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守教
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守教の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.86pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全16件 1~16 1/1ページ
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身につまらせる思いで読ませて貰いました。 | ||||
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隠れキリシタンと聞けば、長崎を思い出すでしょうが、福岡にも明治まで密かにキリスト教を大切にしていた人々がいました。上巻とともに読んでください。心が熱くなります。 | ||||
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箒木先生の著作はデビュー当時の短編を除いてどれも素晴らしく、この本も読み終わった後も古本屋には売りに行かず、本棚においております。間違いなく、先生の傑作のひとつです。 | ||||
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私にとっては、下巻と合わせて何度読んでも飽きる事のないとても面白い本です。ただ、とにかく長い(苦笑) | ||||
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擦り切れるほど読んで本が傷んだので、再度購入しました。何度読んでも飽きることなく読めます。 | ||||
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著者は聖書のことをよく理解しながら執筆していることが読み取れます。武士はプライドが邪魔をし、なかなか信仰の道に入れないが、聖書の教えを素直に聞き入れる武士以外の職業の方は信仰の道に入っていけるのがよくわかりました。日本の現代も一緒なのでしょうか?先進7か国のうち6か国がキリスト教の国であるのに対して、偶像の神々を崇拝する日本は他国から不思議に思われているのがわかりかけてきました。 | ||||
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とってもきれい。 | ||||
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綺麗になった | ||||
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綺麗で問題なし | ||||
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僕がどん底にいる時に父が渡してくれた本です。 上巻の冒頭に大友宗麟は出てきますが、その後は筑後川近くの村の中でいかにキリスト教が広まり、そして弾圧から密かに守られてきたか、歴史的には全く無名の大庄屋の一族を通して描かれます。村人たちが弾圧による死の恐怖に対峙しながら、時には命を賭して、自分の家族、子や孫、その子孫へとキリスト教を伝えていく姿に、どんな大河ドラマよりも濃密に人々が普通に生きていくことの厳しさや尊さが伝わってきて、身震いするような感動を覚えました。 砂に水が染み入るように広がっていったキリスト教、なにが村人たちの希望となり、生きる糧となったのか、本書を読めばきっとわかります。 自分が社会にとって取るに足らない存在だと絶望していましたが、僕らが生まれるずっと前に、自分の祖先は必死で生きていたこと、その道の先に自分がいることが自分をまた奮い立たせてくれました。 | ||||
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武士から大庄屋へ。農民の世界に入った無名のキリシタンの、日本キリスト教萌芽期から大迫害を越え信教の自由を勝ち取るまでの子々孫々一大叙事詩。創作ばかりでは?という危惧は読み進むうちに吹き飛びました。丁寧な同時代史の説明と連動するように進んでいく村の様相。 噛み締めるように読みました。下巻からは大迫害期。 2巻同時購入はハードカバーで高いし勇気が要りましたが、買って良かった! | ||||
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なぜ信じ続けても得をしない、虐められるだけの救いのない異国の宗教を、貿易の利益もない農民たちが息を殺すようにして信仰したのか。 この本を読んで、やっと理解できたと感じています。 自分ならきっと棄教する、と思っていましたが、この舞台(=今村)に生まれたら、こんな自分でも自然に信仰を守り続けたのではないでしょうか。 キリシタンに無関心できた人にこそ読んでいただきたいです。 キリスト教の素晴らしさというより、人への思いやり、愛情が染み込みます。 私は働くことに疲れ果てていましたが、この本に出会って気力と希望を貰いました。 帚木さんのファンになりそうです(笑)。 | ||||
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帚木氏の著作は、みたびの海峡、閉鎖病棟に続いて3作目である。緻密取材には高村薫を思い出す。 それにしても高橋村、そして今村での約2百年、七代にわたる守教の歴史は重く苛烈だ。ここまで、残酷な拷問ができるのだろうか。 著者の「みたびの海峡」にも、同様な人間のあるいは日本人の残酷な一面が克明に淡々と記載されている。 しかし、一方で信徒は多くの祝福も受けただろう。きっと天国で先にいった村々の先祖たちと後代を見守っていると思う。 重厚、重層な小説だった。 | ||||
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ずっと気になっていた、隠れキリシタンのその後、というか、再発見以前のようすがわかって、興味深く読み通せました。すっきりしました。友人が好きだったので、何作品か読んでいますが、淡々とした筆致だと思います。 | ||||
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上巻では、北九州の農民達にキリスト教が静かに広がっていく様子が語られていましたが、下巻では一転して幕府による弾圧と拷問、殉教、処刑の日々が描かれます。 帚木蓬生先生の文章は、お人柄からくるものか、精神科医というご職業柄なのか、いつも穏やかで優しく、拝読していて心が洗われる気がします。そんな先生の文章で、淡々と綴られる残酷な拷問や処刑の場面は、激した表現がないだけに、かえって深い哀しみを誘われます。 次第に棄教する人が増える中、今村周辺の人々は「教会はそれぞれの心にある」と信仰を諦めません。寺とも良好な関係を築きながら、密やかに生きていきます‥‥。 関西在住で九州にご縁がないのと、物知らずなため、本書を読むまで「奇跡の村・今村」も、カトリック今村教会もまったく存じませんでした。(ネットで検索して写真を見て、びっくりしました!)お恥ずかしい限りです。 私は無宗教なのですが、それでも本書を読んで、誠実に生きることの尊さを学ぶことができたように思います。 | ||||
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戦国時代末期の1569年、九州・日田から物語は始まります。上巻では、筑後の大庄屋の一族を軸にして、伝来したばかりのキリスト教(本書ではイエズス教となっています)が、北九州の農民達に広まっていく様子が克明に描かれています。もちろん、大友宗麟、小西行長等有名なキリシタン大名も登場しますが、話のメインとなるのは名もない農民たちです。 それより約1000年も前に伝来した仏教が、すでに国中に流布していたはずなのに、なぜ人々は次々とイエズス教に傾倒していったのでしょうか。歴史も宗教も専門ではないので、私にはわかりませんが、本文中で老婆が「念仏よりもわかりやすい」と言う場面があって、もしかしたら、知的エリートの僧侶の唱える経文より、はるか彼方の異国の地から来た異人の宣教師が通詞の助けを借りながら、拙い日本語で説明したイエズスの祈りの言葉の方に、何か素直に心に沁みこむものがあったのではないか、などと想像しています。 秀吉が伴天連追放令を発し、長崎の二十六聖人の殉教が起こりますが、上巻ではまだそこまで危機は切迫していません。 これまで江戸時代のキリシタン弾圧については知っていましたが、それに先立つ戦国時代から、信仰がこのように民衆に浸透していたことを、初めて知りました。 | ||||
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