・開封(かいほう)に出る。だが、自らの気の緩みから受験に失敗し、都を彷徨い歩くうち、西夏の女が売りに出されているところを救う。女は礼として、見たこともない文字が書かれた布切れを譲って寄越す。その西夏文字に強い興味を持った行徳は、心機一転、西方へ向かうことにする……。 ----------------- 井上靖が昭和34(1959)年に発表した歴史小説です。清の時代に敦煌の仏教遺跡内で大巻の経典類が発見された史実に基づき、趙行徳という架空の青年を配して、経典埋蔵までの歴史絵巻を描いています。 わたしがこの小説を読むのはおよそ30年ぶり。手元にある新潮文庫は平成6(1994)年発行の第65刷。今から30年以上前の、まだインターネット普及前夜の時代です。今回読み直して、この小説に改めて深い感銘を受けました。 趙行徳はエリート官僚を目指した漢民族の青年でありながら、運命のいたずらで夢を断たれ、ひょんなきっかけで異民族・西夏の文字に魅了されます。その文字を読みこなしてみたいと強く願い、西へ西へと歩を進めるその姿は、外国語に魅了された人生を歩んできたわたしの気持ちに大いに添うところがありました。 行徳の人生は波乱万丈。西夏の漢人外人部隊に取り込まれるという急展開を見せます。そこで出会った外人部隊長・朱王礼(しゅ・おうれい)、そして海千山千の交易商・尉遅光(うつち・こう)という一癖も二癖もある(架空の)登場人物と相まみえながら、興慶(イルガイ)から瓜州(かしゅう)、そして沙州(敦煌)へと西への旅を続けます。その道中で行徳は生きることの意味を自らに問うていきます。 「行徳の眼には日増しに人間というものが小さく、その営みが無意味なものに映るようになった。そしてその人間の小ささや無意味さに、ある意味を持たせようとする宗教というものが、行徳には興味深く思われた」(98頁) 「別に生きるとも死ぬとも考えていない。いままで戦に臨んだ時と同じだ。自分にどういう運命がやって来るか判らない。進んで死にたいとは思わないが、格別、生きなければならぬこともない」(182-183頁) 宋という統一国家があるにはあるものの、多様な異民族が近隣に存在し、干戈を交えることもしばしばの時代です。生きることの難しさ、命の儚さと虚しさを感じるばかりの暮らしにそっと寄り添う仏教という宗教に、心の安寧を得る行徳ら。その気持ちもまた、わたしには十分わかります。 そしてこの物語でなんとも不思議なほど印象に残るのは、行徳がほんのいっときだけ情を交わした回鶻(ウィグル)の王族の娘です。名を記されることもなく、物語の中盤で静かにあっけなく退場するこの女のことが、行徳の胸のみならず、朱王礼の脳裏からも離れることはありません。 「回鶻の女のことを思い出す度に、行徳はある安定した静謐感が自分の五体を充たすのを感じた。それはもはや故人に対する愛情でも、悲歎の情でもなく、そうした人間的な感情を濾過した純粋なある完全なものへの讃歎のようなものであった」(107-108頁) 同時に、読者であるわたし自身も、この小説を閉じる最後の瞬間までこの女の面影を拭うことができなかったのです。 この女性は時代と政治権力に翻弄された悲劇の存在といえます。思い返せば、井上靖の小説には、こうした苦く哀しい宿命を背負わされた女性が幾度も登場しています。 『額田女王』の主人公しかり、『蒼き狼』のテムジンの妻ボルテしかり、『風林火山』の由布姫しかり。 非情とも言える自らの運命に当初こそ抗おうとするものの、時が移りゆくにつれて諦念を受け入れ、やがて歴史の中に埋もれていく女たち。 わずかな紙幅しか費やされることのなかったこの回鶻人王族の娘の思いが、最も記憶に残る物語でした。 . | ||||
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井上靖は小学生の頃からの「推し」であります。 敦煌の映画版を父に連れられて、今はない田舎の小さな映画館で見ました。大学生で原作を読み、幼い頃のドキドキした気持ちが蘇りました。今回、朱王礼役の西田敏行さんが亡くなり、20数年ぶりに読みました。いま読んでもドキドキします。 ちなみに、私が好きなのは、ツルピアをめぐる朱と行徳の三角関係(李元昊も入れて4角関係?)。ツルピアが異邦人でいかにもエキゾチックなのもいいですね。栄枯盛衰、群雄割拠の砂漠の国の、長い歴史から見ればまさに邯鄲の夢といった儚い物語と、叶わぬ悲恋のイメージがぴったりなんです。 あとがきで河上徹太郎が、このロマンスパートを腐してるのを見て(●`ε'●)となりましたが。その怒りもまた、今回思い出しました。 | ||||
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天平の甍の舞台を昭和49年に、大阪でみました。その時、司馬遼太郎さんも、観劇され、挨拶されていたことが、忘れられません。そのお昼、わたしは京都の鞍馬神社から、貴船神社にかけて、樹木学実習をしていて、それを修了してから、大阪に駆けつけたのです。六月であり、タニウツギの花を一輪とって、胸をかざして、観劇したことが、おもいだされます。 | ||||
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高校の図書室で読んでたことを思い出してしまいます。いまから30年近く前ですね。 FFの主人公の名前を超行徳にしてプレイした覚えがあります。 いまの盛り盛りのアニメと比べると淡々としています。ああ、歴史小説ってこうだった。蒼き狼や額田王も読みました。しろばんばも井上靖さんでしたっけ。 途中で出会った不遜な態度の彼は本来の婚約者なのでしょうか?若い3人の僧の後話もありました。そして超行徳のその後も。 少しわかりにくいのでついきしました。 | ||||
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こちらも「楼蘭」と同じく父の所望です。 | ||||
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今さらながら未読のこの本を時間をかけて読了 やはり井上靖はすごい 史実をもとにした壮大な歴史ロマンは圧巻だった。 戦を繰り返すそれは歴史だが 今も現実にある戦禍の地もある人間の愚かさに愕然とする読後感 | ||||
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ってのが感想です。 仏教に全く興味無いので、さっぱり面白くなかったです。 敦煌は最後にちょこっと出て来るだけでした。 途中から、購入したからには投げ出さず、最後まで読もうってだけになってしまいました。 | ||||
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「事実は小説より奇なり」という言葉と共に読み進めた感じだった。 洞窟に隠されていた経典は本当に行徳のような人物によって守られたのかもしれないと思ってしまった。 『経典は誰のものでもなかった。 ただ焼けないで、それがそこにあるだけでよかった。』 知識欲のある行徳の、人間的な優しさが感じられた。 | ||||
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11世紀の宗。居眠りで登用試験を棒にふった青年が、西夏文字に出会ったことから波瀾万丈の生涯を送る物語。 漢人でありながら西夏の軍隊として戦いに身を投じる武将、悲運に見舞われた回鶻の王女、盗賊紛いの商人となった没落した王族の末裔らが絡み合いながら、戦乱の時代を駆け抜けて行く。 20世紀に敦煌で発見された万巻の経典から、それにまつわる物語を紡ぎ出す著者の想像力・創造力には脱帽せざるを得えない。 登場人物らに交わされる会話も大陸と時代の空気感がたっぷりだ。 中国のこの時代の知識がなくともロマンに浸れる名作である。 | ||||
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井上靖の『敦煌』と言えば、学校の教科書に出てくるような、いわゆる名作とされているものである。が、私自身は読んだことがなかった。先日、ある人から「きっと面白いって思うと思うよ」とプレゼントされた。 私は仏教に興味がある。初期仏教が興味の中心であるが、その後インドから外へと広がっていった経緯や歴史にも惹かれるものがある。私にプレゼントしてくれた人は、そのことを知っていたので、私が「面白いって思う」と思ったのだろう。そして、私は面白いと思った。 もしも本作品を子供の頃に読んでいたなら、きっと「なんてつまらない本だろう」と感じたことだろう。読み終えて、名作を名作と感じられるようになるためには、それなりの人生経験も必要だと思った。敦煌を含め、当時「西夏国」と呼ばれた地域に行ってみたくなった。悠久の歴史の流れを感じさせてくれる素晴らしい作品だと思った。 | ||||
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引き込まれて、読んだです | ||||
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敦煌陥落後の主人公は、生き残ったウッチコウとともに、西域の果まで落ち延びる。どこにそのような体力と金が残っていたのかは知らないが、執着した首飾りを喪失したウッチコウと主人公が、なぜあの場面で協力して逃亡できたのか。 ウッチコウの隠し財産があったればこそだが、なぜ彼は主人公を助けたのだろうか。気がついて首飾りが飛散したことがわかり、それで姫への執着が消え、玉を探してウッチコウに譲ったのだろうか。のち、ウッチコウは再び莫高窟を訪れて財宝を掘り返そうとしたが、姫の呪い?か落雷死。あれだけ主人公に利用され、助けながら一番報われないのがこのウッチコウ様で、読後感といえば、この野望の男への同情が肥大して涙までこぼれたよ。 のち、主人公は漢語、西夏語、そしてウイグル語まで堂々たる書体で書けるようになっていた。使える人間。トルファンへ行った後も権力者に重宝され、そこで80くらいまで生きて天寿を全うしたものと思われる。 まあ、映画では描かれなかったハッピーエンドというべきだろうか。 | ||||
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よくぞ貴重な経典を守ってくれたと感動の中で一気に読みました。読み終わってもまだ感動の余韻の中にいます。井上靖さんの作品を他にも読んでみたいと思わせた一冊でした。 | ||||
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今途中。 「趙行徳は肝(きも)を潰すほど驚いた。…… また粛州から瓜州へ進駐して来る行軍の途中、朱王礼は、自分には為(な)さなければならぬことがあると謎のようなことを口から洩(も)らしたが、それはこのことであったのかと、趙行徳は今更のように思い当たる気持ちだった。」 実はこの本、読むのは二回目である。私は中学の頃、病気で運動会の練習に参加できなかったため、見学ということになっていた。コンクリートの寒い渡り廊下からみなが練習するのを見ていたが、図書館に行きたくなり、書棚の陰に隠れてこの「敦煌」を読んだ。たしか司書の先生は、告げ口せずに見逃してくれた。 もう時効だろう。 レビュータイトルだが、答えはわからない。どっちともいえる気がするし、どっちにも転びうる気がする。 今この本を読み終えたら、何か考えることがあるだろうか。 | ||||
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題材が面白い。ドラマチックだが、ちょっと大味だなあと、ふと我に返ってしまうことがあった。 | ||||
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名作とは聞いていたが、キンドルで読めて幸せ。 | ||||
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特記なし | ||||
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十世紀前の情景が目に浮かぶような活き活きとしたフィクションだった。明確な善悪を規定することなく、漢人、ウイグル、吐蕃など複雑な民族の交わりを描き切る、歴史や文化、仏教に対する造詣の深さに裏打ちされた奥行きのある物語だった。 たった一夜の交わりと約束のもつ重さ、運命の鎖、新しい国と新しい言語、仏教を伝えて保存する意義、短い物語のなかにたくさんのエッセンスが詰められており読んで学ぶことのある現代にはない小説の重みを感じた。 細かく考えると、エリートとして努力を重ねてきた30歳そこそこの男が、積年の目標である科挙の最終諮問を会場で寝過ごして、その足で市場をふらつき大根のように切り売りされる裸の女を助け、それに触発されて異国への旅路に出てしまい西夏の兵隊になる、という途方もない無理筋から物語が始まっている。細かい理由の描写もない。それを一読するだけではフィクションにすら感じさせず神話性すら付与するところが、作者のもつ知性と文章力のなす術だと感じた。 また、余談になるが、50年前に書かれたこの小説に付随してウイグル弾圧を連想した。問題を根本から考える時にひとつの「玉」だけみて議論しても噛み合わない、連なった鎖-この話で言うところの「首輪」を理解し、俯瞰する中で対話していくことが必要なのだろうけれど非常に難しいものを改めて感じた。 ホロコーストやジェノサイドも突き詰めると同様の怨嗟の鎖から発生しているわけだが、無責任なコスモポリタン思想ではなく実行力を伴う人道支援と幅広い人々による正しい理解が必要だ。 | ||||
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すみません。体調悪く、なかなか読めません。感想書く以前のこと。 いつか詠みますね。 | ||||
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