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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 761~780 39/71ページ

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No.658:
(7pt)

色んな要素は詰まっているのだが…

松濤禎という男の波乱万丈人生劇場とでもいおうか。とにかく色んな要素が詰まった作品である。
上越国境での鉱山採掘現場からストーリーは端を発し、酷寒の信州の山中での逃亡行。信州の寒村で鍬形とともに逃げ出した妾のサトの家に辿り着き、そこから北海道の小樽へ移り、そして一路ロシアのウラジオストクへ渡る。しかしそこでも探し求める人物には逢えず、国境警備隊の一員となり、朝鮮独立運動に加担する反乱軍の討伐を頼まれ、やがてソ連内で勃発する複数の民族間闘争の荒波に否応無く飲み込まれていく。

また敵役も移ろいゆく。飯場頭の河西重蔵を皮切りに、特攻くずれの野槌の田岡、軍隊時代の知り合い、清浦謙治、そして敵か味方かも解らぬ国境警備隊の氷川。更には俘虜の1人で松濤に憎悪の視線を向ける同行者辻川。ロシアの中国人組織を牛耳る男、郭大人。
そして松濤の捜索の支援をする人物も移ろいゆく。サトの実家で知り合い、道連れとなった小田切千佳、小樽の町で知り合った香坂蘭子と名乗る中国系の武器密輸行商人、そして「少尉」と呼ばれる千佳の面影を湛えた男。中国人組織に敵対するロシア警察の副署長カマロフと切れ者の部下ゼレージン。そして氷川に協力するブリヤート兵の長テンゲル。

明日の敵が今日の味方―正確には松濤を利用する側なのだが―、昨日の味方が狙うべき標的に目まぐるしく変わる。密かに慕う綾乃の、鍬形を捜してほしいというたった一人の願いで、松濤はソ連を取り巻く抗争の荒波に翻弄される。しかし、そんな松濤の行動原理は鍬形の捜索というかつて愛した女性綾乃の依頼よりも途中で出逢った小田桐千佳の存在によるところが大きい。
『君の名は』の如く、逢いたくてもなかなか逢えない2人。そんな2人が困難の末、ようやく逢えたというカタルシスを得られるシーンが少ないのが物足りない。ストイックな松濤がかなり年下の千佳に遠慮して自分の愛情を表に出さず、内心忸怩たる思いをしているのもこの長丁場を持たせるには結構きつい物があった。

上中下巻合わせて総ページ1,500弱の大作。上に述べたように主人公松濤の運命も起伏に富んでいるが、なぜか読後のコクが薄いように感じた。
それは物語の舞台が上越から小樽、そしてソ連国内の各所と次々に移るにしても、全てそれらは極寒の地。つまりそれぞれの追跡行が極寒の山中のシーンばかりなのだ。つまりこれこそが谷氏の得意とする分野なのだが、こう何度も続くと単調さは拭いきれない。発端→極寒の山中→新たな出逢い→極寒の渡海→捜索→極寒の中でのドライブ→極寒の山中での逃走・・・と終始こういった具合だ。

これほどの大作となるとやはりもっと色んなジャンルがミックスされた展開を期待してしまう。いや確かに山岳小説、エスピオナージュ、歴史小説といった側面を備えてはいる。が、上に述べたように本作は似たようなシーンの繰り返しで冗長な感じを受けてしまった。表現も今までの山岳小説に見られたものが使い回されていたのも気になった。

さらに先に述べたが、松濤と千佳との2人のシーンが松濤の内面描写だけで、2人の意思が通じ合うシーンが表立って出てこなかったのもやはり大きい。
私はロマンス小説は読まないが、やはりここまで松濤の一途な思いを描けばそういうシーンを求めるのが普通だろう。作者の照れ故か解らないが、プロローグにあれだけロマンティックなシーンを用意したならば、それに応えるエンディングも必要なのではないか。そうする事で題名の意味も補強されるだろうし。
しかし同じようなシーンが続くとはいえ、これだけ展開の目まぐるしい小説は韓流ドラマのような趣きを感じた。案外テレビでドラマ化すれば受けるかもしれない。

紫苑の絆〈上〉 (幻冬舎文庫)
谷甲州紫苑の絆 についてのレビュー
No.657:
(4pt)

余りに淡白なドキュメンタリー

数々の山岳小説を物してきた谷氏が今回取り組んだテーマは戦前の立教大学山岳部を扱ったドキュメンタリー小説。日本人で初めてヒマラヤ登頂を成功したチームの物語である。
これは当時TVで流行っていた『プロジェクトX』を髣髴とさせる内容だ。しかし決定的に違うのはこれは小説であるという事だ。したがってあのTVの手法をそのまま小説に持ち込めばなんとも味気ないものになる。そしてこの作品はそれをやってしまって、全体的に淡白な印象を受けるのだ。

事実を扱ったドキュメンタリーであっても、小説家のフィルターを通れば自然、物語に熱を帯びてくるものだが、本作においてはそれが見られない。
立教大学山岳部の成り立ちと初のヒマラヤ登攀挑戦に向けての数々の苦難、ようやくヒマラヤに着いてからの未知の世界・習慣に対する戸惑い、そしてやはり世界の屋根ヒマラヤが持つ、他の山々の追随を許さない過酷な環境。これら一通りの事は語られるのだが、非常に淡々としており、苦労が真に迫ってこないのだ。

物語を面白く材料は多々ある。やはり立教大学山岳部の個性豊かな面々、特に本作の主人公ともいえる最年少登頂者浜野の親友であった「雷鳥」こと中島雷二のエピソード、そして部外者ながらもヒマラヤ登攀グループの一員に加わる事になった毎日新聞社の竹節記者、金持ちの出の奥平。彼らがヒマラヤ登攀の選抜隊に加わるか否かのやり取りなど、もっと色濃く描写できたはずである。
しかしこれが素っ気無い。例えば、竹節の参加を巡っての諍いとか、財政面でどうしても参加できなかったメンバーが「いっそ子供と女房と別れてまでも参加しようと思った」とか「参加できるお前が正直憎い」といった人間の内面をむき出しにするドラマがここにはない。みな紳士で、優しく、お行儀がいいのだ。つまり読者の心にあまり振幅をもたらさない。これが物語としての熱がないという意味だ。

そして通り一辺倒に立教大学山岳部が発足からヒマラヤ登攀に至るまでのストーリーを語るがために、全てが平板に語られている印象があり、物語の焦点が見えない。谷氏がこの物語でどこに重きを置いたのかが解らないのだ。
冒頭のプロローグではヒマラヤ登攀シーンで失敗をするところが描かれている。ここからもこの物語の焦点はヒマラヤ登攀シーンなのだろう。しかしこれが今までの谷氏の山岳冒険小説とどう違うのかが解らなかった。むしろ作り物である諸作品の方が、もっと人間の限界ギリギリの苦闘を描いていたように思える。ドキュメンタリーだから嘘は書けないだろうが、資料のない部分は作者の想像力で補っていいはずである。そこに本作の詰めの甘さがあるように思う。

もしこの作品が谷氏の山岳小説の第1作であったならば、立教大学山岳部の成り立ちからヒマラヤ登攀までの一連の出来事を綴ったこの内容で十分満足できただろう。
しかし、既に何作か山岳冒険小説を出している作者が今頃になってこういう作品を著すのならば、そこにはやはり物語作家としての+αを求めるのが読者の性だし、それに応えるのが作者の力量であろう。
きつい苦言になるが、遅きに失した作品、もしくは内容不十分の作品と云わざるを得ない。

遠き雪嶺(上) (角川文庫)
谷甲州遠き雪嶺 についてのレビュー
No.656:
(10pt)

受け継がれるチャンドラーの魂

デビュー作にしてこのクオリティ。この原尞氏はまさにチャンドラーの正統なる後継者だ。
物語の導入部にある大富豪更科の邸への訪問は正にチャンドラーのマーロウシリーズ第1長編の『大いなる眠り』へのオマージュそのものだ。そして冒頭と終盤に現れるあの男は『長いお別れ』のテリー・レノックスだろう。こういう舞台設定からして、チャンドラーを愛する者としては(自分のことをチャンドラリアンとまで評するほど、私はまだ判っていない)胸がくすぐられる思いがする。

さらに加えてプロットにはロスマク的家庭の悲劇も加味されている。権力に溺れゆく人々の狂った歯車がぎしぎしと音を立てて、沢崎によって一つ一つ解体されていく。
そして登場人物たち。悪友ともいうべき新宿署の錦織、「カイフ」とだけ名乗って去っていった男、渦中の更科一家はもとより、中盤以降事件の焦点となる都知事の向坂、その弟で俳優の向坂晃司。特に向坂知事はその描写からして元都知事の石原慎太郎氏をモデルにしているとしか思えない。この作品当時、まだ新宿都庁は出来ておらず、当然の如く都知事も違う。まるで原氏はこうなる事を予見していたかのようだ。

しかし正直に云えば、双子の兄弟でありながらある事情で苗字が違う仰木弁護士、失踪した佐伯を密かに慕う辰巳玲子、失踪した男の世話をしていた海部雅美などの登場頻度の少ない脇役の方が妙に印象に残った。
とどめはかつての沢崎のパートナーだった渡辺。手紙のみの登場をしなかった彼が今後シリーズにどのように関わってくるか、興味深い。

しかし何と云っても圧倒的存在感を放つのが主人公である探偵沢崎だ。その他者の侵入を容易に許さぬ姿勢、上下関係や権力者特有の主従関係など全く意に介さず、どんな相手にも自分の態度を崩さず対面する男。背伸びせず、粋がりもせず、かといって卑屈にもならない。読者の眼の前にいつの間にかあるイメージが上がっていく。
しかし、気付いたであろうか?文中、沢崎の人と成りを表した描写など一切ないことを。原は沢崎の台詞と仕草、動きだけで読者にそれぞれの沢崎像を作らせているのだ。この筆致の凄さは並々ならぬものがある。

さらに文章。チャンドラーの正統なる後継者と先に述べたが、その文章はチャンドラーの諸作に見られるような大仰な比喩が頻出するわけでもなく、きざったらしい台詞が出てくるわけでもなく、派手派手しいわけではない。しかし、この本にはノートに書き写しておきたい美文に溢れている。真似したい減らず口がある。
かつてチャンドラーを読んでいた時に駆られた、「私もこんな文章で物語が書きたい」と思わせる雰囲気がある。日常特に感慨もなく見ている風景が語る人によってこれほど印象深く描写されるのか、そう気づかされる事しばしばだった。

そしてやはり古典は読むべきである。名作ならば尚更だ。この沢崎シリーズを十二分に楽しむためにもやはりチャンドラーの諸作、少なくとも全ての長編には当たるべきだろう。そしてそうした私は正解だったと今更ながらに気付かされた。
今夜の酒はきっと美味いに違いない。

そして夜は甦る (ハヤカワ文庫 JA (501))
原尞そして夜は甦る についてのレビュー
No.655:
(4pt)

フリーマントルのこの上ない冷徹さ

・・・読後、しばらく声がでなかった。
最近読んだ本の中では、最も後味の悪い結末だ。
何を語りたくてあのような結末にしたのか、全く以ってフリーマントルの意図が理解できない。この作品を著した当時、家族間に何か問題があったのか、そう勘ぐってしまうほどの結末だ。

もともとフリーマントル作品の特徴に、最後に皮肉な結末が必ずといっていいほど用意されていることが挙げられる。特にチャーリー・マフィンシリーズでは、時にそれは行き過ぎでは、と思ってしまうほどの悲惨な結末もあるが、それはやはり主人公であるチャーリーが色々な難関を乗越えた末の相手に行った仕返しといった一種の痛快感が伴っているから、許容できたわけなのだが、今回はそれがない。もう本当に救いがない。
主人公オファレルだけではなく、敵役であったリベラの遺族に対しては輪を掛けて悲惨な幕引きが用意されている。これは作者が民主主義と社会主義の暮らしの違いを最後に提示した一種の叙述に過ぎないのかもしれないが、特に子を持つ親の立場である今では、とても正視に耐えない結末だ。

そして、主人公であるオファレル。
当初題名から連想していたのは映画『レオン』のレオンの如く、日々の日課を欠かさず、1つのフォーミュラのように固持して生活する内省的な暗殺者を思い浮かべていたが、さにあらず、家族みんなに頼りにされる模範的な父親・夫という人物だったのが意外だった。

そしてこのオファレルという男は表面上は、動揺を見せないが―それは工作員として訓練を受けているからだが―実は、不惑の年は既に過ぎているのに大いに惑うのである。
オファレルが46歳という暗殺工作員としては高齢とも云える年齢に差し掛かってなお、まだ現役でやれると不安を押し殺して信じていたのは、かつて保安官だった曾祖父の存在があるからだ。
自分と同じ年に見える写真の曾祖父の自信に満ちた姿は自分もかくありたい、自分も負けてはいられないと奮い立たせる精神的基盤になっている。そしてその曾祖父の存在は自分の仕事である暗殺という行為を正当化する象徴でもあるのだ。
オファレルは「暗殺は人命を救う」という己の教義に従って自分の仕事に誇りを持ってきた。それは法の網の目をかいくぐってのうのうと暮らす悪人、巨大な権力を行使して私腹を肥やす悪人たちを制裁するのに暗殺こそが有効な手立てだと信じてきた。
そしてその信義を支える存在としてこの曾祖父の存在がある。自分のしてきたことに間違いはないのか?時折いいようのない恐れに涙を流したくなる時にこの曾祖父の姿を思い浮かべ、保安官は決して泣かないと呟き、夜を過ごす。

そしてまた彼には、両親が無理心中して亡くなったという暗い過去がある。ラトヴィア人である母がソ連兵士にレイプされ亡くなった事が原因で、鬱病を患っていた母。朝鮮戦争に出兵し、勲章を受けながらも片腕を失った父。そしてやがて母はある夜、父を撃ち殺し、自分も自殺する。
このオファレルという暖かな家庭を持ち、規律正しい生活を信条とし、なおかつ潔癖とまで云える正義感を備えた暗殺者というこの設定がこの作品に厚みを持たせている。通常の小説で語られる精密機械のような感情の持たない暗殺者、人殺しに無上の喜びを感じる歪んだ性格の持ち主ではなく、このような生真面目な人物を設定したところにフリーマントルのアイデアの冴えを感じる。

その他にも、ハッと気付かされることはあった。
例えば麻薬の運び屋でベトナム戦争経験者であるチンピラ風のパイロットが主張するベトナム戦争で得た彼の人生哲学の話。この話がオファレルの仕事に対する信条に揺るぎをもたらした一因といっても間違いではないだろう。
正義のために戦いに行って、知りえた事は自分の利益を如何に守るかだ。帰還兵に対して何の恩恵も与えなかった政府への憤り。何のために戦っているかも解らなくなる極限状態の中で開眼した彼の唯一の真実。それは自らの正義に基づいて暗殺を行ってきたオファレルにとって自分の信義よりも現実味のある内容だったに違いない。そしてイギリス人であるフリーマントルがこういう意見を登場人物の口から云わせることからも、他国から見てあの戦争が如何に無意味であったのかを知らされるシーンだと思った。

そして、ビリーの台詞。知らず知らずに麻薬の運び屋として利用されていた孫のビリー―後に知らず知らずではなく、薬の売人から脅迫を受けて已む無く手伝わされた事を白状するが―が、不正な仕事で得た金の使い道を泣きながらオファレルに語るシーン。
こういうシーンに私は弱い。自分の子供がダブってしまう。ずっと新しい物が買えなかったママにプレゼントするために使わずに貯めていた、こういう話に弱いのである。

しかし、これら小説的技巧の巧さがあっても、あの結末でかなりのマイナスは否めない。どう考えても受け入れがたいのだ。この本、面白いから読んで、とは絶対薦められない1冊だ。
結局、暗殺は不毛だというメッセージなのかもしれないが、この本の結末自体があまりに不毛すぎる。

暗殺者オファレルの原則 (新潮文庫)
No.654: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

本格ミステリの巨人の豪腕ぶりが思う存分!

前作『龍臥亭事件』に引き続き、業の深さが主題になっている。
閉鎖された村社会に伝わる因習。妄信のように今に伝わる差別。主従関係の厳格さから生じる男と女の色の縺れ。

そして御手洗シリーズの定番となっている物語を彩る逸話ともいうべきエピソードが今回も添えられており、それこそが森孝伝説、そして森孝魔王といった話だ。
森孝伝説は島田氏が常々テーマに挙げている日本の歪な上下関係・主従関係を扱った悲しい物語。さらに挿入される森孝魔王の物語も悪徳代官が百姓をいたぶる話だ。
森孝伝説の内容を受け、死体に森孝の霊が乗り移り、甲冑を身に纏い、代官に処刑を下すといった内容だ。虐げられた弱者を救済するために、人智を超えた存在が現れ、惨殺する。
同様の挿話は『魔神の遊戯』にも見られたが、この弱者救済の話はデビュー以来、島田氏が一貫して扱ってきたテーマだ。

そして本作ではこの森孝に纏わる話に加え、他に第二次大戦中の日本軍が秘密裏に行った人体実験の話などの戦時日本の暗部、そして獣憑き、獣子といった村社会独特の妄信による人種差別についても述べられている。
特に気のいいお手伝いとして登場した斉藤櫂が、その過去には小さい頃に獣憑きの疑いがあって里子に出された、先祖が首切り役人で呪われた家系だった、引き取られた両親と反りが合わず、子供を置いて夫と共に逃げた、といった業の深い人生を歩んできたことに驚いた。最後の方で明かされるこの女性の凄まじいまでの虐待の日々は、本作のもう1つのテーマだろう。
この櫂の人生を通して語られる、村人の、その村に強く根付いた独特の道徳観に基づく嫁婿夫婦への躾なども、深く考えさせられる重い内容だ。

物語はこの他にも日本の鎧に関する薀蓄、からくり人形の歴史と江戸との係わり合いなど、興味深いエピソードが物語を彩る。
とは云え、前作に比べると比較的内容は明るいようだ。犬坊家は特に前作に見られた一家の業の深さなどは微塵も描かれず、犬坊里美の若者特有の軽さや寺の住職日照、神社の神主二子山などの漫才の掛け合いのような方言交じりの会話などで重苦しい雰囲気を淡くしている。
事件自体は非常に陰惨なのだが、特にこの日照と二子山の語り口の面白さがそれを軽減している。
そして石岡も以前に見られた情けなさから幾分復調して、女々しさが消えている(それでも好きな女性に振られて、ストーカーになるのかと自問した時に、自分にはそんな事やる元気がないと云ったのには苦笑したが)。

また加納通子が娘を歌手にしてステージママになりたがっているなんていう意外なエピソードも面白い。
そのほか、里美が語る日本の司法試験とその採用制度の話も面白かった。裁判官が司法試験の成績上位者しかなれないなんて初めて知った。

しかし、本作の目玉と云えば、やはり島田荘司氏2大シリーズの主役、御手洗と吉敷のコラボレーションだ。
この趣向は両シリーズを読み通して来た者にとって、なんとも感慨深い、心憎い演出である。『涙流れるまま』以降、吉敷と通子のその後をこんな形で知らせてくれるとは思わなかった。これこそ一級のファンサービスだろう。

そして吉敷は事件の1つを解決して去っていく。それも石岡から御手洗の残したヒントを聞いて。
両者のファンの中にはこのコラボレーションに物足りなさを感じる者もいるだろう。しかし、私はもうこれだけで十分だ。強烈な個性の2人が一所に集まるよりも、石岡という緩衝材を間に介する必要があった方がいいと感じた。

そしてこの2人と石岡が挑む事件、これも豪腕島田氏の健在振りを強くアピールするものだ。
地震で起きた地割れで厚いコンクリートの下から出て来た死体。2つのバラバラ死体を合わせ、甲冑を着せた死体が甦り、悪を討つ。そして最後には100年前に行方不明となった森孝が現れる。
今回はもうほとんど論理的解決は不可能だと思っていた。実際、日照とナバやんの2つの死体を合わせて甦った森孝魔王の真相は石岡も解明できず、手記にて真相が暴かれる。

で、これら3つの大きな謎の真相だが、大いに偶然が重なっているなあとの印象が強い。『暗闇坂の人喰いの木』、『疾走する死者』、『北の夕鶴2/3の殺人』らに共通する豪腕ぶりだ。実に島田氏らしくて呆れるというより微笑ましく思った。まだこういう物を堂々と書く、その若さが嬉しく思った。
そう、そしてこの死体を繋ぎ合わせて1つの魔王を甦らせるというのは奇しくもデビュー作である『占星術殺人事件』のモチーフとなったアゾートを連想させる。これは御手洗と吉敷を一同に会するために敢えて原点に戻ったということなのだろうか?

これら謎の真相については首肯せざるを得ないが、やはり島田氏の物語の力は素晴らしいと思った。どんどんその世界に引き吊り込まれていく。そして必ず胸に去来するものがある。こういうのを読むと推理小説は驚愕のトリックも大切だが、やはり物語があってのものだと実感する。
推理小説界の巨人とも云うべき存在においてその精神を失わない島田氏。いやだからこそ巨人とも云うべき存在なのか。
もう一生ついていくぞ!


▼以下、ネタバレ感想
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龍臥亭幻想(上) (光文社文庫)
島田荘司龍臥亭幻想 についてのレビュー
No.653: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

カタカナ表記の題名はちょっと…

村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』の好評を受けて、早川書房がチャンドラーの全短編集を改訳し、発表順に編纂した独自の短編集第1弾。
創元推理文庫の短編集も併せてチャンドラーの作品は全て読破したと思っていたが、いやいやまだまだ未読の作品があったのだ。こういう作品が入っていないとこういう企画物には手を出さない私。逆に云えば、未読作品があるということで本の虫が騒いでしまった。
それでその未読作品というのが2作目の「スマートアレック・キル」と6作目の「スペインの血」だ。

「スマートアレック・キル」はダルマスという名の探偵が主人公。脅迫を受けているという映画監督の依頼から麻薬の密売と酒の密輸に関するいざこざに巻き込まれるという話。
2作目にして、流れに任せるような形でどんどん物語は進んでいき、これまたどんどん一癖も二癖もある男女が出てくるが、プロットはしっかりしており、明かされる真相は納得がいくし、かなり練られた物だなと思う。禁酒法なんか出て来た日にはもろハードボイルドだなと思った。なお題名の意味は「利口ぶった殺人」。依頼人デレクの自殺を装った偽装殺人を指している。

「スペインの血」はチャンドラーでは珍しく警官が主人公の話。とはいってもやはりチャンドラー、描く警官像が違う。サム・デラグエラという純粋スペイン人を主人公にし、周囲の差別に屈することなく、殺された友人の事件の担当を外されながらも自らの主義に従って捜査を進める。
このデラグエラの造形がいい。スペイン人であることに誇りを持ちながらも組織の中で疎外感を感じている。しかしその事は決して表面に出さない。一人の時には弱さも見せる。人に好かれたいと思っており、女性の罵倒にめげる女々しさもあるが、自らの矜持は絶対に捨てたくない。そして仕事は決して諦めない。しかし正義を盲目的に振りかざすでもなく、他者との折り合いも付ける。自分の目的・利益を損なわない限りでは。
チャンドラーがもし警察物を続けて書いたとしたら、このデラグエラを主人公に添えただろう。それもまた読んでみたかった。叶わぬことではあるが。

残りの4作は再読物。
1作目「ゆすり屋は撃たない」は探偵マロリーが主人公。女優が若かりし頃に書いた手紙がスキャンダルのネタになるとの事でそれを取り戻すよう依頼されたマロリーがその女優が誘拐されると同時に自らもまた悪徳警官に連れられてしまう。

「フィンガー・マン」でようやく我らがフィリップ・マーロウの登場である。市の有力者であるマニー・ティネンがシャノン殺しに関わっていたとされる証言を大陪審にしたかどで、マーロウはティネンの友人であるこの街の影のボス的存在フランク・ドーアに狙われる羽目に。しかし、そんな中、友人のルー・バーガーからボディガードの依頼をされる。カナレスのカジノでぼろ儲けをする手があり、ついては帰りの護衛をしてほしいとの以来を渋々引き受けたフィリップだったが、カジノの帰りに暴漢に遭い、そしてルーが殺されてしまうという最悪の結果を招く。しかしそれはフィリップに冤罪を着せるためにドーアが仕組んだ罠だった。

「キラー・イン・ザ・レイン」の主人公には名がない。単なる「わたし」という名の探偵だ。本作は『大いなる眠り』の原形とされる作品。
トニー・ドラヴェックなる大男から娘カーメンをスタイナーという男から取り戻してほしいという依頼を受ける。スタイナーはポルノ関係の本やフィルムの貸し出しをやっている男だった。わたしがスタイナーの家を訪れた矢先に家中より銃声が響き、スタイナーが死体となって横たわっており、全裸の女がカメラを前にして椅子に掛けていたが、薬中で意識が朦朧としていた。その女カーメンをドラヴェックの家まで届けた私だったが、カメラからカーメンが映っている乾板を回収する事を忘れた事に気付き、再びスタイナー邸を訪れるが、死体は既になく、しかも乾板も無くなっていた。

そして「ネヴァダ・ガス」。ヒューゴ・キャンドレスは自分の車を偽装した毒ガス車に乗り込み、殺されてしまう。それが全ての始まりだった。たれ込み屋のジョニー・デルーズはモップス・パリシを警察に売ったことで命を狙われる事を恐れ、街を離れようとするが、悪漢に連れられてしまう。そしてあの毒ガス車に乗せられてしまうのだった。しかし、咄嗟の機転で難を逃れたデルーズは自分を襲った相手に報復するため、再び街に舞い戻る。
再読してやはり面白いと感じたのはこの「ネヴァダ・ガス」だ。他の短編に比べ、いきなり毒ガス車で人が処刑されるシーンという読者を惹きつける場面から幕が開けるのがまず印象深い。この導入部はハリウッド・ムービーを想起させる。この時既にチャンドラーはハリウッドの脚本家として働いていたのだろう。

そして全ての短編に共通するのはその流れるようなストーリー展開でどのような着地に落ち着くのか全く先が読めないことだ。
正直、1作目の「ゆすり屋は撃たない」は十分に理解できていないほどの複雑さ、というよりもチャンドラー自身も流れに任せて書いているようで、プロット的には破綻しているように思われた。
しかしそれ以外は、最後はきちんと収まり、読後なかなか練られたストーリーだと感心する。その流れるようなストーリー展開から非常に粗筋を纏めるのが難しい作者なのだと気付く。しかしそれでいて読みながら物語と設定が説明なしにするすると入ってくるのだから、やはりチャンドラー、巧い、巧すぎる。

そしてこれらの短編に出てくる探偵マロリー始め、ダルマス、そして「キラー・イン・ザ・レイン」のわたしもまたマーロウの原形だろう。しかし、やはりマーロウ登場の「フィンガー・マン」を読むとやはりマロリーもダルマスもマーロウの原形とは云いながらも、やはりマーロウは彼らとは一線を画した存在だと云わざるを得ない。
自身が命を襲われる事態でありながらも友人の頼みとあらば堂々と世間に身を晒すし、女の涙には騙されない。権力者にも屈しない、苦境に陥っても(表面上は)動じず、脅迫されても主義は曲げない。警察にも一目置かれている(後の作品では警察からも睨まれる存在になるが)。

そして今作におけるフィリップ・マーロウは「マーロウ」ではなく「フィリップ」の方だ。そう、若いフィリップ・マーロウだ。銃撃戦にも身を投じ、不利な状況も機転と行動力で自ら脱する。これこそフィリップだ。
また表題作にはその後のマーロウの名作の萌芽が見られた。プロットは『大いなる眠り』だが、大男ドラヴェックは『さらば愛しき女よ』の大鹿マロイの原形だろう。全ての長編を読んだ今、こうやって改めて彼の短編を最初から振り返るのはチャンドラーの原点を知る意味では最良なのかもしれない。

そして今回、もっとも痛感したのが、チャンドラーが小説で描きたかったのがプロットではなく、ストーリーだったのだという事だ。彼はロスという街のもう一つの貌を描きたかったのだ。強請りやたかりで生計を立てる卑しき男どもの姿を。そんな男たちがやることなのだから筋が通っていなくて当たり前なのだ。なぜなら彼は彼らの矜持に従って生きている。彼らの主義を貫く事で生きているからだ。そして誰しもが他を出し抜こうと虎視眈々とチャンスを窺っているのだ。だからストーリー展開が先が読めない。これを読んでその面白さが解らない人がいるならば、理解する観点が違うのだ。チャンドラーの小説は理解する小説ではなく、雰囲気を味わう小説、小説世界の空気を感じる小説なのだから。

そしてもう1つ今回発見したことがある。この短編集に収められている作品に共通するのは、主人公である探偵の依頼人は全て最後に死んでしまうという事だ。
彼らは警察にも届けられない厄介事、もしくは誰にも相手にされなかった危険な揉め事を解決する最後の駆け込み寺として探偵の許を訪れる。チャンドラーはそこに救いを与えていない。これら初期の作品群は特にそうだ。
窮境に陥った者は人に頼ってはその運命からは逃れられないのだ、自ら克服していかなければならないのだと云っているわけでもない。みんな弱いのだ、そして探偵さえも、そう述べているように思える。一か八かの最後の賭けに出た者がそうそう成功するわけではない、しかしその印象は非常なまでに切って捨てているように見えないから不思議だ。みな踠きながらも一日一日を生きているのだ、その姿を描いている。
そしてそれは決して美しくない。みな卑しき街の住人なのだから。真っ正直な人間など実は一人もいなく、警察さえもそう。それが本当の世の中なのだ。それをチャンドラーは書いた、その思いがこれらの作品に込められている。

最後に今回の題名について。今回採用されている英単語をそのままカタカナ表記して題名しているというのはやはり、というかかなり抵抗を感じた。
「スマートアレック・キル」は「利口ぶった殺人」の方が、「フィンガー・マン」は「指さす男」もしくは「密告した男」の方が、そして表題作は「雨の殺人者」の方が断然いい。今の日本語で改訳するという今回の試みは非常に好ましく、その志に大いに賛成しているのだが、なぜ題名は「今の日本語」に改訳しないのか、かなり疑問が生じる。それとも英語が珍しくなくなった今、カタカナ表記こそが「今の日本語」なのか。
私はこれに対して断然NOを唱える。だから星は1つ減点。題名も内容の一部と考えるからこそ。

キラー・イン・ザ・レイン (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-7 チャンドラー短篇全集 1)
No.652:
(7pt)

山と神との親和性

単なる山岳小説と思って読むと、面食らうような内容だった。発端の導入部は単にマックスという男の特徴を印象付けるためのエピソードだと思っていたが、作者は初めから「これは単なる山岳小説ではありませんよ」と警告を促していた事がわかる。

主人公たちの行動を左右するのは実にスピリチュアルな現象である。主人公である日本人2人、筧井宏と加藤由紀は、イギリス人の2人、ジョージとデニスの「口寄せ」をし、登攀で訪れる悲劇を回避しようとするのだ。この小説はまさにこの非現実的な設定にノレるかノレないかに懸かっているといえる。

私はどうだったかと云えば、微妙だとしかいえない。
それはこういう現象を絵空事として簡単に否定できないからだ。
私の想像の範疇を超えた話だからでもある。

他の作家の山岳小説を読んだことがないので比較にならないが、谷氏の書く山岳小説は長編・短編含めてどこか宗教色が濃いものがあるのが特徴だと思う。
今回扱っているのはシャーマニズムだが、これまでにも輪廻転生や因習、呪いなどがテーマになっている。

それはこの作者が自ら世界の山々を登る登山家であることが大いに起因しているだろう。特にヒマラヤを題材にすることの多いこの作者が、ネパールやチベットの宗教色濃い習慣、考え方、しきたりに少なからぬ影響を受けているのは間違いない。
そして前にも述べたが、彼自身、極限状態のときに神の配剤としか考えられない事象を経験したのではないだろうか?だからこういう作品を何の迷いもなく書けるのだと思う。

迫力の登山シーン(特に唾棄すべき男にあえて唾を吐かなかったのが、貴重な水分を無駄にしたくないという描写には非常にリアリティを感じた)と超自然的現象である「口寄せ」、そして予知視、もしくは幻視。現実と非現実が渾然となったこの作品。
一見アンバランスに思えるが、地球上で最も宇宙に近く、酸素の薄い場所においては何があっても不思議ではないという作者からのメッセージなのかもしれない。

ジャンキー・ジャンクション (ハヤカワ文庫 JA)
谷甲州ジャンキー・ジャンクション についてのレビュー
No.651:
(7pt)

フリーマントルは長編向き

亡命者をテーマにした5つの短編を集めたもの。
最初の2編は男と女に纏わるKGB高官の話。
「パメラの写真」はアメリカ人女性パメラと結婚するため西側への亡命を図っているKGB大佐イワン・セロフが主人公。東ベルリンからベルリンの壁を抜けて西ドイツへと亡命する計画を立てたセロフ。微に入り細を穿ったその計画はまさに完璧と思われた。そしていよいよ実行の日が来た。
続く「二重亡命」はモスクワ勤務を命ぜられてから夫婦仲がぎくしゃくしたススロフ夫婦が主人公。イギリスへ亡命したススロフの後輩の信用失墜のため、アメリカへの偽亡命を計画する。

3編目「革命家」はリビアへ国外逃亡した元日本赤軍のヤマダ・ノブオが主人公。これは上の2編とは違い、平和な国で革命家として名を轟かせたい男の野心の話。パレスチナ解放機構の一員であるアハメドという名のテロリストに接触したヤマダはイスラエル首相とエジプト大統領の暗殺を依頼される。自分の名を売るチャンスとばかりにヤマダはその話に乗るが・・・。
「スパイ教官」は先の2編とは逆にCIAからソ連へ亡命したジョー・リバーズが主人公。アメリカからロシアへ亡命したリバーズはKGBでアメリカへ派遣するスパイの養成を行っていた。しかし、リバーズは今日こそがその日と疑っていなかった。今まで待ち続けたその日が来たのだと。
最後の表題作は2編目の「二重亡命」同様、偽亡命を扱ったもの。自らが手塩に育てたブーニンがアメリカに亡命した事でノスコフは第一管理部長の座を危うくしていた。部下であるパーノフと考え出した策はかつての上司であった自分がアメリカに亡命し、微妙に事実と違った情報を流す事でブーニンの信用を失墜するというものだった。それは同時に東京へ赴任している別の工作員の亡命を牽制する役割を果たしていた。提案はすんなり通され、ノスコフはアメリカへの亡命に成功する。毎月第5の日に故国へ帰ることを夢見ながら、ノスコフは確実に任務をこなしていく。

上に述べたように、内容的に重複する物も多く、この亡命者をテーマにした場合に意外とヴァリエーションが無い事に気付かされる。亡命者が亡命する際の緊張感、どのような緻密な計画を立てるのか、果たして成功するのか否かというのが亡命物のメインとなるのだが、短編である本作においてはその辺が軽く書かれており、フリーマントル自身、短編である事を意識して最後のどんでん返しに主眼を置いて著したようだ。
自らの謀略に溺れる者、自らの野心の炎に焼き尽くされる者、国から見離された者。ここに述べられているのは彼らの姿だ。

偽亡命物が5編中3編と最も多く、特に「二重亡命」と表題作はほとんど一緒といっていい。
前者がスパイの夫婦の確執に主眼を置き、物語がいきなり閉じられるのに対し(あまりに唐突に終わるのでビックリした。結局オチは何なの?)、後者は計画の裏側に暗躍する権力争いを主眼においているのが違う。前者から派生したような物語だ。

また4編目の「スパイ教官」はチャーリー・マフィンシリーズの1編(『亡命者はモスクワをめざす』)にも同様の設定が見受けられた。どちらが卵で鶏かは不明だが。
ストーリーテラーとして名高いフリーマントルだが、短編となるとどうしても似てしまうようだ。彼お得意のどんでん返しも長編の焼き直しのような感じがして、物足りない。
この前に読んだプロファイラーシリーズの短編集『屍泥棒』の時も同様の感想を抱いた。この作者、やはり長編向きだと思う。

第五の日に帰って行った男 (新潮文庫)
No.650: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

「少年団」というほどには…

竹内しのぶ25歳独身。短大卒の大路小学校教師。丸顔の美人だが、ソフトボールのエースで4番を張っていた男勝りの姉御肌。彼女と彼女の教え子らが遭遇する5つの事件を扱った連作短編集。

「しのぶセンセの推理」はいきなり教え子の1人の父親が殺されるというショッキングな事件。
「しのぶセンセと家なき子」からシリーズのサブキャラクター田中鉄平が物語に大いに絡んでくる。
「しのぶセンセのお見合い」は新藤刑事の恋のライバル本間の登場する話。
「しのぶセンセのクリスマス」は本シリーズの中で一番奇抜な状況を扱っている。
そして最後の「しのぶセンセを仰げば尊し」は本作の掉尾を飾るに相応しいハートウォーミングストーリー。

大阪弁が軽快に飛び交うライトミステリ。しかし、小学校教師を主人公に扱っているが殺人事件の中には結構深刻な真相もあるので、子供が読むには高校生以上になってから読むのがいいかも。
しかし、十分大人である私にとっては逆に人間関係の陰惨さよりもノスタルジーを誘う事が多かった。

まず最初の1篇は真相に感心した。なかなか小説では思いつかない真相だと思う。
次の「~家なき子」はクラスに1人はいたゲームの達人というのが琴線に響いた。これもいたよ、やたらとゲームの巧い奴。私の時はファミコンも全盛だったが、ゲームの達人はゲーセンに一日中入り浸っていたんだけどね。
シリーズの折り返し地点の短編「~お見合い」で本間を登場させてシリーズにカンフル剤を打ち込む。逆に云えば、この短編からシリーズに彩りが出てきたように思う。しのぶセンセも恋相手が2人になり、魅力が行間から見えてきたように感じた。
そして個人的なベスト「~クリスマス」は殺人事件と思われる事件の凶器がケーキの中から現れるという謎が非常に魅力的。一見、その奇抜さのみ先行した設定かと思いきや、最後には鮮やかに凶器をケーキに隠した理由を解き明かしてみせる。
最後の「~仰げば尊し」は事件そのものよりもやはりシリーズの幕引きを飾るお話としての感慨が深い。もちろん布団干し中の墜落の真相は逆説めいていて面白いが。

ふと思ったのだがこれはもしかしたら北村薫氏に先行して所謂「日常の謎」系ミステリに成り得た作品集ではなかったということ。ファミコンゲームのひったくりやベランダからの落下の事件は正にそう。
基本的に「日常の謎」系ミステリは人が死ななくて、日常に潜む些細な謎、違和感に隠された意外な真相・思いがけなかった悪意を導き出すのだから、常に殺人が絡む本作品集ではそこが条件的に成り立っていない。そこが非常に惜しい。

そしてシリーズ全体を通してみると、作者が定石に乗っ取って各短編を紡いだ事が解る。
まずは主人公の紹介。次の短編でシリーズ全体を通して出てくるサブキャラクターの紹介。中盤において恋のライバルの登場。最後に締めの1編。正に淀みがない。

そしてこの頃から作者が色んなジャンルへ挑戦しているのが窺える。
デビュー作以降、主に学生時代を舞台に青春ミステリを書いてきた作者だったが、前作『ウィンクで乾杯』ではパーティ・コンパニオンを主人公にしたトレンディ・ドラマ(古いなぁ・・・)風ミステリに、本作では学校の図書館においてある『ズッコケ少年探偵団』シリーズのようなジュヴナイル・ディテクティヴ・ストーリーに挑戦している。そしてそれらにおいてもきちんと水準を保っているのがやはりすごい。

最後の短編で一応のお別れを告げたしのぶセンセ。しかしこのシリーズ、もう1作あるので、この後、どのような展開をするのか楽しみだ。
しかし、前にも述べたが、ホントこの作者、タイトルに対して頓着しない。『浪花少年探偵団』といっても活躍する少年はせいぜい2人である。題名よりも中身で勝負という事か。


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新装版 浪花少年探偵団 (講談社文庫)
東野圭吾浪花少年探偵団 についてのレビュー
No.649: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

シリーズ最終作におけるカーの未来の本格ミステリ作家へのメッセージ

HM卿最後の長編。カー自身も最後の長編だと意識していたのか、本作には過去の作品に出て来た人物達が見え隠れする。
依頼人のヴァージニアの友人には『青ひげの花嫁』に出て来た弁護士が出てくるし、HM卿の執事は『青銅ランプの呪い』で出て来た当事者であるヘレン・ローリングに仕えていたベンスンだったりする。そして最後でありながら、実に微妙な謎を扱っており、非常に興味深かった。なんせ密室状態の中で盃の位置がなぜかずれており、なぜ犯人はこの盃を盗まなかったのかというのがテーマだからだ。

そしてその真相は正に本格ど真ん中。手品のようなミスリードを披露してくれる。が、本作のもう1つの魅力である密室の謎は正直がっかり。
そしてもはや恒例となっているHM卿の奇矯な振る舞いは本作においても踏襲されており、なんと今回は教会の夕べの集いにて歌声を披露するためにイタリア人の教師に師事しての歌の稽古中なのだ。そして『仮面荘の怪事件』や『赤い鎧戸のかげで』などでも見られたように、この奇抜な演出が事件の解決に一役買っているのだから畏れ入る。最後の最後まで生粋のエンターテイナーぶりを見せてくれる。

そして本作においてカーは登場人物の口を借りてミステリ論を開陳する。曰く、

(探偵小説は)手のこんだ、洗練された問題を提起して、読者にも謎ときの機会を公平に与えてくれるものでないと(いけない)。

さらに曰く、

問題は謎(中略)。謎が単純だったり、簡単だったり、謎でもなんでもないときは読む気がし(ない)。

まさしくこれこそカーが未来の本格ミステリ書きに託したメッセージではないか!それは2007年の今、まだ連綿と受け継がれている。カーの精神は確かに受け継がれたのだ。

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騎士の盃 (ハヤカワ・ミステリ文庫 6-10)
カーター・ディクスン騎士の盃 についてのレビュー
No.648:
(7pt)

後の百鬼夜行シリーズに繋がる作品か

物語は当初黒子が語る東亰に巣食う魑魅魍魎たちの起こす怪奇な事件をあまねく語り上げ、やがてそれらの怪事件を新聞記者の平河新太郎が香具師の万造と共に解き明かす構成を取っている。従って最初に見られた歌舞伎調の語りは次第になりを潜め、普通の文体へと変りゆく。
この歌舞伎調の語りが読み始めは小気味よく、江戸怪談の趣きに溢れており、かなりの力作だなぁと感嘆していたが、読み進むうちに通常の文体に移行するにつれてどうもしっくり来なく感じた。

というのもこの作者があえて明治時代の「東京」を語るのではなく、現在の歴史とは違ったパラレルワールドである「東亰」を設定したのには、これら魑魅魍魎の跋扈する異世界を描きたかったのが狙いだったと思ったからだが、にもかかわらず、出てくる人物名に板垣退助だの井伊直弼だの中江兆民だの歴史上の人物が、此の世界において成した同じ事件の数々の当事者として出てくるからだ。
おまけにそれら怪異の事象は全て人間のなせる業であるという、云わば怪奇小説に見せかけた推理小説だという物語の流れに半ば裏切りにも似た感情を抱いてしまった。

しかし、そこはこの作者。やっぱり解っていた。
ここに来てようやく作者の狙いが判明する。

明治維新後、文明開化の名の下、西洋化が蔓延り、街には瓦斯灯が点りだす日本にかろうじて残っている闇。しかし文明化の足音はこれら闇を排除し、神仏やまじないなどといった実体のない物までも排除する風潮が流れる。こういう伝承こそこと大事なのだと、そしてまだ魑魅魍魎がいても可笑しくない闇の残る明治時代の「東亰」をあえて舞台にした作者の世界観はやがて同年に発表された『姑獲鳥の夏』の京極夏彦に引き継がれることで一つのジャンルとして結実する。
作品自体はやはりまだ完成されていない原石のような肌触りが残るものの、その後、京極夏彦が起こした妖怪小説の大きな流れを思うと、後世に残した功績は大きい。エポックメイキングな作品として残るべき作品だろう。


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東亰異聞 (新潮文庫)
小野不由美東亰異聞 についてのレビュー
No.647: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

色んな単語が時代を感じさせます。

2時間サスペンスドラマ用といってもいい軽めのミステリ。読んでいて映像が眼に浮かぶし、実際に一度映像化されているようだ。
一介のコンパニオン・ガール香子が事件を調べる事を可能するにするために彼女のアパートの隣りに軽いノリの若い刑事芝田を引越しさせるという設定もご都合的だが、まあ良しとしよう。

たった300ページ足らずの本書だが、そんな中にでも密室殺人事件が取り上げられている。初期の東野作品は本当に密室物が多い。恐らく素人時代に色々なトリックを案出してストックしていたのではないだろうか。
今回はドアチェーンを使った密室トリックである。このトリックはギリギリ解明シーン前に答えが閃いた。しかし、犯行に至るプロセスはパズルのようなロジックで、しかも第2、第3の真相を用意しているのだから畏れ入る。そして主人公香子とちょっと間が抜けていつつも鋭い閃きを発揮する若き刑事芝田、そして理想の独身男性像を受け持つ高見などなど、キャラクターにも特色があり、単純な推理小説以上の面白みもある。こういった小品にも手を抜かないその姿勢には感心した。

しかし毎回思うが東野のタイトルのセンスにはちょっと疑問が残る。『放課後』、『卒業』、『秘密』、『片思い』など素っ気無い物、『ある閉ざされた山荘で』、『容疑者Xの献身』、『使命と魂のリミット』などすわりの悪い物など数あり、今回も『ウィンクで乾杯』と正にキオスクノベルスど真ん中だなあ。
しかもこれは改題されたもので原題は『香子の夢』なんだからあまりに素っ気無い。
今はネームヴァリューで売れるからいいものの、この頃はまだまだ新人で早く売れたかったろうに意外と淡白だ。それがこの作者らしさなのかもしれないが。

ウインクで乾杯 (ノン・ポシェット)
東野圭吾ウインクで乾杯(香子の夢) についてのレビュー
No.646:
(7pt)

愛のためなら全てが許される?

いつもと変らぬ日が続くものと思っていた矢先の突然の異常事態。
今回のクーンツは怪物が登場するわけでもない、超能力を持った人間が出るわけでもなく、妻の誘拐という日常を襲う突然の凶事をテーマにしているので、逆にいつも以上に逼迫感があった。

クーンツは導入部が巧いとよく云われるが今回もその評判にたがわぬ求心力を持っている。いきなりの誘拐犯からの電話から始まり、そして街を歩いていた人がいきなり撃たれて死亡する。そして現れた警察は明らかに自分を疑っている。のっけからどんどん主人公を追い込んでいく。
そして兄から明かされる誘拐事件の真相。一介の庭師に訪れた凶事が実は犯罪に手を染めていた兄に起因しているとは。しかも偏狂的な教育者の両親に育てられ、半ば性格を歪められた兄弟の中でも優秀で人を惹きつける魅力溢れた兄その人が実は狂える犯罪者だったという事実。ここら辺の畳み掛けはクーンツのもはや独壇場だろう。よくこんな設定思いついたものだと感心した。

その後も主人公ミッチェルは息つく暇もないほど追い詰められる。手の汚れた資産家によって、離れた荒野に連れられ、始末されそうになったり、尊敬していた兄に打ち勝ち、金を得るも、その直前でタガートの訪問を受け、気絶させたり、そしてそのために警察に追われたり、逃亡の際に車を盗もうとしたのがばれて、警察に包囲網を敷かれたりと色んな仕掛けを用意してくれる。
ここまで主人公を窮地に追い詰めながらも、常に物語はハッピーエンドに締めるのがクーンツの特徴なのだが、今回はその物語の収束の仕方があからさまに唐突だったのにビックリした。

奥付を見ると2006年の作品であるから新作であるのには間違いないのだが、この飛躍的な物語の決着のつけ方はかつてのクーンツの悪い癖を彷彿させた。アメリカを代表する作家のやる仕事ではないのではないかと率直に思う。
今回の作品の底に流れているのは、人は愛のためにどこまで出来るのかというテーマだ。物語も大きく3章に分かれており、それぞれ「愛のために何をするか」、「愛のために死ねるか。人を殺せるか」、「死がふたりを分かつまで」という風に愛を至上としてどこまで自己犠牲出来るかと謳っている。

そして今作品のタイトル『ハズバンド』に込められているのは、妻が愛の誓いを立てた者は夫のみなのだという思いだ。これは結婚式によくある誓いの言葉なのだが、これを単なる台詞でなく、主人公の行動の原動力としているところがすごい。あんな常套句を元にこういう物語を考えるのだから、それはそれでクーンツの非凡なところなんだろうけど。
とどのつまり、ひっくり返せば本作においては愛の名の下では、何をやっても許されるのだと開き直っている感じがしないでもない。だから最後に物語を剛腕でねじ伏せたのか。それともこれはクーンツが実の妻に宛てたラヴレターの一種なのか。う~ん、変に勘ぐってしまうなぁ。


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ハズバンド (ハヤカワ文庫NV)
ディーン・R・クーンツハズバンド についてのレビュー
No.645: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

カーの怪盗物

なんとカー作品で怪盗物が読めるとは思わなかった。しかもその怪盗が実に変っている。銃を携帯しているが人は殺さず、唯一2人だけ怪我を負わせた程度。そして最たる特徴は猿の顔の意匠がついた鉄の箱を常に携えているというのだ。
そして本作の謎はこの怪盗アイアン・チェストが何者なのか、そしてコリアーがほんの数秒の間にどうやって鉄の箱とダイヤ原石の山を部屋から消したのかが焦点となっている。

今回のカーはかなりフェアプレイに徹したと思う。文章をよく読めば、アイアン・チェストの正体は解るし―実際、2人に絞っていたが最後の対決シーンで私も解った―、そこから最後に明かされる鉄の箱の真相もなるほどと納得が行くのである。
しかし、それでもやはり怪盗が嵩張る鉄の箱を携えているという設定には無理を感じる。HM卿はそれを怪盗の顔を忘れさせるためのガジェットだと論じているが、盗みに入る者が逆にそんな目立つ物を持ってくるだろうか?ただでさえ、帰りには盗品という荷物が加わるのに。こう考えていくと、本作ではまず鉄の箱のトリックが先にあったのではないかと思う。これを利用したいがために怪盗物の物語を肉付けしたのではないかと思えるのだ。実際、本作においてこの鉄の箱消失トリックはなかなかに面白く、そしてカー以外、考え付かないだろうというバカバカしさも孕んでいるのだ。

今回の物語の舞台はタンジールという北アフリカの国(市?)であり、ここではスペイン語、フランス語、アラビア語が公用語として使われている。英語は教育を受けた人たちでもわずかでしか喋る事が出来ないところであり、警視総監のデュロック大佐の勘違い英語も本作におけるギャグの1つになっている。
そしてHM卿の登場シーンは回を重ねる毎に派手になり、しかもよりドタバタコメディの度合いを強めているが、今回は本当に傑作!なんせお忍びで来たはずの―しかもハーバート・モリソンなる偽名まで使って!―訪れた旅先で、一国の大統領差ながらの手厚いセレモニー付きのお迎えと遭遇するのだから抱腹絶倒ものだ!しかもこれが事件の一連の捜査に密接に関わっているのだから、驚きだ。いやはやカーの隙のない演出に感嘆してしまった。

そしてこの異国の地において、HM卿は新たな一面、いや二面、三面を見せてくれる。まずは出鱈目なアラビア語を駆使してムーア人の心を摑むだけでなく、アラビア人の扮装をして、聖者さながら輿に乗って街を練り歩く。更には暗闇から襲い掛かるアラビア人の刺客を身軽に交わし、何の躊躇もなく、喉を掻っ捌くし、ボクシングの野試合ではレフェリーをも演じると、今まで観たことも、聞いたこともない設定が続々と登場する。特に本作においては従来の滑稽なデブのおっさんではなく、数々の修羅場を潜り抜けた百戦錬磨の人物として描かれている。
今まで述べたように、本作ではHM卿の色々な面を見せつつ、密室からの大きな鉄の箱の消失とたくさんのアイデアが放り込まれているのだが、総じて考えるとやはり全体のバランスに欠いているように感じる。それは前にも述べた怪盗が鉄の箱を携えて盗みに入るという設定に非常に無理を感じるのだ。

更に加えてこの題名。題名に書かれている赤い鎧戸とは怪盗の相棒コリアーがタンジールで借りた部屋の目印として宿主に塗らした鎧戸のことだ。この影で行われた事が謎の中心だとカー自身、断っているのだろうが、ちょっとそぐわない感じがする。
それも含めて考えると本作はやはり佳作の域を出ないだろう。

赤い鎧戸のかげで (ハヤカワ・ミステリ文庫 テ 3-7)
カーター・ディクスン赤い鎧戸のかげで についてのレビュー
No.644:
(7pt)

アニメ化に相応しい世界観とキャラ

いやあ、いいね、この世界観。大友克洋氏の『アキラ』に通ずるものがある。
谷氏のSF小説は初めて読んだが、実に躍動感があり、物語世界の構築がしっかりしている。山岳冒険小説よりもこちらの方が好みだ。映像化するなら押尾学、マンガ化するなら、士郎政宗氏か先に挙げた大友克洋氏あたりだろう。

何よりも登場人物が非常に魅力的だ。
男から性転換したエリコを筆頭に、類い稀なる怪力を誇るエリコの幼馴染みでルームメイトの女、胡蝶蘭(カチョーラス)。20世紀から生きているという噂のある情報屋、源爺。姑との軋轢であえて老婆に変る手術を受けた30歳の“老婆”、咲夜姫。長髪で中性的な容貌を持ちながらも、強引な捜査で危険の香りを漂わせる刑事、愛甲ヨハネ(これはいささか少女マンガ趣味ともいえるが)。エリコのクローンでありながら、残虐な貌とかつての弱かった男性時代の性格を併せ持った慧人ことワイレン。倒錯性交ショーの司会者でありながら、エリコを支援しつつ、寺尾医師との愛に身を投じるミズ・ヤンことシャオチン。風体の上がらぬ風貌で、ぼやきを呟きながらも警察たちを出し抜く探偵、棚橋。
彼らに加え、動物の組織を埋め込む違法な手術を受けた改造人間(フリークス)が横行する。サイの角と怪力を移植された一角獣。犬の鼻と脳を移植された殺し屋、などなど。
そして舞台は大阪、上海、東京から月面研究都市クラヴィウスと移っていく。

谷氏の描く未来像は派手派手しくなく、淡々と描写するからすっと頭に入っていくように感じた。月面へ降り立つシーンからクラヴィウスの景観など、よくある作者独自の逞しい想像力で構築した未来テクノロジー理論を熱く語り、どうだ、すごいだろうといわんばかりに読者をその世界観に引き入れようといった肩肘張った印象がなく、そこにあるかの如く語る筆致には好感が持てた。これは数多存在する少し先の未来を描いた映像が横行しているおかげなのか、それとももはやここに書かれていることが絵空事でなく、そう遠くない未来であるように認識できているからかもしれないが。

この物語において一番意表を突かれたのは主人公エリコ、その人だ。男から性転換した娼婦という設定ならば、通常は美人でありながら腕っぷしも立つ、そう田中芳樹氏のシリーズキャラクター、薬師寺涼子のようなイメージを抱いていたが、谷氏はあえて逆を行った。北沢慧人という男でありながら女性として生きる道を選んだエリコは、虐げられていたひ弱な過去と、どこか自分が普通とは違う違和感に対して正直に向き合った結果であり、女性となり、類い稀なる美貌と絶妙なプロポーションを持ちながらも、逆に元男ということで美女に対して引け目を感じるようになっているのだった。

なるほど、そういえばそうなのかも知れない。男として劣っている事を認め、女性になる事を決意したエリコはいわば、逃避者なのだ。
そして見た目も心も女でありながらも、やはり女ではないことに時折気付かされ、心を痛める。その痛めた心を癒す拠り所は男勝りの腕力を誇る女性、胡蝶蘭の豊満な胸の中に抱かれるその時なのだ。これこそエリコの不完全さを表している。女性でありながらも女性の母性を求める、このアンバランスさはどうだろうか。

谷氏はあえてエリコを強いキャラクターとして描いていない。元男でありながらも華奢なその体はあらゆる敵から自分の身を守る術を知らない。胡蝶蘭、愛甲ヨハネ、シャオチン、棚橋らの助けがなければ全然苦難を乗越えられないのだ。
しかし、物語の終盤、エリコは自分が完全に女性になった事に気づく事で強さを得る。それは正に「母は強し」ともいうべき、精神的強さだ。男が完全に男を捨て去った時に強くなる。本書はエリコにこういう設定を持ってきたことが非常に特徴的なのである。

そして物語の後半に現れる巨敵、弘田という政治家。極端な選民主義者であり、他者を自分の野望を達成するための道具としてしか見ない男―家族までもだ!―。その男が唱えるスローガンに美しい日本人を目指すというのがあり、非常によく似た人がいることに気付き、苦笑した。1999年に書かれた本書において谷氏はこういう政治家が数年後に出てくることを予想していたかのようだ。

最後に、本書に出てくる「クラヴィウス事例」なる設定について。
端的に述べれば、月面都市に移住した各国の子供たちの中で突出した才能を発揮し、リーダーシップと執るのが日本人だというのがこの事例の内容だが、これはなかなかに面白い。過去の歴史と現在の世界を振り返れば、世界に散らばり、成功しているのはユダヤ人と華僑と云われる中国人であるのだが、ここで敢えて谷氏は月面で力を発揮するのは日本人とした。
私はこの設定を読んだ時に、ある話を思い出した。日本人というのは西から流れて最後に極東の地に辿り着く事が出来た民族だから強いのだという説があるそうだ。山岳登山家でもある谷氏がたびたび極限状態に陥ったときに垣間見た日本人の粘りとか強さなどもこの設定には反映されているのかもしれない。

エリコ (上) (ハヤカワ文庫 JA (686))
谷甲州エリコ についてのレビュー
No.643:
(7pt)

こういう路線も行けるんだなぁ!

山岳冒険小説、SF小説の旗手、谷甲州が手がけたホラー短編集。山岳小説をモチーフにしたもの、SFをモチーフにしたものもあるが、この作者には珍しく、日常を舞台にしたものが多かった。

まず作者お得意の山岳やネパールを舞台にしたのが「背筋の冷たくなる話」と「猿神(ハヌマン)」。前者は雪山登山中に雪洞で一夜を過ごす事になった2人の男が怪異譚を語るうちにある物が現れてくる話で、後者はネパールの辺境の村を訪れた男が遭遇する奇妙な風習に男自身が狂気に囚われてしまう話。後者はネパールに伝わる猿神伝説も織り込まれて宗教を題材する作者ならではの短編。

その他はいわゆる純然たるホラー。妊娠や恋愛、または家庭や親族のしきたりなど家族をモチーフにしたものが多い。それらに土俗的な風習や呪いを絡ませてホラーに仕上げているのが目立つ。

特に「武子」は、「武子」と書いて「たけし」と読む名前を与えられた男の日常で困った事の話から、意外な方向へと進む構成は思いもよらない展開だった。

収録作の中では「鏡像」と「三人の小人と四番目の針」が個人的には評価が高い。
まず「鏡像」は恐らく誰もが子供の頃に抱いた鏡の向こうには鏡の世界があるといった原初体験を扱っているのが面白い。
「三人の小人と四番目の針」はよくもまあ、こういうことを考えたものだと感心した。時計の針をそれぞれ家族構成に当て嵌め、語る様は非常にしっくり来ていて面白かった。大人の夜の営みさえも時計の針の動きに擬えるのには笑ったが、そこから最後にぞくりと来るオチに持ってくるのがなかなか上手いと思った。

その他短編というよりはショートショートになる「おとぎ話」、タダ電話を掛ける男に降りかかる都市伝説のような出来事「制裁」―しかしこの中で堂々とNTTという実在の会社名を出しているのにびっくりしたが―が面白かった。

この前に読んだ井上氏の短編集『あくむ』がどこか歪に物語を閉じるのとは違い、谷氏の短編はどれもきちんと閉じられる。
しかしそれ以上に谷氏が山岳冒険小説やSF小説だけじゃなく、こんなのも書けるぞ!と高らかに唱え、証明した事が本短編集における収穫だろう。特に子供を主人公に書かせるとこんなに面白い物が出来るのかと驚いた。この路線の作品ももっと読みたいと思った次第だ。


▼以下、ネタバレ感想
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背筋が冷たくなる話 (集英社文庫)
谷甲州背筋が冷たくなる話 についてのレビュー
No.642:
(7pt)

悪夢も色とりどり

幻聴、幻視、白昼夢、幻覚、正夢といった5つの“悪夢”を集めた短編集。

冒頭の「ホワイトノイズ」はエアバンド・レシーバーという電波傍受機器を購入したぼくが盗聴を繰り返すうちにやがて柳原美嶺子という名の女性が浮気相手からの執拗な電話に困っている会話を傍受し、美嶺子を助けようと一大決心をするが・・・といった話。
次の「ブラックライト」は交通事故に遭った画家が、入院に見せかけた誘拐ではないかと疑い、脱出を試みる話。
吸血鬼を主人公に据えた「ブルーブラッド」は数学教師として普通の人間として暮らす野津原は、血を吸いたいという欲望を夢の中でのみ満たしていたが、同僚の女性教師とデートする長い夢を見るうちに現実と区別がつかなくなるといった話。
「ゴールデンケージ」は財閥の御曹司のエリートの兄と不良の弟を主人公に据えた話。
そして最後の「インビジブルドリーム」はエキストラで日銭を稼ぐ劇団員のカップルに訪れた奇妙な出来事を語る。それは相手の見た夢が正夢となって男に降りかかるのだった。次第にそれはエスカレートしだし・・・。

それぞれの短編はヴァラエティに富んでおり、作者が終始ホラーに徹したのが軸がぶれずによかった。しかし、内容はホラーというよりも“奇妙な味”といった方が正確だろうか。作者の用意した結末やストーリー展開はどこか歪だ。
というのもここに収められた短編の主人公全てが自らに起こった錯覚に対して自覚的ではない。夢や幻覚であることを認めない、もしくは逆に悪い現実を悪夢としてしか認めないのだ。だから作品は全てどこか夢心地のまま、終わる。

特に「ゴールデンケージ」の結末はなんともいえない後味の悪さが残る。
出来のよい兄と不良の弟のよくある設定を据え、不良の弟を主人公に据えながら物語が展開するかと思いきや、一転してエリートの賢介のストーリーが始まる。物語はこの兄に訪れる幻覚がメインなのだが、導入部に据えられたナイフで自傷する血まみれの兄の真相よりもそれがもたらす兄弟たちへの影響が残酷。救いようがないとは正にこのことだ。この作品に本書のタイトル「あくむ」が象徴的に表れているように感じた。

各5編のうち、ベストは「ブルーブラッド」か。いきなり導入部から自身が吸血鬼である事を明かしている事で、その設定を受け入れやすかったのも一因だが、何よりも夢として語られる女性教師とのデートシーンがかつての自分を思い出させ、むずむずするやらワクワクするやらで非常に面白かった。とはいえ、本書のタイトルの方向性を違えることなく、結末は悲劇的なのだが・・・。
「インビジブルドリーム」も設定自体は面白いが、最後の最後で不条理小説になってしまったところに戸惑いを覚えた。

こういったことからも作者の拵えた設定・世界にノレるかノレないかで評価が分かれる作品集だろう。私は五分五分といったところだろうか。

あくむ (集英社文庫)
井上夢人あくむ についてのレビュー
No.641:
(7pt)

主人公たちの苦痛の連続は読むのも苦痛の連続だった

『遥かなり神々の座』から6年。再び滝沢育夫が還ってきた。
しかし、前作の滝沢の人物像と今回のそれとはなんだか異なる印象を受けた。

まず、とにかく冗長というのが上巻を読んだ時の印象だった。
前作『遥かなり神々の座』では一流の登山家からチベット・ゲリラの参謀ニマと共に死線を潜り抜けた事で一人の戦士となった滝沢。しかし、本書では人生の敗北者となってうじうじした男の独り言が繰り返されるようなストーリー展開。特に導入部となっているアイガー北壁登攀の一部始終が意外に長く、また川原摩耶との再会もかなりの筆を費やしてそこに至るまでの経緯が語られている。

小説というのは足し算と引き算のバランスが肝心である。作者が語りたい事を緻密に語り、それがまた読者を未知なる世界へと導き、興趣をそそる訳だが、一方で物語としてのバランス、小説世界内の時間経過に対する匙加減も大事である。
熱く語るべきところは厚く叙述し、かつ物語の進行を円滑にするために読者の想像で補えるところは削ぎ落とす、これが私の云う足し算と引き算なのだが、本書においては、導入部のアイガー北壁登攀はもとより、スイスからネパールへ至るまでの道中、そしてネパールからチベットまで至る道中、これら全てが詳細・緻密に語られているがために、非常に冗長な印象を受けた。

これらは恐らく全て作者の実地体験に基づいているのだろうが、とにかく知っている事全てを語りたいという思いが強すぎて、非常に物語のバランスが悪い。各新人賞に規定枚数があるのも、こういった取捨選択の技術が作家には必要だという事を示しているのだろうから、そういった意味ではこの作品をもし各新人賞へ応募しても規定枚数超過で落とされるだろう。つまり、私にはそれほど無駄が多いなと感じたのだ。

そして今回煮え切らないのが滝沢が頻繁に見せる優柔不断さ。冒頭から導入部にかけての自分のこれからの人生の身の置き所を探すような彷徨、そして摩耶の再会を渇望するが故の焦りからその都度、思いくれ惑う様は納得できるが、しかし滝沢は終始迷うのだ。
ようやく迷いが抜けるのはクライマックスのチョモランマ登攀において戻るかそのまま進むかを選択するところ。しかもそれにはリンポチェの助言無くては出来なかった。
終始、迷う滝沢に関して、私はかなり違和感を覚えた。というのも前作では一流のクライマーとして描かれていた彼なのに、今回ではことごとく方針を変え、そのために仲間を死に至らしめ、そしてまた迷う。この繰り返しだからだ。前作とは別人のような気がした。

しかし、次第に、山を登る事はこういう迷いの連続なのだなという思いが私の中に芽生え出した。一流のクライマーといえども、相手は自然。これが正しいといった方程式はないのだ。
しかも判断を誤ると、自分だけでなく他人の命をも亡くしてしまうのだから、その選択はかなりの重責だろう。そういった意味では前作がニマという教師を得て兵士として覚醒する滝沢を描き、純粋に冒険小説を描いたのに対し、今回は登山家滝沢としてのその心中にまで深く踏み込んで描いたともいえる。

しかし、個人的にはリンポチェのキャラクターに惹かれるものがあった。三人称描写とはいえ、滝沢の行動を通して語られる本書において、彼と別行動をするリンポチェのシーンが少ないのは仕方ないのだろうが、私としては逆に滝沢がこの出逢いを通しての変化を期待したのだが、それが最後の決断だけに留まったのが残念だった。

山岳小説、冒険小説、その両方を兼ね備えた本書。
しかし滝沢のスイスからカトマンドゥ、ネパール国内の摩耶探索行、そこから国境近くでのリンポチェの探索行、中国軍からの逃亡行、テムジン隊との合流行から再度リンポチェたちの救出行、そして再度リンポチェたちとの合流行からチョモランマを越えての越境行と、今回は滝沢の旅程小説といった方がしっくり来るようだ。しかもそのほとんどが自らの足で歩いたものである。だから小説全体を漂うのは滝沢と摩耶の苦行僧のような道行きの描写の連続。つまり何度も同じ話を読まされたような気がしてならない。
前にも述べたが、この辺の足し算・引き算を上手くすれば、これほどの枚数も必要なく、くどく感じなかったのではないか。しかし、その苦痛こそが作者の語りたかった事の1つであるのなら、致し方ないのだが。

神々の座を越えて〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)
谷甲州神々の座を越えて についてのレビュー
No.640:
(7pt)

30歳のハードボイルド宣言

久々に真っ当なハードボイルド小説を読んだ気がした。
香納諒一氏デビュー作の本書はハードボイルド小説を書く事に真摯に向き合っている姿勢が感じられ、作者の作家になることに対する並々ならぬ決意という物を感じた。

第1作目にして、作者は結構複雑なプロットを用意している。暴力団の影がちらつく余命幾許も無い老人の頼みとその老人が記録上、シベリア抑留者の死亡者リストに上がっていること、老人が何故麻薬と金を持ち逃げしたのか、逃亡する老人を複数の暴力団のみならず、ロシア人もなぜ追いかけるのか、などなどなかなか読ませる。
物語の進め方も一つ一つ手掛かりが解るたびに更に謎と新たな関係者が登場し、事件の裾野がどんどん広がっていく構成になっており、飽きさせない。

そしてこの作者の魅力として、しっかりとした描写力と人物像の造形深さが挙げられる。主人公碇田の一人称描写で語られる本書において視線のブレがなく、また時折挟まれる自然描写の雅さなど、物語を形成する風景についても筆を緩める事がない。一つ一つの言葉を慎重に選んでいるのが実によく判る。
そして魅力ある登場人物の数々。付き添いの看護婦の弥生、悪友ともいうべき安本兄弟の兄、兵庫県警の綿貫刑事、敵役の恩田庄一など、それぞれに癖があり、物語に膨らみを与えている。
特に碇田の敵役である安本兄弟の兄と恩田のキャラクターが際立っている。河合組側の人間、安本と敵対する森田組側の人間、恩田。しかし、その2人は吉野老人を中心に動いており、それぞれが違った形で主人公碇田をサポートする(いや正確には、サポートを余儀なくされるのだが)。この辺の敵味方が入り乱れる構成がそれぞれのキャラクターを惹き立てる事に成功している。

さて、結局のところ、本作は『血の収穫』を思わせる構成となっている。
『血の収穫』といえば、ハードボイルドの始祖ダシール・ハメットの代表作である。このことからも作者が、自分はハードボイルド作家としてこれからやっていくのだと宣言している風にも取れる。俺はこういう小説が書きたいのだ!と声高に叫ぶ声が聞こえてくるかのようだ。

傑作とはまで行かないまでも佳作であることは確か。語弊があるように聞こえるだろうが、正に典型的なハードボイルド小説、プライヴェート・アイ小説である。
しかし、これがデビュー作であるのならば上出来の部類だろう。この時、作者香納諒一氏30歳か。また一人応援したくなる作家が出来てしまった。



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夜の海に瞑れ (角川文庫)
香納諒一夜の海に瞑れ についてのレビュー
No.639:
(7pt)

ドイルの古代宗教への造詣の深さを知る

東京創元社のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ以外の隠れた短編を集めた傑作集もこれで3冊目。
しかし前巻が出たのが2004年の12月であるから2年半後の刊行である。正直なところ、発行部数が伸び悩んで打ち切りになったと思っていた。
1,2巻は以前読んだ新潮文庫の傑作集と重複する物もあったが、本作に収められた5作の中短編は手元にそれらの文庫が無いのではっきりしないが、記憶に残っている限り、初めて読む作品群だ。

今回の中短編にはある一貫したテーマがある。それはアジアを中心とした諸国に古くから信仰されている古代宗教に伝わる呪術をモチーフにした怪異譚であること。
まず冒頭の「競売ナンバー二四九」はオックスフォード大学近くにある下宿屋に住む学生の1人がエジプトで発掘したミイラをある秘法によって操る話。
次の「トトの指輪」は不死の能力を手に入れた古代エジプト人が永遠の死を模索する話。
「血の石の秘儀」はイギリスはウェールズの山奥の村である夫婦が体験したドルイド教の生贄の儀式の話で、続く「茶色い手」は彷徨えるインド人の霊魂の話。最後の表題作はインド高僧を殺害したかどで夜毎死の恐怖に怯えるイギリス将校の話。

上記に述べたようにこれら作品に使われているモチーフは21世紀のこの世においてもはや手垢のついたテーマ以外何物でもない。実際、読後した今、これらを読んだ事で新たなる驚き、衝撃が走るような物は1つも無かった。
しかし、これら中短編群はドイルという作家の一側面を語るのに貴重である事は確かだ。

この中に語られている古代宗教に対するドイルの考察は19世紀後半当時、かなり刺激的ではなかったのではないだろうか?特に欧米人にとって未知の領域とされていたエジプト文化、インドのヒンドゥー教に関する記述に関してはかなり詳細に記載され、それを怪異譚に結びつけ、作品へと結実したところにドイルという作家の価値があると思う。
特に最後200ページ弱の分量で以って語られる表題作「クルンバーの謎」は将校が何に怯えて堅牢な城郭を拵えるのかという物語の主題よりもその物語を飾り立てるインド宗教に関する薀蓄の詳細さに驚いた。しかも本作では他の作品が怪異を怪異のままで終わらせているのに対し、何故そのような怪異が起こりえたのかを当時得られたであろう最高の研究成果を基に叙述している。それがこの物語の成功に寄与しているか否かは別として、この中身の精緻さはドイルが如何にこの分野に興味を深く示し、また造詣が深かったかを表している。

そういえば晩年のドイルは心霊学に傾倒し、神秘研究に没頭していたと聞く。何年か前にフェイクである事が発覚したコティングリー村の妖精騒動もドイルがその信憑性を補完する発言を行ったことでつい最近まで真実だと信じられていた。そういった背景も考えるとやはりドイルは古代宗教の研究においても権威であり、当時この作品群は読者たちの注目を集め、またドイルの名を高める一助になっていたに違いない。
2巻目までの感想は単なるコレクターアイテムとしてこの作品に付き合っていこうというぐらいの気持ちでしかなかったが、本作を読むとなかなか面白いし、まだまだドイルの未読作品も捨てた物ではないなと感じた。出版元の東京創元社には根気よくシリーズの刊行を続けて欲しいものだ。

クルンバーの謎―ドイル傑作集〈3〉 (創元推理文庫)