■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数889

全889件 821~840 42/45ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.69:
(7pt)

消え去った佳品

本作は有栖川氏の『ダリの繭』同様、角川ミステリ・コンペティションの参加作品で文庫書下ろしで刊行された作品。
一読して驚くのは、非常に読みやすい文体と内容になっていることだ。ゴシック趣味溢れる『時のアラベスク』や『罪深き緑の夏』の同一作者とは思えないほど、普通のミステリとなっている。恐らく読者の人気投票で優秀賞が決まるというこの企画に即して、自らの持ち味をあえて殺し、普段本を読まない人でも読めるように意図したのではないだろうか。

出版社を退職し、翻訳者として第2の人生を歩むことに意気揚々としていた森本翠は女性編集者の瑠璃と祝杯を上げたその夜、愛猫の黒猫メロウが行方不明になり、心境穏やかでなくなる。
一方、近所のアパートでは駆け出しの役者鳴海が妻を殺害し、バラバラに解体していた。底に現れた1匹の黒猫。黒猫を必死に探す翠と、瑠璃、そして鳴海の人生が交錯しようとする。

退職した独身女性で唯一の家族が黒猫という60歳の女性、翠の思考がなんだか痛々しい。独り身の寂しさの拠り所が猫というのは、私も飼っていたので猫に対する愛情については理解できるが、やはり常人とはどこかずれていて、狂気さえ覚える。鳴海もボタンの掛け違えのような瑣末な事から起こしてしまった殺人を、どこか夢の中の出来事のように第三者的に捉えながら、その実、自覚せずにどんどん狂気の井戸の底に落ちていく。
そしてまた2人の狂人の緩和剤として挿入された瑠璃もまた、常識人とはちょっと違った特異な考え方を持っている。つまりこれは1匹の黒猫を軸にした3人の狂人たちの遁走曲なのだ。
作者の故服部氏は猫好きとしても有名だったので、どうしても翠と作者がダブって仕方がなかった(ちなみに作者は既婚)。

中身はごく普通のミステリで、結末も皮肉が利いている。前2作の雰囲気が好きな人にはあっさりとしすぎて物足りなさを覚えるだろうが、私は全く逆の立場だったので本作は服部氏の作品では最も評価が高い。
長らく絶版になっており、本書もまた忘れられていく一冊になるのだろう。そんな消えゆく作品を少しでも誰かの記憶にとどめて欲しいために私はこんな風に感想を書いているのかもしれない。

黒猫遁走曲 (角川文庫―角川ミステリーコンペティション)
服部まゆみ黒猫遁走曲 についてのレビュー
No.68: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

新本格ミステリには珍しい情緒がある。

私の有栖川作品初体験はデビュー作の江神・有栖川コンビの『月光ゲーム』ではなく、火村・有栖川コンビの第1作の『46番目の密室』でもなく、このノンシリーズの作品だ。
文庫派である私は単行本、ノベルスで刊行された作品が文庫落ちしてから読むのを習慣としている。この文庫落ちのスパンというのは3~4年が通例なのだが、東京創元社は概ねこの文庫化になるスパンが長く、しかもまちまち。『月光ゲーム』は単行本刊行後5年後で比較的早くはあった。

余呉湖畔の別荘である女性が殺される。それは作家空知がずっと慕っていた女性だった。容疑者と思われた夫は事件当時福岡におり、またその双子の弟は新潟にいてそれぞれのアリバイは完璧だった。空知は亡くなった女性のため、その妹と一緒に独自に事件を調べる。
やがて双子の片割れが頭と手首を切断された死体として発見される。

時刻表トリックに双子の登場、そしてその片割れが頭と手首を切断された死体になるという、まさに本格ミステリ王道を行く設定だ。
新本格組では法月綸太郎氏がクイーンの後継者としてデビューしたが、有栖川氏も熱心なクイーン信奉者であり、さらに自身国名シリーズまで出しているくらいだ。法月氏は早々に後期クイーン問題に直面し、悩める探偵となり、寡作家になってしまったが有栖川氏はデビュー以来着実に作品を刊行し、いまや現代本格ミステリの第一人者になっている。
そんな彼の最初期の作品である本書にはなんと登場人物を介してのアリバイ講義が盛り込まれており、自らの知見の広さを披露するという度胸振りだ。基本的に私はアリバイトリック物のミステリはほとんど読んだことが無かったため、挙げられている作者は私の守備範囲ではないが、それでも興味が湧いた。
そんなガチガチの本格ミステリを展開しながらも、お話としてもほんのりとしたペーソスが施されており、単なるパズル小説・トリック小説に終っていない。一番最初に「おっ」と思ったのはコーヒーか紅茶だったか、喫茶店で角砂糖を入れるところの何気ない描写。ここに他の新本格作家にはない情緒を感じた。

そして最後の緊張感溢れるサプライズは映像的でドラマ化されても十分映えるシーンだ。いやむしろミステリドラマを意識したかのような演出だ。単純に関係者を集めて長々と推理を披露した上で犯人を名指しするというオーソドックスな本格ミステリが多い中、こういう演出は新鮮だった。そしてさらに仕掛けた作者の企み。これをフェアと取るかアンフェアと取るかはその人のミステリ嗜好によるだろうが、私は有りだと思った。
最近になって新装版が刊行されたがそれもまた納得。時刻表ミステリは廃線や廃車となった車種もあるのですぐに時代の流れに風化されやすいが、現代本格ミステリの第一人者の初々しい頃に触れる意味でも、本書を手に取ってみてはいかがだろうか。

マジックミラー (講談社文庫)
有栖川有栖マジックミラー についてのレビュー
No.67: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

虚無への供物とは?

日本推理小説三大奇書の1つと呼ばれている。私は他の2冊、小栗虫太郎氏の『黒死館殺人事件』と夢野久作氏の『ドグラマグラ』は読んでいないが、これだけは読んでいた。
確かきっかけはその頃各種ガイドブックを読み漁っていたのだが、そのどれにも本書が取り上げられ、しかも評価が高かった。そしてたまたま行きつけの書店の平台に青い薔薇の顔をした人物が市松模様の床に佇む表紙をあしらった文庫が置かれているのを見て、惹きつけられる物を感じ、そのまま手に取ってレジに向かったのがきっかけだった。いわゆるジャケ買いというやつだ。
まず驚いたのは非常に読みやすい文章。他の2作品は書店でちらり見をしたことがあったが、なんとも古式ゆかしい文章で、改行も少なく、読み難くて取っ付きにくさばかりが目立ったので敬遠していた(これは今に至ってもそう)。つまり私のミステリマニア度の境界というのはどうやらこの辺にあるらしく、これらの2つは私のマニア境界線の外に位置する作品なのだ。

氷沼家に伝わる因縁話を端緒に、その一家の1人藍司の友人でシャンソン歌手奈々村久生と、ゲイバーに居合わせた久生の友人、光田亜利夫が探偵ごっこよろしく、「ヒヌマ・マーダーケース」と称して勝手に捜査を始めたところ、第1の被害者が現れて、本当の殺人事件に巻き込まれるといった内容。

本書の読みやすさはひとえにこの久生の明るく軽いキャラクターによるところが大きいと思う。ホームズ役を買って出て、友人の亜利夫をワトソン役にしたて、トンデモ推理を披露する。
また本書はアンチ・ミステリと呼ばれており、どうも本書に初めてその名を冠せられたようだ。Wikipediaによればアンチ・ミステリとはその名の通り、作中内で過去の推理小説のトリック・ロジックについてその現実性、必要性などを論議して揶揄することという風に書かれている。今更ながらだが、これは今のミステリ、ミステリ作家ならば誰もがやっていることで、まず私が再びミステリを読み出すきっかけとなった島田氏の『占星術殺人事件』からして、シャーロック・ホームズの作品について痛烈な批判をしているから、これもアンチ・ミステリとなるだろう。アンチ・ミステリって何だろう?と思って本書を手に取ると、何がアンチなのか解らないだろう。実際私がそうで、読み終わった後、あれがアンチなのかと全く別のことで解釈していた。
つまりアンチ・ミステリとはもはや死語であると云っていいだろう。

物語の雰囲気は最初の舞台がゲイバーだったり、シャンソン歌手が登場したり、亜利夫の渾名が「アリョーシャ」だったり(これはけっこう恥ずかしいと思うが)、「サロメ」について語られていたり、幻想的でサイケなムードが横溢しているように感じたが、先に述べたように久生のキャラクターが見事な緩衝材、シンナーとなっていてマニアでなくともとっつきやすくなっている。

そして動機の部分。これは印象に残った。カミュの『異邦人』を思い起こさせる、観念的な動機であるが、私は受け入れることが出来た。私はこの動機がアンチ・ミステリなのかと当時勘違いしていた。なぜならこの動機は今までの捜査で得られたデータからは推理できないからだ。この文学的ともいえる結末は私の好みだった。

この『虚無への供物』に纏わる話はつとに有名なので改めて語らないが、個人的な感想を云えば、あまりに世間の、ミステリ書評家たちの評価が高すぎるような気がする。それが逆に味読の人たちへ過大な期待をかけ、評価を低くしているようだ。歴史的価値というのはその後の亜流が出回ることで時が経つに連れて風化していくものだ。私は本作が「日本三大奇書の1つ」、「アンチ・ミステリの始祖」といった大仰な冠が付けられたゆえに、それが足枷になっている不幸な作品だと思えてならない。既に逝去した作者がもし生きていたら、この現状をどう思うのか。私にはこれらの過大広告が本書に対する「虚無への供物」ではないかと考えてしまうのだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
虚無への供物〈上〉 (講談社文庫)
中井英夫虚無への供物 についてのレビュー
No.66:
(7pt)

MWA賞受賞作ではあるが…。

MWA賞受賞作であり、一般的にレナードの代表作とされている。さて、この本に至るまで私の中でのレナードの評価はうなぎ上り。しかもそれらは何の賞も受賞していない作品であった。従って本書への期待は否が応にも高まった。

元シークレットサービスの捜査官で今は写真家のジョー・ラブラバ。陽光煌くマイアミに暮らしていた彼はそこで1人の女性と知り合う。それは彼が少年の頃、憧れていた銀幕のスター、ジーン・ショーだった。ジーンは年を取っていたが、ちっとも魅力は衰えていなかった。その頃の憧憬が甦り、ラブラバはジーンに近づき、懇意になる。しかし彼女の周りにはならず者や脱獄犯などきな臭い連中がなぜか集まる。彼らは彼女の財産を狙っていたのだ。憧れの君を救わんべく、ラブラバが悪党ども相手に立ち回る。

結論から云えば、下馬評の割にはちょっと期待はずれ。
主人公の名ジョー・ラブラバは一連のレナード作品に登場するタフガイで、しかも元シークレット・サービスという職業柄、知性も感じさせる。
このラブラバがかつての銀幕スターでラブラバの憧れの人に逢い、騎士役を買って出るというのは実にレナードらしい心憎い演出だ。
が、しかしなんとものめり込めない。

理由は3つあって、1つは全編に散りばめられた40~50年代映画の薀蓄。ヒロインが元映画スターだからこれは仕方ないだろうし、逆にレナードがかなりの映画ファンだというのは周知の事実であるから、逆に云えばレナードは自分の薀蓄を曝け出したいがためにこの設定を持ち込んだのではないかと思われるくらいだ。しかしこの40~50年代の映画というのが当時20代の私にはさっぱり解らない。自分もかなり映画好きだが、この辺のクラシック・ムーヴィーは守備範囲外。従って何がそんなに楽しいのか、全く解らなかった。1つでも知っている映画があるとまた違うのだろうけど。
もう1つはジーンという年増女性がヒロインだということだ。当時の私は大学出立ての社会人。当然合コンなどもあり、実際毎月参加していた。そんな年頃だから、もっぱらの興味は同年代の女性だったし、逆にジーンと同年代の女性は職場にしかいなく、申し訳ないが全く恋が芽生えるなどという気になったことはなかった。ちなみに『五万二千ドル~』同様、作中に出てくるジーンの写真と思しき物が文庫表紙にあしらわれており、ジーンという女性がどんな女性か、イメージしやすくなっている。ハヤカワ・ミステリ文庫の表紙は素晴らしいね。
しかし今ならばこのラブラバの気持ちも理解できるだろう。アンチエイジングという言葉がさかんにメディア上で発信される中、ジーンの年代(たしか40代だったと思うが)の女性は綺麗だし、熟女などという言葉も流布しているくらいだからだ。別に私にそういう興味・趣味があるわけでないが、齢も近くなり、この年代の女性の美しさ、魅力というのが解る年頃になったということだ。そういう意味ではちょっと早すぎた作品だったのかもしれない。

しかし最大の理由はこのタフガイと思われたラブラバの見せ場が意外に少なかったこと。タフガイなんだけど、なんだか活躍の場がないままで、逆にジーンが物語をかっさらってしまったような感じだった。その名が題名にもなっているのにもなんとも影の薄い主人公なのだ。
ということで、題名と中身が一致しないなぁというのと、これで受賞?という懐疑が先に立ってしまい、私の中では佳作という位置づけになっている。

思えばこれがレナードテイストなんだろう。逆に云えばアメリカ探偵クラブの方々はこの妙なツイスト感が当時新鮮に移ったのかもしれない。定石どおりに物語が進まない展開が。あと、考えられるのはもしかしたら審査員の方々がレナードと同年代、もしくは近い年代で作中で語られる映画の薀蓄がツボにはまったのかもしれない。
現在、クライム・ノヴェルの巨匠という名声を得ているレナード。それに対して否定はしないが本作を代表作とするには異議がある。各種ガイドブックはもっと他の作品も取り上げてほしいものだ。

ラブラバ〔新訳版〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
エルモア・レナードラブラバ についてのレビュー
No.65:
(8pt)

内なる獣が目覚める男の物語

ハヤカワ・ミステリ文庫で出版されているレナード作品はこれと『ラブラバ』の2作しかないが、後者はMWA賞受賞作であり、その頃流布していた各種ミステリ・ガイドブックにはレナードの代表作として必ずといっていいほど、『ラブラバ』が取り上げられていた。
『ムーンシャイン~』から『野獣の街』、『スプリット・イメージ』と立て続けにレナードの痛快クライム・ノヴェルを読んで、さらにこの上があるのかと期待が高まる中、その前に文庫の背表紙番号の若い順ということでこの作品を読んでみた。

浮気の一部始終を撮られたフィルムをネタに実業家のハリーは強請りを受けるが、断固として拒否する。しかし脅迫者は強請りの手を緩めず、それは次第にエスカレートしていく。苦悩するハリーはしかし、自分の中で何かが目覚めるのに気づく。

結論。面白い!非常にわかりやすいストーリーで非常に気持ちがいい。こちらも初期の作品で主題がはっきりしており、しかも展開がスピーディかつ荒々しさを備えている。
特に当初浮気がバレて恐喝される冴えない中年男だった主人公が昔、戦争時にパイロットだった時の狼の牙を思い出して、逆に恐喝者たちを返り討ちにしようとするプロットは、よくある話だけれども非常に胸の空く展開だ。
この主人公ハリー・ミッチェルに私は「結婚したマーロウ」という感慨を抱いた。
被害者が必ずしも弱いわけでなく、誰もが隠れた牙を持っているのだとレナードは示したかったのか。それとも被害者ハリーの戦争体験が彼の行動原理となるあたり、当時まだヴェトナム戦争の翳が覆っていたアメリカの狂気がレナードをしてハリーという男を生み出させたのか。
表紙にヌードの女性をあしらっているのは本書に出てくる情事のフィルムの一場面を切り取っているかのようで、それが視覚的効果を高めている(決して表紙が裸の女性だからいいという意味ではない)。

しかしレナードの作品はハリーという名前の男が多いな・・・。

五万二千ドルの罠 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エルモア・レナード五万二千ドルの罠 についてのレビュー
No.64:
(8pt)

レナードらしからぬストレートな語り口。しかし面白い!

レナードのデビューはクライムノヴェルではなく、実はウェスタン小説。本書はその頃に書いたウェスタン小説の一部だが、意外と、いやすごぶる面白い。

物語の舞台は禁酒法統治下のアメリカ。
幻の密造酒を巡って禁酒法取締官、密売人、そして禁酒製造者たちの戦争が始まる。

レナードの作品は読者が予想もしないストーリー展開と、実在するかのごとく「生きた」登場人物と彼ら・彼女らの会話の妙というところにある。これについては後々もっと詳しく語りたいと思う。
しかし初期の作品である本書はストーリーが一直線に進む。すなわち悪人登場、嫌がらせが行われ、彼らとの対決に向け、じわりじわりと雰囲気が盛り上がり、やがて闘争へ・・・。
登場人物たちは起こるであろうゼロ時間に向けて、それぞれの信条、恨み、怒りを募らせ、突っ走るだけだ。これが非常に小気味よかった。シンプルなだけに解りやすく、また初めて読んだウェスタン小説という珍しさも手伝って、予想外に面白く読めた。

さて本書の題名になっているムーンシャインだが、これは禁酒法取締官に見つからないように密造者が月明かりの下で蒸留酒を作っていたことから、そのお酒を称した呼び名である。そして密造者はムーンシャイナーと呼ぶ。なんとも詩的な表現ではないか。やっていることは当時の法律に照らし合わせれば犯罪なのだが、闇夜に紛れて作る酒という無骨な物にこんなにロマンチックな呼称を付けるアメリカ人の稚気と心意気に乾杯したくなる。

この評価はこの前に読んだ『マイアミ欲望海岸』、『ザ・スイッチ』が個人的には不評だったことで、レナードに対する期待値が下がった上での意外性というのも多分に加味されているだろうけれど、そんな西部時代の男のロマンがピリッと織り込まれた薀蓄も面白く、また酒好きにどんな味なのか想像を掻き立てさせるレナードの密造場面の描写も加え、本書は数あるレナード作品でもお気に入りの部類に入る。
数年後、レナードは『ホット・キッド』という新たなウェスタン小説を発表する。これも実に面白く読めたが、ラストはやはりクライムノヴェルのレナードらしく、予想もしない捻った結末だった。翻って初期の本書はラストも鮮やか。個人的には逆にこの頃のレナードを取り戻してほしいなぁと思ってしまった。

ムーンシャイン・ウォー (扶桑社ミステリー)
No.63:
(8pt)

最強の間男

私とレナードとの出会いは特別な物があったわけではなく、海外ミステリを多数取り扱っている東京創元社、早川書房のミステリ作品に触れたので、次にその頃、どんどん海外ミステリの新刊を出していた扶桑社のミステリーにも手を付けるかということで、『このミス』の過去のランキング作品の作家名と文庫目録を眺めていて、目に付いた作家がレナードだったという実に単純な動機による。
私がレナード作品を読もうと思った95年ごろは既にレナードは文藝春秋を中心に各社がどんどん翻訳出版を行っており、ちょっとしたブームになっていた。しかし、この『キャット・チェイサー』という題名の本は当時はもとより、今でも各種のミステリガイドブックの類いでその名が挙げられることもなく、またなんとも珍妙な題名―なんせ「猫追跡者」である―から、全く食指をそそられなかった。

主人公はマイアミでホテルを経営するモラン。彼は昔、題名の基になっている海兵の特殊部隊、通称「キャット・チェイサー」に所属していた。隊員時代、彼はサント・ドミンゴのゲリラ戦に参加した際、少女兵士に狙撃され、止めを刺されずに見逃された経験があり、それがトラウマとなって夜な夜な夢に見て、苦しんでいた。この悪夢を克服するため、モランは彼の地に訪れることを決意するが、その際、かつての同僚が流れ者としてホテルを訪れたのが気に懸かっていた。そして訪れたサント・ドミンゴではかつての恋人と再会する。かつての想いが再燃し、二人は関係を持つが、それが災厄の始まりだった。

率直な感想を云えば、本書は面白かった。予想外に展開するストーリーが全くページをめくる手を休めず、どんどん先が気になって読み進んでいった。上に書いているようなストーリーだと、てっきり悪夢の地で落ち合うのは少女兵士の成長した姿であり、それが見違えるほど美人なって、悪夢の対象に惹かれる自分に気づく、という展開が考えられ、しかもそういう展開も非常に面白いのだが―なんせかつての元凶が恋の相手になるんだからね!―レナードはそんな方法は取らず、なんとそこでかつての恋人との再会と恋の再燃を演出し、その夫による脅迫劇に転じるのだから、いやはや参るね。
どのように自ら蒔いた災厄をいかに乗り切るかがストーリーの主眼になる。通常一般小説ならばこのような間男というのは非常に情けなく、泥臭く立ち回り、そういうダメ男の苦悩とか悪あがきが読者の共感を得たりもするのだが、なんせ間男モランは特殊部隊出身だから、肝は据わっており、しかも凄腕。こういうところが非常に面白いのである。
結末は実に皮肉。最初に読んだ時はなんとも痛快なコン・ゲームを読んだ爽快感を感じたが、今なおレナードを読んでいる身にしてみれば、これは典型的なレナード作品だったなぁと思う。しかしレナードという作家を知るには本作は取っ掛かりとして非常によかったと思う。

しかし元兵士のトラウマというテーマを扱いながら、それはあまり重視されず、記憶に残るのは中南米のひりつくような暑さとマイアミの常夏の中で非常に緩やかに展開される物語だ。この南部小説とも云うべき犯罪者達のどこか明るいやり取りがレナードの持ち味だと気づくのはこれ以後、巻を重ねるにつれて解ってるのだが、このときはまだそんなことは全く考えもしなかった。

キャット・チェイサー (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
No.62: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ちょっと穿った感想になっちゃいました(^^)ゞ

今までのミステリプロパー以外の作家によるミステリとは文壇に既に名を成していた作家の手遊び的な物が多かったが、本書の作者ヒルトンはちょっと違う。私は今まで彼の作品に本作以外触れたことがないので、よくは知らないのだが、ヒルトンはイギリス文学界のみならず世界的文豪と呼ばれるくらい著名らしい。が、本書はその彼がまだその名声を得る前の不遇時代に別名義で書いた唯一のミステリである。有名になった後は1つも書いていない。こういうシチュエーションだと、これほどの作家ならば若気の至りということで、その作品は抹消して「なかった事」にするものだが、死後今なおこうして残っているというのはその出来栄えに世に出しても、後世に残しても恥ずかしくないというそれなりの自負があるからだろうと思う。
今でこそ学園ミステリというのは国内外ともに多く書かれているが、私の拙いミステリの知識では黄金期に書かれた学校を舞台にしたミステリというのはセイヤーズの『学寮祭の夜』以外、ちょっと思いつかない。そのセイヤーズの『学寮祭~』(傑作!)が書かれたのは1935年のことで、本書はその3年前の1932年ということになる。

漫画の世界でも新人作家が手っ取り早く人気を得るために取るのが学園物だというのはもはや定石となっているが、それは学校という特殊な環境に対して誰もが特別な思いを抱いているからだろう。
まずどの人もすべからく学校生活を経験しているという共通性がある。したがって読者は作品世界で起こっている出来事に対して自分の想い出を重ねて追体験し、またあるいは主人公ら登場人物を介して、自分がしたくて出来なかった体験を面白く読めるところがまず大きいだろう。つまりかつてあった青春時代の追体験が出来るというのがまず最大の魅力だろう。
さらにその外部から閉鎖された独自の共同生活圏が形成されているというのも特徴的だ。学校という空間には外部社会とは別の独自のルールがあり、一種治外法権的な色合いが非常に濃い。学校に通う者同士でしか通用しない冗談や言葉が必ず存在する。そんな小社会性もこのジャンルが持っている蠱惑的な魅力である。
前置きが長くなったが、その題名が指すように学校を舞台にした本書もまた青春ミステリのような青さと甘さを持っており、それが本書の魅力の一端となっている。

学校で起きた一見、事故死とも思える事件を文学青年レヴェルが校長から調査を依頼される。過去にとある紛失事件を見事解決した手腕を買われての依頼だった。そして発見された遺言状からその事件は奇妙な様相を呈し、やがて第2の事件が起こるというもの。
ミステリとしてはオーソドックスと云えるだろう。元々ミステリプロパーでなく、また初期の作品であることからプロットそのものも入り組んでいなく、物語は実に教科書どおりに進む。が、しかし人物描写、学校生活のみずみずしい描写はやはり後に文豪の名声を獲得する萌芽を感じる。
そして確かに本書には後世に残すだけの美点が確かにあった。最後の展開はなかなかに面白い。単にとっつきやすさだけで学校という舞台を選んだのではなく、きちんと意味合いを持たせていることも解るし、また登場人物の1人の動かし方にちょっと感心した。不遇の時代だからこそ早く売れたいという意欲ゆえのこのサムシング・エルスなのかもしれない。

さて主人公の文学青年レヴェルは詩人でもあり、最初と最後に彼の詩が挿入されている。詩人で探偵というと浮かべるのはP・D・ジェイムズのアダム・ダルグリッシュ警視だ。もしかしたらその人物設定の根幹にはこのレヴェルという人物がジェイムズの頭にはあったのかもしれない。あっ、今気づいたが、この作者のファーストネームはジェームズであり、ジェイムズと一緒ではないか!やはりここにダルグリッシュの源泉はあったのだ(いや、単なる偶然でしょう)!

学校の殺人 (創元推理文庫 M ヒ 3-1 Sogen Classics)
ジェームズ・ヒルトン学校の殺人 についてのレビュー
No.61: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

この題名が秀逸でしょう!

一瞬ゲーム小説かと思われる本書は実に意欲的な作品だ。
どこの書評欄や文庫の背表紙の梗概にも書かれている「レベル7まで行ったら戻れない」という一文がまず印象的だ。人の記憶に残る秀逸なCMコピーのごとく、思わず手にとってしまいたくなる蠱惑的な魅力を備えている。
2人の記憶喪失の男女がわずかな手がかりを基に自分の正体を探る話と、行方不明の家出少女を探す話の2つの軸が交互に語られながら、「レベル7」という謎めいた言葉に隠された意味が明かされていく物語だ。
まず記憶喪失の2人の男女の腕に刻印された「レベル7」という文字がなんともミステリアスだ。SF的でもあり、当然のことながらTVゲームをも想起させる。

本書が発表された90年当時といえば、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったRPGが全盛であり(とはいえ、現代でもなお人気が高い)、発売日の行列は社会現象にまでなったことは記憶に鮮明に残っていることだろう。ゲーム好きで名高い宮部氏が本書を書くに至り、これからインスピレーションを受けたのは恐らく間違いないだろう。
とはいえ、舞台は現代であり、当然のことながら、モンスターも魔法も出てこない。物語の進め方はRPG的だと感じた。周辺に散りばめられた手がかり、例えばメモやマッチなどを端緒として、捜索の旅に出る。そして旅の目的はもちろん世界を支配する魔王といった類いではなく、一方は失った記憶、すなわち「自分」であり、他方は家出した少女だ。このもつれた糸が徐々にほぐれていくようにわずかな手がかりから物語が判明していく様相はRPGに似ているなぁと思ったものだ。多数の小説、特にハードボイルドなどの私立探偵小説を読んだ今となってはこの手法はありふれたものであるのは解っているが、読んだ当初はこの手のいわゆる「失踪人捜し」系の小説を読んだ経験は浅く、また特徴的な題名からこのような連想が生まれ、今に至っている。

物語は並行して語られる2つの話が漸近していくに従い、ある巨悪の存在も浮かんでくる。この辺の構成は非常に巧みなのだが、やはり「レベル7」という魅力的なキーワードに対する期待値が大きかったせいか、最終的に小さくまとまったなというのが正直な感想だ。非常に無難に手堅く纏められているが、最初の謎の魅力が大きすぎて、色んなことが解っていくごとにそれが徐々にしぼんでいくというような錯覚に陥るのだ。この評価は私のみだけでないようで、ブログやHPでの感想もそういった内容の感想が多く、また当時我孫子武丸氏が「なんてすげぇ物語だと最初は思った」といったようなコメントを残している。
あとやたらと分厚いのもまたそれを助長したようだ。今となってはこのくらいの分量の小説はゴマンとあるので別段珍しくも無いが、当時としてはかなりの分量であり、恐らく作者本人もその段階における集大成的な作品という意欲を持って著したのかもしれない。しかしやはり冗長すぎると認めざるを得ないだろう。なかなか接近しない2つの物語にじれったさを覚える人はけっこういると思う。
また別のパートで語られる共通するある人物の描写が別人かのように語られるのも非常に気になった。ストーリーの構成上、恐らくこのAはこっちのBなのだろうと推測するのだが、どうも一致するような人物のように思えず、この辺の違和感と最後にやっぱり一致した時に感じた叙述に関するアンフェア感がどうしても拭えなかった。

とはいえ、この本を読んで15年以上は経っているのに、未だに最後の一行は覚えているのだから、やはり自分の中では案外鮮明に印象に残った本なのだろうなとは思う。そういったことからも着想の面白さを十分に活かしきれなかったことが非常に悔やまれてならないと思う1冊である。


レベル7(セブン) (新潮文庫)
宮部みゆきレベル7 についてのレビュー
No.60: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

新聞の三行記事の裏側を描いた佳作

第2回日本推理サスペンス大賞受賞作。ちなみに第1回は受賞作は無しで優秀賞で乃波アサ氏が、続く第3回は高村薫氏が受賞している。このメンバーを見ても解るように新潮社主催で行われていたこの新人賞は現在でも第一線で活躍する作家を多く輩出しており、たった七年という短命な賞であったがその功績は非常に意義高い。
第1回では大賞無しという結果だったので、実質的に本作が大賞第1作目となるが、その栄誉に恥じない出来である。

都内各所で起こる女性の3件の自殺事件。一見何の関係もないそれらの死には実はある関係が隠されていることをある女性は知っていた。そして次のターゲットが自分だということも。
その3つの死の1つ、女性の飛び込み事故で加害者となったタクシー運転手の甥、日下守は微力ながら叔父を助けるべく、独自に事故の調査をしていくうちに真相に近づいていく。

なんとも地に足のついた小説だというのが第一の印象。通常新聞で三行記事として処理される瑣末な女性の自殺事件、そして交通事故。毎日洪水のように報道される数多の情報に埋没されてしまう事件はしかし、当事者には暗い翳を落とすのだ。たとえ事件が解決されても、適切に処理されても被害者、加害者の双方には一生消えない心の傷を残す。そんな誰もがいつ陥ってもおかしくない状況を一般市民の、当事者の視座から宮部氏はしっかりと描く。
私が感心したのはこの書き方だった。本格ミステリでも事件が起きる。死人も出るし、魔法で成されたとしか思えない不可解な状況での死体も出る。そこに警察が介入し、登場人物は予定を変更され、警察に拘束された毎日を過ごすはめになる。しかしそれらはどこか絵空事の風景としてか捉えることがなく、現実味に乏しかった。なぜなら本格ミステリそのものが読者と作者との知的ゲーム合戦の色合いを持っているからだ。だから読者は「そのとき」が起こった後に及ぼす当事者の状況には忖度しない。犯人と殺害方法が判明し、警察が逮捕されて事件は解決、そこで物語が閉じられるのがほとんどだからだ。
しかしこの小説は事件は普通によくある交通事故。その事故が及ぼす当事者達の生活への影響などを克明に書く。そのため、作中で起きている状況が読者の仮想体験として感じさせ、現実感が非常に色濃く出ているのだ。

それに加え、主人公を務める日下守という少年の造形が素晴らしい。幼い頃に父親が失踪―昔流行った言葉で云うならば“蒸発”―し、その影響で亡くなった母親の姉に引き取られることになったという境遇にある。しかも父親は会社の金を持ち逃げしたという噂があり、周囲からは「泥棒の子供」だと揶揄されているという、なんともつらい生活を送っている少年なのだ。が、しかし彼はそんな状況にも負けないタフなハートを持っており、おまけに特殊な特技を持っている。ネタバレにならないのでここで書いてしまうが、それは開錠の技術である。「おじいちゃん」から小さい頃に教えてもらった技術だが、これが実に物語に有機的に働く。この技術が日下少年に他人とは違うという自信を持たせ、さらにこれらの不幸な境遇が周囲の子供らよりも一段大人びた性格を持つに至ったという人物設定は非常に頷けるところがあり、もうこの日下少年という主人公だけで、私の中では本書は傑作になると確信していた。

が、しかしその後物語は私の思惑とは意外な方向に進む。
このギャップが私の中ではとても気持ち悪く、それが故に本書は佳作という評価に落ち着いてしまった。
確かに作者はこの突飛な技術を読者に納得させるように活用法に工夫を凝らし、詳細に説明を加えて、納得させようとしているが、物が物なだけになかなか現実感を伴って腑に落ちてこなかった。したがってクライマックスに訪れる日下少年の試練もまた深く心に浸透してこなかったのが非常に残念である。

さて発表から20年経ち、科学の発展と共に色んなことが解明され、新事実も発見されているが、果たして今本書を読んで手放しで賞賛できるかといえばそうとは思えない。それはやはりこの小説が備えている前半の現実感と後半の非現実感の乖離ゆえに。
ただしその一点は致命傷ではないようだ。なぜなら数十年経った今なお、本書は版を重ねて出版され、しかも新装版まで出版されているくらいだからだ。つまりは単に好みの問題ということだ。
『パーフェクト・ブルー』、『我らが隣人の犯罪』と比べてもその出来は数段よいことから、本書から宮部みゆきの今が始まったと云っても過言ではないだろう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
魔術はささやく (宮部みゆきアーリーコレクション)
宮部みゆき魔術はささやく についてのレビュー
No.59: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ミステリ初心者にうってつけの短編集

宮部氏はデビュー当時、出版各社の開催する新人賞を複数受賞しており、一体どれが実質的なデビューなのか迷うところがある。
いわゆる一作家として作品が単独で刊行されたのは『パーフェクト・ブルー』が最初であるが、それ以前にオール読物新人賞の短編部門を本書に収められている表題作にて受賞しており、実質的なデビューはこの作品と云われている。
しかしその後『魔術はささやく』で当時新潮社が開催していた日本推理サスペンス大賞を受賞して、これが世間的認知度が高かったことから、『魔術~』をデビュー作だと思っている人が多いくらいだ。実力のある人というのはこのようにあらゆる賞を獲得する物だから非常にややこしくなっている。
とまあ、好事家的な詮索はこれくらいにして、本書の話題に移ろう。

本書には5編の短編が収録されている。
受賞作である表題作が最も長く、個人的にはそれほど評価は高くない。世間の評判どおり、私もこの短編集でベストなのは『サボテンの花』。
いやあ、学校物に弱いのもあるが、実に教科書的な本格ミステリ的物語に加え、最後にホロリとさせる人情話がマッチして、今でも強く印象に残っている。ちなみに私は某雑誌の投稿欄に宮部氏の最も好きな作品でこの短編を取り上げ、一行感想を書いて送って採用されたことがある。
その他の作品で印象に残ったのは『気分は自殺志願』くらいか。これはストーリーやプロットそのものよりも味覚障害という残酷な症状に冒された登場人物が鮮烈に記憶に残っている。私自身、おいしい物を食べることに目がなく、なんと恐ろしい病気だろうと恐怖に震えたものだ。
その他「その子誰の子」は当時ちょっと話題になった社会問題を反映した内容。
「祝・殺人」は最後のバラバラ殺人の意図がちょっと面白いとは感じたが、普通のミステリか。この理由に使われているあるシステムは当時精力的に導入され始めていたのだろう。そういう観点から読むと、当時の世相を反映していてなかなか興味深い。

当時私は事ある毎にこの本を勧めていた。しかし推薦する対象は読書好きの人ではなく、普段本を読まなくて、読書でも始めようかと思っている人たちだ。
「暇だから本でも読もうと思うんだけど、何か面白い本ない?」
と聞かれるたびにこの本を勧めていた。中には一緒に書店に行って買ってやった人もいる。それくらいミステリの布教活動に勤しんでいた時期があったのだ。
この本はそういう読書初心者、ミステリ初心者には入門書として内容の軽さといい、読みやすさといい、まさにうってつけの作品だった。今振り返って見ると、なんと刊行は1990年、文庫版は1993年だからもう20年近く前の作品だから、今では勧めるには古さを感じるかもしれない。
あ、ちなみに勧めた人たちは全部女性です、念のため。

我らが隣人の犯罪 (宮部みゆきアーリーコレクション)
宮部みゆき我らが隣人の犯罪 についてのレビュー
No.58:
(7pt)

タイトルは仰々しいが雰囲気は実に和やか

今回の舞台はエジプト。とうとう出るべくして出た舞台だ。どういう経緯で彼の地へ行くことになったかといえば、今度はエジプト学研究所の宣伝用ビデオにナレーターとして出演するためにその撮影に同行することになったという物。いやあ学者というのは色んな仕事があるもんだね。確かにアメリカの、例えばディスカバリー・チャンネルとかで、そういった類いの学者が時に斜め45度の角度から自分の研究所でインタビューに答えていたり、あるいはアフリカのサバンナにある岩に斜めに腰掛けてカメラ目線でしたり顔で解説する光景をよく見かけますな。

閑話休題。
物語は例によって例の如く、エジプトを訪れたギデオンとジュリー夫妻がロケ地に向かうナイルクルーズ中にその研究所々長が殺され、そしてさらにその研究所の裏で古い人骨が見つかるという、正にギデオン行くところ、常に骨ありを地で行く内容(ま、これが売りなので仕方が無いが)。
今までもそうだったが今回は特に観光小説の色合いが濃く、事件発生までが本当に長い。作者はエジプトの風景とエジプト人の奇妙な慣習と考え方に筆を多く割いており、恐らくこれは現地取材成果した賜物だと思うが、そのため、事件の部分が後ろに押しやられていると云える。これは近年の作品も同様で、特に『密林の骨』などはこの傾向がさらに推し進められ、骨の鑑定は最後の方に少しだけ出てくるような始末である。したがって本書における事件はなにやら添え物のような感じであり、後半駆け足のように解決に向かう感じがしないでもない。
ただこのシリーズは核となるミステリとは全く関係のないこの外側の部分も非常に面白いので、退屈しない。逆にこのまま事件など起きなければいいのにとミステリ読みとしては矛盾した気持ちにまで陥ってしまう。特に今回はアメリカ人ギデオンから見たエジプト人の考え方などが非常にウィットに富んで(ちょっとした悪意も味付けされて)、語られて、それが非常に面白い。この辺の特殊な考え方は現在アジアの異国の地に住むと、あまり不思議でもなくなってきている。それも一理あるなぁと逆に感心するくらいだ。ただやはりこういう考え方、文化の違いがあるからこそ、人は異国へ旅立つのだなぁと思っている。

最後に恒例となったタイトルについて言及しておこう。本書の原題は“Dead Men’s Hearts”。なるほど直訳すれば『死者の心臓』となるのであながち嘘ではないが、本書には骨は出てきても心臓については全く出てこない。本書の内容から見てもここは『死者の心』と訳すのが妥当だろう。まあ、心臓の方がインパクトあるけどね。

死者の心臓 (ハヤカワ文庫―ミステリアス・プレス文庫)
アーロン・エルキンズ死者の心臓 についてのレビュー
No.57:
(8pt)

次回作を大いに期待したい佳作

美術学芸員クリス・ノーグレンシリーズ3作目にして今のところ最終巻。
今回の舞台は芸術の国フランス。よくよく考えると絵画をテーマにしたミステリで舞台といえばすぐにフランス、パリという図式が思い浮かぶが、3作目でようやく登場というところが意外といえば意外。まあ、深い意味は無いんだろうけど。

さて今回もなんとも面白いシチュエーション。クリスの勤めるシアトル美術館にフランスの画商ヴァシィがレンブラントの絵を寄贈するという申し出があった。しかし真贋鑑定の科学的検査はしないこと、そして美術館の目立つところに「レンブラント作」として展示することという非常に悩ましい条件が付けられていた。
こんな面倒な仕事が回ってくるのがクリスで、彼はこの申し出のためにフランスに飛ぶが、やはりそこでも殺人事件に巻き込まれるというお決まりのパターン。
御決まりなのだが面白いのがこの作家の作品のいいところで、今回は美術に造詣の深い作者ならではの仕掛けが散りばめられている。

まず画商ヴァシィの人となり。魅力的なキャラクターはエルキンズの専売特許だが、これがけっこう問題児で、腕はいいが今まで色んな騒動を起こしてきた人物だというところ。そんな人物が、真贋鑑定はしてはいけない、一番目立つところに作者名付で飾れというのだから、信頼していいのかどうか非常に不安なところ。もし贋作だった場合は真贋を見極められなかった美術館の沽券にも関わり、評判も落とすから、こんな危ない橋は渡りたくないというのが正直な気持ちだが、集客力の強いレンブラントの作品を、無料で頂けるのは美術館としても魅力的なわけでなんとも判断に困るというのが容易に窺える。
さらに今回作者が上手いのは寄贈する作品の作者をレンブラントにしたところにある。と、さも私が美術に精通しているように書いているが、実はこの作品にこのレンブラントの作品を扱う際に陥りがちな罠について述べてあるので、そっからの受け売り。
本書にも書かれているが、レンブラントは実は工房を持っており、弟子達が師匠レンブラントの技法を真似して書いた作品が多々あり、しかもその作品にレンブラント本人がサインまでしているので、非常に真贋が見極めにくい画家だというのだ。だから世に蔓延っているレンブラント作と冠された絵画は到底レンブラント1人が一生に描ける分量をはるかに超えているらしい。こういう薀蓄は堪りませんね。
まあ、そんな背景を見事ストーリーに溶け込ましてヨーロッパ美術の歴史の暗部も盛り込みつつ、読み終わった時にはなんだかいっぱしの美術通になった気がした。
本書はミステリの部分よりもやはり薀蓄やその辺のサブストーリーが琴線に触れたので、ちょっと評価は高くなっている。

さて冒頭に述べたように本書を最後にこのシリーズは続編が書かれていない。その後別の主人公を使って『略奪』という邦題の美術ミステリを発表したがこちらは本格ミステリ風味が薄れ、サスペンス色が濃くなっており、既出のクリスシリーズのイメージが先行して、なんともちぐはぐな印象を受けた。
美術、絵画をテーマにした作品となると、ナチスによる掠奪品、贋作疑惑、盗難事件と意外にヴァリエーションは少ないと思われるが、私が読んでいたマンガ『ゼロ』はそんな制約の中で多数物語を発表しているので、アイデア1つで面白く書けそうな気がする。
もしエルキンズがこのシリーズをもう1作書くとしたら、例えば日本の浮世絵を扱ったミステリを書くなんて、非常にワクワクするのだが、どうだろうか?


画商の罠 (ハワカワ文庫―ミステリアス・プレス文庫)
アーロン・エルキンズ画商の罠 についてのレビュー
No.56:
(7pt)

果たして原題の意味は?

シリーズ7作目。今ではどんな原題であろうと、『~の骨』という統一した邦題が付けられているこのシリーズ。その端緒となったのは9作目の『楽園の骨』からだったと思うが、厳密に云えばシリーズ第3作に当る『断崖の骨』からが最初だといえる。しかし『断崖~』の原題も“Murder In The Queen’s Armes”であり、直訳すれば『クイーン・アームズの殺人』といささか平凡なこともあり、やはりギデオンといえば骨ということで邦題の方が「らしくて」いい。
で、本書の原題は何かというと“Make No Bones”。これは成句で後ろにAboutをつけて、「~するのを躊躇しない、平気で~する、~について率直に云う」という意味。これを邦題にするのは確かに難しい。これは英語圏の人が付ける一種の洒落だろう。なぜこの成句が使われたのかは後で述べることにしよう。

本書の舞台は原点に立ち返ったかのごとく、アメリカ本土のオレゴン州。前作が極寒の地とはいえ、アメリカのアラスカであり、それに続いて本国を舞台にしているということは、やはりそうそう海外にも行ってられないということだろうか。
さて題名にも挙げられている遺骨だが、これは10年前の司法人類学会々長ジャスパーの遺骨に由来する。ギデオンが司法人類学者の会議に招かれ、その学会の会長でもあり、第一人者であったジャスパーの遺骨が本人の遺言に残された希望により、学会会場近くにある博物館に展示されることになった。が、しかしその遺骨が何者かに盗まれ、会議会場の近くで身元不明の白骨が発見され・・・というのが本書の内容だ。
今までギデオンについて「スケルトン探偵」、「骨の鑑定士」なる呼称を使っていたが、彼はれっきとした大学教授でその肩書きは形質人類学者。この形質人類学とは平たく云えば古い骨から人間の進化の歴史を探る学問で、骨を鑑定する同じ観点から司法医学に一脈通じるところがあるらしい。実際の法医学者からこの作品を読んでも、実に興味深い内容が盛り込まれており、学生たちにとっても勉強になるらしい。

さて本書では一時期センセーショナルに取り上げられていた頭蓋骨に粘土を付けていく復顔技術が登場する。なぜ今まで骨がさんざん登場しておきながら、花形といえるこの技術が9作目まで登場しなかったのかと思うが、一片の骨から性別、身長、職業などを当てるというシャーロック・ホームズ的な全知全能の神ともいえるギデオンの推理が骨鑑定シーンの妙味であったことによるのだろう。実際頭蓋骨から粘土で顔を複製することはギデオンの技術とは関係ないのだから、逆に云えば、編集者か、もしくは個人的興味からようやくこの技術に着手したのだろう。で、もちろんこの技術が真相解明に大いに寄与しており、ここが本書の肝となっている。
今回はジャスパーの後任のネリーがいい味を出している。特に彼の着ているTシャツの文句が面白い。確かに海外にいて気づくのは英語の文章が書かれたTシャツにけっこう面白いことが書いてあること。女性ならば定番の「恋人募集中」なんかみたことなく、「もうずっと一人で寝ている」とか「私はオカマだから声掛けてもムダ」とかけっこう過激な内容が多い。デザインもいいのでもし日本人が海外旅行先で意味も解らずに買って街中で着たりするとけっこうニヤつかれるので気をつけた方がいい。
で、原題となっている“Make No Bones”だが、これはジャスパーが自分の遺骨を「平気で陳列する」という意味で無いと思う。恐らく次のジョン・ロウ(はい、本書にもちゃんと出てきますよ、彼)の次の言葉ではないだろうか。

「頭のいい連中がおそろしく馬鹿な真似をする」

なかなか含蓄に満ちた言葉である。


遺骨 (ミステリアス・プレス文庫―ハヤカワ文庫 (74))
アーロン・エルキンズ遺骨 についてのレビュー
No.55: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ああ、イタリアに行きたい!

美術学芸員クリス・ノーグレンシリーズ2作目。前作は贋作事件に携わったクリスだが、本作では美術便盗難事件解決に関わることに。
今回の舞台はイタリア。いやあ、仕事とはいえ、風光明媚な土地を訪れることが出来るのは役得以外何物でもなく、全くうらやましい限り。
そして今回も盗難品であったルーベンスの名画を皮切りにルノアール、ヴァン・ダイク、テルブルッヘン、カラヴァッジオ、ウィテバールにフラゴナールと盛りだくさん(ちなみに題名はフラゴナールの作品について登場人物の1人が語る感想から来ている)。このように名前を陳列してもどの作品がどの作者の物であるのかが一致しない浅薄な知識しか持ち合わせていない私。絵画の本と一緒に読むとさらに楽しめるんだろうなぁ。

今回は美術の薀蓄もさることながら、ヨーロッパ随一の「マフィア社会」と呼ばれるイタリアの慣習、料理、風景がたくさん織り込まれ、クリスたち登場人物を魅了する。何しろ登場人物の1人はイタリアに渡ってイタリア風に名前を変えるほどののめり込みようだ。しかしクリスは盗難事件の解決に携わるという仕事のため、否応無くマフィアに関わりを持たざるを得なく、なんと友人だけでなく本人も暴行に遭って入院する羽目に陥る。
そして前作から引き続いて妻と離婚調停中であったクリスに新しい恋の始まりが訪れるところで物語は終える。この辺の進展もシリーズ物の長所といえるだろう。そういえばギデオン・オリヴァーシリーズも2作目でジュリーを出逢うだったんだよなぁ。
事件そのものよりもこの小説としての皮の部分が非常に面白いのがエルキンズの特徴だが、特にヨーロッパ好き、美術好きには本作は堪らないシリーズだ。


一瞬の光 (ミステリアス・プレス文庫)
アーロン・エルキンズ一瞬の光 についてのレビュー
No.54:
(7pt)

スケルトン探偵=水戸黄門?

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズもこれで6作目。時系列に今までの舞台を書くと(未訳の第1作目は除いて)、アメリカの森林公園、イギリスの断崖、モン・サン・ミシェルの干潟、メキシコの古代遺跡となり、本作での舞台はアラスカの氷河である。暑い所からまたかなり涼しい、いや極寒の地へ行ったものである。
で、もう書かなくてもお分かりかと思うが、今回は氷河から骨が出てくるという趣向。そしてたまたま居合わせたギデオンに鑑定の依頼が舞い込んできて、その骨の正体がまたそこに居合わせた連中には曰くつきのものだった・・・ともう今までの感想をコピペしているような粗筋である。

今回は骨の鑑定よりもジュリーによって説明される氷河の成り立ちに関する知識の方が面白かった。いやあ、本当にこのシリーズはためになると思う。実はこのような薀蓄話は作者自身意識して挿入しているとのこと。本を読んで新しい知識が得られることほど楽しい事はなく、それを創作のときには常に頭に入れているらしい。
さてアラスカの氷河というよほど用事がないとまず旅行では行かないだろうというところにたまたま居合わすというのがすごいと思うが、この無理な設定を愛妻であり、パークレンジャーであるジュリーの研修旅行に同伴するということでハードルを越えていく。後のシリーズもかなり特異なところに行くが、その導入部はギデオンが大学教授であり骨鑑定家であること、ジュリーがパークレンジャーであることと、2人とも特殊な職業に付いていることからそこに居合わせることになっており、ギデオンの研究所に依頼人が来て骨の鑑定を依頼する、なんてことは一切無い。よく考えるとシリーズ探偵物がまず依頼人ありきというフォーマットで語られるのに対し、常にギデオンはたまたま現地に居合わせて巻き込まれてしまうパターンである。これはよく考えるとすごいことだ。前にも述べたがこれは正に『水戸黄門』パターンである。エルキンズは『水戸黄門』を観たことがあるのだろうか。

さて今回もギデオン、ジュリー、ジョン3人のやり取りが非常に面白く、特にジョンはハワイ生まれなのに暑さが苦手というのが面白い。さらにFBI捜査官「らしくなさ」にも拍車が掛かってきている。こういうキャラクター設定の妙味がこのシリーズの醍醐味の1つといえる。
ミステリとして総体的に評価した場合、突き抜けることがないため、水準作となってしまうが、それを補って余りある面白さがこのシリーズにはある。でも続けて読むとやはり飽きてしまうな。半年、いや1年に1回の再会を楽しむように読むのが本書の正しい読み方だろう。

氷の眠り (ミステリアス・プレス文庫)
アーロン・エルキンズ氷の眠り についてのレビュー
No.53:
(7pt)

新婚の2人がお盛んで…( *>艸<)

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズ3作目。これでようやく『古い骨』以前のシリーズ作が訳出されたことになる(第1作目はいまなお未訳だが、『暗い森』の感想に書いたように、趣向が違うため、別物と考えられている)。

で、本作は前作『暗い森』で知り合ったジュリーとギデオンの新婚旅行がテーマに扱われており、物語の舞台は旅行先であるイギリスの片田舎。そして例によって例の如く、そこでまた骨が現れ、新婚旅行中にも関わらずギデオンは骨の鑑定を頼まれることに。そしてまた当然の如く、その骨に関わった人物達の間で殺人事件が起きて、それにも巻き込まれるという正に黄金パターン。
後の作品の感想にも述べているが、このシリーズは『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』ら、定番時代劇に似た趣があり、この永遠のマンネリズムを楽しむのが本書の正しい楽しみ方といえよう。事件に関係する個性豊かなキャラクターとウィットに富んだ会話、そして毎回骨の鑑定で唸らされる薀蓄の数々。舞台と登場人物を入れ替えただけと云われればそれまでだが、逆に云えば、これほど安心して読めるシリーズも無い。

で、本作は新婚旅行であることもあり、いつになくジュリーとギデオンの中がアツイ。もう終始やりまくり、失礼、ラブラブである。この2人の熱い会話も骨の鑑定家ギデオンならではの専門的な誉め方が入っており、なかなか面白い。
そしてエイブ・ゴールドスタイン再登場。というよりも本当は『呪い!』よりもこっちの方が先。この好々爺が実にいい味を出している。ギデオンが師と仰ぐだけの知識と経験となにより豪放磊落さが非常に小気味よい。
また骨の鑑定士ギデオンが意外な事に死体が苦手だということが発覚する。なるほど、乾いた骨は美しさすら感じるけど、やはり肉が付いていると気持ち悪いという感覚は解る気がする。
事件はあからさまなミスディレクションが仕掛けられているので、逆に一番疑わしい人物が犯人ではないと概ねの読者は思うだろう。明かされる真相は驚愕ではないにしろ、ミステリとしては水準と云える。ま、このシリーズにはどんでん返しは求めていないのでこれはこれでいいのだが。

さて新婚旅行で事件に出くわすというのは恐らくシリーズ物ではけっこうあるのだろうが、私はセイヤーズのピーター卿シリーズ『忙しい蜜月旅行』しかまだ読んだことが無い。で、この2作に共通するのは新婚旅行中に事件に巻き込まれることとは別に、両方とも新婚旅行先がイギリスの片田舎、つまり観光地ではないことだ。片やイギリスの作家、片やアメリカの作家であり、国民性に違いはあるのだけれど、これって欧米人特有の感覚なんだろうか?日本人ならば新婚旅行は有名な観光地で休日を満喫するが、両者に共通するのは旅慣れた旅行者が普段観光客が行かないところだ。喧騒を離れて2人きりで愛を交わしたいという意思の表れなんだろうか。その辺もなかなか興味深かった。

断崖の骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ断崖の骨 についてのレビュー
No.52:
(8pt)

絵画の蘊蓄満載!

アーロン・エルキンズはスケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズが有名だが、実はもう1つシリーズ物がある。美術館学芸員クリス・ノーグレンシリーズである。
一方は骨の鑑定家、もう一方は学芸員と全く毛色の違う2つのシリーズだが、双方比べても質が同じであるのはこの作家のすごいところ。このシリーズでは美術に関する専門的な知識、トリビアがふんだんに盛り込まれ、知的好奇心をくすぐる内容が横溢している。

クリスはベルリンに出張している上司に呼び出され急遽彼の地に飛ぶことに。ベルリンの美術館で開催される「ナチ略奪名画展」の作品の中に贋作が含まれており、それを見つけ出すようにというのが出張の目的だった。調査の中、しかしその上司は殺されてしまい、クリスも事件の渦中に引きずり込まれてしまう。

西洋美術に第2次大戦中のナチスの美術品強奪が絡むのはミステリの題材としては非常に魅力的であるのだろう。そしてシリーズ第1作目としてこの歴史的事実と贋作という美術ミステリには無くてはならない題材を絡めたのは作者のシリーズに対する創作意欲と固定ファンを掴むための宣伝効果双方によるものだと思う。
で、このシリーズで主人公を務めるクリスは全くギデオンとは違うキャラクター。ギデオンが妻ジュリーといつも仲睦まじいのに対し、クリスは妻と離婚寸前という情けないキャラクター。しかも人使いの荒い上司へのグチも云う。が、なぜか女性にモテるという面白いキャラクターであり、非常に人間くさくて私は好きな主人公だ。
で、このクリスが殺人犯捜しと贋作探しに孤軍奮闘する。エルキンズのミステリは真っ当なミステリなので、云わずもがな見事クリスはこの2つの事件を解決するのだが、こういう普通の男が見事目的を達成するところは爽快感すら漂う。

真相は、なかなか面白い。特に贋作発見についてクリスのインスピレーションは逆説的であり、思わず「ほお・・・」と声を出してしまった。この相矛盾するエゴによる動機は美術収集家だけのみならず、あらゆる収集家に共通する思いだろう。
以前『ゼロ 神の手を持つ男』という漫画を愛読しており、それがこの作品と非常にダブった。どちらも美術を扱う作品であり、作品に散りばめられた薀蓄も重複するところが結構あり、非常に楽しく読めた。ただ『ゼロ』で頻繁に登場する「炭素14法」が全く出てこなかったところに疑問。使われた塗料、キャンパスが当時のものであるか、その中に含まれた炭素14の崩壊率から年代を推定するこの方法は現代の真贋鑑定に必ずといって採用されるものだと思っていたが。単にエルキンズが知らなかったんだろうか?

まあ、それはさておきギデオン・オリヴァーシリーズに続いて本書もハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されており、私同様ファンがいることが確認され、嬉しく思った。
ちなみに本作で取り上げられる絵画の中には数年前日本でも絵画展が大々的に開かれたフェルメールがあり、物語でも重要なファクターとなっている。フェルメールに興味のある方はそれだけでも本書を読む事をお勧めしたい。

偽りの名画 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ偽りの名画 についてのレビュー
No.51:
(7pt)

ミステリ界一アツアツ夫婦の誕生

このシリーズの読みどころは数あるが、その1つにギデオンとその妻ジュリーの仲睦まじいやり取りがある。毎度毎度ケンカすることも無く、けっこう年取った夫婦でありながらも熱々ぶりを披露する2人(逆に云えば、もっと2人に何か起きてシリーズに新風を吹かすくらいの演出をすればいいのにと思うが)。
その2人の馴れ初めが書かれているのがシリーズ第2作に当る本作。余談になるがシリーズ第1作“Fellowship Of Fear”は現在も訳出されていない。聞くところによると、第1作目はどちらかといえばホラー色が多く、シリーズとは異質の内容らしく、恐らく作者自身も封印したいのではないか。したがって本作こそが実質的なシリーズ第1作といっていいだろう。

物語の舞台は本国アメリカはワシントン州にあるオリンピック国立公園。ここで人骨の一部が見つかり、その調査をギデオンが頼まれる。そこでは6年前にハイカーが行方不明になった事件があり、その人物の遺骸であると判明する。しかし不可解なことにその骨に残った槍の穂先はなんと一万年前に絶滅したはずの種族の物だった!
非常に興味深い内容で、しかも学術的趣味に溢れている1作だ。まずオリンピック国立公園に関する薀蓄。なんとこの公園は実在し、敷地は神奈川県よりも広い(!)らしい。さらにギデオンによる骨の鑑定シーンで得られる法医学知識。そして本書に絡む幻のネイティヴ・アメリカンと云われるヤヒ族の話。
ギデオンが未来の妻ジュリーと出会うのはこの奥深い森を持つ公園。ジュリーの職業はパークレンジャーであり、密猟や森林の管理、そして遭難者の捜索など、全般的な公園の監理業務が彼女の仕事である。そこで遭難したギデオンを見つけた彼女はこの奥深い森の中で一夜を過ごす。そこに性的交渉はないものの、この非日常的状況が2人をくっつけるきっかけになったのは自明の理で、まあ、ベタといえばベタか。
また本書では準レギュラーのFBI捜査官ジョン・ロウも出てくる。つまり本書で既に固定キャラは登場してしまっているのだ。
やがてヤヒ族最後の生き残りが見つかり、ギデオンらは感動に震える。作者は元々大学教授であったこともあり、このような学術的な発見はいつか自分も成しえたかった夢であったのだろう。それを自作で実現させたように思える。

さて今回だが、個人的な話をすれば犯人は解ってしまった。これが解らなければ、本書は私の中でかなり上位になったかもしれない。骨の鑑定から一万年前の槍の穂先が見つかり、それを裏付ける絶滅したと思われるネイティヴ・アメリカンの登場。ここまでの流れはミステリではなく、冒険小説の筆運びになるからだ。いわゆる噂のみで存在する財宝を発見する話と変わらない。そう思わせておいて、実はミステリだったという、仰天の展開が繰り広げられるのだから、そうと思わずに読んでいれば傑作と褒め称えただろう。実際故瀬戸川氏は本書を大絶賛している。しかし、私の悪い癖で、推理とは関係のないところ、云わばミステリ読みの勘とも云うべき部分で真相を見抜いてしまった。しかしこれはこれで自分で謎を解いたのだから作者とのゲームに勝ったという意味で楽しめたと云える。
私は常々作家の作品は刊行順に読むべきだという持論を述べているが、本書に関しては特にそうは思わなかった。本来ならば刊行順に『暗い森』→『断崖の骨』→『古い骨』→『呪い!』と読むのがいいのだろうけど、逆にこのシリーズでは『古い骨』、『呪い!』でさんざん見せ付けれらた2人の熱々ぶりのそもそもの始まりを知ることになって逆に興味深く読めた。
このシリーズが好きな方は決して読み落とすべき作品ではない。なぜなら・・・って云わないでも解るか。

暗い森 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ暗い森 についてのレビュー
No.50:
(7pt)

変わらぬ構成をどう見るか。

エドガー賞受賞の『古い骨』の次に発表されたスケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズ第5作目。日本での紹介も同様に『古い骨』の次に訳出されている。
前作はフランスのモン・サン・ミシェルが舞台だったが、本作ではメキシコのマヤ遺跡が舞台。遺跡の発掘に関わっていた恩師エイブ・ゴールドスタインから遺跡から古い人骨が出てきたのでその調査を依頼されるというのが物語の導入部。その人骨の傍にあった古文書を解読すると、遺跡に踏み入った者には呪いがかけられるという不穏な内容。そしてその予告どおりに発掘メンバーに呪いがかかったような不吉な出来事が起きだすというのが物語の骨子。

『古い骨』の感想にも書いたが、基本的にこのシリーズのストーリーは突飛な物はなく、非常にオーソドックスな趣向で展開する。この古代遺跡の呪いというのも古来ミステリ作家が一度は題材に扱う内容で、定番中の定番。古代の呪いを扱う場合、往々にしてエジプトのファラオの呪いであるのが、本書ではメキシコのマヤ文明であるところがこの作者なりの味付けか。
で、恐らく本国アメリカでもそうだっただろうが、エドガー賞受賞後1作として発表された作品である本書は周囲からの期待値も高かったに違いない。しかしその期待を上回ることはなかった。実に普通のミステリである。骨の出現で呼ばれるギデオン夫婦、そこで起こる不穏な出来事が殺人事件に発展し、そして挟まれる骨の鑑定シーン、さらにギデオンにも危険が及び、そして大団円と全く『古い骨』と構成は一緒だ。一応フーダニットは盛り込まれているが、それによるサプライズというのはあまり感じない。
ミステリの外側の部分はどうかというと、これは読ませる。マヤ遺跡という恐らく大多数の人が行くことのない場所に関する叙述は興味をそそるし、また恩師エイブ・ゴールドスタインのキャラクターは出色の出来である。しかし上にも書いたように基本的には『古い骨』の構成をなぞらえているだけで、単純に舞台と登場人物を変えただけという感じは否めない。これが2作目である本書を読んだ時の率直な感想だ。しかしこれが巻を重ねることにこれこそエルキンズの味だというのが解ってくるのだが、まだこのときは引き出しの少ない作家だなとしか思えなかった。

呪い! (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ呪い! についてのレビュー