ノー・カントリー・フォー・オールド・メン
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ノーベル文学賞候補にも挙げられるアメリカ現代文学の大御所・マッカーシーの本格犯罪小説。メキシコ国境に近い荒地で麻薬密売組織、殺し屋、ベトナム帰還兵、善良な保安官などが血と暴力のドラマを繰り広げる、パワフルな傑作ノワールである。 | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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『血と暴力の国』黒原敏行訳(扶桑社 2007年)と『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』黒原敏行訳 (早川書房 2023年) は全く同じ本である。版権が移動したのだろう。タイトルは早川書房版が勝っている。扶桑社版はキワモノ的で作家の意図とは異なる。早川版の平仮名を翻訳すれば「老人の住む国にあらず」(山口和彦)が妥当だろう。山口氏によれば、タイトルはイエイツの詩「ビザンチウムへの船出」の冒頭からの引用だそうだ。 こうこだわるのはまさしく本書の主題が”for old men”にあるからだ。極端に言えば本書を読解するに、各章冒頭にベル保安官が記す日記風の叙述を読めば、他の箇所は省いても良いと言えるほどだ。本文の凄惨極まる殺人描写は、ベル保安官が抱く現代アメリカが病む疫病の具体的症例に過ぎない。その意味ではこれは一種のメタ小説である。 エド・トム・ベル、テキサス州デントン郡保安官で56歳。祖父も叔父も保安官だった。21歳で陸軍に入隊。欧州大戦ではフランスに派遣された。終戦で帰国、25歳で保安官選挙に当選。途中の短い中断を挟んで41年間の保安官勤務。結婚歴31年、一人娘を亡くした。現在は夫婦の二人暮らし。 保安官の権限は強大である。州憲法に保安官を規制する条項はない。保安官が法律なのだ。その彼が現在退職を考えている。理由は、ベルにとってこの国がどうにも理解できなくなってきたからである。例えば40年前の学校教師の悩みは、生徒が私語や廊下を走る、ガムを噛む、宿題を丸写しする、だったが、今はレイプ、放火、殺人、自殺だ。かつて19歳のレイプ犯を逮捕して死刑に処したが、彼は面会で「誰でも良かった。娑婆に戻れたらまたやる」とベルを仰天させた。この41年間、郡の未解決殺人事件はゼロだったが、今週一週間で9人が殺された。国境を跨いだ麻薬取引事件が活発化している。彼等は法を軽んじているのでなくそもそも法など気にとめていない。何よりベルを苛ただせるのは「こうしておれが生きていられるのは犯罪者たちがおれを殺すほどの価値を認めていないから」という思いである。 読み進めるうちに、保安官の複雑な心境も解ってくる。人を殺したことはないと誇る一方でフランス従軍中は大勢の人を撃ったと言い、また彼の小隊が農家で宿泊中に突然敵に襲われて爆弾で吹き飛ばされ、気がづいたら屋外におり、偶然傍らにあった機関銃で応戦し撃退したが、夜襲を恐れて負傷兵を置き去りにして逃げ、結局部下全員を失った、と語る。原隊復帰後、彼は叙勲の申請を辞退するが、上官に勲章を返上したら殺すと脅されて受け取ったと言う苦い思い出が語られる。「人が自分自身の人生を盗んでしまうことがあるんだ」と。受勲は保安官応募の際に有利に働いたが、ベルは以後「部下を全滅させた」ことがトラウマになる。 「もしその後で、一番いいと思っている仕事に恵まれたら、もう二度とこんな辛い思いに身を構えることはないだろう」と思うベルは、「何か責任のある仕事に就きたいという気持ちは強くあった。みんなを舟に引き戻したいと思った。念願が叶い思い通りの仕事には就いたが、「信念を持っていた時にすら失敗した」。「舟に戻したい」から判るように、ベルにとってのsheriff(保安官)の任務はshepherd(牧羊犬)であると、キリスト教の道義に乗っ取って考えている。だから裁判所で会った判事が「学校では犯罪の動機は問わず犯罪の軽重だけを法に照らして裁決する」と述べるのを聞いて仰天してしまう。時代が変わったのだ。 「博打」と蔑まれている博労稼業だが信用篤かった父の言いつけは「正直であれ」と「最善を尽くせ」であった。アメリカ独特の教えではないが、ワシントンやリンカーンによって神話化されている。ベルはそれを教科書にしてきたが、世の中の変わり様のほうが大きすぎてかなわなかった。語られているのは、アメリカを成り立たせてきた伝統的な諸条件がもはや消滅してしまったと思う絶望感である。アメリカ人は新自由主義経済のもとで守銭奴になってしまったと。 この先人々はどうなってしまうのか。しかし彼には未だ微かな希望・期待も残っている。ベルの叔父は言う。「この国は人に厳しい」「人々が国から得るよりも取られる方が多かった。だがそれを恨みに思う人はいない。みんなこの国を愛しているからだ」と。 ベルはフランスの農家の庭先にあった自然石を彫った6×1×1フィートほどの家畜用水槽を思い出す。その農家の男は夕食後その生涯を賭けて鑿と金槌を振い、一万年もの耐久性を持つ水槽を作ったのだろう。おれは水槽など作りたくない。だがその男は約束した。人は何かを約束することなしに生きられない。 保安官は夢を見る。共に馬で歩んでいた父が牛角で作った灯火を手に彼を通り越して行く。灯火が月の様に輝いた。父が先に行って火を起こし私を待っていてくれるのだろうことは判った。小さな灯火。これは同じ作家の小説『ロード』にもあったイメージである。灯火が何を意味するかの説明はない。だが人間は思考の前に先ず希望を感知する生き物なのだ。 20世紀のアメリカは世界一の大国であるように振る舞い、経済・軍事超大国になった。インテリはそれに合わせて身の丈を忘れた。だが広漠たる土地に住む中西部の一般市民の間には今も代々伝わるアメリカ伝統の残り火が残っている。アメリカ再生の希望はそこにあるかもしれないと、故コーマック・マッカーシー氏は思っているのだろう。 | ||||
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まず映画が好きだ。そして原作も素晴らしい。一切の無駄がない。 | ||||
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1980年代のテキサス州南西部のメキシコとの国境に近い町を舞台にした、西部劇の色合いをもつクライムノベルである。 ベトナム帰りの溶接工ルウェリン・モスが狩猟中に発見したのは、多くの死体が横たわる麻薬がらみの銃撃戦の跡だった。現場に残されていた200万ドルを超える現金の入った鞄を住処のトレーラーハウスに持ち帰ったモスだったが、良心の呵責からか、虫の息で水を求めていたメキシコ人のためにポリタンクに水を入れ現場に戻る。到着するもメキシコ人はすでに死んでいて、金と麻薬を回収しに来た2人の殺し屋に命を狙われるはめになるが、乗ってきたトラックを置き去りにして川に飛び込み命からがら逃げ帰る。戻ったモスは、妻のカーラ・ジーンを実家に帰って連絡を待つように諭し、自分もトレーラーハウスを後にする。ここから、逃避行のモスと彼を追跡する殺し屋アントン・シガー、事件の捜査にあたる老練のベル保安官が絡み合いながら、しかしこの三者は一度も顔を合わせることなく物語は進行していく。 庶民が大金を手にしたことがきっかけで運命を狂わせていく物語としては、スコット・スミスの「シンプル・プラン」を思い出させるが、この小説が特異なのは、アントン・シガーという希代のシリアル・キラーを産み出した点にあるだろう。シガーがそれまでの殺人者と異なるのは、彼の行動の規範が金銭や怨恨、快楽などの動機によるものではなく、普通の人間には理解しがたい独特なものであることだ。とは言うものの、それはまったくの無原則という訳ではなく、彼自身が決めた(しかし常人には理解不能な)原理に基づいている。たとえば、コイントスで裏表を言わせて相手の生死を本人の決定に委ねる場面が登場するのだが、これは運命という原理にしたがうものである。追い詰められた人間は自分を殺すことは意味がないと説くが、(それはまったくその通りでシガー自身もそれを認めているのだが、)それでも彼の定めた原則に則っている限り死を逃れることはできない。自身の約束や原則を頑なに遵守するシガーの意志は驚くほど強固であり、そこには一切の妥協も逡巡も諦めも存在しないのである。このような不気味な人間、ある意味もはや人間とは言えない死神のような得たいの知れない存在(作中では幽霊という言葉で表されている)を創造したことが、この作品を唯一無二の小説にしている所以である。 タイトルは、時代の急激な変化について行くことができないベル保安官の嘆きを表し、米国はもはや年寄りの住む国ではなくなってしまったとの思いを示すものだろう。その点では、映画版の邦題は舌足らずと言える。もちろん、アカデミー作品賞も受賞したこの映画化作品は大変よくできており、コーエン兄弟の代表作と言えるものだと思う。ごく普通の暮らしを営んでいた人間がなにかをきっかけに悪事に手を染め、その後も誤った選択を繰り返した結果、事態はさらに悪い方へと転がり、ついに抜き差しならない状況に追い込まれ、最後はカタストロフに終わるという流れは、「ファーゴ」などと同様、まさにコーエン兄弟が自家薬籠中の物とするところである。人間とはなんと愚かで滑稽な生き物なのだろうというのがコーエン映画に流れる通奏低音で、この映画もその例外ではない。また、アントン・シガーを演じたハビエル・バルデム(あの髪型が強烈だ。はじめて撮影現場に現れたとき、スタッフ全員大笑いしたと言う)の演技は、史上最も印象的なサイコパスとして映画史に残るものだろう。ただし、優れた小説の映画化作品の多くがそうであるように、深味という点でこれもまた小説の方に軍配を挙げざるを得ないように思う。 おそらくそれまではやや疎んじてきたのではないかと思われる亡父について、ベル保安官が父亡き後に見た夢の話を訥々と語る最後の場面は、誠実な人間の肉親に対する控えめな情が滲み出ていて胸を打つ。最後に小説のなかで印象に残った言葉を。(マッカーシーの文章にはカンマとクォーテーションマークがなく、翻訳もそれにしたがい読点とカギカッコが省かれている) 真実ってやつはいつだって単純なんだろうと思う。絶対そうに違いない。子供にもわかるほど単純でなくちゃならないんだ。子供の時分に覚えないと手遅れだからね。理屈で考えるようになるともう遅すぎるんだ。 この台詞は映画にはないが、言い得て妙である。 | ||||
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村上春樹の新作を読んだ後にコーマック・マッカーシーを読む。 「血と暴力の国」を読まないまま映画「ノーカントリー」(監督:コーエン兄弟)を見た後、何故か原作を読まないままになってしまいました。(尚、本作は「血と暴力の国」の同訳者による新訳版です。)特に理由はありませんが(笑)、この世界には次々と読むべき物語が待ち行列の中に控えていてCPUに"ロード"されるのを待っているからに過ぎません。因みに「すべての美しい馬」、「ザ・ロード」、「悪の法則」と読み、特に「悪の法則」には小説にも(世評が芳しくなかった)リドリー・スコットが撮った映画にも魅せられていました。「暴力」と「暴力」の狭間にあるはずの<叙情>すらない世界。本来浮き上がってしかるべき湯気のような<詩>をも蓋をかぶせて遮断してしまうかのような文体がいつもその魅惑を増幅させています。 本作については、既に多くの人に論評されていて私が語るべきことなど何もないようにも思えますが、武器を描く時の丁寧さを振り切る時の作者の思いにあてられながら『かぎ括弧』のない対話をだらだらと続ける文体が麻薬のように脳に浸透し、だらしない思いに振り回されることになります。そのだらしなさは、紛れもなく私自身のだらしなさへとつながっています。この世界で漂っていたい。できれば何もせずに(笑) よって、いずれ再読することになるかと思います。特に、章ごとにインサートされる保安官トム・ベルの独白だけでも繰り返し読みたい。 黒原敏行さんのあとがきによるとコーマック・マッカーシーの新作のリリースが控えているようですね。静かに待ちたいと思います。 「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン "No Country for Old Men"」(コーマック・マッカーシー 早川書房) 2023/4/17。 | ||||
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『血と暴力の国』というタイトルで扶桑社から出版された作品の続編だと思い違いして買ってしまった。タイトルの『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』出版社が違うので改題と銘打つ必要はないだろうが、そして扶桑社版でもサブタイトルのように“NO COUNTRY FOR OLD MEN”と表記されていたのだが気が付かず購入してしまった。以前は『血と暴力の国』と云うタイトルから感想が膨らんだが見るべき処は同じだ。 | ||||
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