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太宰治の辞書
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太宰治の辞書の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.42pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全15件 1~15 1/1ページ
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数年ぶりに読むと、相手も歳を重ねてました。話の良し悪しの問題ではなく、六の宮の姫君が1番好きで、朝霧までが個人的にはギリギリ読んでいて面白かったです。何年か経って読み直したらしっくりくるのかなと思ったりします。 | ||||
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北村薫の「円紫さんと私」シリーズの最新刊。 このシリーズ、ずっと昔に第5作で完結していると思っていて(解説などを読むとみんなそう思っていた模様)、表紙絵でやられてそのまま購入。そして1年以上も大事に積読になっていたのを満を持してこのたび読了。 ・・・なのですが、あれれ?というのが感想。ぐいぐいと引き込まれるストーリというよりは、ああこれは懐かしいねぇネタがあったりしつつも、ちょっと個人的にあまり興味のない文学史的な解釈とか太宰研究のような話が延々と続く。これがどういう話になるのかと最後まで読み切りましたが・・・ちょっと辛かった。 解説で米澤穂積も書いているけれど、これまでのシリーズから(作品内でも)年数が経過したことで登場人物たちの成長や今の立場などなどに思いを馳せる、ということなのでありますが、うーん。 なんとなくこの読書体験は、「円紫さんと私」シリーズの新作を読むというよりは、「円紫さんと私」シリーズをうん十年前に書いた著者と読んだ読者とが長い時を経てひさびさに邂逅して、両者の共通の趣味である深い深い文学のうんちくを語り合う、という趣向なのかと。そして残念ながら読者たる私は、ミステリ小説は好きだけど、文学のうんちくは興味外でありました、ということな気がしています。読み手の問題かもしれませんね。 | ||||
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このシリーズは大好きで、期待が大きい分だけがっかり感も大きい。例により芥川、太宰、三島らのちょっとした謎を解決していくパターンだが、円紫さんと私を登場させるほどのことはなかったかな。小説を読むと回りくどさが気になって「エッセイで整理してくれないかな」と思うし、エッセイを読むと「小説みたい」と思う。いずれもちょっと中途半端な感じ。円紫さんの人物像には安定感あり。登場によって場の空気は一変し、安心し幸福感いっぱいになります。 | ||||
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2015年に出た単行本の文庫化。 約20年後の「私」を主人公とした短編集だ。「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」に加え、『鮎川哲也と13の謎’90』(1990年)収録の「白い朝」、さらにエッセイ「一年後の『太宰治の辞書』」「二つの『現代日本小説体系』」も収められている。 文学史上のちょっとした謎を、小説仕立てで追ったもの。円紫師匠もちょっとだけ登場したりと、シリーズの読者としてははずせない一冊だろう。 ただ、ミステリというのとは、ちょっとタッチが違ってきており、その意味では著者のスタンスの変化を感じ取れる一冊。 | ||||
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シリーズものと知らず目を通す。 原シリーズは推理もののようだが、本作は芥川龍之介や萩原朔太郎等の教科書で名を知るような文豪の著作のちょっとした謎を解きほぐすようなイメージ。 タイトルにある太宰治の辞書も同様。どの辞書を使っていたのかを明らかにしていく。 シリーズ年ぶりとの重みがあれば印象も違うが、予備知識ないからか常に半歩遅れで読み進む感覚。 | ||||
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このシリーズの新刊が出ていることをしってワクワクして購入。 大きな事件が起きないのは、いわば当然だけど、あっと驚く推理の冴えとかも全然ないのは… 「あの本を書いていたころ、太宰治はどの辞書を使っていたのか?」 →「博物館に貯蔵されているらしいので行って調べました」 じゃぁ、ねぇ… | ||||
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このシリーズのファンであり、筆者のファンである。 だからこそ、あえて「これはエッセーで出してほしかった」と思う。 「評論だったら穴を埋めるべきだが、小説なのでそれはしない」と言いつつ、後日談で穴埋めするのは蛇足に思える。 評論にしたくないならエッセーにしたらどうかと思うが、筆者はエッセーではなく「私」の目を通したかったと言う。 しかし、その必然性は感じられない。筆者と「私」がほとんど同じ存在に思えるからである。 筆者は「自分は(「私」と違って)「女生徒」を知っていたから物語ができた」と述べるが、それ以外に二人の違いはあるのだろうか。 『六の宮の姫君』では、成長過程の「私」は筆者と明らかに異なる存在で、わくわくと謎を解いていくのだが、今作では「私」が成熟しきっているため、筆者との決定的な違いがどこにあるのかよくわからなかった。 実際、本編(円紫さんと私)と「一年後の『太宰治の辞書』」(筆者のエッセー)では、文献探索のプロセスはほぼ同じ人がしていることのように読める。 だったら最初から「北村薫が調べた!」でよかったのではないか。 そもそも探索に関する記述が丁寧すぎて冗長に感じる。こうやってものごとを調べるんですよ、という読者へのガイドも兼ねているのかもしれないが、それは小説の読者が知りたいことではないと思う。 自分の文学的な発見を活字に残しておきたくて、その道具としてこのシリーズを利用しているようにすら思ってしまった。 昔の筆者ならここは抑制したのではないか、という部分が削られることなく、すべて書き尽くされている。だから読んでいて疲れる。年を重ねるとどうしても話が長くなるが、それと同じ現象が原稿の上で起きているように感じる。言い過ぎてすみません。 正ちゃんとのやり取りがよかっただけに、できればもっと違うかたちの続きが読みたかった。 しかし正直に言えば『六の宮』で卒論を仕上げてシリーズ終了でもよかったとも思う。 | ||||
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長い間新作を待っていたシリーズでした。面白いのは面白いのですが,期待していたものとは全く違い,そこが残念でした。 北村女子の代表である本シリーズの「私」が,時を経て成長しています。前作までの,水信玄餅のような溌剌さ,瑞々しさはなく,本好きとしての一面が強調されています。経過時間を考慮した意図的なものなのかもしれません。 作品としての面白さは,あります。多数の資料を読み込み,点と点を解釈で補い,わかりやすく読者に伝える語り口はさすがです。しかし,語っているのがあの「私」ではなく北村氏本人ではないかと強く感じました。「いとま申して」とよく似た印象です。あの清々しい登場人物たちが日常の謎を拾う物語は,もう読めないのでしょうか。 | ||||
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帯にもなっている解説にある通り、まさかまた出逢えるとは思っていなかった「円紫さんと私」シリーズ最新刊。 けれど、読んでいてどうにも寂寥感というか、置いて行かれたような気持になってきます。 作者の名著「スキップ」のように「私」が突然中学生の親になっている事。テーマが日常の謎ではなくなっている事。 このシリーズの読者は、「私」の成長を、人生そのものを見守っていたと思います。太宰の作品もロココという語も、一般読者の日常からはかけ離れていると思います。シリーズの前提が二点覆され、私のように感じる方も多いのではないでしょうか。 | ||||
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女子大学生の初々しく純粋な物語を期待してしまうのは間違っていたのだろうか。 主婦になった《私》は、シリーズ読者の求めていたものではないと思う。もっとも、前作からかなりの間があっての本作である。北村氏のことなので、この構成は悩んだ末のものだろう。 待ちに待った最新作、やはり成長していく《私》と円紫さんに会いたかった。 朝霧で《リドル・ストーリー》について触れられていた。《私》の女としての、主婦としての円熟期についてはまさしく《リドル・ストーリー》にしてほしかった。 | ||||
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10年以上の時を経て発行された「私」シリーズ。 嬉しくなって手に取りましたが、やや期待外れでした。 「女学生」は面白かったが、他のお話は小説になっていないような。 円紫さんにももっと登場してもらいたかった。残念です。 | ||||
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『六の宮の姫君』に比べると、なんだか知的興奮度が低いのです。 本質的なものではなく、雑学的知識の探求でしかないからです。 そりゃ「私」本人にすればずいぶん知的好奇心が満たされるでしょうが、それがこちらには伝わってこないのです。 それは、「私」に話し相手(ワトソン)がいないからです。 また、書誌探求以外では、「私」が輝いて見える場面が正ちゃんとの対面だけに思えます。 『スキップ』の同じく中年である主人公を思い浮かべれば、その輝きのなさが見えてくるはずです シリーズ物とはいえ、「私」を最初から書き込むべきだと思えました。 正ちゃんに星ひとつ。 | ||||
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ようやく、このシリーズの続きが読めて嬉しい。 と本当に思いました。 物語の進行具合を読んでいて、とても懐かしくなりました。 ただいきなり「私」が結婚し、子供もいることに少しびっくり。 そんなに時が進んでいる話になっていると、想像していなかったのでびっくりしました。 「八月の六日間」を読んだとき正直、こちらの方が「私」かしら?と勝手に想像しながら先に読んでいた為、結婚していたことにかなりびっくりしました。 | ||||
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このシリーズはとても好きでした。 でも、この作品と、以前出版された卒業論文を作成するときの お話は、文学論になってしまっていて、一般読者にはちょっと 敷居が高いというか。 文学作品は好きで読んでいますが、太宰の辞書についての 発見を読んでも「ふーん、そうなんだ」くらいにしか思えず、 小説の結末での感動が味わえませんでした。 懐かしい登場人物たちの「その後」は楽しめたのですが、 読者を選ぶ内容かなって思います。 | ||||
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中学生の子どもを持つ身になった”私”。やはり本が好きで、いつも本とつながっている。編集者として働く”私”は、太宰治の創作にまつわる謎を探り始める。太宰には、いったいどんな謎があったのだろう?≪私≫シリーズ。 シリーズ1作目の「空飛ぶ馬」では大学生だった”私”。今では、母であり、バリバリ働く編集者でもある。 今回の作品の中には、日常生活の中で起こるミステリーなどはない。作家が作品を生み出すときの謎に迫っている。私の好きな言葉に「眼光紙背」という言葉がある。「紙の裏まで見通す」という意から、書物の字句の背後にある深い意味をも読みとるということだが、まさにそれを地で行く話だった。 作者自身も太宰治が好きとのことだが、太宰の作品「女学生」創作にまつわる謎を実に丹念に調べている。「こういう個所からこういう考え方ができるのか!」読んでいて驚きの連続だった。すごく残念だが、私にはここまで読み込む力はない。自分の読解力に限界を感じてしまった(涙)。 最初から最後まで興味深いことばかりだった。太宰治は、彼の作品の中で今も生き続けている。そう思わずにはいられない。本好きの人にはたまらない1冊だと思う。けれど、本の中身をそれほど深く追求することに興味がない人にとっては、読んでいて退屈だと感じる部分もあるのではないだろうか?好みが分かれる作品だと思う。 | ||||
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