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太宰治の辞書
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太宰治の辞書の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.42pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全40件 1~20 1/2ページ
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文書のなかに潜む高潔な謎、 普通の人のなかの探求心からの 謎解き。爽やかな読後感。 | ||||
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"私は、あぶなっかしくいった。『《生れて、すみません》は、太宰の言葉じゃないんですか』『確か、寺内とかいう人の一行詩ですよ』"2017年発刊の本書は日常の謎ミステリにして『私』の成長シリーズ『円紫さんと私』前作から17年ぶりの続編にして、芥川、三島、太宰文学の旅に誘う一冊。 個人的には、太宰治『桜桃忌』持ち寄り読書会で『女生徒』を紹介した際に参加者の方にオススメされて手にとりました。 さて、そんな本書はシリーズと共に表紙イラストも含めて『私』が作中でも学生、社会人と次第に成長していく『円紫さんと私』シリーズ6作目、17年ぶりの作品で【作中でも20年あまりの時が流れ】前作では社会人になったばかりの『私』が今作では既婚、中堅編集者として中学生の息子もいて。また、これまで探偵役をつと落語家の『円紫さん』も堂々たる大真打ちとして貫禄あるも何と本書では【探偵役はつとめない】のですが。 と、ここまで『あとがき』を参考に紹介しつつ。前述の理由で実は『円紫さんと私』シリーズを前作はおろか【はじめて手にとったので(笑)】『私』他の登場人物の変化は当然に全くわからないので(シリーズ一作目から読めば良かった)紹介される芥川、太宰作品と『私』の向き合い方を中心に感想を書きます。 さて、まずはやはり太宰治『女生徒』ですが。個人的には太宰の魅力の一面として『女性言葉の自然な使い方』『二次創作のうまさ』だと思っているのですが。そういった意味で当時の女性ファン(有明淑)から送られてきた日記をもとに太宰が書いた『女生徒』はかなりマイベスト。とここまでは同じ読み手として『私』の感想と重なる部分があるのですが。凄いのは本書の『私』の【そこからの掘り下げ方】で、もとの女性ファンの手紙現物と太宰の『女生徒』を比較して『違和感を覚える箇所に気づいたり突き詰めていく文学探偵ぶり』はシリーズファンにはお馴染みなのかもしれませんが驚きと【自分の読み方の浅さを大いに恥じる】"楽しい"感覚でした。 また(長くなる予感が既にしたので,割愛します(笑))芥川龍之介の『舞踏会』はおろか、元になったフランス人、ピエール・ロナの『日本印象記』のどちらも未読だったので【古典作品好きとして慌ててチェックしつつ】しかし仮に未読でも、そして本書全体に言えますが【散りばめられた文学ネタ】は芥川、三島、太宰だけでなく本好きや読書会に親しむ人ならきっと楽しめのではないか。と思いました。 シリーズファンの方はもちろん、日常ミステリ好き、また私みたいに太宰作品好きな方にもオススメ。 | ||||
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数年ぶりに読むと、相手も歳を重ねてました。話の良し悪しの問題ではなく、六の宮の姫君が1番好きで、朝霧までが個人的にはギリギリ読んでいて面白かったです。何年か経って読み直したらしっくりくるのかなと思ったりします。 | ||||
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北村薫の「円紫さんと私」シリーズの最新刊。 このシリーズ、ずっと昔に第5作で完結していると思っていて(解説などを読むとみんなそう思っていた模様)、表紙絵でやられてそのまま購入。そして1年以上も大事に積読になっていたのを満を持してこのたび読了。 ・・・なのですが、あれれ?というのが感想。ぐいぐいと引き込まれるストーリというよりは、ああこれは懐かしいねぇネタがあったりしつつも、ちょっと個人的にあまり興味のない文学史的な解釈とか太宰研究のような話が延々と続く。これがどういう話になるのかと最後まで読み切りましたが・・・ちょっと辛かった。 解説で米澤穂積も書いているけれど、これまでのシリーズから(作品内でも)年数が経過したことで登場人物たちの成長や今の立場などなどに思いを馳せる、ということなのでありますが、うーん。 なんとなくこの読書体験は、「円紫さんと私」シリーズの新作を読むというよりは、「円紫さんと私」シリーズをうん十年前に書いた著者と読んだ読者とが長い時を経てひさびさに邂逅して、両者の共通の趣味である深い深い文学のうんちくを語り合う、という趣向なのかと。そして残念ながら読者たる私は、ミステリ小説は好きだけど、文学のうんちくは興味外でありました、ということな気がしています。読み手の問題かもしれませんね。 | ||||
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なんだこの本は、、、筆者は文才のかけらもない人なのでしょう。ブックオフで売りたいと思います。 追記 ブックオフで20円で売れました | ||||
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昔の本の話をしてたら意外と盛り上がったんで、出せば売れるんじゃね?と内輪受けで企画が出たんでしょう。 少しでも売るため、死んでるシリーズにくっつけた感じ。 騙されて買った人多そうだから、本屋大賞は企画賞をあげてください。 一言で言うと「おっさんの自慢話の議事録」、おごり(キンドルアンリミテッド)なら読んでもいいけど、金払って読むのはキツイ。 | ||||
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昔の本の話をしてたら意外と盛り上がったんで、出せば売れるんじゃね?と内輪受けで企画が出たんでしょう。 少しでも売るため、死んでるシリーズにくっつけた感じ。 騙されて買った人多そうだから、本屋大賞は企画賞をあげてください。 一言で言うと「おっさんの自慢話の議事録」、おごり(キンドルアンリミテッド)なら読んでもいいけど、金払って読むのはキツイ。 | ||||
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このシリーズは大好きで、期待が大きい分だけがっかり感も大きい。例により芥川、太宰、三島らのちょっとした謎を解決していくパターンだが、円紫さんと私を登場させるほどのことはなかったかな。小説を読むと回りくどさが気になって「エッセイで整理してくれないかな」と思うし、エッセイを読むと「小説みたい」と思う。いずれもちょっと中途半端な感じ。円紫さんの人物像には安定感あり。登場によって場の空気は一変し、安心し幸福感いっぱいになります。 | ||||
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2015年に出た単行本の文庫化。 約20年後の「私」を主人公とした短編集だ。「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」に加え、『鮎川哲也と13の謎’90』(1990年)収録の「白い朝」、さらにエッセイ「一年後の『太宰治の辞書』」「二つの『現代日本小説体系』」も収められている。 文学史上のちょっとした謎を、小説仕立てで追ったもの。円紫師匠もちょっとだけ登場したりと、シリーズの読者としてははずせない一冊だろう。 ただ、ミステリというのとは、ちょっとタッチが違ってきており、その意味では著者のスタンスの変化を感じ取れる一冊。 | ||||
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「円紫さん」の最新作である。初期の謎解きが好きだったので読んだが、思い切り失望した。 女子大生のころの「わたし」が好きだった人は、読まないほうがいい。 「わたし」は四十歳近い大人で、中学生の息子がいる。が、日常を見ているととてもそうとは思えない。 小説の一節にこだわって資料を探索し、インタビューに赴く。富裕層の独身者みたいだ。 思い切り浮世離れしている。浮世離れは主人公だけでなく、作品世界全部がそうだ。 今どき寄席が満員になる?漫画やミステリでさえ売れないご時世に、半世紀も昔の純文学にこだわる? どこの世界の日本だ。異世界かよ。 本作は需要があるのだろうか。私は並以上の読書家のつもりだが、まったく共感できなかった。 広い日本には絶滅危惧種の純文学マニアも何人かは残っているだろうから、その人たちに向けて書いたのかな。 | ||||
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ネットで調べたり、出るべき人があまり出てこずに 本業がぱっとしない文化人的タレントが名前を出したりする・・・。 これまでと比べて主人公も大幅に年をとるのは仕方がないが、 持ち味やメインストリームが揺らぎながら、スッキリしない 「解決」を迎える。 少しの不具合で全体が台無しになったような悲しい気持ちで 読み終えた。 | ||||
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シリーズものと知らず目を通す。 原シリーズは推理もののようだが、本作は芥川龍之介や萩原朔太郎等の教科書で名を知るような文豪の著作のちょっとした謎を解きほぐすようなイメージ。 タイトルにある太宰治の辞書も同様。どの辞書を使っていたのかを明らかにしていく。 シリーズ年ぶりとの重みがあれば印象も違うが、予備知識ないからか常に半歩遅れで読み進む感覚。 | ||||
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このシリーズの新刊が出ていることをしってワクワクして購入。 大きな事件が起きないのは、いわば当然だけど、あっと驚く推理の冴えとかも全然ないのは… 「あの本を書いていたころ、太宰治はどの辞書を使っていたのか?」 →「博物館に貯蔵されているらしいので行って調べました」 じゃぁ、ねぇ… | ||||
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このシリーズのファンであり、筆者のファンである。 だからこそ、あえて「これはエッセーで出してほしかった」と思う。 「評論だったら穴を埋めるべきだが、小説なのでそれはしない」と言いつつ、後日談で穴埋めするのは蛇足に思える。 評論にしたくないならエッセーにしたらどうかと思うが、筆者はエッセーではなく「私」の目を通したかったと言う。 しかし、その必然性は感じられない。筆者と「私」がほとんど同じ存在に思えるからである。 筆者は「自分は(「私」と違って)「女生徒」を知っていたから物語ができた」と述べるが、それ以外に二人の違いはあるのだろうか。 『六の宮の姫君』では、成長過程の「私」は筆者と明らかに異なる存在で、わくわくと謎を解いていくのだが、今作では「私」が成熟しきっているため、筆者との決定的な違いがどこにあるのかよくわからなかった。 実際、本編(円紫さんと私)と「一年後の『太宰治の辞書』」(筆者のエッセー)では、文献探索のプロセスはほぼ同じ人がしていることのように読める。 だったら最初から「北村薫が調べた!」でよかったのではないか。 そもそも探索に関する記述が丁寧すぎて冗長に感じる。こうやってものごとを調べるんですよ、という読者へのガイドも兼ねているのかもしれないが、それは小説の読者が知りたいことではないと思う。 自分の文学的な発見を活字に残しておきたくて、その道具としてこのシリーズを利用しているようにすら思ってしまった。 昔の筆者ならここは抑制したのではないか、という部分が削られることなく、すべて書き尽くされている。だから読んでいて疲れる。年を重ねるとどうしても話が長くなるが、それと同じ現象が原稿の上で起きているように感じる。言い過ぎてすみません。 正ちゃんとのやり取りがよかっただけに、できればもっと違うかたちの続きが読みたかった。 しかし正直に言えば『六の宮』で卒論を仕上げてシリーズ終了でもよかったとも思う。 | ||||
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自分と同じように年を重ねた主人公が、懐かしく、そして身近に感じられた作品です。読み進めるのが惜しい気持ちになるのは久しぶりの感覚でした。「正ちゃん」が出てくるシーンなど正月生まれだから「正ちゃん」なんだよなー。などと、正月に読んでました。 | ||||
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長い間新作を待っていたシリーズでした。面白いのは面白いのですが,期待していたものとは全く違い,そこが残念でした。 北村女子の代表である本シリーズの「私」が,時を経て成長しています。前作までの,水信玄餅のような溌剌さ,瑞々しさはなく,本好きとしての一面が強調されています。経過時間を考慮した意図的なものなのかもしれません。 作品としての面白さは,あります。多数の資料を読み込み,点と点を解釈で補い,わかりやすく読者に伝える語り口はさすがです。しかし,語っているのがあの「私」ではなく北村氏本人ではないかと強く感じました。「いとま申して」とよく似た印象です。あの清々しい登場人物たちが日常の謎を拾う物語は,もう読めないのでしょうか。 | ||||
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このシリーズのファンで、文庫になるのを待っていました。 正直言って残念。 内容のほとんどが、「私」が文学作品中の「何故?」を追及する過程を書いたものです。 「私」の思考を読んでいるみたい。 タイトルから同シリーズの『六の宮の姫君』を連想し、 文学の中の謎を追いつつも、日々の情景もありを予想していたのですが・・・ 円紫さんの登場場面も少しだけです。 「私」をめぐる人々にもっと登場してほしかったな。 日常の中の謎や、登場人物の細かい心理を描いた作品を期待すると、ガッカリしますよ。 太宰治作品を読み込んでいる方は楽しめるでしょう。 | ||||
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円紫さんと私のシリーズを創元推理文庫で集めてきた身としては、2015年に新潮社から単行本が出た本作が、文庫化にあたって新潮社からではなく東京創元社から出版されたことがまず嬉しかったので、その分星一つ追加。 単行本が発売された時にも一度読んでいますが、改めて文庫を購入して読み返した正直な感想はやはり「読みたかったのはこれじゃない」というものでした。 「私」が芥川や太宰の作品をひもといていく内容で、知的好奇心は満たされるものの、円紫さんシリーズの最新刊が久々に出ると知ったときに期待したのは、やはり「私」と本作では既に「連れ合い」となっている男性との、交際にいたるまでのあれこれでした。 北村薫の、あの語り口で、「私」のロマンスをどう描くのか、そして円紫師匠はどのように関わってくるのか・・・(デートの場所は文学館、それとも作家ゆかりの地を探訪とか?会話の中身は、文学談義とかになってしまうのかな?とか妄想が!) 読者の我儘であるとは思いますが、円紫師匠の出番も少なく、大きな肩透かしをくらった気分でした。 まあ、読み手の私自身もシリーズ第1作を読んでいたのは20代のころですが、今はもう40代。ある意味、第1作を夢中になって読んでいた頃の自分を思い出しつつ、郷愁を感じる作品となりました。 | ||||
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帯にもなっている解説にある通り、まさかまた出逢えるとは思っていなかった「円紫さんと私」シリーズ最新刊。 けれど、読んでいてどうにも寂寥感というか、置いて行かれたような気持になってきます。 作者の名著「スキップ」のように「私」が突然中学生の親になっている事。テーマが日常の謎ではなくなっている事。 このシリーズの読者は、「私」の成長を、人生そのものを見守っていたと思います。太宰の作品もロココという語も、一般読者の日常からはかけ離れていると思います。シリーズの前提が二点覆され、私のように感じる方も多いのではないでしょうか。 | ||||
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女子大学生の初々しく純粋な物語を期待してしまうのは間違っていたのだろうか。 主婦になった《私》は、シリーズ読者の求めていたものではないと思う。もっとも、前作からかなりの間があっての本作である。北村氏のことなので、この構成は悩んだ末のものだろう。 待ちに待った最新作、やはり成長していく《私》と円紫さんに会いたかった。 朝霧で《リドル・ストーリー》について触れられていた。《私》の女としての、主婦としての円熟期についてはまさしく《リドル・ストーリー》にしてほしかった。 | ||||
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