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出星前夜
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出星前夜の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.21pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全34件 21~34 2/2ページ
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本書の舞台になる有家では、藩の悪政のため貧困がきわまり、子供が傷病にかかってバタバタと死んでいく背景が描かれています。そんな中20年間刀を捨て、ひたすら耐えてきた元水軍の庄屋の甚右衛門(鬼塚監物)が立ち上がって、ゼス・キリストの名において立ち上がります。農民たちを侮っていた藩家老を慌てさせます。何とか江戸表に知られないよう事実を隠蔽、被害の過少申告は責任回避を図る偽装商品企業を思い起こさせます。当初蜂起の首謀者鬼塚監物は最終的には首を差し出して藩の悪政を明らかにすることでしたが、蜂起勢が島原に入った際、実行部隊がコントロールを失い、火付け、略奪を始めてしまいます。 本書では信仰について考えさせられます。当時のキリスト教の終末思想と活火山を擁する島原がリンクして蜂起を助長していきます。しかし、途中から掠奪に走る農民、神の名のもと戦国水軍衆に戻って戦う鬼塚監物、神の奇跡を信じ散っていく天草四郎、そして聖なる戦いを目指して立ち上がったものの、理想と現実のギャップに耐え切れず戦線を離脱し長崎で医療活動をすることで自分の救いを見出す矢矩鍬之助(寿安)に胸を打たれました。どんなに信仰心が強くとも自分を超えるような結果はめったに起こらない。信仰は心の支えにはなるかもしれませんが、人がその人以上になることはできないのだということを語っているように思いました。 | ||||
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あの飯嶋氏が島原の乱を書く、というのは、著者の他の作品を読んだことのある人間にとってはとても納得感のある話だった。ただ、読む前に懸念していたのは、史実としての島原の乱があまりに凄惨なため、どれだけ重苦しい読後感を植えつけられてしまうんだろう、ということだった。そんなこんなでなかなか手を付けられずにいたが、読み始めればやっぱり一気に読了。読後感も「いい意味での重さ」という感じで、読む前に思い描いていたものとはずいぶん違っていた。内容的には、島原の乱のクライマックスとも言える原城攻防戦よりも、そこに至るまでの過程の方が丹念に描かれている。そのため、結局は重苦しくならざるを得ないストーリーではあっても、多少のカタルシスを感じられるものになっている。こういった取り上げ方はもちろん、著者も計算してのことだろう。もう一つの舞台装置としての「長崎」もまた、印象的だ。絶望的な状況の原城と、それほど離れているわけでもないのにやけに静かな長崎の夜。このコントラストが強く心を打つ。やっぱり飯嶋氏の本、期待通りです。ぜひ。 | ||||
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恥ずかしながら、飯島和一の作品は初めて読んだ。そして歴史小説家としての著者の力量に圧倒された。 特に島原の乱の発端となる傷病による子どもたちの死亡の原因が、違法ともいえる悪代官のベラボーな年貢取り立てにあると見たイスパニア修道士の直弟子恵舟の慧眼が著者のものであったしたら、小児科医である読者として驚きというか畏敬を禁じ得ない。戦場の兵士が鉄砲で撃たれたり、刀で切られたりして死ぬのではなく、戦場物資不足の栄養不良で免疫力が低下し、その結果としての感染症で死ねこと、そしてそれは軍隊組織の官僚主義に起因すると見抜いた知られざる一面をもつクリミア戦争のナイチンゲールと重なる。ただ恵舟は、やはり医師であった大村益次郎やチェ・ゲバラのように、根本原因の治療とも言える革命には加わらなかった。悩みつつ中途半端ながらハーフの若者寿安がその役割を担おうとしたが、荷が大き過ぎたのか、歴史には名をとどめていない。実在のモデルがいればの話ではあるが。 決して安くはない大作だが、前半のみから得られる感動だけでも対価を払う価値は余りある。というか、正直言えば後半の戦闘の記述が長々と続くのにはやや退屈した。私的にはこれらを削り3分の2くらいの分量で切り上げた方が感慨深い作品となったように思う。それでも五つ星にしたのは前半が圧巻だからである。 飯島和一の作品を読んだことのない人にはこんな作家がいるんだとおこがましい限りだがお教えしたい。きっとこの小説からすばらしい映画が生まれると思うが、感動が薄れ、場合によっては失望につながるので、映画ができる前に読むことを是非お勧めする。小児科医の左門 新 三つ星レストランには、なぜ女性シェフがいないのか 女はなぜ素肌にセーターを着れるのか | ||||
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郷士でキリスト教徒の農村の指導者の側に立って書かれた乱の物語である。ディテールがリアル。野呂さんの諫早菖蒲日記の読後感に通じるものがある。読後感すこぶる清明!神を信じた人を助けなくともやはり神は存在するのでしょう。クオヴァディス・ドミネ! | ||||
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今年1月29日付朝日新聞に載った著者の大沸次郎賞受賞スピーチによると、松尾芭蕉が「笈の小文」に書き記した「風羅坊」という<酔狂な情熱>の親戚筋のものが著者自身を物書きにしたという。その酔狂さと情熱の産物である本書(『出星前夜』)は、文字どおり目から鱗が落ちるほどの驚愕と興奮を読者に与えてくれる傑作小説である。単にキリシタン農民の叛乱として歴史の教科書で扱われる「島原の乱」の実相を、あの天草四郎(本書ではジェロニモ四郎)を脇役にして読む者に教えてくれるのだ。 女子供、老人を多数含む農民の集団が依拠したのは城とは名ばかりの城壁など無い城跡だったこと。戦いの素人が二か月近くも幕府(諸藩連合)軍を相手に抵抗できたのは、旧水軍系の荒武者たる帰農武士や清正公所縁の古強者が戦闘集団を率いたからだったこと。何よりも、他藩の二倍を超える年貢を課した松倉藩の圧政搾取と無策無理解に耐え兼ねた結果の蜂起だったことが、「糞侍(ぶさ)」という侮蔑語の繰り返しにより、ひしひしと伝わってくる。困窮疲弊し追い詰められた農民たちには、先祖代々の隠れキリシタン信仰による来世での安寧至福にすがるしか無かったことが判る。死を恐れない蜂起軍の組織立った抵抗に遭い、腰砕けで脆くも敗れ去ったのは日頃威張り散らしていた藩の糞侍達の方だった。戦闘のプロ集団の筈の藩軍、幕府軍をきりきり舞いさせる蜂起軍の活躍には思わず拍手喝采したくなる。騒乱のきっかけとなった若衆蜂起を指導した異相の若者(寿安)が本書の主人公である。寿安は暴徒と化した一部農民が城下町に火を放つのを目にし、理性も統制も失った烏合の衆たる姿に絶望して戦列を離れる。旧知の医師を呼びに訪れた長崎で帰郷の道を閉ざされた寿安は、その地で医師の助手となり西洋医術を学ぶことになる。「戦いで殺した侍の数だけ病気の子供たちをこの長崎で救え!」との医師の教えに諭されて弟子入りを果たす。 本書もまた各章が陰暦の日付で描かれるので、読む者は自然と飯嶋和一ワールドにいざなわれる。読者自身が歴史の証言者のように巻き込まれてしまうのだ。『神無き月十番目の夜』で一所忘村の戦慄の謎に遭遇し、『雷電本紀』では八の字眉の仁王様にこの世の修羅と仏を観る。また、『始祖鳥記』の夢に取り憑かれた者が帯びる情熱の息吹きに当てられ、『黄金旅風』では市井の民人の凄絶な生き様と度胸と男気に圧倒される。本書では、人を生かす道=医術を志すことで生まれ変わった一人の若者を目撃することになる。寝食を忘れた診療と救済の手伝いによって本当に救われたのは寿安自身だったのだ。夜空に光明を灯す地上の星となった寿安が、貧乏医者を貫いた七十余年の生涯のうち一体幾人の病に苦しむ子供たちを救い続けたのだろう…。 | ||||
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天草四郎ではなく矢矩鍬之介にスポットライトを当てて島原の乱を描くという発想は非常に興味深い。本書によると鍬之介は島原の乱のきっかけとなる教会堂跡での騒動を起こした少年であるが、蜂起の虚しさにも気づいていた。人々を救うための薬を求めて長崎に行ったがために、島原の乱には加わることができず、また、結果として、薬を届けることも出来なかった。最後は代官所の警備と刺し違えて死のうとするが、死に切れなかったらしい。誰もが平常心を保てない一揆の中で、鍬之介は自暴自棄であるけれども命の重さも受け止める人間味ある存在として描かれている。人間味ある鍬之介であればこそ、島原の乱をどう捉えていたか、非常に興味のあるところであるが、鍬之介の描かれ方は中途半端で不満が残る。特に、安っぽいドラマみたいに『それから10年後』が語られるくだり。ここには書かれていないが、島原の乱の後、代官の鈴木重成が天草の石高半減の願書を残して切腹し幕府に抗議。二代目の代官重辰も石高半減を訴え、ついに1659年に石高半減が認められる。すなわち、著者が締めた『10年後』も島原の乱は現在進行中だったはずだ。数少ない生存者である鍬之介が10年間何を思ったのか?もう一歩踏み込んで欲しかった。 | ||||
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傑作の予感を感じつつ読み進めたものの、読後の満足感はもうひとつというのが私の評価です。主人公の1人である寿安にも共感ができませんでした。自分の身の安全を確信した上で投降する辺りから、あれれ、と思い始めたのですが、その後の勝手な戦線離脱もいかがなものか。それに不可抗力とはいえ、自分の姪を助けにもどることができなかったことをもう少し悔やんでも良かったのでは?好みの問題かもしれませんが、文章に繰り返しが多かったり、1人の語りが何ページにも渡ったりと読みにくく感じました。■当時の手術道具や漢方薬の名前、身につける衣服の名前など、著者は綿密に調べた上で執筆に臨まれたことと思います。また、島原の乱にキリシタン以外の人が義勇軍のような形で参加していたことも本書で初めて知りました。読んで損はなかったです。 | ||||
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島原の乱を描いた歴史戦記小説である。が、主人公は天草四郎ではない。作者の戦場の描写力は確かなものであるが、人物の絞込みが中途半端な感がこの作品に関しては否めない。 | ||||
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今までに書かれた飯嶋和一氏の歴史小説には2種類あるようです。共通するのはどうしようもないほど鬱屈した時代背景ですが、ひとつはそんな中でも勇気と知恵をもって自分の信じる道を切り開いてゆく個人を描いたもの。「雷電本紀」、「始祖鳥記」、「黄金旅風」が代表作です。時代を変えるには至りませんが(それは不可能です)、登場人物は男らしく、魅力的であり、読後感は爽やかであり、感涙にむせびます。もうひとつは、そんな時代あるいは事件が主人公であり、その中で個人・集団は徹底的に翻弄され叩きのめされます。代表作は「神無き月十番目の夜」です。淡々と情け容赦もなく人が殺され死屍累々の描写に圧倒され読後感は重苦しいものとなります。本書は系統としては後者に属するものです。「黄金旅風」の続編とされているので、前者の系統でまたまた末次平左衛門の活躍が見られるのかと期待すると裏切られます。しかし傑作には違いありません。お終いに、重苦しい読後感も、最後の3頁のジュアンのその後の逸話で救われたと記しておきます。 | ||||
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ある時期わたしは、陳舜臣の歴史小説に夢中になっていたことがありました。それらには、阿片戦争からの中国の激動がひとりの人物に焦点をあてながら、多面的にそして壮大に描かれていて、その迫力に圧倒されながら読み続けていたと記憶します。本書を読んで、日本の時代小説もやっとそれに比肩するところまできたかなと思いました。 島原半島有家村の庄屋の甚右衛門(鬼塚監物)、同じく有家村の若者、矢矩鍬之助(寿安)と長崎代官末次平左衛門(二世末次平蔵)の三人を軸に、島原・天草戦争の勃発から終焉までが展開します。中でも戦闘の記述は、詳らかで臨場感に溢れ、出色のものでした。そして同時にそれは、この戦争の遠因になっている徳川幕府の大名政策の理不尽さを際立たせることにもなりました。 時間があるときに、じっくり腰を据えて読むことをおすすめします。 | ||||
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「神無き月十番目の夜」で「絶望」を描き、「黄金旅風」で「希望」を著した飯嶋氏の続編は「誕生」でした。夢やロマンといったエキゾチズムを一切排し、善も悪も、エゴも無知も裸にして並べた上で、圧倒的ともいえる登場人物(氏名の羅列)の量による実在性と(いつもながらに見事な)精緻な描写による実証性で求めるものは、時系列的にも異種となる「始祖鳥記」と共に、小説を通じて日本人的な中庸を刺激する作業なのだと感じます。重複、反復の多さに、いささか書き急いだ感も否めないものの、個人的には実験小説ではないかと思っていますので、活殺自在の精神を主人公に与えてくれたことに、長崎の一子孫としてただゞ感謝しています。(次はもっと分かり易く聖徳太子あたりがいい) | ||||
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黄金旋風を読んでからよろしく。教科書で天草四郎がキリシタンで島原の乱を起こした。なんて一行でおわらさられる事象の中の本当の物語。何の問題も無く一致団結して武装蜂起したわけでもなく、あらゆる因果の末の結果。その一つ一つが人の命の必至の道筋。江戸の日本の島原に神は見えたか? | ||||
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感動的なふたつの場面がある。 ひとつ目は第1部のはじめ、外崎恵舟の夢に宣教師マグダレナが現れ、啓示を与える場面。もうひとつは第2部、島原の乱終結後、復讐を決意する寿安に、町の人々が救いを求める場面。いずれも登場人物のその後の生き方を決定する出来事として描かれているが、決してキリスト教の奇跡を讃えたものではない。 むしろ作者は、島原の乱が、無知蒙昧な民衆の信仰の極みとして起こったのではなく、身分制度にあぐらをかく理不尽な為政者に対する民衆のやむにやまれぬ反乱であり、ひいては幕藩体制そのものへの批判として勃発した内戦としてとらえている。 したがって、作者の目線はこれまでの作品同様市井におけるヒーローにあり、権力者たちはちっとも英雄にふさわしくないところが痛快であり、現代社会にも通じる反骨精神がたまらないのである。 | ||||
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この著者の作品は本書を初めて読む、という人はいないと思いますが、とりあえず前著『黄金旅風』を読んですぐとりかかることをおすすめします。『黄金〜』の主人公が登場しますし、いくつかのエピソードが『出星〜』では大きく取り上げられているからです。さて本書。著者のこれまでの著書では『神無き月〜』にいちばん近しい、と思いました(ちなみに両著とも亡きご友人にささげられています)。雷電(『雷電本紀』)、幸吉、源太郎、伊兵衛(『始祖鳥記』)、平蔵、才介(『黄金旅風』)といった、非常に魅力的人物の生き様によって、生きていく力をもらえるのが、この著者の作品の特徴だと思います。「小説」と呼ばれるものがあまたあるなかで、この著者の作品を再読、再々読してしまうのは、その「力」を借りるためなのです。そういう意味では、今回は「人」ではなく「島原の乱」という事象が主人公なので、いささか物足りなさを感じました。寿安、監物らにもっとスポットを当ててほしかった。それから、後半、本丸や二の丸の位置関係がわからなくなって迷子になってしまい、かみしめた奥歯で顎の線が浮き立ってしまいました。ですから、あるいは図を描きながら読むといいかもしれませんよ。それでも、読んでいると「今そこにいる」ような気になるのは、群を抜く描写力のせいですか。ああ、次回作まで今度は何年待たされるのか……。いつままででも待ちますが!! | ||||
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