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遠い山なみの光
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遠い山なみの光の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全85件 21~40 2/5ページ
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| 朝鮮戦争が起きた1950年頃の長崎。語り手である悦子が佐知子と出会った数週間の話を核とする本作は戦前から続く価値観と、復興から発展の段階へと移りつつある戦後の風潮との衝突がとても静かに描かれる。 ①長崎に引っ越してきた佐知子においては、それが、以前の裕福な暮らしぶりから一変して、ぼろ家での娘との貧しい生活を送ってまで追い求めた新天地への渇望となり、他方で②佐知子に比べて非常に安定した暮らしを送れている悦子においては、それが、養父と夫あるいは夫の友人との間でちくちくと繰り広げられる確かな軋轢と、その狭間に立つ一人の女性として後景に追いやられる姿となってその意味を密かに、しかし深く問うものとなる。 もっともカズオイシグロさんの作風らしく、動の佐知子と静の悦子という物語上の対比もそれほど激しく書かれることはなくて、不安定な生活を送る佐知子のことを観察する悦子の内心も、思っていた以上に記されない。「私はこう思う」という述懐が少ない分、全体的にのっぺりとした小説だと感じてしまうのは否定できない。 けれど、そこに現在の悦子がイギリス人の夫と再婚して渡英、二人の娘をそこで育てていたというファクトを重ねると本作の印象は大きく変わる。 というのも、その生活ぶりこそ、長崎時代に出会った佐知子が追い求めて止まなかった未来そのものだったから。まるで悦子が佐知子になり変わって彼女の夢を叶えたように思えてくるこの偶然は、佐知子の娘である万里子と悦子との間におけるやり取りの描写を横目に追うと、さらなる変貌を遂げる。 作中、悦子は不自然なくらい万里子と二人っきりで会話する。勿論、なぜそういうシチュエーションになったか?という合理的な説明は地の文の方できちんと行われはするし、その内容のとりとめなさや飛躍の仕方も、子供との会話という前提で追えば非常に納得できるものである。 しかしながらただ一点、何度読んでも解消できない部分があって、それが悦子の足元に絡まった古い縄。なんでそんな物を持ってるの?と悦子に尋ねる万里子の恐怖。物語の後半で唐突に再現されるこのやり取りをフックにして全体を俯瞰すると、本作の内容が全て悦子のフィクション。記憶の混濁による象徴的な述懐の積み重ねなのではないか?という疑問が唐突に湧き起こる。 実は悦子=佐知子で、「万里子」は自殺を遂げてしまった前夫の間に生まれた悦子の長女、景子自身で、彼女のことを救えなかった自分自身を責める気持ちと、悦子自身の幸せを信じて行なった選択をどうしても後悔できない気持ちとのせめぎ合いがあって…と止めどなく続く連想が『遠い山なみの光』というタイトルの響きと呼応し、どんどん膨れ上がっていく。 本作の実写化にあたって悦子を広瀬すずさんが、佐知子を二階堂ふみさんが演じられるということだが、これ以上ないってくらいのキャスティングだと思う。真っ直ぐに正道を進むような広瀬さんの眼差し、燃える野心を燻らせるような苛立ちを原動力に変えて生きるような二階堂さんのギラつきないし力強さは、作中の現在パートの悦子=吉田羊さんの苦悩の現れと解釈すれば、映画『遠い山なみの光』は、実力派の俳優三人が時代を超えて共鳴する傑作としてその名を映画史に刻むことになるのは間違いない。 なので、映画の鑑賞を予定されている方には先ず小説を読むことをお勧めしたい。小説世界に流れる不穏さを知って観るとのそうでないのとでは終演後の感想が大きく変わるはず。是非。 | ||||
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| カンヌ映画祭の話題を見て読んでみようと思いKindleで読みました。 そう長い小説ではないので一気に読むことができました。 戦後の長崎の様子が伝わりましたが、イギリスの情景はあまり伝わってこなかったように感じました。 | ||||
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| 悦子はいわゆる「信頼できない語り手」です。 佐知子のエゴとその犠牲者の万里子、それを心配し万里子を哀れに思っていたという自身を語ることで、実は悦子自身のエゴ、そしてそのエゴによって最終的には孤独の中自殺をした景子との関係についてアリバイを語っているのだと思いました。ニキの母親に対する思いやりも表面的というかおそらく儀礼的・社交的線上で、母親との精神的な隔たりなのか、あるいはそもそも1920年代ごろの生まれの日本人で原爆を体験した悦子と60年代生まれでイギリス人として育ったニキとの根本的な相違を感じました。私もヨーロッパに住む国際結婚で子供を持つ日本人なので、言葉では言い表し難いですが、文化の違いからの感性の違いなのか。感性と親子の愛情は別物ですからニキが母親に愛情がないということではなく。 しかし、その悦子のエゴも、戦争、長崎の原爆、一瞬にして変わってしまったパラダイムのなかで必死に生き抜こうとした人間のエゴだとしたら、哀れというのが適切なのかもしれない。 | ||||
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| 戦後まもない荒廃した風景とその時々の生活者の思いが丁寧に描かれた素敵な作品だった。 | ||||
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| 映画化されたと聞いて購入。 最高の「あとがき」が記載されていた。 読解の助けになったが自分の読み込みが甘いと再認識させられた。 フェミニズム文脈で語ることが可能だが、村上春樹の「ノルウェイの森」よりも前に書かれた作品であることに驚く。 日本は昭和時代は文化的後進国だったといえる。 山と川と港は強く長崎を想起させる。 | ||||
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| デビューの翌年に発表された長編らしいが、巧みな対話を通じて心の動きを表現し人物像を造形してゆくというイシグロの特長が早くも表れている。この小説は複数のテーマが含まれており、短期間で価値観が変動した世界での人間の評価という後に「浮世の画家」の中心テーマとなるものもその一つだ。 登場人物はそれぞれに価値の変動の前後で生き方に苦労しており、戦後零落してしまった佐知子もその一人だ。彼女は現在の自分が受け入れられず、絶えずどこか別の世界を必死に探し求め、外国に旅立とうとしている。彼女の支配下にいる子供の万里子はその被害者だ。佐知子は最後に狂気の世界に近づいてゆく。 悦子が主人公としてこの小説の語り手になっている。彼女は佐知子と違い常識人で常に佐知子を常識の世界に戻そうとしている。しかし、後に彼女は子供を連れて日本を出てしまうのだ。女の子の幻影に取りつかれており、最後にそれが万里子の姿をとった自殺した娘の景子だということに気づく。 解説には佐知子=悦子としているが、それは違うと思う。佐知子はあちら側の世界に行きかけていたが、悦子は常にこちら側にいるからだ。彼女は狂ったような佐知子の姿に自分を見つけてしまっただけだ。自身のエゴと向き合ったのだ。 作者は日本映画の影響を受けているというが、確かに家族の中での対話や人間関係は古い日本映画を髣髴とさせる。この作品の評価は様々だと思うが、イシグロの世界にはまってしまった私にはとても面白かった。しかし、「浮世の画家」ほどではないということで☆4つにした。 | ||||
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| 義父の緒方さんと二郎とのパートはなんとなく小津安二郎の東京物語を思い出してしまった(カズオイシグロも小津映画は好きみたいなので、影響はあるのかな)。そして佐知子と万里子の部分は終始不気味で、不穏で、ホラー小説を読んでいるような気分に。 ラストでささやかに明かされる真相を、その言葉通りに捉えるなら、悦子と佐知子、景子と万里子は同一人物だということになり、この小説で語られる回想は英国に移住したある日本人の老婦人(名前が悦子なのか佐知子なのかは置いといて)による、過去に自分の犯した罪の正当化ないし逃避のためのものとして読める(もちろんそういう風に読むことで色々な矛盾点は出てくるし、それを解消するために矛盾点を全て悦子の妄想・でっちあげとしてしまうのも雑な気がするが)。 まあ真相がどうであれ、悦子と景子、佐知子と万里子という二つの母娘関係がオーバーラップしていることだけは確かだ。英国移住後の景子の抱えていた問題とその自死に対して、悦子自身が果たしていたであろう役割は大きいはずなのに、悦子はそこの部分には触れようとしない。これは回想シーンの中で佐知子が万里子に対して酷いことをしているにも関わらずその自覚がないことと重なる。 ともあれ読者はこの小説の唯一の語り手である悦子(英国に移住した日本人老婦人)の語ることしか物語の内容を知ることができないわけだし、これ以上推理してみても仕様がないのであろう。 | ||||
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| 主人公は悦子の視点で描かれてはいる。が、どうも佐知子は、悦子のようだ。 佐知子の娘の万里子は、当時悦子のお腹にいて、将来自殺してしまう景子なのだ。 悦子の近所に住む佐知子は非常に自己中心的な性格で、なんか嫌な女だと思いながら読んでいた。 反面、佐知子より10歳くらい若い悦子は、古風な日本女性の佇まいで好感が持てる。 それが、ラスト近くで、佐知子は、何年後かの悦子であることが仄めかされ、 本当の悦子は、実は佐知子のような性格で、これは、自分の過去に対して、 もう1人の自分が、反省を促していると言うことなのか。 特に、子育てに関して、反省しているような気がする。 混乱の戦後の中で、子供の敏感な心を蔑ろにして、大人の都合で翻弄してしまった反省。 万里子の純粋な思いを、佐知子は軽視していた気がするから。 あえて伏線回収ということもなく、諸々の詳細は明かされることなく、終わる。 | ||||
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| 一気に読みました。完全に理解できていないので、しばらくして再度読み返します。戦後の日本の話ですが、英語から日本語への翻訳なので、不思議な言葉使いです。 | ||||
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| 舞台は敗戦後の長崎。 古典的な日本女性の代表の様な優等生的の主人公。 妙にとがった、先鋭的で自立心の強い謎の隣人女性。 対象的な2人に、読者はかすかかな不穏さと違和感を覚える。 だがそれは漠然としていて、深海の底に静かに潜んでいる。 ラストの章で静かに明かされる事。 それはあまりにさりげなく描写されているので気付くのに、一拍遅れるのだ。 だが、その衝撃はじわじわと読者の中に広がっていく。 男性優位社会で、戦後の女性達が何者かになろうともがく。 それは静かに確実にそこにあり、一気に臨界点を超える爆弾なのかもしれない。 元は「女達の遠い夏」を「遠い山なみの光」に改題している。 女達にとって、光はまだ遠いのか。 掴める光なのか。 Audibleで聞いたが、朗読者が素晴らしい事を追記しておきたい。 特に、さりげなく「明かされる事」の表現が秀逸だ。 | ||||
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| カズオ・イシグロ氏の作品、私はこれで二作目です。 私は前回『私を離さないで』を読み、そのディストピア的雰囲気と他人の為に命を供することを運命づける命、という存在に、意識のある家畜などを想起しました。まあとにかく、その設定に魂消た。 そして今回の作品も実は原作は40年前となかなか古め、そして不穏さがプンプン漂う中、釈然としない終了。模範解答が示されない! 友人知人に解釈を聞いて尋ねたくなるような展開でした。 【不穏①自殺した娘、景子】 本作は長崎時代の悦子と老年(50代後半)の悦子の状況が、行き来しつつ展開します。 冒頭では英国に渡り再婚した悦子から始まります。どうやら日本から連れてきた長女景子は自殺してしまった模様。他方英国に来てからの再婚後の子である次女ニキ。彼女と母の母娘の関係はもとよりニキと景子の姉妹関係もどうもしっくりいっていなかった様子。 こうした中、一体どうして景子が自死を選んだのかは明かされませんでした。英国が合わなかったのか、母との関係が良くなかったのか、或いは日本人の父親との間に何かあったのか等々、個人的には色々勘繰りました。一体どうして? 【不穏②再婚の経緯】 語り手である悦子が英国にて再婚したことは状況から分かります。でも、経緯については一切語られません。今現在、英国人の夫も亡くなり、その資産を受け継ぎ田舎に引っ込んでいるという事だけが分かります。 来し方を振り返り、戦後の結婚当初の日本人夫そして義父については振り返りますが、この英国人の夫については詳細が分かりません。こちらはどのような背景があったのかは全く分かりません。一体何があった? 【不穏③佐知子と万里子親子はいったい】 アメリカ人の情婦と思しき佐知子とその子である万里子(純ジャパ?)。 悦子が景子を亡くし、その後かつての長崎を想起する際、この母娘を思い出します。この佐知子・万里子親子は、没落貴族?のような風であり、プライドも高く、特に母は虚言癖の如く、米国人情婦のフランクとともに母子ともども米国へ移住すると何度となく悦子に告白(自慢?)します。 佐知子によるオオカミ少年的繰り返しの何度目かで、娘万里子が可愛がる猫がアメリカへは持っていけないと分かった万里子は、母親の反故にした点を佐知子にねちねち言ったところ、母親はとうとう猫を川に沈めて殺してしまった!?なんだこの母親!? 読者として、そんな病的な行為を後々振り返って考えると、実は英国での悦子というのは佐知子なのでは? そして英国で自殺した万里子とは景子のことでは?等と想像してしまいました。つまり佐知子は長崎でしった悦子(本物)を英国で思い出していた!?とか。 あるいは猫殺しやフランクへの執着から佐知子・万里子母娘の不仲が想定されましたが、実は景子とは佐知子から引き取った万里子のことで、悦子が英国へ連れて行ったのか等を想像しました。では長崎で孕んでいた悦子の子供はどうしたんだってことにもなりますが。 いずれにせよ、行間の広い、そして不穏な空気が美しく文語チックに描かれる様が美しい作品でした。 ・・・ ということでイシグロ作品二作目でした。 今回は翻訳が非常にすばらしかったのですが、原典でも(お値段安かったら)読んでみたいなあと思いました。 純文学好き、英国好き、長崎好き等々にはお勧めできる作品です。 | ||||
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| 敗戦後の長崎。原爆の暗い影とそこから立ち直ろうする街。長女の自殺や結婚の意思が不明な米国人の彼。そんな中でも力強く生き抜こうとする女性達の強い意思を感じました。 作者はほとんど英国で育ちながら古き良き時代の日本を感じさせる文章でした。 | ||||
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| イメージ通りの作品で、購入してよかったと思います。 | ||||
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| カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したときに読んだことがあったのは『わたしを離さないで』の1冊。読みかけが『忘れられた巨人』。 受賞を機会にこの『遠い山なみの光』を買った。処女長篇であること、カズオ・イシグロが生まれ5歳まで過ごした長崎が舞台になっていること、作品に原爆の影が落ちていること、日本人が主人公であること、そういうことに興味をもって読み始めた。 小説のほとんどが会話文で占められているのが1つの特徴だろう。 著者は多くは語らないし、登場人物もストーリーについて説明することはない。読者は文章の空白を想像力で補っていかなくてはならない。作品は読者の参加を要請する、読者は作品に参加する。それが文学というものなのであり、その参加する姿勢が本の読み方なのだと、いまさらながら思う。 | ||||
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| 〇 戦後の長崎が舞台で、登場人物はそこで何とか生き抜こうとする人たち、とりわけ二組の母娘(悦子と景子、佐知子と万里子)である。それぞれの登場人物の造形ははっきりしているが、人物描写は類型的でありきたり、会話は当たり前で面白くない、風景描写もストーリー展開も断片的だ。どうも味わいに欠ける文章だな、と少々物足りなく思いながら読み進んだ。 〇 ところが、最終章近くになってふたりの少女、万里子と景子が混同して描かれる箇所に出会った。読み違えたかと思ってページを戻って確認したがそうではない。印刷ミスかと思ったがそんなはずはない。そうかこれは作者の仕掛けなのかと気づいたら、何だか訳がわからなくなった。そうなるとそれまで個性的だと思っていた二人の母親、佐知子と悦子とが相似形に見えてきたりもする。性格は違ってもたしかにその運命はよく似ている。 〇 作者は何を言いたかったのだろう。確立された人物と見えてもふとしたきっかけでその輪郭は容易に溶け出し他の人との区別が曖昧になってしまうものなのだ、とでも言いたかったのだろうか。ともかくこうして、わたしは少々居心地の悪い思いを抱えたまま読了した。ということは、作者の術中にはまったということなのだろう。作者はどこかで「この作品では記憶の曖昧さを書こうとした」と語ったことがあるらしい。そんな表面的なことではなく、狙いはもう少し深かったような気がする。 | ||||
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| 久しぶりに感動した作品。面白い作品はいくつもあるが感動させられる作品はそうない。 自分の過去を悔いがないと思いつつもいろんなことからそう生きざるおえなかった昭和の時代を 生き抜いた悦子。自分の周りの人間が戦争で亡くなり人の世話にならざるおえない弱いその時代の女。 悦子は佐知子であり、万里子は・・・景子。子供が第一と言いながら、自分の人生を生きるために 子どもの気持ちが犠牲になる。佐知子と万里子は悦子の後悔が作り出した幻影なのか? 取り残されていく人間、進んでいく人間どちらも失うものがある。 これほど人生を考えさせらる作品にはなかなか会えない。 ただ日本での楽しかった思い出が悦子の胸に残っている。あの時は景子も幸せだった・・・ あの時は……。その後は?これが長編処女作だとは・・・ おそるべしノーベル文学賞受賞者。 | ||||
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| 状態も良く特に問題ありませんでした。 | ||||
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| 総じてリアルな描写がほとんど。だから、素直にそんな小説だと思って読んでいくと、終盤で「木からぶら下げられていた女の子の悲劇」とあって、その後に、万里子を追いかけた悦子の手には、何か(それ以前の描写から、縄が暗示される)が唐突に握りしめられている...とある。 ここで、現実感は根底から覆され、読者は「わたし」に信用が置けなくなり、これまでの「わたし」の語り全てが疑わしくなる(語り手が「わたし」だから)。 相対的にリアルさが勝っている(日本の私小説を思わせる淡々とした描写)だけに、悦子、ひいては作者さえ信用が置けない、という何とも言い難い、強烈な戸惑いと不信感とを覚えて読み終える。 ノーベル賞授与の理由の説明は、それであろう(だいぶ頑張ってひいき目に見た説明だ。それをきっかけにカズオ・イシグロを読み出したが、4冊目を読んでいる今は、作者の遊び心、つまり力量を強く感じる)。 ここで私が連想するのは、一つに、アガサ・クリスティーのスタイルズ荘の怪人事件』。 語り手が犯人であった。 次に、村上春樹の『カフカの海』。大きな謎が残された(ヨーロッパ文学の影響を受けている)。 彼は、ヨーロッパと日本の間に立つ、と見せているが、やはりヨーロッパの作家なのだなあ、と思う。 しかしながら、それは、現代、という一寸先の未来も予測が不可能な不安定な現代に生きる私(この文章を書いている「私」)自身の気持ちを代弁しており、そして、それは「私」にとどまらずに今現在のこの世界に住む全ての人々に共通の心情であることに気づかせてくれ、その意味で「私」はまさに世界につながっている、という実感を強く抱かせる。(あれっ、これってノーベル賞授与の理由と同じではないか?!ここでも話が回帰している!話が何度も振り出しに戻り解釈のし直しを繰り返して理解を深め足元を確かにしていく...このような思考法を取っているということ自体、我々は不確実な時代に生きている、ということを認めざるを得ない!) それにしても、読者を裏切らずに面白い話が書ける、という力量は抜群で、それだけでノーベル賞に値する作家だ。彼と同じ血を持つ日本人であることを誇りに思う。 たまたま図書館にあったので読み始めたが、久しぶりにアガサ・クリスティー100冊以来の読む楽しみを味わうワクワクした時間を過ごしている(8作品しかないのが残念!)。 | ||||
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| 現在では英国を代表する作家となったカズオ・イシグロが5歳になるまで過ごした長崎の記憶、そこに1950年代の小津や成瀬が撮った映画の要素を加え再構築された“ナガサキ”が舞台になっている。作家自身の薄れゆく故郷の“記憶”と、本作の語り部エツコがすり替えた“記憶”が、戦後のパラダイム変換を背景に微妙なシンクロをみせる小説である。 離縁後ケイコという娘を連れイギリスに渡り再婚したエツコが、日本でケイコを妊娠中知り合ったシングルマザーサチコとその娘マリコについての回想が核となって物語が展開する。実はこのケイコ、渡英後引きこもりの末首を吊って自殺しているのだが、その自殺や前夫二郎と離婚した原因について詳細は意図的に省略されており、サチコ及びマリコとエツコとの会話の中に隠されたある仕掛を発見することによって、はじめて真意が浮かびあがる非常にカズオ・イシグロらしい作品に仕上がっている。 多くの方が指摘するとおり、語り部であるエツコの回想の中で、エツコ→サチコ、ケイコ→マリコというエツコにとって都合のいい記憶にすり替えられているのだろう。原爆という生々しい記憶を刻む長崎を離れ、子供を連れイギリスに逃げるように渡ったエツコ。日本時代の暗い思い出を一時的に封印したものの、ケイコの自殺によってその封印が一部解け、エツコの中にサチコとマリコという架空の別人格を作り出したのではないか。その構造は、デヴィット・リンチが『マルホランド・ドライブ』や『インランド・エンパイヤ』でに見せた“死後の夢”によく似ている。 イシグロが参考にしたという小津作品の中に本小説と非常に似かよった雰囲気の映画がある。1957年に撮られた『東京暮色』。妻に逃げられ次女と二人暮らしの銀行員。夫のドメバイに耐えきれず子供を連れて実家に逃げてきた姉。男に逃げられ妊娠中絶後事故死してしまう妹。こんな救いのない物語のはずなのに、小津はまるでコメディのような演出を施して観客の違和感を煽っている。戦後いとも簡単に貞操を捨てるようになった女性の価値観変化に、小津安二郎が覚えたイメージをそのまま映像化したような異色作である。 くしくも『A Pale View of Hills』とタイトリングされたこの小説には、その価値観の変換にうまく対応できなかった女性たちの苦悩や自責の念が、記憶のすり替えという一種の狂気によって表現されているのではないか。映画『東京暮色』同様、離婚や自殺という具体的なトピックにはあえてボカシを入れ、何気ない会話における言い間違いや重複によって読者に隠された事実を妄想させる技法は映画的でさえある。純文学だと思って読んだらホラーだった、と感想を語った読者の気持ちもよくわかるのだ。 この小説の翻訳家の元にカズオ・イシグロから、登場人物の名前にある漢字を使用しないで欲しい、という事前のメッセージが届いたらしい。“幸”子と“真”理子だけはやめてくれ、という具体的な指示だったと思うのですが、皆さんはどう思います? | ||||
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