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雪
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雪の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.03pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全38件 1~20 1/2ページ
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主人公である詩人のKa (主人公のペンネーム)が、トルコのカルスという街で出会う出来事に関する物語である。 読み始めて最初に感じたのは、カフカの『城』みたいだ、ということだ。ある街を訪れた主人公が、出会う人たちにいろいろと言われて、翻弄される。Kaという名前も、『城』の主人公Kを彷彿とさせる。 読み進むに従って、いろいろな要素が入っている小説であることがわかってくる。欧化主義的近代化とイスラム主義との対立などの政治的要素が前面に出されている一方で、登場人物たちの恋愛もストーリーの重要な要素となっている。主人公が書いていく19編の詩も、大事な要素だ。詩自体は出てこず、そのタイトルしか明らかにされないが。 物語の語り手である「わたし」が誰なのか、が下巻途中で明らかになるのも、面白い仕掛けだ。 トルコの近代史を知っているとより楽しめると思う。下巻巻末の訳者あとがきがとても参考になる。399ページ後半から409ページ2行目までを、本書を読む前に読んでおくのが良いかもしれない。その範囲ならあまりネタバレにならない。 | ||||
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ケマル主義を表面的にしか解釈、理解していなかった私には、目から鱗が何枚も落ちていく感覚でした。 | ||||
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"雪の静寂だと考えていた、バスの運転手のすぐ後ろ座っていたその男は。もしこれがある詩の書き出しだったら、心の中で感じていたものを雪の静寂と言っただろう"2002年発刊の本書はトルコ人初のノーベル賞受賞者の著書による『最初で最後の政治小説』にしてイスラム、多文化理解、寛容について学べる名著。 個人的には2019年10月の米下院によるオスマン帝国時代のトルコで発生した「アルメニア人虐殺」をジェノサイド(集団殺害)と認定する決議案を可決したニュースを見て、同じく著者が【2005年に100万人のアルメニア人と3万人のクルド人を虐殺した事実を認めるべきだ】と発言したとされ国家侮辱罪に問われた事を思い出し、911後に出版され【イスラム過激派をめぐる情勢を予見した】と当時のベストセラーにもなった本書を手にとりました。 そんな本書は、雪に閉ざされたトルコ北東のアルメニアとの国境の町カルスへドイツへの政治亡命者として暮らしていた【無神論者の詩人】Kaがイスタンブルを経て辿り着き、再会や出会い、4年間どうしても書けなかった詩が次々と湧き出す体験をするなどの個人的再生を果たすと共に並行して起きるイスラム過激派に対抗するクーデター事件に遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれていくわけですが。日本と同じく【西洋的近代化を果たすための】トルコのとった政教分離政策、それに伴う欧化主義とイスラム主義の【矛盾や対立の複雑さ】といった社会問題にまず引き込まれ考えさせられました。 一方で、本書は【政治的メッセージのない政治小説】であり、主人公的存在である詩人Kaが個人的な創作やラブロマンスという徹頭徹尾、自分の目的の為に利己的に行動する姿には、何らかのヒーロー的人物の活躍によるハリウッド映画的解決、例えば街の平和を取り戻す的な単純な物語を期待してしまうと感情移入しにくいのですが、これはこれで群像劇の様に登場する人物達も含めて、リアルさを追求した結果と思えば、やはりこうなるのかな。と納得もできました。(しかし、名前のせいでしょうか?同じく雪に閉じこめられるカフカの『城』を彷彿とさせられた方は私以外にも多いのでは?) イスラム原理主義が下層階級でどのように芽生えるか、あるいは【異なる文明との出会いや共存、対立】などトルコはもちろん中東諸国の現状理解を物語的に深めたい方へオススメ。 | ||||
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"雪の静寂だと考えていた、バスの運転手のすぐ後ろ座っていたその男は。もしこれがある詩の書き出しだったら、心の中で感じていたものを雪の静寂と言っただろう"2002年発刊の本書はトルコ人初のノーベル賞受賞者の著書による『最初で最後の政治小説』にしてイスラム、多文化理解、寛容について学べる名著。 個人的には2019年10月の米下院によるオスマン帝国時代のトルコで発生した「アルメニア人虐殺」をジェノサイド(集団殺害)と認定する決議案を可決したニュースを見て、同じく著者が【2005年に100万人のアルメニア人と3万人のクルド人を虐殺した事実を認めるべきだ】と発言したとされ国家侮辱罪に問われた事を思い出し、911後に出版され【イスラム過激派をめぐる情勢を予見した】と当時のベストセラーにもなった本書を手にとりました。 そんな本書は、雪に閉ざされたトルコ北東のアルメニアとの国境の町カルスへドイツへの政治亡命者として暮らしていた【無神論者の詩人】Kaがイスタンブルを経て辿り着き、再会や出会い、4年間どうしても書けなかった詩が次々と湧き出す体験をするなどの個人的再生を果たすと共に並行して起きるイスラム過激派に対抗するクーデター事件に遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれていくわけですが。日本と同じく【西洋的近代化を果たすための】トルコのとった政教分離政策、それに伴う欧化主義とイスラム主義の【矛盾や対立の複雑さ】といった社会問題にまず引き込まれ考えさせられました。 一方で、本書は【政治的メッセージのない政治小説】であり、主人公的存在である詩人Kaが個人的な創作やラブロマンスという徹頭徹尾、自分の目的の為に利己的に行動する姿には、何らかのヒーロー的人物の活躍によるハリウッド映画的解決、例えば街の平和を取り戻す的な単純な物語を期待してしまうと感情移入しにくいのですが、これはこれで群像劇の様に登場する人物達も含めて、リアルさを追求した結果と思えば、やはりこうなるのかな。と納得もできました。(しかし、名前のせいでしょうか?同じく雪に閉じこめられるカフカの『城』を彷彿とさせられた方は私以外にも多いのでは?) イスラム原理主義が下層階級でどのように芽生えるか、あるいは【異なる文明との出会いや共存、対立】などトルコはもちろん中東諸国の現状理解を物語的に深めたい方へオススメ。 | ||||
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"雪の静寂だと考えていた、バスの運転手のすぐ後ろ座っていたその男は。もしこれがある詩の書き出しだったら、心の中で感じていたものを雪の静寂と言っただろう"2002年発刊の本書はトルコ人初のノーベル賞受賞者の著書による『最初で最後の政治小説』にしてイスラム、多文化理解、寛容について学べる名著。 個人的には2019年10月の米下院によるオスマン帝国時代のトルコで発生した「アルメニア人虐殺」をジェノサイド(集団殺害)と認定する決議案を可決したニュースを見て、同じく著者が【2005年に100万人のアルメニア人と3万人のクルド人を虐殺した事実を認めるべきだ】と発言したとされ国家侮辱罪に問われた事を思い出し、911後に出版され【イスラム過激派をめぐる情勢を予見した】と当時のベストセラーにもなった本書を手にとりました。 そんな本書は、雪に閉ざされたトルコ北東のアルメニアとの国境の町カルスへドイツへの政治亡命者として暮らしていた【無神論者の詩人】Kaがイスタンブルを経て辿り着き、再会や出会い、4年間どうしても書けなかった詩が次々と湧き出す体験をするなどの個人的再生を果たすと共に並行して起きるイスラム過激派に対抗するクーデター事件に遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれていくわけですが。日本と同じく【西洋的近代化を果たすための】トルコのとった政教分離政策、それに伴う欧化主義とイスラム主義の【矛盾や対立の複雑さ】といった社会問題にまず引き込まれ考えさせられました。 一方で、本書は【政治的メッセージのない政治小説】であり、主人公的存在である詩人Kaが個人的な創作やラブロマンスという徹頭徹尾、自分の目的の為に利己的に行動する姿には、何らかのヒーロー的人物の活躍によるハリウッド映画的解決、例えば街の平和を取り戻す的な単純な物語を期待してしまうと感情移入しにくいのですが、これはこれで群像劇の様に登場する人物達も含めて、リアルさを追求した結果と思えば、やはりこうなるのかな。と納得もできました。(しかし、名前のせいでしょうか?同じく雪に閉じこめられるカフカの『城』を彷彿とさせられた方は私以外にも多いのでは?) イスラム原理主義が下層階級でどのように芽生えるか、あるいは【異なる文明との出会いや共存、対立】などトルコはもちろん中東諸国の現状理解を物語的に深めたい方へオススメ。 | ||||
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まず、風情のある雪の降る街のカヴァーが気を引いた。私は絵かと思ったが写真である。 作者のオルハン・パムクは1952年生まれのトルコ人で、ノーベル文学賞受賞者。本作の舞台はトルコの北東部の都市、カルス(Kars; 実在する。2012年時点の人口は約8万人)である。イスラム教信者か無神論者かが大きなテーマになっている。少女たちが自殺しているが、宗教が関係している。私は推理小説的要素があるのかと思って本書を買ったのだが、その要素は薄い。 主人公のKaは詩人である。 「幸せでないことが力を与える」、「人は、全く知らない、二度と会うことがないことが確かな人に、全てを語りたいと思う」、「俺は自分の歴史を綴って、自分になる」などの登場人物の言葉が私の記憶に残った。また、「ケマダの戦い」(ジッロ・ポンテコルヴォ監督)という映画の引用がある。 本書を読んで、トルコと欧州の関係や、イスラム教の感性の一部が、何となく理解できた気がした。 (付記1)翻訳が良くないとのレヴューが多い。確かに「たり」があるのに繰り返しがない。また、あまり日本の文章では見かけない倒置、受動態など、思い当たる点はある。但し、外国語の雰囲気が残っていて、私は悪くないと思う。非難している人は、英語など外国語の文章を読み慣れていないのではないか。 (付記2)パムクの名は2007年から知っていたが、彼の作品を今回初めて読んだ。ちなみに私が韓国で旅行していた時に知り合ったスウェーデン人が「イスタンブル」を英訳で読んでいたので、気にしてはいたのである。 | ||||
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上巻で、私はまだ100ページほどしか読んでいないのに、「★5つ付けることに決めた」などと書いた。 まあちょっと反省してますよw 先走り過ぎたかなとww そして今、ようやく全部読み終えた。えらく時間がかかってるのは、途中で一回読むのを止めて、改めて今回最後まで読み直したから。 そしてあまりの迫力、そして重厚さに今は茫然としている。 今の日本の小説は、軽いものでないと売れないので、とにかくライトなものばかりになっている。しかし「文学」に必要なもの、文学らしさとはすなわち重厚さなのではないか。この小説のような。 さて、この小説で描かれるのは、現代的な感性の持ち主である主人公Kar、イスラム原理主義を体現する「群青」の対立を軸にした、現代トルコそしてイスラム世界の宗教・思想的な構図だ。 それだけではなく、オルハン・パムクが並々ならぬストーリーテラーであることも、この小説を面白くしている。 ストーリーの意外性も面白さのひとつなので、ここでは詳しく書かない。しかし「群青」が見せる、ある種の俗っぽさが印象に残った。これが訳文のバイアスで無ければいいのだが。 ノーベル文学賞は当然だろう。日本では村上春樹がなかなか受賞しないのをもどかしがるが、上には上がいるのだ。 それを思い知らさせる作品だ。 | ||||
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イスラム社会ではアラーを信じるか、信じないかというのは命がけの命題なんですね。まるで異質の世界です。努力すれば分かり合えるといった安易な考えは捨てたほうがよさそうです。宗教と政治が絡み合った複雑な状況を凄腕で描き出しています。凄い! | ||||
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トルコという西洋文明とイスラム文明との、混じり合い、衝突、融合そしてそこに生きる人々の生活、悩み等が、主人公karという男を通じて描かれており大変興味深かった。 | ||||
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トルコでのテロやイスラム主義が主題なんでタイムリーなんで読み返そうと思ったが、没頭することは出来なかった。 トニモリスンよりも読みやすいが。 まあ、フィクションよりも現実のほうがギザギザしてる時代ってことか。 なんでも、若い頃に理想主義に燃えて行動していた仲間たちが敗北していったことで哭く、啼くという内容である。 | ||||
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まず、お断りしておきたい。私はこの本をまだほとんど読んでいない。最初の100ページほど読んだだけだ。 しかし私はこの本に★5つをつけることを決めた。 ここまで読んだ100ページの中に、★5つを付けるに十分な文章を見つけたからだ。もはやこの文章だけでもこの本は十分な価値がある。そう思えた。 その文章とは、5.「殺人犯と被害者の最初で最後の会話」だ。この文庫ではじめの70ページくらいのところにある。 ここではイスラム原理主義者が、進歩的な(と彼が考えた)教育をしている学校の校長を殺害する直前の2人の会話が、校長が隠し持っていたボイスレコーダーの録音を起こした、という形式の文章で綴られていく。 そして、ここで語られるのはイスラム原理主義者の「心」であり「人間像」だ。 彼は校長の教育方針が、イスラムの教えに反していると非難する。しかし校長は反論する。世の中には多くの反イスラム的なことがある。これをどう考えるのか。それに対して、彼は考えない・・・。なんと考えないのだ! ここには「信仰」という名を称する、途方もないご都合主義がある。自らの信仰にとって都合のよいことだけを彼は真剣に考え、ついに殺害すら決意しているのだ。 さらに会話の中で、彼の正体が明らかになる。今彼はロクな仕事についていない。社会の落ちこぼれだ。さらにかつて刑務所に服役もしていた。その刑務所でも、反省どころか凶暴で看守の手を焼いていたらしい。 オルハン・パムクの筆は、宗教の美しい衣装を着つつ正義を語る、社会から落ちこぼれた凶暴そのものの人間の姿を、容赦なく描き出す。 これこそイスラム作家でなければ書けない文章だろう。さすがはノーベル文学賞受賞者だと思わずにはいられない。 私たち日本人は村上春樹がなかなかノーベル賞を獲れないことを嘆く。しかし世界には村上よりもはるかに優れた文章を書く作家がいるのだ。 この小説はそのことを、イヤというほど私たちに思い知らせてくれる。 | ||||
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既に、藤原書店の旧訳(区別の都合上、そう呼ぶことにする)にもレビューを書いたので、 ここでは基本的に、新訳の訳文について記すことにする。 "Mr.T"さんが書かれているように、新訳にはサクサク読み進められるという利点がある反面、 おそらくパムクの原文に本来あったはずの、複雑な陰翳や香気のようなものが、かなりの 程度まで削ぎ落とされてしまっているように思う。 旧訳を読んだ時は、ひたすら降り続く雪のせいで、場末のカルスの街に永遠に閉じ込められた かのような、閉塞感と多幸感が綯交ぜになった独特の感興を覚えたような気がするのだが、 今回はそれがさほど強く感じられなかったのが残念だった。 また、新訳では、本来は間接話法で表現されていたはずのKaの内心の声が、いちいちわかり やすい直接話法に置き換えられているが、会話文にしても、42歳のはずのKaの話しぶりが、 あまりにもナイーブで子供っぽい感じに訳されていて、正直かなり気になってしまった。勿論、 作中でKaがそのようなウブな人物として描かれているのも事実なのだが、殆ど児童文学の 主人公を思わせるような口調に訳すのは、いくら何でもやり過ぎだろう。以下、一例を挙げる。 ”はて、僕は現世とやらでいったい何をしているんだろう? 遠目に見る雪はいかにも みすぼらしくて、僕の人生もまた惨めなもんだ。人間なんて所詮、生きて、摩耗して、 無に帰するだけなのかもな”。(新訳上巻p.166) この世で自分は何をしているのだろうかと考えた、Kaは。雪は遠くからいかにも惨めに見えた。 自分の人生もいかに惨めなことか。人は生きて、疲れ果て、やがて何も残らない。(旧訳p.118) ちなみに旧訳の2文目で、「雪は遠くからいかにも惨めに見えた」となっている部分は、Kaの心情が 投影された描写で、それを見たKaが、「自分の人生もいかに惨めなことか」と続けて考えるわけだが、 新訳はそれらを全て、Kaが直接考えたことにしてしまっているので、やや無理がある訳文になって いる上に、安易な感じがすると個人的には思う。 (下巻のレビューに続く) | ||||
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(上巻のレビューから続く) あと、細かいことだが、一つ誤訳と思えるものを見つけたので、指摘しておく。 宵の口に仕事帰りのハンセンさんがバーンホフ駅まで車で迎えにきてくれたんです。(下巻p.19) 「バーンホフ Bahnhof」というのは固有名詞ではなく、ドイツ語の普通名詞で「駅」のこと なので、これは単に駅と訳すのが正しいはずだ(旧訳p.304ではそうなっている)。ふつうは 先行訳があれば参照するものと思うが、なぜあえて違う訳にしているのだろうか。 最後に、「訳者あとがき」についてだが、近現代トルコの政治史についてかなり詳しく解説 してくれている反面、訳者の態度が、本書の内容や作者に対して妙に厳しいというか、 殆ど断罪のようにすら思える部分があることが気になった。以下、いくつか例を挙げる。 本書は、パムク自身が”政治的メッセージはない”と述べる通り、明確な政治的主張どころか、 社会問題の提起さえ行われないまま終幕を迎えている。(p.410) 「雪の結晶図」はその存在自体が歪である。この芸術的に見れば醜悪な結晶図の存在は、 「真の詩人」であるKaと、「朝も夜も何時間もぶっ続けで働く事務員のような、ひどく単純な 魂しか持たない小説家」である作者パムクの二人が、政治に傾倒し、苦悩する人々のことを 最後まで理解し得なかったということを象徴しているように思われる。(pp.412-413) こうして政治と詩という皮をはぎ取っていくと、本書で最後に残るのはただ一つ、(中略) つまり、人は幸せにならなければならないという結論だ。(pp.413-414) Kaを糾弾した<群青>や、Kaを密告者として蔑むイペキやカルスの人々とは違って、 作者パムクだけはKaをいっさい責めようとはしない。なぜなら、パムクの作品に一貫して 見られる主題めいたものがあるとすれば、それは幸福の追求にほかならないからである。(p.414) これほど否定的な内容の「訳者あとがき」を読んだ覚えはあまりないのだが、上下巻を 読み終えてそれなりの感慨に浸っているところに、何だか出来の悪いレポートを無理やり 読まされたような、後味の悪さを覚えた。(そもそも、作者が明確な政治的主張をしたり、 結局は幸福を得られずに死んだKaを、それ以上責めたりする必要があるのだろうか?) 訳者がいかなる主観的見解を持とうと自由だが、「雪の結晶図」を大した根拠もなく「醜悪」 と決めつける一方で、専ら主人公や作者の倫理的姿勢ばかりを糾弾するかのような文章を、 「訳者あとがき」の形で読者に押し付けるのは、いささか僭越ではないかとすら思う。 | ||||
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私はトルコ語の勉強のため「雪」の原書を読んでいます。この新訳版では原著が多用する面倒くさい間接話法が読みやすい直接話法に変更され、原著にない単語、注などが追加されているため、堅い文学作品と言うより、あっけらかんとした推理小説のように、ほいほいと読んでいけるのが良い点です。しかし、その利点にかわりパムクの重厚で小難しく個性の強い作風と文章技術、物書きとしての実直さや真面目さ、日本語に近いトルコ語の文章構成と表現の微細さなどについての文学的な情報と雰囲気がほぼ完全に失われているのが、当訳書の欠点だと思います。一方、藤原書店から出ている別の訳書も平行して読んでいますが、それは原文に忠実な訳でトルコ語の勉強には大変役立ちつつ、本訳書の欠点を補っています。それについては当該のレビュー欄で私見を述べました。 | ||||
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この作品の内容については諸氏のレビューにお任せし、ここではレビューで極めて評判が悪い翻訳について一言。 私はトルコ語の勉強のため原文を読んでいます。原文は極めて特異で難解な、あるいは個性の強い書き方ですが、それに極めて忠実に、原著者の意図と雰囲気を日本語で伝えようと大きな努力をされた和久井さんの訳はすばらしいの一言につきます。訳者は「著者のトルコ語はしばしばトルコのインテリにとっても難解と言われ」、訳では原文の「雰囲気をこわさないように」「あくまでも原文に忠実であることにこころがけた」そうです(同訳者の「私の名は紅」のあとがき参照) その成果は十分に出ていて、和久井訳はトルコ語の勉強にも大変に役立つと同時に、物書きに真剣に取り組む原著者の人柄を間近に伝えてくれます。ですからこの訳本を読むと、文法や語順が日本語に近いトルコ語の表現方式や原著者の表現技術の雰囲気にも触れることができます。 一方、別の出版社から出ている文庫本の訳本を見ると、原著者が多用する小難しいトルコ語の間接話法は、平易だが味わいの乏しい直接話法の日本語に変更されてしまい、加えて説明用に余計な単語や表現も追加されているため、なるほどすいすいと気軽に読みやすくはなっているものの、原著の文学的味わいは消え去ってしまい、いわば和久井訳を基にポピュラーな大衆文学調の文章に書き直した翻訳のように私には思われ、文学作品と言うよりも、むしろ先を急ぐ推理小説を読んでいるような感じがします。 | ||||
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小説の世界の切なさと、この読書体験が終わってしまう喪失感とで、読了後数時間茫然自失。 さすがにノーベル文学賞、名作でした。 さてその内容。 女学生の連続自殺事件の取材のために、カルスというトルコの片田舎に行った詩人が様々な事件に巻き込まれていく。 それはトルコの現代史がぎゅっとつまった政治ドラマであり、手に汗握るサスペンスでもありながら、美しいラブストーリーでもあり、文章はわかりやすく美しい。 ぼくにとっての一番の収穫は、イスラムのことが等身大でわかったこと。 イスラム原理主義に走る若者、スカーフを外せという命令に自殺という方法で抵抗をする女学生たち、神が存在するかしないかでずっと悩み続ける学生たち。 まったく日本人とは違う価値観で生きているようだけれども、彼らもおなじように恋をして、恋に破れる。 イスラムと西洋の価値観との間でゆれる人々を、等身大で理解させてくれるのである。学術書を読んだときのような理解の仕方ではなく。 事実、「コーラン」を初めイスラムの学術書を何冊か読み、イスラムの国を十数カ国旅したのだが、この小説を読む方が現地の若者たちを理解できたような気がする。 (日本人のような宗教色が薄い人間はイスラム教徒の人と神について話しにくいのもあるんだけど) 作者のパムクのスタイルは西欧文学を正当に継承したうえで西欧でない自国を分解するといった感を受けた。 その感覚は『東欧の全体主義』を分解した『存在の耐えられない軽さ』のミラン・クンデラに近いのかもしれない。 是非、雪を感じる季節に読んでほしい本である。 | ||||
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主義主義主義ってうるさいのである。 ようは、この世界のお話は「治安」が悪いのである。 治安が悪いと幸せを求めて信条が出来、主義がいっぱい増えるのである。 だから、ヒトは、分かり合いたくても分かり合えないのである。 キリスト世界のことが理解できないのに、 イスラムのことは、よく分からない。 スカーフを脱ぐのか脱がないのか、 女の自尊心と男の自殺の理由の違いが、いまいち分かるようで、分からん・・・。 幕末期の男女を考えればいいのか? 文芸に政治をもってくると、つまらなくなる。 「思想」を持ってるやつの墓場だからである。 分かり合えるように出来ていないのである。 恋愛をもってくるとよけい分からなくなる。 だから、「文芸」にはなりうる。 だが、エンターテイメントの楽しみ方は千差万別で、 これを面白いと捉えるか、つまらないととるかは、全く個人の自由である。 『雪』のイメージを「何か」に置き換えられるのだが、 あまり、その作業に興味が沸かない。 イスラムの国の雪の色にまで教養が行き届かない。 ノーベル賞作家というのは、真面目なんだと思う。 基本、反戦、人権なのだが、そこから観念的なイメージの広がりに、 いまいち、真面目すぎて、無難なストーリーになりがちである。 だから、物語をどこかで馬鹿にしているというか、どうでもいいと思っている。 なんちゅうか、こう、学校図書推薦の高校版のような。 ようは、おはなしの設定と著者の志向性が僕には合わないのだろう。 地球の裏側の南米は面白いのだが、 イスラムはなんとなく、通じ合えない壁があるようでいて、 それが、読書量にも比例しているのかもしれない。 いや、多分見下しているんだと思う。 何年経っても、主義が折り合わず、 争ってばかりいるので、地図上から見放している節がある。 もっとはっきりいうと、 イスラム教とその人種をどうでもいいと思っている。 そして、多分、お隣の国ほど気にはならないのである。 教養はときに地理的な遠さから、理由を問わず、 そこで断線してしまう。 なかなか地球は一つとはいかないのである。 | ||||
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翻訳がひどすぎて20ページと読み進めなくて、結局、古本チェーンに売ってしまった。 別の翻訳が出ているので期待しよう。 | ||||
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翻訳の酷さはみんなが指摘している通り。この翻訳家は恥ずかしいと思わないのだろうか。 地理的歴史的に幸運だった日本人が、西洋と東洋、キリスト教徒イスラム教の間で振りまわされてきたトルコ人を理解するのはなかなか難しい。でもマレーシアでイスラム教徒の家族と親しくした僕の経験では、イスラム教徒も我々とたいした違いはないのである。違いは概ねイスラムの戒律にあり、彼らと接するうちに、彼らがイスラム教に熱心である場合の理由は様々であることがわかってくる。例えば貧困(これは小説の中でイスラム教徒の若者に否定させているが、僕のイスラム教徒の友人は貧しさ故に宗教に熱心だった)、そして特にアイデンティティの問題が大きいように思われる。西洋人が西洋的価値観を押しつけてくるほどに、イスラム教徒はますます熱心に宗教活動に励んで自分たちのアイデンティティを強めていくだろう。マレーシアでは無関心であることで互いの宗教から目を背けているようなところがあったが、無関心は簡単に過激な排斥運動に転換してしまうように思われる。スカーフで髪を覆うか覆わないかが人の生死に関わるのは、不可思議でも異常でもなく、自分がここに今いることの切実な叫びなのである。 でも、そういった宗教上の葛藤や苦悩が、この小説の醸す雰囲気にのまれてしまったような気がしてならない。ぼくには“芝居クーデタ”なるものがとてもリアルに感じられず、そのせいでこの小説世界にいまいち入り込めなかった。果たして今の時代に、こんな突拍子もない、馬鹿げた行動がとられるだろうか。そしてこのクーデタで二十九人も死者が出ているのに、その割にその辺の描写が少ないためか、たいした事件のように感じられなかったのは僕だけだろうか。この小説が例えばカフカの作品のような不条理な世界の中で描かれたものであるならば、イスラムの問題のリアリティもそうした世界の中で薄められてしまっているように思われる。 この小説をリアルに感じられる一番の要素として、恋愛があるが、これは主人公の男があまりに哀れで惨めで、読後には思わずいったいなんだったのだと思ってしまった。宮沢賢治のような純粋な男が普通に狡猾な今どきの若い女に踊らされていい夢を見させられたがとうとう最後に夢からたたき起こされ泣き濡れてひとり町を後にした、といってしまえばそれまでの話である。でも、最後に夢から覚めて現実に戻っていくという展開は、この小説にふさわしいと思う。やはりイスラムの問題は現実なのだから。 | ||||
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少女連続自殺についての記事を書くため,雪の降るトルコの地方都市カルスで残された家族から話を聞くうち,娘たちの自殺が日常生活のなかに何の予兆も予告もなしに唐突に侵入してきたものであったという事実に心を揺さぶられる詩人Ka。 ありふれた日常が死へと様変わりしてしまう唐突さや,絶望,といったものこそが詩人Kaを魅了してやまない。 しかし,街が雪に閉ざされ,イスラム主義に反対する俳優スナイ・ザイムが起こした軍事クーデターにより,中立的な立場であるはずの詩人Kaは,イスラム主義陣営とスナイ・ザイム陣営の両陣営から翻弄される立場となる。 しかしながら,詩人Kaを動かす原動力は,憧れの女性イペキのみ。 彼女と結ばれない限り自分は幸せになれないとの思いのみから,希望と絶望が紙一重で並んでいるような気がしておびえ,政治的思想に関係なく,自分の幸せ実現のためだけに両陣営のために行動するKa。 本書は筆者オルハン・パムクが友人である詩人Kaが残したメモなどを元にKaの行動を再現した,との体裁がとられた作品です。政治的な思惑よりも,Kaの恋愛を軸に物語りが進行することから,「わたしの名は赤」よりも読みやすく親しみやすい印象です。 本書のタイトル「雪」には様々な意味が込められているようです。 たとえば,Kaはイスラム教の長老に次のように話します。 「雪は僕に神を思い起こさせます。この世がいかに神秘的で美しいのかを,そして人生がいかに素晴らしいものかを思い出させてくれる気がするんです」 憧れのイペキの妹カディーフェは 「雪を見ると,どんなにいがみ合っていても人間なんて結局はみんな同じ,広大な宇宙や時間の前では人間の世界なんてちっぽけなものだって思えるでしょう。だから雪が降ると人間は身体を寄せ合うのかも。雪って憎しみとか,野心とか,怒りとかを全部覆い尽くして,人間同士を互いに近づけてくれるものかもしれません」 本書で印象的だったのは,詩人Kaがカルスの街で訪れた詩想のすべてを雪の結晶図になぞらえて配置することで,自分自身を形作るあらゆる要素も雪の結晶に託したことです。 「人は誰しも,その生涯を示す心の地図たる雪の結晶を持っているんだ」との考えのもと完成した配置図が本書にも登場します。 Kaは,あらゆる人間の内奥にはこうした心の地図や雪の結晶図が秘められていて,遠目にみれば似たり寄ったりであるはずの人類が,実際にはどれほど異なっていて,互いに理解し得ない未知の存在であるかを証明するためには,この雪の結晶図を描くしかないと考えていたのです。 つまり,私たちは他人の苦悩であるとか,愛であるとかを理解することが,果たしてできるのであろうか?ということ。 そしてこれこそがこの物語の核心なのかもしれません。 | ||||
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