■スポンサードリンク
終わらざる夏
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
終わらざる夏の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全172件 141~160 8/9ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
登場人物が多いから把握しづらいところはある。 そんなわけで上巻はなかなか読み進めるのに時間がかかってしまった。 しかし、ここをきちんと読まないと下巻のそれぞれの生きざまに辿りつかない。 立場も過去もも未来も年齢もまったく違う人たちが、ひとからげで戦争という事象に巻き込まれてゆくのが戦争であるならば、こうした書き方も必要なのだろう。 ちゃんと読んでほしいと思う作品のネタばれはしたくないから、詳細には触れないが、鬼軍曹がよかった。 翻訳家も、少年兵も、赤紙を届け続ける男も、疎開先から東京を目指す子供も、先生も…。 彼らの誰ひとり、たとえ世の中においてどんな些細な役割を担う人間であっても、失ってもよい人生などではなかったのだ。 戦争をテーマにした作品は数多いが、登場人物の声が聞こえる作品は意外に少ない。 その点ではさすが浅田次郎、彼はやはり小説家なのだと認識させられた。 ☆は5つでもよかったが、「蒼穹の昴」が5つならという意味です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
終戦をまじかに控え、すべてを失いつつある日本において、 人を思いやる心を失わない人達の姿が涙を誘いました。 ストーリー性はやや低いので、誰に感情移入してよいか難しい気もしました。 読み手側としては評価がわかれそうな一冊です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
長すぎたのではないだろうか。波に乗っては潮が引き、微妙に感情を逆撫でする箇所にいらつきつつも、登場人物の魅力に励まされての読了だった。最後はあのような終わり方で納得する読者がどれぐらいいるのだろうか。何を意図して書いたのか、も読み手を不安にさせる筋立てである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書で書かれている千島での戦いを、あまり知らなかった。 テーマも良く、浅田節も十二分に楽しめる。 ただ、少々消化不良。 登場人物の描写は相変わらず良いのだが、尻つぼみで終わっているのが残念。 勿論駄作ではなく、一読する価値有りの1冊なのだが、 上巻からの期待値が大きすぎたかな。 それにしても、戦争に勝ちも負けもない。 あるのはただただ悲しみだけだと改めて痛感した。 国と国との争いに民衆が巻き込まれて行く。 夢や希望を抱えた民衆がだ。 自分を含め、戦争を経験してない世代の人間が、夢や希望を諦めてる場合じゃないな。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ストーリーで読ませる浅田次郎の作品ですから、具体的な筋書きには出来るだけ触れないようにします。 根元から何本にも枝分かれした大木にたとえられる物語です。枝は、云うまでもなく登場人物です。読者は、その木に降りかかる雨粒のように、いろいろな枝を伝っては根元に向け時間とともに流れ下ります。 時代は、先の大戦の末期、アッツ島の玉砕の余燼が残る頃から終戦後まで、とりわけ、ポツダム宣言受諾の8月15日を挟む比較的短い時期が描かれます。ところは、主に、千島列島の最北端、カムチャツカ半島に鼻付き合わせる占守(シュムシュ)島です。 物語は、占守島における思いがけない戦いに向け、終戦間近な盛岡、東京、信州などを舞台に何人もの人びとが登場し展開してゆきます。上巻は、それらの人たち(ソ連兵も登場します)が、戦争に巻き込まれ翻弄されながら、主要登場人物が占守島に舟で向かうところまでが描かれます。すなわち、何人もの登場人物が、互いにふれあい影響しあいながら、大木に降りかかった雨ツブとともに、それぞれの幹を伝って根元に向かって流れ下るように、千島の果てに向かって濃縮してゆく物語が展開するのです。 なお、上下巻を通じて顔を現す多くの登場人物はいずれも良い人たちです。悪い人間は一人も登場しません。懲役帰りのヤクザも、鬼熊と呼ばれる連戦の兵も優しいのです。それは、戦争という権力及び個人の暴力が大手を振る不条理の中で、いっそう際立っています。浅田文学のひとつの特徴だと思われます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
先の大戦において、千島列島の中でカムチャッカ半島にもっとも近い占守(シュムシュ)島でどういう戦争が展開されたかは、多分、余り多くの人の知るところでないと思われます。当時の大本営ですら、それを予測するところ少なかったと本書においても描かれます。確かに、そこはソ連と鼻をつき合わせる地ではあるものの、当時の最大の敵、アメリカへの最短コースに位置する地でもあり、実際にアメリカはアッツ島の奪還を果たしていましたから、千島でアメリカの来襲を防ぐことが主要な関心であったことは理由があります。ところが、実際には、終戦3日目になってカムチャツカの尖端からソ連軍が攻め込んできたのでした。作中ではスターリンの領土的野望の表れとほのめかされています。 最終盤で、舞台はシベリアのラーゲリに移ります。そして最終章は、凍土の土から顔を出した野花のごとく春の陽に輝くヘンリー・ミラーの「セクサス」の一場面なのです。 主要な登場人物が、戦争末期、大木に降った雨粒のごとくそれぞれの幹を伝い紆余曲折の後にたどり着いた根元には、戦争の不条理が待っていました。しかし、それがそのまま北国の土に染みこんで終わりなのではなく、不死身に蘇り花を咲かすこととなるのです。北の最果ての島を主な舞台に展開された戦を通して、あの大戦が何であったのか、そこで命を落とした多くの人びとが示していることは何であるのか、それらをじわりと心に沈潜させる物語、それが「終わらざる夏」なのだろうと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
広告の内容に惹かれ、おもしろいそうだと思い、著者の作品を初めて読みました。 しかし、この作品で最も期待していた、占守島での終戦調停の様子などはまるでなし。ロシア上陸後の記述も、ロシア将校の回想風で内容も少なく、玉音放送(日本の敗戦)後に占守島で何があったのか?を知りたいと思い、ドキドキしている方には物足りないかもしれません。 ただ、戦時中のいろいろな階層の人々(軍人、民間人など)の視点から、時にはロシア人の視点も含ながら物語を展開しているので、最後まで飽きずに読めると思います。 占守島で本当は何があったのか気になる方は、大野芳氏著「8月17日ソ連軍上陸す 最果ての要衝・占守島攻防記」もあわせて読むと、よりこの作品を楽しめます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
あまり知られていない占守島の戦い。 たかが紙切れ一枚に人生を左右された人々を、浅田次郎が悲しくも雄雄しく描く。 普段の上手さは十二分に発揮出来てはいないものの 相変わらずこの著者の描写は素晴らしいと思う。 「空も海も風も、お天道さんだって嘘っぱちにちがいないが、おふくろだけは本物だと思った」 には鳥肌が立った。 下巻が楽しみだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
あまり多く知られていない終戦後の占守島における日本とソ連の戦いを題材にしている小説である。 占守島に出兵した男たちや残された妻・母親・子供たちの戦争に翻弄される人生がパラレルに語られている。戦争という状況の中で、登場人物の考え方や価値観の変化が記されている。状況が人を変えていく様を詳細に語られている。空襲に遭って家が燃えてしまった人間は、家の燃えていない人間を妬み、息子や夫が徴兵に取られた母親・妻たちは、赤紙配達係の人間を恨む。戦争という抗いようのない状況の結果であるにも関わらず、人々の心がバラバラになっていく様子が書かれている。逆に、徴兵や学童疎開によって、バラバラにされた家族であるから生まれる絆や逞しく成長する子供たちの様子も詳細に描かれている。 また状況の変化によって、変わらない信念や思想を強くもっている人々の様子も描かれていた。そういった人々は、周囲の状況に流されかけた時には、自分の信念に一度立ち返ってから、行動をする。自分の行動に常に意識的であり、自分の中で変化を起こしかけている時には、変わらない自分自身の信念をを軸にそれを客観的に分析している。そういった人々は、高い教養を持ちながらも、その能力をひけらかさない品位を持っている。 戦争を語る時、何百何千人が犠牲になったといった表現が多用されるが、この小説では、その何百何千人の一人一人に人生がそれぞれあることを強調しているように思われる。そのため、登場人物が多数でてくる。その分物語が散漫になっている印象も受ける。特に後半。最後の締めくくりのヘンリー・ミラーは、必要だったのかかなり疑問に思った。 とは言え、占守島における日本最強の軍隊のことや終戦後のソ連の侵攻など、世間であまり知られていない大事な歴史を題材にしていることは高く評価できると思われる。ぜひ一読するべきであるが、小説としての内容に関しては、人にって様々な評価に分かれると思われる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「戦争の犠牲者をひとからげにしてほしくない。百人の戦死者には百人の人生があり、千人の異なった勇気があった」(452頁)。そう、戦争は、一人ひとりの人間を単なる数に置き換える。登場人物が数多くいて、生き延びた人々のその後の人生を知りたくなってしまうが、それを想像するのが著者が読者に残した宿題かもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
歴史の教科書では、戦争の悲惨さが犠牲者の数で語られる。数だけで語るべきではない。一人一人のかけがえのない(代替性のない)人生が失われたのだ。召集令状を出す人、受け取る人、出征する人、見送る人、学童疎開させる親、学童疎開させられる子ども。それぞれ立場の人物を丁寧に描いている。(召集令状を受け取った男たちは)「それまで営々と築き上げてきた人生が、一瞬にして夢となってしまった顔である。」(167頁) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公は3人。登場人物は多い。 登場人物たちのエピソードが長すぎるし、視点が次々と変わるので苦労した。特徴ある話し方や旧字体があって、さらに読むのを難しくしている。 赤紙の配達にこんなにたくさんの人が関係しているのを知って多少興味は持ったが、読むのが疲れる本だった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
テーマは良い。登場人物も面白い。でもどうして消化不良な気がするのだろう。多分いつものように畳みかけて泣かせようという意図がないためかもしれない。 上巻に続いて読みにくく、ファンタジー要素が入ってきてしまう。空想的なソ連兵のストーリーはない方が良かった。 この著者はもっと直球勝負の方がいいのではないか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
壬生義士伝のような「巧さ」は無く、誰を主人公にしたいのか、群像劇でまとめたいのかが明確で無く終盤に向かうにつれて、物語として破綻しているように感じました。過酷な時代と極限状況にメルヘンチックなエッセンスは必要無いでしょう? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
長らくダブーとされてきた占守島の戦いをテーマとすることにより、占守、ほか千島列島全部が明治初年以来の正当な日本の領土であり、それを1945年8月18日以後、ソ連(ロシア)が国際法に反して不法に占拠していることを、結果的に広く知らしめたことは高く評価できる。 しかし歴史小説はフィクションとはいえ、やはり史実に基づいていないと物語としてのリアリティーが失われる。登場する人物の設定にリアリティーが感じられない人物が多すぎる。主人公の片岡とその妻の久子はときおり日本語を禁じて英語だけで会話することがあるという、また二人に生まれた子、譲は日常会話程度の英語はしゃべれるという。そんなことが戦時中にありえたであろうか。そのような英語かぶれの夫婦が登場するのは戦後のことであろう。 決定的な錯誤を指摘しておく。小説のなかでヘンリー・ミラーのセクサスという自伝小説のことが平和・愛の象徴として重要な役割を与えられている。片岡およびその同僚の尾形、そして久子らはこのセクサスを遅くとも 1945年春までに、原文で読んでいることになっている。しかし、この本の初版がパリのオベリスク社から出るのは1949年になってからだ。このことはこの小説の奥付の著作権表示からも明らかである。ゆえに彼らは1945年の春にセクサスを読んでいるはずはない。小説の末尾は片岡が訳して出版しようとしたセクサス冒頭の抄訳で締めくくられていて、浅田のミラーへの思い入れが感じられるが、それが戦後4年も経った作品だったということになるとこの小説の構成自体が成り立たなくなってしまう。 史実については最近刊行された大野 芳 (著)「8月17日、ソ連軍上陸す―最果ての要衝・占守島攻防記 」(新潮文庫) の併読をおすすめする。ちなみに新潮社はヘンリー・ミラー全集を出した出版社であった。浅田の小説も新潮社から出されていればと悔やまれる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
非常に恥ずかしい話であるが、占守島の戦いのことは全く知らなかった。1945年8月15日以降にこんなに大規模な戦闘があったとは・・・。なんという不条理な戦いだろう。こういうことこそ学校で教えるべきではないかなと思う。 作品は相変わらずの浅田節が炸裂。愛すべき登場人物・想いのつまったセリフなど、「人の思い」をあらゆる頁で感じる。戦争で亡くなった方は、「数」で語るべきではなく「個」で語るべきだとの思いが強くなった。 ただ、少し残念なところもある。浅田氏は手紙や手記の形式を非常に好む。今作も後半は特に多い。素晴らしい内容も多く、大いに涙したのだが・・・。多くの主要キャラの最後までもがソ連兵の戦果報告か手記で語られている。彼らは最後に何を考え、何を見たのか、それが知りたかった。想像は出来る。だが最後に近づくにつれ、彼らの視点が極端に少なくなったのが非常に残念。逆にソ連兵の方がしっかり書かれている。そこでも涙が出たが、日本兵の視点でも泣きたかった。 戦争の愚かさ・不条理・無意味さを大いに感じられる名作。占守島の戦いのことを知らない人が多いというのは(自分が無知だっただけかも知れないが)、学校教育やマスコミの怠慢ではないだろうか。こういう戦いがあったということを教えてくれた浅田次郎氏に感謝したい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
4年前86歳で亡くなった父がこの「占守島の戦い」の当事者でした。 幼いころよく父の膝の上で戦争の話を聞かされました。戦車でロシアの兵隊をやっつけた話を。 攻撃を開始するとき池田隊長の訓示はすごかった・・・。俺たちは戦争に勝ったんだ・・・。 でも話の最後はいつも「決して戦争はしてはならない」でした。 ロシアの野望を砕き、日本の国土を守った歴史に残る戦いであったことを知るのは社会人になってからのことでした。 「占守島の戦い」を世に知らしめてくれたことに感謝いたします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
カムチャッカ半島にもっとも近い千島列島最北端の小さな島・占守島(シュムシュ島)では8月15日に戦争は終わらなかった。 仮想敵ではなかったソ連が日ソ不可侵条約を破棄して8月8日に宣戦布告し参戦した。千島列島の武力占領をソ連は企図し、この島では8月18日早朝から戦いが始まり、精強な日本軍は圧倒的な火力と兵力で応戦・反撃しソ連軍を撃破した。そして日本軍は圧勝しながら24日に武装解除された。そして将兵たちは9月中旬からシベリアに送られ強制労働に服すという国際法違反の虐待を余儀なくされた。この勝利によって日本の領土は確保された。我々の知らない「もう一つの戦争」である。 その占守島に歴戦の鬼熊軍曹、若き菊池軍医、45才の片岡二等兵という三人の兵が和平のためのある使命を帯びて集結するが、運命のいたずらに翻弄されるという長い物語だ。戦争の理不尽さと渦中の人間の口惜しさと怒りとをあますところなく描いた傑作である。著者の浅田次郎の憤りが強いエネルギーとなって戦後65年目の暑い夏を前に優れた小説として結実した。 市ヶ谷の大本営参謀、岩手県盛岡の聯隊区司令部で徴兵作業にあたる動員班員、滝沢村役場兵事係、同潤会アパートに住む洋書翻訳者、シュムシュ島のアイヌ、函館から来た女子挺身隊、ソ連赤軍の将校、、。そして戦争の最前線に立っている兵士の家族達の悲しい物語だ。戦争には勝ち負けはない、戦争するものはすべて負けであるという著者の主張が痛切に響いてくる。 * 戦争は人間の思想や倫理や哲学をことごとく破壊する、超論理の無茶ですね。 * 明日の約束をすることが今日を生き延びるまじないであると、前線の兵隊は心得ている。 * 人間同士が殺し合っているのではなく、機械と機械が壊し合いをして、その機械を操っている人間が一緒に壊れちまうんです。 * 人の命を数字でしか量ろうとしない戦争というものに、 * 十五年も戦い続け、この四年近くは世界を敵に回して戦い続け、あげくの果てに降参する。 * 国が国民を攫(さら)い続けてきた。男たちを根こそぎ兵隊とし、女子供までも勤労動員の名のもとに拐(かどわ)かした。 * 赤紙一枚で召集された兵隊は、その後どこでどうしているものやら何もわからないのだが、死んだとたんに日付と場所が通知されるのだった。 * 邪念のないまっすぐな気性は、すなわち頭がいいのと同じなのである。 * 武運長久というのは、戦場で働(かせ)げというごどではながんす。逃げ回ってでも帰ってけろという、母心でやんす。 * スターリンの兵士になってはならない。やつは泥棒だ。革命という看板を掲げた大泥棒だ。 * だがな、犬死だって人を殺すよりはいからかましだ。 * 僕はいまさら死を怖れているのではない。わけのわからぬまま、戦う目的も理由も何もわからぬまま死ぬことがたまらなく恐ろしいのだ。 * 自由というものはよく知らないけれど、飛ぶも潜るも漂うも。これからは自分で決めていいのだろう。人間がようやく、鴎と同じように生きられるのだ。 * 百戦錬磨の兵隊たちですら、花咲く草原を征く時には声もなく見惚れるのです。 * 二度と、戦争はするな。戦争に勝ちも負けもあるものか。戦争するやつはみんなが負けだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
氏の著作の中でも大好きな「プリズンホテル」シリーズ、「蒼穹の昴」、「中原の虹」。 その興奮が再び蘇る。 一読後、呆然。 そして、感動。 新たな福音書の誕生に、拍手。 とにかく、読んでみてください。 これから半年ぐらいは、周辺の人にそう宣伝する自分を想像している。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
一見、浅田次郎らしからぬ小説、かもしれない。 主人公だったはずの片岡が中盤まったく登場しなくなるし、とにかく出てくる人物が多い。 「北千島に残された帝国陸軍最後の精鋭戦車部隊が、終戦後にソ連と戦う」 という「血わき肉踊る」小説を期待していると、肩透かしにあう。 だが、途中から著者のもくろみがおぼろげながらわかってくると、止まらなくなる。 著者が書こうとしたのは、特定の「誰か」にとっての戦争ではない。 「戦争」そのものであるからである。 日本側の死者300万。だが、それは決して世界の中で「多い」数字ではない。 ソ連側の死者は、一説によると2000万を超えるという。 誰が勝者で誰が敗者なのか。 わかっているのは、「死者は語れない」ということだけだ。 物言わぬ死者のために、浅田次郎は「戦争とは何か」を代弁してみせた。 300万という「数字」を、ひとりひとり、血肉のある「人間」として甦らせた。 あの極限状況の中で、市井のひとりひとりが、どれだけ人間としての尊厳を守り、 どれだけ、最後まで「人間」であろうとしたか。 読み進むほどに、涙が止まらなくなった。 いつもの「浅田節」はむしろ、控えめであるのに。 函館高女の女子高生たち400人を無傷で戻そうと尽力する 日魯漁業の社員と兵士たちのエピソードが、唯一の光明となって 胸に明るい灯をともす。 「また遊ぼうね。――戦争が、終わったらね。」 8月15日が近づいてくる。 「終わらざる夏」の登場人物たちに降りかかった出来事は、 決して他人事ではない。 戦争は、始まってしまうのではなく、私たちが始めてしまうものなのだ。 決して、彼らの犠牲を無駄にしてはならない。 強く、そう思った。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!