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万延元年のフットボール
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【この小説が収録されている参考書籍】
万延元年のフットボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.16pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全63件 21~40 2/4ページ
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大江健三郎の小説の大半がそうだと思うが、出てくる物すべてが何らかのメタファーで、容易な理解を拒む。 卑俗な事を言えば、蜜三郎はただの五月病なんじゃないかと言う気もするし、文章含めアル中(の書いた)小説にも見える。 妙に田舎者をバカにした所があって、うざいインテリ小説のようでもあり、しかしそれは戦後日本人のダメさを暴露しているかのよう。 だから、つまり何なのよ、てなると、私には、さぁ?としか答えられない。 妹を姦通の上自殺に追いやった鷹四が、サッカーチームを作って、スーパーで集団万引きする因果関係も、さっぱり分からん。 | ||||
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作者32歳の作品。愛媛と高知の県境の森林に囲まれた谷川の流れる窪地の村を舞台に、安保闘争後の1962年秋から翌春にかけて根所蜜三郎(僕)と鷹四の兄弟を中心としてくりひろげられる物語である。時は、「スーパーマーケットの天皇」をめぐる出来事から伐採のため強制連行された朝鮮人グループと農家の次男三男を主体とするグループが襲撃しあった1945年敗戦の夏へ、さらに兄弟の曾祖父が指導者の一揆があった万延元(1860)年へ、さかのぼる。 | ||||
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『万延元年のフットボール』は愛する勇気を問うた、希望に満ち溢れた純愛への序章だと感じました。 そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。 日本人には珍しく、大江さんは「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。 愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。 | ||||
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ぼくは読了するのに2週間かかりました。 2日間くらいは読むのが嫌で読みませんでした。 1日によむりょうが極端にすくなく、 やっとのことで読了出来た感じです。 この小説は実存主義の影響をうけて遺伝とか先祖の過去とか人種差別とかあらゆる現在の可能性を否定するものを嫌います。 大江の文章をいちどで分かる人を尊敬すると評論家が買いていましたが、 思考回路がにているのかそんなにわかりずらくありませんでした。 僕が大学院で発表した英語の翻訳にそっくりだったのです。 おもしろくない作品ですが、安易にエンターテイメントに走らない作品でとゆうことはオリジナリティがありそれゆえに当然傑作です。 さすが大江の最高傑作です。毎年期待はしていますが。このままでは、村上春樹ではエンターテイメント性の強い作品が多くノーベル賞受賞は厳しいでしょう。 厳しいことをいうようですが、おそらく春樹は受賞できないでしょう。 大江健三郎は読者に媚びない本当の意味でノーベル賞作家です。 | ||||
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ヘイズコードが撤廃されたニューシネマ元年に書かれた。スチューデント・パワーによる1968年世界革命の一年前。ニューシネマもこの小説もこの時代に書かれたというより、この時代を準備したという感じ。 暴動が始まる直前の、中年男どもが本気で殴り合って、片方の歯茎が付いた歯が落ちているのを「蜜」が発見するくだりが良い。 『愛と幻想のファシズム』にも影響を与えていると思う。あちらは「鷹」の視点から見た『万延元年~』という趣。 大江にしても倉橋由美子にしても開高健にしても終戦時に多感な十代だったわけで、この世代の作家たちの作品は社会派的であることと内面的であることがごく自然に両立している気がする。そして、他の世代の日本の純文学はどれも単に内向的な気がする。 | ||||
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著者の作品を読むのは「ヒロシマ・ノート」以来二冊目である。 万延元年が江戸末期の年号であるのは判るのだが、 何故、フットボールが出てくるのか最後まで理解できなかった。 著者は、この作品で乗り越えられたと最後に書いているが、 前後の作品を知らない私には理解できなかった。 他の作品も読まないと著者を理解することにはならないと感じた作品である。 | ||||
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題名にある「フットボール」という語句の印象で、軽い感じのエッセイ的な内容を思い浮かべてしまうと 打ちのめされてしまうかもしれない。 今でこそ表向き自由な印象を持たれるようになった日本人だが、その根底には暗く湿って閉ざされた、 何か別の得体の知れない、そして断ち切れない何かが脈々と受け継がれているようにこの本を読んで思う。 この作品の舞台は大江の生まれ育った故郷の「谷」だ。 大江が、一連の作品に故郷を思わせる場面や息子の光氏との関係を思わせる場面を描く事に、 自分を売り物にしている私小説作家と批判する方もいる。 だが、私は違うと思う。 うまく言えないが、私たちも皆、日々「自分」というものを描いている私小説作家であると思う。 この世に生を受けた苦しみや羞かしさの中に少しでも喜びを見い出そうとしながら、いつか、 何か得体の知れないものに褒められることを期待しつつ… 大江が、彼の作品を通じてそれらをさらけ出し、考えさせてくれることに、私は心が解き放たれる気がする。 私にとってはそんな作品である。 | ||||
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近年、大江健三郎という単語から彼の作品群を連想する人は多くはなく、政治的思想に関する意見が殆どを占めるであろうが、それは実に勿体無い事である。 「万延元年のフットボール」は、”故郷”という文学の世界で古来から幾度も追究されてきた人類永遠のテーマを基盤とし、障害を持った子供を産んだという彼自身の生涯に重大な体験を織り交ぜ、さらには万延元年の一揆と現代の個人店と巨大市場における社会的問題を重ね、純文学らしく芸術的かつ、娯楽性に富んで書かれた、近年稀に見る傑作であると言えよう。 | ||||
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ノーベル文学賞の対象作品と知った上で読み始めたが、第一章の自閉的とさえ言える文章に躓いた。 わざと難解にした文章がそれぞれ効果を持つものだと納得するにしても、違和感を感じる。 何歳で書いた作品なのか調べると、発表時32歳だとわかって納得した。 読む内にだんだんと物語に引き込まれていき、興味深い体験をすることができた。 | ||||
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きっかけがなければ、一生読まなかったかもしれないー。 読書会仲間のおじさまが、「読書会で読むことによって理解の幅が広がるかもしれない、 今読んでおかないと心残りになる。」とまでおっしゃるので、読んでみた。 実は、10代で大江氏の他の本に挑戦したのだが、独特の文体に馴染めずに 放り出してしまい、氏の本はそれまでに1冊も読んだことがなかったのだ。 今回も、冒頭の一文を見た途端に、読書心がひるんでしまったのだが、 今回は我慢に我慢を重ねて、意味が頭に入ってくるまで何度も同じ文章を目で追った。 するとふしぎなことに、頭(脳?!)が慣れてきて、外国語の直訳体のような氏の文章の言い回しが 気にならなくなり、かえって一定のリズムを伴いながら迫力を持って迫ってくるようになってきた。 一旦このリズムに引き込まれると、止まらない。読むスピードは加速していき、ページを繰るのももどかしい。 話の展開に自分の理解がついていかなくなって、慌てて前のページに戻ったりする。 ミステリー本ではよくあることだが、純文学然とした本書でも起こるとは、正直思わなかった。 登場人物は皆心に何かを抱えている人たちで、ギリギリのところで保っている状態。 舞台となる土地柄は、閉塞感も曰くもあるところ。 一筋縄ではいかない癖のある人物たちが集まったために起こる絡み合い、揉み合い。 何かが動き始めている、何かが起こりそうだという緊張感、緊迫感。 ザワザワ、ピリピリといった擬音語が、氏の独特のリズムを持つ文章の行間から聞こえてくる。 読み手の私は、何か分からない不安と緊張を感じながら、一気に読み進む。 するとそのうち、あれほど鬱屈していた登場人物たちに変化が起こる。 迷いの森にいた人々が、何かと決別し、周囲に流されず、意志を持って、潔く行動を起こし始める。 主人公はといえば、混沌からまだ抜け出せず、ひとり取り残された様子。 そのような主人公の側に立って、変わっていく周囲を驚きの目で眺めていると。 ー 聞こえてくるのだ。他の登場人物たちの声が。 「私たちは自分が何者であるかを知った。何をするために生まれ、 今まで何をしてきたかを理解し、これから何をすべきかもわかった。」 そして、最後につきつけられる。 「次はおまえだ。おまえは自分を知り得たか。」 氏のスピード感についていくのが精いっぱいだった私には、内容よりも先に、 このような本書からの強烈な問いかけを感じ取ってしまった。 他の方々のレビューのような事柄は、読み返した時にようやく考えることができるようになった。 以前の日本人作家とは画期的に違う作風。読む者を惹き付け圧倒する筆力。 まだ読んだことのない人には、ぜひとも勧めたい1冊となった。 | ||||
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近年、大江氏といえば憲法九条の護憲派として活動なさっていて、ネット上では激しく賛否のわかれることが多い作家ですが、たとえ彼と思想が真反対であってもこの小説は手に取るべきです。 劇的な方法で縊死した友人、アメリカで変わってしまった弟、その弟に憧れる親衛隊、障害を持った子供の父親である主人公、などなど全ての要素が絡み合って、万延元年に起こった一揆に繋がり、それを再現しようとする弟や、最後にはミステリ的な結末も用意されている本作は、現代日本文学における屈指の傑作であると思います。 確かに初めの数ページは難解であり、長々と続く主人公の精神描写が読み辛いと感じる人も多いと思いますが、気づいてみれば惹き込まれます。 ネタバレはなるべく避けたいので内容への言及は避けますが、神話を絡めた話の構想で彼の持ち味が最大限に活かされています。 講談社文芸文庫さんは少しお高い気もしますが、一読する価値のある小説だと思います。 | ||||
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大江健三郎の文学に勃起したレビュアーの多くが、傑作と語る本作品。 私が、大江作品の枕詞として語られる、 独特で強い感染力を伴う文体に身構えて頁を捲ったのは、 彼がノーベル文学賞を受賞した後のことだった。 私は菜採子への嫌悪感がどうしても拭えず、 結果、苦痛を伴う読書となった。 これはもう、文体云々ではない。 緊張感に溢れる人間関係、 万延元年の引用の妙、 大江作品に流れる主題も朧気にも理解しているつもりだし、 興味深いとも思う。 それでも尚、彼女らの話を知りたくないのだ。 私は、半ば義務感から、 どうにか物語の結末までたどり着いたが、 ラストの菜採子の提案が理解出来ず、 最後の最後まで、私は彼女に読書する気力を吸われた。 本作への多くの激賞を目にする度に、 私の読解力が不足しているのだろうか?と思ってしまう。 最終的に、蜜が菜採子と子供達を引き受けたように、 私がこの作品を引き受ける日が来るだろうか? 多くの読者が激賞する本作を、再び、みたびと観照したい。 | ||||
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本の内容のついてはみなさんそれぞれ意見はあると思いますが、私には大変すばらしい傑作だと感じる書籍です。 大江文学の集大成とか代表作と誉れの高いものですので難解ではありますが、素晴らしい作品であることは万人が認めるところです。 | ||||
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個人的に、なぜこのような描写があるのか、不必要なのではないか等、読んでいてストレスを感じる部分があった。 ただしこれは好みの問題で、(極論すれば全ての事柄を必要最小限に収めた話が果たして感銘を受ける文学・芸術作品と言えるのかという事につながるため)いち読者である私の感性がもっと豊かであれば興味深い作品と感じたかもしれない。 | ||||
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大江健三郎の代表作である。 故郷をもたないものの聖典である。 冒頭から、異様な雰囲気と、異常な文章の連続で、読者は混乱するであろうが、全体的な文學的構造は、さほど、複雑ではない。主人公たちの名前が、翻訳家の《根所蜜三郎》、蜜三郎の愛妻でアルコール中毒の《根所菜採子》、蜜三郎の実弟であり、左翼運動に蹉跌して右翼に転向した《根所鷹四》、というように、三人とも《根所》という苗字であることからも、三者三様に、《根っこの場所》=《故郷》を冀求する物語であることが察知される。 冒頭で、主人公である蜜三郎は、自宅界隈に穿鑿された、貯水装置用の空洞に蟄居して、《世界は存在しない》という《期待》に裏切られる。本作の主題が、《アイデンティティの喪失》および《アイデンティティの根源である故郷の喪失》であることが予告されることになる。蜜三郎が空洞に逼塞していたのは、精神に障碍をきたして療養していた翻訳家の友人が、暗澹たる自殺をしたことかららしい。蜜三郎が、翻訳を生業としていたのも、主題にかんがみれば、《世界を自分なりに解釈=翻訳する》という、《現実の世界の否定》と《自分の世界の渇望》という、故郷の問題に帰着するのかもしれない。本作が、現代の日本を舞台としながらも、摩訶不思議なる異国の風景を描破しているような雰囲気に囲繞されているのも、《蜜三郎の翻訳した日本像》とみれば納得がゆく。斯様なる挑戦が、おなじく、翻訳家の友人の自殺で頓挫したわけだ。世界が消滅しないことを認識した蜜三郎は、アルコール中毒の愛妻菜採子のもとへゆく。ふたりのあいだには、脳髄に障碍をもった子供がいて、養育施設にあずけているらしいことがわかる。《根所》を喪失して、みずからが、あらたな生命の《根所》にならんとした挑戦も破綻して、夫婦生活は崩壊せんとしている。 軈て、亜米利加で左翼劇団に所属していた鷹四が帰国し、三人は、鷹四の友人達とともに、物理的な故郷である四国へ邁進する。根所兄弟の故郷では、《天皇》とよばれる在日朝鮮人によるスーパーマーケットが支配的な雰囲気となり、根所家の生家を隴断せんとしている。右翼に転向した鷹四は反撥し、《フットボール・チーム》を結成して、江戸時代後期の《万延元年の百姓一揆》を髣髴とさせるような、《天皇》への叛逆を蹶起する。 同時に、鷹四と《妹》の関係の謎や、在日朝鮮人に殺戮された《S兄さん》をめぐる謎がひもとかれてゆき、クライマックスでは、推理小説的仕掛けによるカタルシスに到達する。つぎなる生命のための《根所》となる決心をした菜採子、作中に登場する寺院の《地獄絵図》を《根所》としたともいえる鷹四、日本に《根所》を発見できず、阿弗利加への羈旅を決断する蜜三郎。此処で重要なのは、一人称の主人公である蜜三郎が最後に《根所》をもとめたのが、《人類の起源の大地》といえる阿弗利加である、ということである。斯様な挑戦が、成功するのか、失敗するのかはわからない。菜採子が本当に《根所》になれるのか、鷹四の闘争は無意味だったのか。大江健三郎の筆致は、戦後日本人の自我同一性の危機をとおして、根源にある現代人類の悲劇を爬羅剔抉している。 《小説は、彷徨者たちの家郷である》といった評論家がいた。 本作は、大江健三郎が大江自身の故郷をもとめた軌跡なのかもしれない。 | ||||
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以下は、ほとんど大江作品に接したことがない不慣れな一読者による率直な感想、という事でご理解ください。 語句が過剰・・・ 推敲のたびに追加したと思しき語句が紙面に膨れ上がり、それが却って書きたてホヤホヤの瑞々しさを妨げてしまっている。直観より意匠重視ということなのでしょうが、明らかに不要と思える語句も散見される。凝り性なのか、それとも読者の放恣な想像力による誤解を危惧しているのかは定かでないが、著者の執筆スタンスに、簡潔明瞭という四文字は皆無らしい。いずれにせよ語句が過剰という事は、裏を返せば、一字一句の重みを損ねることにも繋がりかねない。まさか、語句は多い方がいいと短絡的に考えているわけではないのでしょうが、少なくとも一字一句に情念を込めるタイプではなさそう。 奇妙な修辞・・・ 厖大な修辞が披露されているが、その数の異常ぶりに加え、幾重にも連なる修飾語句の遥か後方に到ってやっと肝心の被修飾語が登場する奇奇怪怪ぶりに目が廻り、慣れないうちは、妙味を堪能する以前に係り受けの解析に手間取ってしまう。この奇妙な修辞の大群に翻弄され、物語の本質的な理解から遠ざけられてしまったような気が・・・。そもそも修辞とは、ここぞという時に披露されてこそ効果を発揮するもので、本書のように大半が修辞というのは、それが個性で当時は画期的だったと云ってしまえばそれまでですが、さすがにやり過ぎの感が否めない。もともと修飾語句が多い海外文学の和訳ならともかく、日本語でつづられた作品でこんなに癖のある翻訳調の文体は初めてなので面食らってしまったと同時に、ここまでこのスタイルを貫く必要があったのかという疑問も湧く。しかも修辞の内容は、既にひどく時代を感じさせ、読んでるこっちが恥ずかしくなってくるほど野暮である。 同じ語句の執拗な繰り返し・・・ 本書は主人公=僕(蜜三郎)のモノローグが多いのですが、「僕」のモノローグであるのが自明な場面でもなぜか「僕」や「自分」という語が頻出し、だんだん鬱陶しくなってきたので試しにそれらをすっ飛ばして読んだところ、ちゃんと文意を汲み取ることができ、逆にスッキリ読めました。他にも、「頭を朱色に塗り ○ ○ に胡瓜をさしこんで首を・・・」とか、もう分かったからいいよ! と思わず叫びたくなる程しつこく登場します。なんかこういう重複語句や要らぬ修辞を削除して、分量を今の3分の2ぐらいに留めても、ちゃんと物語が成立するような気が・・・ 冗漫な文章・・・ 延々と続くわりに読点処理が少ない、贅肉だらけの締りのない文章が多い。それも、次の語句がさらに次の語句へと淀みなく受け継がれる流麗な文章ではない為しょっちゅう突っかかってしまい、その度に、こんがらかった釣り糸を解きほぐすようなもどかしさを感じつつ戻り読みを余儀なくされた。意図的に文意を分断して読者を煙に巻いているのでは? と勘繰ってしまう。文のリズム感や統一感といったものはもちろん皆無で、それはおそらく作者の思惑なのでしょうが、しかし私のような初読者にはひどく奇異に感じられ、ただ斬新奇抜ぶりを誇張しているようにしか見えなかった。 内容が難解というより文章が晦渋・・・ 平板な場面でも敢えて回りくどく描写して小難しく見せているフシがあり、哲学的な意味での難解さとは違うと感じた。何かこの世ならぬ情景や観念の描写であればおいそれと難解な内容にもなるのでしょうが、そういう場面は意外に少ない。ただ文章がかなり入り組んでいるので、内容そのものも深遠で難解と錯覚しがちにはなる。しかしこんな手法が本作の質を高めているとは到底思えず、私にはただのコケおどし、言葉で読み手を圧倒してやろうという魂胆が見え隠れする姑息な手法と映ってしまった。そりゃあ、無くても構わぬ語句までテンコ盛りにしたうえ、本来なら複数に分かたれるべき文を継ぎはぎして長たらしい一文にまとめ上げたりすれば、どんな文章だって晦渋になるでしょう。しかしいくら純文学とはいえ、無理やり晦渋にして高尚さを醸し出そうとするこの種の手法にはもうウンザリである。 動機が薄弱(含ネタバレ)・・・ 意表を突くためなのかも知れませんが、登場人物の行動が唐突すぎて釈然としなかったことが度々。細部の描写や修辞には凄まじいまでのこだわりが見られる一方、前後の脈絡や伏線と云ったより重要なものが乏しかったり不鮮明なため、よけいアンバランスに感じた。スーパーマーケットへの無法行為も、直近に火種らしき事件は起きてはいるが、十分に伏線が張られていたとは言いがたい。なんか首謀者(鷹四)の思想と村の史実(一揆・在日との確執)がこじつけられて予定調和的にどんどん事が運ばれていったはいいが、肝心かなめの動機が弱いし、そもそも集団行為を駆り立てるほどの原動力がこの村にあったのかどうかも疑問。この手の集団行為は、のっぴきならぬ状況に追い込まれなければ起こり得ないはずですが、村がそんな状況に追い込まれていたとはとても思えない。まあ当の主人公が無法行為に参画せず、尚かつ一人称語りの小説なので、その分この辺りの巨視的な描写が手薄になったのは仕方ないし、だいいち動機付けなどこの作品には些事に過ぎぬのかも知れませんが・・・。いずれにせよ、これもすべて血脈、歴史は繰り返す、という事で解決か? でも結局、伝説とは程遠い、かわいい無法行為(それもガキのいたずらレベル)で終わっちゃったし・・・。この作品、史実と思想の絡みが眼目で行為はオマケみたいだけれど、史実も史実で断片的に披露されただけの一過性のものもあり、すべてが現在話とリンクしているとは思えなかった。他にも珍奇な事象や登場人物がふんだんにお披露目されているが、それらはどれも単発のエピソードに過ぎず、新たな展開を生み出す素材ではなかった。詰め込むだけ詰め込んでおきながらあとはそれっきりなので、食材豊富な鍋料理を生煮えのまま食わされたようなもどかしさだけが残った。 言動が不可解(含ネタバレ)・・・ あれだけ独自の破滅論を華々しく開陳したのだから、そのまま村全体をも巻き込むド派手な闘争劇でも演じるのかと思いきや、首謀者(鷹四)自らあっけなく幕引きをしてしまった。その幕引きも、自身の狂気の具現化というより、生来の性的倒錯が原因による窮余の自滅といった印象のほうが強く、結局、わざわざ親衛隊まで引き連れて故郷に何をしに来たんだ、という疑問が残る。いずれにせよ、なんか言っている事とやっている事が違うような気が・・・。しかもこの人物、自分に甘く他人には厳しい人間の典型のようで、それは配下のメンバーが自身と類似の陵辱行為を行った時に激怒していたことからも察せられる。そもそもこういう独善的で内向きな人物の下に、周囲の人間が寄り集まり体よく組織まで形成されるものなのか・・・。あと主人公の妻(菜採子)がまた更に得体の知れぬ人物で、周りには説教じみた事をズケズケ言うくせに、当の本人は下半身に問題アリの無思慮な自堕落女と大差なく、そういう女が、いくら日和見主義的なところがあるとはいえ、果たしてあんな善人じみた結論へと都合よく導かれるものなのか。しかも、たしか障害児を産んだことで交わりそのものに嫌悪感すら抱いていたはずなのに、この不貞ぶりはいったい・・・。殊にこの二人の主要人物(鷹四と菜採子)については、その気取りまくりの会話内容に反し、行動が余りにも幼稚で刹那的なため、違和感どころか薄気味悪さすら覚えた。 尤もこの作品、登場人物の大半が変な人なので、もうどんな珍事が起きてもおかしくないのですが・・・ 私には、登場人物が起居する母屋も倉屋敷も、最後までお化け屋敷にしか見えませんでした。この人達の言動に論理一貫性がないわそれを補填するための描写もないわで、結局彼らが何を目指していたのかもよく分からないし、確たる人格を持った生身の人間だと見なすのすら困難だった。会話では、やれ属性だのidentityだのといったご大層な言葉が飛び交っているが、総じてインテリ気取りのボンボンに有り勝ちなたわいない遣り取りであり、しかもやっていることが逆に知性を疑いたくなるようなものばかりなのでカッコ悪いことこの上ない。それとも、世間知らずの暇な若者が暴動ゴッコをやらかしたらこうなりますよ、とでも云いたかったのか・・・。いずれにせよ、やたら凝られた登場人物のネーミングとは対照的に、肝心の人物造型はすこぶるテキトーだ。 全体を通せば、たしかに個々の表現に凄みが感じられることはあった。しかしストーリーテラーとしての凄みは全く感じられなかった。特に後半は、当時の流行りなのか、刺激的な描写ばかりが前面に出た反面、筋の粗さと不可解ぶりが目につきなかばカオスと化していた。なにしろ頼みの主人公からして、生涯トラウマになるような屈辱を妻から受けて悶々としていたはずなのに、体よく丸め込まれた上ちゃっかり別人に進化しちゃってんだからもうワケが分かりません。それを予感させるような描写が全くなかったわけではないが、今までの鬱屈をくつがえし新たな心境へと到らしめる程の説得力はなく、これでは御都合主義のそしりを受けても仕方ないだろう。このように正反対の境地に到るまでの心理的過程も詳述されず、「あとは読者の解釈にお任せします」みたいな謎残しをされても不自然なだけだし、第一これじゃあ主人公までもが、信念のかけらもない不気味な風見鶏、という薄っぺらな人物像で終わってしまう。しかもここ、終盤の最重要部分でしょうに・・・ この辺の不可思議ぶりは、ファンの方には逆に妙味ですらあるのかも知れませんが、私のような通りすがりの新参者には、著者が当時の希望的観測を急ごしらえでつづったようにしか見えず、あまりいい気がしなかった。勿論どういう展開に持っていくかは御自由ですが、ある程度つじつまを合わせていただかないと、どんな展開でもありの混沌とした物語、という冷めた見方しかこっちも出来なくなってしまう。尤も、敢えてこういう混沌とした物語にしているのだ、と云われたらもう返す言葉もありませんが、その場合、読者への謎かけと意外性の演出以外に一体なんの意味があるのやら・・・ 支離滅裂な展開をうまく統合しリアリティーを持たせたものが真の傑作、と考える自分には、支離滅裂な展開に終始するだけの本作を、不遜ながら喧伝されるような傑作とは思えなかった。この作品、著者によって入念に練り直されているらしいが、それは個々の文章のことであって物語そのものは隙だらけのままほったらかしのようだ。そのためか最後まで、<細部は緻密、でも骨組みは粗雑>というイメージに付きまとわれてしまった。 以上、大江健三郎に疎いせいもあってケチをつけまくりですが、こんな複雑怪奇な文章表現はもはや前人未到の領域で、少なくとも並の作家には絶対に真似出来ない、という意味では傑出していると思います。またこの文章と摩訶不思議な筋を、読者を出口なき迷路へと導くためのトリックとして駆使していたのであるならば、私も大江マジックに引っかかってしまったという事なのでしょう。実際、大江文学に興味が湧いてきたのも事実であります。 今回はこちらの理解が不十分なまま終わってしまったようですが、もし再読時に深読みまで出来たら、上記のモヤモヤも解消し、また違った評価に変わると思われる重厚な作品ではありました。 | ||||
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黒船が来たころ、サッカーをやった人たちの話かと思ってたから、違和感アリアリ。 自分でもよく最後まで読んだと思う。 つまんないな~などと思いつつ、途中やめしなかったということは、それなりだったのかも。 胸を張って言えるよ、「万延元年の・・」読んだと。 読まないとどんな話なのかわからないよね。 それくらい説明するのが難しい展開だよ。 フットボールが日本に来たのは確かにもっと後だね、言われてみれば。 | ||||
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旅行中、新幹線の中で読んだ。前から何度か挑戦していたが、読みづらさに挫折していて、これは時間をとらないと無理だな、と思っていた。 三時間後、読了した僕は興奮していた。こんなスケールの大きい小説が日本にあったとは、という驚き。僕は、大江健三郎がノーベル賞を受賞したのは安倍公房が早くに死んだからだと思っていた(今でも思っている)が、これに至っては認めざるを得ない。とんでもない作家である。 さて、大江健三郎の文章は読みにくい。日本語を英文法の型にあてはめて書いているということもあるが、これはむしろ六法全書や数学の論文の読みにくさに相通ずるのではないだろうか。つまり、法律や証明は解釈に幅があっては困るのだ。全体を敷衍すると、この小説は「筋が豊富」(大岡昌平)→「イメージが豊富」な小説である。天皇、歴史、小さな共同体、血の確執、差別感情、神話多くのイメージをはらみつつ、それを意味によってねじ伏せてやろうとする姿勢。ともすれば混沌とする種々の要素を解釈でもって捕まえてしまうのだ。その点、日常的な言葉で奇妙な混沌を混沌のまま描き出す安倍公房と対照的かもしれない。 そうしてみると、冒頭で語られる友人の縊死体は、踏み絵のように思えてくる。解釈されることを拒みながら、我々の想像力をかき立てる存在である。 全体として、あえて政治的な解釈を素通りするならば、この小説は想像力と現実の関係を描いているように感じた。 やはり、「蔓延元年」は大江健三郎の頂点かもしれない。多様なイメージを解釈によってねじ伏せながら、同時に立体的な広がりを見せるのが素晴らしい点なのだが、これ以降の小説は豊富なモチーフを含んでいるのに、結局「大江健三郎」に帰着してしまい、私小説的側面が目立って浅く感じてしまう。作家の興味が推移したというより体力の衰えではなかろうか。 | ||||
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蜜、鷹四、菜採子、障害児 この関係を表すのにこうも気難しい言葉で読みにくい文体にしなければ説明ができないのだろうか? これが第一印象である。 次に「勃起したペニス」、「あふれ出る豊な血」、「嘔吐」。 などおなかに入れて気持ちの悪い表現を相変わらず入れてくる。 人との体温を測る、人間の生き様を叙述するのにこういうグロな 方向性に持っていくというのは、著者自身よほどの個人的な体験があったと見受けられる。 それは、子供の頃の適応障害や自閉気味な神経質の少年が 奥深い四国の森で邂逅する生と死、つむぎだされる大江固有の世界の顕現なのであろうか? 「シトロエン」、「闘争・逃走」、「吐き気」などは、いかにも60年代的だ。 いずれにしても、深い作品のモチーフとの格闘と<乗り越えられた点>という ひとつのメルクマールを打ち立てた文学作品だとは思う。 しかし、私との相性が悪いのか、読んでいて気持ちが悪い。 おそらくほとんどの読者も 大江の作品には「在日」と「障害者」、「黒人」などよく登場してくるが、事実を隠そうとする 日本の社会に対し、事実は事実としてそれを小説というフィクションの中に絡ませていこうとする姿勢は、 個性があり、すばらしいと思う。 純文学ならではの個人の創造の自由さは十分伺える。 しかし、如何せん、もう一度読み直したいとは思えないことが、彼の作品を読むたびに 思うことである。 個人的には四国の奥深い裏側の南米文学や、 気難しい文体なら安部公房の方が私にとっては受け入れやすい。 現在の大江の文体もそんな感じなのであろうか? もう少し素直な文章を読んでみたい。 | ||||
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大江先生の文章の難解さは、読んでいるうちに次第にわかってくると思う。 他のレビューを見たら、色々な書き込みあるのでそちらを参照にされたい。 私が、不思議に思うのはこの小説で、大江「蜜」三郎が、いかにどのような作用を しているかである。それは読んでからのお楽しみであります。 序盤で出てくるヘンリーミラーの「何でもいいから陽気にしていようじゃないか!」 から始まり、 驚愕のクライマックスへ。 「さあ、星のシトロエンに向かって出発だ!」 しかし、私は考えた。小学生に小石を投げられて片目が極度の近眼になったシーンを 何かしらの「太陽族」に対しての敬意なのか侮辱なのかがわからないという意味合い。 読み終わった後、本人が丸渕眼鏡かけて、幽かに微笑んでいるのもわかる気がした。 | ||||
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