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死霊
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死霊の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全55件 1~20 1/3ページ
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第三巻では、存在の革命が描かれる。実際には無いものを創造していく。無限大となる精神の拡張。第二巻まで、意識=存在が示されたが、さらにその先の宇宙が描かれる。結末の津田安寿子の言葉には救いが込められ、暗示的である。著者は、4人兄弟が登場するカラマーゾフの兄弟に模して、神の存在、悪の存在に続く、存在自体の革命を描きたかったと感じられる。 | ||||
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第二巻では、三輪高志が、究極の革命を語り出す。そして、究極の秘密を打ち明ける夢魔との対決。意識=存在とする夢魔は、光あれといえば、光ありき、と宣言する。 | ||||
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我が国初の形而上学小説。存在しなかった、また、これからも存在しないものを虚体(無)と呼び、探究する主人公。無は決して捉えることはできない。そして、意識を意識しようとする意識。自同律の不快は、誤って同一化してしまう意識の誤り。西田幾多郎は、我が国初の哲学書の「善の研究」で、唯一存在するものは意識のみとしたが、存在を意識とすると、多くの聖典・古典を理解できる。究極の革命に繋がる「存在」に取り憑かれた三輪四兄弟は、存在の秘密を明らかにしていく。無の観点から存在を追求した稀有な本書をこれからも繰り返し読んでいきたい。 | ||||
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三輪家の悪 悲 狂 喜 世界文学だな | ||||
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埴谷雄高と同じくドストエフスキーの影響を受けているコーマック・マッカーシーはその作品において、叙事詩的な文体と会話文で、人間の暴力性、精神の深奥でたぎる激情を暗示している。 当のドストエフスキーは、論理的な文体と会話文で、高潔さと愚劣さを併呑する人間の精神の広大さを暗示している。 では埴谷雄高はどうかというと、困ったことに、暗示的な文体と会話文で暗示的なものを暗示しているとしか言いようのない。 一見、トートロジーで荒唐無稽で合間合間に挟まれる挿話はどこまでも実験的であり、総じて意味のない小説のようにも感じられてしまう向きもあろうが、そうではない。 その執拗なまでの暗示のトートロジーを用いることによってのみ示されているものがあるのだ。むしろ、ないものとしてあるというべきか。 それは、論理の幽霊ともいうべきもの、論理の匂いを感じさせながらも論理そのものではないもの、いわゆる論理の果てのような場所のさらにその向こう側、nowere,nobodyたる場所へ向かって存在を超えさせようとする不屈の意志であり、無謀ともいえる革命への果てなき挑戦である。 つまり前言したように、ないものとしてあることを目指し、それを示そうとしていると言える。空間にも時間にも自分自身にも捉われない、それでいてすべてでもあるような、はじまりでありおわりでもある『虚体』。それは暗示のトートロジーの網を張り巡らせることによって、ようやく形を朧げになし、その網の隙間からようやく一端を覗き見ることができるのだ。 よって完結して安易な結論が提示されるはずもなく、釈迦と大雄が議論を戦わすことなどあろうはずもなく、死霊が未完に終わったことさえ、否、まだ終わっていないことすらも、暗示の裡へと自ずと含まれて、それらもまた永遠に死霊として未来の読者へと暗示され続けていくのだ。 | ||||
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ドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にヒントを得て、青年たちの対話という形式で、哲学的な主題を考えるという小説です。おもに永久革命についてですが、ヒト以外の他の生物や生態系、恒星や惑星、宇宙の進化について考えると、永久革命という概念は普遍性を持っています。なぜ生態系は常に生き生きとしているのか。なぜクローンで増殖する単一な生物ではなく、ふたつの性を持つ生物が進化したのか。そこには永久に革命し続ける、環境への適応というフィルターによって淘汰され続ける仕組みがあるからでしょう。ゲームの進化もそうですね。パックマンからオンラインのファイナルファンタジーへ、永久に革命現象が起きているからこそ、若者はゲームに熱中します。埴谷雄高のこの作品は、小説は好きだけれども、哲学はどうも、という人におすすめです。しかし文庫本にするにあたって、この装丁はいかがなものかと。だれもが手に取ってみたくなるような、明るく、美しく、ファンタジックな装丁でもよかったのではないかと思います。 | ||||
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― 私達の魂は肉体のなかに投げこまれ、そこで数と時と広さを見出す。魂はかかるものに推理を加え、それを自然、必然と呼び、他の何物をも信ずることはできない。―パスカル 三輪与志・黒川健吉は、失踪した学友矢場徹吾の消息について語り合っています。 黒川は、『はたと想念が止まってしまう=すると、その瞬間から、周囲の物体と同一化したような固着した表情』を見せる『難破』ぐせをもっています。 三輪与志は、『自同律の考究』という自ら論文を書いていて、『存在は不快を噛みしめなければならないのだろうか』と煩悶していて、言ってみれば、「青春時代の憂鬱」を共有する仲です。身柄を保護されたという連絡で、学友矢場徹吾に会いに来た三輪与志は、依託を引き受けた××癲狂院院長岸博士と会話する。岸博士は『自己が自己の幅の上へ重なっている以外に、人間の在り方はない』自己意識の信者として『信仰告白・岸杉夫』の見解を述べます。しかし言葉少なの三輪が求める回答は、畢竟『虚体』。 ・・・しかしまだその詳細は明かされません。 折から、三輪家祖母の墓参りのため三輪与志を迎えにきた与志の許嫁、津田安寿子があらわれます。やがて護送車で到着した矢場徹吾は、ただ微笑むだけの「黙狂」と化しています。そこへふいに影から見も知らぬ首猛夫の登場、首は兄三輪高志の友人と自己紹介します。そして政治運動の同志です。端で三輪与志や岸博士の禅問答を聞きながら『虚無主義の克服など一瞬間ですからね。僕の行動の原理はーこの世に人間しかいない』首は去り掛け、謎のことばを言い放ちます。Villon, our sad bad gland mad brothers name! 第一章 癲狂院にて。 自宅に帰るさ、未明の散歩をする三輪与志。『無限の縮小感』と称された与志の内観は、少年期から青年期にかけての、最も美しい自己告白です。自同律不快の詩的表現。『彼の怯えとくいちがったようにかれの意識を駆け抜けるこの宇宙的な気配は何処かの果てで彼自身と合致せねばならぬ』 深夜、三輪の自宅を訪ねる不届き者、人間不信の現実主義者、首猛夫がいます。津田安寿子の父、警視総監、津田康造へ『宣戦布告』にやってきました。 アジア的思考形式の象徴である津田氏へ。停滞するとりとめのない優柔さ、得たいの知れない寛容さを表貌する職業的立場と個人感情への不満と抵抗。ここでの首猛夫は「死」の十二使徒、「死」の福音史家を自負しています。 三輪家の祖母の墓参に付き添う津田夫人に、首猛夫は三輪与志の印象を述べる。自省の「悪魔」に憑りつかれた「綿屑」の喩え話しをします。 三輪家の祖母の墓参りに集う津田康造、津田夫人、首猛夫(中座)、津田老人、三輪夫人、津田安寿子と三輪与志はまだ来ていない。特異なのは、三輪家、津田家とは縁があるのかないのか、何かを「象徴」する青服・黒服の謎の人物がいることです。 とりわけ黒服の男は津田老人へ、あるボクサーの見たノックダウン中の幻視を語ります。『―あちら側へ』。 運河沿いの黒川健吉の住まいは斜ぐらい屋根裏部屋です。健吉は引きこもり、庇の奥々には蝙蝠が巣くっているようで、ふしぎと健吉と蝙蝠は「同居」しています。 訪ねて来た首猛夫に向かい、ここぞとばかり、黒川健吉は日ごろのうっ憤を晴らすように饒舌になります。『ちっぽけな計算尺たる人間自体の偉大なる質的変化は試みられていない』、『存在が存在たり得なくなった無限の涯ての地点』、『人間が人間を超克する必要』があるなど、酒の勢いさながら饒舌この上ありません。 いつにない黒川健吉のそんな様子を静聴していた首猛夫は、三輪与志と併せ『そんな君達を哀れな精神的兄弟』とシニカルに憐憫をこめて、Villon, our sad bad gland mad brothers name!と言い、曰く『死の社会学』と断じます。 第三章 屋根裏部屋 | ||||
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内容については批判的なレビューも多く私ももっともだと思う。形而上的な無為な長文のやり取り。無駄としか思えない悪い意味でのこじらせた小説的情景描写。確かに辟易とする。神秘的な部分においても深いようでそこまで深くはない。 ただ埴谷雄高が高い評価を受けているのはその異常なバランスだと思う。 おそらく私含め現代の人は意識がもっと物質的というか、精神世界や言葉など目に見えないものに関してここまで現実的に実感として生きていない。埴谷雄高は普通の人より随分そっちをリアルに生きていてその比重バランスがおかしい。 つまり内容の良し悪しではなく、読んでいると埴谷雄高のその異常なバランスに引き込まれることが一番の魅力なのだと思う。文章的ドラッグと言っても良いかもしれない。どうせドラッグならもっと気持ち良い領域に行きたいものだが、陰鬱とした精神領域は彼の居場所というか個性なのだろう。ただ威力の強さは評価に値する。 | ||||
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本来なら全12章で完結するはずであった世紀の問題作「死霊」 残念ながら九章で未完の結末を迎えた。 この三巻目は黙狂の天才、矢場徹吾の長ったらしい長広舌による演説そのものには、 たいして個人的には感銘を受けなかった。 なんと言ってもこの死霊全体を通して最も重要なのは二巻目の第5章における三輪与志の兄、三輪高志と夢魔と呼ばれる宇宙人との形而上的対話であり、 わたしにとって最も興味を持って読み耽らざるを得ないかった途方もない対話なのである。 その内容は一言で言えば華厳思想と浄土思想による仏教思想の奇妙な混合物のようなものであったが、 天才、埴谷雄高氏は一ヶ所だけミスを犯しているような気がしてならない。 P214「終わりからは始められぬ」 というワンフレーズであるが、果たして本当にそうだろうか? 否、むしろ我々がすでに最後の「場所」に居ると仮定して、 始まりに向かって逆コースをたどり、はじまりの場所へと回帰すべく、始まりに向かって終わることを目指さねば 「究極の革命」 は完全に完成しないのではなかろうか? その始源の場所においてこそ、我々はかつて自分たちが持っていた「神としての栄光」を取り戻すことが可能となるのではないか?どうして「終わりからは始められぬ」が、「存在の壁の最初の秘密」と断定出来る? まさか、時間は過去から未来へとのみ一直線に必ずしも流れているという保証はどこにもその根拠を少なくともわたし自身は見出し得ない。未来から過去へと逆方向的、もしくは円環状の永劫回帰を繰り返す時間もあり得るではないか? (もし、お望みならその時にこそ、存在に対する全剿滅的処罰を下したまえ。もっともわたしはそれを望まない。人類にとってもっと快適な慈愛に満ちた新宇宙を創造するのみだ) 人それぞれ解釈の違いはあるだろうけど、 いずれにせよ、この死霊が未完に終わってしまった事はまことに残念でならない | ||||
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長年いつかは読まねばと思っていましたが、長ったらしい文章と言語の海に沈んでゆく感覚に酔いしれました。 | ||||
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未完ではありますが、埴谷の宇宙が展開されています。「100年の孤独」の次はこれ読みましょう。 | ||||
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「全然難解でなどない」という澁澤龍彦の言葉を紹介すれば推薦は十分だろう。素晴らしい傑作だ。冒頭の精神病院の描写から(この巻)最後の川沿いの場面まで,ぎゅっと濃縮した文体で進んで行く。この作品,よく哲学が引き合いに出されるが,私はむしろ詩的な面に魅力を感じる。 いくつか意見を言わせてもらえば,漢字にルビをもう少しつけてもらってもいいのではないか,と思う。「擡げる」,「梃子」、あたりはいいとしても,「嬲る」,「橋廊(渡り廊下のことか?)」あたりは辞書を調べないと(調べようにも)少々キツい。また,そろそろ,注釈をつけてもらってもいいのではないか。筆者没後何年も経っているし,もはや文学史の中に位置づけられているのだから。それに,研究している人もきっといるだろうし,研究の成果が結構たまっているのではないか?こういう作品は,色々な人がああでもないこうでもないと批評や解釈が出てくるのは宿命。註など不要、という人は飛ばして読めばいい。 | ||||
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(1~3巻を通してのレビューです) 「何を考えてるか分からない」と、誰しも若いころに言われるものですが、これはそんな何を考えてるか分からない男たちの話。それにしても考え過ぎだろう。でも、ものを考えなくなった今の世の中にあって、渇きを癒す清涼飲料水のような爽やかさがあります。 | ||||
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通常の人間が興味本位に読んでみて「なんかよく分からん」とか「なんか面白かった」で終わるなら、それはそれで結構な話。 普通の人はどんどん読んで、こんな世界観もあるものかと学べばよいだろう。 問題は、ある意味よく分かる人間が読む場合に この書が精神とかメンタルに与える影響というものを考えると手放しで薦めることはできない。 著者の持っているある種の毒気とでも云おうか、そんなものに云わば被爆すると なかなか苦しいことになるだろう。 すなわち、著者と同質のものを共有している種類の人間にとって、この書を読了することが吉とでるか凶とでるかこれは私には分からない。 分からないが、私はこの書を読むことで非常な息苦しさを感じた。 へたをすると、社会生活に支障をきたすかもしれない。 この書に心酔しながら、会社へ出かけていって普通人の顔をして、そつなく仕事をこなして、そんな器用な生活が誰にでも出来るだろうか。 そういう意味の毒? を本書は持っている。 被爆に備えて相当の装備をしないで読むのは危険だろう。 本書は読み方をあらかじめ押さえて読めば いわれるほど難解な書ではないとおもう。 しかし、私の場合、著者と私との同質が反発しあうのであろうか、読む気持ちを暗く覆って、ページをめくる手を重くさせるのだ。 いまは、読むことを中断している。 それは、言い換えれば前にも後にももどれない苦しい状況にあるといえる。 もし、著者と同質のものを共有するものが読むのならば、ある種哲学的装備をととのえた上で、かつ ある距離をおいて読むのがよいと思う。 それと、もうひとつ。 この種の本は読者を森の奥へ奥へといざなうけれども、帰り道は教えてくれないのが通常であるから、そこのところも良く考えて・・・・。 それと、自序をちゃんと読んでから本文を読むとよいだろう。 ともあれ、これは稀有の書であることは疑いえないであろう。 | ||||
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この事に触れられている方が殆どまたは全くいないように思うので書きますが、初めこの本を読んだとき(ハードカバーの重い本で)おかしな感じがしたのですが物語の繋がりがおかしいというかそういうことを思ったのですがじつは連載時のほぼ一回分ほどがまるまるカットされている。図書館で読んだのですが死靈 1945~95 (埴谷雄高全集)のほうには載っていて矢場徹吾をさがしに三輪と黒川がサーカス団を訪ねるエピソードがまるまるカットされているために話の繋がりがよくわからなくなっている。たぶん表現というより内容が差別的内容に当たるということなのだろうがこれでは小説として理解しにくいのでカットされているならカットされているということをどこかに明記するべきだと思う。 | ||||
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正直に言えば、もはやこの最終巻における矢場徹吾の「自己と自己の対話」は難解極まるものであり、「食物連鎖」に事寄せてイエスや釈迦をも断罪するがごとき精神は私には理解不能な領域に足を踏み込んだようで、「わけがわからない」 或いは、私はこの「死霊」という作品を第2巻で読むのを止めておけば良かったのかも知れない。 少なめに見積もっても、私の力量ではこの「精神の無限大を突き詰めた」死霊を読みこなすに、あとさらに二十年の沈黙と思索、瞑想が必要だ。 ぷふい、あっは!! なお、蛇足ながら付言するなら、この作品の沈黙の無限大の宇宙世界には、「明らかに」 「華厳の哲学」が内包されている。 | ||||
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三輪の兄貴に現れたる、夢魔の正体。 それは、一言で言えば「想像を絶した、(全宇宙)への形而上的反逆。 喩えるなら、阿弥陀に救済される事を拒否した、みずから阿弥陀となりて、超宇宙的浄土建立を企む、極限の忍耐に基づいた「飽くことなき強靭な意思そのもの」 そしてそれは、「俺一人で実行されねばならない」過剰な重力の重さに耐え得る精神。 「全宇宙における全生命体のレーベンを己がすべて体験する宿命」 嗚呼!人はそんな「重さ」に果たして耐え得るのか? ふむ、してみるとやはりこれは仏教小説か? しかし、軽率な判断は危険大だ。 言葉による、幾重ものトラップがこの作品には仕掛けられている? 三輪は、ゴータマブッダ?それとも? | ||||
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私のすでに亡くなった祖父が異様な情熱を傾けて読んでいたのがこの「死霊」である。 読む前から、ある程度覚悟していたが、やはり難解な作品である。 この深遠なドラマは三輪与志(みわよし)の風癲病院来訪から始まる。 その設定そのものからして異様な雰囲気が漂っている。 どこまでも暗い灰色の世界である。 三輪与志の述べる「虚体」とは何か? それは、仏教哲学における「空」の論理か? 埴谷雄高氏のもうひとつのペンネームが般若雄高であることに思いをいたすと、何か得体の知れない宗教的形而上文学のような感じがする。 今のところ第1巻を読了したばかりである。 今後の展開に胸踊らせる思いをしている。 この「死霊」は文体が難解であるが、読んでいるうちに慣れてくるので、ぐんぐんと埴谷ワールドに引き込まれる。 難しいのは最初だけなのでまだこの作品を読んだ事の無い読者の方々はリラックスして本書に挑戦して欲しいものです。 それにしても・・・ 「睨みの悪魔」たる、首猛夫のいつ果てるともなき饒舌ぶり、その鉄面皮ぶりは読者の笑いを誘うに充分過ぎる。 或いはやはりこの作品はドストエフスキーのパロディなのか? それとももっと深刻なテーマを啓示しているのかは神のみぞ知るである。 なにはともあれ、インド哲学の芳香がプンプン漂う作品である。 | ||||
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無論、作者は明確、明晰にこの小説のテーマを理解しているが、読者が作者と同等の読解力で立ち向かうことは無理だろう。無限大、存在、宇宙、虚體、自同律の不快 あっは ぷふい などこの作品に定着しているこの作者自身の強靭な意思的言語は激しい作者の分析理解力によるものである。読者は明確に分からずともよいのである。この世界に漂うことが出来さえすれば。戦後日本文学が生んだ金字塔的名作である。しかし僕はNHKの埴谷雄高・独白「死霊」の世界で得た作者自身の解説の方に圧倒的に引きこまれた。 村上春樹よ、これが文学者の文学だ。 | ||||
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この小説に登場する人物は傍から見ると、皆頭がおかしいです。しかし、本当にそうなのでしょうか。私たちは本当に物事を正しく見ることができているのでしょうか。私はできていないと思います。なぜなら、あまりに深淵に関わることは恐ろしすぎて人は見ることをしないからです。 ここに登場する人物は皆、深淵を見ようとする人ばかりです。当然、皆が恐ろしい深淵に見つめられているため、恐ろしい運命にまきこまれ、社会から疎外されます。 しかし、そのような不幸にあってもなお、運命に身を委ね、疎外を恐れず突き進む主人公たちに僕は大いなる魅力を感じました。 | ||||
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