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むらさきのスカートの女
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むらさきのスカートの女の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.46pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全115件 101~115 6/6ページ
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「むらさきのスカートの女」の幻想を抱く主人公(黄色いカーディガンの女)は、同じ街に住むある女性を、ストーカーのように追いかけ始めます。黄色とむらさきの境界はしばしば曖昧となり、街中から奇異な目で見られ子供たちの好奇心の的となっているのは、案外、黄色いカーディガンの女の方かもしれません。 「むらさきのスカートの女」を追う主人公の異常とも言える執着心が、やわらかな筆致で書かれていて、読み手は不思議な世界に迷い込むことになります。 主人公は <バザーで小遣い稼ぎをして>います。 むらさきのスカートの女とおぼしき人物は、主人公の目を通してはじめはとてもミステリアスに映るのですが、物語の展開につれて、だんだん普通の女としての姿があらわれて来ます。 結局、むらさきのスカートの女と見えた女性は去ってしまうのですが、 主人公は次なるむらさきの出現を待つかのように、公園のベンチに座り続けることを決意します。 苦い読後感を残す物語でした。 【追記】 この小説を表層的で深みに欠けると評価しているレビューを見かけましたのでひと言… 信頼できない語り手が、物語の終盤で本当の姿を現すという点において、アガサ・クリスティとの類似点はあるが及ばない、という指摘をされているのですが、この小説が技巧的に優れているだけとは私は思いません。 実は問題を抱えている語り手の病める心理と悲しい思いが、読みながらひしひしと伝わってくる心動かされる物語だと感じました。 実在するのは「まゆ子」さんであり、「むらさきのスカートの女」は語り手の自己投影であるように思います。 「黄色いカーディガンの女」の哀しみが見えて来るような気がします。〔8月7日〕 | ||||
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むらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女。さて、この作品の主人公はどちらなのだろう。黄色いカーディガンの女の視点で、むらさきのスカートの女の話が進行する。変な展開ではない。でも、読み進めるうちに、ストーカーのような行動をとる黄色いカーディガンの女の異常性が滲み出てくる。作品はいつのまにか変質者から見た普通の女の物語となる。真実は読者しか分からないが、登場人物を客観的に見ると、誰もが普通の生活を送っているだけだ。つまり、普通の生活の中に異常があり、異常に見える生活の中に普通があるのかもしれない。 | ||||
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著者の力量に感心した。読めば読むほど謎は深まる。この着想が見事である。年齢不詳、容姿端麗か否かも不明。仕事探しをしているらしい。ホテル清掃の仕事に就くが、色々なことが起きる。 読者は「むらさきのスカートの女」の行方ばかりに注目するが、本当は語り手である「私」の方に注目しなければならないのだ。なぜ、語り手である「私」はこれほどまでに「むらさきのスカートの女」を付け回すのか? 実は作者が描きたかったのは、この「私」の方ではないかということに気づかされる。単なる興味本意ではない、何かがあるはずだ。 それはこの小説を読む密かな楽しみである。今後の展開が楽しみだ。こういう小説を「キャラクター小説」というのだ。 次回作品にも期待したい。面白い小説を書く作家の誕生を喜びたい。 | ||||
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近所にむらさきのスカートの女と呼ばれ、この界隈では有名な中年?女性が住んでいる。彼女は見た目は若く見えるのだが、よく見るとある程度年齢がいっているのがわかり、ひとたび商店街を歩こうものなら周りの人たちは各人各様さまざまな表情を見せる。 子供たちの間で、むらさきのスカートの女にジャンケンで負けた子がポンと肩にタッチするという、少しばかり勇気のいる遊びが流行っているらしい。 主人公は実のところ、むらさきのスカートの女と友達になりたいと真剣に思っているのだ。そのために涙ぐましいほどいろいろな方法を考え実行に移そうとしている。 昔、私の近所にも「ラジオ」と呼ばれるおじさんが住んでいて、夕方になると家の前に立ってはプロ野球や大相撲、時には天気予報なんかをラジオで聴いたそのままを口にしているのだが、今考えてみると、その人の記憶力はとんでもなく凄いものだったことがわかるのだ。 時々、その人の前を通り過ぎるのだが、一度としてまともに話したことはなく、どんな人だったのか謎のままだった。 昔は近所でも名物人間はよく見かけたものだが、今はどうなんだろうか?それにしてもこの二人、話の進行とともに立場が微妙に逆転していきそうな気配を感じさせるミステリータッチな展開に面白さは倍増していきます。 | ||||
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レビュータイトル<「むらさき」の補色は、もちろん「黄色」である>で、書きたいことは書き尽くした。「こちらあみ子」と並ぶ傑作だと思う。 付け加えて書くとすれば、「所長」と「むらさきのスカートの女」との逢瀬を執念深くストーキングする場面、まるでスマホで動画撮影していくような映像的な記述の顛末に大爆笑した。 | ||||
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その衣服から「むらさきのスカートの女」と呼ばれる人物がうちの近所にはいる。商店街のクリームパンを公園のベンチでぱくつく姿がよく見かけられ、アルバイトで職を渡り歩いているようだ。「わたし」はこの女が気になり、自分の働くホテル清掃の仕事につけるように誘導する…。 ------------------------ 『こちらあみ子』、『あひる』、『父と私の桜尾通り商店街』と、読むと常に心がざわつく物語を紡いでくれる今村夏子の最新中編小説です。現在(2019年7月13日)、第161回芥川賞の候補に挙げられていて、来週17日の午後には受賞するか否かが発表されるタイミングにあります。 今回の主要登場人物は、変人の部類にくくれそうな「むらさきのスカートの女」です。彼女は昼日中から公園のベンチでひとり腰かけ、いつもクリームパンをかじっています。ご近所衆からは少し距離を置かれそうな存在です。「わたし」の策略とも知らずにアルバイト情報誌に導かれて清掃の仕事につき、高度なコミュニケーション能力を求められるわけでもない職場で働き始めますが、それでも「女」はほどなくして、その職場仲間たちにするりと受け入れられていきます。一方で「わたし」は下戸で同僚に夜の集まりにも呼ばれることもなく、存在感も希薄な人間でしたから、異質な存在だからこその親近感を覚える対象だったはずの「女」が社会の<一員>へとうらやましくなるほど素直に変貌を遂げていく姿に焦慮の念を懐くのです。 今村夏子の小説は思い切った深読みを許す寓話だと私は考えます。今回でいえば、「女」はいつも身に着けている色と、社会と広く接点を結べずにいる点を見ると、例えば昨今話題の訪日外国人労働者を想起させなくもありません。異質である彼らがやがて日本社会に受容されていくと、社会からはじかれてきたと強く感じていた日本人は彼らを怨嗟の対象にすることもあります。「女」と同じだと思っていた「わたし」は物語の後半で、職場の上司――これはある種の社会的権威や既成のエシュタブリシュメントの謂いに見えてきます――との関係性の変化を契機に職場の中でその所在地を不安定にしていきます。外部からやってきて異質なままでい続けるだろうと思い込んでいた存在が、集団のメインストリームへと合流していくときに生まれる感情の軋轢が巧みに描出されていると私は感じたのです。 一通りの顛末の末に「わたし」が「黄色いカーディガンの女」へと変わることに読者の心は大きく揺さぶられることでしょう。 私とはいったい誰なのか。誰かとの関係が生まれ、それをきっかけに心揺すぶられ、そして従来の安定性が壊れていく過程の中で、自分という人間の定義は変わるのか変わらないのか。また定義が変異する一方で、人の本質は変わるのか変わらないのか。 巧みな物語を読み終えて、そんなことを思いふけりました。 ------------------------ *4頁:私が読んだ<2019年6月30日 第一刷発行>の版では「食べのも」という表記がされていますが、正しくは「食べもの」でしょう。「の」と「も」がひっくり返っています。朝日新聞出版にしては珍しい校閲漏れです。 ------------------------ 「深読みを許す寓話」と私が考える物語を以下に紹介しておきます。 ◆イバン・レピラ『深い穴に落ちてしまった』(東京創元社) :スペイン北部ビルバオ出身の作家が2013年に発表した、邦訳にしてわずか100頁強の掌編小説です。兄弟がなぜ穴の底にいるのか、明確な説明は提示されません。<穴>、<兄弟>、<脱出>、<母>――多くが何かの寓意として用いられていることは確かですが、読者それぞれが自由に解釈することを許された作品といえるでしょう。 ◆ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』(角川書店) :内ホーナー国は国土があまりに狭く、国民は一度に一人しか身を置くことができない。それを取り囲む外ホーナー国の人々は内ホーナーを侮蔑的に眺めていたが、特に野心家の外ホーナー人フィルは、内ホーナー国に苛烈な税金を課すことを提案し、あげくの果てに税金を払わない内ホーナー人を解体しようとする…。 二つの国の国民たちは機械と植物とが接合した奇怪な姿かたちをしています。そして外ホーナーが内ホーナーを不当に差別し、やがてジェノサイドへと発展していく様は、人類が何千年もの間反復してきた、偏狭で頑迷な民族間闘争の寓意の物語として読むべきなのかもしれません。 . | ||||
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「こちらあみ子」も一直線の少女だったが、こちらの「黄色いカーディガンの女」の思い込みもすごかった。逸脱を逸脱と思わない主人公(「私」)が全編にわたって説明しがたいおもしろさを醸し出して、布団の中で寝返りも忘れるほど熱中して読んでしまった。読む人を選ぶかもしれないが、はまるとたまらない一冊です。 | ||||
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芥川賞候補になったということで、今村さんの作品を初めて読みました。とても面白かったのですが、他のかたも書いていたと思いますが面白さを説明することが難しく、また自分なりの「こういうことか」といった落とし所みたいものが見つけられず、気がつくと、この作品のことを考え続けています。つまりはそういう面白さがあるということなのかな。プロの方の書評とか感想とか、もっと色々読んで他の方の解釈を知りたいなと思わせる作品。 | ||||
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これまでの作品とは異なり、勧める相手を選ばなければならない要素が薄く、良い意味でも悪い意味でも作者の、展開であったり手際であったりの巧みさが際立った作品であると思います。 ただ、とても瑣末なことではありますが、4ページの終わりから2行目に、「食べもの」が「食べのも」になっている誤植があって、愛読者を自認する者としては胸が痛みました。 | ||||
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前回の短編集は中盤以降ファンタジーめいてしまって残念だったが、今作はへんな女のへんな思考と行動を ひたすらに追うという感じでじつに面白かった。最初はむらさきのスカートの女のこまごまとしたことをずぅっと 書いていて退屈に感じられたが、わたしの職場に彼女が紛れ込んでからはがぜん面白くなる。 それにしても、この人はきわめて単純で平素な文章でなんともいえない物語をつくる能力に長けている。 メッセージ性があるわけでもなく、とくべつ表現が美しいわけでもないが、どうにも気になる。 読者にイメージを喚起させるためにか、あまり余計な手をくわえていないのもいいのだと思う。 こういう作家は実は少ないので今後も期待したい。 | ||||
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160ページほどの短めの作品で、購入後すぐに完読しました。むらさきのスカートの女が社会不適応?の変わり者のようで、実際にはそうでなかった事がわかり、不思議な読後感がありました。テレビ番組の「世にも奇妙な物語」に通じるものがあるように思いました。 | ||||
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デビュー作「こちらあみ子」からの読者です。完全にオリジナルな作風で最初から凄かったですが描かれる世界が狭いので長いお話だと。。。と思ってました(短編だけでも十分な才能ですが)。今回は短めの中編でしょうか。一作ごとに物語性が増してるのが頼もしいいです。いつか今村夏子さんの上下2巻ものを読む夢を描いてしまいます。まあそれは個人的な望み。長い小説が好きなので笑。 | ||||
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私は今村さんの作品を他の媒体では読まないので毎回、単行本が初読みになります。 今村さんの作品が大好きで単行本になったものは全て読んでいるのですが、 この作品は他の作品ほど心がザワザワしません。 あみ子のようにガツンと来ることもないですし、 あひるなどのようなザワザワ感もそれほどなく、心軽く最後まで読めます。 ですが、上手く言えないのですが、あれ?あれっ?ってな感じでドキドキはします(笑) ネタバレになるので詳しくは書けませんが、 黄色いカーディガンの女はむらさきのスカートの女に一種の憧れのようなものを抱いていたのかなぁと。 こーゆー人、なんか好きです、黄色いカーディガンの女。 個人的にはくすぐられる感じに近いかも。 | ||||
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続きが気になり一時間通しで読みました。ページ数も比較的少なく,文字数も少ないので、とても読みやすい本でした。 最後の文章と表紙の絵の意味が繋がりました。 | ||||
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面白かった。著者の本を読んだのは初めてだが、期待以上の面白さだった。 純文学系の作家だと思うので、エンタメ的な単純な面白さなど期待していなかったのだが、エンタメ的ではないにしろ、単純に楽しめたのだから、これは「めっけ物」であった。 ただ、なにがそんなに面白かったのかを説明するのは、そう簡単でもなさそうな作品ではある。 本作は、変わり者としてひそかに町の有名人になっている「むらさきのスカートの女」についての、一人称の語り手の女による観察記録である。 いつも公園の指定席であるベンチに座って、いつも同じクリームパンを食べるという「むらさきのスカートの女」は、たしかにすこし変わった女ではあろうものの、語り手がどうして、そこまで「むらさきのスカートの女」に執心するのかは、よくわからない。 とにかく「むらさきのスカートの女」が気になって仕方がなく、ひとときも目を離したくないくらいに惹きつけられており、やがて、その観察を徹底すべく「むらさきのスカートの女」を、本人に気づかれないように自分の職場へと誘導して、まんまと就職させてしまう。 語り手の女は、同じ職場に入った「むらさきのスカートの女」に接触しようとするが、それが存外うまくいかないうちに、「むらさきのスカートの女」は職場でどんどんと存在感を増していき、やがて当初の「ちょっと変わった女」という存在感の薄い女から、存在感のある、ある意味では普通の女へと変わっていく。 それでも「むらさきのスカートの女」に対する、語り手の「観察者」としてのスタンスは微動だにしないのだが、変わってしまった「むらさきのスカートの女」の方が、やがて職場で問題を起こして事件沙汰になってしまう。そして、そんな顛末を終始観察していた語り手の女は、求められもしないのに「むらさきのスカートの女」を逃亡させ、自分もそれを追って観察を続けようとするが、結局は「むらさきのスカートの女」に逃げられてしまう。 物語は、公園の「むらさきのスカートの女」の指定席ベンチに、語り手の女が座り、「むらさきのスカートの女」の後継者になるところで終るが、私はこれを単純なループ構造の物語だとは思わない。 結局のところ、「むらさきのスカートの女」は、さほど変わった女でも特別な女でもないのだろう。しかし「むらさきのスカートの女」の何かが、語り手の中の何かを惹きつけた結果、語り手の女は「むらさきのスカートの女」を観察し続けていたのだが、結局、なぜ語り手の女が「むらさきのスカートの女」に惹きつけられたのか、その理由は最後まで判然としない。 と言うか、語り手の女の語りは終始「むらさきのスカートの女」に向けられていて、自分の内面を描写することがない。ただ、ときどき描写されるその生活ぶりは、ちょっとした生活破綻者のようでもあり、人のことを付け回している暇などないはずなのだが、語り手の女は、自分の生活についてはまったく頓着しておらず、ただ「むらさきのスカートの女」を観察し続けられる生活さえ確保できればいいという風情である。 となると、本当に変わっているのは、じつはこの語り手の女の方なのだが、しかし、自分自身については頓着をすることなく、ただ、外に向かってだけ目を向けて生きている人間というは、意外に多いのではないだろうか。 この作品が、かもしだす絶妙のリアリティーは、読者にも気づかれにくい、語り手の女の「意外な凡庸さ」から来ているのかも知れない。また、客観的には「頭のおかしいストーカー」でしかないはずの女の観察眼が、よくあるような異常性を強調した粘着気質のそれではなく、どこか淡々としたユーモアをたたえているのも、それは彼女の目線が、意外にどこにでもいそうな人間の、わりとありがちな目線の延長線上のものでしかないからなのではないか。 自分というものに目を向けることをせず、その必要性を感じることもなく、ただ、本能的に興味を惹かれる外部の対象に執心して生きていけるのなら、これほど幸せなことはないし、怖いものもないのではないか。 仮に彼女が異常者だとしても、それは他人の評価であって、彼女自身がそれをまったく気にしないのだから、そんな評価も、彼女自身にとっては、存在しないも同然なのだ。 こんな「頭のおかしい」人にはなりたくないと思うであろう多くの読者も、しかし、他人がそのような評価をしないのなら、こんな人間になることも、まんざら悪くはないと気づくのではないだろうか。 奇妙な存在感を残す、面白い作品である。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 【補記】(2019.07.12) 以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。 つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。 なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。 『こちらあみ子』(2) 『あひる』(4) 『星の子』(3) 『父と私の桜尾通り商店街』(5) 『むらさきのスカートの女』(1) ================================================== あなただって変な人:今村夏子論(拡張版) 一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』 本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。 現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。 今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。 おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。 ------------------------------------------ ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論 一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』 今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ------------------------------------------ 私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。 よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。 しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。 「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。 「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。 例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。 なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。 「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。 そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。 しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。 「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。 彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。 「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。 「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。 「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。 「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。 こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。 たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。 もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。 | ||||
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