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太宰治の辞書
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太宰治の辞書の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.42pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全40件 21~40 2/2ページ
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デビュー作『空飛ぶ馬』(1989年)から、26年目になる北村薫氏の新作である。この間に「円紫さん」シリーズは4冊出ているそうだが、読んでいないので、北村マニアには申し訳ないが、私は本書で元恋人に会った心地がした。 『空飛ぶ』で19歳だった《わたし》は30代中頃になっている。2冊の本の発行間隔とと同じ年数が経過したことになる。結婚し、小田急沿線に家を建てた。中学生で野球狂の息子との三人暮らし、現在は東京の「みさき書房」という小さな出版社の編集者である。不定時な勤務を夫の理解で凌いでいる。 親友の正岡正子、庄司江美も元気そうだ。正子は独身で、郷里の二宮で高校教師をしている。江美は九州にいる様子。探偵役の春桜亭円紫師匠も今や常時大トリを努める名人格になっている。 『空飛ぶ』はライトノベルな風合いながら、含蓄に溢れていて、私は女子大生《わたし》の豊富な読書経験に嫉妬すら覚えていた。軽い事件の裏に、引用された本が示唆する重大な秘密が隠されているのではないかと疑ったが、読んだこともない書名の羅列なのだから、取り付きようがなかった。 本書では小説それ自体が謎解きの素材になっている。書中で引用される小説は、前作と違って、芥川、太宰、三島など、日本文学で著名な作家の作品でしかも短編だから、そのほとんどを読んでおり、再読もKindleで安く入手できるお陰で《わたし》による語りと同時進行で楽しんだ。 『空飛ぶ』で読書仲間を困惑させた、「コーヒーってバロックみたいな、それから紅茶ってロココみたいな」のロココの謎解きが本書のテーマなのも嬉しい。こういう推理小説もあるのだと感心する。ちなみに本書の「ロココ」の頻出度を数え上げてみたら、なんと53もあった。《わたし》(なのか作者なのか判らないが)のロココへのこだわり方も尋常でない。 さて本書は「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」の3篇から成るが、連作短編と言うべき仕立てで、順序よく読んでゆくことが求められている。職場での何気ない会話が伏線で、最後に「オチ」がつくので、読み飛ばせない。 まず「花火」では、芥川龍之介の「舞踏会」がフランス海軍の将校だったピエール・ロチが書いた『日本印象記』が元ネタになっていることがヒントだが、小説「舞踏会」は、H夫人が、その昔鹿鳴館で踊った海軍将校の名は『御菊夫人』を書いたピエール・ロティだったのですね、と聞かれて、「いえ、ロティと仰有る方ではございませんよ。ジュリアン・ヴィオと仰有る方でございますよ」で終わる。《わたし》はそこが問題なのだという。ロチのこの本は、当時野上豊一郎訳『お菊さん』の書名で流布しており、野上と友人だった芥川がこれを知らないはずがない、という。芥川の改ざんを巡って、三島由紀夫と江藤淳が呼び出され、芥川の「真実」の正体に推理が及ぶ。 「女生徒」と「太宰治の辞書」は一続きの話だ。先ず「女生徒」は、太宰治の同名の小説の大半が、彼のファンだった有明淑から贈られた「日記」の写しであることが暴露される。文学者仲間では知られた話らしい。もちろん《わたし》が言うように「取材源となったものが何であれ、作品は作家のもの」である。だが《わたし》は編集者である。「これだけの小説を書かせてしまった」《元》の方も覗いてみたい」 「日記」の探求も面白いのだが、更に面白いのは、太宰書の文中に、母への急な来客に、間に合わせの「ロココ式」料理を作って御馳走する場面がある。この部分は太宰のオリジナルだそうだが、主人公の女生徒は、「ロココという言葉を、こないだ辞典で調べてみたら、「華麗のみにて内容空疎の装飾様式」、と定義されていたので、笑っちゃった。名答である。美しさに内容なんかあってたまるものか」という。そこで《わたし》に疑問が沸く、太宰はどの辞書を使ったのだろうかと。 この疑問を解明するために《わたし》は編集者という世間的「権威」も利用して、あらゆる伝手をたどり、当時の太宰も覧たと思われる大小様々な辞書・事典を見つけ出しては「ロココ」を引く。「華麗のみにて内容空疎の装飾様式」に近い記述がある大辞典も見つかるが、《わたし》の眼目は、太宰が常に机上に置いて使っていたという『掌中新辞典』である。この件では円紫が宴席でふと漏らした、「何だったか……太宰の知られた短編に、家族を置いて飲みに出るというのがあります。そのとき辞書を持って出ていた」という会話がヒントになる。円紫さんも出番を心得ている。 最後はその「懐中」辞典のありかを突き止めて前橋の群馬県立図書館まで行く。前橋文学館で萩原朔太郎の碑文を読み、一行目の〈わが故郷に帰れる日〉が、詩集の〈わが故郷に帰へる日〉と一字違っているのを「発見する」オマケもつく。さて満を持して閲覧した、大正13年10月1日発行《東部第十四部隊気付》と元の持ち主の住所が記載されている『掌中新辞典』にはなんと「ロココ」の項目がなかった、というのが結論。「内容空疎」と書いたのは太宰で、だから「美しさに内容なんかあってたまるものか」という彼の言が続くのだ。 あらすじを書いてしまえば雑作もないが、本書の凄味は本筋に付け加えられる様々な「余白」である。第一級の蘊蓄本だ。これを書く作者も只者ではないが、これを浮き浮きと読むことの出来る私も多分「只者」ではないなと、納得する一書であった。 | ||||
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うーん……。 本好きの「私」は、太宰治の「人間失格」の名文「生まれてすみません」が、太宰オリジナルではなく、寺内某というセミプロ詩人の1行詩だったことを知る。 そこから小説の「嘘」、もっといえば太宰的嘘に引かれ、短編「女生徒」と、そのオリジナルだったリアル女生徒の日記(太宰のファンで、昭和初期当時、日記を太宰に送ってよこした)の比較を試みる。冒頭と結末が違うくらいで中身がほとんど同じことにビックリ。しかし文体は、見事に太宰風に置き換えられている。さらに、主人公は、「女生徒」の中の、「ロココ趣味について辞書で調べてみたら内容空疎の貴族趣味って書いてあった、だから貴族なのよ、内容があっちゃだめなの」といった一文に注視する。これはオリジナルバージョンではなく、太宰が創作した一文なのだが、「ロココ趣味についてそんな諧謔的な解説をのせてる辞書なんて、昭和初年当時、あったの?」と疑問を持つ。 それから、当時刊行されていた、三省堂やら何やらの辞書を探す。版元にまで出かけていくのだ。辞書といってもいろいろあるが、太宰の亡き妻・美智子さんが書き残した回想記「太宰は、資料も辞書も持ち運べる簡易なものを好んだ」をヒントに、広辞苑なんかはもちろん除外。しかし、そうした「軽い」辞書に限って、さっさと絶版になっているわけだから、辞書探しはなかなか苦労する。そうして、ついに、群馬県の前橋図書館に保存されていたのをつきとめる! ……ここまで書くと、「時の娘」(ジョセフィン・テイ)みたいな、オーソドックスなブックミステリかと思えるわけですが、書き方がミステリぽくない。つまり、上記のまま。糸口をひとつひとつあげ、どう調査したかが語られる、図書館司書講座を受講した者なら必ずやらされる、 「調査ルート詳細レポート」ってやつです。 たとえば、「太宰の「生まれてすみません」の元資料は何か。また、どうやって突き止めたかルートを書籍名とともにあげよ」みたいな課題が出るんですね! だいたい原稿用紙10枚くらいで放免してもらえますが、これはそれを「100枚使って書いた」お原稿です。 それはそれで新規のミステリ(?)かもしれないけれど、「私」が初めて登場した「空飛ぶ馬」からのファンだった身としては、たとえば、こうした「調査ルート」に、主人公の恋愛や友情がからまったあの本格ミステリをどうしても期待してしまう。 あの空飛ぶ馬から20年。主人公は、結婚もし息子もいた! 家庭の話とからめて書くこともできたはずなのに、一切無視して、ひたすら「太宰調査ルート」を書いたのは、なぜに……? そうしたストーリー展開は、この主人公ではしたくなかったのかな。著者の中では、主人公が女子大生でなくなったのと同時に、もう興味なくなったのかも。 でも、サザエさんのワカメちゃんが永遠の小学生であるように、空飛ぶ馬 の「私」さんも、無理して主婦にしなくっていいと思います。 | ||||
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10年以上の時を経て発行された「私」シリーズ。 嬉しくなって手に取りましたが、やや期待外れでした。 「女学生」は面白かったが、他のお話は小説になっていないような。 円紫さんにももっと登場してもらいたかった。残念です。 | ||||
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いつのころからか、映画の舞台となっている風景に、しげしげと見入るようになった。 たとえば、『或る夜の出来事』は、たぶん、この地に来てから見た。マイアミからNYに向かうグレイハウンドの夜行バスが、とても気になった。 もちろん、ボーイ・ミーツ・ガールの恋愛物語の方程式の原型は、素晴らしいものだった。 『スウィートノベンバー』であれば、サンフランシスコの路面電車(muni)や黄色いタクシーのイエローキャブに目が行った。『ユーガットメール』なら、NYのアッパーウェストの秋から冬、そして春のホットドッグ店やスタバが興味深かった。 その昔、映画を思想と結び付けてみる裏目読みが流行した時期があった。 ボクの場合は、外国には一生行かないと思うので、旅行気分と食べ物に意地汚いことが、映画の背景好みの理由のようだ。 北村薫さんの『太宰治の辞書』に、興味津々である。 最初期の『空飛ぶ馬』の、やや素人っぽさを残した上品で、爽やかなストーリーテリングと、きれいな文章が好きだった。 紅茶に砂糖を7杯も8杯もいれるような、実際、そのような人物も知っているのだけれど、『砂糖合戦』の着想のセンスや装丁の高野文子さんの簡潔で、洗練された絵が好きだ。 物語も、文章も、装丁もみな、瀟洒だなぁと思う。 どうやら、作者の友人で、ボクも知っているS先輩への鎮魂歌でもあるようで、やりさしの仕事が終わったら、ぜひ読もうと思う。 そうだった。『空飛ぶ馬』の出版祝いは、S先輩が音頭をとって、うなぎ屋さんでお祝いをして、当時の銀座東武ホテルに流れた。 そっか。あれから、25年も流れたのか。 太宰治の『女生徒』を題材にした中編は、今から、いろいろと憶測してしまう。 『女生徒』は、ヒロインの独白だけで書かれたもので、太宰にしては破綻もあるが、言葉がキラキラしていて、この世代特有の女の子の生理的な感覚がビビッドで、ドキッとする。 うら若い愛読者の日記が下敷きになっているのは、知っているが、やっぱ、太宰だ。 フム、朝の目覚めの冒頭からして好きだ。 そして、「キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る」。。。っていうくだりは、忘れられない。 夕靄はピンク色とか、百合の匂いの透明なニヒルという言葉には、みずみずしいポエムがある。 そして、ボクの座右の銘は、”幸福は一夜おくれて来る。 幸福は、ゆっくりと、まったりと、そして、まっ、いっか”にあると思っている。 今も、そう思う。 前橋の大秀才だった、亡くなられた世田谷在住のS先輩に合掌。 | ||||
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『六の宮の姫君』に比べると、なんだか知的興奮度が低いのです。 本質的なものではなく、雑学的知識の探求でしかないからです。 そりゃ「私」本人にすればずいぶん知的好奇心が満たされるでしょうが、それがこちらには伝わってこないのです。 それは、「私」に話し相手(ワトソン)がいないからです。 また、書誌探求以外では、「私」が輝いて見える場面が正ちゃんとの対面だけに思えます。 『スキップ』の同じく中年である主人公を思い浮かべれば、その輝きのなさが見えてくるはずです シリーズ物とはいえ、「私」を最初から書き込むべきだと思えました。 正ちゃんに星ひとつ。 | ||||
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誰か本当に好きな作家の本を読みたいと思い立ってこの本を手にした。 北村薫の文章は、ヴィオールの響きのように心に沁みこむ。 この素晴らしい文章に、2年前「詩歌の待ち伏せ」で出会うまで気づきもしなかったのだから 我が身の不明を恥じるのみ。 『小説は書かれることによっては完成しない。 読まれることによって完成するのだ。 ひとつの小説は、決して《ひとつ》ではない。 』 北村薫は、ともすれば萎えてしまいそうになる僕の心をいつも奮い立たせてくれる。 | ||||
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ようやく、このシリーズの続きが読めて嬉しい。 と本当に思いました。 物語の進行具合を読んでいて、とても懐かしくなりました。 ただいきなり「私」が結婚し、子供もいることに少しびっくり。 そんなに時が進んでいる話になっていると、想像していなかったのでびっくりしました。 「八月の六日間」を読んだとき正直、こちらの方が「私」かしら?と勝手に想像しながら先に読んでいた為、結婚していたことにかなりびっくりしました。 | ||||
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引用だけで印税が入るとは!がっちり著作権の切れた作家を扱っている。間が空いたのは、三島由紀夫の死後50年を待っていたのか。 | ||||
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大正3年の新潮文庫「人形の家」から、ピエルロチ「日本印象記」の鹿鳴館へ、 さらに芥川の「舞踏会」から芥川を「ロココ的」と呼んだ三島にゆき、やっと 友人の正ちゃんに「ロココといったら太宰だろ」と云わせて、タイトルへ辿り つく。 太宰は「女生徒」で、ロココ調を『辞書で引けば…華麗のみにて内容空疎の 装飾様式』と決めつけている。 あまりに否定的な説明を載せている辞書とは、どのような辞書なのか? 太宰がちょっと出かけるにも辞書を携えた、というほど愛用していた小型の 辞書が、それなのか? 辞書を巡る主人公の探索が、取り留めもなく漠とした連想と偶然の中で次第に 形を取り始める。 著者は読書家だけあって、キーワードからの各作家への展開は多様で、驚く ばかりだ。 表面上はロココをキーワードにして太宰に至るのだが、人形の家のノラも 鹿鳴館の明子も女生徒も若い女性で、メロディの下に流れる重低音のように 妙に印象に残った。 上州名物「焼きまんじゅう」も旨そうだね…。 | ||||
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このシリーズはとても好きでした。 でも、この作品と、以前出版された卒業論文を作成するときの お話は、文学論になってしまっていて、一般読者にはちょっと 敷居が高いというか。 文学作品は好きで読んでいますが、太宰の辞書についての 発見を読んでも「ふーん、そうなんだ」くらいにしか思えず、 小説の結末での感動が味わえませんでした。 懐かしい登場人物たちの「その後」は楽しめたのですが、 読者を選ぶ内容かなって思います。 | ||||
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まさか続編が出るなんて全く想像すら出来なかった。 少女はすっかり大人になり、家族が増えている。 それだけの時間が流れていたということ。 それでもこのシリーズは大好きです。 | ||||
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出版社の編集者になって約20年、かの「私」は結婚して中学生の男子の母親になっていた。 けれどもやはり「私」は「私」。好きな本の謎を巡って、図書館、資料室、記念館巡りをしてしまう。 親友の正ちゃんにもらった太宰治の「女生徒」の謎から発展して、真打ちになった円紫さんからもらった太宰治の辞書の謎。 太宰治文庫に愛用の「掌中新辞典」があるか、問い合わせる。 すぐに調べてくださり、折り返し、電話をいただいた。 「辞書は一冊もありません」 とのことだった。 やはり、台所の包丁は残らない。(183p) 寂しかったのは、「私」が結婚していたことでも、日常の謎よりは書誌の謎解き作品になっていることでもない。もう彼女は円紫さんに答を求めない。たどり着いた答を円紫さんに報告さえしない。 やはり、アラフォーに名探偵は必要ない。 しかし、「謎」は残った。あの凛として可愛かった「私」はいかにして、この気配りの出来る優しい夫に出会ったのか。 2015年6月9日読了 | ||||
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北村薫のデビュー作にして代表作である「私」シリーズの、実に16年ぶりの新作です。 作中時間もおそらく16年がたち、新人編集者だった主人公「私」も、中堅の編集者となり、雑誌の編集をするとともに自分の企画で単行本を出版できる立場となっています。私生活では結婚もし、子供にも恵まれ充実しているようですが、彼女も含めて三人娘だった友人関係は、それぞれの就職結婚により物理的な距離が生まれています。 凡庸で地に足がついた人生で、我々が「私」の将来として予想していたそのものです。しかし、凡庸な人生にも悩みや失敗、そして遠い将来の予想された別れなどもあり、一方で喜びもある、静かな中年期の始まりを感じさせます。しかし「私」の人生の先輩である噺家「円紫さん」はまだまだ現役、というか、今や芸の円熟期だと思われます。 前々作『六の宮の姫君』と同様、「私」は、文学作品、そして作家の謎を追います。今回のテーマは「太宰治」の作品『女学生』をめぐる謎です。 前は卒論研究のためでしたが、今度は仕事のつてを使いつつ、しかしこれは趣味かなという調査なので、きちんとした論文を書くというオチではなく、人生の中で生まれる疑問への純粋な好奇心として動いているという感じでしょうか。 作品としては十分美しいもので、一定レベルをクリアしていますし、科学研究と違って文学や歴史の研究には市井の研究者が新しい知見を提示できる可能性があることがよくわかる、なかなかに興味深い内容なのですが。 個人的には、ちょっと残念で寂しく思えます。 「私」シリーズは、若い女性の、若いが軽薄ではなく、純真なみずみずしい感性をごくごく胸一杯に飲み込むように読むシリーズでした。 だからこそわたしは、「私」のときめく恋の物語を、幸福な結婚にまつわる経緯を、そして彼女の友人二人の同様な、凡庸だが光り輝く物語を読みたかったのです。それがぽんと飛んでいる。 「私」の姉の、胸の痛くなるような恋の物語「夜の蝉」が、圧倒的な傑作だっただけに、何年待ってでも、わたしは「私」の恋が読みたかったのです。 果たしてその物語は書かれるのでしょうか? | ||||
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中学生の子どもを持つ身になった”私”。やはり本が好きで、いつも本とつながっている。編集者として働く”私”は、太宰治の創作にまつわる謎を探り始める。太宰には、いったいどんな謎があったのだろう?≪私≫シリーズ。 シリーズ1作目の「空飛ぶ馬」では大学生だった”私”。今では、母であり、バリバリ働く編集者でもある。 今回の作品の中には、日常生活の中で起こるミステリーなどはない。作家が作品を生み出すときの謎に迫っている。私の好きな言葉に「眼光紙背」という言葉がある。「紙の裏まで見通す」という意から、書物の字句の背後にある深い意味をも読みとるということだが、まさにそれを地で行く話だった。 作者自身も太宰治が好きとのことだが、太宰の作品「女学生」創作にまつわる謎を実に丹念に調べている。「こういう個所からこういう考え方ができるのか!」読んでいて驚きの連続だった。すごく残念だが、私にはここまで読み込む力はない。自分の読解力に限界を感じてしまった(涙)。 最初から最後まで興味深いことばかりだった。太宰治は、彼の作品の中で今も生き続けている。そう思わずにはいられない。本好きの人にはたまらない1冊だと思う。けれど、本の中身をそれほど深く追求することに興味がない人にとっては、読んでいて退屈だと感じる部分もあるのではないだろうか?好みが分かれる作品だと思う。 | ||||
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懐かしや、円紫さん再登場。と言っても大活躍するのは、人妻となった《私》。相変わらず書物漬けの彼女に導かれて、近代文学の沃野を散策する静かな喜びがある。 芥川、三島、朔太郎、そして何よりも太宰好きには堪らない贈り物であるが、さらに深読みすれば、昭和の文学シーンを牽引した二人の俊英批評家・奥野健男と江藤淳への、屈折したオマージュでもある。特に(今や過去の人?)江藤淳の、犀利な批評眼を再認識させてくれたのは、嬉しい限り。 後半の殆どは、短編「女生徒」中の「ロココ」という言葉の解釈に使った「辞書」は何だったのか、という太宰文学トリビアに終始するが、その書痴ぶりには圧倒された。 なお、作者の源イメージには「水」がある、というのが評者の見立てだが、その予想通り、朔太郎作品中の愛唱詩は「およぐひと」であった。そして、その詩を「読む時、私は、特別な水の中にい」る、という一節が続く。これぞ、北村節。 まさに、読者を選ぶ文藝パズルの如き一冊である。 | ||||
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この本を「円紫さんと私」シリーズとしては認めたくない、というのが正直なところです。北村薫は熟練の域に達しました。デビュー当時のリリカルな(女性に間違われるほど)ムードや心のひだのなかに入ってくるようなかんじはトーンダウンして、冷静に事実を追い求める上質の推理小説を書くようになりました。作家探求物として「私」を登場させたのは流れとして当然だったのでしょうが、正直言って中年になった「私」を見たくはなかったです。題材は素敵。プロットも素敵。でも人間が歳をとって立場が変化してという残酷で現実的な事実は必要だったのでしょうか。円紫さんも私も歳を取らないままの「外伝」として書くことはできなかったのかな、と思います。 | ||||
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私はこの本を新潮社の小冊子「波」3月号で知り,読んで見ることにしました.帯に,待望の《私》シリーズ最新刊とあり,<書き手と読み手が一瞬を共に生きるとき,結実する小説の真実>と,意味深長に添えています.読み終わった今,私は書き手と一瞬を共にした実感は湧きませんが,著者の筆力に感心しました.北村さんは文章の上手さで読ませる小説家ですね.軽快なエッセイのような小説です.巻頭のエピグラフ(副題)に’’本に---- ’’とありますが,何のことか分かりません.「波」によれば,北村さんは根っからの本好きで,本に感謝の意をこめて,本に----,としたそうです.だったら,’’本に感謝’’とでもすべきじゃないですか.それは措くとして著者は誰かが書いた本でも細かいところが気になる,そんな本好きですが,太宰治の「女生徒」に掌中新辞典が出てくれば,その掌中新辞典を知りたくなり,あちこち探し求めて太宰存命当時の掌中新辞典を掌中にしました.太宰がこの辞典で<ロココ>を引いていたから,自分も引いて確かめました.そして発見します.太宰は辞書にない説明を引用している.しかもその引用をコテンパンに批判し,揶揄している.自作自演です.太宰は辞書の記述を創作し,小説の材料にした.北村さんはそれを知って本書の一遍「太宰治の辞書」に発展させました.そして「波」のなかで大略次のように書いています. 三島の言葉に《歴史の欠点は,起こったことは書いてあるが,起こらなかったことは書いていないことである》とあります.今はフィクションよりもリアルを書いたほうが受けると言われているそうですが,私はフィクションの力を信じたい.現実に起こらなかったことを書けるのが小説ではないでしょうか.私のようなフィクション側の人間にとっては書かれているものが現実と同じかどうかというのは問題ではない.『津軽』を書いたのは太宰治であって津島修治ではない.我々は『津軽』で歴史を読もうとしているわけではない.『津軽』のなかでは厳然と,たけとの再会はおこっている. 北村さんは太宰治の熱心な読者のようです.太宰の信奉者と言ってもよいかも知れません.’’一行で引きつける’’ 太宰の文章にとりつかれ,太宰から多くを学んだのでしょう.それにしても比喩の巧みなこと! 本書のそこら中に散りばめられています.例えば次のように(149頁). 私の探索ぶりを聞く円紫さんは,子供が走っているのを見るお父さんのような顔になった.そういう表情にくるまれていると,居心地のいいソファによりかかったように,ほっと落ち着く. こんな文章を読むと私もほっと落ち着きます.小説は,文章が良くなければ話にならない(ドストエフスキーはどうなの,と誰かが叫びました.無視します).北村さんは読者を快適にさせる小説家です. 私は《私》シリーズを逆時系列に遡って原点に戻ろうと考えていますが,その前に太宰の「女生徒」と「津軽」に立ち寄るつもりです. 2015-4-10 追記 太宰治の「女生徒」は''すべてが女性第一人称です.男性作家が主人公を女性にするのはかなり珍しいことだと,解説にあります.私は「太宰治の辞書」の主人公の ''私'' は男だと勝手に思って読んでいました.''私'' の友人,正ちゃんが登場するまでずっと誤解していました.男が女になりきって書く.不思議な感覚です.どこか奇妙です.北村さんは太宰に倣って本書を書きました. | ||||
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1989年『空飛ぶ馬』に始まり、『夜の蝉』、『秋の花』、『六の宮の姫君』と書き継がれた≪私と円紫さん≫のシリーズは、出版社に勤め始めた≪私≫に恋の予感が訪れた1998年『朝霧』を最後に、続編が紡がれることがなくなっていました。 2004年の『別冊宝島「北村薫CompleteBook」』のインタビューで作者は、「(このシリーズは)今は、なぜか書きたくないのだね、うん」というとても素っ気ない返事をしていました。私のようなファンにとっては残酷この上ない言葉から、随分な歳月が流れました。 しかし今年2015年、(少なくとも私には)なんの前触れもないまま、≪私≫が中学生の息子を持つお母さん編集者として私たちの前に帰ってきたのです。これまでの東京創元社から、新潮社へと出版元をたがえたとはいえ、表紙絵イラストは従来どおり高野文子画伯という懐かしい装丁での帰還です。 言い表す言葉が見つからないほどの驚きと喜びとともに、迷うことなく購入しました。 収録されているのは『花火』『女生徒』、そして表題作『太宰治の辞書』の三編です。 誰に知られるわけでもないほど些細な、日常に潜む謎を追うシリーズ物語は今回、書物に隠れた秘密を探って行きます。出版編集者である≪私≫がインターネットや図書館を駆使して解き明かしていく先にいるのは、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、ピエール・ロチ、フランソワ・モーリアック――。書物探索の旅が、いつもどおりの北村節ともいえる静かな筆致で描かれます。 対象となっているのが小説という架空世界に織り込まれた謎でありながら、実在した作者たちの当時の心のひだや、往時の出版業界の実状況にまで分け入っていくのです。≪私≫がこのように、虚実の間を往還しながら捜索を続ける姿は、ジョセフィン・テイ作『時の娘』でリチャード三世の肖像画の謎を追ったアラン・グラント警部をどことなく思い起こさせました。 そしてこの物語が行き着く先で見えてくるのは、書物という創作物が人間にもたらす豊穣のことです。 円紫さんは静かに≪私≫に語ります。 「太宰が書いているのは小説です。事実を書くものではない。真実を書くものです」(159頁)。 「勿論、≪一足す一は?≫といった問題ではない。唯一無二の答えが出るようなら、小説とはいえない。」(161頁)。 たちどころに読み終えてしまったことがひどく惜しく感じられる作品群です。 ≪私と円紫さん≫のシリーズはまた再び紡がれるのでしょうか。 ですが今は多くをねだるのではなく、およそ20年ぶりのこの新作を静かに噛みしめるにとどめたいと思います。 | ||||
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前作「朝霧」から、既に長い時間が経過しており、作品の中でも、その時間が同じように流れている。ヒロインは結婚し、出産し、家族と共に円満に幸せに暮らしている。しかし、彼女の興味はやはり、本に向けられ、本を愛する(寧ろ摂取するというのか)姿勢には変化がない。殆ど変動もないまま、静かに編集者としての生活を送っている姿。ヒロインの私生活は勿論描かれるが、とにかく本の探究に焦点を絞っている様な書きぶりだ。 「舞踏会」も「女生徒」も私にとって十代の頃に読んだ非常に印象深い作品だ。その本が「高岡正子」さんからもたらされた、という所にも、わくわくする。私自身、太宰は、全集から、評伝までかなり読み込んで来たが、正直盲点ともいうべき、部分だったと思う。「女生徒」に出て来る「ロココ料理」は四十年近く経っても鮮やかな印象を受けるが、この様なアプローチがあったとは。読書家であり作家である作者の慧眼と鋭い感覚が忌憚なく発揮された様に感じる。これこそ、ミステリの本質ではないかと思うような丁寧な探索から、導き出される結論は太宰の本質を抉り出す事に成功している。 太宰にとっての「女生徒」は作者にとっての「空飛ぶ馬」「夜の蝉」ではなかったか? と思う。 また、時の変化の中で「榊原さん」が鬼籍に入った事が告げられる。私は彼のモデルは瀬戸川猛史ではないか、と思ったりしていたが、その辺ははっきりしない。だが、ヒロインが静かに彼の故郷で死を悼むシーンは、心に迫るものがあり、大切な先輩を亡くした心の隙間と悲しみを表現していた。「朝霧」で榊原が結婚披露宴なのに(葬式)の話をするシーンはもしかして、伏線ではないか?という気持ちもある。 ヒロインの結婚相手は「交換教授」の彼なのか? 上司夫婦の親友と結婚した割には、何も説明がないが、石垣りんとロチの話は、「朝霧」でのベルリオーズの人との話でも出て来るので、これが伏線という事になるのだろうか。夫の容貌や性格の描写が無い、という事は、既に「朝霧」で出しているので、敢えて出さなかったという事かもしれない。また、本読みに寛大である、というのも一種の伏線かもしれない。 いづれにしても、私はこの久し振りの作品を堪能した。ミステリではなくても充分な満足度があった。 「飲めば都」「八月の六日間」で、リアルかつ等身大の編集女子を描いただけに、その辺の描写や恋愛や結婚生活の部分は一気にスキップさせて、あの秘蔵っ子ヒロインには、心置きなく「水のように本を読む」人生を用意して上げたのだろう。そして、自分と同じ目線を持つ成熟した語り手としての役目を負わせた事に意味があると感じる。 | ||||
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『空飛ぶ馬』を最初に読んだ時の静かな衝撃は忘れられない。ハリイ・ケメルマンや都筑道夫といった先達の傑作を踏まえた秀逸な論理展開のミステリとしての魅力の上に、人生の深淵や残酷なまでの不条理を語る筆致の繊細さに大袈裟でなく自分の小説観が変わる程の感動を受けた。 今や中学生の息子を持つ年齢になった編集者である《私》が人生の師匠である《円紫さん》に導かれ解き明かす芥川や太宰の創作の秘密。もはやミステリの枠を超え、殺人や犯罪を扱わなくても、その謎解きの道程には心躍り、人の心の謎に光を当てる鮮やかさがある。 読後に心が浄化されるような清々しさ、そして物事の見方がさり気なく変わるような驚き、まさに北村薫の作品を読む醍醐味を堪能した。一気に読了してしまい勿体ない気がするが、再読すればまた新たな発見があるに違いない。楽しみだ。 | ||||
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