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【この小説が収録されている参考書籍】
日はまた昇るの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.10pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全59件 21~40 2/3ページ
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あらすじだけ掬い上げると、誰もが見惚れるヤリマンの美女を取り巻く複数人の男の話で、 ワインを飲みまくり、メシを食いまくり、たばこを吸いまくって、ひたすらしゃべる。 物語のほとんどがそんな場面です。 エンタメ性を求める人にとっては退屈な話でしかないのですが、ヘミングウェイは その特徴的な文体が魅力的で、ずっと読んでいたいと思えるほど惹きつけられてしまいます。 ハードボイルドの源流である簡潔で乾いた文体の影響は大きく、 読んでいるうちにあの作家に似ている、この作家に似ている、と頭に過ぎると思います。 自然の描写や、熱を帯びたり失ったりする町並み、闘牛や釣り、祝祭のシーンなど、 熱気やにおいまで漂ってくる印象深い映像が頭のなかに鮮明に浮かび上がります。 映像的な場面の連続で古い映画を見ているような気分に何度もなりました。 個人的には革袋でワインを飲んでいるシーンが一番好きです。 静かな中にも、様々な感情が入り混じり、悲哀に満ちた男女のやり取り、 くせのある登場人物たちそれぞれの苦悩など読みごたえ抜群でした。読みやすい訳です。 | ||||
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兎に角、ひらがな表記が、多い。一部漢字にするのか、「、」を入れてほしかった。それも当時新鮮なヘミングウェーの文体を和訳する上での表現なのかも知れないが、苛ついた。紙数の限度、ページ数のせいか活字も小さい。苛ついて読んだせいか、有閑マダムの恋愛遍歴に掻きまわた男達(アル中に近い)の哀れな姿が強調されていて、第一次大戦後の時代背景の匂いは特には感じられず庶民感覚とは別個で、どこの社会階層の人達の話なんでしょうか。要するに、生きている実感が薄い、だから大戦後の虚無なのかもしれないが、ヘミングウェイは兎に角、苛つく。根無し草で虚無的だから、希薄な匂いでもあっても当時の時代背景があって、初めて受けいられる330ページなんでしょう。そして、それに耐えきれずに自殺した、ということになると、なんと宗教的にも希薄な存在としての脆さの文学なのだろうか。アメリカ文学におけるヘミングウェイの立ち位置はわからないが、脆すぎる。 | ||||
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登場人物のキャラクターがともかく素晴らしい。第二次世界大戦後のパリで、ボヘミアン的な生活を享受する主人公ジェイクとその友達たち。戦争という後遺症を引きずりながらも、登場人物が生き生きと描かれている。前半のパリ編と後半のスペイン編が、当時のカフェなどの風俗状況をちりばめながら、どこか突き放したような文体で書かれている。実際にヘミングウェイが体験したことがモチーフとなっているので、あえてそれぞれに感情移入しないようにしたのかもしれない。 「ロストジェネレーション」失われた世代とはどのようなものか? 是非、一読してほしい。 | ||||
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海外翻訳小説を読み続けていると、翻訳者が異なる同じ小説を読むことがある。 ヘミングウェイは昔から様々な出版社から発行されているので、本自体のレビューは岩波版に記入した内容を参考にしてもらい、翻訳について話してみたい。こちらの新潮文庫版はとても読みやすく、当時の情景を違和感なく受け入れることができる。 岩波文庫版では、ヘミングウェイの文体をそのまま日本語に訳した内容で、無駄を削ぎとった文体となっている。 原書で読むと、非常にシンプルな表現で成り立っているので、岩波文庫版のほうが雰囲気は近いと思う。 どちらがどうというのは各自の好みがあるので何とも言えないが、機会があったら読み比べてみると新鮮な発見があるかもしれない。 | ||||
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ヘミングウェイの作品は学生時代から一通り読みましたが、現在まで繰り返して読んでいるのはこの作品だけです。 ヘミングウェイにとって最初の長編であり、出世作となった本作は1926年(大正15年/昭和元年)に出版されました。日本ではヘミングウェイというとノーベル文学賞の対象になったと言われる「老人と海」が有名ですが、本国アメリカでは本作の方が知名度が高く、ヘミングウェイの最高傑作と評する人も多いようです。私は長年この事を不思議に思っていたのですが、疑問の鍵は第一次大戦にあるようです。 日本も参戦しながら今ひとつ馴染みの薄い第一次大戦ですが、人類史上初となった世界規模の戦争というだけでなく、戦車、潜水艦、戦闘機といった新兵器の投入や機関銃、迫撃砲、毒ガスなどの大量殺戮兵器の使用は、近代戦の幕開けとなりました。それまで戦争といえば、トラファルガー海戦やワーテルローの戦いのように海の上とか、人気の無い場所で職業軍人同士が戦って決着をつけるものでしたので、市街地で繰り広げられ非戦闘員だけで1,000万人もの犠牲者を出した近代戦の登場は、当時の主戦場だったヨーロッパの人々にとってどれだけ衝撃だったか計り知れないものがあります。 作品の舞台となるのは第一次大戦後のパリ、スペイン。登場人物はパリに新聞社特派員として暮らす主人公ジェイクと彼を取り巻く友人たち。彼らも第一次大戦によって心に何らかの傷を負っており、自堕落な生活を送っている。(主人公のジェイクは心に傷を負う替わりに、大戦時の負傷によって性的不能に陥っている)。退廃的で狂躁的なパリの夜と情熱的なスペインの昼が対照的に描かれる。フェスタと闘牛にいかに熱狂しても、彼ら「ロスト・ジェネレーション」は失ったものを取り戻すことは出来ない。彼らに出来ることといえば、今日一日を享樂的に刹那的に生きることだけだ。それでも明日になれば、何事も無かったように日はまた昇る。 | ||||
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読んで特に暇つぶしだけね。ドルが強かったころの遊び人の話です。 | ||||
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訳が下手です。高校生に毛が生えた程度のレベルです。読むなら、新潮文庫の方をお勧めします。 | ||||
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ヘミングウェイは、学生時代に課題本で「老人と海」を読んだきりで、それ以上興味のない作家だった。しかし最近、憧れの人がヘミングウェイを愛読していることを知り、不純な動機(笑)から、一番取っつきやすそうな「日はまた昇る」を手に取ってみた。 なんということはない、夏目漱石流にいえば、当時のいわゆる「高等遊民」たちの、お洒落でカッコいい青春グラフィティ、といった内容である。 冒頭の献辞は、最初の妻ハドリーと息子ジョンに向けられているが、訳者解説によると、本作上梓後ほどなく、ヘミングウェイはハドリーと離婚し、二番目の妻と再婚している。 主人公のジェイクは、戦争で性行為不能になったという設定だが、これは、子までなした一人の女性を捨てようとしていた男の、カムフラージュというか、エクスキューズではないだろうか? 人は変わる。男も女もない。しばしば、そこには倫理も介在しないことがある。文豪はそれを、乾いたタッチで文学に昇華させた。 エキゾチズムを味わうには、快い小説である。 | ||||
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この作品に関しては様々な翻訳がされてますし、翻訳によって本の暑さが大分違いますけど、この本はその中でも割とわかりやすい表現で読みやすい方なんじゃないかなと思います。 | ||||
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この小説をこの翻訳で読まずして、何を読むというのか。 あまりのレビューの少なさと評価の低さに唖然とするしかない。他の翻訳も決して悪い訳ではない。しかし、リズムと達意、広がるイメージ、申し分ない翻訳に、ただ感謝するのみ。 | ||||
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会話のテンポが気持ちいい。ワイン飲む?のむのむ!あ、こっちも〜、みたいな感じで。登場人物たちがよく飲むのでこっちも飲まないとやっとれん。 | ||||
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ノーベル賞作家ヘミングウェイの最初の長編小説です。 以前、誰かが21世紀になって、作家的地位が劇的に暴落した作家としてヘミングウェイとノーマン・メイラーの名前を挙げているのを目にしたことがあります。十代から二十代の前半にかけて、そのふたりの作家を愛読していた者として、若き日の自分を否定されたようで、いつかまた読み直したいと思っていたので、年の瀬の迫ったこの時期に、改訳ではなく、あえて昔読んだ新潮文庫大久保康雄訳での再読です。おそらく三十年振りでしたが、さくさく読める簡潔な文体と、いくつかの読みに誘う人物造形と人間関係は、十分現役感に溢れる名作だとの印象を新たにしました。翻訳自体も、他の大久保康雄訳でかまびすしく言われるような違和感や誤訳感(という語があるか定かでなく、誤訳があっても気づけたか心許ないですが)もないように思います。 ところで、五十を峠を越えたいまから振り返ると、本書であったり、ほぼ同時期に読み始めたフィッツジェラルドであったり、ウォン・カーウァイであったりに、自分が思っている以上に影響されたんだなぁと、だからどうだ、いまさらどうだというわけでもありませんが、すこししみじみとしてしまう今日この頃です。 | ||||
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戦争により性的不能に陥った主人公ジェイクの旅物語。スペインでの闘牛の描写は迫力満点。ジェイクの恋や美しい自然描写、ワインなどのお酒の描き方まで、ヘミングウェイらしさが詰まった小説。 ヘミングウェイの小説の中で個人的にはこれが一番好き。 | ||||
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私は気に入りませんでした。 つまらなかったです。 どうしてそんなに人気があったのか、作品的に何がそんなに評価されていたのかも分かりませんでした。 | ||||
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●古典的な物語の場合、主人公の前に、社会、世間、他者という大きな壁が立ちはだかる。 壁を打ち破ればハッピーエンドになるし、壁の前に倒れれば悲劇となる。 しかし、この小説は、そういう古典的な物語ではない。(したがって賛否が分かれると思う。) ●本書の主要な登場人物は、禁酒法時代のアメリカを離れ、ヨーロッパで自由を謳歌する若者たちだ。 彼らは、酒、恋、祝祭、闘牛etc.に明け暮れる。 彼らは自由だ。 けれども、その心には、茫漠とした砂漠が広がっているように思える。 彼らの前には、(古典的な物語にあるような)人生を賭して立ち向かう壁がない。 彼らはスペインに出かけ、フィエスタを楽しみ、闘牛にうち興じる。 けれども彼らの旅は、命を賭けるような恋や革命ではない。 彼らは、その血を沸き立たせ、精神を充足させることはない。 彼らはどこへでも行ける。 けれども、どこにもたどり着かない。 この小説は、物語を失った若者たちの(ハッピーエンドでも悲劇でもない)物語なのだと思う。 ●ヘミングウェイはこのあと、「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」という戦場を舞台にした大作を書く。 死と隣り合わせの世界で、生きることや死ぬことを凝視する。 明日をも知れない環境の中で、一瞬の花火のように燃え上がる恋を描く。 おそらく、切れ目のない倦怠に包まれた時間を描いた「日はまた昇る」のような作品は、若い時に、たった一度だけ書くことのできる小説なのだと思う。(私は、本書を読みながら、文体は全く異なるが、梶井基次郎の作品を思い出していた。) | ||||
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ヘミングウェイ好きな作家だが、この本はそこまで面白くない。 訳のせいか、初期のヘミングウェイの文のせいか、いつもの切れのある文章じゃないし、ストーリーも特出すべきところがない。他の訳だとまた違った印象を受けるかもしれない。 | ||||
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特に日本では、村上春樹さんの影響でヘミングウェイよりフィツジェラルドを重んじる傾向がありますが、是非、フィツジェラルドファンにも、この作品を読んで欲しいと思います。但し、他のレビューにもあるように、個人的には、大久保康雄さんの翻訳でないとヘミングウェイの本当の良さが伝わらない気がするので、新潮文庫には、現在の新訳と並行して大久保康雄さんの翻訳版を何らかの形で再販して欲しいです。その大久保康雄さんの巻末の解説にもありますが、ヘミングウェイ自身は、「ロストジェネレーション」と呼ばれることに、少なからず抵抗があったようです。が、この作品の享楽的で刹那的な若者たちの姿を洗練された文章で爽やかなほどに描く背景には、「喪失感」や「孤独」「虚無感」といった、晩年、彼が自ら命を絶つに至った大きな理由の一つが、既にムードとして不気味なほどに漂っています。そして、この作品により、ヘミングウェイは、『価値の喪失』という新しい価値観を、アメリカに、そして世界に、鮮烈に提示してみせたことにより、「ロストジェネレーションの代表」となりました。それがたとえ、彼の意志に反していたとしても、彼が世界に提示してみせたものは、それほどに衝撃的かつエポックメイキングなものでした。そういう点からもヘミングウェイという現代文学に、未だに巨大な影響を及ぼしているこの作品を、フィツジェラルドファンを含め、是非、多くの方に鑑賞して欲しいと思います。 | ||||
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ノーベル章作家ヘミングウェイの最初の小説。会話が主体であるので、読みやすく数日で通読可能。途中、スペインの情景描写が続くが、当地を旅行した人には楽しめるだろうが、それ以外の人には楽しめないかもしれない。題名から、明日への希望が湧くような小説を想像するかもしれないが、これは聖書の伝道の書(コヘレトの言葉)の冒頭からの引用で、“日“は昇るけど沈んでしまうので、無常ではかないものの象徴。それに対して、大地の方は不変なものの象徴ということを、ヘミングウェイは述べたかったようである。つまり、この小説では、朝から酒を飲んで、享楽的に過ごす、富裕な作家らの退廃的な生活を描くのは主題の一つではあるが、彼らにはそれだけではない部分があるということ。ヘミングウェイのスタイルは、描かれた小説の一部を氷山の一角として、全体の解釈は読者に委ねるスタイルということもあって、この小説の解釈は多岐にわたる。主人公が、美人で奔放なブレットを独占しようとしない深い愛情とそれを理解しているブレットとの関係は、美しいが、結果としてとる二人の行動は、まったくブレットの欲望のままで、主人公のジェイクは、友情も信頼もそれによって失っていく。伝道の書は、知識があっても、この世はコントロールできない無情な世の中なので、飲んで食べて楽しみなさいと前半では述べている書で、聖書研究者の中でも、どう解釈するか評価の分れる書である。本作の読後に、伝道の書の第1章を読めば、ヘミングウェイが彼なりのこの部分の聖書に対する解釈を書いた小説ともとれる。解説に小説の結末が書かれているので注意。 ブレットを小説史上最悪の悪女としている論もある。朝から酒を飲んで、パーティーを好み、一緒に同行した男性がいるにも関わらず、その旅先で、新しい若い男を誘惑したり、恋人の前で、別の男との恋愛を平気でする。特に本人には美人ということ以外、なんら魅力はなく年齢も34歳というのに思考に成熟したところはなく、職もなく、お金も持ち歩かず(自分で支払うつもりなどない)、男同士の友情も、恋敵にして、殴り合いの喧嘩にしてしまう。殴られてしかるべきは、この女のほうなのだが、ジェイクの目で小説を読んでいる読者も、何故か魅力を感じてしまう存在。実生活にも、こういう美人はいるが、巻き込まれた人の行く末は、この本に書かれてあるとおり。この本の、その他の魅力は、スペインでの釣りの描写(釣り好きの著者らしい)とスペインの牛追いまつりと闘牛の描写(好きになる人と嫌悪する人に分れるかもしれないが)。ユダヤ人に対する差別が、小説に書かれているのは、批評家に指摘されているとおり。最後に、次のセリフは印象的。“君は、人生がどんどん過ぎ去ろうとしているのに、その人生をすこしもうまく使っていないと感じることはないかね?もう人生の半分近くが過ぎ去ってしまったと感じてぎくりとすることはないかね (p15)” | ||||
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二十世紀初頭パリに集った若きアメリカ人たちの酒と女と遊びの日々。旅と祭りの日々。 解説によれば、そんな狂騒が可能だったのはドル高を背景にアメリカより楽に暮らせたから。 まだ二十代のくせにみなやたら金払いがいい。 不況日本しか知らない日本の若者はどう読むんだろ。 主人公の年齢を一回り以上越え、暮らしに追われる身となったいま読み返してみると、共感はできない。 ちっ。おまえらもっと働けよ。 でも、自然描写の瑞々しさはやっぱりいい、と思った。 もっと抑制的な文章のような気がしてたけど、意外に冗長で甘い。 それも含めての瑞々しさなのかも。むだなところまで目と心が届いている、そんなあり方自体が若い。 二十代の日々の輝きややるせなさ、どうしようもなさをすべてひっくるめて見事に封じ込めた作品だと思います。 | ||||
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パリで主人公の男が友達と遊んだり、釣りにいったり、スペインで闘牛を観るというお話でした。が、私は最初全編を通読した時、個々のエピソードは明確で判り安いけれど、全体として何がテーマの小説なのかよく判らなかったので、後ろの解説を参照しながら読み返して何となくわかったつもりになりました。 全体のテーマとしては失われた男性性の回復が主題になっているようです。戦争で体の機能の一部が失われた主人公が男として復活できるかがこの小説の要諦になっていて、主人公が体験することも、例えばボクシングを観たり、釣りをしたり、闘牛を観たり、自転車競走のことを聞いたりとこの当時の男性向けスポーツが多数描かれていたり、男性性を強調するところが多く、また去勢牛についての雑談や釣りの「竿」、途中で主人公が読んでいるA・E・W・メイスンという作家が男のロマンを主題にした冒険小説を得意としていた人だったりということが「男性」の暗喩になっているようです。また最後に暗示されるエピソードも主人公のその後の未来をポジティブに描いているらしいです(が、ここら辺は読んだ人それぞれ意見が判れそうですが)。 これも解説に書いてあることですが、著者は氷山の海面にでている8分の1を描くことで水面下の8分の7を書くという作風だそうでかなりの精読を要しますが、それだけの苦労をして読む価値は十分あると思いました。個人的にはラウリー「火山の下で」以来の疲弊を感じました。新訳だそうですが、昔の訳は読んでないし原書も読めないので比較はできませんが、スラスラ読めていい訳だと思いました。ただ、一寸だけ出てくる伯爵のセリフで「〜じゃよ」という部分がありましたが、実際にこういう喋り方をする人はいないと思うので少し不審に思いました。この辺は訳者の方と編集者の方の見識を問いたいです。 ヘミングウェイは中学の頃ダラダラと読んで以来何十年かぶりで読みましたが、大変面白かったです。この人とフォークナーは新訳で且つ文庫で全部読めるといいですね。 | ||||
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