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グランド・フィナーレ
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グランド・フィナーレの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全73件 21~40 2/4ページ
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デビュー以来、終始一貫して、歪んだ男の欲望を書き続けてきた阿部和重がとうとうものした傑作だ。丹念に緻密に書き込まれたロリコン中年男性の歪んだ性癖、そしてそれを嫌悪する周りの人間の全うな反応(クラブで語られる世界の残酷な現実の話が象徴的だ)。それは、第二部にいたり、グロテスクな美しさを加速していく。何もかもを失ったロリコン男とこれから自殺しようとしている二人の美少女、三人が一部屋で過ごすクリスマス、そして相棒が「おはよう」とグランドフィナーレの開始を告げる…。このあとの悲劇を予感させる、残酷な美しさに満ちたラストだ。ある種、谷崎潤一郎に近い世界だろう。余談だが、作者は最近同じ芥川賞作家の川上未映子と、所謂出来ちゃった結婚をしたそうだ。自分の芸術のために妊娠した妻に子供を堕ろすように言った谷崎の逸話は有名だが、彼の文学的価値を損なわないためにも、産まれてくる子が可愛い女の子(ちーちゃんのような)でないことを願わずにはいられない。彼のなかにある歪んだ衝動は、文学のなかでしか活かせないだろうから。 | ||||
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最近の作家は、人間の心の奥底に潜む狂気を、言葉でもって、分析し、理解することに努めようとする嫌いがある。これは、いわば自分の精神を肉体にメスを入れる如く切開し、解剖するようなものである。かかる幼稚な喩えで考えてみると、最近の小説が何だか、観念的なものに成り果て、作者の、妄想の産物となってしまっていて、そういう自己分析的、或いは心理分析的な小説が、現在の作家の仕事であり、それがまた評価されているという風潮がある。何時から、小説がこのような、幼稚で、下劣で、低級なものになってしまったのか。ところで、阿部和重の全作品に共通していえることがある。異常で病的で幼稚だということだ。読んでいると、嫌気がする。では、読まなければいいではないかと、批判されそうだが、確かに阿部和重の作品を最後まで読んだものは一つとしてない。読めないというか、読むに耐え難いのである。阿部の観念的で、変態的な物語に吐き気がし、下品な言葉の一つ一つに辟易する。よく何の恥じらいもなくこんな小説を書いたものだなと、ある意味感動する。阿部のグランドフィナーレなんぞは、作者の病んだ精神から産まれた、一等できの悪い病的な子供のようだ。そんな、下卑た小説が文学的にみとめられるから、文学者気取りの馬鹿が増えるのだ。病める精神が蔓延るのだ。現代文学衰退は免れないだろう。さらば、文学。 | ||||
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阿部和重氏の活動からみると、芥川賞はもうスルーしてしまっても良い時期に受賞となった本作。2003年の大傑作『シンセミア』で芥川賞など遙かに超えたレベルの実力を持っていた阿部氏だが、なぜこのような中途半端な小説を書いたのか正直理解できない。文章もしっかりしていない為デッサンが巧いとは言えないし、モチーフも消化不良。そして何故デビューからこんなに年数を経てからわざわざ芥川賞なのかが正直疑問だ。文芸紙を購読する習慣がないので文壇事情などはよく判らないが、あっと言う間に凄い作家に成長してゆく阿部氏を認めて置かないとヤバい、などという判断があったのだろうか?村上春樹氏や山田詠美氏を受賞させなかった大失態を犯した選考主催元にはなにか焦燥感があるのかもしれない。 | ||||
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著者が作った架空で実在の街,神町。 阿部氏は,この脳の中の町で,神として振る舞い、 人と町の関係に鉄槌を下すつもりだったのだろうが、 逆にしっぺ返しを食らって, 街はすごく薄っぺらなものとなった。 作家の想像力と言うより,シムシティが作った町のようだ。 そろそろ、芥川賞を上げておかないと息切れになる、 ということか。 | ||||
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阿部和重は表題作「グランド・フィナーレ」で芥川賞を受賞した。出版当時、私は、主人公がロリコンであるという設定(意図的なものであるはずだが)にあまり興味がわかず、阿部のファンだから購入はしていたものの、ずっと「積ん読」にしてあった。しかし、どこだったかに、この作品が阿部の最新長編『ピストルズ』のプロローグ的な役割を果たしているというようなことが書かれてあり、あわてて読み始めたのだった。 さて、この作品が芥川賞に値する作品かどうか、また阿部の最高傑作かどうかということは措いておいて、作品自体は決して他のレビュアーの方々が苦言を呈されているほど悪い作品ではないように私には思えた。特に構成がしっかり練られており、後半の「フィナーレ的なもの」に向かう緻密な流れはすばらしかった。また、結末はオープンエンドというか、なんともあいまいな終わり方をしているが、そういう手法を選んだことを私は「あり」だと思った。 蛇足だが、本書に収められている短篇「馬小屋の乙女」の英訳が数年前にアメリカで出版されているある雑誌に載ったことがある。そのバックナンバーはもう品切れで手に入らないだろうが、私はその英訳版も非常に気に入っている。吉本ばなななどを多く英訳しているMichael Emmerichという人が訳しているのだが、このクセの強い作品を饒舌な英語の文語体でうまく翻訳しており見事だと思った。興味のある向きはどこかでご一読を。 | ||||
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冒頭からいきなりピンクのウサギと青い子グマが登場する。 『レモン風味のドロップみたいな味がする雨粒』など、 表現は可愛らしいが、難漢字を多用する文章に 読みながら流れを中断させられることもあった。 (悉く・恰も・纏る・齎す‥など) 加えて主人公の“性癖”のおぞましさは 不気味さと気味悪さを醸し出していく。 あきらめずに読み進めていくと再生していく希望の光が見えてくる。 受け入れがたい“性癖”に焦点を当てながら、 しっかりと彼を非難してくれる、Iという女性を登場させた点が救い。 作者は新人の時から小説を発表するたびに何かの賞を受賞している。 注目されているだけに、この作品でMDMA(合成麻薬)を 安易にディティールとして持ってくるのはどうか? 作者は服用経験があるのでは、と思ってしまう。 あの“性癖”も作者自身の傾向でないことを祈ります。 前半のテーマを浄化させる後半は秀逸だが 評価の分かれる作品だと思います。 | ||||
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ロシアの劇場人質事件も、ロリータ男もMDMAも、この本を読む平凡な一市民には、等価にリアルで、等価にシュールな意味しか持ちえない。そういう事件がモスクワで起きた、そんな性向の人間がいる、そうしたドラッグがはやっている、という「情報」としてしか受け取っていないからだ。ところが、こうした一見バラバラで無関係なファクターを並列させるだけで、この作家は「ヘン」(解説で高橋源一郎氏が説いているように)なリアリティを帯びた物語を鮮やかに立ち上がらせる。世界は巨視的、あるいは長期的に見れば、すべて共時的につながっているのかもしれない、と思わされた。好きなタイプとは言えないが、すごい作家がいるものだなあと遅まきながら脱帽。 | ||||
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昨年に比べあまり話題にならなかった第132回芥川賞受賞作。 ロリコンの男が趣味が高じて幼女ポルノのビジネスに手を染め、 その結果、妻を失い、最愛の娘を失っていく。 ビジネスに付随して犯してしまった罪が明らかになっていく中で、 落ちるとこまで落ちていく前半と、 友人の言葉そして刹那的な悲壮感の漂う双子のような少女2人との出会いにより、 過去に犯してしまった罪の真の深さを理解し、 おぼろげながらも自分が次に進むべき道を見つけていく後半、全2章。 共感は抱かないけれどリアル。自分を投影できないけれど主人公の葛藤は刺さる。 そんな内容。村上春樹が「医者も、本屋も、政治家も、女子高生も、 なったことはないけれど、その人の気持ちはかける。だから小説家をやっている」 といったことを昔あるインタビューで話していたことを思い出した。 作者本人がどこまでこの主人公と嗜好が近いのかは全くしらないけれど、 ここまで描けるのはさすがだな、と。 エンディングは突然で賛否両論分かれそう。多少救われそうであったことはよかった。 フラストレーションがたまる手前の良いタイミングで種明かしの情報が提供されていくので、 テンポがよく一気に読める。わかりやすく文章も短いので、悪くないのではないでしょうか。 | ||||
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芥川賞は作品におくられ直木賞は作家におくられるとか、芥川賞は可能性や才能におくられ直木賞は実績におくられるとか俗説は多くあるが、なぜ阿部和重の「グランドフィナーレ」が芥川賞だったのかと思う。芥川賞は短編もしくは中篇小説におくられ、直木賞はどんなジャンルの小説をも対象になると区分した黒井千次さんの見解が一番正しいことをこの小説が証明した。 余談はさておき、本小説の評価であるが、ラストのあり方には大いに疑問をもつ。もっと書いていただきたかった。あとは読者の解釈に任せるにはあまりにも横着過ぎやしないか。前半から中盤までのディティールの詰め方がうまいだけに残念に感じる。それが阿部氏の特徴なのかもしれないが、私は物足りなさを感じる。書ける能力がある作家だけに何故と思ってしまう。 | ||||
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「グランド・フィナーレ」は、阿部和重の小説の中で、決して出来のいい部類の小説ではない。「インディヴィジュアル・プロジェクション」の方がはるかに完成度が高いし、デビュー作の「アメリカの夜」の方がずっと阿部らしい。「シンセミア」の方が小説としてはずっと面白い。全体、芥川賞、直木賞といったものは、どういった基準で選んでいるのか首を傾げるものが多い。横に並べて選んでいるのか。この作品を読んで物足りないと思った人は、前に挙げた小説を読むことを薦めます。 | ||||
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「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」 こんなキャッチコピーが『グランド・フィナーレ』のハードカバー出版時の帯には記されていた。 デビュー作『アメリカの夜』、『トライアングルズ』、『ニッポニアニッポン』で立て続けに芥川賞候補となったが、落選し続けた無冠の帝王は、『グランド・フィナーレ』で「ようやく」2005年に芥川賞を受賞したのである。 この前年、2004年に『シンセミア』で第58回毎日出版文化賞第1部門、第15回伊藤整文学賞小説部門をW受賞するほどの力量を持つ阿部和重なのだから、慣例的に「新人賞」である芥川賞の中でも、本作は抜きん出た完成度であった。 内容はロリコン男の話。 いかにも阿部和重が得意なジャンルである。 文庫版の解説で、阿部和重に最も影響を与えたとされている作家高橋源一郎が、非常に興味深い解説を行っている。 この主人公のロリコン男は、確かに、不快で、最低で、異常である。 が、何か「ヘン」なのだ。 不快で、最低で、異常なんだけど、いわゆる『小説』っぽい不快さ、最低さ、異常さではない。 何か「ヘン」。ものすごい「違和感」がある。 その「違和感」を、読んで体感してほしい。 この作品では、いわゆる「大きな事件」が勃発し、「大どんでん返しのストーリー」は、展開されないのだ。いわゆる「小説」に書かれているような。 もはや阿部和重は「小説」を超えた「小説」を書いている。 その意味がわからない輩が阿部ちゃん作品を読んでも「なにこれー超中途半端な終わり方なんだけどー。マジつまんな〜い。」で終る。 阿部和重。そんな『文学』は置き去りにして、突っ走り続けてくれ。 | ||||
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『シンセミア』とか『ニッポニア・ニッポン』との関連で読むのも楽しい芥川賞受賞作。しかし、この人の作品はとにかく構成が凝っていて、それが本当にすばらしい。もちろん、ロリコン男の贖罪の話ではあるけれど、そんなことよりも、1から2への展開がすごい。とりあえず、それを映像から文学へと考えられます。 1では、教育映画の監督であった男は、映像に関わる仕事についたばかりに、ロリコンという己の性癖に目覚めてしまい、その機会があるからこそ、どんどんはまっていく。映像の誘惑する力にとらわれていきます。友人たちも、世界の出来事のリアリティを映像によってしか持てず、しかもそのうさん臭さも感じてしまっていて出口がない。映像から逃れられない帰結として娘との別離があるようです。 最愛の娘と離れ、さらにそのようなトラウマで自殺する子もいることを知った2では、映像から離れて言葉へ、つまり文学へと向かいます。少女たちの見えない哀しみを思い、見えない結末(死)へと進む少女たちに対して語ろうとする。「フィナーレ」といいつつ、開幕で終わるのも、見えないものを残しておく文学の世界らしい終わり方です。 さすが映画批評もこなす小説家の面目躍如でしょうか。 | ||||
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ストーリーは、主人公が重度ロリコンかつ二次元依存症という以外ほとんど漫画チック。まるで高橋留美子の短編のような、、、「わたし」は娘も仕事も失ったダメ男。生きる意欲さえなくして戻った故郷の町で出会った複雑な背景を持つ2人の美少女。「わたし」は自らの贖罪と再生を賭け美少女を助けようとする、、、というわけで何とも阿部和重っぽくない、かつ普通「文学」ではまず採用されないストーリーです。 ちなみに、阿部和重はナボコフにちょっと似てると思います。ロリコンを描いているからではなく、現実/虚構の狭間を探るというテーマを追求するところと、そのテーマを各種各様の舞台にて語るというスタイルが。「シンセミア」の舞台はJエルロイ的陰謀渦巻く虚構の歴史の街でしたが、今度の舞台は高橋留美子的メロドラマ、それにいつものテーマを注入してしっかり「文学」にしてしまっているのはさすが。しかもラストでは、ロリコン/二次元依存症という運命に立ち向かう「わたし」の姿に泣けてきました、、(「メロドラマ」としてはここで終わるしかないでしょう、、、) もはや阿部和重は、構成、文章、テーマ、語りのスタイル、文学理論等全ての面でほとんど「巨匠」の域に達しているのでは?少なくとも今の私の文学の先生です。 | ||||
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具体名はあげませんが、いくつか疑問が残る芥川受賞作があります。(ご想像ください。) それらとは、一線を画する雰囲気は、出だしからあります。 多くの阿部和重ファンにとっては、今ひとつ物足らないこの作品も、 初めての私にとっては、「まぁ。悪くないんじゃないか。」程度にはよかったと思います。 主人公のぬいぐるみのジンジャーマンに話しかける情けないロリ男もよくかけていると思いました。 欲を言えばもう少し結末にインパクトがほしかったです。 この先、どちらにも転んでしまう結末です。(流れからはどちらかといえば善に転びそう?) もう二行足して、読者をたたきつけるような結末だったら、 もっと強烈な読後感が味わえたと思うのですがいかがでしょうか? ただ、この人の文章、とっても雰囲気があります。(悪い意味ではありません) 他にできのよい作品があるようなので、そちらを読んでみたくなりました。 他の作品も読んでみたくなる作家。ということで おまけで4つです。 | ||||
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最低の人間とはこの程度のことを言うのだと思う。 例えばこれ以上に何かに固執している、 法律に引っかかるほどの派手な悪さをしているような人は、 程度は低いが最低ではないのだ。なぜなら最低という前に、変人、悪人、罪人だからだ。 ただ、最低の人も自分の子供にあいたくなる。 最低の人も変わろうという思いを持つようになる。 結果が全てだが、結果は分からない。この小説自体はその過程を描いている。 そこら辺にいそうな最低の人間が、最低から脱すべく行き続ける様。 それで十分だ。 人は他人と比較することで初めて自分の存在の位置を認識する。 | ||||
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表題作は、「ここからが物語の肝だ!」というところで終わってしまいます。 起承転結でいうならば転で終わってます。 「続きは読者の想像にお任せする」というのであれば読者を舐めている としか思えません。 そこからが作者の腕の見せ所だと思うのですが……。 これで芥川賞が取れるのかと思うと不思議で仕方がありません。 他の作品との関連性を利用しているようですが、僕はこの作品で 始めて作者の本を読んだので、それはわかりませんでした。 他の作品を読まないと価値が理解できないような作品を 単品で成立すべき芥川賞で受賞させるのは納得がいきません。 読んだ後で腹が立つ作品もまた珍しいですね。 芥川賞だから何かがあると思って我慢して読破しましたが、 結局何も得られませんでした。 書庫に並べておく気も起きません。 | ||||
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この作品の帯に「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」といわれている。 しかし、もう文学という高尚な言葉で阿部和重を囲ってしまう必要はないように思う。 この作品は、小説という枠の中だけで面白い作品ではなく、すべての表現のなかでも通じるほどの作品だと思う。 この作品の話 グランドフィナーレという壮大な題から始まる物語は、ロリコンのちっぽけな話だ。 しかし、物語のラストは「グランドフィナーレ」に相応しい、希望に満ちた最後になっている。もともと、この作家は物語をうまく終わらすことよりも物語が進んでいく過程の圧倒的躍動感を主として書いていた。しかし、この作品で、過程の躍動感とラストのカタルシス(読み終えたときの後読感)を両立した作品である。 おそらく物語構成能力や自己追求欲望が高すぎてなかなか一般的な評価が低かったかもしれないが、阿部和重が一般性を持ちえて初めてこの作品ができたのではないかと思う。 面白い、面白い、まだ誰が読んでも面白い作品ではないかもしれないが、何度も読み直してみよう!!! | ||||
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私は女なので、男性がこの作品を読んだ時の感想とは違うかもしれませんが、正直受け付けられませんでした。 中年エロオヤジの悲哀というものを描きたいのであれば、もっと心情の持っていきかたに 少なからず共感させる部分が必要だと思うし、 エロティシズムというものを表現したいのであれば、読んでいて恍惚とするようなシチュエーションなり 掛け合いであったり、行動ひとつにも登場人物の抑えがたい衝動や消失感が感じられなくてはならない。 そのどちらも無く、ただちょっと変わったものが書きたいというそれだけのものしか感じられなかった。 読み終わった時にマンジリともしない嫌な気持ちだけが残り、「時間をこの本に使ってしまった事がもったいなかった」と思ってしまったんです。 途中からはもう「読み始めたんだから、最後まで見届けてやる」という意地にも似た感覚がありました。 でも、考えてみればそんな感情を読み手におこさせているという点で、他の作品とは違った味があるのかもしれません。 この作品はエンターテイメントではない、読み取るべきような深さもあまり無い。 ただ、頭のいい人がこれを読んで、わけのわからなさを補うべく自分の中で勝手に「深い意味」を持たせてしまったんだと。 それが文学というなら私は文学を理解したいとは思わないです。 文学の名作と言われているような巷の作品は、読んでいて沁みてくるような美しさがあり 「ああ〜」とため息の出るような一文があったりするものです。 これはそういう心に残る一文というものさえ無くて、表層だけをたどったような雑多な感じがしてしまうんです。 | ||||
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列車内部の文芸春秋の中刷り広告で、誇大に広告されていたのを覚えているが、「奈良県の少女誘拐殺人事件が事前の予感されていた云々」正直読後感、拍子抜け、何にもない、少女のエロスも描かれていないし、主人公と少女二人の絡みもあまりに表層的である。…もと「映画制作会社所属の主人公に二人の少女が学芸会の演技指導を求めに来る」という設定。…芸術の毒気が全くない。ロリコンと作者は敢えて連呼しているが、それが却って、空しい。ただの合法的範囲内の少女趣味にすぎないのだから。…芥川賞の作家を幾つか連続して敢えて読んでみたが、文学の萎糜を改めて感じさせられるばかりである。”美”=芸術に全く接していないのだ。あくまで相対的な世界の住人ばかり、雑知識の量を競っているかのよう。 この作品で「コッペリア」というエクリチュールが出てきて、それからの展開を期待したが、全く作中出てくることなく、しかも眼の色が違う=カラーコンタクトのせい、余りに簡単すぎる。…作家の端くれなら、意地でも「円かの宇宙の中に精神性が純化されて凝縮している」とでもいってもらいたいものだ。 いとことで言えば、この書は、安手の「読み物」=決して文学ではない。 | ||||
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グランド・フィナーレ他、短編三作が収められている。タイトル作品だが、所謂ロリコン趣味の男を扱った作品。ふわふわとした今風の文章かと思うと、「すなわち」とか「~の如く」とか妙に古風な言い回しも出て来る。一人称で語られているが、どうもロリコン男の心理をさらっと人畜無害に表したような感じで、途中出て来るロシアのテロの話とかが、何のためにあるのかよく分からない。作者自身はロリコン傾向があるのだろうか。「て、いうか」日本の男はだいたい潜在的にロリコンだけどね。残りの、三作はより習作的な色合いが強いように思う。最後の、「20世紀」など、どこかで聞いたようなメディア理論が出てくるが、それ以上のものではない。思想の深まりを、今後いかに作品に反映できるか、それを見守りたい。 | ||||
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