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万延元年のフットボール
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【この小説が収録されている参考書籍】
万延元年のフットボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.16pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全63件 1~20 1/4ページ
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大江健三郎の代表作の1つであることは知っていたが、本の値段が高いこともあり、今回が初読み。非常に期待して読んで、冒頭からの100ページぐらいは、「スロースタートかな」と思うぐらいだったが、150ページ~350ページぐらいにかけては、あまりに物語に動きがないので完全に飽きてしまって、何度も読むのを辞めようと思った。しかし、「芽むしり仔撃ち」でも終盤一気に面白くなったので、辛抱して読んでいたところ、350ページぐらいから一気に物語が動いて、そこからある意味、オチ、大オチと畳みかけてきたのだが、正直これだけ引っ張ったにしては、オチも大オチも弱いと思ったし、何より、終盤までの記述があまりに冗長過ぎると思った。大江健三郎は、あとがきで本作のことを「乗越え点」と形容していたが、ちょっと自分は、振り落とされてしまった感じ。ある意味、作者が書きたいものを書いているということで、「作品」としては立派なのだろうが、自分は単に面白い物語を読みたいので、もう少し、読者のことを意識してくれる作品を読みたいと思った。若い頃の大江健三郎作品は傑作ぞろいだったが、若くない頃の作品を読んで2作連続で面白くなかったので、このまま未読の作品を読み続けるか、または若い頃の作品を読み返すかは、大きな迷いどころ。また、少なくとも、ちょっともうこれだけ長い作品は、少なくともエンタメジャンルではないならば、しばらく敬遠しようかと思った。 | ||||
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大江健三郎を考えるとき、川端康成や三島由紀夫と比べるとわかりやすい。 川端、三島は自分の生きている時代を題材にしないのに対して、 大江は題材にする。戦後の復興期、高度経済成長期の闇を徹底して書いてきた。 だからこそ障害をもった子供が産まれたことは、無視できないし、無視しないわけだ。 加えて自己とか故郷、アイデンティティというものを強く意識している作家だと思う。 主人公が妻と離婚寸前までいったのは、たぶんそういう意識の強さだと思う。 西洋文学的な愛や恋の意識は薄いから。 | ||||
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片目が潰されている主人公。これは「アグイー」の続編? 壊れた友人に壊れかけた弟(鷹)、そして主人公(蜜)夫妻も壊れかけ(障害児を施設送りにしてから)。 屋敷売却のため地元に戻って幕末に一揆を起こした曽祖父の弟と次兄の伝説を調査。鷹はよくヒロイズムで誰かを美化改変する癖がある。故郷の田舎の若者たち相手に指導者的地位を得て自分を発見、復古的ロマンに走る。蜜の妻まで寝取るが、昔妹を死なせたトラウマから逃げきれずに最後は自殺する。 鷹の死後、屋敷の解体で地下室が発見され、曽祖父の弟は実は脱走せずそこで生涯を終えていたことが判明する。 感動した蜜は、それまで保身的だった半生を改めて鷹の精神を継いでアフリカへ冒険の旅に出るのだった。 | ||||
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長寿で晩年に至るまでたくさんの作品を残した大江さんの作品の中でも、抜群に暗い作品です。 読みかけては辞めて、また最初から読んでを繰り返し、20数年をかけてようやく今回頭から最後まで通読しました。 もう、とにかく暗い、しつこい。 気狂い、部落、差別、敗戦、近親相姦、奇形、変死、といった大江作品のモチーフとしてその後もふんだんに取り入られる要素が、最初から最後までなんの救いもないままに書き連ねられます。 またその文章たるや、これがまたいちいちが長ったらしく、じっとりとしていて、悲劇的に酔った挙句に迷惑以外の何ももたらさない登場人物たちにまったく共感できないままに読み続けることを強いられます。 風景描写は美しいものの、これもまた冗長で、しかも似たような情景が繰り返し何度も描かれる。 これが代表作?もっと優れたものがたくさんあるだろ?と思いながら読み続けた挙句、最後はなにも成さないままに弟は身勝手に自殺し、その弟に寝取られた妻と嬉しそうにヨリを戻す主人公(腹には弟の子)。 フォークナーや柳田國男、マルケスやボルヘスなんかの影を感じつつも、要素だけが先に立ち、物語として何をも成し得ていない作品としか感じられませんでしたが、時間をおけばなんらかの新しい感慨が得られるのだろうか? | ||||
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昔、親の本棚にあった文庫本。父が読んだのか、母が読んだのか。大江健三郎のノーベル賞受賞のもっと前の話。 フットボールとあるから、もっと軽い内容かと思ったら、とんでもない。ご本人も、見た感じでは気の良い人物という印象だったが、このような難解な書物だったとは。一度読んだだけでは、理解できない。これは映像化は難しいだろうな。 | ||||
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1967年作。初期の代表作の一つだが、何とも不思議な世界の小説だった。 万延元年(1860年)、幕末政変期に四国の森のある村で起こった一揆騒動と、1960年安保闘争で敗れた主人公の弟~そして、戦中強制徴用されてきた朝鮮人集落と戦後の混乱期のある襲撃事件~その後その一帯を買収し支配する「スーパーマーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人~100年の時を経て重ねられる「村人の暴力」「権力への対抗」とその敗北の重層構造。しかし、朝鮮人集落という設定は「芽むしり仔撃ち」でも出てくるし、大江氏の少年時代、実際に愛媛の村にそういう集落があったんだろうか? ここでは東大在学時の短編などより明らかに各センテンスが長くなっていて、中期・後期の「うねうねと曲折しながら前に進む」ような大江氏独特の文体の萌芽がある。そして中期以降の作品に登場する「隠遁者ギー」も出てくる。 支配への人々の闘い~敗れてなお生きていかねばならない生存者の屈折~村落共同体独特の人間関係・・・濃密な文体で綴られる物語は決して明るくはない。ラストに希望らしきものはあるが、私には東大在学時の短編諸作のほうがしっくり馴染んで読めた。 次は「洪水はわが魂に及び」を読んでみる。時代遅れの”大江健三郎マイブーム”~(*^^*) | ||||
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何かしらこの国を代表する文学として期待していたものの、表面の部分が先に立ってその底部が、表面をなぞるのみの思わせぶりなだけの文章に思えました。 もっと神秘的なものを期待していたのです。 学生運動やそれに付随する権力権威とも絡み合う暴力とセックス、子供などのテーマは自身の体験などもあるんでしょう、そしてそれをも含めた小説家としての小説という一面としての商品としての自己もあり、私小説あるいはある種の告白本としての性質は現実に根差してしまうことは仕方のないことかも分かりません。そして、それがいわゆる農民的な背後や脇腹ばかりを窺うような見方にさらされているというエリート文学者であり当時のある種のスターであるなら、尚更だ。 難解なものなら難解にしてもらうと、こちらもしんどい思いをして読んで、そこから、その言葉に表し難いものを言葉として得ることができようものだし、また、そういう言葉から未知なる読んだことのないようなものが体験したかったものの。 何か、スーパーと闇市と朝鮮人と村の人間が諍い、それは結局われわれ日本人のせいだ、とかいう時々純文学で見かけるある種の政治も実感がないしね。 また、兄がいて姉がいて弟がいて妹がいて、の世代別の兄弟の多さから来るアイデンティティの強まりとまた逆に結束が強まることから来る近親相姦も実感がわきにくい。 すごい真面目。性的人間はよかったんですけど。 最高傑作にしては、確かに陳腐というか、色々全方向的というか、この国のたった2人しかいないノーベル文学賞だから、もうちょっとこう神秘的なやつを期待したのですよ。 | ||||
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今年(2023年)になって、加賀乙彦氏、大江健三郎氏という私が長く敬愛してきた作家が相次いで亡くなった。とりわけ大江氏の作品は高校時代に耽読し、その後の私の人生の進路に深く影響を受けただけに感慨が大きい。その大江氏との出会いの作品がこの『万延元年のフットボール』にほかならない。 当時は講談社文庫版で書店に平積みになっており、真っ赤に塗られた顔が大きく描かれたグロテスクなカバーに興味を惹かれて買って読んだことを覚えている。 まず、冒頭から異様なイメージに圧倒される。夜明け前の暗闇で「失われた熱い期待の感覚」を探し求める主人公根所蜜三郎(「僕」の一人称で語られる)は浄化槽埋め込みのための庭の穴に降り犬を抱いて考え込む。主人公の友人は朱色の塗料で頭を塗って素裸で肛門に胡瓜をさしこんで縊死し、子どもは重度の障害で養護施設に入れられ、妻はアルコール依存に陥っているのだが、これらのイメージは繰り返し喚起され、小説全体の基調となっている。こうした冒頭の状況提示が、翻訳口調も交えた息の長い、ゴツゴツした文体(悪文ではない)で語られていく。難解でとっつきにくいが、読み進むうちに主人公の限りなく下降していく意識感覚に引き込まれるように小説世界に入っていく。 物語は、60年安保闘争に挫折した「悔悛した学生運動家」として登場する弟鷹四、その心酔者であるハイティーンの「星男」と「桃子」の登場を経て、郷里の四国山中にある窪地の村に舞台を転じるが、そこでも過食症の大女「ジン」(スターウォーズのジャバ・ザ・ハットを連想する)、戦時中に村で強制労働させられていた在日朝鮮人の成功者「スーパーマーケットの天皇」、元は徴兵忌避者の「隠遁者ギー」といった異色のキャラクターを配して、大江ワールドが形成されていく。 鷹四は万延元年の一揆の主導者であった主人公らの曾祖父の弟に倣い、村の青年らを組織して、雪で閉じ込められ交通と通信の途絶えた状況下でスーパーマーケット襲撃の暴動まで起こすのだが、主人公は「社会に受け入れられている人間」と嘲られつつ距離を置き、異邦人として疎外感を深めていく。 暴動の顛末には触れないが、運動が自己目的化しその有効性を考えない点で、あたかも新左翼運動(後の全共闘)に対するカリカチュアのように見える。しかし、万延元年の一揆の真相解明と合わせつつ、最終的に大江はその失敗を描くだけでなく、成果も肯定しているようだ。 冒頭で提示された主題である主人公の「熱い期待」の喪失感と、物語の進行につれて深まる主人公と弟や妻との対立、葛藤は暴動の前後で頂点に達するが、鷹四の自死の悲劇を経た大団円で対立は和解へと向かい、「期待」は回復の兆し示して小説は閉じられる。いわば魂の死と再生の物語である。 大江自身がこの文芸文庫版のあとがきで書いているように、「青春のしめくくり」と「乗り越え点」に位置する著作といえる。 | ||||
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○大江健三郎氏がこの作品で試みようとしたこと、書き出しから終末部全体で結実していることを十全に読み取るのは、自分には非常に困難なことでありますが、それでもまず一読後の最初の感想は、小説家大江健三郎に強く勇気づけられた、ということです。 ○若い頃、三分の一程度読んで挫折したのを、折に触れてまた最初から読み始め、結果的に第一章だけを何度も読むことになったのですが、今回改めて冒頭から読み進めていくと、第一章が、極めてスリリングで、彼の現代詩のような、一見過剰で回りくどい読みにくさを感じさせる、なおかつ暴力的に迂回するゴツゴツした形容の洪水が、読み手の中にいかに様々な視点と奥行きを作り出しているかに気づき、ため息、ワクワクする興奮と感動を覚えました。 ○さて、「森に囲まれた四国の谷間の村」といういわゆる土着的で都会の洗練の対極にある舞台設定が、かつて読み通すことを阻害する一因にもなったわけですが、今回も、その読み進めづらさはありました。主人公「蜜」と「鷹」兄弟の先祖が主導した一揆と、現代の「安保闘争」の挫折との関わりは、単に過去の出来事を現代に置き換えて重ね合わせたいという強引(でいささか陳腐)な意図にも感じられ「スーパーマーケットの天皇」に対して結成されるフットボールチームも、もう一つピンと来ないところがあります。作品のタイトルにも与えられているフットボールは、実際、過去と現在を二重写しにしようとする、実際の効果よりも意図が勝りすぎて、どことなく空疎ですらあります。 ○しかし、私に感動を与えるその元は、「蜜」に対置された彼の妻と弟の存在と、彼らから突きつけられる言葉と行動に打撃を受ける、「蜜」(=私の中では大江健三郎自身)の気取らなさ、弱さを曝け出す、その傷だらけの姿に他ならないと言えるでしょう。 | ||||
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面白いか否かと問われれば、後者。 こういうのが好きな人もいるのだろうとは思う。主観的で勝手に溺れていく登場人物たちの姿を文学的と称する人もいるのは知っている。 ただ、読後のレビューとしては一言。やっと終わった。 (最後まで一字も飛ばすことなく読み切りはした) | ||||
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外国文学を和訳したような文体に感じた。起きたことは単純で、それに要した期間も1か月かそこらくらいか。それをこちゃこちゃした情景描写や心理描写で埋め合わせている。とにかく なんとなくだが外国人受けしそうな文体、話だと思った。だからノーベル賞とれたのか。深い意味がありそうで実は大した意味もない話かもしれない。 | ||||
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著者が考え過ぎているようで、文章が日本語として壊れており、何が書いてあるのか意味不明でした。難しいがわかれば面白い、という類ではなく、主語・述語・修飾語…といった基本を守っていなかったり、書いた本人しかわからない(書いた本人もわからない)過剰な比喩が延々と続いていたりする、ただの読みにくい悪文なのです。芸術的な評価を得ているものではありますが、もともと評論される事を目当てに書かれているとも言えるわけで、仕事として文学を研究しているような人以外は無理に読もうとしなくていいと思います。ノーベル賞を受賞する程の人が書いた小説なのだから、読み切れば何か他で得難いインスピレーションを得られるのではないか…と期待する気持ちはわかりますが、理解できないのだから苦痛以外に得るものはゼロです。どうしても興味があるなら、理解しようとせず、こんな本もあるのかぁ…、と眺める程度でいいんじゃないでしょうか。実際の所、読んだと言っている人のほとんどはその程度の読解しか出来ていない(+誰かの評論を盗んで自分の感想のように語っている)と思われるので、悩む必要はないです。感動したと言っていたら胡散臭いと思った方がいいでしょう。そういう人は、学生が思いつくままに書き散らした支離滅裂な文章を大江健三郎の小説だと言って見せたら、素晴らしいと褒め始める可能性が高いです。 面白くて読みやすい、ためになる小説は他にいくらでもあるので…貴重な人生の時間を浪費しない方がいいと思います。 | ||||
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説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。 | ||||
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絶望にいた時に俺がしたこと 俺が抱える以上の絶望を探すこと それによって自分を慰めること 大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった けど大江健三郎の小説は良かった 俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は 光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。 | ||||
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終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。 【内容】 学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。 死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。 【感想】 全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。 一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。 精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か? 友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。 さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。) また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。 | ||||
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"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。 個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。 さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。 先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。 また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。 中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。 | ||||
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なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。 しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。 大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。 そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。 事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。 これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。 日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。 | ||||
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この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。 | ||||
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大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。 ・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。 自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。 | ||||
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初読の際に著者の才能に驚嘆した。文章として際限なく繰り出される想像力。神経の襞に分け入るような繊細な感覚描写。簡単に日常から非現実にまで跳躍する自由度の高い文体 しかし私は読み進めるほどにげんなりする一方だった。なぜというに著者がそのころ展開していた全体小説論を先に知っていたからだ(本当はそこがあいまいで、野間宏との対談がそのころ多かったと記憶するが、完全にそちら側に立った発言をしていたかどうかはわからない。ただ、大江氏がそういうものとして小説を考えていたという前提でこの作品を読んだという記憶だけがある。野間宏との距離感は改めて検証するべきことだが、流石にその気力はない。その点は申し訳ない) それは簡単に言うと人間の総合的知性の最高度に体現された成果として小説がある、ということだ。人間学や科学と並ぶ一つの部門として優れているということではない。正確な科学的知識、正確な政治学社会学的知見を盛り込み、しかしそれらは部分的な知に過ぎないが、小説家の神のごとき全能によって、部分をはるかに凌駕する至高の英知的存在としての小説が生み出される 野間宏本人の言葉か、大江氏の追従かは忘れたが、「青年の環」の登場人物は描写ではない、本物の神経が通い本物の血肉の備わった人間存在そのものであるという発言があり、これが比喩などではなく事実として語られていた。さすがにそれはない、と思った 全体小説論は私の記憶違いとして、フィクションを超えた深い意義が自分の作品にはあるという信念は変わっていないと思う。一連のことは作家としてのプライドが言わせる言葉とは思えなかった。それを超えて、他職業への侮蔑、夜郎自大精神の発露として彼らの文学論があるのだと読めた。ヒロシマ・ノートにおける内容の空疎さと、それでいておのれ一人が真実を見抜く慧眼を持つという、あの本全体に漂ううぬぼれぶりに驚き、なぜこんなものを読ませるのかという高校時代の不信感もあって、「万延元年の…」は決定的に不愉快な読書体験として残った 大江氏の才能には確かに驚いた。しかしそれはアニメにおけるぬるぬる動くということに対する賞賛と同種のものだろう。その部分のみに対する評価から、あの作品はよい、あれはダメ、ということにはなかなかならない。私はそういうマニアではない 実際に本作でも、最初の三分の一ほど、私小説流の技術を存分に使って読者を巻き込むそのリアリティは、後半の喧騒じみたたわごとを支えきれていない。一つの現実の描写として、説得力のある心理=観念的表現が、寓話としての含みを持たせられた途端、ただ煩雑なだけの技巧になってしまう。主人公が内面を語るそれと同じ感覚描写で他人の内面を語ってしまうことが癇に障ってくる 以上のことは氏の創作物を丁寧に読むならわかってもらえることと思う 大江氏の政治的発言などを文学的成果から切り離そうとする人がいる。しかしそういう見方を拒絶してきたのがほかならぬ大江氏自身である。政治的態度と文学は切り離しの出来ない一続きの人間的行為である、というのは氏の心の師匠であるサルトル譲りのものだ。そのサルトルについてあるときから言及がなくなったのは、ノーベル賞が視野に入り始めたころというところが、また彼らしい。いうまでもなくサルトルはノーベル賞の偽善性について散々に酷評していた 私が言いたいのは、大江氏の政治についての意見は、部外者だから知識が足りないなどという限度を超えていて、ここまで未熟な人間が、例えば人間観察においては天才を発揮するなどということはとても信じられないほどである、ということ。もちろん人間として問題があっても、逆に作家としての魅力ではありうる。全能感を持つことは悪いことではない。しかしそれを作品に美しく閉じ込めることは難しく、必要な客観化は氏の小説において不十分だと私は思う 大江作品を私小説の発展形態と解釈することが擁護派の共通理解だと思うが、氏の世界性は特権意識と不可分のものである。つまり自分だけが「私」を描いて民俗学的な根源に迫りうる、あるいは世界の構造を体現しうるという病的なうぬぼれが根底にあるのではないか 改めて読み直して、やはり才能のすごさを再確認した。しかし幼児的な世界だとも思った。小説に可能なことと不可能なことの規を超えた作品ではないか。非常に微妙な言い方になるが、到達目標として全体小説を目指すということと、おのれの全能感から簡単に到達可能であると信じることには、埋まらない溝があるように思う。前者がトルストイやプルーストであり、後者が野間や大江氏である 本作を近代最高の作に推す作家、評論家の多いことは残念だ。ヒロシマ・ノートやノーベル賞受賞記念講演を読むに、無様なまでの論理性の欠如に唖然とする。それは小説作品にもある程度通底するもので、それが読み取れないのは知識人として致命的な鈍さだろう 大江氏を見て純文学なんていかがわしいものだと多くの人は感じたはずだ。文学者という社会適応力のない連中が、仲間内で慰めあうだけの極めてレンジの狭い行為であるという、近代文学が頑張って払拭しようとした見方を、大江氏は元の木阿弥に戻した。文学にかかわる知識人は、このうえ、仲間内でのみ通用する理屈で本作を持ち上げている場合ではないだろう | ||||
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