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万延元年のフットボール
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【この小説が収録されている参考書籍】
万延元年のフットボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.16pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全8件 1~8 1/1ページ
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面白いか否かと問われれば、後者。 こういうのが好きな人もいるのだろうとは思う。主観的で勝手に溺れていく登場人物たちの姿を文学的と称する人もいるのは知っている。 ただ、読後のレビューとしては一言。やっと終わった。 (最後まで一字も飛ばすことなく読み切りはした) | ||||
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著者が考え過ぎているようで、文章が日本語として壊れており、何が書いてあるのか意味不明でした。難しいがわかれば面白い、という類ではなく、主語・述語・修飾語…といった基本を守っていなかったり、書いた本人しかわからない(書いた本人もわからない)過剰な比喩が延々と続いていたりする、ただの読みにくい悪文なのです。芸術的な評価を得ているものではありますが、もともと評論される事を目当てに書かれているとも言えるわけで、仕事として文学を研究しているような人以外は無理に読もうとしなくていいと思います。ノーベル賞を受賞する程の人が書いた小説なのだから、読み切れば何か他で得難いインスピレーションを得られるのではないか…と期待する気持ちはわかりますが、理解できないのだから苦痛以外に得るものはゼロです。どうしても興味があるなら、理解しようとせず、こんな本もあるのかぁ…、と眺める程度でいいんじゃないでしょうか。実際の所、読んだと言っている人のほとんどはその程度の読解しか出来ていない(+誰かの評論を盗んで自分の感想のように語っている)と思われるので、悩む必要はないです。感動したと言っていたら胡散臭いと思った方がいいでしょう。そういう人は、学生が思いつくままに書き散らした支離滅裂な文章を大江健三郎の小説だと言って見せたら、素晴らしいと褒め始める可能性が高いです。 面白くて読みやすい、ためになる小説は他にいくらでもあるので…貴重な人生の時間を浪費しない方がいいと思います。 | ||||
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初読の際に著者の才能に驚嘆した。文章として際限なく繰り出される想像力。神経の襞に分け入るような繊細な感覚描写。簡単に日常から非現実にまで跳躍する自由度の高い文体 しかし私は読み進めるほどにげんなりする一方だった。なぜというに著者がそのころ展開していた全体小説論を先に知っていたからだ(本当はそこがあいまいで、野間宏との対談がそのころ多かったと記憶するが、完全にそちら側に立った発言をしていたかどうかはわからない。ただ、大江氏がそういうものとして小説を考えていたという前提でこの作品を読んだという記憶だけがある。野間宏との距離感は改めて検証するべきことだが、流石にその気力はない。その点は申し訳ない) それは簡単に言うと人間の総合的知性の最高度に体現された成果として小説がある、ということだ。人間学や科学と並ぶ一つの部門として優れているということではない。正確な科学的知識、正確な政治学社会学的知見を盛り込み、しかしそれらは部分的な知に過ぎないが、小説家の神のごとき全能によって、部分をはるかに凌駕する至高の英知的存在としての小説が生み出される 野間宏本人の言葉か、大江氏の追従かは忘れたが、「青年の環」の登場人物は描写ではない、本物の神経が通い本物の血肉の備わった人間存在そのものであるという発言があり、これが比喩などではなく事実として語られていた。さすがにそれはない、と思った 全体小説論は私の記憶違いとして、フィクションを超えた深い意義が自分の作品にはあるという信念は変わっていないと思う。一連のことは作家としてのプライドが言わせる言葉とは思えなかった。それを超えて、他職業への侮蔑、夜郎自大精神の発露として彼らの文学論があるのだと読めた。ヒロシマ・ノートにおける内容の空疎さと、それでいておのれ一人が真実を見抜く慧眼を持つという、あの本全体に漂ううぬぼれぶりに驚き、なぜこんなものを読ませるのかという高校時代の不信感もあって、「万延元年の…」は決定的に不愉快な読書体験として残った 大江氏の才能には確かに驚いた。しかしそれはアニメにおけるぬるぬる動くということに対する賞賛と同種のものだろう。その部分のみに対する評価から、あの作品はよい、あれはダメ、ということにはなかなかならない。私はそういうマニアではない 実際に本作でも、最初の三分の一ほど、私小説流の技術を存分に使って読者を巻き込むそのリアリティは、後半の喧騒じみたたわごとを支えきれていない。一つの現実の描写として、説得力のある心理=観念的表現が、寓話としての含みを持たせられた途端、ただ煩雑なだけの技巧になってしまう。主人公が内面を語るそれと同じ感覚描写で他人の内面を語ってしまうことが癇に障ってくる 以上のことは氏の創作物を丁寧に読むならわかってもらえることと思う 大江氏の政治的発言などを文学的成果から切り離そうとする人がいる。しかしそういう見方を拒絶してきたのがほかならぬ大江氏自身である。政治的態度と文学は切り離しの出来ない一続きの人間的行為である、というのは氏の心の師匠であるサルトル譲りのものだ。そのサルトルについてあるときから言及がなくなったのは、ノーベル賞が視野に入り始めたころというところが、また彼らしい。いうまでもなくサルトルはノーベル賞の偽善性について散々に酷評していた 私が言いたいのは、大江氏の政治についての意見は、部外者だから知識が足りないなどという限度を超えていて、ここまで未熟な人間が、例えば人間観察においては天才を発揮するなどということはとても信じられないほどである、ということ。もちろん人間として問題があっても、逆に作家としての魅力ではありうる。全能感を持つことは悪いことではない。しかしそれを作品に美しく閉じ込めることは難しく、必要な客観化は氏の小説において不十分だと私は思う 大江作品を私小説の発展形態と解釈することが擁護派の共通理解だと思うが、氏の世界性は特権意識と不可分のものである。つまり自分だけが「私」を描いて民俗学的な根源に迫りうる、あるいは世界の構造を体現しうるという病的なうぬぼれが根底にあるのではないか 改めて読み直して、やはり才能のすごさを再確認した。しかし幼児的な世界だとも思った。小説に可能なことと不可能なことの規を超えた作品ではないか。非常に微妙な言い方になるが、到達目標として全体小説を目指すということと、おのれの全能感から簡単に到達可能であると信じることには、埋まらない溝があるように思う。前者がトルストイやプルーストであり、後者が野間や大江氏である 本作を近代最高の作に推す作家、評論家の多いことは残念だ。ヒロシマ・ノートやノーベル賞受賞記念講演を読むに、無様なまでの論理性の欠如に唖然とする。それは小説作品にもある程度通底するもので、それが読み取れないのは知識人として致命的な鈍さだろう 大江氏を見て純文学なんていかがわしいものだと多くの人は感じたはずだ。文学者という社会適応力のない連中が、仲間内で慰めあうだけの極めてレンジの狭い行為であるという、近代文学が頑張って払拭しようとした見方を、大江氏は元の木阿弥に戻した。文学にかかわる知識人は、このうえ、仲間内でのみ通用する理屈で本作を持ち上げている場合ではないだろう | ||||
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大江健三郎の小説の大半がそうだと思うが、出てくる物すべてが何らかのメタファーで、容易な理解を拒む。 卑俗な事を言えば、蜜三郎はただの五月病なんじゃないかと言う気もするし、文章含めアル中(の書いた)小説にも見える。 妙に田舎者をバカにした所があって、うざいインテリ小説のようでもあり、しかしそれは戦後日本人のダメさを暴露しているかのよう。 だから、つまり何なのよ、てなると、私には、さぁ?としか答えられない。 妹を姦通の上自殺に追いやった鷹四が、サッカーチームを作って、スーパーで集団万引きする因果関係も、さっぱり分からん。 | ||||
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個人的に、なぜこのような描写があるのか、不必要なのではないか等、読んでいてストレスを感じる部分があった。 ただしこれは好みの問題で、(極論すれば全ての事柄を必要最小限に収めた話が果たして感銘を受ける文学・芸術作品と言えるのかという事につながるため)いち読者である私の感性がもっと豊かであれば興味深い作品と感じたかもしれない。 | ||||
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以下は、ほとんど大江作品に接したことがない不慣れな一読者による率直な感想、という事でご理解ください。 語句が過剰・・・ 推敲のたびに追加したと思しき語句が紙面に膨れ上がり、それが却って書きたてホヤホヤの瑞々しさを妨げてしまっている。直観より意匠重視ということなのでしょうが、明らかに不要と思える語句も散見される。凝り性なのか、それとも読者の放恣な想像力による誤解を危惧しているのかは定かでないが、著者の執筆スタンスに、簡潔明瞭という四文字は皆無らしい。いずれにせよ語句が過剰という事は、裏を返せば、一字一句の重みを損ねることにも繋がりかねない。まさか、語句は多い方がいいと短絡的に考えているわけではないのでしょうが、少なくとも一字一句に情念を込めるタイプではなさそう。 奇妙な修辞・・・ 厖大な修辞が披露されているが、その数の異常ぶりに加え、幾重にも連なる修飾語句の遥か後方に到ってやっと肝心の被修飾語が登場する奇奇怪怪ぶりに目が廻り、慣れないうちは、妙味を堪能する以前に係り受けの解析に手間取ってしまう。この奇妙な修辞の大群に翻弄され、物語の本質的な理解から遠ざけられてしまったような気が・・・。そもそも修辞とは、ここぞという時に披露されてこそ効果を発揮するもので、本書のように大半が修辞というのは、それが個性で当時は画期的だったと云ってしまえばそれまでですが、さすがにやり過ぎの感が否めない。もともと修飾語句が多い海外文学の和訳ならともかく、日本語でつづられた作品でこんなに癖のある翻訳調の文体は初めてなので面食らってしまったと同時に、ここまでこのスタイルを貫く必要があったのかという疑問も湧く。しかも修辞の内容は、既にひどく時代を感じさせ、読んでるこっちが恥ずかしくなってくるほど野暮である。 同じ語句の執拗な繰り返し・・・ 本書は主人公=僕(蜜三郎)のモノローグが多いのですが、「僕」のモノローグであるのが自明な場面でもなぜか「僕」や「自分」という語が頻出し、だんだん鬱陶しくなってきたので試しにそれらをすっ飛ばして読んだところ、ちゃんと文意を汲み取ることができ、逆にスッキリ読めました。他にも、「頭を朱色に塗り ○ ○ に胡瓜をさしこんで首を・・・」とか、もう分かったからいいよ! と思わず叫びたくなる程しつこく登場します。なんかこういう重複語句や要らぬ修辞を削除して、分量を今の3分の2ぐらいに留めても、ちゃんと物語が成立するような気が・・・ 冗漫な文章・・・ 延々と続くわりに読点処理が少ない、贅肉だらけの締りのない文章が多い。それも、次の語句がさらに次の語句へと淀みなく受け継がれる流麗な文章ではない為しょっちゅう突っかかってしまい、その度に、こんがらかった釣り糸を解きほぐすようなもどかしさを感じつつ戻り読みを余儀なくされた。意図的に文意を分断して読者を煙に巻いているのでは? と勘繰ってしまう。文のリズム感や統一感といったものはもちろん皆無で、それはおそらく作者の思惑なのでしょうが、しかし私のような初読者にはひどく奇異に感じられ、ただ斬新奇抜ぶりを誇張しているようにしか見えなかった。 内容が難解というより文章が晦渋・・・ 平板な場面でも敢えて回りくどく描写して小難しく見せているフシがあり、哲学的な意味での難解さとは違うと感じた。何かこの世ならぬ情景や観念の描写であればおいそれと難解な内容にもなるのでしょうが、そういう場面は意外に少ない。ただ文章がかなり入り組んでいるので、内容そのものも深遠で難解と錯覚しがちにはなる。しかしこんな手法が本作の質を高めているとは到底思えず、私にはただのコケおどし、言葉で読み手を圧倒してやろうという魂胆が見え隠れする姑息な手法と映ってしまった。そりゃあ、無くても構わぬ語句までテンコ盛りにしたうえ、本来なら複数に分かたれるべき文を継ぎはぎして長たらしい一文にまとめ上げたりすれば、どんな文章だって晦渋になるでしょう。しかしいくら純文学とはいえ、無理やり晦渋にして高尚さを醸し出そうとするこの種の手法にはもうウンザリである。 動機が薄弱(含ネタバレ)・・・ 意表を突くためなのかも知れませんが、登場人物の行動が唐突すぎて釈然としなかったことが度々。細部の描写や修辞には凄まじいまでのこだわりが見られる一方、前後の脈絡や伏線と云ったより重要なものが乏しかったり不鮮明なため、よけいアンバランスに感じた。スーパーマーケットへの無法行為も、直近に火種らしき事件は起きてはいるが、十分に伏線が張られていたとは言いがたい。なんか首謀者(鷹四)の思想と村の史実(一揆・在日との確執)がこじつけられて予定調和的にどんどん事が運ばれていったはいいが、肝心かなめの動機が弱いし、そもそも集団行為を駆り立てるほどの原動力がこの村にあったのかどうかも疑問。この手の集団行為は、のっぴきならぬ状況に追い込まれなければ起こり得ないはずですが、村がそんな状況に追い込まれていたとはとても思えない。まあ当の主人公が無法行為に参画せず、尚かつ一人称語りの小説なので、その分この辺りの巨視的な描写が手薄になったのは仕方ないし、だいいち動機付けなどこの作品には些事に過ぎぬのかも知れませんが・・・。いずれにせよ、これもすべて血脈、歴史は繰り返す、という事で解決か? でも結局、伝説とは程遠い、かわいい無法行為(それもガキのいたずらレベル)で終わっちゃったし・・・。この作品、史実と思想の絡みが眼目で行為はオマケみたいだけれど、史実も史実で断片的に披露されただけの一過性のものもあり、すべてが現在話とリンクしているとは思えなかった。他にも珍奇な事象や登場人物がふんだんにお披露目されているが、それらはどれも単発のエピソードに過ぎず、新たな展開を生み出す素材ではなかった。詰め込むだけ詰め込んでおきながらあとはそれっきりなので、食材豊富な鍋料理を生煮えのまま食わされたようなもどかしさだけが残った。 言動が不可解(含ネタバレ)・・・ あれだけ独自の破滅論を華々しく開陳したのだから、そのまま村全体をも巻き込むド派手な闘争劇でも演じるのかと思いきや、首謀者(鷹四)自らあっけなく幕引きをしてしまった。その幕引きも、自身の狂気の具現化というより、生来の性的倒錯が原因による窮余の自滅といった印象のほうが強く、結局、わざわざ親衛隊まで引き連れて故郷に何をしに来たんだ、という疑問が残る。いずれにせよ、なんか言っている事とやっている事が違うような気が・・・。しかもこの人物、自分に甘く他人には厳しい人間の典型のようで、それは配下のメンバーが自身と類似の陵辱行為を行った時に激怒していたことからも察せられる。そもそもこういう独善的で内向きな人物の下に、周囲の人間が寄り集まり体よく組織まで形成されるものなのか・・・。あと主人公の妻(菜採子)がまた更に得体の知れぬ人物で、周りには説教じみた事をズケズケ言うくせに、当の本人は下半身に問題アリの無思慮な自堕落女と大差なく、そういう女が、いくら日和見主義的なところがあるとはいえ、果たしてあんな善人じみた結論へと都合よく導かれるものなのか。しかも、たしか障害児を産んだことで交わりそのものに嫌悪感すら抱いていたはずなのに、この不貞ぶりはいったい・・・。殊にこの二人の主要人物(鷹四と菜採子)については、その気取りまくりの会話内容に反し、行動が余りにも幼稚で刹那的なため、違和感どころか薄気味悪さすら覚えた。 尤もこの作品、登場人物の大半が変な人なので、もうどんな珍事が起きてもおかしくないのですが・・・ 私には、登場人物が起居する母屋も倉屋敷も、最後までお化け屋敷にしか見えませんでした。この人達の言動に論理一貫性がないわそれを補填するための描写もないわで、結局彼らが何を目指していたのかもよく分からないし、確たる人格を持った生身の人間だと見なすのすら困難だった。会話では、やれ属性だのidentityだのといったご大層な言葉が飛び交っているが、総じてインテリ気取りのボンボンに有り勝ちなたわいない遣り取りであり、しかもやっていることが逆に知性を疑いたくなるようなものばかりなのでカッコ悪いことこの上ない。それとも、世間知らずの暇な若者が暴動ゴッコをやらかしたらこうなりますよ、とでも云いたかったのか・・・。いずれにせよ、やたら凝られた登場人物のネーミングとは対照的に、肝心の人物造型はすこぶるテキトーだ。 全体を通せば、たしかに個々の表現に凄みが感じられることはあった。しかしストーリーテラーとしての凄みは全く感じられなかった。特に後半は、当時の流行りなのか、刺激的な描写ばかりが前面に出た反面、筋の粗さと不可解ぶりが目につきなかばカオスと化していた。なにしろ頼みの主人公からして、生涯トラウマになるような屈辱を妻から受けて悶々としていたはずなのに、体よく丸め込まれた上ちゃっかり別人に進化しちゃってんだからもうワケが分かりません。それを予感させるような描写が全くなかったわけではないが、今までの鬱屈をくつがえし新たな心境へと到らしめる程の説得力はなく、これでは御都合主義のそしりを受けても仕方ないだろう。このように正反対の境地に到るまでの心理的過程も詳述されず、「あとは読者の解釈にお任せします」みたいな謎残しをされても不自然なだけだし、第一これじゃあ主人公までもが、信念のかけらもない不気味な風見鶏、という薄っぺらな人物像で終わってしまう。しかもここ、終盤の最重要部分でしょうに・・・ この辺の不可思議ぶりは、ファンの方には逆に妙味ですらあるのかも知れませんが、私のような通りすがりの新参者には、著者が当時の希望的観測を急ごしらえでつづったようにしか見えず、あまりいい気がしなかった。勿論どういう展開に持っていくかは御自由ですが、ある程度つじつまを合わせていただかないと、どんな展開でもありの混沌とした物語、という冷めた見方しかこっちも出来なくなってしまう。尤も、敢えてこういう混沌とした物語にしているのだ、と云われたらもう返す言葉もありませんが、その場合、読者への謎かけと意外性の演出以外に一体なんの意味があるのやら・・・ 支離滅裂な展開をうまく統合しリアリティーを持たせたものが真の傑作、と考える自分には、支離滅裂な展開に終始するだけの本作を、不遜ながら喧伝されるような傑作とは思えなかった。この作品、著者によって入念に練り直されているらしいが、それは個々の文章のことであって物語そのものは隙だらけのままほったらかしのようだ。そのためか最後まで、<細部は緻密、でも骨組みは粗雑>というイメージに付きまとわれてしまった。 以上、大江健三郎に疎いせいもあってケチをつけまくりですが、こんな複雑怪奇な文章表現はもはや前人未到の領域で、少なくとも並の作家には絶対に真似出来ない、という意味では傑出していると思います。またこの文章と摩訶不思議な筋を、読者を出口なき迷路へと導くためのトリックとして駆使していたのであるならば、私も大江マジックに引っかかってしまったという事なのでしょう。実際、大江文学に興味が湧いてきたのも事実であります。 今回はこちらの理解が不十分なまま終わってしまったようですが、もし再読時に深読みまで出来たら、上記のモヤモヤも解消し、また違った評価に変わると思われる重厚な作品ではありました。 | ||||
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蜜、鷹四、菜採子、障害児 この関係を表すのにこうも気難しい言葉で読みにくい文体にしなければ説明ができないのだろうか? これが第一印象である。 次に「勃起したペニス」、「あふれ出る豊な血」、「嘔吐」。 などおなかに入れて気持ちの悪い表現を相変わらず入れてくる。 人との体温を測る、人間の生き様を叙述するのにこういうグロな 方向性に持っていくというのは、著者自身よほどの個人的な体験があったと見受けられる。 それは、子供の頃の適応障害や自閉気味な神経質の少年が 奥深い四国の森で邂逅する生と死、つむぎだされる大江固有の世界の顕現なのであろうか? 「シトロエン」、「闘争・逃走」、「吐き気」などは、いかにも60年代的だ。 いずれにしても、深い作品のモチーフとの格闘と<乗り越えられた点>という ひとつのメルクマールを打ち立てた文学作品だとは思う。 しかし、私との相性が悪いのか、読んでいて気持ちが悪い。 おそらくほとんどの読者も 大江の作品には「在日」と「障害者」、「黒人」などよく登場してくるが、事実を隠そうとする 日本の社会に対し、事実は事実としてそれを小説というフィクションの中に絡ませていこうとする姿勢は、 個性があり、すばらしいと思う。 純文学ならではの個人の創造の自由さは十分伺える。 しかし、如何せん、もう一度読み直したいとは思えないことが、彼の作品を読むたびに 思うことである。 個人的には四国の奥深い裏側の南米文学や、 気難しい文体なら安部公房の方が私にとっては受け入れやすい。 現在の大江の文体もそんな感じなのであろうか? もう少し素直な文章を読んでみたい。 | ||||
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物心ついた頃より、ここ(東京)は田舎者の溜まり場で、常に気っ風と威勢 だけを気にかけていた祖父達は、その大元締めだと思っていた。 だから日本は何処へ行っても同じ、それが嫌なら外国へ行くしか無い、と。 高校・大学を通して安部(公房)と大江に傾倒し、前者は大き過ぎてひれ伏 したが、後者の作品は脳内的に身近で、楽に自身を投影出来た。 本書や「日常生活の冒険」などでこの国に「真の田舎」がある(らしい)事 を知ったが、当時それは大した問題ではなく、それよりも「こんな(登場人 物)風に思う奴はザラにいる(当然自身も勘定済み)けれども、実際にこん な風に喋り、動く事の出来る奴は、俺の知る限り一人も居ないね」。 で、結局「私達の“根”を探るべき本書が(本来相容れる事の無い)リベラ リズムと土着の血で固めた“お伽話”だったじゃシャレにもならん・・」に。 あれから数十年が過ぎ、6年前初めて東京を離れた際に「真の登場人物」に 出くわす事を密かに期待したが、どの「地方」も(最早?元来?)その痕跡 すら見出せなかった。 今も私は、リベラリズムこそが私達日本人に残された唯一の道である、と信 じているが、自身で仕掛けられた罠の中で、曖昧な微笑みを浮かべ佇んでお られる大江氏の姿を見るに付け、改めて、一度たりともそんなもんがこの国 に存在したためしが無い事を思い知らされる。 そもそも、私たちには安部公房がお似合いで、「飢餓同盟」の世界から永遠 に抜け出せないって事か? | ||||
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