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浮世の画家
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浮世の画家の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.98pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全56件 1~20 1/3ページ
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「訳者あとがき」にはいくつか訳者と原作者とが合意の上で修正または改訳した部分が挙げられていますが、次のふたつはどういうわけか原文と異なります。 1)原文「Bach」に対し邦訳「ブラームス」 2)原文「since the surrender」に対し邦訳「無条件降伏以来」 これらは中公文庫版もハヤカワepi文庫版も共通しています。訳者がいずれも飛田茂雄氏ですから当然ですが、ハヤカワ版の校正校閲者である金子靖氏による「付記」にもこれらの修正には触れられていません。 こうした細かい点はさておき、原作のちょっと晦渋で突き放した感がありながら深い内面描写が見事に邦訳されています。ハルキストの皆様のお怒りを買うかもしれませんが、ノーベル賞のレベルとはこういうものかとあらためて原作のすばらしさに気付いた次第です。 | ||||
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迅速で的確な対応ありがとうございます | ||||
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戦争に加担した絵描きとその家族の有様を丹念に描写しているが、未だに戦争犯罪さえ明確にならない敗戦国日本を「浮世の国」と揶揄しているとしたら、興味深いところであるが・・・。物語そのものは心理描写が主で、劇的な動きはなく、小津安二郎の映画を観たのと同じ様に退屈してしまったのです。 | ||||
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3作読んだけど、まだイシグロさんの作風というものがつかめずにいる。やはりそれほど懐の深い作家ということなのだろうか?私はイシグロさんの小説に出てくる登場人物の「頑固さ」が好きだ。軽く流せば済むことでも、性格が許さないのかどうしてもこだわってしまう。この主人公の画家にもそんなところがある。あまりこだわることもなくなあなあで何でも流してしまう現代人からすると、懐かしい「頑固さ」だ。 | ||||
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作家や映画監督が、違う分野の芸術家を主人公とした作品を創作した時、大抵自己投影した小説だったり映画だったりする場合が非常に多い気がする。しかし、カズオイシグロのケースでは、『遠い山並みの光』という長編デビューからわずか2作目において、小説家という権威に溺れて周囲がみえなくなるであろう将来の己れの姿を、透徹とした眼差しですでに見抜いているのである。ブッカー賞作家やノーベル賞作家としておだてられることの嫌悪感を、当時弱冠34歳の若手作家がすでに予感していたということであろう。 昨年渡辺謙を主役にNHKでドラマ化される際に、カズオイシグロがインタビューに応えてこんなことを述べている。 「ある情勢の中で定められた価値観に忠実に生きることに対する疑問、そして自分が一体何に貢献しているのかわからなくて苦悩するというテーマ。ただ1930年代1940年代のある国である世代に起こった出来事として見るのではなく、特に今の時勢だからこそなおさら、このテーマが現代の生活と深く関連するものとして見てもらいたいです。そしてこれが人間誰しもが持ち合わせる一部であるということ、とても複雑な社会に生き、良かれと思う方法で一生懸命貢献していることをわかってほしいです。」 戦後パラダイム変換の中で、ある過去の記憶を封印した老画家の疚しさを共有し鬱々とするのではなく、むしろ主人公の小野を励ます松田がドラマのラストで語ったような感想を、視聴者に求めたのではないか。 「自分達のしたことを不当に批難する必要はない。少なくとも俺達は信念にしたがって行動し、全力をつくしてことにあたった」 後出しジャンケンで、この老画家が戦中に行った、戦意を鼓舞し若者に進んで戦地におもむかせるような活動は、現代の価値観にあてはめれば当然ほめられたことじゃない、いやむしろ卑劣きわまりない人間として恥ずべき所行であると批判するのは簡単だ。 (現代の若者のように)何の信念も目的もなく、社会や時代との関わりを極力さけるような生き方は、小野のように後から時代に糾弾されることはないかもしれないが、逆に称賛されることもないだろう。小野の師匠であるモリさんのように夕暮れ迫る女郎宿に一時漂う“美”の瞬間を味わうこともなければ、次女節子の破談に自己責任を感じ火消しに奔走する老画家に、小津の映画に繰返し登場する笠智衆の姿を重ねることもないだろう。まして、苦悩する老画家とカズオイシグロを比較することなど思いつきもしないだろう。 生きることとはまさにその時代に関わること。後で何と揶揄されようと今の時代に積極的に関わる勇気を持つことの大切さを、ドラマを見たり小説を読んだ若い層に、カズオイシグロが前述のインタビューの中で伝えようとしたのではないだろうか。それは本作を執筆当時、遠い異国の地において作家としての地位もまだまだ不安定だった頃、これから筆1本で生きていくことを決めた、一人の若い日本人作家としての覚悟でもあったはずなのである。 | ||||
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「日の名残り」を読んで感動し、次に「遠い山なみの光」を読み、カズオ・イシグロ・ワールドに魅了されての「浮世の画家」であったが、この作品は前に読んだ2作のような感動はなかった。時代に翻弄され、古い価値観や信念から、新しい時代にすんなりと適応できない葛藤は良いのだが、日本が舞台だけにリアリティに欠け、しらけてしまったことが大きい。 | ||||
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この人の小説をいくつか読んで、おもしろい小説を書く人という印象を持っていましたが、この本もそのとおりのおもしろい小説です。 読み終わっても結局何が本当なのかわからないお話で、謎解きとか種明かしはないのですが、それで別にイライラしたりしないのは、それだけうまく書かれたお話だということでしょう。 考えてみれば実際の人生でも、他人の考えなど本当のところはわからないし、他人が口にしたことでも、その意図まではわからないし、そもそも他人の言ったことを細かく憶えているわけでもありません。 それどころか、自分が考えたことさえ、後になって都合よく修正していると自分で思うこともあるし、それさえ思わずに無意識に都合よく憶えているだけかもしれません。 広い意味での戦争責任を扱った小説でもあるのですが、それがあまり印象に残らないのは、主人公がいろいろ思っているだけであまり深刻なものではなさそうなことと、それも含めて曖昧な人生そのものがテーマであるからだと思います。 翻訳がすごくいいので、まるで日本語で書かれた小説みたいと思いましたが、訳者(飛田茂雄)の後書きや、金子靖による文庫版のための解説を読むと、日本語で書かれたと思うのも無理がないと納得しました。 | ||||
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希望に溢れた明るいラストの場面は、てっきりアイロニーだと思ったのですが、 訳者の方のあとがきを見ると、全くの誤読だったようです。 1948年から50年までといえば、連合軍による占領期。 なのに占領軍の影が全くない。 敗戦後の表情はただの堕落にすぎない、とは坂口安吾の言葉、 そんな「堕落」の世相も反映されません。 もちろん、戦後日本の姿を描くことが作者の目的ではなく、 単なる舞台装置にすぎないわけですが。 「浮世の画家」は、小津安二郎の「晩春」を下絵にしたのでしょう。 その根拠は、原「節子」の役名が「紀子」、画家の二人の娘の名前ですね。 ただ、両者は決定的に違う。 娘を送り出した「晩春」の父親は孤独な喪失感にうなだれるのに、 「画家」の父親は、自己検証の末の、自己肯定のハッピーな気分で余生を踏み出します。 戦後、今日に至るまでのこの国の(未だに占領状態から抜け出せない)現状を思うと、 このラストが辛辣なアイロニーにしか思えなかったのです。 物語の進め方の巧みなこの作品が、戦勝国の英国で文学的に評価されるのはいいとして、 日本人として、小説の面白さとは別の次元で、 にがーい読後感を味わったのは私だけでしょうか。 | ||||
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きっかけは先日放送された渡辺謙主演のNHKドラマだった。 最初と最後以外はよく見ていなかったので、喉に引っかかった異物の正体を確かめたくて翻訳物を読んだ。 NHKドラマで醸し出されていた雰囲気は原作に近いと感じた。 娘たちの異様にソフィスティケートされた言葉使いに恐怖を覚えたが、自分がそんな物言いに出会ったら飛び蹴りを喰らわしたかもしれない。 ついでに孫の一郎の言動にも何度か拳骨を握った。 「核心を迂回して、迂回した物を描き出そうとしている」といった解説がなされていた気がするが、あまり成功しているとは思えなかった。 中で議論されている芸術や世相に対する議論も、あまりに未熟で説得力がなかった。 喉の異物は気のせいだったようだ。 彼の他の作品は、映画で「日の名残り」と「私を離さないで」を見ただけだが、その2つはよく出来ていると思っただけに、原作は違うのだろうかと心配になった。 | ||||
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この著者についての何の情報もなければ、日本人作家の作品と思うでしょう。それくらいあの当時の日本の状況を良く知っている。日本人(人間?と広義にできれば良いのですが)の弱さを巧みな筆致で記述している優れた、おもしろい作品、と思いつつ、あっという間に、読み終えました。物語は1人称(わたし、小野:画家の目線)で記述されており、3人称のように、天空から見下ろしている神の視座でないのが効果を発揮している。 物語の細部の描き方は、かなり大雑把で、日本人の作家さんとはかなり感性が違う。日本の作家は、いったん物語に登場させた人物はそれなりの役目を果たさせ、きれいに始末するが、この作家は、「そんなことまで俺が責任持つ必要あるの」、とでも言うように適当に(日常の景色と同様に)舞台から消えさせる。主人公の娘、長女節子などの心情、二女、紀子の見合い相手の斉藤家の思いをかなり思わせぶりに書いたり、・・・・実はそれほどのこともないのだが・・・・日本の作家とは記述の内的基準が異なることが面白い。 主人公の孫の一郎君の記述も必要以上で、しかも彼の拙いセリフ内容が思わせぶり(ほとんど意味を持っていない)。 同様の意味で、登場人物全員の記述が、かなりいい加減。ただ、それが、自然なのかもしれません。日常ってそんなものですから。 | ||||
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1986年、日系英国人作家カズオ・イシグロ氏の作品です。 原題「An Artist of the Floating World」、ウィットブレッド賞受賞。 ハヤカワ文庫版は、従来の飛田茂雄氏の訳に、金子靖氏の校正・校閲を加えたもので2006年刊。 戦後間もないころの日本。 画家を引退した小野益次は、娘・紀子の縁談が破談になってしまったことに、 自分の過去が関係していると気づく。 小野は、過去の歩みを顧み、師匠・弟子といったその時その時の周囲の人にも思いを馳せる。 作品としては、『日の名残り』や『わたしを離さないで』の方が上なのかもしれない。 けど、個人的には、最も頭に浮かぶことが多いのは、本作『浮世の画家』です。 単純に、舞台が日本だから、というのもあると思いますが、 今の日本だからこそ、頭に浮かぶことが多くなっているとも感じます。 雑誌を立ち読みして、「今の日本人は戦前の日本人に云々なんて書かれていると、 自ずと本作が頭に浮かびます。 戦前・戦中・戦後という価値観の揺らいでいく中で、 一人一人の振る舞いが変わってくるのが面白い。 主人公・小野の回想には、自己正当化、自己欺瞞がある。 一通り読み終えて、また最初に戻ってピラピラ読んでいくと、 自己欺瞞が次々と展開されているのが、手に取るようによく分かる。 あることを回想している最中に、別の回想へ移っていくところなんか絶妙としか言いようがない。 「大きな環境の変化の中での自己の曖昧さ」について考えさせられる。 「大きく環境が変化するとき = 環境が自分の中に侵入してくるとき」と言えると思う。 そういう時に、環境に順応していくのか、反発するのか、逃避するのか。 大きな自己欺瞞を伴っていないか、自意識が過剰に肥大化していないだろうか、 自意識が過剰に閉じこもっていないか、などなど考えてしまいます。 そういった諸々を内包しながら続いていく関係や、戦後という分断についても。 核心に触れず周囲を描くようなスタイルで、後を引きます。 で、その後を引きずった状態で周囲のリアルと接していくと、 色々見えてくるものがあったり、見えてないスペースもより広く認識できてくると思います。 個人的には、現時点までのイシグロ作品の中で、最も気になる作品です。 数年経つと、また読み返したくなるタイプ。 | ||||
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お正月、偶然ですが、今年の3月にNHKで放送されるという「浮世の画家」("An Artist Of The Floating World")の原作を読みました。作者は、言うまでもなくカズオ・イシグロです。 背景は、カズオ・イシグロが自分の思い出を反映させた戦中、戦後の日本ということなのでしょうが、それは<日本>のようでいて、<日本>ではない、パラレル・ワールドとしてのもう一つの<日本>のようなイメージが受け取れます。解説にも少し言及されていますが、特に前半の主人公の小野とその二人の娘とのやり取り、所作には、まるで小津安二郎の「晩春」を見ているような、英国人が好む日本、ローアングル・キャメラの視点がしっかりと確保されている文章のきらめきがあるような気がします。そして、その時代を生きていないにも関わらず、何故か大きなお屋敷の縁側にさす陽光のような懐かしい暖かさに包まれます。 物語の詳細を語ることはできませんが、映画化された「わたしを離さないで」があまりにも物語の深みに欠けていたことから、今回のテレビ化はどうなのだろうという危惧と興味が生まれています。とは言え、私はテレビを見る習慣がないので、確認ができません(笑) 一人の芸術家が一つの戦争を乗り切り、芸術家としての深い苦悩の中での己が矜持と一人の娘たちの幸せを祈る生活者としての心の葛藤を描き、さりとて信念に従って力を尽くして行動した男の静かな自尊心と諦観をも垣間見せた、優れた小説なのだと思いました。この作品が、より深みを増して、あの「日の名残り("The remains of the day")」へとつながっていきますね。 主人公に対して、孫の一郎がこう言います。 「ママがおさけをのませてくれなかったこと、しんぱいしなくていいからね」 「おまえは急に大きくなったな」と、わたしはまた笑いながら言った。 かつてこの国にもいたような子供たち、そしてもしかするといなくなってしまった子供たちと大人たちへの憧憬、失われた心もまた胸を震わせます。 昨年、この小説を読むようある人が原本を渡してくれましたが、飛田茂雄さんによる翻訳を読んでしまいました。お許しを(笑)。とても読みやすい綺麗な日本語でした。 | ||||
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”わたし”の語りが面白くて、すらすらと読んでしまうけど、すらすらと読んでしまう割には、語りが横道に飛びすぎ、脱線する機会が多々あって、読者としては多少なりとも面食らう。次女紀子の縁談がうまくいっているのかいないのか、読者としては心配になってくるけど、次のシーンでは、もうすでに結婚している!っていう塩梅、こういう箇所が何度も出てくる。 ま、いいか。ブッカー賞候補作品、で、ウイットブレッド賞受賞作品だから!っていうことで、納得した英国読者もいることだし。 戦争中の国の方針べったりの絵を描いていたことに後ろめたさを感じているなら、そのようにはっきりといえばいいのに、言わないんだな、この”わたし”は。作者も書かないんだな…その理由を… ま、いずれにせよ、ノーベル文学賞作家の初期作品!っていうこと、さらにはこの2019年にTVドラマ化される!っていう話題性からも興味を持って読んでみる価値はある作品かもしれない。 | ||||
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『日の名残り』と似ている。主人公である「わたし」は、年老いた男で、現在の状況と昔の思い出とを語っていく。その語りには、自己の正当化と記憶の美化が含まれており、主人公を“信用できない語り手”にしている。 正当化と美化の程度が、『日の名残り』よりもはっきりしていて分かりやすい。しかし、ストーリーという点では『日の名残り』の方が、芯が通っていて読後にすっきりする。『浮世の画家』の方が、最後までモヤモヤが続いて、ストーリーが収束しない。 なお、表紙に浮世絵が描かれているので誤解を招くと思うのだが、主人公は画家であっても、浮世絵師ではない。 | ||||
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到着がやや遅かったけど◎です。 本の中の街並みが、日本的な印象はないし、表紙のイメージが内容と合わない。 | ||||
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何故、この本がノーベル文学賞を受賞したのか?その価値の重さが私には理解できかねています。 | ||||
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主人公像の参考はレオナール藤田かな?パリサロンでの浮世絵的手法や戦争画のアッツ島玉砕。 主人公と孫との会話は執拗に芝居がかっている。なぜ?後半に来てああ、小津監督へのオマージュかと気付く。浮草、浮世の画家、浮世の自分はどうなのか?、、考えさせられますね。 | ||||
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意外と読みやすかった。最初から日本語で書いてあるみたいに読めた。 婉曲な表現の中から、垣間見得てくるものがある。 蒸留されたような内容なので、戦争の重苦しさは感じられない。 | ||||
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戦前の、古きよき時代の価値観を、高名な画家たちが、名声や、社会的立場を、「戦争協力者」という、時代の波に飲まれて変化して行く姿を、象徴的に描く。カズオ イシグロの初期作品のテーマ、「近代化の変化に、人は如何に、翻弄され、価値観を変化させて行くか。」 戦前の日本社会は。成熟した文化を育んでいた、人々はこの価値観の中で、疑問も持たず生活をしている。戦争という大きな社会通念の転換期、民主主義の下、かつての権威、封建主義、家長制度と言うものが大きく揺らぐ。 主人公は、かつて高名な画家であり、地域社会のなかで、行政おも動かせる力があった。しかし、戦争協力者の汚名を着る。娘の結婚話にこれは、大きな負債であった。時代が進むにつれ、彼の汚名は次第に、忘れられてゆく。 | ||||
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ほかの方々が仰っているように小津安二郎の映画をほうふつとさせる雰囲気もありますが、内容からも、一人称の語りという作りからも、私は高橋和巳の「悲の器」を思い出してしまいました。 信念や価値観を偉そうに語り、現実に偉くもなってご満悦のとんちんかん親父をこのように描き出す作家の視点というか視座は、とても興味深いものがあります。 この作品や「日の名残り」を読むにつけ、どんな人たちがこの人のノーベル賞受賞を決めたのかという点もちょっと好奇心を刺激するかな?^^ | ||||
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