遠い水平線
- 身元不明 (119)
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死体置き場の番人というぞっとする立場、しかし職業となっているからには、そこにはユーモラスな日常もある 死者は彼にとって客であり、想像の対話相手 しかし死体の身元確認を始めた時、生と向き合わねばならない 妙な熱さの中に冷笑をはさむ、タブッキの独特のユーモアセンスが光る 楽しめた | ||||
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『インド夜想曲』に次ぐ、アントニオ・タブッキ2作目の長編である。会話を区切るカギ括弧や改行のないタブッキ独特の文体が初めて取り入れられている。本作は彼の著作の中で最も「難解」だ。作者自身が「書いていて、ひどく愉しいという本ではなかった」と述べている。訳者はあとがきで、「天と地のように…….全く交わらないと信じていることが、じつは、そうではない。そういったことを作者は表現しているようだ」と解いてみせるが、思わせぶりなエピグラムからもその程度は判る。 スピーノはなぜ死ぬのか。それを物語に照らして検証しなければならない。私自身の「読み」を強調して、梗概を作ってみる。 《.......スピーノは、イタリアのある都市(訳者はジェノヴァだとする)の旧市街にある廃病院の遺体置場に勤める中年のの職員である。大学は中退した。18歳の子のいる女性教師の恋人サラがいる。彼女はいつも「どこか遠くに行きたい」と言う。 ある夜1人の青年の死体が運ばれてくる。警官が麻薬密売人のアジトに踏み込んで銃撃戦になった時、仲間に撃たれて死んだ大学生だという。 翌日は非番で、スピーノは行きつけのハンガリア人老夫婦の喫茶店へ行く。そこから新聞社に勤める友人に電話す ると、昨夜の被害者は記事の書きようが無いという。近所ではカルノ・ノーボディ(nobody)と名乗っているが、学生名簿に登録はなく、身分証明書は偽造だった。住まいはある修道院の持家で、善意で貸していた。サラは、彼が「20歳若かったら、あなただと思っちゃう」という。青年がはめていた指輪の内側にはPietro,1939.4.12と印字がある。 日曜日スピーノとサラはピクニックを兼ねて修道院を訪れる。司祭に青年の身元を聞いても、アルゼンチン生まれと言う以上のことは判らない。スピーノは「親なしっ子が3人」という昔聞いた言葉を思い出す。 サラは生徒の旅行に付き添って出掛けた。スピーノは青年のポケットにあった古い写真を引き伸ばしてみる。家族写真の中の子供が青年のようだ。スピーノはサラの留守の間ボランティアで探偵をやると新聞社の友人に言う。青年が着ていたジャケットのタグにあった洋服屋を訪ねる。昔、ある会計士の注文で縫製した服と判る。会計士を訪ねると、貧しい使用人にくれてやったものだという。 孤児院で写真をみせる。元寮母はこどもを確認できない。寮母が持っている写真でも判らない。警察は彼を埋葬し、 事件は片づいたと言う。 スピーノはあきらめない。今度は麻薬密売人のルートを探る。密売の罪で医師免許を剥奪されアメリカに逃げ、今はピアノ弾きになっている男をバーに訪ねる。彼の紹介でインド僧が来る雑炊屋、漢方薬店とたらい回しされ、最後は墓地、そこに人が来るはずだったが来ず、天使とフクロウが書かれた墓碑に「肉体は死すとも、徳は死なず」とあるのを見る。 家に戻ると、場所と時間を書いた紙切れが郵便受けにある。スピーノは別の紙に「彼は泣いているのか?ヘカベは、 彼にとってだれなのか」と大書する。今はっきりと判る。青年は銃撃戦の際、わざと弾道に身を曝して撃たれたの だ。紙をテラスの紐に洗濯挟みで止める。 翌日、一日かけて散らかり放題だった部屋を整理する。サラに手紙を書く。夕食を摂り、波止場に行く。3度咳を るが誰も応えない。スピーノは「来たぞ」といって、海に向かって前進する.......》 ここで「Petro」というのは12使徒の1人、「天使とフクロウ」はギリシャ神話の女神アテネ、「ヘカベ」はギリシア伝説のトロイ最後の王プリアモスの妃、を指していると思われるが、それらの引用の意図は浅才非学な私には解らない。 スピーノはなぜ死ぬのか。 私の注目するのは、登場人物が全て「故郷喪失者」である点だ。青年を始め、「親なしっ子が3人」と囃されて育ったらしいスピーノ、どこかへ行ってしまいたいと願うサラ、子供だった青年を連れてアルゼンチンから移民した父親、ハンガリア人の夫婦、アメリカに逃げたピアノ弾き、インド僧、漢方薬店主等々。土地に根を持たない彼等は存在そのものが夢のようだ。死んだ青年がNobodyと名乗っていたとおり、彼等は誰でもない。どこにもいないと同じである。 スピーノの死の前日に配達された書付の中味は提示されない。それで良いのかも知れない。青年が今いるもう一つの場所、「彼岸」、を思い起こさせれば良いのだから。サラが言うように、青年は過去のスピーノ自身かも知れない。そうすると『インド夢想記』のような自分探しということになる。しかしスピーノはなぜ死んでまで青年と「一体化」されなければならないのか。現在のスピーノは死んだ青年の「残骸」に過ぎないというのだろうか。作者は我々もまた「過去の残骸」にすぎないというのだろうか。現在は過去の残骸と言う理屈は肯定され得る。しかしそれは空しいというばかりではないだろう。より積極的な意味あいでそれを述べることだって可能なのだから。しかし言い過ぎは禁物。矢張り「難解な書」として、折に触れ読み直してみるしか外にないのだろう。 | ||||
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推理小説風の中編。読者をどこに連れて行くのか、読み終わるまでわからない、読み終わってもはてなマークを幾つもつけたくなる。タブッキの世界が縦横に展開される。 | ||||
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何の予備知識もなくこの本を手に取ったのは、翻訳者が須賀敦子氏だったからに他ならない。彼女が訳しているのだったら、まず間違いないだろうということで読み始めたのはいいけど、こ、こ、こりゃあ、いったいなんなんだ?・・・・。熟年世代の不倫ドラマか?はたまた推理小説か?それにしてはプロットがまるで分らないし・・・・・右往左往しつつ読み進んでいくと、な、な、なんと、あっけなく話は終わってしまう。で、作者の不思議な「註」と須賀氏の解説を読んで、ようやく納得。これはこの作者のいわゆるひとつの作風というか、読者を楽しませる一つのテクニックだったのだ・・・・・ 本書に出てくる「果報者」コルドバのフォルトゥナートなる人物。本書を読む前日に同じ「Uブックス」の「カモメに飛ぶことを教えた猫」を読んだ。この中に、まったく偶然か、フォルトゥナータなるカモメの赤ちゃんが出てくる・・・・・。片やスペイン語、此方イタリア語。 本書を読み終えて、須賀氏の解説を読んだら、ジュール・ヴェルヌの「海底二万海里」を読みたくなってきた・・・・・ | ||||
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一番知名度のある「インド夜想曲」を読んで感激した人は、次にはこの「遠い水平線」を読むことをお勧めします。最高傑作と言われる「供述によるとペレイラは」、短篇集の「逆さまゲーム」などは、この「遠い水平線」を読んでからのほうが、タブッキの世界をより理解できるのではと思います。「インド夜想曲」が好きならば「遠い水平線」でもがっかりすることはないでしょう。 「遠い水平線」もミステリー的な導入です。身元不明の他殺死体の詮索を始める主人公。物語性のあるストーリーに引き込まれつつ、テーマは深く哲学的です。各章が短くて、ひとつのエピソードが重ねられていくさまは「インド夜想曲」と同様です。インドのようなエキゾチックさはなくても、ここでの幻想性の高い街の描きかたは秀逸です。 やはり須賀敦子さんのすばらしい訳があるのも大切です。残念ながら死去されてしまいましたね。繊細で、やわらかく、美しい須賀氏の訳は、タブッキという稀代の作家を日本語で理解するための最高の案内人でしたね。買って手元に置いておきたい本の一つです。何度読んでも新しい発見がある深みのある本です。 | ||||
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