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ABC戦争
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ABC戦争の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.50pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全8件 1~8 1/1ページ
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語り手の話が延々と続く。それなのに、素性はあまり明かされない。彼がショウモナイ人間であることはわかる。トイレの猥褻な落書きを見て、哲学思想を展開するような男なのだ。なぜ、こんなにショウモナイのか? 語り手は高校を中退している。(そしてどうやら東京に出て来ているらしい)。そのことだけ、最後に明かされる。そしてそのことは、どれくらい彼の人生をショウモナクさせているのだろうか。 学歴を途中で失った人間の、あの生き死にの領域にまで接近したような物事への異常な執着心は何なのだろうか。それがエロでも、ネットでも、財テクでも、何でも良いのだが、この語り手はどうやら哲学・思索系の屈折に、完璧なまでの自己正当化を見出しているらしい。本書ではその「滑り方」が、最後まで貫かれている。 「無意味なものに戯れて、本当の動機や心情を消す」、こういうやせ我慢というか、虚栄心は、村上春樹の初期作品にも見られたものだ。1973年のピンボールでは、本当にヒリヒリする人間関係を隠して、1973年製のピンボールを探すことに熱中する主人公の姿があった。もちろん、これは大切なものから目をそむける行為の正当化である。阿部和重は、高校時代のアホだった学生生活を隠すために、それ以上にアホだった「ある事件」まで、命がけで人生を戻ろうとする。もちろん、哲学用語で強力に理論武装して。その試みははじめから「驚くべき敗北の記録」(浅田彰)でしかないのだが、語り手は持ち前の「カマトトぶり」と「虚栄心」でそれを乗り切ろうとする。 それが最後、同級生の何気ない一言で破れてしまう。どうして高校を中退したの、そこで目が血走ったかのような語り手の豹変ぶりは、身震いするものがある。それまで延々無意味なおしゃべりと、無意味な虚栄心で支えてきた作品=彼の世界観が、音を立てて見事に崩れていくからである。閉塞感を強める社会でのオナニズムと無邪気なまでの他者の凶暴化は、双方向からの理不尽に貫かれた、現代人の生き写しだ。本当に全てが「糞」なのだとしたら、トイレに流すしかないのだろうか。 | ||||
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ちょっと変わった小説です。 ややアングラな感じですが、これも文学かもしれません。 | ||||
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世界への暴力的寓話数点。猥雑で狂気さえ示すも、爆笑を誘う洋七の登場すら上品なのは谷崎、ホークス、デリダのせい。 | ||||
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『ABC戦争』は、理解し難いというか、深読みさえも拒絶してしまうような本だ。こんな小説書きましたが、何か? と開き直っているような。 本書には、タイトル作の他に、『公爵夫人邸の午後のパーティー』と『ヴェロニカ・ハートの幻影』の初期短編が収録されているのだが、同じような趣である。書いていることは分かる。何を訴えているのかがよく分からない。例えば、『インディヴィジュアル・プロジェクション』や、『アメリカの夜』、『ニッポニア・ニッポン』は、アイデンティティがテーマにあるように思う。 本短編集の作品には、それが見当たらないのだ(私が読みきれてないだけんだんだろうけど)。物事はそんな見方もあるんですよ と囁かれているようではある。衒学的とは言えないまでも、屁理屈をこねくり回わされている気分だが、私は、嫌いではない。ふんふん、なるほどねと、この屁理屈に身をゆだねていれば良いんだろう。そうすると、かなり楽しくなってくる。 『ABC戦争』は、N国、T地方、Y県の通学列車で発生した不良高校生の喧嘩騒ぎの顛末を、数年後、”わたし”が真相究明に乗り出すというもの。関係者の<手記>をもとに、証言を求めていくものも、誰もその騒動の行く末を憶えていない。それほど、些細な出来事を、”わたし”は執拗に追いかける。 アルファベットを用いて抽象度を上げていると、そこに色々なものが見えてくるらしい。さて、この始まりも終わりもない物語には何があるのか。真剣に考えても出てこない。この紛争が一人のヤクザの死とつながりがあるのだが、それが著者の言わんとしていることと直結しているとは思えない。そもそも何かを語ろうとしているのかすら判然としない。読んだままと理解するのが一番だ。 『公爵夫人邸の午後のパーティー』は、秘密のパーティに参加した欲求不満の夫人の運命の交差を、『ヴェロニカ・ハートの幻影』は、霊に取り憑かれたキズだらけの男の煩悶を描いている。 これらは、タイトル作と同様、何かを見出そうとしなければ、「なんでしょうこれは」と、へらっと笑うことがができる。負け惜しみかな。 | ||||
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最近よく思うのだが、現実は文字通り"リアル"と解釈されているわりには、現実的ではない滑稽な出来事が多い。(最近のニュースを見ていればよく分かるでしょう) ABC戦争は、そんな現実で起こりえるナンセンスさを要領良く具現化出来ている。――物語上であらゆる物証をアルファベットというカタチに記号化した事も、リアリティのあるナンセンスさを象徴する事に成功している。 阿部和重の小説は論理の積み重ねから崩壊へのプロセスを辿る、比喩を挟まない描写は読者に対して不親切なのだろうか? しかし、それは阿部和重なりの読者へのアプローチだと私は考えます。 阿部和重の小説は読みやすい小説を求めている人には読み辛いかもしれない、このABC戦争も例外ではなく、とても読み辛い小説なのかもしれない。だが、このABC戦争を好きだと思える人ならば阿部和重の小説はあなたにマッチする。 私はわざわざ読み易い阿部和重の小説をすすめるつもりはない、最初にABC戦争に挑みそこから領域を拡げるのが阿部和重を知る上で一番手っ取り早い。 一緒に収録されている二編も、滑稽さながら現実を感じさせるものだ。「ヴェロニカ・ハートの幻影」はとても興味深い話なので、是非多くの人に読んでいただきたい。 | ||||
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この新潮文庫版には『公爵夫人邸の午後のパーティー』と『ヴェロニカ・ハートの幻影』が収録されている。 阿部ちゃんはやっぱりすごい。 たぶん「普通の小説」が好きな人は『ABC戦争』の冒頭数ページで読むという行為を放棄したくなる。 そして放棄するだろう。 阿部ちゃんの小説を読むたびに思うが、彼は読者(と言うか現代日本の『小説』に対して)挑発的で、攻撃的である。 読めばわかるが、作者側が手の内を全て明かしている。僕らの想像が介入することを許さない。 『ABC戦争』はN国Y県のある電車の中で不良高校生たちの諍いから多くの人々を巻き込む戦争へと暴走し、その戦争から5年たった今、事件の真相を解明しようと一人の青年が動き出すという話であるが、それが少々やっかいなストーリーを展開していく。 『公爵夫人邸の午後のパーティー』はABC戦争に比べれば読みやすい。ストーリー性もあるし。うまい群像劇になっている。 『ヴェロニカ・ハートの幻影』はわけわからん。 でもおもしろい。ラストがわかる人いたら教えてください。 阿部ちゃんの作品は『アメリカの夜』『ニッポニアニッポン』『インディヴィジュアル・プロジェクション』に続いて4作目だが、やっぱりおもしろい。 でも伊坂幸太郎のように素直に人に「これ良いから読んでみてよ」と薦められるかといったらそうではない。 少しでも阿部和重に興味を持った方。 この『ABC戦争』で阿部でビューするのは間違っている。 『インディヴィジュアル・プロジェクション』が一番読みやすい部類に入る。 あなたに阿部和重はフィットするであろうか? | ||||
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最初のうちは、文章が衒学的考察に終始していて、ひどくとっつきにくい印象を与える。このABC戦争において、ひどく観念的な物言いは低奏する主題のひとつになるものだから、必然といえば必然ではあるけれど、阿部和重の持ち味であるダイナミズムがこれもまた必然的に欠ける結果となってしまった。ただし、後半のヤクザが出てくるシーンからは、急に後の小説にも繋がるような活き活きとしたB級アクション的なノリが垣間見え、痛快に感じる。 どこか過渡的な印象を持ってしまうのは、今の時点(2005年)から見ているから故ともいえる。阿部氏が後に開花していくための実験的な作品と捉えたい。 | ||||
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「アメリカの夜」において、作者は、迂回しつづける文体を使用しつつ、あくまでもバカバカしいストーリーを語っていた。そして、その食い合わせにこそ魅力があったのであって、工夫の感じられない退屈な展開を、このハスミ文体でやられると、あまりにも陰惨だ。 | ||||
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