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浮世の画家
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浮世の画家の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.98pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全14件 1~14 1/1ページ
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戦争に加担した絵描きとその家族の有様を丹念に描写しているが、未だに戦争犯罪さえ明確にならない敗戦国日本を「浮世の国」と揶揄しているとしたら、興味深いところであるが・・・。物語そのものは心理描写が主で、劇的な動きはなく、小津安二郎の映画を観たのと同じ様に退屈してしまったのです。 | ||||
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「日の名残り」を読んで感動し、次に「遠い山なみの光」を読み、カズオ・イシグロ・ワールドに魅了されての「浮世の画家」であったが、この作品は前に読んだ2作のような感動はなかった。時代に翻弄され、古い価値観や信念から、新しい時代にすんなりと適応できない葛藤は良いのだが、日本が舞台だけにリアリティに欠け、しらけてしまったことが大きい。 | ||||
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希望に溢れた明るいラストの場面は、てっきりアイロニーだと思ったのですが、 訳者の方のあとがきを見ると、全くの誤読だったようです。 1948年から50年までといえば、連合軍による占領期。 なのに占領軍の影が全くない。 敗戦後の表情はただの堕落にすぎない、とは坂口安吾の言葉、 そんな「堕落」の世相も反映されません。 もちろん、戦後日本の姿を描くことが作者の目的ではなく、 単なる舞台装置にすぎないわけですが。 「浮世の画家」は、小津安二郎の「晩春」を下絵にしたのでしょう。 その根拠は、原「節子」の役名が「紀子」、画家の二人の娘の名前ですね。 ただ、両者は決定的に違う。 娘を送り出した「晩春」の父親は孤独な喪失感にうなだれるのに、 「画家」の父親は、自己検証の末の、自己肯定のハッピーな気分で余生を踏み出します。 戦後、今日に至るまでのこの国の(未だに占領状態から抜け出せない)現状を思うと、 このラストが辛辣なアイロニーにしか思えなかったのです。 物語の進め方の巧みなこの作品が、戦勝国の英国で文学的に評価されるのはいいとして、 日本人として、小説の面白さとは別の次元で、 にがーい読後感を味わったのは私だけでしょうか。 | ||||
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『日の名残り』と似ている。主人公である「わたし」は、年老いた男で、現在の状況と昔の思い出とを語っていく。その語りには、自己の正当化と記憶の美化が含まれており、主人公を“信用できない語り手”にしている。 正当化と美化の程度が、『日の名残り』よりもはっきりしていて分かりやすい。しかし、ストーリーという点では『日の名残り』の方が、芯が通っていて読後にすっきりする。『浮世の画家』の方が、最後までモヤモヤが続いて、ストーリーが収束しない。 なお、表紙に浮世絵が描かれているので誤解を招くと思うのだが、主人公は画家であっても、浮世絵師ではない。 | ||||
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何故、この本がノーベル文学賞を受賞したのか?その価値の重さが私には理解できかねています。 | ||||
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イシグロ氏の小説は「遠い山並みの光」と「浮き世の画家」を読んだが、読後感は感動とか、面白かったとか、逆につまらなかったとか、悲しかったとか、そういうのとは全然違うのである。しっくりこないのだ。しっくりこないから、なぜなのか考える。そうして作者の技巧が見えてくる。 つまり、作者はわざとしっくりこないように書いていて、私はまんまと作者の意図にはまってしまったというわけなのだ。 どうしてしっくりこないのか、それは小説の語り手があてにならないからなのだ。 そしてそれは正しい。語り手は人間なのだから、しかもかなり年輩なのだから。当然、記憶は曖昧になるし、過去の自分とちゃんと向き合うだけの気力も体力もなくなりつつある。そういった状況はリアルであり、誰にでもあてはまる。こういうことを作者は見事なまでに巧みに描いている。小説の語り手は、出だしから何度も自分の語りの不明瞭さを告白する。また、過去に自分の行った行為や言動を弁解したり冷静に分析したりするが、そこにはごまかしや欺瞞、言い訳、開き直りなどが見え隠れしている。それが絶妙な塩梅なのだ。 語り手の老画家は若者に対しても世の中に対しても、過去の自分の行いやそれが戦後に批判されたことなどに対しても、妙なほどに物わかりが良い。果たしてこの語り手は、本心を語っているのだろうか? こうした疑念や不安を読者に与えることの作者の意図は何か? 人間のこういう部分というか傾向を、私ははじめて深く考えて、恐く、悲しいと思った。こうして私は、イシグロ氏がまるで顕微鏡でのぞくかのように人間の心理をとらえようとしていることに、驚嘆させられることになった。 この小説は決して楽しいわけでも、感動的なわけでもない。むしろ恐く、悲しい話である。 | ||||
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ノーベル賞作家の名前にひかれたが、内容的にはあまり面白いと思わなかった。 | ||||
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戦後の日本を舞台に、主人公の画家である、小野さんが過去の自分と対峙し、間違いを認めた上で受容し、訣別する・・・。自分にはどうも読み進めるのがつらかった一冊です。 まず、作者はこの物語を日本語で書きたかったのではないかと言う感が拭い去れません。色々と、自身の僅かな日本の記憶や好きな日本映画を頼りに、苦心してこの時代の日本を描写しているように思えるのですが、一種のぎこちなさは否めないと言うのが正直なところです。 そして、作品のテーマも一読しただけでは掴みづらいと言うか、真に迫ったものとして伝わっては来ませんでした。画家の小野さんの抱える悩みが切実な物とは感じられないし、作者がこのテーマを選んだ理由もどうも判然としないままと言う印象が残ります。 これだったら、この時代に生きていた日本の作家が戦後の日本を書いたものの方が満足度も共感度も高いので、敢えて日本人は読む必要はないのではとまで思ってしまいました。 | ||||
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「日の名残り」に、魅了され、次に手にした。読み進めるのに大変苦労して、われながら驚いた。 英国が舞台の小説で英国人が英語をしゃべっている場面を翻訳日本語で読む時全く気にならな かったことが、日本が舞台のこれを読む時にはどうしてこうなってしまうのだろう。どこかしらで ひっかかり、そうしようと思わなくても頭の中で作業が勝手に始まってしまう感じだった。すな わち、この日本語訳からすると、もとの英語表現はこうだろう、英語でこう言っているからには さらにそのもと(?)は日本人としてはこう言ったのだろう、A→ A’→A”・・・というような類推 作業。たとえば「おまえの言っている意味がわからない」とか。 と言って、これをはじめから日本語で書かれた小説にみえるように訳してしまっては、つまり全 く違和感をなくしてしまっては、意味が無いのだろうと思う。 英語で読むのがよいのではないか。訳文がよくないとかそういうことを言っているのではない。 | ||||
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戦時中は、戦争を礼賛し、日本精神を鼓舞する作風で広く知られていましたが、 戦後は世間から身を隠すように暮らしている元画家小野氏の物語です。 小野氏の独白という形で物語は進行します。 剪定した庭木を、自分はよくできたつもりが、 娘から見ると不恰好なものでしかないというエピソードに触れたあたりから 主人公の独善的で自己を正当化する態度が、 独白の裏に隠れているような気がしました。 少し老いも混ざっているように感じられました。 しかし、次女の縁談が結婚寸前で破談になってしまった理由が、 もしかしたら自分の過去に問題があるのではないのだろうかと考えはじめたとき、 自己呵責が始まります。 (何が問題であったのかは、はっきり明かされません。) さらに、やっと整った次女のお見合いの席で、 「戦時中の自分の行為に対しては責任を感じている」と明言し、 新しいものの考え方にも理解を示します。 作者は、小野氏の独善を暴きながらも、 自己呵責、その克服に暖かい視線を注ぎます。 後悔の念にさいなまれて自殺する人たちに理解を示しながら、 一方で、自己正当化しなければ生きていけない人間に対する深い哀感を表現します。 ただ、エピソード、過去の回想シーンなどを点在させる仕掛けが、少々うるさく、 読者の想像にゆだねられている部分も、何かすっきりしないような気もいたしました。 自身の独解力不足も否めませんが。 | ||||
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最初、浮世絵作家の話かと思って読み出した。 そうではなくて、、浮き世に流されて暮らしている画家、、というような意味らしい。 戦争中は、戦争を礼賛するような絵を描いて大家と言われるようになり、 戦後はその過去のため、やや世から身を隠すようにくらしている、画家 小野。 次女の縁談が決まらないのも、自分のせいかなあ、、と思ってみたり、 いろいろと頭の中も迷走してしまう、、。 こういうときに、いつも思うのは、世に逆らって自分の信念を貫いた人は、 大変に素晴らしいと思うけれど、それができた人はどのくらいいるのだろうか。 大部分が、まさに、浮き世で、時代に流されて生きているのではないだろうか。 影響力が大きかったから、、、といって、流れに、本当に逆らう事ができただろうか? 逆らわなかったからといって、責める事ができるのだろうか? そして、、 逆らえなかった事、逆らわなかった事と、どのように向き合って生きていくか、 自分の傷をどう覆っていくか、、が、贖罪ではないだろうか。 自死する事ではなくて、、。 初期の作品だけあって、少し話しがもたつくのが気になる。 | ||||
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何とも不可思議な気分にさせられる作品。 もし、これが、ロバート・ウィリアムズという生粋の英国人で、日本の文化と歴史に造詣の深い作家だったとしたら…? その人物はこういう作品を書くだろうか? これを書いたのが「英国籍の作家」であり、今ここで私の読む言葉は「翻訳された日本語」なのだということが、ストーリー以前にとてもフシギだ。 イシグロの他の作品にはあまり感じない種類のものだ。 テーマは「文化人の戦争犯罪」とでも言おうか。軍人、政治家のように実権こそ持っていなかったけれど、国威発揚の軍国主義に与するような作品を造り出した人々のことだ。実際にレオ・フジタなどはそれを行い、結果として後に日本を脱出することになる。 本書の主人公は、自分の行為を素直に認めながら、同時にその内容を肯定している。しょせん自分は「浮世の画家」にしか過ぎない。それ以上でも以下でもないのだ、というある種の理念をもって。 | ||||
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カズオ・イシグロの物語に出てくるのは、何かしら傷を抱えた人たち。「時代のせい」と言い切ることもできるのに、そうはしない。過去を振り返り、見つめた上で、その傷を受け入れて生きていくことを決意した人たち。この作品にも、例によりそんな画家が出てくる。 初期の作品(らしい)ゆえ、最近の作に比べると、その「傷」が何だったのか明かされていく過程がそこまでドラマティックではないけれども、抑えめの文体が、非常に心地よかった。 | ||||
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~様々な面で評価、批評することが出来る作品ですが、今回は時系列の配列に特に注意を払って、ストーリーテラーを信頼できるか、ということを考えました. 主人公である私の過去への遡行と現在の事件と、割と最近(数日前だったり、数年前だったり)といった事件が錯綜して語られます.そして、それぞれの区分がきわめて不明瞭(そういうテクニックで描いて~~います)なので、読み手は『いつの話なのか』ということに注意を払って読む必要があるかもしれません. 自分について起こったこと、あるいは考えたことであっても自分が最もよい解釈者であるとは言えません.例えば都合の良いように解釈したり、悪いことを忘れようと努めたりするからです. たとえば本作の主人公は名のある画家でありながら戦争犯罪者~~的に祖国の戦争意識を高める作品を描いたと過去を持っています.そして、冷静にそれと対峙するという姿勢を言明しながらそれから逃避しようとしているので、私たち読者には額面通りにかれの言説を受容することはあらかじめ拒まれています. また、もう一つ例を挙げれば、主人公は功名心や名誉、名声と言ったものに自分は興味を持たないと再三繰り返してい~~ますが、その話題を繰り返し登場させ、自らの傷跡を慰撫するような姿勢も見せています. 読者は主人公の老齢についても意識を払う必要性があります.既に老年に入った彼の語りがどこまで信用できるのか、そのことを念頭において読んでみると、物語を語るということのグロテスクさが全景に現れます.後半に決定打が打たれますが、そこは読んだ時のお楽しみ~~にしてください.記憶とは、いったい何でしょう.人間は語ることにおいて大変エゴセントリックであるといえるかもしれません。~ | ||||
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