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モナドの領域
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モナドの領域の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.66pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全29件 1~20 1/2ページ
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読者に伝えたいことをSF小説の形で書き切ったと作者が確信したから、最高傑作なのでしょう。 読者のほうに伝わったかというと、私の場合はぼんやりしているので読了後一時間くらい気づきませんでした。ヒントはたくさんあったのに。 伝えられたことに気づくと、嬉しい気持ちと淋しい気持ちになりました。感謝です。 筒井さんの長年の読者には、同じような感慨を持たれた方も多いと思います。 若い読者の方は、今はわからなくても、筒井さんのいろいろな作品をお読みになると、わかるかもしれません。 このような野暮で曖昧な文章をこの場に書くべきかどうか、ちょっと迷いましたが、それも領域内かなと思って書きました。 作者も読者も年を取りましたね。 読書は絶滅するのかどうかわりませんが、頭がはたらくうちは読書を続けたいと思います。 | ||||
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最初の―ベーカリー―の中ほど辺りまでは、 ナニか狙ってのこととはわかれども、なんだか人物描写のクドさ ばっかり気になって…。 幼少のごろ、怪獣映画を観に行った映画館でやらかした "ね~怪獣まだぁ?"よろしく、 "ねぇ~神さままだぁ~?!"な気分。 でも、結野教授が―公園―に出た辺りからおもろく読めるようになり胸なでおろす~。 あとはラストまで引っ張っていってもらえました。 …けど、こういうお話って漫画や映画の世界では、 とっくに赤塚不二夫やギリアムが唾つけちゃってるよ~な!? アリストテレス君だの、トマス・アクィナス君、ヴォルテール君らを 引き合いに出さないと進まないトコロが小説と言う表現形態の不自由さなのでは? でも〓そこがいいんじゃな~い!という気にさせてくれるトコロがいい。 | ||||
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哲学や宗教学、特にキリスト教を念頭に置いた神学を齧ったことがある人には、こたえられない傑作になっています。そうでない方もそうでないなりにちゃんと楽しめるように書かれてあります。やはり、筒井康隆はすごい。カバーの装画は筒井伸輔さんの作品で、これも神がかっている。 | ||||
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難解な哲学(神学?)問答は、さっぱりわからないが、十分に面白いエンタメ作。GODは泰然と構えているが、周囲のドタバタ喜劇は、チクチクと知識欲も刺激しながら、全盛期を思わせる出来だと思う。 終盤近く、GODの語る「わたしが創ったものすべてを愛する」と言う言葉が、大作家筒井康隆さんの作家人生の総決算に思えて、感慨深かった。ああ、これが確かに最後の長編なんだな、と。敬意を表して最高評価としたい。 | ||||
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「モナドの領域」(筒井康隆 新潮文庫)を読み終えました。 筒井康隆を読むのは久方ぶりです。「読書の極意と掟」を2018/7月に読んで以来かもしれません。数十年前予備校に通っている頃、私は熱狂的な筒井康隆の"追っかけ"でした。授業中に短編集を盗み読みして、声を出して笑ってしまって以来筒井康隆を読むときはコソコソ、ひっそりと読むことにしています(笑)。 ということで、「モナドの領域」。上代真一警部がバラバラ殺人事件を捜査するサイコ・スリラーが、ベーカリーを舞台にかつての松竹映画の如き視線の低い「都市小説」に変貌を遂げるのかと見せかけながら、法廷ジャムセッションを通して哲学を語るがごときリーガル・スリラーにメタモルフォーゼし、次第に私自身がかつて純真だった頃(笑)スピルバーグの「E.T.」の終盤を見た時のような、或いは著者による「時をかける少女」を読んだ時のような温かい感動に包まれるのは何故なのでしょうね。 主役は、紛れもなく"GOD"であり、2022年に於いては「世界平和」を希求する稀な作品として記憶されることになるでしょう。この作品をこの現実世界では「神業」と呼びます。 | ||||
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満足 | ||||
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"しかしこんな人間みたいな姿かたちをしておる者に向かって『神』とか『神様』とかは呼びかけにくいだろうから『GOD』でいいんじゃないかな。"2015年発刊の本書は著者自ら“わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇"と宣言した、GODが人間界の裁判にかけられる実験小説、著者版の『大審問官』 個人的には長らく著者ファンなのですが。本書に関しては未読だったので手にとりました。 さて、そんな本書は河川敷で片腕、近くの公園では片足が発見されるバラバラ事件の発端と思われる出来事、一方でパン屋のバイトとして見事な片腕や片足の形をしたバゲットを作り失踪した美大生。と如何にもミステリー仕立ての状況から始まるも【物語は一転】『GOD』に憑依され別人の様な『万能存在になった』結野教授が人々の相談にのる中で、彼を教祖として利用しようとする男を"デコピン"で3メートル近く弾いたことから(笑)傷害事件として、裁判に立たされたりTVに生出演し、哲学的な問答を繰り広げる。という『思考・実験小説』になっていくのですが。 まず、著者の神的存在を【神学や哲学の名著を引き合いに出しながら言語化する】という博学さの中に自身の自虐ネタやブラックジョークを散りばめる法廷やTVでのやりとりに、ドストエフスキー『大審問』をオマージュした楽しさがあって、最高傑作かどうかは別にして【著者自身の実体験も反映された】総決算的な作品。という迫力を感じました。 一方で、美貌の刑事が事件に関わっていく。という冒頭からのミステリー仕立ての流れも、作中内で一応は解説されるも【導入部としては特に必要なかったのでは?】と疑問を覚える部分がありましたが。ファンとしては、80代と高齢になってもメタフィクション・パラフィクション的な『実験小説に挑んでいる姿勢』に感動しかないわけで『それはそれ』といったところでしょうか。 神的存在について。『小説仕立て』での問答を追体験したい神学・哲学ファンに。著者の(おそらくは)最後の長編としてもオススメ。 | ||||
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新本同様でした。ありがとう。 | ||||
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筒井さんの大ファンであるが、(おそらく)最後の長編で(著者いわく)最高傑作、と考えると正直微妙かもしれない。ただ、集大成としての作品として受け止めることはできるかもしれない。 SF作品であり、メタフィクション(パラフィクション?)からめ、哲学・現代思想などを絡めて「神」(以上の存在)を描いているわけなので。法廷のシーンは過去の短編(樹木が法廷で語るやつ)を彷彿とさせる。人類の終焉について語る場面は「巨船ベラス・レトラス」の終盤のセリフを思い出させる。時かけまで出てくるw 著者の作品を昔から読んできた身としてはいろいろ楽しめた。 おそらく最後の長編とは言っているけれど、筒井康隆は20年くらい前から老い・死などをテーマにした作品を書き始めて晩年感を出し続けているし、「聖痕」を書き始めるときは最後の作品のつもりで・・・等と言っていたし、短編「アニメ的リアリズム」を書いたときもたぶん最後の短編になる、などと言っていた。その後も作品を書いているので、これで最後じゃないかもしれない。 筒井康隆が「神」をテーマに書いた後、次に何を書くのか、楽しみにしている。 | ||||
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もし神が人間界の裁判にかけられたらどうなるかという実験小説であり、テーマは高高度飛行を目指したと思いますが、いわば中空飛行で終わった気がします。テーマがテーマだけに、成功すれば世界的傑作になったかもしれませんが、自分にはなぜか万能感を抱いてしまった作者の知識のひけらかしに終始した作品という感じが強いです。2013年の「聖痕」、2015年の本作と、この時期の筒井氏の長編は「最後の長編になるかも・・・」という思いを抱いて臨んだ、テーマが大きすぎた挑戦作なのではと思えるのです。 裁判にかけられる事件は些細なものであり、自分は筒井氏の「エディプスの恋人」の宇宙意志の行為を既に読んでいるので、神であればその事件をなかったものにすることぐらいできる筈です。「法廷に立ちたいから」と言われても、そこがよくわかりません。因果を操れる神が裁判にかけられるなどありえないと思うのです。 でもどうしても裁判にかけたいというのであれば、例えば、本書とは違う神になるでしょうが、ノアの方舟の大洪水を起こした神、筒井氏の小説でしたら「エディプスの恋人」の宇宙意志、「弁天さま」の弁天さま、「魚籃観音記」の観音様などの行為が裁判にかけられるのなら、別の意味で、もっと読みごたえがあったと思います。 ただ、筒井氏の博学な知識が過剰に、ここぞとばかりに披露されており、この作品を借りて作者が己の知識の量と深さを自慢することが隠れたテーマであると思われます。それは筒井氏の「文学部唯野教授」でも見られたことでもあり悪いことではないのですが、あの作品は非常に説明が丁寧で、読者を啓蒙・教育する面がありました。本作の場合、説明が丁寧とは言い難く、まるで煙に巻かれたかのように、被告の神の言葉にどこまでの正確性があるのか、凡人の自分にはよくわかりません。そういう意味で、この神は自己の弁論を正当化する優れた詐欺師のようにも見えなくもありません。 | ||||
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日本でノーベル文学賞をとるとしたら筒井先生であると子供のころから思っていました。 TV番組に出演している教授の姿に、舞台「弱法師」で拝見した筒井先生を重ねて読みました。 本作では読者に「お別れ」をおっしゃっているようで、もの悲しくなりましたが、「時をかける少女」を初めて読んだときのみずみずしい気持ちも思い出しました。 まだまだこれからも傑作をお願いいたします。 | ||||
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序盤の話から、脱線したと思ったらそちらの方向にずんずん進んでいくストーリー。 そろそろ終盤かな、というときにあら!と思う一行。 でもなんとなく満足感を覚えながら詠み終えることができた。 構造の面白さがインパクトあったのでストーリーについては触れない。 | ||||
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筒井先生のこの作品は単行本が出てすぐに読みました。 当時、筒井先生ご自身が『我が生涯最後の長編』や『我が最高傑作』と仰られていたので、一体どんなハードな内容かと覚悟していましたが、実際はいつも通りの読みやすい筒井作品でした。 ストーリーは、ある日、河原で人の片腕が発見され、同時にその腕そっくりのパンが近くのベーカリーで販売されており、平穏だった世間を震撼させるというもの。 警察が捜査する中、突然、近くの大学の老教授が何かに取り憑かれたように自らを〈GOD〉と名乗り、〈GOD〉は事件の容疑者として出廷した裁判で「全ては世界の運命だ」と告げる・・・。 こう書くと難解そうに見えますが、この〈GOD〉はヘラヘラした変人老人として描かれているので、全体的にノリが軽いのがこの小説のユニークな特徴だと思います。 ところで他のレビュアーさんは、タイトルの『モナド』をコンピュータ・プログラミングの『モナド』として理解されていますが、私はライプニッツの理論の方だと思いました。 ゴットフリート・ライプニッツは17世紀ドイツの哲学者で、『形而上学序説』や『モナドロジー』という著作で有名な人物です。(今は中公クラシックスで買えます) そのライプニッツの言う『モナド』とは、分かりやすく言うと『神』と『精神』のことです。 ライプニッツの理論ではこの世界のあらゆる存在、つまり人間や物はすべて、『神』の一部である『精神』を神から与えられているとされます。 (つまり全ての存在が必ず持つ『精神(下位のモナド)』は『神(上位のモナド)』と垂直に繋がっている) その為、ライプニッツは「世界の全ては『神(上位のモナド)』によってコントロールされている、故に人間に自由意志は無い。そして完璧な存在である神は、完璧な計画に沿って世界を動かしているので〈どれだけ残酷な大殺戮〉だろうと、世界には必要な事なので〈それは善いこと〉である」と結論します。 (ちなみに上記の楽観的な思想ゆえにライプニッツはオプティミスト=楽天主義者としてヴォルテール達に批判されました) そして、この『モナド論』の中で展開されるのが、有名な『可能世界論』という名のパラレルワールド論です。 神は完璧なので、さまざまな〈ありえる世界(可能世界)〉をあらかじめ想定してから、その中でもっとも理想的な世界を選び、今の世界を創造したとライプニッツは論じる。 このことから、筒井先生の〈GOD〉の語る内容は、ライプニッツの『モナド』だと思われます。 (もっともモナドを神による世界のプログラミングだと解釈するのも面白いですね) あと、作中に筒井さんの声が現れる仕掛けは、明らかに読者やキャラクターに作者の存在を突きつけるメタフィクションの常套手段ですが、 ここにライプニッツの『モナド』の発想を重ねると、『神』と『人』という関係から、『作者』と『読者』というパラレルな関係を見出すことが出来ると思います。 (あえて踏み込んで言うなら、ストーリーを作る『作者』に対する『登場人物』からの「どうしてこんなストーリーにするのだ、私の作者め!」という声は、 もし旧約聖書をいま読み返すなら〈ヨブ記〉における神エホバ(作者)に対するヨブ(登場人物)の呻きの意味にも新しい意味が与えられると思います) そしてこのメタフィクションの発想に、さらにミハイル・バフチンのポリフォニーの理論を認めるなら、作者は登場人物に設定を与えた時点で、その設定に沿うようにしか〈行動〉も〈発言〉も不可能になり(場合によっては作者とキャラクターが互いの存在の言及まで始めてしまう/終わらないメタ化合戦)、 作中のキャラクターをコントロールするはずの作者が逆にキャラクターに拘束されるという逆説的な事態を産みます。 (もしそれを守らなければ、あの世にも恐ろしいキャラ崩壊という悲惨な目に会います) もしこれらが本作で筒井先生が語ろうとしていた事だとすると、この次作に創作論の本を出したことも頷けますね。 じつは筒井先生の創作論の序曲、あるいは創作論の実践として書かれたのかも知れません。 つまり、だからこその『我が最高傑作』だったのかも。 他の読者の方はどう思われたのか、個人的にはそこも気になりました。 (ところで最後の方に出てくる難解な数式はクルト・ゲーデルでしょうか) 哲学的ながらユーモラスでページ数も長くなく、とても読みやすいので初めて読む筒井作品にオススメだと思います。 筒井先生にはこれからも長生きして作品を書き続けて欲しいですね。 | ||||
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【ネタバレ有り】レビューです ネット上の各種の感想及び評論を見て回ったが、この種の読解がなかったので、 レビューサイトとしてメジャーなここに置いておく。 もちろん読者の勝手な読みときの1つであることは申し添えておく。 自分だけが作者の意図を感知した「選ばれたもの」などという気はない。 「モナドの領域」は神学論を使った、作者(神)―読者(人)の読み解きである。 GODという存在を単に神学論の「神」とだけ捉えていると、本作は面白くない。 正確に言うと、それは表面的な物語の読みとしては正しい。 しかし、GODの背後にいる作者筒井康隆を感じないと、メタフィクションとして味わえない。 本作ではGODが「神の存在」について登場人物に語る。 それは置き換えによってこうも理解できる。 作家筒井康隆が読者に「クリエイター(作家)」について語っている。 本作でGODが世界や人への関与を語ることは、 すなわち作家が小説世界や登場人物ついて語ってることの謂(いい)である。 登場人物たちがGODの存在を探し、あがめ、あるいは逆らうことは、 神vs人のように見えながら、その実は作家vs登場人物なのである。 登場人物必ずしも作者の思い通りにならず。 この感覚はクリエイターという点で神に近似する。 小説世界をメタに俯瞰すれば、作者こそがGODである。 筒井康隆はこのメタフィクションをたびたび追求してきた作家である。 登場人物の自意識が「作中人物であること」を感知する物語を、 『脱走と追跡のサンバ』『虚人たち』などで示してきている。 あるいは、作者の万能な神の手については、 言葉が作中から消えていく『残像に口紅を』や、 読者の意見を取り入れながら物語を展開する『朝のガスパール』で展開してきた。 『ガスパール』で登場人物を大量に乗せた旅客機を墜落させて人減らししたのは、 まさにGODならではの蛮行とも言える。 本作中でGODは世界と被造物である人や生きものや自然について語る。 世界に存在する被造物は自分の創り出したものであるから、すべてを愛していると。 これはすなわち作家筒井康隆の作品や作中人物への言葉でもある。 GODであればこそ、いかようにも選びうる無限の組み合わせの中から、 選びぬいた幾つかの物語世界。 それは偏愛からなされた造物ということなのだろう。 どんなに歪なキャラクターや読者に受け入れられなかったり物語も、 作者(GOD)は分け隔てなくクリーチャーとして愛していると告げている。 それはまた読者に対してもそうだと言える 「創るもの」「造られたもの」に足して「見るもの」がなければ、 世界の存在が閉塞してしまうからだ。 神と人が 「創るもの」「造られたもの」の関係にあるとしても、 人は神の思うままには行動しないであろうことは、 作者が登場人物を完全に制御しきれないことに似ている。 そして、それを「見る」ものも完全には制御できない。 読者(見るもの)は万人万様の価値観の中で、 読書の快感を作中に求めている。 それは 「創るもの」「造られたもの」の織りなす世界を、 一歩引いて眺めながら、「見る」立場においてなされている。 それは登場人物視点のようでもあり、作者(GOD)に似たポジションでもある。 正しい読み解きを探して、作者の意図を探る行為は、 神学論における「神の意志の探求」にも似ている。 物語を読み、作者の意図を探ること、これは神学論と通じているのだ。 もうおわかりいただけただろう。 筒井康隆は神学論を語りながら作家論を語っていたのである。 「創るもの」「造られたもの」「見るもの」=作家・作品・読者である。 クリエイターとして万能であるが作家が、作品や読者に愛を語る。 それは神が世界に愛を語りかけるのにも似ている。 「造り出したもの」を創ったものが愛さないわけがない。 これは反転して神の立場にもなりうる。 神学論に似せて作家論を語り、 反転して、作家の孤独や(作品創作における)万能から神学論に立ち戻る。 『時をかける少女』を引用したメタ視点の読者サービスもふくめ、 筒井康隆はハッピーエンド(大団円)を着地点に進んでいく。 イチビリ倒してきた傍若無人、縦横無尽、千変万化、毀誉褒貶の筒井康隆も、 作品世界・登場人物・その読者の ハッピーエンド(大団円)を望んでいるのだ。 それが作家という GODを続けてきた結論だからなのだろう。 これは作家筒井康隆から作品読者へのラブレターである。 | ||||
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「本書を凌駕する傑作を著者は過去に幾つも執筆していると思う」という一般的感想もわかるが、筒井作品の最高傑作はいくつもある。 『モナドの領域』は、黒澤映画でいうと晩年の『乱』、しかし決して冗長でなく引き締まっているのは流石。 黒澤監督自身が最高傑作と言った到達点『乱』は公開当時よりも監督逝去後の方が評価が高く、理解されるのに時間が掛かった。 思えば筒井作品過去の新境地『虚人たち』も『虚航船団』も発表当時みんな面食らい、評価に時間が掛かったではないか。 僕自身、最初『モナドの領域』の異化効果など作劇面はわかっても、最高傑作というのがわからなかったが、再読してわかった。 先に引き合いに出した『乱』の他に『夢』も内包し、ある意味ドストエフスキーをも越えた境地。 著者は『虚航船団』で過去を考え直し、『聖痕』で現在を見直し、『モナドの領域』で未来を予見している。 あらゆる評価や賞を拒否してまで現実世界を憂い、全人類に対して挑戦した最高傑作。 なぜ最高傑作なのか、いつの日か皆その意味がわかった時…その日が来なければこの世は平和なのだけれど…今はまだわかる人にしかわからない。 | ||||
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メタなネタを入れてますが、 神さまがなんで現れたのかはアニメ等などでおなじみのわかりやすい理由のSFです。 便宜上、GODと言わせてますが、モーガン・フリーマンが演じそうな神さまです。 この作者なので、笑いは的確にとっていきます。 確かに、綺麗なオチ。 静かに、以前よりちょっと幸せ。この神さまはやっぱりとても優しい。 God's in his heaven,all's right with the world. | ||||
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前半はまたなんだか難しげな話になりそうな予感がしましたが、後半GODが裁判所とTVで戦争、政治、宗教、哲学、多元宇宙などありとあらゆることに饒舌に答えるシーンは往年の筒井康隆が戻ってきたようで、うれしかったです。 | ||||
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筒井氏曰く「最後の長編」らしい。 筒井氏曰く「最高傑作」でもあるという。 本作は全四章形式となっており、河川敷と公園で女性の片腕と片脚が発見されるという事件を濫觴とする「ベーカリー」、全知全能となった結野教授の奇蹟を描破する「公園」、全知全能の結野教授、畢竟、《GOD》の裁判を叙述する「大法廷」、《GOD》のTV出演と後日談からなる「神の数学」である。重要なのは第四章「神の数学」であり、就中、TV出演場面の後半にて、《多元宇宙論》の話題におよんだ爾時、《GOD》は小説としては致命的なる発言をして本作が《メタフィクション》――作中では《読者参加型のメタフィクション》である《パラフィクション》とされているが――であることを標榜する。登場人物のひとりは「それ言うたら、おしまいとちゃうんけ」とまでいう。一見悪ふざけのような場面だが、全体的に上記の発言が本作の――ついでにミステリー部分の――主題となる構成になっている。 《宇宙はひとつではなく、なんらかのかたちで複数存在する》という多元宇宙論といえば、宇宙物理学の古典的理論であり、基本的にステージⅠからステージⅣまでのパターンがある。曩時は《すべての宇宙はおなじ物理法則にのっとっている》とされていたが、輓近は《巨億の宇宙のなかには、我我の宇宙とは相違する法則に支配される宇宙もありえる》とされる。其処で《GOD》は、《小説の世界はすべて可能な宇宙であり、いずれかの宇宙で実際に存在している》というように論述してゆく。 此処において、《GOD》と《世界》の関係が《筒井康隆》と《作品群》のメタファーであることが闡明されてゆく。最終的に《GOD》が秘書役の登場人物美禰子に物語る《あの台詞》が感動的だと話題になったが、この台詞はネタバレしないのが暗黙の諒解のようなので引用はしない。ただ、《GOD》が《被造物》をあのようにおもっている、ということは、《筒井康隆》が《自作の登場人物たち》をそのようにおもっている、という構造は明白だろう。ゆえに、《あの台詞》は、小説という可能宇宙においての《神》である《筒井康隆》から、『虚人たち』の主人公へ、『パプリカ』の千葉敦子へ、『富豪刑事』の神戸大助へ、『家族八景』の火田七瀬へ、「時をかける少女」の芳山和子へ、『霊長類南へ』のブライアン・ジョー・バラードへ――、というように、《すべての登場人物》たちへのメッセージであるともうけとれる。最終的には、一九六〇年発表のデビュー作「お助け」において、絶望的なる状況で「神様、お助けを!」と咆吼した宇宙航空士訓練生への《お助け》になったともいえる。五十余年の時間を閲して、筒井文學すべてがひとつの円環をなすことになったのである。 雑誌『新潮』掲載爾時から、《感動的》とまで絶賛された本作だが、個人的には《あの台詞》に落涙はしたものの《感動的》とまではおもわなかったし、筒井氏の《最高傑作》とまでもおもえなかった。「夢の検閲官」や「アイス・クリーム」のような短篇のほうが感動的だし、エンターテインメントならば『パプリカ』、純文学ならば『虚人たち』あたりのほうが筒井氏の最高傑作と鑽仰するに相応しいとおもわれた。と雖も、前述のとおり、本作をもって筒井康隆文學をウロボロス的に総括した神業的実験には万雷の拍手がおくられるべきだし、SF作家、純文学作家として五十余年にわたり第一線を驀進してきた筒井康隆氏の諸作の《総決算》としての文學的価値はあきらかであり、星五つとするだけの重要性は充分にあるとおもわれる。 | ||||
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初出は、文芸誌『新潮』(2015年10月号)に一挙掲載された、御大の意欲作。 河川敷で発見された女性の腕、公園で見つかった脚、バイト先で腕、脚そっくりのパンを焼いた美大生。 SF出身の著者が、嫌っていた推理小説(結末は詭弁、だそうだ)の手法をも取り入れ、幅を拡げたのは、いつ頃からだったろう。 しかし、そこからSF、実験、『文学部唯野教授』を想起させる思弁を重ね、数学、哲学、宗教、宇宙論(美術、音楽にはほぼ触れず)を踏まえ、教養小説、全体小説(野間宏のものとは、意味合いが異なる)、汎用性の高い入れ子構造のあるメタ小説へと飛躍してゆく。 近代小説へのオマージュか、小説内に著者の注釈を挿入したり、逆に、新しい切り口で、小説の枠組みを毀そうとする試みを模索していたり。 思えば、明治期の近代小説も、行き詰ったかと思える現代小説も、模索、試行錯誤、実験の連続。 人称の統一、視点の統一、展開しながら持続性や一貫性を保つべきとされる物語構造など、文壇権力者たちにより出来てしまった小説のタブーに違和を感じ、成功したかどうかは別にして、挑み続けてきたのが、筒井康隆だ。 本音を言えば、ノーベル文学賞候補に上ってきた日本の歴代作家と同等くらいに、あるいは、それ以上に、世界レヴェルで認知されてもおかしくはないのではないかと書けば、アゲ過ぎになってしまうだろうか。 個人的には、文壇の主流から蔑まれつつ、大江健三郎に匹敵するとも思われる、ポピュラー音楽におけるパンク、ニュー・ウェイヴの役割を担ってきた(だから、パンク歌手の町田康を評価?)著者の、過激かつ優れたスラップスティックを量産していた1970年代までが、好みだが、『虚人たち』(1981年)で明白になる、若かりし頃からの心理学やSFからの影響に加え、トマス・ピンチョン等の北米、フリオ・コルタサル等の南米、ウルリカ・カリンティ等の東欧の前衛文学を丹念に読み、刺戟を素直に受け、困惑し、悩みつつ、今に至るプロセスは、成熟以外の何物でもない、と、つい、偉そうに言ってみたくなってしまう。 御歳81歳、まだまだ走り続けて欲しいけれど、スぺキュラティヴ(思索的、問題提起)な作品と並行し、今の10代を大笑いさせてしまうものも、書いてもらいたいと、思う今日この頃。 | ||||
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気付かないうちに、読み終えていた。 ストーリーは、単純だと思える。 また、極めて日常的でもある。 気になるのは、物語を語るルールに反しているとも思える点である。 物語を語る者が、自身を物語のなかで語るのである。 語る者と語られる者とが区別できなくなるような、物語のフレームを揺さぶる印象を与える。 物語の話者が、作者のことを語る。 しかし、話者のことを語っているのは、作者である。 その作者について、話者が語るのである。 ただし、この作者のファンなら、喜んでいい。 さらに、この作者の過去の作品を、これから読もうと思う読者にもいいだろう。 新たなファンも、増えるだろう。 それでも、先述のような語る者の重なりは、気になる。 全体を語ろうとしたのであろう。 物語を語るとともに、そうする自身も、それが本となってが出版され読まれる世界も、あるいはそうではない世界についても語りたいのではないか。 換言すれば、この世界すべてを視野に入れ、そのすべてを語ろうとした、と言えよう。 しかし、それは1つの試みとしてしか成立しないのではないか。 それでも、その試みがモナドなのだろう。 最後に、問いたい。 モナドは、わたしたちに、どのような影響を与えるのか。 望ましい一定の影響が認められるなら、それを緩やかな真理として受け止めたい。 望ましい影響は、必ずしも具体的な利益でなくてもいい。 また、ささやかであってもいい。 ほんの少しの、ものの見方や価値観、習慣が変わるような影響を求めたい。 | ||||
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