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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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初エラリー・クイーンである。30も半ばを越えて(当時)ようやく着手である。当初古めかしく感じた訳も思いの外、クイクイ読めた。
実は最初は非常に不安だった。この齢までなるとかなりの本も読んできたすれっからしの読者であるから、世評高いクイーンの諸作を純粋な気持ちで楽しめるのか、心配していたのだ。ホームズシリーズやルパンシリーズで感じた失望、最適な時に読むべき本を逃した喪失感、そんな感慨をまた抱くのではないかと。 しかし、杞憂とは正にこのこと!十分愉しめた。大人が読むに耐える小説になっている。 そして私、犯人解っちゃいました!Ⅱ-11章で天啓の如く、閃きました。正にこれしかない!といった感じでした。 ・犯人はなぜシルクハットを持ち去らなければならなかったのか? ・シルクハットはどこに隠されたのか? ・シルクハットを持ち去っても不審がられない人物とは一体誰なのか? この3つの疑問について完璧に解答できた。う~ん、気持ちがいい!このカタルシスこそ正に本格推理小説の醍醐味だ。 そして犯人が判ってから読むとクイーンの作品は非常にフェアプレイである事が判る。最後の謎解きの辺りでは、センター試験の答え合せをする時のようにドキドキした。なるほど、極上の知的ゲームである。 しかし、惜しむらくは作中でも書かれているように事件の真相が推理のみであり、物的証拠が得られず、しかも最後は犯人に罠を掛けないと逮捕できなかった点だ。世紀の名探偵エラリー・クイーンのデビュー作は磐石の推理と証拠の提示による解決ではなかったとは意外だった。 しかし、それを於いても久々に毎日本を読むのが楽しみだという気持ちになれた。推理小説に夢中だった小さい頃の想いが甦るようだ。推理小説とはこんなにも楽しいものだったのかとこの年になってさえ思わせてくれる。クイーンの作品は本当に素晴らしい。未来永劫読み継がれてほしい作家だ。 一般的には佳作の部類に入るであろう本作だが、本格ミステリの愉悦を再燃させてくれたことから8ツ星評価としたい。 後に着手する更なる傑作に思いを馳せつつ、この感想を閉じたい。 |
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加賀刑事シリーズ第1作。そして加賀恭一郎シリーズ第2作。今まで作品ごとに主人公を変えていた作者が初めて採用したシリーズキャラクター、それは第2作で主人公を務めた加賀恭一郎だった。
そして、率直な感想、ビリビリ来た!もう心が震えた! 私にとって名作とは2種類ある。 それは万人が認める世評高い本当の名作と、全く期待していなかったのに、予想以上に自分の心に残ってしまう作品だ。そしてこの本は私にとって後者に当たる名作となった。 正に不意打ちだった。何のガードもしてなかった。だから非常に打ちのめされた。ああ、悔しい!東野氏にここまであからさまに翻弄された、そしてそれが正直心地よい。それが偽らざる感想だ。 冷静に考えると、本作は推理小説としては決して歴史に残る名作とは云い難い。本格ミステリとしては、普通の部類に入るだろう。東野氏お得意の密室殺人や見立て殺人といった意匠も無い。犯人も途中で解るだろう。私でさえ、途中で疑いを持ったくらいだ。明かされる真相は意外ではあるにしろ、衝撃の事実というほどの物ではないと思う。 しかし、この作品には小説としての熱がある。単なるパズルの解答を提示するだけに留まらない小説としてのドラマがある。確かにある意味、これほどの事で心打たれるのかという意見もあるかもしれない。でも嵌ってしまったのだ、東野氏の策略に。それはパズルを解き明かす計算を超えた熱情を行間から感じたのだ。 実は最後を読む前に書いていた感想がある。それは東野氏の小説家としての技能について賞賛を述べたものだった。 しかし、こんな物語を読んだ後では自分の心情にそぐわないと思い、削除した。この作品にはそんな小説作法を物ともしない小説家としての気概を感じたからだ。それは東野が初めてシリーズキャラクターを採用した事からも想像できる。東野氏は『卒業』で登場させた加賀というキャラクターを育てようと決心したのだと思う。あの作品を世に送り出したときに、彼の中で一度きりにするのは惜しいと感じたに違いない。そしてそれは成功していると思う。 本作を要約すると次のようになるだろう。 始まりは普通の物語。普通の正当防衛による事件のお話。しかしやがてそれは立派な大輪の花を咲かせるかのような素晴らしい話へと結実する。 そして心に残るこの1行。 “君だけのために、俺はいくらでも語りかけるだろう―。” この台詞の素晴らしさ!今まで抑えていた愛に似た感情が迸る瞬間だ。この素晴らしさは自分で本書を手に取って確かめてほしい。 加賀刑事に読者が惚れる理由が解った。そして加賀という男を知るためにシリーズを順を追っていきたいと思う。 |
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ダニーロフ&カウリーシリーズ第1作目。
アメリカの政治原理とロシアの政治原理が交錯するやり取りは正にフリーマントルの真骨頂なのだが、今回はそれだけでなく、全編に事件解決の手掛かりが周到に散りばめられている、一種本格ミステリの要素も含まれているのだ。ここにフリーマントルのこのシリーズに賭ける意気込み、並々ならぬ創作意欲の迸りをびしびし感じた。まさに記念すべき新シリーズの幕開けだと云える1作だ。 図らずも第2作『英雄』から本シリーズに入ってしまった私。その時の感想に、『英雄』には前作の犯人と真相が明からさまに書かれていると述べてあるのだが、本書ではその人物がどのような者かは朧気ながら覚えていたものの、誰かまではすっかり忘れていた。 しかし、この前知識が今回の真犯人を当てる一助になった事は間違いないだろう。しかし、それでも巻末で繰り広げられるカウリーの謎解きに謳われたある文中の違和感には気付いたのだから、よしとしよう。 まあ、そんなことはさておき、今回、作者フリーマントルがロシア民警の警官とFBIエージェントを組ませて捜査を行うこの設定を思いついたのは単純に犬猿の仲とも云える相反する両国のミスマッチの妙と、水と油の関係の二国のそれぞれに属する者同士が国の利害を超え、結ばれる友情を描きたかった、それだけではないだろう。 90年代後半に起きたソ連の民主化政策、グラスノスチとペレストロイカという二大ムーヴメントによってもたらされた欧米的生活様式と価値観。それはまた同時に犯罪の欧米化を促す事でもあったのだ。従って、今まで官吏が独裁的に行う犯罪捜査では解決しえない類いの犯罪も頻発する可能性があり、それを解決すべく東側もアメリカ式の犯罪捜査システムの導入が必要になる。こういった洞察からこの二国間のそれぞれの腕利きが協力し合うという構想が具体化していったに違いない。これこそ、フリーマントルの素晴らしき慧眼だといえる。 そして本書を彩るのが登場人物たちの複雑な人間関係だ。 かつての同僚であり、友人の妻と不倫関係にあるダニーロフ。同じくかつての同僚で親友に妻を奪われ、そしてモスクワの地でその2人に再開することになったカウリー。 ダニーロフは不倫相手の夫婦の家に招待され、危うく不倫がばれそうになるし、カウリーは再びパートナーとなった元妻の略奪者と仕事に私情を挟まないよう、終始注意を払う。そして同じくパートナーの夫婦に食事に招待され、元妻への思いが再燃する。 そしてこの2人の色恋の挿話に対して、特に印象に残った箇所がある。 まずダニーロフは妻に不倫を疑われ、不倫相手のラリサに別れを告げるシーン。彼は最初はほんの遊びのつもりだったのが、なぜこれほどまでに深入りしてしまったのかと自問する。そして得た答えというのが、それが安心の裏づけだというもの。その気になればまだ美しい女を物に出来るという自尊心の裏づけなのだという述懐だ。 ここで私ははたと立ち止まる。男はいつでも自分を若いと思い、そして若く見せようと努力する。 かくゆう私もそう。それは老け込みたくないという気持ちから来るものなのだが、潜在的にはこのダニーロフが云うようにいつまでも女性の目を惹きたい、いつでも俺は現役なのだという自負心を抱きたいからだ。そして不倫はそれを裏づける何よりも証拠、男としての現役の証明なのだ。不倫は文化だ、などと触れ回る男もいたが、そんな軽薄な言葉よりもこちらの方がもっと真実味がある。 そしてカウリーはパートナーのバリー夫妻に自宅に招待され、夕食をご馳走になった後、一人考え込むシーン。元妻ポーリーンに「あなたは奥さんがいなくちゃならないタイプだもの」と云われたことを振り返り、激しく動揺するシーンだ。彼はその言葉で1人で生きていく事は大したことではないと思っていた矢先に常に孤独を感じていたことに気付かされる。しかし、結婚はその孤独を癒すためにする物とは違うとも解っている。では何なのかという自問に対する答えをカウリーは得ていない。 そこで私は考える。それは単純に失望なのだと。カウリーは元妻にまた一緒になりたいという言葉をかけてほしかったのだが、返ってきた言葉が、再婚していないのが意外だという意味の言葉だったからだ。まだ続いていると思っていたお互いの想いが他方では既に決着が着いていたのだと知らされた言葉に激しく動揺したのだ。その事に気付かず―敢えて目を向けず?―、自分が孤独を感じていることに向き合ってしまったのは、カウリーの未練を表している。これは振られたことのある男にしか解らない気持ちなのかもしれませんね。 さらにダニーロフはかつてある地区の署長をやっていた際に得た密売組織との“密接な関係”によって得た特権を異動によって破棄し、家庭の電化製品はもとより、その日着ていくスーツやYシャツにも困るような逼迫した生活を強いられている。皺の寄れた衣服が、スクラップ寸前のくたびれた電化製品の数々がダニーロフの眼に妻をも使用済みのように映らせている、この辺のフリーマントルの筆致の上手さにも唸らされた。 『英雄』を読んだ時に思ったのは、カウリーよりもダニーロフに関する叙述が多かった事だが、今回モスクワを舞台にした本書でもその比重は変らないように思う。確かにカウリーはアメリカ人であり、異国の地で勝手違う捜査を強いられる存在ながらも、ロシア語も堪能で、FBIロシア課の課長という役柄、ロシアにも精通しており、そのギャップが少ないように感じた。むしろロシアという特異な文化の中でのダニーロフの生活や性格が興味深く語られ、作者自身、取材の成果を存分に揮って楽しんで書いているように思えた。やっぱりダニーロフの方が好きなのだろう。 しかし今回のこのタイトル、フリーマントルの作品とは思えないセンセーショナルな題である。一瞬大沢在昌の『新宿鮫』シリーズの1作かと思った。 訳者の松本剛史氏がこのシリーズのファンなのだろうか。それともこの後シリーズの邦題は『英雄』、『爆魔』と二文字で続くからディック・フランシスの諸作のファンなのかもしれない。まあ、どうでもいいことだが。 |
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奥田哲也氏の小説は初めて読んだ。ちょっと斜めに構えた主人公の刑事の減らず口を織り交ぜた文体に最初はちょっと辟易したが、慣れてくるとなかなか面白い。
チャンドラーのマーロウを気取っていながら、あくまで三枚目であるという点が買える。我孫子武丸氏とはまた違った面白さがあった。 300ページに満たない本書はこの刑事の語りでほとんど全編ロジックが展開される。事件の渦中にある3人の男、加害者と目される片島青次、被害者と目される矢萩利幸、そして矢萩のボディガードとして事件に巻き込まれた新発田護のうち、誰が被害者で加害者なのかを3つの殺人事件でひたすらロジックの俎上で試行錯誤が繰り返される。 この非常に少ない人間関係を用いて語られる謎というのが矢萩利幸という名の人物が三度も殺人事件の被害者として挙げられるという点にある。関係者は3人。被害者も3人。では最後の犯人は?と謎を畳み掛けてくる。正にアイデアの勝利といった感じだ。 そして今回の主人公、名も無き私が実によい。後輩に見くびられないよう精一杯肩肘張って生きている三十代独身の刑事。毎晩遅く帰る生活で唯一の安らぎが読書。時たま近所の友人と場末のスナックで酒を嗜む。 一般的な刑事物に出てくる刑事とは一線を画す、小市民の生活が物語に時折織り込まれる。刑事ずれしていない刑事像をユーモア交えて語っている。 それは命のやり取り、人の人生に入り込んでいくような仕事をする人間ではなく、私も含めたあるサラリーマンの人生の一シーンのようだ。人の生き死にを生業としながらも、その実体はあくまで普通の人間なのだというところに好感が持てた。 と肩肘張った読み取り方を上に書いたが、作者の本質はもっと別なところにあるだろう。こういう刑事もいいもんでしょ?と読者に片目をつぶって微笑みかける、そんな作者の顔が目に浮かぶようだ。 非常に寡作な作家、奥田哲也氏。新本格ブームで次々と作家が頻出した90年のデビュー以後、発表作品はたったの5作。恐らく兼業作家なのだろう。 そして98年以降新作は発表していないようだ。ブームの衰退と共に消えていった数多の作家の中の1人、現状を鑑みるとそう結論付けられてしまうのは否めない。 しかし、佳作ながらも一読忘れ難い印象を残すこの作品。消え去るには勿体無いと心底思った。 |
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二階堂作品初体験。古き良き探偵小説の香り漂う本格推理小説だ。
そして本作は本格探偵小説信望者である二階堂氏本人が読みたくて渇望していた小説なのだろう。誰も書かないならば俺が書くという気迫が行間から湧き出てくるようだ。 この本の献辞は鮎川哲也氏に捧げられているが、乱歩作品へのオマージュである事は想像するに難くはない。 「地獄の奇術師」という人智を超えた殺人鬼の設定とネーミング、逆さ吊りにした女性の顔の皮を剥ぎ取っていく残虐な処刑シーン、警察監視下の中で起こる麗しき女性への傷害事件、毒殺事件に、三重密室殺人、密室内での銃殺事件、屋根裏を徘徊する殺人鬼、などなど、『魔術師』、『緑衣の鬼』、『屋根裏の散歩者』といった乱歩の名作のモチーフのオンパレードである。 そしてそれらの云わば時代錯誤な作品世界に現実味をもたらせるために二階堂氏は時代設定を昭和42年という、まだ日本の街に暗闇が残る時代を選んだ。 また探偵役の女子高生二階堂蘭子と語り役の高校生二階堂黎人が刑事事件に関わることが出来る設定として父親を警視庁警視正であるところ、蘭子が過去の事件を新聞と雑誌を読んだだけで犯人を指摘したことから警察も一目置くことになったところも、現代ならば現実味がないが、この時代ならば許容範囲かと思わせるギリギリの設定かなと苦笑した。こういうご都合主義も古き良き探偵小説ならでは、ということで案外許せてしまう。 上に述べたように、本作は不可能状況、不可能犯罪の連続なのだが、案外と作者の意図と犯人は透けて見えたように思う。尤もトリックは想定していたものとは違い、それについては作者に軍配が上がったのだが。 しかし、終章に蘭子の口から語られる神学的推理、形而上学的推理ははっきり云って蛇足だと感じた。あまりに抽象的過ぎるし、観念的過ぎるからだ。 二階堂氏は敬愛するカーのオカルティズムをも本作に持ち込もうと腐心したのだろうが、これは逆に本格探偵推理小説の狂信者といった印象を私に与えさせ、なかば呆れてしまった。熱意は買うが、自分の趣味に走り過ぎると読者はついていけなくなるからだ。 しかし、デビュー作にしてこれだけ書けるとは素直に感心した。随所に挟まれる過去のミステリを中心にした薀蓄も―多少目障りな感じがしなくもないが―造詣の深さを感じさせてくれた。 ただ昭和42年(1967年)に刊行されていない作品もあるのではないかと重箱の隅を突きたくなるきらいもあるが、そこは触れないのが華だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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早川書房のチャンドラー改訳短編集の第2弾。本作も前作同様、未読の短編があったため、購入した次第。
で、その未読短編というのが冒頭の「シラノの拳銃」と最後の「翡翠」。「シラノの拳銃」に出てくるテッド・カーマディが収録作7編のうち、4編において主人公を務める。 「シラノの拳銃」はボクシングの八百長試合の約束を破ったボクサーへのマフィアの報復から話から、ある上院議員の隠し子のスキャンダルまで発展し、それが狂言だったという結構奥が深い話。題名の<シラノ>はカーマディが自分の所有するホテルで出会ったボクサーの女が勤めるナイトクラブの名前。 本作は何と云っても最後のシーンが忘れがたい。ナイトクラブの女ジーンが笑みを浮かべながら眠りに就くシーンにしみじみと心打たれた。 「犬が好きだった男」は失踪した娘の捜索を頼まれたカーマディが唯一の手掛かりとしてその娘が連れていた犬を追って、獣医、強盗犯、精神病院へと次々と場面展開していく。題名の素朴さとは裏腹にカーマディの行くところ、死屍が累々と残されていき、激しい銃撃戦が二度も出てくるハードな内容だ。 しかもカーマディが麻薬を打たれて病院に監禁されてしまうシーンは確か長編でもあったように記憶しているがどの作品だったのか思い出せない。ロスマクのアーチャー物でも同様のシーンがあったように思うのだが。 「カーテン」ではカーマディは逃亡幇助を頼まれた友人のラリーが結局自分一人で逃げた矢先に殺されてしまった事から、ラリーの関わった友人の捜索に乗り出す。 物語の展開から予想だにしない結末に至る本作。真相はかなり意外。金持ちの依頼人と蘭の温室で対面するシーンは確かに『大いなる眠り』にも見られたシーン。しかし、真相がこじつけのように思えた。よくよく考えると、なんかおかしい。 カーマディ物最後は表題作「トライ・ザ・ガール」だ。ギリシア人の床屋の主人の捜索でセントラル・アベニューを訪れたカーマディが、たまたま出くわした大男スティーブ・スカラに否応無く彼のかつて愛した女ビューラの捜索に巻き込まれる話。 そう、これこそ正に名作『さらば愛しき女よ』の原形。 ここで現れる一人の女を追い掛ける大男は大鹿マロイではなく、スティーブ・スカラ。最後の幕引きも同じようなものだったか?凶暴かつ乱暴で野獣のように思われた大男。自分の目的のためには人を殺す事も躊躇わない大男。だのに女にはこの上ない優しさを見せる。自分を撃った女に対して「放っておいてやれ。やつを愛していたんだろう」と慈悲を与える不思議な魅力を持った男だ。こういう男は多分に母親の愛情に飢えていたのだと思われる。 そしてこの話の裏テーマというのは8年ぶりに出所した男が直面した、馴染みの店と好きだった街の雰囲気、そしてかつて愛した女、それら全てが変ってしまったことに対する戸惑いと哀しみなのだ。彼は居心地の悪さと居場所の無さを感じていたに違いない。そしてそうした彼の唯一の拠り所がかつて愛した女ビューラだったのだ。あまりに切ない物語。 この4編を通じて主人公を務めるカーマディという男の魅力も捨てがたい物がある。議員だった父親の遺産で悠々自適に暮らしている元探偵というチャンドラー作品には珍しい設定ながらも金持ちが故に抱える彼独自の哀しみ。親が汚職で残した汚い金を拒む事も出来ずに自嘲気味にその日を暮らす毎日。 しかしカーマディは2作目以降、「シラノの拳銃」の印象とはだいぶん違ってくる。むしろマーロウに近い感じだ。なぜチャンドラーがカーマディを主人公に長編を著さなかったのかが不思議なくらいだ(この感想を書いた後、解説で木村二郎氏が「シラノの拳銃」のテッド・カーマディとその他3編のカーマディは別人で、後の3編のカーマディはマーロウの原形だったと述べている。正に私の抱いた感想は正しかったわけだ)。 さて残りの3編について。 「ヌーン街で拾ったもの」は麻薬潜入捜査官ピート・アングリッチが主人公。ヌーン街で見かけた金髪の女性の代わりに、一台の高級車から落とされた荷物を拾ったことからハリウッドスターとマフィアとのある企みに巻き込まれる話。 ハリウッドスターの売名行為で裏街のボスの手を借りるというのがちょっといただけない。あとで強請られるのが解っているのに、安直では?タイトルはダブル・ミーニングだろう。ヴィドリーが落とした包みではなく、金髪の女トークン・ウェアこそ「ヌーン街で拾ったもの」だろう。 「金魚」は我らがヒーロー、マーロウ登場の物語。元婦警の友人キャシー・ホーンから行方知れずになっているレアンダー真珠の在り処について有力な情報を教えるから探してほしいと頼まれるマーロウ。報酬は保険会社から支払われる2万5千ドル、これを情報提供者であるピーラー・マードと3人で分け合うという取り決めだった。マードの許を訪れたマーロウはそこで拷問に遭い、ショック死したピーラーの死体に出くわす。ピーラーの家を後にしたマーロウは保険会社を訪れ、正式な代理人として雇ってもらう。事務所に帰ったマーロウに知らない女から電話が掛かり、悪徳弁護士のラッシュ・マダーの許へ訪れるよう脅迫される。 レアンダー真珠を巡る丁々発止のやり取り。ハメットの『マルタの鷹』を換骨奪胎したかのような物語。 とにかく悪役の女性キャロルがいい!ストーリーの運びは定型なんだが、彼女の存在が物語に色彩を与えている。最後のサイプの妻がマーロウに仕掛けるフェイクなど、最後まで楽しめる作品。最後のシーンでビリー・ジョエルの”Honesty”の歌詞が浮かんだ。 “誠実、なんて寂しい言葉だろう” 最後の「翡翠」は「スマートアレック・キル」で主人公を務めたジョン・ダルマス再登場作品。社交界の名士リンドリー・ポールから彼の女友達が盗まれた希少な翡翠のネックレスを探し出すよう頼まれるという話。相変わらず入り組んだストーリー展開だが、霊能者が登場したりといささか意匠に懲りすぎた感も否めない。そのため、なんだかバタバタした展開になっている。 本作では「シラノの拳銃」、「犬が好きだった男」、「トライ・ザ・ガール」そして「金魚」の4編が秀逸。1つに絞るならばやはり「トライ・ザ・ガール」か。 今まで2冊の短編集を通じて感じるのは、20~30年代後半のアメリカを覆った荒廃感が物語の雰囲気を覆っていることだ。それは禁酒法統治下もしくはその余波が澱のように残る20~30年代のアメリカを覆う鬱屈感に他ならない。そんな世の中で誰もが心に病を抱えている。善人は不器用であり、暮らしは楽にならなく、器用な奴は相手を出し抜く事にその器用さを発揮し、誰もが悪人だ。 そしてチャンドラーが描く探偵マーロウ、カマーディらはそんなすさんだ街の中で減らず口を叩きながらも、どこか人を信じることを止めきれない、自分に正しくあろうと自嘲気味に生き抜く男たちだ。彼らは探偵という仕事を自らの糧を得るためのみならず、仕事に関わった自分を納得させるために損得抜きで夜を走っている。それはこの街に失われたと思われた何かがまだ残っている事を信じたいがために真実を追っているかのように思える。 そしてそれを表現するチャンドラーの描写力、文章力の凄さ、改めて痛感した。危険と隣り合わせの人間が配る視線や仕草をとっても、それら人物や状況を語る視点が違うのだ。少なくとも私にはこういった“眼”は無い。 そしてその文章に加えて、質が上がったストーリーとプロット。全てがそうだとは云えないまでも、入り組んだストーリーも単純に捏ね繰り回されているだけでなく、計算づくの上での展開だというのがよく解る。 毎度同じような展開だと思いながらも、なぜだか飽きずに読めるのが不思議だ。 未読短編だけを読むために買ったこのシリーズだが、チャンドラーの凄さを再認識するのに格好の機会になった。残る2冊も買うつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾はただでは転ばない、これが読後の率直な感想だった。
読者を楽しませるのにこれほど貪欲なのかと改めて感嘆した次第。あくの強い押しでぐいぐい迫るクーンツのエンタテインメント性とは違い、淡々と物語を綴りながらも最後に思いもかけない真相が作者の手元から次々と現れてくる。 正にこれはトランプの神経衰弱に似たカタルシスだ。数字の判らない同じマークのトランプを徐々に捲る事で、何がどこに隠されているかが次第に解り、ゲーム終盤、怒涛の如く、バタバタバタと裏返っていく、あの気持ちのよさに似ている。 題名が示すように物語の舞台は十字屋敷と呼ばれる奇妙な作りの館と悲劇を呼ぶピエロの人形が物語を彩る。正に本格ミステリの舞台設定ど真ん中である。 2ヶ月前の不可解な死、四十九日のために一同集まった中で起こる殺人事件。密室でもない殺人事件。しかもピエロの一人称描写の段落で語られる事件の顛末から正直今回の内容は小粒だと思っていた。 しかし、東野圭吾はやはり只者ではなかった。ページ数にして320ページの長さながらもかなりの満腹感を提供してくれた。 特にデビュー以来、何かと作中で登場するピエロの存在を今回は物語の中心に据えたことからも作者の企みに期待していたが、きちんと応えてくれている。ピエロの人形の一人称という奇抜な設定に面食らい、多少の不安は感じたが、雲散霧消してくれたし、この企みがきちんと成功していることを付記しておこう。 数ある東野作品の中において、ベストに挙げられる作品ではないものの、一読忘れがたい余韻が残る良作だ。 出版後、18年以上経って今なお重版されるにはやはりそれなりの訳があるのだ。 |
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タイトルが示すように、エスピオナージュ作家フリーマントルが紡いだ怪奇短編集。これが実にヴァラエティーに富んだ短編集となった。
冒頭の「森」はどちらか云えばオーソドックスな怪奇譚だろう。ルーマニアの小さな集落を舞台にした残虐な領主の圧政に苦しむ村人が復讐を遂げた後に訪れる怪事である。 次の「遊び友だち」もオーソドックスな部類の怪奇譚だ。名声高いブロードウェイの脚本家が買った古い屋敷で起こる怪奇現象。屋根裏の子供部屋に大人には見えない子供がいるという話。 「ウェディング・ゲーム」は英国屈指の名門の2つの財閥のある結婚式の時に訪れた悲劇を扱っている。嫉妬に駆られた花婿の弟の犯行、最後のオチなど、目新しさは無いものの、演出効果は抜群だろう。最後のシーンは映像が目に浮かぶよう。 そして本編で語られる花嫁の惨劇は江戸川乱歩の「お勢登場」を想起させる。死にゆく者の生への執着と死の恐怖を濃密に描いた乱歩に対し、事象を語りつつ、その後の展開に見事なオチをつけたフリーマントルという2人の特徴が出て面白い。 更に続く「村」は第二次大戦にドイツ軍に所属していた主人公が名を変えて身を潜めて余生を暮らした末に、公式記録上で自分が大量虐殺を行ったとされるチェコの村を訪れる物語。 投資家夫婦と降霊術という相反する物を結びつけたのが「インサイダー取引」だ。インサイダー取引で巧みに財を成してきた投資家夫婦のうち、妻の突然死で失意に暮れた夫が霊媒師の力を借りて、亡き妻との交流を果たし、妻の助言で、どんどん投資を成功させ、億万長者となっていくという話。 これと「ゴーストライター」が個人的にはベスト。こちらの方はコメディアン志望の男が死後コメディライターとして名声を成すという話。特にこの2編はタイトルが秀逸で、最後に抜群の切れ味を放つ。 そして株式をテーマにホラーを書くという発想も斬新だが、もっと驚いたのはフリーマントルが「お笑い」をテーマに短編、しかも幽霊譚を書いたこと。まさに脱帽だ。 それに加えてこんなのも書けるのか、フリーマントル!と唸ったのが「ゾンビ」と「洞窟」。前者はカトリック宣教師が布教のために派遣された神父を奪還するためにゾンビを生み出す呪術が支配するカメルーンの奥地の村に乗り込むといった話。 後者はフランスにある世界最大の洞窟でガイドする一族の話。自らの子供と妻が洞窟に入ったまま行方知れずになった男が友人の子供の捜索に乗り出す。 この2編で驚かされるのが宗教や呪術、そして洞窟ガイドという職業の特徴を詳述しているところだろう。この作家の懐はどこまで深いのかと驚嘆した作品だ。 一風変った幽霊譚なのが「魂を探せ」。何しろベルリンでの任務中に暗殺されたCIAとKGBの工作員2人の幽霊が、死後のユートピア<あの世>に行くために自らの魂を探すという物語。しかしこのオチはブラック・ジョーク以外何物でもないな。 「愛情深い妻」、「デッド・エンド」はそれぞれ殺人事件を扱った恐怖譚。前者は病院の院長が不倫相手と再婚すべく妻を不治の病と見せかけて毒殺するが・・・といった話。 後者は場末の宿で発見された女性の刺殺死体の犯人を捜す物語。現場に残された指紋、遺物などから状況的に夫の犯罪と思われたのだが、当の夫は自信満々に自分の犯罪ではないといいきり、逆に警察に犯人のヒントを与え・・・という話。 どちらも幽霊を扱っているのが共通。特に前者は妻の幽霊に苛まれる主人公の苦悶がちょっと理解できなかった。元妻は愛人との交際を認めているのに、なぜ主人公は愛人と愛を交わせないのか?私なら・・・とここで止めておこう。 最後12編目「死体泥棒」はいつの間にか人殺しに加担していた善なる医師の話。生真面目すぎるが故に陥った狂気の領域を皮肉とユーモアを交えて語っている。 ざっと概要を上に書いてみたが、冒頭述べたように題材が実にヴァリエーション豊かである事が解ると思う。自分の得意分野だけで勝負していないところなんかはフリーマントルのストーリーメーカーとしての矜持を感じさせる。もしフリーマントルにお題を提供してホラーを書けと頼むと、何でも書けるのではないだろうか。 そしてこのようなホラー・ストーリーはもはや出尽くした感があり、確かにここに語られる恐怖譚の中には目新しさは無い物もある。では何が読者の興趣を誘うかというとやはりそれは作者の語り口にあるだろう。 そしてフリーマントルが筆巧者であり、その定型化した恐怖譚をコクのある料理に変身させる腕前を備えていることを再認識させられた。 正直云ってこれほどの短編集を絶版のまま埋もれさせるのは勿体無い。どうにか復刊ならないだろうか。 |
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松濤禎という男の波乱万丈人生劇場とでもいおうか。とにかく色んな要素が詰まった作品である。
上越国境での鉱山採掘現場からストーリーは端を発し、酷寒の信州の山中での逃亡行。信州の寒村で鍬形とともに逃げ出した妾のサトの家に辿り着き、そこから北海道の小樽へ移り、そして一路ロシアのウラジオストクへ渡る。しかしそこでも探し求める人物には逢えず、国境警備隊の一員となり、朝鮮独立運動に加担する反乱軍の討伐を頼まれ、やがてソ連内で勃発する複数の民族間闘争の荒波に否応無く飲み込まれていく。 また敵役も移ろいゆく。飯場頭の河西重蔵を皮切りに、特攻くずれの野槌の田岡、軍隊時代の知り合い、清浦謙治、そして敵か味方かも解らぬ国境警備隊の氷川。更には俘虜の1人で松濤に憎悪の視線を向ける同行者辻川。ロシアの中国人組織を牛耳る男、郭大人。 そして松濤の捜索の支援をする人物も移ろいゆく。サトの実家で知り合い、道連れとなった小田切千佳、小樽の町で知り合った香坂蘭子と名乗る中国系の武器密輸行商人、そして「少尉」と呼ばれる千佳の面影を湛えた男。中国人組織に敵対するロシア警察の副署長カマロフと切れ者の部下ゼレージン。そして氷川に協力するブリヤート兵の長テンゲル。 明日の敵が今日の味方―正確には松濤を利用する側なのだが―、昨日の味方が狙うべき標的に目まぐるしく変わる。密かに慕う綾乃の、鍬形を捜してほしいというたった一人の願いで、松濤はソ連を取り巻く抗争の荒波に翻弄される。しかし、そんな松濤の行動原理は鍬形の捜索というかつて愛した女性綾乃の依頼よりも途中で出逢った小田桐千佳の存在によるところが大きい。 『君の名は』の如く、逢いたくてもなかなか逢えない2人。そんな2人が困難の末、ようやく逢えたというカタルシスを得られるシーンが少ないのが物足りない。ストイックな松濤がかなり年下の千佳に遠慮して自分の愛情を表に出さず、内心忸怩たる思いをしているのもこの長丁場を持たせるには結構きつい物があった。 上中下巻合わせて総ページ1,500弱の大作。上に述べたように主人公松濤の運命も起伏に富んでいるが、なぜか読後のコクが薄いように感じた。 それは物語の舞台が上越から小樽、そしてソ連国内の各所と次々に移るにしても、全てそれらは極寒の地。つまりそれぞれの追跡行が極寒の山中のシーンばかりなのだ。つまりこれこそが谷氏の得意とする分野なのだが、こう何度も続くと単調さは拭いきれない。発端→極寒の山中→新たな出逢い→極寒の渡海→捜索→極寒の中でのドライブ→極寒の山中での逃走・・・と終始こういった具合だ。 これほどの大作となるとやはりもっと色んなジャンルがミックスされた展開を期待してしまう。いや確かに山岳小説、エスピオナージュ、歴史小説といった側面を備えてはいる。が、上に述べたように本作は似たようなシーンの繰り返しで冗長な感じを受けてしまった。表現も今までの山岳小説に見られたものが使い回されていたのも気になった。 さらに先に述べたが、松濤と千佳との2人のシーンが松濤の内面描写だけで、2人の意思が通じ合うシーンが表立って出てこなかったのもやはり大きい。 私はロマンス小説は読まないが、やはりここまで松濤の一途な思いを描けばそういうシーンを求めるのが普通だろう。作者の照れ故か解らないが、プロローグにあれだけロマンティックなシーンを用意したならば、それに応えるエンディングも必要なのではないか。そうする事で題名の意味も補強されるだろうし。 しかし同じようなシーンが続くとはいえ、これだけ展開の目まぐるしい小説は韓流ドラマのような趣きを感じた。案外テレビでドラマ化すれば受けるかもしれない。 |
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数々の山岳小説を物してきた谷氏が今回取り組んだテーマは戦前の立教大学山岳部を扱ったドキュメンタリー小説。日本人で初めてヒマラヤ登頂を成功したチームの物語である。
これは当時TVで流行っていた『プロジェクトX』を髣髴とさせる内容だ。しかし決定的に違うのはこれは小説であるという事だ。したがってあのTVの手法をそのまま小説に持ち込めばなんとも味気ないものになる。そしてこの作品はそれをやってしまって、全体的に淡白な印象を受けるのだ。 事実を扱ったドキュメンタリーであっても、小説家のフィルターを通れば自然、物語に熱を帯びてくるものだが、本作においてはそれが見られない。 立教大学山岳部の成り立ちと初のヒマラヤ登攀挑戦に向けての数々の苦難、ようやくヒマラヤに着いてからの未知の世界・習慣に対する戸惑い、そしてやはり世界の屋根ヒマラヤが持つ、他の山々の追随を許さない過酷な環境。これら一通りの事は語られるのだが、非常に淡々としており、苦労が真に迫ってこないのだ。 物語を面白く材料は多々ある。やはり立教大学山岳部の個性豊かな面々、特に本作の主人公ともいえる最年少登頂者浜野の親友であった「雷鳥」こと中島雷二のエピソード、そして部外者ながらもヒマラヤ登攀グループの一員に加わる事になった毎日新聞社の竹節記者、金持ちの出の奥平。彼らがヒマラヤ登攀の選抜隊に加わるか否かのやり取りなど、もっと色濃く描写できたはずである。 しかしこれが素っ気無い。例えば、竹節の参加を巡っての諍いとか、財政面でどうしても参加できなかったメンバーが「いっそ子供と女房と別れてまでも参加しようと思った」とか「参加できるお前が正直憎い」といった人間の内面をむき出しにするドラマがここにはない。みな紳士で、優しく、お行儀がいいのだ。つまり読者の心にあまり振幅をもたらさない。これが物語としての熱がないという意味だ。 そして通り一辺倒に立教大学山岳部が発足からヒマラヤ登攀に至るまでのストーリーを語るがために、全てが平板に語られている印象があり、物語の焦点が見えない。谷氏がこの物語でどこに重きを置いたのかが解らないのだ。 冒頭のプロローグではヒマラヤ登攀シーンで失敗をするところが描かれている。ここからもこの物語の焦点はヒマラヤ登攀シーンなのだろう。しかしこれが今までの谷氏の山岳冒険小説とどう違うのかが解らなかった。むしろ作り物である諸作品の方が、もっと人間の限界ギリギリの苦闘を描いていたように思える。ドキュメンタリーだから嘘は書けないだろうが、資料のない部分は作者の想像力で補っていいはずである。そこに本作の詰めの甘さがあるように思う。 もしこの作品が谷氏の山岳小説の第1作であったならば、立教大学山岳部の成り立ちからヒマラヤ登攀までの一連の出来事を綴ったこの内容で十分満足できただろう。 しかし、既に何作か山岳冒険小説を出している作者が今頃になってこういう作品を著すのならば、そこにはやはり物語作家としての+αを求めるのが読者の性だし、それに応えるのが作者の力量であろう。 きつい苦言になるが、遅きに失した作品、もしくは内容不十分の作品と云わざるを得ない。 |
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デビュー作にしてこのクオリティ。この原尞氏はまさにチャンドラーの正統なる後継者だ。
物語の導入部にある大富豪更科の邸への訪問は正にチャンドラーのマーロウシリーズ第1長編の『大いなる眠り』へのオマージュそのものだ。そして冒頭と終盤に現れるあの男は『長いお別れ』のテリー・レノックスだろう。こういう舞台設定からして、チャンドラーを愛する者としては(自分のことをチャンドラリアンとまで評するほど、私はまだ判っていない)胸がくすぐられる思いがする。 さらに加えてプロットにはロスマク的家庭の悲劇も加味されている。権力に溺れゆく人々の狂った歯車がぎしぎしと音を立てて、沢崎によって一つ一つ解体されていく。 そして登場人物たち。悪友ともいうべき新宿署の錦織、「カイフ」とだけ名乗って去っていった男、渦中の更科一家はもとより、中盤以降事件の焦点となる都知事の向坂、その弟で俳優の向坂晃司。特に向坂知事はその描写からして元都知事の石原慎太郎氏をモデルにしているとしか思えない。この作品当時、まだ新宿都庁は出来ておらず、当然の如く都知事も違う。まるで原氏はこうなる事を予見していたかのようだ。 しかし正直に云えば、双子の兄弟でありながらある事情で苗字が違う仰木弁護士、失踪した佐伯を密かに慕う辰巳玲子、失踪した男の世話をしていた海部雅美などの登場頻度の少ない脇役の方が妙に印象に残った。 とどめはかつての沢崎のパートナーだった渡辺。手紙のみの登場をしなかった彼が今後シリーズにどのように関わってくるか、興味深い。 しかし何と云っても圧倒的存在感を放つのが主人公である探偵沢崎だ。その他者の侵入を容易に許さぬ姿勢、上下関係や権力者特有の主従関係など全く意に介さず、どんな相手にも自分の態度を崩さず対面する男。背伸びせず、粋がりもせず、かといって卑屈にもならない。読者の眼の前にいつの間にかあるイメージが上がっていく。 しかし、気付いたであろうか?文中、沢崎の人と成りを表した描写など一切ないことを。原は沢崎の台詞と仕草、動きだけで読者にそれぞれの沢崎像を作らせているのだ。この筆致の凄さは並々ならぬものがある。 さらに文章。チャンドラーの正統なる後継者と先に述べたが、その文章はチャンドラーの諸作に見られるような大仰な比喩が頻出するわけでもなく、きざったらしい台詞が出てくるわけでもなく、派手派手しいわけではない。しかし、この本にはノートに書き写しておきたい美文に溢れている。真似したい減らず口がある。 かつてチャンドラーを読んでいた時に駆られた、「私もこんな文章で物語が書きたい」と思わせる雰囲気がある。日常特に感慨もなく見ている風景が語る人によってこれほど印象深く描写されるのか、そう気づかされる事しばしばだった。 そしてやはり古典は読むべきである。名作ならば尚更だ。この沢崎シリーズを十二分に楽しむためにもやはりチャンドラーの諸作、少なくとも全ての長編には当たるべきだろう。そしてそうした私は正解だったと今更ながらに気付かされた。 今夜の酒はきっと美味いに違いない。 |
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・・・読後、しばらく声がでなかった。
最近読んだ本の中では、最も後味の悪い結末だ。 何を語りたくてあのような結末にしたのか、全く以ってフリーマントルの意図が理解できない。この作品を著した当時、家族間に何か問題があったのか、そう勘ぐってしまうほどの結末だ。 もともとフリーマントル作品の特徴に、最後に皮肉な結末が必ずといっていいほど用意されていることが挙げられる。特にチャーリー・マフィンシリーズでは、時にそれは行き過ぎでは、と思ってしまうほどの悲惨な結末もあるが、それはやはり主人公であるチャーリーが色々な難関を乗越えた末の相手に行った仕返しといった一種の痛快感が伴っているから、許容できたわけなのだが、今回はそれがない。もう本当に救いがない。 主人公オファレルだけではなく、敵役であったリベラの遺族に対しては輪を掛けて悲惨な幕引きが用意されている。これは作者が民主主義と社会主義の暮らしの違いを最後に提示した一種の叙述に過ぎないのかもしれないが、特に子を持つ親の立場である今では、とても正視に耐えない結末だ。 そして、主人公であるオファレル。 当初題名から連想していたのは映画『レオン』のレオンの如く、日々の日課を欠かさず、1つのフォーミュラのように固持して生活する内省的な暗殺者を思い浮かべていたが、さにあらず、家族みんなに頼りにされる模範的な父親・夫という人物だったのが意外だった。 そしてこのオファレルという男は表面上は、動揺を見せないが―それは工作員として訓練を受けているからだが―実は、不惑の年は既に過ぎているのに大いに惑うのである。 オファレルが46歳という暗殺工作員としては高齢とも云える年齢に差し掛かってなお、まだ現役でやれると不安を押し殺して信じていたのは、かつて保安官だった曾祖父の存在があるからだ。 自分と同じ年に見える写真の曾祖父の自信に満ちた姿は自分もかくありたい、自分も負けてはいられないと奮い立たせる精神的基盤になっている。そしてその曾祖父の存在は自分の仕事である暗殺という行為を正当化する象徴でもあるのだ。 オファレルは「暗殺は人命を救う」という己の教義に従って自分の仕事に誇りを持ってきた。それは法の網の目をかいくぐってのうのうと暮らす悪人、巨大な権力を行使して私腹を肥やす悪人たちを制裁するのに暗殺こそが有効な手立てだと信じてきた。 そしてその信義を支える存在としてこの曾祖父の存在がある。自分のしてきたことに間違いはないのか?時折いいようのない恐れに涙を流したくなる時にこの曾祖父の姿を思い浮かべ、保安官は決して泣かないと呟き、夜を過ごす。 そしてまた彼には、両親が無理心中して亡くなったという暗い過去がある。ラトヴィア人である母がソ連兵士にレイプされ亡くなった事が原因で、鬱病を患っていた母。朝鮮戦争に出兵し、勲章を受けながらも片腕を失った父。そしてやがて母はある夜、父を撃ち殺し、自分も自殺する。 このオファレルという暖かな家庭を持ち、規律正しい生活を信条とし、なおかつ潔癖とまで云える正義感を備えた暗殺者というこの設定がこの作品に厚みを持たせている。通常の小説で語られる精密機械のような感情の持たない暗殺者、人殺しに無上の喜びを感じる歪んだ性格の持ち主ではなく、このような生真面目な人物を設定したところにフリーマントルのアイデアの冴えを感じる。 その他にも、ハッと気付かされることはあった。 例えば麻薬の運び屋でベトナム戦争経験者であるチンピラ風のパイロットが主張するベトナム戦争で得た彼の人生哲学の話。この話がオファレルの仕事に対する信条に揺るぎをもたらした一因といっても間違いではないだろう。 正義のために戦いに行って、知りえた事は自分の利益を如何に守るかだ。帰還兵に対して何の恩恵も与えなかった政府への憤り。何のために戦っているかも解らなくなる極限状態の中で開眼した彼の唯一の真実。それは自らの正義に基づいて暗殺を行ってきたオファレルにとって自分の信義よりも現実味のある内容だったに違いない。そしてイギリス人であるフリーマントルがこういう意見を登場人物の口から云わせることからも、他国から見てあの戦争が如何に無意味であったのかを知らされるシーンだと思った。 そして、ビリーの台詞。知らず知らずに麻薬の運び屋として利用されていた孫のビリー―後に知らず知らずではなく、薬の売人から脅迫を受けて已む無く手伝わされた事を白状するが―が、不正な仕事で得た金の使い道を泣きながらオファレルに語るシーン。 こういうシーンに私は弱い。自分の子供がダブってしまう。ずっと新しい物が買えなかったママにプレゼントするために使わずに貯めていた、こういう話に弱いのである。 しかし、これら小説的技巧の巧さがあっても、あの結末でかなりのマイナスは否めない。どう考えても受け入れがたいのだ。この本、面白いから読んで、とは絶対薦められない1冊だ。 結局、暗殺は不毛だというメッセージなのかもしれないが、この本の結末自体があまりに不毛すぎる。 |
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前作『龍臥亭事件』に引き続き、業の深さが主題になっている。
閉鎖された村社会に伝わる因習。妄信のように今に伝わる差別。主従関係の厳格さから生じる男と女の色の縺れ。 そして御手洗シリーズの定番となっている物語を彩る逸話ともいうべきエピソードが今回も添えられており、それこそが森孝伝説、そして森孝魔王といった話だ。 森孝伝説は島田氏が常々テーマに挙げている日本の歪な上下関係・主従関係を扱った悲しい物語。さらに挿入される森孝魔王の物語も悪徳代官が百姓をいたぶる話だ。 森孝伝説の内容を受け、死体に森孝の霊が乗り移り、甲冑を身に纏い、代官に処刑を下すといった内容だ。虐げられた弱者を救済するために、人智を超えた存在が現れ、惨殺する。 同様の挿話は『魔神の遊戯』にも見られたが、この弱者救済の話はデビュー以来、島田氏が一貫して扱ってきたテーマだ。 そして本作ではこの森孝に纏わる話に加え、他に第二次大戦中の日本軍が秘密裏に行った人体実験の話などの戦時日本の暗部、そして獣憑き、獣子といった村社会独特の妄信による人種差別についても述べられている。 特に気のいいお手伝いとして登場した斉藤櫂が、その過去には小さい頃に獣憑きの疑いがあって里子に出された、先祖が首切り役人で呪われた家系だった、引き取られた両親と反りが合わず、子供を置いて夫と共に逃げた、といった業の深い人生を歩んできたことに驚いた。最後の方で明かされるこの女性の凄まじいまでの虐待の日々は、本作のもう1つのテーマだろう。 この櫂の人生を通して語られる、村人の、その村に強く根付いた独特の道徳観に基づく嫁婿夫婦への躾なども、深く考えさせられる重い内容だ。 物語はこの他にも日本の鎧に関する薀蓄、からくり人形の歴史と江戸との係わり合いなど、興味深いエピソードが物語を彩る。 とは云え、前作に比べると比較的内容は明るいようだ。犬坊家は特に前作に見られた一家の業の深さなどは微塵も描かれず、犬坊里美の若者特有の軽さや寺の住職日照、神社の神主二子山などの漫才の掛け合いのような方言交じりの会話などで重苦しい雰囲気を淡くしている。 事件自体は非常に陰惨なのだが、特にこの日照と二子山の語り口の面白さがそれを軽減している。 そして石岡も以前に見られた情けなさから幾分復調して、女々しさが消えている(それでも好きな女性に振られて、ストーカーになるのかと自問した時に、自分にはそんな事やる元気がないと云ったのには苦笑したが)。 また加納通子が娘を歌手にしてステージママになりたがっているなんていう意外なエピソードも面白い。 そのほか、里美が語る日本の司法試験とその採用制度の話も面白かった。裁判官が司法試験の成績上位者しかなれないなんて初めて知った。 しかし、本作の目玉と云えば、やはり島田荘司氏2大シリーズの主役、御手洗と吉敷のコラボレーションだ。 この趣向は両シリーズを読み通して来た者にとって、なんとも感慨深い、心憎い演出である。『涙流れるまま』以降、吉敷と通子のその後をこんな形で知らせてくれるとは思わなかった。これこそ一級のファンサービスだろう。 そして吉敷は事件の1つを解決して去っていく。それも石岡から御手洗の残したヒントを聞いて。 両者のファンの中にはこのコラボレーションに物足りなさを感じる者もいるだろう。しかし、私はもうこれだけで十分だ。強烈な個性の2人が一所に集まるよりも、石岡という緩衝材を間に介する必要があった方がいいと感じた。 そしてこの2人と石岡が挑む事件、これも豪腕島田氏の健在振りを強くアピールするものだ。 地震で起きた地割れで厚いコンクリートの下から出て来た死体。2つのバラバラ死体を合わせ、甲冑を着せた死体が甦り、悪を討つ。そして最後には100年前に行方不明となった森孝が現れる。 今回はもうほとんど論理的解決は不可能だと思っていた。実際、日照とナバやんの2つの死体を合わせて甦った森孝魔王の真相は石岡も解明できず、手記にて真相が暴かれる。 で、これら3つの大きな謎の真相だが、大いに偶然が重なっているなあとの印象が強い。『暗闇坂の人喰いの木』、『疾走する死者』、『北の夕鶴2/3の殺人』らに共通する豪腕ぶりだ。実に島田氏らしくて呆れるというより微笑ましく思った。まだこういう物を堂々と書く、その若さが嬉しく思った。 そう、そしてこの死体を繋ぎ合わせて1つの魔王を甦らせるというのは奇しくもデビュー作である『占星術殺人事件』のモチーフとなったアゾートを連想させる。これは御手洗と吉敷を一同に会するために敢えて原点に戻ったということなのだろうか? これら謎の真相については首肯せざるを得ないが、やはり島田氏の物語の力は素晴らしいと思った。どんどんその世界に引き吊り込まれていく。そして必ず胸に去来するものがある。こういうのを読むと推理小説は驚愕のトリックも大切だが、やはり物語があってのものだと実感する。 推理小説界の巨人とも云うべき存在においてその精神を失わない島田氏。いやだからこそ巨人とも云うべき存在なのか。 もう一生ついていくぞ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』の好評を受けて、早川書房がチャンドラーの全短編集を改訳し、発表順に編纂した独自の短編集第1弾。
創元推理文庫の短編集も併せてチャンドラーの作品は全て読破したと思っていたが、いやいやまだまだ未読の作品があったのだ。こういう作品が入っていないとこういう企画物には手を出さない私。逆に云えば、未読作品があるということで本の虫が騒いでしまった。 それでその未読作品というのが2作目の「スマートアレック・キル」と6作目の「スペインの血」だ。 「スマートアレック・キル」はダルマスという名の探偵が主人公。脅迫を受けているという映画監督の依頼から麻薬の密売と酒の密輸に関するいざこざに巻き込まれるという話。 2作目にして、流れに任せるような形でどんどん物語は進んでいき、これまたどんどん一癖も二癖もある男女が出てくるが、プロットはしっかりしており、明かされる真相は納得がいくし、かなり練られた物だなと思う。禁酒法なんか出て来た日にはもろハードボイルドだなと思った。なお題名の意味は「利口ぶった殺人」。依頼人デレクの自殺を装った偽装殺人を指している。 「スペインの血」はチャンドラーでは珍しく警官が主人公の話。とはいってもやはりチャンドラー、描く警官像が違う。サム・デラグエラという純粋スペイン人を主人公にし、周囲の差別に屈することなく、殺された友人の事件の担当を外されながらも自らの主義に従って捜査を進める。 このデラグエラの造形がいい。スペイン人であることに誇りを持ちながらも組織の中で疎外感を感じている。しかしその事は決して表面に出さない。一人の時には弱さも見せる。人に好かれたいと思っており、女性の罵倒にめげる女々しさもあるが、自らの矜持は絶対に捨てたくない。そして仕事は決して諦めない。しかし正義を盲目的に振りかざすでもなく、他者との折り合いも付ける。自分の目的・利益を損なわない限りでは。 チャンドラーがもし警察物を続けて書いたとしたら、このデラグエラを主人公に添えただろう。それもまた読んでみたかった。叶わぬことではあるが。 残りの4作は再読物。 1作目「ゆすり屋は撃たない」は探偵マロリーが主人公。女優が若かりし頃に書いた手紙がスキャンダルのネタになるとの事でそれを取り戻すよう依頼されたマロリーがその女優が誘拐されると同時に自らもまた悪徳警官に連れられてしまう。 「フィンガー・マン」でようやく我らがフィリップ・マーロウの登場である。市の有力者であるマニー・ティネンがシャノン殺しに関わっていたとされる証言を大陪審にしたかどで、マーロウはティネンの友人であるこの街の影のボス的存在フランク・ドーアに狙われる羽目に。しかし、そんな中、友人のルー・バーガーからボディガードの依頼をされる。カナレスのカジノでぼろ儲けをする手があり、ついては帰りの護衛をしてほしいとの以来を渋々引き受けたフィリップだったが、カジノの帰りに暴漢に遭い、そしてルーが殺されてしまうという最悪の結果を招く。しかしそれはフィリップに冤罪を着せるためにドーアが仕組んだ罠だった。 「キラー・イン・ザ・レイン」の主人公には名がない。単なる「わたし」という名の探偵だ。本作は『大いなる眠り』の原形とされる作品。 トニー・ドラヴェックなる大男から娘カーメンをスタイナーという男から取り戻してほしいという依頼を受ける。スタイナーはポルノ関係の本やフィルムの貸し出しをやっている男だった。わたしがスタイナーの家を訪れた矢先に家中より銃声が響き、スタイナーが死体となって横たわっており、全裸の女がカメラを前にして椅子に掛けていたが、薬中で意識が朦朧としていた。その女カーメンをドラヴェックの家まで届けた私だったが、カメラからカーメンが映っている乾板を回収する事を忘れた事に気付き、再びスタイナー邸を訪れるが、死体は既になく、しかも乾板も無くなっていた。 そして「ネヴァダ・ガス」。ヒューゴ・キャンドレスは自分の車を偽装した毒ガス車に乗り込み、殺されてしまう。それが全ての始まりだった。たれ込み屋のジョニー・デルーズはモップス・パリシを警察に売ったことで命を狙われる事を恐れ、街を離れようとするが、悪漢に連れられてしまう。そしてあの毒ガス車に乗せられてしまうのだった。しかし、咄嗟の機転で難を逃れたデルーズは自分を襲った相手に報復するため、再び街に舞い戻る。 再読してやはり面白いと感じたのはこの「ネヴァダ・ガス」だ。他の短編に比べ、いきなり毒ガス車で人が処刑されるシーンという読者を惹きつける場面から幕が開けるのがまず印象深い。この導入部はハリウッド・ムービーを想起させる。この時既にチャンドラーはハリウッドの脚本家として働いていたのだろう。 そして全ての短編に共通するのはその流れるようなストーリー展開でどのような着地に落ち着くのか全く先が読めないことだ。 正直、1作目の「ゆすり屋は撃たない」は十分に理解できていないほどの複雑さ、というよりもチャンドラー自身も流れに任せて書いているようで、プロット的には破綻しているように思われた。 しかしそれ以外は、最後はきちんと収まり、読後なかなか練られたストーリーだと感心する。その流れるようなストーリー展開から非常に粗筋を纏めるのが難しい作者なのだと気付く。しかしそれでいて読みながら物語と設定が説明なしにするすると入ってくるのだから、やはりチャンドラー、巧い、巧すぎる。 そしてこれらの短編に出てくる探偵マロリー始め、ダルマス、そして「キラー・イン・ザ・レイン」のわたしもまたマーロウの原形だろう。しかし、やはりマーロウ登場の「フィンガー・マン」を読むとやはりマロリーもダルマスもマーロウの原形とは云いながらも、やはりマーロウは彼らとは一線を画した存在だと云わざるを得ない。 自身が命を襲われる事態でありながらも友人の頼みとあらば堂々と世間に身を晒すし、女の涙には騙されない。権力者にも屈しない、苦境に陥っても(表面上は)動じず、脅迫されても主義は曲げない。警察にも一目置かれている(後の作品では警察からも睨まれる存在になるが)。 そして今作におけるフィリップ・マーロウは「マーロウ」ではなく「フィリップ」の方だ。そう、若いフィリップ・マーロウだ。銃撃戦にも身を投じ、不利な状況も機転と行動力で自ら脱する。これこそフィリップだ。 また表題作にはその後のマーロウの名作の萌芽が見られた。プロットは『大いなる眠り』だが、大男ドラヴェックは『さらば愛しき女よ』の大鹿マロイの原形だろう。全ての長編を読んだ今、こうやって改めて彼の短編を最初から振り返るのはチャンドラーの原点を知る意味では最良なのかもしれない。 そして今回、もっとも痛感したのが、チャンドラーが小説で描きたかったのがプロットではなく、ストーリーだったのだという事だ。彼はロスという街のもう一つの貌を描きたかったのだ。強請りやたかりで生計を立てる卑しき男どもの姿を。そんな男たちがやることなのだから筋が通っていなくて当たり前なのだ。なぜなら彼は彼らの矜持に従って生きている。彼らの主義を貫く事で生きているからだ。そして誰しもが他を出し抜こうと虎視眈々とチャンスを窺っているのだ。だからストーリー展開が先が読めない。これを読んでその面白さが解らない人がいるならば、理解する観点が違うのだ。チャンドラーの小説は理解する小説ではなく、雰囲気を味わう小説、小説世界の空気を感じる小説なのだから。 そしてもう1つ今回発見したことがある。この短編集に収められている作品に共通するのは、主人公である探偵の依頼人は全て最後に死んでしまうという事だ。 彼らは警察にも届けられない厄介事、もしくは誰にも相手にされなかった危険な揉め事を解決する最後の駆け込み寺として探偵の許を訪れる。チャンドラーはそこに救いを与えていない。これら初期の作品群は特にそうだ。 窮境に陥った者は人に頼ってはその運命からは逃れられないのだ、自ら克服していかなければならないのだと云っているわけでもない。みんな弱いのだ、そして探偵さえも、そう述べているように思える。一か八かの最後の賭けに出た者がそうそう成功するわけではない、しかしその印象は非常なまでに切って捨てているように見えないから不思議だ。みな踠きながらも一日一日を生きているのだ、その姿を描いている。 そしてそれは決して美しくない。みな卑しき街の住人なのだから。真っ正直な人間など実は一人もいなく、警察さえもそう。それが本当の世の中なのだ。それをチャンドラーは書いた、その思いがこれらの作品に込められている。 最後に今回の題名について。今回採用されている英単語をそのままカタカナ表記して題名しているというのはやはり、というかかなり抵抗を感じた。 「スマートアレック・キル」は「利口ぶった殺人」の方が、「フィンガー・マン」は「指さす男」もしくは「密告した男」の方が、そして表題作は「雨の殺人者」の方が断然いい。今の日本語で改訳するという今回の試みは非常に好ましく、その志に大いに賛成しているのだが、なぜ題名は「今の日本語」に改訳しないのか、かなり疑問が生じる。それとも英語が珍しくなくなった今、カタカナ表記こそが「今の日本語」なのか。 私はこれに対して断然NOを唱える。だから星は1つ減点。題名も内容の一部と考えるからこそ。 |
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単なる山岳小説と思って読むと、面食らうような内容だった。発端の導入部は単にマックスという男の特徴を印象付けるためのエピソードだと思っていたが、作者は初めから「これは単なる山岳小説ではありませんよ」と警告を促していた事がわかる。
主人公たちの行動を左右するのは実にスピリチュアルな現象である。主人公である日本人2人、筧井宏と加藤由紀は、イギリス人の2人、ジョージとデニスの「口寄せ」をし、登攀で訪れる悲劇を回避しようとするのだ。この小説はまさにこの非現実的な設定にノレるかノレないかに懸かっているといえる。 私はどうだったかと云えば、微妙だとしかいえない。 それはこういう現象を絵空事として簡単に否定できないからだ。 私の想像の範疇を超えた話だからでもある。 他の作家の山岳小説を読んだことがないので比較にならないが、谷氏の書く山岳小説は長編・短編含めてどこか宗教色が濃いものがあるのが特徴だと思う。 今回扱っているのはシャーマニズムだが、これまでにも輪廻転生や因習、呪いなどがテーマになっている。 それはこの作者が自ら世界の山々を登る登山家であることが大いに起因しているだろう。特にヒマラヤを題材にすることの多いこの作者が、ネパールやチベットの宗教色濃い習慣、考え方、しきたりに少なからぬ影響を受けているのは間違いない。 そして前にも述べたが、彼自身、極限状態のときに神の配剤としか考えられない事象を経験したのではないだろうか?だからこういう作品を何の迷いもなく書けるのだと思う。 迫力の登山シーン(特に唾棄すべき男にあえて唾を吐かなかったのが、貴重な水分を無駄にしたくないという描写には非常にリアリティを感じた)と超自然的現象である「口寄せ」、そして予知視、もしくは幻視。現実と非現実が渾然となったこの作品。 一見アンバランスに思えるが、地球上で最も宇宙に近く、酸素の薄い場所においては何があっても不思議ではないという作者からのメッセージなのかもしれない。 |
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亡命者をテーマにした5つの短編を集めたもの。
最初の2編は男と女に纏わるKGB高官の話。 「パメラの写真」はアメリカ人女性パメラと結婚するため西側への亡命を図っているKGB大佐イワン・セロフが主人公。東ベルリンからベルリンの壁を抜けて西ドイツへと亡命する計画を立てたセロフ。微に入り細を穿ったその計画はまさに完璧と思われた。そしていよいよ実行の日が来た。 続く「二重亡命」はモスクワ勤務を命ぜられてから夫婦仲がぎくしゃくしたススロフ夫婦が主人公。イギリスへ亡命したススロフの後輩の信用失墜のため、アメリカへの偽亡命を計画する。 3編目「革命家」はリビアへ国外逃亡した元日本赤軍のヤマダ・ノブオが主人公。これは上の2編とは違い、平和な国で革命家として名を轟かせたい男の野心の話。パレスチナ解放機構の一員であるアハメドという名のテロリストに接触したヤマダはイスラエル首相とエジプト大統領の暗殺を依頼される。自分の名を売るチャンスとばかりにヤマダはその話に乗るが・・・。 「スパイ教官」は先の2編とは逆にCIAからソ連へ亡命したジョー・リバーズが主人公。アメリカからロシアへ亡命したリバーズはKGBでアメリカへ派遣するスパイの養成を行っていた。しかし、リバーズは今日こそがその日と疑っていなかった。今まで待ち続けたその日が来たのだと。 最後の表題作は2編目の「二重亡命」同様、偽亡命を扱ったもの。自らが手塩に育てたブーニンがアメリカに亡命した事でノスコフは第一管理部長の座を危うくしていた。部下であるパーノフと考え出した策はかつての上司であった自分がアメリカに亡命し、微妙に事実と違った情報を流す事でブーニンの信用を失墜するというものだった。それは同時に東京へ赴任している別の工作員の亡命を牽制する役割を果たしていた。提案はすんなり通され、ノスコフはアメリカへの亡命に成功する。毎月第5の日に故国へ帰ることを夢見ながら、ノスコフは確実に任務をこなしていく。 上に述べたように、内容的に重複する物も多く、この亡命者をテーマにした場合に意外とヴァリエーションが無い事に気付かされる。亡命者が亡命する際の緊張感、どのような緻密な計画を立てるのか、果たして成功するのか否かというのが亡命物のメインとなるのだが、短編である本作においてはその辺が軽く書かれており、フリーマントル自身、短編である事を意識して最後のどんでん返しに主眼を置いて著したようだ。 自らの謀略に溺れる者、自らの野心の炎に焼き尽くされる者、国から見離された者。ここに述べられているのは彼らの姿だ。 偽亡命物が5編中3編と最も多く、特に「二重亡命」と表題作はほとんど一緒といっていい。 前者がスパイの夫婦の確執に主眼を置き、物語がいきなり閉じられるのに対し(あまりに唐突に終わるのでビックリした。結局オチは何なの?)、後者は計画の裏側に暗躍する権力争いを主眼においているのが違う。前者から派生したような物語だ。 また4編目の「スパイ教官」はチャーリー・マフィンシリーズの1編(『亡命者はモスクワをめざす』)にも同様の設定が見受けられた。どちらが卵で鶏かは不明だが。 ストーリーテラーとして名高いフリーマントルだが、短編となるとどうしても似てしまうようだ。彼お得意のどんでん返しも長編の焼き直しのような感じがして、物足りない。 この前に読んだプロファイラーシリーズの短編集『屍泥棒』の時も同様の感想を抱いた。この作者、やはり長編向きだと思う。 |
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竹内しのぶ25歳独身。短大卒の大路小学校教師。丸顔の美人だが、ソフトボールのエースで4番を張っていた男勝りの姉御肌。彼女と彼女の教え子らが遭遇する5つの事件を扱った連作短編集。
「しのぶセンセの推理」はいきなり教え子の1人の父親が殺されるというショッキングな事件。 「しのぶセンセと家なき子」からシリーズのサブキャラクター田中鉄平が物語に大いに絡んでくる。 「しのぶセンセのお見合い」は新藤刑事の恋のライバル本間の登場する話。 「しのぶセンセのクリスマス」は本シリーズの中で一番奇抜な状況を扱っている。 そして最後の「しのぶセンセを仰げば尊し」は本作の掉尾を飾るに相応しいハートウォーミングストーリー。 大阪弁が軽快に飛び交うライトミステリ。しかし、小学校教師を主人公に扱っているが殺人事件の中には結構深刻な真相もあるので、子供が読むには高校生以上になってから読むのがいいかも。 しかし、十分大人である私にとっては逆に人間関係の陰惨さよりもノスタルジーを誘う事が多かった。 まず最初の1篇は真相に感心した。なかなか小説では思いつかない真相だと思う。 次の「~家なき子」はクラスに1人はいたゲームの達人というのが琴線に響いた。これもいたよ、やたらとゲームの巧い奴。私の時はファミコンも全盛だったが、ゲームの達人はゲーセンに一日中入り浸っていたんだけどね。 シリーズの折り返し地点の短編「~お見合い」で本間を登場させてシリーズにカンフル剤を打ち込む。逆に云えば、この短編からシリーズに彩りが出てきたように思う。しのぶセンセも恋相手が2人になり、魅力が行間から見えてきたように感じた。 そして個人的なベスト「~クリスマス」は殺人事件と思われる事件の凶器がケーキの中から現れるという謎が非常に魅力的。一見、その奇抜さのみ先行した設定かと思いきや、最後には鮮やかに凶器をケーキに隠した理由を解き明かしてみせる。 最後の「~仰げば尊し」は事件そのものよりもやはりシリーズの幕引きを飾るお話としての感慨が深い。もちろん布団干し中の墜落の真相は逆説めいていて面白いが。 ふと思ったのだがこれはもしかしたら北村薫氏に先行して所謂「日常の謎」系ミステリに成り得た作品集ではなかったということ。ファミコンゲームのひったくりやベランダからの落下の事件は正にそう。 基本的に「日常の謎」系ミステリは人が死ななくて、日常に潜む些細な謎、違和感に隠された意外な真相・思いがけなかった悪意を導き出すのだから、常に殺人が絡む本作品集ではそこが条件的に成り立っていない。そこが非常に惜しい。 そしてシリーズ全体を通してみると、作者が定石に乗っ取って各短編を紡いだ事が解る。 まずは主人公の紹介。次の短編でシリーズ全体を通して出てくるサブキャラクターの紹介。中盤において恋のライバルの登場。最後に締めの1編。正に淀みがない。 そしてこの頃から作者が色んなジャンルへ挑戦しているのが窺える。 デビュー作以降、主に学生時代を舞台に青春ミステリを書いてきた作者だったが、前作『ウィンクで乾杯』ではパーティ・コンパニオンを主人公にしたトレンディ・ドラマ(古いなぁ・・・)風ミステリに、本作では学校の図書館においてある『ズッコケ少年探偵団』シリーズのようなジュヴナイル・ディテクティヴ・ストーリーに挑戦している。そしてそれらにおいてもきちんと水準を保っているのがやはりすごい。 最後の短編で一応のお別れを告げたしのぶセンセ。しかしこのシリーズ、もう1作あるので、この後、どのような展開をするのか楽しみだ。 しかし、前にも述べたが、ホントこの作者、タイトルに対して頓着しない。『浪花少年探偵団』といっても活躍する少年はせいぜい2人である。題名よりも中身で勝負という事か。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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HM卿最後の長編。カー自身も最後の長編だと意識していたのか、本作には過去の作品に出て来た人物達が見え隠れする。
依頼人のヴァージニアの友人には『青ひげの花嫁』に出て来た弁護士が出てくるし、HM卿の執事は『青銅ランプの呪い』で出て来た当事者であるヘレン・ローリングに仕えていたベンスンだったりする。そして最後でありながら、実に微妙な謎を扱っており、非常に興味深かった。なんせ密室状態の中で盃の位置がなぜかずれており、なぜ犯人はこの盃を盗まなかったのかというのがテーマだからだ。 そしてその真相は正に本格ど真ん中。手品のようなミスリードを披露してくれる。が、本作のもう1つの魅力である密室の謎は正直がっかり。 そしてもはや恒例となっているHM卿の奇矯な振る舞いは本作においても踏襲されており、なんと今回は教会の夕べの集いにて歌声を披露するためにイタリア人の教師に師事しての歌の稽古中なのだ。そして『仮面荘の怪事件』や『赤い鎧戸のかげで』などでも見られたように、この奇抜な演出が事件の解決に一役買っているのだから畏れ入る。最後の最後まで生粋のエンターテイナーぶりを見せてくれる。 そして本作においてカーは登場人物の口を借りてミステリ論を開陳する。曰く、 (探偵小説は)手のこんだ、洗練された問題を提起して、読者にも謎ときの機会を公平に与えてくれるものでないと(いけない)。 さらに曰く、 問題は謎(中略)。謎が単純だったり、簡単だったり、謎でもなんでもないときは読む気がし(ない)。 まさしくこれこそカーが未来の本格ミステリ書きに託したメッセージではないか!それは2007年の今、まだ連綿と受け継がれている。カーの精神は確かに受け継がれたのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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物語は当初黒子が語る東亰に巣食う魑魅魍魎たちの起こす怪奇な事件をあまねく語り上げ、やがてそれらの怪事件を新聞記者の平河新太郎が香具師の万造と共に解き明かす構成を取っている。従って最初に見られた歌舞伎調の語りは次第になりを潜め、普通の文体へと変りゆく。
この歌舞伎調の語りが読み始めは小気味よく、江戸怪談の趣きに溢れており、かなりの力作だなぁと感嘆していたが、読み進むうちに通常の文体に移行するにつれてどうもしっくり来なく感じた。 というのもこの作者があえて明治時代の「東京」を語るのではなく、現在の歴史とは違ったパラレルワールドである「東亰」を設定したのには、これら魑魅魍魎の跋扈する異世界を描きたかったのが狙いだったと思ったからだが、にもかかわらず、出てくる人物名に板垣退助だの井伊直弼だの中江兆民だの歴史上の人物が、此の世界において成した同じ事件の数々の当事者として出てくるからだ。 おまけにそれら怪異の事象は全て人間のなせる業であるという、云わば怪奇小説に見せかけた推理小説だという物語の流れに半ば裏切りにも似た感情を抱いてしまった。 しかし、そこはこの作者。やっぱり解っていた。 ここに来てようやく作者の狙いが判明する。 明治維新後、文明開化の名の下、西洋化が蔓延り、街には瓦斯灯が点りだす日本にかろうじて残っている闇。しかし文明化の足音はこれら闇を排除し、神仏やまじないなどといった実体のない物までも排除する風潮が流れる。こういう伝承こそこと大事なのだと、そしてまだ魑魅魍魎がいても可笑しくない闇の残る明治時代の「東亰」をあえて舞台にした作者の世界観はやがて同年に発表された『姑獲鳥の夏』の京極夏彦に引き継がれることで一つのジャンルとして結実する。 作品自体はやはりまだ完成されていない原石のような肌触りが残るものの、その後、京極夏彦が起こした妖怪小説の大きな流れを思うと、後世に残した功績は大きい。エポックメイキングな作品として残るべき作品だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2時間サスペンスドラマ用といってもいい軽めのミステリ。読んでいて映像が眼に浮かぶし、実際に一度映像化されているようだ。
一介のコンパニオン・ガール香子が事件を調べる事を可能するにするために彼女のアパートの隣りに軽いノリの若い刑事芝田を引越しさせるという設定もご都合的だが、まあ良しとしよう。 たった300ページ足らずの本書だが、そんな中にでも密室殺人事件が取り上げられている。初期の東野作品は本当に密室物が多い。恐らく素人時代に色々なトリックを案出してストックしていたのではないだろうか。 今回はドアチェーンを使った密室トリックである。このトリックはギリギリ解明シーン前に答えが閃いた。しかし、犯行に至るプロセスはパズルのようなロジックで、しかも第2、第3の真相を用意しているのだから畏れ入る。そして主人公香子とちょっと間が抜けていつつも鋭い閃きを発揮する若き刑事芝田、そして理想の独身男性像を受け持つ高見などなど、キャラクターにも特色があり、単純な推理小説以上の面白みもある。こういった小品にも手を抜かないその姿勢には感心した。 しかし毎回思うが東野のタイトルのセンスにはちょっと疑問が残る。『放課後』、『卒業』、『秘密』、『片思い』など素っ気無い物、『ある閉ざされた山荘で』、『容疑者Xの献身』、『使命と魂のリミット』などすわりの悪い物など数あり、今回も『ウィンクで乾杯』と正にキオスクノベルスど真ん中だなあ。 しかもこれは改題されたもので原題は『香子の夢』なんだからあまりに素っ気無い。 今はネームヴァリューで売れるからいいものの、この頃はまだまだ新人で早く売れたかったろうに意外と淡白だ。それがこの作者らしさなのかもしれないが。 |
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