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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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それまでのシドニー・シェルダン作品は全て単発物だったが、本作は初めて続編だ。それも個人的ベスト作である『真夜中は別の顔』の続編であるから、これが出た時には「待ってました!」と快哉を挙げたものだ。
ちらっとネットで調べてみたが、シェルダン作品で続編が書かれたのは本作以外ではどうもないようだ。このことからも作者自身もこの『真夜中は~』には手応えを感じ、特別な思い入れがあったのではないだろうか。 さて本作では前作では影の存在として、さほど表立って描かれなかった大富豪コンスタンティン・デミリスが前面に出てストーリーが展開する。なんと前作でショックのあまり記憶喪失となったキャサリンを、自分に対する裏切りの復讐として殺そうと画策しているのだ。とにかくこのデミリスの黒さが全編に渡って描かれている。そしてこいつは本当に悪い!そして金が豊富にあるだけに恐ろしい。しかし悪は栄えず。その権力と財力とで封じ込めてきた復讐劇が、綻んでいき、デミリスの周囲を真綿で首を絞めるようにデミリスもまた窮地に陥っていく。それをたくみに交わすデミリスの奸智もまた見ものだ。 そして前作でも裁判でデミリスの策謀に一役買ったあの百戦連勝の弁護士(名前忘れた!)も登場場面が増えている。 特に冒頭でいきなり毒殺容疑で逮捕された妻の無実を晴らすために公判中、いきなり証拠物件として挙げられているその妻が飲ませた薬品を嚥下し、なんともないことをアピールし、無罪を勝ち取るのだ。もちろんそれは毒薬。そこからどうやって彼は助かるのかというのは本書の興を殺ぐのでここでは詳述を避ける。 ただこの裁判のくだりは後にトゥローの諸作を読んだあとでは、やはり想像の産物と云わざるを得ないほど細部が甘い。恐らく本当の裁判ではこのようなことをして、即無罪という判決には至らないだろう。 検事が出す証拠に対し、いくつも反証を挙げ、それを陪審員の判断に委ねなければならない。1つ1つがつぶさに検証されるわけだ。特にここでの裁判はそれまで弁護側は劣勢であり、最後の巻き返しの切り札であのようなパフォーマンスをせざるを得なかったようだった風に思う。 ただやはりこのシーンは今でもこのように感想に書けるほど鮮烈に残っていた。当時読んだとき、私は既に大学生であったが、実に単純にシェルダンマジックに引っかかってしまった。あれから15年。今この作品を読むと私はどういう風に思うだろうか。 しかし、私の記憶力もここまで。本作は面白かったという感慨は残ってはいるものの、詳細についてはもはや霧の彼方。ただ前作がアンハッピー・エンドだったのに対し、今回はハッピー・エンドだったのは覚えている。やはりそこはアメリカ人なんだろうね。巨悪は滅びないといけないのだ。 しかしあの結末から上下巻もの物語を紡ぎだし、しかも冗長さを感じさせないというのが素晴らしい(詳しく覚えていないけど)。ただ後から振り返ればこの頃、既にシドニー・シェルダンも一時の狂的な売り上げから比べると下り坂であり、人気の高い『真夜中は~』の続編の本書はその右下がり曲線を押し上げるための起爆剤として期待されていたように思う。そして私個人的にもシェルダン作品はここまでという思いがある。 |
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シドニー・シェルダン原作の作品をドラマ化することで数字が取れることが解ったのか、テレビ朝日は本作もドラマ化したらしい。しかしそれは土曜ワイド劇場という2時間枠でのドラマ化であった。しかし本作は実は昔にオードリー・ヘップバーン主演で映画化されたらしいが、全く知らなかった。
プロットとしては比較的単純。大企業の社長が事故で亡くなり、莫大な遺産を相続した娘が他の親族から命を狙われるという物で、ミステリの定型としても非常に古典的であるといえるだろう。 ストーリー展開はもう定石どおりで、最初に命を狙う会社の重役連中の人となりがエピソードを交えて語られる。それぞれに大金が必要な事情があり、誰もが命を狙ってもおかしくない。 で、娘のエリザベスが何度も命を落としそうになるわけだが、やっぱりこの辺の危機また危機の連続というのは確かにクイクイ読ませる。 ただここまで来ると読む側もこなれてきて、パターンが読めてくるのだ。特にシドニー・シェルダンの人物配置が常に一緒なのが気になる。主人公はいつもヒロインで、それをサポートする魅力的な男性がいる、そして2人で降りかかる災難や危難を乗り越えていく。絶体絶命のピンチになった時にこの男性が颯爽と現れ、カタルシスをもたらすというのが、共通しており、それは藤子不二雄の一連のマンガのキャラクター構成がほとんどの作品で共通しているのに似ている。いじめられっ子の主人公にそれを助ける特殊能力を持ったキャラクター(ドラえもん、怪物くん、オバQ、etc)、いじめっ子とその子分、そして憧れのヒロインとほとんどこの構成である。これは両者が自分の作品が売れる黄金の方程式を見つけたということなのだ。で、私はこういうマンネリに関しては全く否定しない。なぜならマンネリは偉大だからだ。この基本構成を守りながらもヒットを出すというのは作者のヴァリエーションに富んだアイデアが必要だからである。そしてこの両者はそれを持っているのだ。これはまさに才能と云えるだろう。 さて本作では他の作品と比べて、意外と先が読める。さらには最後に明かされるエリザベスの命を狙う犯人も案外解りやすい。巷間ではそれが他の作品よりも評価がちょっと低い原因となっている。でもシェルダン作品を初めて読んだ人はどうなんだろうか?私は今まで何作か読んできて、作者の創作テクニックに馴れてきたがために見破れたように思える。なんせこの時まだ高校生だし。 しかし本作は私にある一つの希望を与えてくれた本でもある。本作でヒロインのエリザベスをサポートするリーズ・ウィリアムスという人物の生い立ちだ。彼は貧しい家の出ながらも一生懸命努力して一流企業でその地位を固める。それだけならばまだよくある話なのだが、彼は自らを磨き、どんな場所に出ても恥ずかしくない、社交界でのマナーを身に付け、洗練された人物となり、周囲の信頼を得るのだ。それがゆえに自分が貧しい出自であったことをちらりとも窺えさせない。 私も決して裕福な家庭ではなく、それどころかむしろ貧しい家庭の部類だったといえよう。しかし本作でのリーズの生き様は努力すれば自分も洗練された男になれるかもしれないという希望を与えてくれた。今の自分を振り返って果たして自分が洗練されているかどうかはわからないが、両親が私を育てくれた環境よりは裕福だし、それなりにいいお店に出入りもでき、そういう場所での振舞いもそつなく出来るようになった。思えば今の自分があるのはこのリーズの影響が強かったように思う。高校のときにこの本を読み、リーズのような男に出会えたことは私にとって非常な幸運だったのだろう。 本書はシドニー・シェルダンのこれまで読んだ所作では出来栄えという点では確かに面白いけれども並みの部類になるだろうが、このリーズというキャラクターのお陰で私の中ではちょっと特別になっている。 |
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さて私がシドニー・シェルダンの作品の中で何が一番面白かったかと問われれば、本作を躊躇なく挙げるだろう。というよりもシェルダンの作品を読んだ方の多くは『ゲームの達人』か本作を挙げる方ばかりではないだろうか。
当時からシドニー・シェルダンの小説は社会現象になるまでになったと思うが、本作でその頂点を迎えたように思う。日本でドラマ化されたのもむべなるかなと思うくらいストーリーに起伏があり、先が読めない作品だ。『ゲームの達人』もドラマ化されたがあれは当時まださほど普及していなかったNHKの衛星放送であり、万人が見れるものではなかったが、本作は民放局のテレビ朝日がゴールデンタイムにドラマ化したのだ。それからも本作の人気の高さが伺えるものと思う。今でいうならば『ダ・ヴィンチ・コード』を日本の民放局がドラマ化すると同じくらいか(違う?)。しかし私はこのドラマを観なかった。本のイメージが崩れると思ったので、それは家族全員意見が一致し、一度もチャンネルを合わせる事はなかった(たしか当時母がノエル役の黒○瞳をあまり好きではなかったことも一因だったように思う)。個人的には過激な描写(特にノエルのパート)の多い本作をどう映像化するのかと、思春期独特の好奇心があったのだけれど。 まず開巻してすぐに本作のクライマックスから始まる。それは世界中が注目する大裁判が開かれようとしているというシーン。つまりここで物語の収束する先を読者はあらかじめ知らされるわけだ。しかもこの裁判というのが実に大規模。なんせその裁判を傍聴せんがために自家用ヘリや自家用ジェットまで動員して世界中のセレブが我先にとその地を訪れるという派手さ。この時点でもう読者である私は物語に釘付けである。 そこからはシドニー・シェルダンのいつもの作風とも云える主要登場人物の成立ちが語られる。しかし本作の面白さは並行して語られる主人公の2人の女性の対照的な人生に尽きるだろう。キャサリンとノエルの生き様はまさに太陽と月のような趣で繰り広げられる。 いつも天真爛漫で想像するのが大好きなキャサリンと不遇な出自から貧しい人生を運命付けられたノエル。どちらも美貌を備え、持ち前の行動力で自らの人生を切り開いていこうとするヴァイタリティに溢れている点では共通しているが、その生い立ちはかなり異なる。 特に衝撃的なノエルの方。というよりももはや読んだのが20年くらい前でもあることで強烈な印象を残すノエルの方しか覚えていないというのが正直なところだ。 金持ちと結婚することを人生の目標とし、己の美貌を武器にのし上がろうとする彼女は悪女になることも辞さず、体を売ることも厭わない。特に今でも鮮烈に覚えているのは堕胎のシーンだ。確か妊娠の相手は本作の中心人物のプレイボーイのパイロット、ラリーだったと思うが、彼女を裏切った恨みを、憎しみを敢えて体に染み込ませるために堕胎が危険と思われる妊娠月まで子供宿し、医者に掻き出させ、最後にはハンガーのフックを自ら膣に突っ込んで引きずり出すという恐ろしいまでの女の情念を滾らせる。このシーンは魂が冷えたなぁ。 本作で忘れてはならないのはコンスタンティン・デミリスという大富豪の存在。彼は本作では影の主人公というべき存在になっている。貰った恨みは決して忘れずに、復讐する。それが何年経とうが、相手が忘れようが必ず行うという大富豪だ。金持ちは寛容であるという定説を覆すかのような人物設定に、当時は映画『アンタッチャブル』でデ・ニーロが演じたアル・カポネを重ね合わせていたが、作中では確か小柄ながらも髪はふさふさで中肉の体型だったように描写されており、全然イメージが違う。 で、最後に立ち上るのはデミリスという男の恐ろしさ。彼はやはり復讐を忘れなかったというのを最後に読者の眼前に叩きつける。詳細を書くとネタバレになるので云わないが、この結末で本作は傑作と呼ばれるようになったように思う。そしてシェルダン作品では珍しく続編を匂わす閉じられ方をしており、事実、『明け方の夢』という続編が書かれる。 本作でおなかいっぱいになり、これ以上何を書くことがあるのかと思いきや、その続編もまた読ませる内容になっており、巻措く能わずを約束してくれる。それはまたそのときに感想を述べたいと思う。 |
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当時『なるほど・ザ・ワールド』という世界のトピックをクイズにした番組が人気を博していたことは記憶に新しいと思うが、その中でスペインの牛追い祭について放送されたことがあった。その映像は衝撃的で、映像の中には牛の角に太股を刺されて突き上げられている者や、転倒して人ごみの波と牛の大群に踏まれて消えていく者も散見され、実際死者も大勢出ているようで、スペイン人ってやつは無茶するなぁと思っていたが、本編はその牛追い祭から幕を開ける。その狂騒を利用してバスクのレジスタンスが行動を起こす、そんな内容だったように思う。
シドニー・シェルダンはアメリカの作家でありながら、作中の舞台をアメリカに固定せず、南アフリカやスペイン、ヨーロッパ諸国と実に多彩だったように思う。高校生当時はアメリカでさえ小説の舞台として馴染みの薄い国だったので気にならなかったが、数多の海外作品を読んだ今振り返ってみると再認識させられる。 で、本作はハイメ・ミロ率いるレジスタンス軍と修道院の尼僧4人が逃亡行を共にする内容で、これがまた読ませる。普通、レジスタンスの人質として追随する修道女ならば世間知らずゆえに恭順にならざるを得ないのだが、選らばれた4人は無色透明な修道女にあって、それぞれに複雑な事情を持った異色の存在。この辺の味付けは上手いね。特に4人の修道女の性格付がたくみであり、私はその中でも特に犯行からの逃走中に隠れ蓑として修道院に入ったルチアがお気に入りだった。 そしてこの状況の変化で4人の修道女たちも変化を強いられ、厳格な規律に守られた修道院生活ゆえに、心に波立てることなく毎日を平穏に暮らし、神へ仕える日々に人生の喜びまで見出していた彼女らが、世俗とレジスタンスらの男に感化され、俗性を取り戻していく。しかし確か1人はどうしても俗世に馴染めず、次第に狂っていき、そして最後に驚愕の行動に出るところは、人物が人物だっただけにかなりの衝撃を受けた。 前にも述べたがシドニー・シェルダンの描く世界は当時高校生の私には全てが未知であり、全てが新鮮に映った。冒頭の牛追い祭の荒々しい始まりから、静謐な修道院での生活へと動から静へ移る物語の運び方は話の抑揚のつけ方としては抜群であるし、今読んでも引っ張り込まれるだろう。 本作でスペインの複雑な民族事情を知ったのはまさに幸運だったと云える。その後の人生で折に触れ、このバスク地方とスペイン政府との抗争に触れる機会があり、この本を読んだことが予備知識となり、理解が早かったからだ。知的好奇心に満ちていた高校生の頃に読んだというのもまた最良の時期だったと思う。 そして本作から私は自分の小遣いでシェルダン作品を買い出した。そして私が買った本を弟はもちろんのこと、両親まで読み出す始末。しかし当時は自分でハードカバーの本、しかも外人の書いた小説を買うことが自分の中で大人の第一歩という一種のステータスのようになっていたように思う。そして本作がその対価に見合った作品だったのだから、小遣いの使い道としては良かったわけだ。 しかし今まで作品はタイトルが作品を表していることは解ったが(『ゲームの達人』も高校生の知識でもおぼろげながらも理解できた)、本作は解らなかったなぁ。この後続く作品はそんなことなく、上手いタイトルだなと思ったが。今読んだら解るのだろうか? |
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『ゲームの達人』でその面白さに開眼した私は、生来のコレクション癖も手伝ってしばらくこの作家の新作が出るたびに買っては読んでを繰り返していた。
で、この作品も導入部からスリリングに展開する。なんと結婚を控えた主人公の女性がいきなり逮捕され、刑務所に入れられてしまう。幸せの絶頂から不幸のどん底に落とされるというシチュエーションは数多の本を読みなれた現在であれば、さほどの驚きはないものの、当時は本当に開巻と同時に物語に惹き込まれたものだ。 で、本書を読んでもう20年近く経つのに未だにこの主人公の名前は覚えている。トレイシー・ホイットニーというのがその名前なのだが、読んだ当初は何かの冗談かと思った。というのも読書当時2大黒人女性歌手が有名で、片方は今でも知名度が高いホイットニー・ヒューストン。そしてもう1人はトレーシー・チャップマンというアコースティック系のアーティストがいたのだ。作者はこの2人の名前を組み合わせたのかしらと読中そればかりが頭を駆け巡っていた。 さて本題に戻るが、本書の特徴は銀行員から資産家との玉の輿に乗った、才色兼備の女性トレイシーがその運命の悪戯から刑務所に入り、それから自らを罠に陥れた者たちへの復讐のため、刑務所を脱獄し、稀代の女詐欺師に転身するという設定にあると思う。 大体高校生の読むライトノベル系の小説ならば勧善懲悪物が一般的であり、この展開は当時の私にとって新鮮に映った記憶がある。書き忘れたが『ゲームの達人』の主人公ケイトも決して聖人君子などではなく、むしろ自らのエゴを満たすためには殺人さえも厭わない残酷さを持っていた。そういう善悪の曖昧さみたいなものをシドニー・シェルダンの作品で学んだように思う。 そしてうろ覚えなのだが、確か男の詐欺師のライバルが現れ、2人で腕を競いながらも惹かれ合うというベタな展開も、マンガばかり読んでいた当時高校生の私にとってはすんなりと受け入れられ(そういえば『キャッツ・アイ』というマンガもありました。その頃ではないけど)、素直に作者のサービス精神を喜びつつ読んだ記憶がある。 しかしそんな世間を知らない高校生の私でも本作に挙げられていた詐欺には首肯しがたいものがあった。 確か豪華客船で行われる世界一のチェスの名人2人とトレイシーが対決するシーンがあったと思うが、あのトリックにはどう考えても無理があるだろう。ネタバレになるので詳細は省くが、同じ船上にいる客が移動しないとでも思っているのだろうかとだけ苦言を呈しておこう。 また確か本書であったと思うが、最新鋭の計算機の売り込みで大金をせしめるという詐欺があったが、あれも少し考えれば気づくはずである。実際私はそのトリックに途中で気づいた。ネットがない時代とはいえ、少し調べれば解るはずである。 その点が私をして満点を与えることができない理由になっているのだが、それでもやはりトータル的には面白く、もうこの作家、一生ついていくぞ!とまで決意した。 そしてシドニー・シェルダン熱は私の高校(クラス?)で過熱していき、学園祭で作った創作ビデオのタイトルは『明日があるから』というパロディめいた題名をつけるまでに至った(しかしその内容は全く本書とは関係なかったことを付記しておこう)。 そして数年後テレビでアメリカドラマ版が放映された。作中で絶世の美女のように描かれていたトレイシーをどんな女優が演じるのかと期待パンパンに膨らまして観た思春期の私はその普通っぷりにかなり失望した。いや、美人ではあるのだが、ごく普通の美人だったのだ。シドニー・シェルダンの描く美人の容貌の描写は思春期の私には想像を絶する美女の競演のように想像が膨らんだ。これも彼の功罪の1つといえる。 |
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小学校の頃は雑多な物を読み、特にケイブンシャとか学研から出ていた『~大百科』、『~入門』なる一連のシリーズ本、あと『マンガで読む日本の歴史』といった図書館に陳列されていた本を無作為に読んでいた覚えがある。元々本を読むことが好きで、なおかつ色んな知識(トリビア?)を吸収するのが好きな子供だった私はこれらの本が妙にあっていた。
で、中学になると図書館にずらっと並んだポプラ社の江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに没頭し、はたまた教科書に作品が掲載された星新一氏のショートショートにも傾倒し、さらには当時ドラクエに代表されるRPG全盛の時代に出版された『ロードス島戦記』に歓喜していた毎日を送っていた。 で、今回この感想を書くにあたり、さてどこから始めようかと思案した。最初は敬愛する星新一の諸作から感想を述べていこうと思ったが、その大半の書籍は九州の実家に今も眠っており、どのショートショートがどの作品集に収録されているか、手元に本がない今となっては不明でもあるため、挫折した。 そこでここは一般に大人が本屋で手に取る作品から感想を挙げるべきだろうと誠に自分勝手な基準を設け、まずその端緒として本書を挙げることとした。 本作について、現在40歳以上の方々をおいて知らぬ人はいないだろう。当時TV朝日だったか「はなきんデータランド」なる週一の各ジャンルの売り上げランキング番組があり、その書籍部門で毎週ランクインしていたのが本書だった。 『ゲームの達人』という煽情的なタイトルは当時ゲームっ子だった私を刺激したが、表紙を見るに、どうも自分が想定しているような、ハドソンの高橋名人のような1秒間に16連射できるシューティングゲームの達人といった内容でないことは子供心でも解った。したがって毎週この本売れているようだけど、どんな本なんだろう?と思っていたにすぎなかった。 本書を手に取るきっかけは高校の同級生の勧めだった。当時クラス、いや学年でも常に1,2位の成績を取っていたK君が私に貸してくれたのだ。当時からK君は大人びており、外国の作家の小説などは親が買ってくれた世界文学全集ぐらいしか読んだことなかった私は、さすがK君は一歩抜きん出ているなぁと感心したものだった。 で、本書だが、売れるだけのことはあり、すごく面白かった。小説とはこういう物を指すのかと初めて意識した作品だったように思う。 親子4代に渡る大会社経営者の波乱万丈人生の顛末は普通の人生を生きてきた自分にとって想像を超えた世界だったし、ジェイミーがなんども窮地に陥りながらも、とうとうダイヤモンドの原石を見つけ出し、その後手ひどい裏切りを受けながらも、会社を設立するまでの苦難の数々にアメリカン・ドリームを見、またそれが単に「棚ぼた」でなしえる物でなく、九死に一生を得るほどの苦難を乗り越えないと成功は手に入れられないことを知った。 またその娘ケイトが物語の中心となるが、その気性の激しさに女性の恐ろしさを、さらには彼女の孫娘達をシェルダンがまばゆいばかりの美貌で描写するがために、どれほどの美人なのかと想像も掻き立てられた。そして私にとっては少々、いやかなりハードな濡れ場の描写に思春期特有の興奮を覚えたものだ。 またケイトの会社が社会的成功を収め、着実に帝国を築いていきながらも、家族の関係は常に泥沼であり、志半ばで斃れる者も数多あり、本当の幸せとは一体なんなのだろうかと考えさせられもした。 このようにこの小説は私にとって小説を読むことを多面的に教えてくれた作品だった。この本はその後、うちの家族の中でも回し読みされ、普段本を読まない弟さえも手に取り、2人で色々内容について話し合った記憶がある。こんな小説は本当に珍しい。 その後私はシドニー・シェルダンの新刊が出るたびに、購入することになる。当時ハードカバーで1冊2000円近かったと思うが、高校生・大学生と金のない時期にもかかわらず、自分の小遣いで買っていた。 アカデミー出版社が当時売りにしていた超訳という、翻訳家が訳した文章を作家がさらに小説として文章を練り直し、書くという手法は確かに翻訳本としては読みやすく、日本の作家のそれと違和感なく入り込むことが出来たのも、本作が広く読まれた一因だろう。しかしその功罪が解るのはかなり後になってからの話である。 |
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