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老人と海
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老人と海の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.13pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全187件 101~120 6/10ページ
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小川高義訳の最大の特色は、細部にこだわらずに訳文の簡潔化をはかり、ヘミングウェイのムダのないきびきびした文体を見事に再現したことです。他の訳とくらべてみると、その差は一目瞭然です。例えば、 (原文) ”But man is not made for defeat," he said. “A man can be destroyed but not defeated.” (新潮文庫) 「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」とかれは声に出していった、「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」(70字) (文芸社) 「しかし、人間は打ち負かされるように創られてはいない」声に出して言った。「人間は打ちのめされることはあっても、打ち負かされることはない」(68字) (小川訳) 「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」(38字) 小川訳は、簡潔で力強いだけでなく、その言葉づかいは不屈の漁師にふさわしい。会話文の扱いが巧みなだけでなく、地の文もすばらしい訳が多い。例えば、it looked like the flag of eternal defeat を「まるで永遠の敗北の旗のようだった」などと直訳するのでなく、「連戦連敗の旗印にしか見えなかった」と意訳。84日間も続いた不漁のイメージが鮮明です。本書は、文体が簡潔でムダがなく、訳語が的確で分かりやすい。数種類ある訳書のなかのイチオシです。 | ||||
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ヘミングウェイの最高傑作 The Old Man and the Sea の最新訳です。「老人の思いをより深く海の情景をよりリアルに」がうたい文句です。訳者まえがきによると、既訳は「訳者に、海や船、海岸地形や釣りに対する知識がないために、情景が見えず、用語の表す意味を正しく表現できていない」。そのような指摘が二百六カ所に及ぶので、新訳を上梓したというわけです。その意気やよし。 著者のいう既訳とは福田恒存訳らしい。福田は coiled lines を「巻綱」と訳しているからです。宮永氏の言うように、巻綱という成句はないが、これは訳語であり、巻いた綱と読めるので、よい訳ではないにしても、ミスではない。本書は、coiled lines を本文では「ロープの束」と訳しているが、これでは「ぐるぐる巻きにしたロープ」のイメージがとっさには浮かばない。それに、line の訳語がいつの間にか「ロープ」から「ライン」に変わっているのは問題です。「ライン」には「線」のイメージしかない。ロープで統一したほうがよかった。 次に、海では「flat は「平たい」ではなく「凪いだ」である」との指摘については、the surface of the ocean was flat を「海面は板のように平らだった」と訳すのは何ら問題ない。主語は海面であり、ここは「平ら」のほうがよい。また、Then the sun was brighter and the glare came on the water and then, as it rose clear, the flat sea sent it back at his eyes so that it hurt sharply… のような文脈では「平たい」でなければならない。 海と船に強いと自負する宮永氏が福田訳の海と船に関する訳語に物足りなさを感じ、新訳を上梓した意欲は多としますが、翻訳の良し悪しは、ヘミングウェイのきびきびした無駄のない文体を訳文がどれだけ再現できたかよって決まります。その観点からすると、宮永訳は細部への妙なこだわりから、冗長に流れるきらいがあります。例えば、The lines all mean nothing now. The boy and I will splice them when we are home. 宮永氏は「もうラインは何の価値もなかった。帰ったら、あの子と一緒にスプライス(注:ロープを織り込んで繋ぎあわせること)しよう」と書く。いささか煩わしい。注など持ち出すまでもなく、「あの子と一緒に繋ぎあわせよう」と書けばすむ話ではありませんか。 | ||||
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昔スペンサートレーシーの老人と海を 見たことがある、 カジキマグロと格闘し、最後はサメに 食われて骨だkになってしまう、 老人の充実と、悲しみ、 網の修理をしているときに、老人がいつも 一緒の少年に聞く、 ディマジオは打ったかい、 確か、kの年、デマジオは52本連続ヒットの 新記録を作った、 | ||||
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85才の漁師の話。自然との対話、自分との対話が流石85才!見ていないだけで高齢者とはこういう感じなのかなと改めて尊敬しました。 | ||||
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人生で一番感動した作品です。この新訳も、楽しく読ませてもらいました。 内容については紹介不要の超有名作品・素晴らしい小説なので、ここでは、今回の訳で、僕が素晴らしいと思った箇所を冒頭の方から3つ抜粋します。 (原文も当然素晴らしいのですが、よくぞこの訳文を選んだなーと思います) 新しい傷ではない。魚のいない砂漠の土地に浸食作用の跡があるような、遠い昔からの古傷だ。 どこをどう見ても老人だが、その目だけは海の色と変わらない。元気な負け知らずの目になっていた。 もともと希望や自信を失ったことがない。その老人が、いままた風の立つような勢いを得ていた。 老人は、いつから素直になれるようになったかと考えるような、ややこしい男ではないのだが、そうなってきたという自覚はある。だからといって沽券に関わるとか、男がすたるとか、そんな浅いことも考えない。 以上です。 シンプルかつ現代で使われている普通の言葉を使いながら、原文の雰囲気を壊さないようにできているのは、素晴らしいと思います。 | ||||
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この小説はわたしの半生において読み返す回数の多かった作品です。『ライ麦畑でつかまえて』も5~6回読みましたが、この『老人と海』はそれを凌ぎます(ついでに書いておきますが、わたしは『catcher in the rye』の翻訳は野崎孝氏によるものの方が好きです』)。 みなさん原文も読んでおられるようで福田恆存氏の翻訳に点がからいようですが、わたしにはじゅうぶん感動的な内容でした。 ヘミングウェイという作家の作品は、男臭さを野放図にまき散らすような印象を与えるけれど、実のところ充分な推敲がなされています。「フランシス・マコーマーの短い幸福な一生」「挫けぬ男」「殺し屋」などにもそうした態度がはっきり出ていて、横光利一の「蠅」に見られるような「第四人称」とも言うべき表現が頻繁に見られます。つまりこの小説において主人公は、毎日の生活をヘルプしてくれている少年以外とは誰とも会話をしていない。舟の上でカジキと戦っているあいだ綿々と想いをめぐらせますが、カジキを釣り上げたら大儲けができるぞといった発想は出てきません。 こう書いていて思い出したのはヘミングウェイに先立つこと数年にノーベル文学賞を受賞したラーゲルクヴィストの『バラバ』です。あの小説にも主人公のバラバが「これで助かったと思った」というくだりがほぼまったく出てこない。 最後になりますが、わたしが一度映画「切腹」を観るにあたって原作を読んだとき、卓抜なレビューを書いておられた方がこの小説についても興味深い文章をものしておられたので、いろいろ考えてみました。その方のレビューによれば「この話の老人はイエス・キリストに表象され得る」とした視点から読んでおられました。これはいわばポスト構造主義の手法ではないでしょうか。わたしとしては老人は老人であり、海は海だ、という読み方のほうがたくさんの感動を得ることができると思います。 | ||||
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漁師ってかっこいいなぁ…。 老人はライオンのように気高く、また獲物と戦う姿は果敢で美しい! しかし、それらはハイエナのような鮫によってボロボロにされて命からがら家へ戻ります。 時代は残酷ですね。 しかし、これも一種の食物連鎖の運命なのでしょうか。 食うことと食われること、食物連鎖、弱肉強食の厳しさのなかで、シンプルに不器用に、自然のままに生きる老人の気高さを感じました! | ||||
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老人の執念が感動的だった。 海の記述と老人の姿が生き生きと描かれていた。 | ||||
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通勤の時間を利用して読みました。 本文100ページ程度。 解説や年表を含めても百数十ページなので3日足らずで読み終えることができました。 「老人と海」を読むのはこれが初めてで他の翻訳とは比較できませんが、読みやすい文章だと思います。 読後は作品を充分味わった気分に浸れました。 分かりやすいハッピーエンドではないけれど、どこか勇気や人間の強さを読者に与えてくれるような、じんわりとした温かさのある作品です。 | ||||
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若い頃読んだ時の印象が良く、最近もう一度読み返したいと思っていた本。 老漁師サンチャゴがメキシコ湾に小舟を浮かべ出漁したが不漁が続く。 85日目についに18フィートもある巨大なカジキマグロを激闘の末に仕留めたが、 帰途サメに次々襲われ成果物は食いちぎられてしまう。 老漁師のつぶやきに味があり、この老人を尊敬し、惜しみない協力を願い出る少年との交流も ほろっとさせる。 | ||||
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老人とカジキマグロの死闘、老人とサメの激闘が文庫本百数十ページに凝縮されている。老人の勇気、執念、諦めない心に感動を覚えた。何度も心がくじけそうになるのを乗り越え、カジキマグロと4日間にわたるガチンコ勝負を経て、とうとう巨大なカジキマグロを仕留めた。そこには人間と魚の種としての優位の差はなく、一対一の正々堂々とした戦いが語られる。せっかく釣り上げた獲物が、陸に帰る途中でサメに食い荒らされるのは野生の非情さ残酷さが牙をむいたというところか。老人と老人を敬愛する少年との友情も心地よい。 | ||||
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何十年も前に読んだきりで、今回も別の訳と比較しいしい読んだわけでは ないけど、漁獲用具等の説明が丁寧なので情景が目に浮かぶようで、かつ また読みやすい訳で一気に読み終えました。最後のページとかに訳注を まとめて置くんじゃなく、出て来た時にその都度解説してくれるのが想像力 の助けとなりとても親切。字も大きくて老眼の私には大いに助かりました。 (通常の本の2倍という値段には目を瞑るとして) ストーリーの最後がどうなるかは小説だけじゃなく映画でも観ていてまだ 記憶に残っていたので、ちょっぴり悲しい気がしつつ読み終えました。 でもまあ主人公の老人にはよく頑張った!とエールを送りつつ・・ えっ、わたし?実は訳者のいとこだったりして・・(^^; | ||||
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身体・精神的にタフで、弱音をはかない主人公、 サンチャゴには素直に憧れる。単純にかっこいい。 なんとなく、映画「ダイ・ハード」を思い出した。 ヘミングウェイはハードボイルド小説の原点だそうだが、 ハードボイルドというと、大藪春彦氏の小説、『野獣死すべし』のように、 タフで非情な主人公がアクションを繰り広げる作品というイメージしかなかった。 巻末に訳者解説によれば、ハードボイルド・スタイルなるものは、 簡潔な客観的行動描写で主人公の内面を表現する手法だそうで、 そんなことは知らなかったので勉強になった。 | ||||
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1952年9月1日の『LIFE』誌特別号で発表された簡潔で骨太な物語は大ベストセラーと なり、作家に1954年のノーベル文学賞をもたらした。主人公のサンチャゴ老人は漁師 だが、84日間にわたって収穫がない。老人には心を通じ合わせることのできる少年が いた。少年とは互いに大好きな野球の話をしたり、食事を一緒にする関係だ。老人は 漁に出る。そしてとてつもない大物と遭遇する。そこから大カジキとの、いや自分との 闘いが始まる。その過程は祈りであり、敬意であり、迷いであり、人生への問いである。 乾いた文体と冷徹な写実的描写をもって、ハードボイルドの創始者のように言われる ヘミングウェイだが、そこに描かれているのはやはり西洋人、いやアメリカ人だと思う。 日本人はこうはいかない。ひたすら正直に、自然の全てを受け入れて、善も悪もなく、 全力で獲物と闘うが、無理はしない。老日本人漁師ならきっとそうする。アメリカ人は 何かに打ち勝とうとするし、強くあろうとするのだ。この辺にアメリカ文学の特色がある。 同名の『老人と海』というドキュメンタリー映画で、単独でのカジキ漁を続ける老日本人 漁師を描いている。名作なので、本作品に惹かれた方には、こちらの方もお勧めする。 | ||||
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国語の教科書を思い出す。 海に出た老人が一人で魚と戦う様を、情景描写とセリフと混ぜて描く。 そこに心理描写は無く、読者が筆者の意図を汲み、考え読み進める。 一度読んだだけではただのつまらない1人の男の老後。 憐れみを感じながら読んでいたけれど、最後はなんか良いじゃんと思ってしまう。 何回でも読み直さないと。 | ||||
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まずまずの評価です。少し変色でしたが価値として当然とおもいます。 | ||||
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原著は1952年の本で、「老人と海」はヘミングウェイの生前に発表された最後の小説である。 主人公はキューバの漁師であるサンチャゴ。サンチャゴはもう80日余りも魚の釣れない日が続いている。妻とは死別し、孤独ではあるが、漁師の少年マノーリンには師匠のように慕われてもいる。 ストーリーは単純である。 老人はある日、沖に漁に出るのだが、ここで大きなカジキマグロを食いつかせることに成功する。老人とカジキマグロは孤独な対決をする。カジキマグロが浮き上がってきてモリを突き刺すタイミングを待ちながら数日が経過する。この数日の間に、老人はマグロに話しかけたりするなど大きなマグロに対して一方的なコミュニケーションが成立してもいる。無口のマグロとの持久戦が続く。そしてついにモリを打ち込み、老人はマグロを仕留める。大きなマグロを舟で曳いて帰るのだが、マグロの血の匂いを嗅ぎつけてサメがやってくる。サメが死んだマグロに食いつく。老人はサメを殺す。別のサメがまたやってきてマグロに食いつく。老人はサメを殺す・・・美味のマグロを少しずつ食われていく。老人は死んで半分食われてしまったマグロにときどき話しかけている。結局、疲労困憊して小さな港に辿り着いた時にはマグロはほとんど食われてしまっている。そういう対決と不条理みたいな物語である。 | ||||
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すぐに届けられました。意欲的な企画だと思います。新鮮でした。 | ||||
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キューバの漁村、少年と老人がいる。老人はひとり小舟で漁に出る。4日後にもどり、力尽きて眠る老人を少年が介抱する。 舟には巨大な魚の骨が括り付けられていた。ほかに、なにを伝えることができるだろう、これだけなのだ。 何を感じたか、だったら多少話せるだろう、カリブ海の1マイル下の海の色。貿易風。白い砂。微風。真の闇の中から次第に現れる長い島、キューバの輪郭。しかし、これらは太平洋や日本海しか知らない人にとっては、文字でしかない。 ヘミングウェイの遺作『海流の中の島々』(ISLANDS IN THE STREAM)は、彼の没後、メアリー・ヘミングウェイが残された原稿のなかからみつけて刊行した作品である。『老人と海』という短編は、実はこの『海流の中の島々』の副産物ともいえる作品なのだ、と言われるほど隣接した作品である。一緒に連れてって、と老漁夫にせがむ少年と同じ年頃の時に読むのと、老人の年齢に達して読むのと、どちらにも訴えてくる力がある。巨大な魚は、老人にとって何者なのか。死について、祈りについて思いを馳せる老人とのつきあいは、読む側をも疲労困憊させる。最後にマストを担いで小屋へ上がってゆく老人の姿がキリストに重なる。仏教のお坊さんに通ずる行住坐臥の心境で祈る人のようにも見えて、キリスト教徒ではない身からは、解ったようなことを口にできないと、つくづく感じた。つまり私は年を経て再読したが、この作品について、まだ解らない部分がいくらでもあるのだ、ということがよく分かった。 翻訳というものは、安易に行うべきではない、とあらためて感じた。翻訳は、せめて現地を知っている人に手がけて頂きたいと思う。できることなら通年生活した人。一家言を持っていて、理屈もこねるという人には手がけて欲しくない。曲訳は読者のためにならず、自己満足以外の何物でもない、弊害あって一利なしである。翻訳のためにマイナス☆1つ。 | ||||
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トーマス・C・フォスター「大学教授のように小説を読む方法」は作品読解法を易しく解説した楽しい本だ。そこに「サンチャゴはキリストのイメージだ」とあったので、まさか! とびっくり仰天、慌てて読み直した。 フォスター教授は次々に証拠を挙げる。例えばカジキとの戦いで傷つく老人の両手と背中、これは十字架上のキリストが受けた傷に符合する。 巨魚との戦いは沖合で三日間続き、村では老人が遭難し死んだと思う。そこへ骨だけになったカジキとともに老人が帰ってくる。キリストの「死と三日後の復活」と完全にパラレルだ。 疲れ切って帰り着いた老人はマストをかつぎ、自分の小屋へ帰るためによろよろと坂を登る。まさに十字架をかつぎ丘を登るキリストの姿と重なり、教授の指摘が説得力を持つ。 では、その効果は? 聖書と二重構造化することで物語に深み・奥行きが生まれ、英雄叙事詩のような響きが加わるのだと思う。キリスト教文化圏で育った読者は無意識であっても確実にそれを感じるだろう。このシンプルで平明な小説が偉大な文学に昇華し、ノーベル賞受賞につながった理由だ。 ヘミングウェイは、鮫の二回目の襲撃を受けた老人が思わず上げるうめきを「両の手を木に釘づけにでもされたとき、人が無意識に発する声」と形容する。教授の指摘を意識したせいで、これは著者の意図を読者に知らせる明確なサインだと気づく。 そうであるなら、鮫はキリストを迫害し十字架にかけた勢力の象徴であり、巨魚はまさにキリストだろう。 カジキは鮫に肉を食いちぎられる。キリストの贖罪と死の比喩だ。 帰還したサンチャゴは巨魚の骨を見た漁師たちの尊敬と信頼を得る。これはつまり、キリストの復活と勝利の喩えだろう。というのも、サンチャゴは戦いの途中から巨魚=キリストと同化し(奇跡を見たときからか)、帰港したときにはキリストになっていたからだ。 付け加えれば、相手の「マーリン marlin 」を「マカジキ」と訳したのは誤訳。マカジキは10種類ほどあるカジキの中では小型種で、この物語のように巨大にはならない(魚種ではほかにも誤訳がある)。 個人的にカジキが好きなので、この魚種が何か気になり、考えてみた。しかしヘミングウェイは、象徴性を高めるためか最後まで魚種を曖昧にしており、結局、不明のまま終わらせている。単純に「カジキ」と訳すのが正解と思う。 | ||||
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