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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数688

全688件 101~120 6/35ページ

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No.588:
(7pt)
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歪みに歪んだ兄弟の戦い

これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。

ランボーと云う戦闘マシーンのような主人公、CIA捜査官、暗殺組織・秘密結社の工作員と常人よりも戦闘に長けた能力を持つ、映像向きな主人公を添えることが多いマレルだが、本書の主人公ブラッド・デニングは一介の建築家。アウトドアもしたこともなければ銃も撃ったこともない、ごく普通の妻子持ちの男である。
そんな男が家族を奪った男に家族の奪還と復讐を誓うのが本書だ。しかもその相手は実の弟となかなかツイストの効いた設定である。

小さい頃、野球を友達としに行くのについてくるのを鬱陶しいと思ったことで追い返した弟がそのまま何者かによってさらわれてしまうという、悔いの残る傷を心に負った男ブラッド。しかしその彼は建築家になり、自分の設計した家がテレビ番組で紹介されたことでその弟と数十年ぶりに再会する。

その空白の時間を埋め合わせるために彼とその妻と息子との心温まる交流が実に眩しい。そしてそんな不遇の時代を過ごした弟ピーティも自らの境遇によって心を病んでいる様子でもなく、むしろどんな状況をも愉しむかのような磊落な性格を見せ、ブラッドの息子ジェイソンの良き遊び相手にもなっていた。

そんなごく普通の家庭に新たに加わった家族との微笑ましいエピソードが続く中、突然災厄が訪れる。
この反転は正直かなり衝撃的だった。裏表紙の紹介文を読まなかったらもっと驚いていただろう。

神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。
この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。即ちブラッドが弟と思っていた男は実はレスター・ダントという犯罪常習者だったという物だ。
しかしブラッドは自分がテレビに出た時に失踪した弟のことを紹介されたがために数多くの嘘つき電話に悩まされていたが、そんな不埒な輩とは違う、弟しか知り得なかった情報を知っていたことでそれを容易に信じない。写真がレスターであることや周囲の人間がそれを証言しようとも頑なに信じず、弟の仕業であると固執する。それは赤の他人の犯罪者ならば連れ去った妻と子供が邪魔になって容赦なく殺害することを恐れていたからだ。まだ妻子が生きていることを信じるために彼は誘拐者の男を弟と信じるのだ。

FBIと警察による捜査が捗々しくなくなり、そして捜査チームが解散して事件から1年経ったときにブラッドはようやく自分で犯人を、弟と妻子を探すことを決意する。自分の経営する会社を畳み、フィットネスクラブで体を鍛え、射撃の教室に通って銃の腕を磨き、護身術のクラスにも通う。そして腕利きの元FBI捜査官の探偵に捜査術と偽りの身分を手に入れる方法を学ぶ。

通常ならばその件は一介の建築家が凄腕の復讐者に生まれ変わるシーンだが、マレルは意外にあっさりと描く。ほんの20ページにも満たない。従って読者はブラッドが生まれ変わったようには思えないのだ。

それを裏付けるかのようにブラッドのその後の捜索もどこか空回りしているように思える。犯人が弟のピーティであることを想定して当時の足取りを探るのだが、それも彼が弟に成り切ったように振る舞って自分の考えで進むだけである。
そこには何の根拠もなく、現場に漂う雰囲気で、もし自分が弟だったらそうしたであろうという薄弱な根拠で突き進むだけなのだ。

おまけに否定していたレスターの存在も意識し、彼の生家のある町に向かう。それはブラッドが弟と生まれ育ったオハイオ州の町の近くであったことから立ち寄ることにするのだが、そこで昔のことに詳しい神父に聞かされるダント家の異常な家庭環境が目を惹く。


このレスター・ダントのおぞましい過去もかなり衝撃的だが、この一見単なる回り道と思われたエピソードが実は意外な物語に意外な展開をもたらす。

物語の結末は苦い。

数十年ぶりに行方知れずとなった実の弟を家族の一員として温かく迎えたブラッドとその妻と息子の末路がこれほどまでに悲惨な変容を遂げたことがなんとも哀しい。

またピーティを無くしたデニング一家も、ブラッドの父親が酒浸りになって会社を首になり、交通事故で亡くなり、母親と2人になったブラッドは他の市へ引っ越して小さなアパートで暮らすようになる。毎年失踪者の絶えないアメリカではこんな悲劇が幾度も繰り返されているのかもしれない。

しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。

さて本書は2002年の作品で1972年にデビューしたマレル作品では後期に当たる。その頃の作品に該当するのは本書の2作前が『ダブルイメージ』で本書の次の作品が『廃墟ホテル』とどちらも奇妙な展開を見せる異色の作品なのだ。

『ダブルイメージ』も何が本当の敵かがなかなか解らない、一言で云い表せない非常に特異な作品であったが、『廃墟ホテル』はマレルにとっては全くの異色作でありながら、実に面白い作品であった。

主人公が凄腕のエージェントや元軍人でもない一介の建築家であることも『ダブルイメージ』の主人公が同じく一介のカメラマンであることに通ずるものがある。

この意外に一筋縄でいかないマレル作品、久しぶりに読むと他の作家では味わえない奇妙な味わいがある。
既に彼の作品が訳出されなくなって久しいが、この独自のテイストは年一冊のペースで読むとなかなか面白く感じる。特に後期の『廃墟ホテル』、奇妙な味の短編集『真夜中に捨てられた靴』などは『このミス』にランクインするほど再評価の気運が高まっていただけにこのブランクはさみしい限りである。
『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』をまずは文庫化してほしいとしつこく述べてこの感想を終えよう。


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ブラッド/孤独な反撃 (ハヤカワ文庫NV)
No.587:
(7pt)

ワルの生き様にこそミステリが潜むことを知らしめたハメットの功績

河出文庫が未紹介短編を中心に独自で編んだ短編集。とはいえ幕開けはハメットの長編デビュー作である「ブラッド・マネー」が飾る。

ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。
さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。
なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。
真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。

さて次からは短編、いや短さから云ってほぼショートショートのような作品が並ぶ。

訳者の小鷹氏の解説によると「帰路」はハメットの正真正銘のデビュー作らしい。2年間追い求めた男を中国の雲南省でようやく捕えた男と逃げた男のやり取りを描いた6ページの作品。

次の「怪傑白頭巾」は変わった話だ。
なんだかよく解らない作品。

次の「判事の論理」は実際にあった話だろうか。
正直これはアメリカの法律をある程度知っておかないと解らない面白さだろう。

続く「毛深い男」はフィリピンの島々を舞台にした物語。
平和な島に訪れた異分子によって起こる不協和音。これはよくある展開だ。
人間の拠り所について語った作品と云えるだろう。

「ならず者の妻」ならば日常もまた我々のそれとは違うようだ。
強盗稼業で生計を立てている男を夫に持つ妻マーガレットはよくある悪い男に魅力を感じる女性。だから周囲のゴシップの種になっても全然気にならず、むしろそんじょそこらの旦那と違う夫に誇りを持っていた。
そんな彼女が夫の犯罪仲間に自分の取り分を強要され、屈服するところを見た時、彼女の、夫に抱いていた8年間の誇りの塊が消え失せてしまう。
複雑な女心をこんな形で描くハメットは、やはり人間を知り尽くした男だったことが解る1編である。

最後はたった5ページの掌編「アルバート・バスターの帰郷」で締めくくられる。
悪党の世界のどうしようもなさを描いている。息子を誇りに思った父親が息子の仕事を知るとどのように思うのだろうか。


荒くれどものジャムセッション。
ハメットの作品群を読むといつもそんな思いを抱く。
当時殺人や犯罪を扱った小説、ミステリがパズル小説ばかりだった時に、ハメットは悪党どもの犯罪をリアルに描いた。金目当てや怨恨で犯罪を行う人たちの本当の世界を生々しく描いたのだから当時の読者にとってはかなり衝撃的だったことだろう。

そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。
生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。
そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。

もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。
そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。

また登場人物たちの心境も非常に深い。特にワルに魅かれる女性たちが生き生きとしている。
品行方正、実直な男よりも少し影があり、危ない雰囲気を纏った男に魅かれる女の心情を描いている。それは恐らくハメットの妻リリアン・ヘルマンの存在が大きいだろう。探偵稼業に身を置いていた彼に魅かれたリリアンこそが彼の作品に登場する女性全てなのかもしれない。

ワルに憧れて共にするが、自分が置かれている境遇の危うさに気付くと逃れようともがくが既に手遅れになってしまっていることに気付く浅はかな女性、突如現れた無類の強さを誇る男に、夫を捨てて走る女性もいれば、絶対のワルと信じて尽くしてきたのに、夫の弱さを見ることで何かが変わってしまった女性もいる。
ハメットの小説に出てくるワルたちをそんな複雑な心理を持つ女性たちが補完していると云っていいだろう。

私がハメットを読んだのは17年前でまだ20代だった頃。その時は正直彼の小説を十分理解したとは云えなく、当時の感想がそれを証明している。
今回十数年ぶりにハメットを読むと、小鷹氏の訳の巧さもあってか、実に愉しく読めた。
いつかまたハメットは読み直さないといけないだろう。
その時がいつ来るかは未定だが、読後、今とは違った思いを抱くことだろう。その時の私がどんな感想を持つか、それもまた愉しみだ。


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ブラッド・マネー (河出文庫)
ダシール・ハメットブラッド・マネー についてのレビュー
No.586:
(7pt)

壮大なる物語のほんの序章

キングが若かりし頃に読んだトールキンの『指輪物語』と映画館で観たセルジオ・レオーネ監督の『夕陽のガンマン』に触発されて書かれた全7部からなるダーク・ファンタジー小説が<ダーク・タワー>シリーズである。本書はその記念すべき1作目。
この度映画化が発表され、それに伴い、かつて刊行されていた角川文庫から再び新刊として現在毎月刊行されているが、私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版である。

その第1作目である本書の前書きによれば1970年に着手して2004年に完成したとあるから30年以上に亘って描かれたシリーズだ。
一旦4巻まで書かれた後、長らく中断されていたが、キング自身にある大きな転機が訪れる。それは1999年に散歩中にライトバンに跳ねられて交通事故に遭うのだ。それは回復した現在までも片足が不自由になるほどの後遺症を遺すが、その事故で一命を取り留めたキングはファンの声にも支えられてシリーズ完結を目指し、2004年に完結を見せる。

長い前書きには事故に遭った際、シリーズ未完にしてキングがこの世を去るのではないかというファンの言葉や、結末を催促するキングの祖母の手紙、更には自分が刑を執行されるまでには決着をつけてほしいと催促する死刑囚からの手紙を受け取ったというエピソードが盛り込まれている。
それほどまでにファンを、読者を魅了するこのシリーズは果たしてどのような物なのかと興味津々でページを捲った。

物語は主人公である最後のガンスリンガー、ローランド・デスチェインの過去と旅の道連れになった白髪頭の少年ジェイク・チェンバーズが来た別の世界の話とが時折挟まれながら、黒衣の男を追う旅が語られる。途中、夢魔のスキュプスやスロー・ミュータントに襲われながらも黒衣の男に辿り着くのだが、長大な物語の序章である本書ではまだはっきりとしたことがよく解らない。黒衣の男を追い、暗黒の塔を目指すガンスリンガーの物語というだけがはっきりとしている。その目的もまだよく解らない。

物語を形成する世界独特の言葉が時折挿入されるが、それらについての説明は語られない。
ガンスリンガーが話すハイ・スピーチ語、ロー・スピーチ語、邪な抱かせるように思える<カ>の力、烏頭の人間タヒーン、<内世界>、メジスやギリアドという国。

ただそんなファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。
我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。

本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。
そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。
この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。

ガンスリンガーが目指す<暗黒の塔>には一体何があるのか。そして本書で登場したローランドが愛した女性スーザンとは何者なのか?
数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。


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ダーク・タワー1 ガンスリンガー (新潮文庫)
No.585:
(7pt)

書物に魅せられし者たちの闇

紀田順一郎氏と云えばビブリオミステリだが、今回は今までの神保町を舞台にした古書収集に纏わるミステリではなく、大学の図書館で起きた殺人事件を扱っている。しかも狂的な古書収集趣味を持っているのは学長の和田凱亮のみで、周囲の人間は大学の費用を稀覯本収集に公私混同して費やす学長に反発する教授たちが取り囲み、学内では派閥争いが起こっているという珍しい設定だ。

しかし事件はなかなか起きない。
主要人物の図書館運営主任の島村、誠和学泉大学の創設者和田凱亮、その養子で図書館情報学部助教授の和田宣雄、そして事件の犠牲者である結城明季子らの関係がじっくりと描かれ、事件が起こるのは100ページを過ぎたあたりだ。それまでは彼らの関係性に加え、大学の図書館の実情と誠和学園大学々長のコレクションが陳列された第三閲覧室なる秘密の図書空間について語られる。この第三閲覧室は大学の施設なのにその閲覧室は学長の許可がないと入れないという、まさに巨大な私的書庫となっている。

まず面食らったのは本書の被害者となるのが結城明季子であることだ。通常上述されたような人物構成の場合、アクの強い人物が殺害されるというのがミステリの定石だろう。つまり本書ならば大学の施設を一部私物化している学長が第三閲覧室で殺害されるという流れになるのが普通ではないか。

しかし被害者は結城明季子。彼女は妻を亡くし、娘が外国で暮らし、そして不肖の息子を抱える島村が大学の図書館運営主任となったことを機に鶴川の自宅から聖和学園大学の教員寮に引っ越しするのに、彼の有する約1万5千冊もある蔵書の梱包と運搬を手伝うために大学の助教授で島村を引っ張ってきた和田宣雄によって派遣された元司書の女性。アラフォーだが、容姿端麗で障害者の子供を持つ母親に過ぎない彼女が燻蒸後の図書館で遺体となって発見される。

一見事故死に見えるこの事件に不審な点を警察が見出したことを聞きつけた新聞記者が古書店主である岩下芳夫に調査を依頼するというのが本書の流れだ。

今回の探偵役を務める岩下の登場も実に遅く、100ページ辺りで登場する。それからは古書に纏わるエピソードと共に事件の調査が進む。
この独特の世界の話がまた面白いのだがそれについては後述するとしよう。

密室殺人、ダイイング・メッセージと本格ミステリの要素を放り込みながらも新本格ミステリ作家たちが描くようなトリックやロジックの追求といったガチガチの本格という空気は実に薄く、正直私自身はそれらのトリックについては読書中ほとんど考慮しなかった。

なぜかと云えば登場人物たちのディテールの方が実に濃密で面白かったからだ。

例えば岩下の調査が進むにつれて、単なる一介の元司書だと思われた結城明季子の存在に謎が生まれてくる。
島村が大学から借り受けて論文をしたためようとしていた『現代日本文学全集』がいつの間にかすり替えられていたこと。そして有休を利用して梱包を手伝っていたはずなのになぜか梱包作業当日も勤務先である福祉科研修センターに出勤していたことなどが明らかになってくる。
一体結城明季子とは何者だったのか?
幻の古書を巡る殺人事件の謎を探る一方で被害者である結城明季子についても謎が深まってくる。

また主要人物たちに関するディテールがとにかく濃い。
容疑者である島村が誠和学園大学の図書館運営主任になった島村が現職に至るまでの和田宣雄との縁について書かれた内容や和田凱亮の生い立ちなどは、かなりのページが割かれて描かれ、一種実在の人物の伝記かと見紛うほどの濃さがある。昭和の混乱期を生きてきた人間の逞しさや強かさを行間から感じるのである。この濃度は戦前生まれである紀田氏のように戦前戦後の混乱期を知る作家の強みというものだろうか。

また本に纏わる蘊蓄も豊かで知的好奇心をそそる。稀覯本の真贋鑑定に関係して紙博士なる府川勝蔵なる人物が登場するが、そこで披瀝される紙やインクに関する知識は実に興味深い。戦前戦後それぞれの時代背景からパルプ材として使用されていたのが針葉樹から広葉樹に替わったこと、繊維と繊維を繋ぐ方法などそれら技術の進歩により、例えば昔の書物の紙は経年変化で茶色に変色しやすいが現在ではそれも解消されつつあること、光に透かして見ることでムラがあるなどの豆知識が得られる。

また書物に淫した人々の話であるから、私も数々の本を所有する者のはしくれとして大いに共感するところもあった。
例えば書庫を見た時に陳列された書物以上に空きスペースがあることを羨ましくなったり、もしくは新しい書庫を手に入れた時の空きスペースの多さに驚喜するといったこと、さらに引っ越しの時に家にある蔵書をいかに理想的に移すかなど、身に覚えのある事柄もあり、面白い。
また昔の文庫などを読んでいると非常に字が細かいことに気付かされるが、作中人物の島村が昔は高齢の読者が少なかったからではないかと述懐するところがあるが、これもなるほどと思わされた。つまり時代が下るにつれ、教育を受けた高齢者が増えてきた今だからこそ高齢者も活字を読むのが当たり前だろうが、昔の人々はまだ教育が不十分であったから書物を読むという習慣がなかったため、出版社は老眼などを気にする必要などなかったのだろうとも推測される。

更にこの作者ならではの古書購入に関する意外な知識も今まで同様に盛り込まれ、例えば昔大ベストセラーになった全集などは古書として出回っているため、高価で取引されない上に嵩張るため、反って古書店が積極的に取り扱わないこと、また全集は後期になればなるほど発行部数が少なくなるため、揃えにくいことなど、私自身がその分野に今後手を付けることはなくとも、興味を覚える内容が盛り込まれている。

さて結城明季子を殺害したのは誰か?
これは意外な人物だった。

曖昧と云えばもう1つ。本書のメインの登場人物である島村の私生活の問題だ。
生前の妻が勝手に不動産の名義を夫婦両名にしたことでやくざ者となった放蕩息子から遺産分配を強要され、おまけに彼の一味の者と思われる地上げ屋に付きまとわれ、電気なども勝手に切られる始末。今回の事件解決に駆り出されたものの、これら私生活の問題は一切解決しない。
正直このエピソードは島村が最有力容疑者として連絡不通になった理由のための話であるのだが、それが意外にも重くて無視できないほどの内容になっている。

これらを踏まえると意外な犯人を設定しては見たが動機はさほど練られてなく、またミスディレクションの演出のために余計な設定を持ち込んでしまったように思えてならない。上にも書いたようにディテールが濃いだけに逆にミステリとして犯人の動機という肝心な部分や登場人物のエピソードがなおざりになってしまった感があるのは正直勿体ない。

私も本好きで、できれば図書館などで借りるのではなく、自分で所有したい人間。しかも新刊であることに拘り、読むために手に入れた古本は読了後手放している。従って本とは読むために所有する物と考えており、決して集めて悦に浸る物として考えていないから、これらコレクターの境地が解りかねる。
本は読まれてこそ本であり、保管されているだけでは書物本来の意義がないではないかと思っているので、逆に云えばまだこのような境地に至っていない自分は正常であると改めて認識できた次第である。
ただ絶版を恐れて買ってはいるものの、読むスピードとつり合いが取れていないため、関心のない人から見ると私も大同小異だと思われているのかもしれないが。

紀田順一郎氏のビブリオミステリは一ミステリ読者として自分がまだごく普通のミステリ読み、書物購入者であることを再認識させられるという意味でも良著だ。
このような本に魅せられ本に淫した人々のディープな世界を見ることはしかしなんと面白い事か。どんな世界でも人を狂わせる魔力はあろうが、書物に関しては派手さがないだけに闇の如き深さがあるように思われる。
最近絶版の本は古本を購入して読むようになってきた私も本書に描かれた人々のような闇に囚われないよう気を付けねば。


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第三閲覧室 (創元推理文庫)
紀田順一郎第三閲覧室 についてのレビュー
No.584:
(7pt)

映画とは異なるが、コレはコレで愉しめる

キングがリチャード・バックマン名義で出した4作目の作品はアーノルド・シュワルツェネッガーで映画化もされた本書。
その映画が公開されたのが1987年。なんともう30年も前のことだ。当時中学生だった私はテレビ放映された高校生の時にテレビで観た記憶がある。但し細かい粗筋は忘れたが賞金のために1人の男が逃げ、それを特殊な能力を備えたハンターたちが襲い掛かるのを徒手空拳の主人公であるシュワルツェネッガーがなんとか撃退しつつ、ゴールへと向かうと朧げながら覚えている。恐らくこの<ハンター>という設定と制限時間内で逃げ切るという設定は現在テレビで放映されている番組「逃走中」の原型になったように思える。

そんな先入観で読み進めていた本書だが、映画とはやはり、いやかなり趣が違うようだ。

Wikipediaで補完した映画の内容では主人公のベンは警察官で、上司の命令に従わなかったことで逮捕され、脱獄を果たすが、弟のアパートへ訪れるとそこには既に弟はいなく、次の住人が住んでいた。この住人はテレビ局員であり、彼女を伴って空港から脱出しようとするところを機転を利かせた彼女が大声で叫んだことで捕まり、そのままデスレース番組として人気の高い『ランニング・マン』(この表記は解説のまま)に出場させられる羽目になる。

しかし本書の主人公のベンは貧民街に住む男。2025年のアメリカは富裕層と貧困層で二極分離した社会で空気中には汚染物質が漂い、富裕層はそれらの影響のない高い土地で暮らし、貧困層はたった6ドルの材料費で200ドルで売られている安っぽいフィルターを付けないと肺が侵されてしまうような環境で暮らさなければならない。そんな苦しい環境から目を逸らすために政府はフリーテレビを支給し、出場者が脱落して命を喪うゲームを観ては満足する毎日。ベンも1日中働いても雀の涙ほどでしかない稼ぎのため、妻は売春をして日銭を稼いでいる。電話などはもちろんなく、アパートの前にある公衆電話を使って連絡を取るような状況。そんな毎日だからまだ1歳半の娘のインフルエンザの治療費などは到底なく、それを稼ぐためにテレビ局のオーディションを受けるが、その知性と身体能力を買われ、番組『ラニング・マン』に出場するというのが導入部である。

このベンの設定も映画では正義感溢れる警察官だが、本書では知性もあり、体力もありながら反抗的な性格が災いして先生に暴力を働いたかどで退学させられた男。つまりキング作品によく出てくる癇癪を抑えきれない男として描かれている。

また番組『ラニング・マン』の内容もいささか異なる。映画では地下に広がる広大なコースを舞台にそれを3時間以内に各種のタラップやハンターたちの追跡(なお映画ではストーカーという呼称)から逃れてゴールすれば犯罪は免除され膨大な賞金を得ることが出来るという設定。

原作では舞台はアメリカ全土。1時間逃げ切るごとに100ドルが与えられる。ハンターが放たれるのは12時間後、そして最大30日間生き延びれば10億ドルが賞金として得られるという、時間と行動範囲のスケールが全く違う。そのため更にテレビ放送用にビデオカセットを携え、それを自身で録画してテレビ局に送らなければならない。

従って映画のようにまず次々と必殺の武器を備えたハンターが出てくるわけではなく、ベンは犯罪の逃亡者が行うように、闇の便利屋を通じて偽装の身分証明書を作り、ジョン・グリフェン・スプリンガーと名を変え、変装し、ニューヨーク、ボストン、マンチェスター、ポートランド、デリーへと国中を渡り歩いていく。周りの人間が自分を探しているのではないかと疑心暗鬼に怯える日々を暮らしながら。
つまりどちらかと云えば昔人気を博したアメリカのドラマ『逃亡者』の方が設定としては近い。というよりもキングは1963年に放映されていたこのドラマから着想を得たのではないかと考えられる。

四面楚歌状態のリチャーズは逃亡の中で数少ない協力者たちを得る。ボストンでブラッドリーという18歳の青年は図書館でこの世の社会の歪みを知り、そのシステムを打ち砕く希望をベンに託して協力する。

彼の友人の1人、ポートランドのエルトン・パラキスもベンを匿おうとするが、息子の反社会的行動を理解しない母親によって通報され、そのパトカーからの逃走劇の最中、重傷を負う。

そんな協力者の庇護を得る中、やがてベン・リチャーズの中でもこの『ラニング・マン』へ参加する目的が変わっていく。

最初は自分の赤ん坊の治療費を得るためという利己的な目的だった。しかし汚染される空気の中、フリーテレビという娯楽を与えられることでそれらの社会問題から目をそらされ、やがて灰を患い、死に行くだけの人生を余儀なくされている低下層の人々の反逆として彼は行動するようになる。

そのため毎日送る2本のテープには政府の欺瞞に満ちた政策を暴露するメッセージを盛り込むが、これも巧妙にアフレコによって改ざんされ、単にベンが口汚く罵倒するシーンになってしまっている。映像による情報操作により、国民はベンへの怒りを盲目的に募らせるのだ。

また最も大きな違いとして映画で出てきた個性豊かな特殊技能と武器を備えたハンターは実は全く出てこない。警察との命を賭けた逃走劇が何度も繰り返されるだけで、深手を負い、満身創痍になりながらひたすら逃げるリチャーズの様子が描かれる。

さて物語は今までのキング作品と異なり、短い章立てでテンポよく進む。改行も多く、登場人物たちの主義主張や思想などが語られてはいるものの、通常の作品のようにページを埋め尽くすかのようにびっしりと書かれているわけではない。

また特徴的なのはマイナス100から始まる章が進むにつれて1つずつ減っていることだ。つまりこれはゼロ時間に向けてのカウントダウンとなっている。
果たしてこの数字が0となる時に何が起こるのか?
それもまた読み手の興味をそそる。

本書の設定は2025年の未来。従って2020年現在よりもまだ5年先の時代だが、1982年に刊行された当時のキングの想像力によって補われた未来像はやはり今の世の中と比べればいささか限界を感じる。

それはやはりウェブの存在が大きいだろう。この新たな通信の画期的な発明はやはり想像力豊かなキングをしても発想しきれなかったようだ。
ベンが逃走中の模様をテレビで放送するためにビデオカメラとビデオテープを携えなければならないというのはやはりどうしても無理が感じる。作中では技術の進歩でかなり軽量化されていると書かれているが、60巻ものビデオテープを持ちながら逃走し、毎日2巻を投函しなければならないというのは滑稽としか思えない。
今ならばウェアラブルカメラやスマートフォンなどで撮影もでき、そのままメールで送付すれば済むことだ。

もう1つはエアカーが登場することだ。このドラえもんにも登場する未来を象徴する宙に浮いて移動する自動車とタイヤのついた自動車の2種類がこの世界では活用されており、カーチェイスにはこの特性を活かした演出が成されている。
とはいえ、恐らく未来において今ではこのエアカーは実用化しないのではないかと個人的には思っている。自動運転技術の方に技術の核心はシフトしているからだ。
またタイヤが不要になる車を発明することはタイヤ業界が黙っていないだろう。

完全なる悪対正義の構図を描きながら、映画は制限時間内で特殊能力を持つハンターたちとの戦いを描いた徹底したエンタテインメント作品となった。そして原作である本書は絶対不利な状況でしたたかに生きる、ドブネズミのようにしぶとい男の逃走と叛逆の物語として描いた。
どちらもメディアによる情報操作され、完全に管理された社会の恐ろしさを描きながら、こうもテイストが異なるとはなかなかに興味深い。
私は高校生の頃に観た映画を否定しない。作者は設定だけを拝借した、いわばほとんど別の作品と化した映画に対して批判的かもしれないが、逆に別の作品として捉えれば娯楽作品として愉しめたからだ。逆にそれから30年以上経った今、大人になって本書を取ったことは両者を理解するのにいい頃合いだったと思う。

公害問題を扱った本書をパリ協定から離脱したトランプ大統領はいかにして読むのだろうか。『デッド・ゾーン』の時にも感じたがキングがこの頃に著した作品に登場する圧政者たちが現代のトランプ大統領と奇妙に重なるのが恐ろしくてならない。
実は今こそ80年代のキング作品を読み返す時期ではないか。アメリカの暗鬱な未来の構図がまさにここに描かれていると思うのは私だけだろうか。
シュワルツェネッガーの昔の映画の原作という先入観に囚われずに一読することをお勧めしたい。


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バックマン・ブックス〈1〉バトルランナー (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キングバトルランナー についてのレビュー
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6人の奇妙な面々

Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。
更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。
そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。

まず本書において小鳥遊練無が今回パーティに招待されるきっかけとなった纐纈老人との交流は短編集『地球儀のスライス』に収録された小鳥遊練無初登場作「気さくなお人形、19歳」に描かれている。直接的には纐纈老人とのエピソードは本書とは関係ないが、単なるイントロダクションだけでなく短編としてもまた小鳥遊練無の魅力を知る上でもいい短編なのでぜひ一読を勧める。

今回陸の孤島でありながらもなぜか陰惨さが募らず、常にドライな雰囲気なのはこれが森ミステリだからかもしれないが、舞台が一流の科学者の集まる研究所であり、みな自分の研究以外のことにあまり関心を持たない人物ばかりだからだ。同じ同僚でも死んでしまえばただの物とばかり、関心を寄せず、ただ自分の研究する時間を貰えれば刑事の云う通りに研究所の中に留まることを全く厭わない、いやむしろそれが日常である人々の集団。そして彼らの中で超音波という共通のテーマはあれど、それぞれ重なる研究はなく、とにかく研究が大好きな人々たちであるため、金や権力よりも研究ができる環境と時間と予算があれば欲しいものがないのだ。殺人事件なんかのために自分の貴重な時間が取られることを心底嫌う人々、つまりいわゆる一般的な欲求のために犯罪を起こすという動機がない連中というのが面白い。

面白いのだがしかし本書は今までのシリーズの中でもかなり重苦しい雰囲気を持っている。特に紅子たち一行に危難が及ぶところが珍しい。
捜査を共にした瀬在丸紅子と小鳥遊練無、そして祖父江七夏が何者かによって無響室に閉じ込め、睡眠ガスによって昏倒させられるのだ。しかもその上、小鳥遊練無命を奪われそうな危機に見舞われる。彼は人工呼吸で息を吹き返されなければならないほどの窮地に陥る。

また紅子が無響室に閉じ込められた時に幼き頃に愛犬を亡くした記憶を想起させ、打ち震えるところなんかもいつも超然とした彼女にしては実に珍しい光景だ。

そして第1の殺人の次に起こる第2の殺人は前出の仮面の車椅子老人こと土井博士が自室で首なし死体となって発見されるというショッキングな展開。しかもその死体にはさらに両手首が切断され持ち出されていた。

事件の陰惨さとは裏腹に自分たちの研究に没頭する科学者たちという古典的な設定の中に現代的なモチーフが持ち込まれた奇妙な雰囲気のミステリの真相はまたも鮮やかに紅子によって解き明かされる。

いつも思うことだが、真相を聞かされるとなぜこんな簡単なことに気付かなかったのかと思わされる。

また森ミステリ特有の事件のトリック以上のトリックが隠されている趣向は本書でも踏襲されている。
この隠れメッセージが今回一番驚いてしまった。これぞ森ミステリの醍醐味だろう。

今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。
共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。
超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。
なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。

未来は過去を映す鏡だ。
心配する者はいつか後悔するだろう。
自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。

もしかしたら土井博士は真賀田四季の前世かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。



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六人の超音波科学者―Six Supersonic Scientists (講談社文庫)
森博嗣六人の超音波科学者 についてのレビュー
No.582:
(7pt)

江戸の粋の光と影

宝引きの辰捕者帳も本書で第4集目。辰親分の人情味溢れる裁きは本書でも健在だ。

まずは幕開けの表題作。
悪人の出ない物語。
権威を振るった鷹匠の一行は宿泊した宿の従業員の話では非常に礼儀が正しく、ほれぼれするような男ぶりだったという。そんな一行のうちの1人が貴重な鷹を死なせてしまったことで罰を受けようとなっている。
しかし一方で辰親分は事の真相を見破ってしまう。辰親分の一計は江戸っ子ならではの味な采配。
自分の厄を心配する妻のお柳の不機嫌を番の鷹に擬えた、なんとも粋な1編である。

続く「笠秋草」は神田鈴町で紫染屋を営む内田屋で起きる怪事に辰親分が挑むお話。
妊娠中の妻を置いて夜な夜な出歩く若旦那と云えば江戸の風俗である吉原への女郎屋通いというのは誰もがピンと来る展開だろう。
なお題名の『笠秋草』は紫染屋の若旦那の清太郎が遊女に上げようとデザインした紋を指す。いやはやしかし男は昔も今も懲りないものだねぇ。

紋章上絵師でもある作者の本領発揮とも云えるのが次の「角平市松」。
身体と首を挿げ替えられた男女の死体という本格ミステリならではの奇妙な死体が登場するものの、本作のメインの謎は江戸で流行った角平市松を創った職人角平の行方を探るところがメインだ。しかもそれを探るのが宝引きの辰ではなく、語り手である仕立屋の若旦那であるところが面白い。
彼が一介の職人を調べに神田川にある船宿、新シ橋こと新橋にある古着屋日本橋馬喰町の紺屋と渡り歩き、はたまた板橋で行われる縁日に行ったりとなんとも江戸風情に溢れた道行が興味深い。
自身が職人である泡坂氏のある時は小説を書き、またある時は新たな柄や紋を考える、当時の自由気ままな生活がにじみ出ている作品だ。

次の「この手かさね」も着物に纏わる話だ。
着物に纏わる因縁が同じような悲劇を再発させる。同じような事件が15年前に起き、その事件の犯人が見つからなかったが、可也屋が形見分けで貰った帯がその事件を解決する。

一転して怪奇じみた装いで幕を開けるのが「墓磨きの怪」。
闇夜に乗じていつの間にか墓が綺麗に磨かれているという悪戯か親切かよく解らない珍事が魅力的であり、またその犯人を辰親分ではなく語り手の長二郎が見抜くところも珍しい。
しかし何よりも本作の魅力は物語の中心となる「だからの昇平」というキャラクターにある。
役者の父親を持ちながらも口下手で何よりも馬鹿が付くほどの正直者。従って芝居であっても役名ではなく、その人の名前で呼んでしまうという実に愛すべきキャラクター。そのお人よしな性格を利用されて、馬鹿の上に超が付くほどの正直ぶりを発揮されてはもう愛さずにはいられないではないか。

次の「天狗飛び」では辰親分一行は江戸を離れて大山詣りの道中にある。
昔から信心深い人、迷信もしくは云い伝えを重んじる人はいるもので、本書で登場する建具屋の平八は何かつけて縁起を担ぐ人物。何か誰かに不具合あればどれそれとあれそれを一緒に食べるからだ、この季節にはこの食べ物を食べるとこういう病気になりにくくなる、縁起のいい名前の店には必ず立ち寄る、云々。
一方でお札を高いところに貼ればご利益があると信じている松吉もまた濡れた手拭に札を貼り付けて投げて貼る、投げ貼りなどをし、上手く貼れないがために算治に肩車をしてもらって貼り直そうとしたところ、バランスを崩して足を挫いてしまう無様を見せる。自らに不幸が降りかからぬよう縁起を担ぐのにそのために無茶をして逆に不幸を呼び込んでしまう滑稽な人々を描いたのが本作だ。
特に日本人は数字には敏感で4とか9とかは特に嫌う。そんな日本人の性質がこの天狗にさらわれるという戯れ事を生み出した。個人的にはこのような関係のないところに関係を見出す日本人の言霊信仰は嫌いではなく、むしろ好きな方なので平八が殊更に説く数々の縁起事は非常に興味深く読めた。しかし何事も程々にってことですな。

ダジャレのような題名「にっころ河岸」はそのユーモアな題名とは裏腹にホラー色が強い作品である。
この不思議な話に対する謎解きはない。つまりこの話があるからこそ、勇次はいつも不思議な出来事に遭遇すると思わせられるのだ。
しかし男と女の間とはいつになっても割り切れぬものよのぉ。

最後の「面影蛍」は他の短編とは異なる展開の物語。江戸川に家族とともに蛍狩りに来た宝引きの辰はそこにいた駿河屋という乾物屋を営む主人、弥平と親しくなり。酒を酌み交わすことに。杯が進むにつれ、弥平は自分が若き頃に経験したある女性との恋物語の顛末を語るのだった。
最終話の本作は全て語り手である弥平の独白で物語が進むため、宝引きの辰との会話が一切ない異色作となっている。
酒を飲みながら弥平が語るのは蛍に纏わる彼の若き頃の恋話。江戸川に蛍狩りに行った夜に出遭ったのは牛込矢来下の米屋島村屋の娘お由。ほんの一時を過ごした2人はそのまま恋に落ちるが、家業が乾物屋で頑固な江戸っ子の弥平の親父は島村屋の番頭が三顧の礼を持って弥平とお由を結び付けたいと頼むが頑として首を縦に振らない。弥平はお由の想いを真摯に受け止め、どうにかこの恋が成就するためにある一計を案じる。その企みは狙い通りで晴れてお由と一緒になったはずだったが、そこには哀しい結末が待っていた。
何とも哀しい江戸の商人のつまらぬ意地っ張りが招いた悲劇の物語。


宝引きの辰も実に久しぶりで前作の『凧をみる武士』を読んだのがなんと約16年前。しかしそんな月日もひとたび捲れば粋な江戸の世界へ迷い込み、ご用聞きの辰親分の人情味溢れる采配に思わずひゅうと口笛を吹きたくなる。

1話ごとに語り手が変わる手法も相変わらずで、1話目は辰親分の子分算治、2話目は事件の舞台となる内田屋の使い伊吉、3話目は仕立屋の沼田屋の若旦那、4話目は噺家の可也屋文蛙、5話目が経師屋の名川長二郎、6話目が木挽町の建具屋の久兵衛の弟子の新吾、7話目は神田鈴町の畳屋現七の弟子勇次、最終話は小日向水道町で駿河屋という乾物屋をやっている弥平と算治を除いて全て商人の目線で語られる。
そのいずれもが宝引きの辰の評判を褒め称えていることで辰が腕利きの岡っ引きであることが解るのである。特に本書では娘のお景のお転婆ぶりと妻の柳の器量が垣間見え、この親分にしてこの母娘ありとどんどん人物像が厚くなっていくところがいいのだ。

さてこれら8編の中には過去の因果が関係している話が少なくない。
「笠秋草」では身籠り中の妻の嫉妬から起こした小火騒ぎの事件を『源氏物語』で六畳御息所の人魂のエピソードを用いて真相をごまかしたり、「この手かさね」では15年前に起きた元役者で玉の輿に乗った笠屋の主人が女房の連れ子と姦通していたことで娘から殺される事件の真犯人が見つかることで現代の事件も暴かれる。「墓磨きの怪」では30年前に起きた江戸中の墓が何者かによって磨かれるという珍事にヒントを得て起こした骨董屋の騒動であり、「天狗飛び」では昔富士登山であった天狗にさらわれるという事件が縁起担ぎというつまらぬ慣習ゆえに大山詣りにも波及する。

つまり今もそうであるが日本人というのは過去の因果というのをいつまでも大事にし、またそれを信じることで目の前に起きている不吉事を擬えて安心を得ようとする民族であることが解る。特に様々な事柄や屋号についても掛詞に興じていた江戸町人などはその最たるものだったのではないだろうか。

しかしほとんどが男と女の恋沙汰に絡む因縁に絡んだ事件である。現代とは異なり、言葉や柄、そして因習や慣習を重んじ、更に家業が宿命とばかりに人生を束縛するこの時代、色んなことを諦めざるを得ないのが通例だった中で、どうしてもそれが諦めきれなかった人々がこのような事件を起こす。
しかしそれは人間が生きる上でごく普通に主張されるべき権利だったのだ。
泡坂氏の各短編には江戸の町人文化と当時の地名や風習が実に色鮮やかにしかも丹念に描かれ、江戸の風流を感じさせるが、一方でその風流さが生きにくい時代の中で見出した娯楽であったこと、そんな中でもがき苦しむ人々がいた事。しかしまた生きにくい時代を愚直に生きる人々にまた素晴らしさを感じるのだ。そんな光と影を映し出している。

さて本書における個人的ベストは「墓磨きの怪」を挙げたい。闇夜に乗じて方々の寺が墓が磨かれているという奇妙な導入部と一連の怪事が骨壺に使われた値打ち物の壺を手に入れるための策だったという謎よりもこの話で出てきた正直者の「だからの昇平」が実に魅力的。騙されているのを知らずに最後まで愚直に墓磨きを続ける、間の抜けた、しかしお人よし。こういう男は放っておけないのだ。

次点は「角平市松」。これもまた商売などは二の次でとことん新しい柄を創作することに意欲を燃やし、最初から最後の工程まで自分でしないと気が済まないという根っからの職人である角平のキャラクターが強い印象を残す。泡坂氏は角平の為人を事細かに描写するわけでなく、その仕事ぶりを語ることで彼の愚直さを語るところが上手い。
この角平の創作した柄がその他の作品でも垣間見えるところも粋な趣向だし、そして何よりも私が驚いたのはこの作品で話題になる「角平市松」という架空の柄を紋章上絵師である作者が実際に創作しているところだ。この柄は本書には収録されていないものの、WEBで調べれば出てくるのでぜひともご覧になって頂きたい。こういう手間が物語に風味を与え、創作上の人物角平への存在感を色濃くするのだ。

幽霊騒ぎに縁起担ぎ、そして迷信。そんな現代人から忘れ去られようとしている昔ながらの云い伝えを物語に見事に溶かし込む。なおかつそんな文化の中で生きてきた明るくも、時に心の闇に取り込まれてしまう町人たちを、時には厳しく、時には優しく守る宝引きの辰。
彼がいるから今日のお江戸も安泰だ。そんな言葉が思わず出るような辰親分の活躍をまたいつか読みたい。また15年後ぐらいかなぁ。



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朱房の鷹 (文春文庫―宝引の辰捕者帳)
泡坂妻夫朱房の鷹 についてのレビュー
No.581:
(7pt)

読んでるこちらもなんだか浮いているような感じ

飛行機好きの森氏がとうとうパイロットを題材にした作品を描いたのが本書。シリーズ物となっており、短編集を含む5作が発表されている。

何処とも知れない、しかし世界のどこかであることは間違いない場所でいつの頃なのかも解らない時代を舞台にいつも以上に仄めかしが多い文章で、世界観を理解する説明めいた文章はなく、主人公カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で物語は断片的に淡々と進んでいく。

その内容はまさに空を飛んでいるかのように掴みどころがない。
それぞれが何か秘密を抱えているようだが、カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で進むこの作品では全てが雲を掴んでいるかのようになかなか手応えが感じられない。それは主人公のカンナミをはじめ各登場人物たちがあまり人に関心を持たない性格だからだ。
戦時下の前線にいるパイロットや整備士などにとって今いる仲間はいつ死んでもおかしくない、つまり今日は逢えても明日は逢えるか解らない境遇であるため、他人と距離を置き、ほどほどに付き合う程度の人間関係を構築しないからだろう。だからカンナミが色々質問しても「それを知って何になる?」と云わんばかりに沈黙で応える。
しかし日数が経つと次第に打ち解けて断片的に自分のことや他人のこと、そして過去のことが断片的に語られていく。
まあ、現代の人間関係と非常に似通っていてある意味リアルでもあるのだが。

そんな独特の浮遊感を持ちながら進む作品はしかし、カンナミたちが飛行機に乗って空を飛ぶとたちまち澄み渡る空の青さと雲の白さとそして眩しい太陽の日差しの下で自由闊達に躍動する飛行機たちの姿とカンナミ・ユーヒチが機体と一体になって空を飛ぶ描写が瑞々しいほど色鮮やかに浮かび上がる。そして敵と相見える空中戦ではコンマ秒単位に研ぎ澄まされた時間と空間把握能力が研ぎ澄まされた皮膚感覚を通じて語られる。
それは人の生き死にを扱っているのになんとも美しく、空中でのオペラを奏でているようだ。飛行機乗りでしか表現できないようなこの解放感と無敵感をなぜ森氏がこれほどまでに鮮やかに描写できるのか、不思議でならない。

また飛行機の設備に関する詳細な説明や整備士の笹倉が話す種々の改造の件などは森氏が欣喜雀躍しながら書いているのが目に浮かぶぐらい微に入り細を穿っている。

淡々と進む物語は随所にそんな美しい飛行戦をアクセントに挟みながら、カンナミ・ユーヒチの日常と彼の仲間たちの日常、そして変化が語られ、そして徐々に物語が形を表していく。

カンナミの前任者クリタ・ジンロウは果たして本当に上司の草薙水素が殺したのか?
カンナミ、そして草薙が属するキルドレとは一体何なのか?

飛行機乗りの一人湯田川が任務中に行方不明になり、メンバーは他の基地に合流し、合同作戦に参加した三ツ矢碧とその仲間鯉目新技、彩雅が加わり、元の基地へと戻っていく。そこで初めてカンナミが赴任した基地が兎離洲という土地にあることが判明する。そして物語の終盤にようやくキルドレの正体が明かされる。

キルドレ、それは永遠に生きる存在。遺伝子制御剤の開発の途中で突然生まれた存在。そんないつ終わるかもしれない生にもはや記憶などは必要なく、そこには終わりなき日常を生きるだけの日々は浮遊感を抱えているだけだ。
死なない彼らは飛行機乗りとして戦場に駆り出される。それは永遠に続く生をどうにか終わらせるために。
彼らは何と戦っているのかも知らない。しかし目の前に敵があり、それが彼らが飛ぶ理由だ。空にいる時だけ生を感じることが出来るからこそ死と隣り合わせの世界で生きるために敵を殺しながら、死に憧れつつも生き長らえる矛盾を抱えて彼らは今日も空を飛ぶ。

南国の僻地で生活していた頃に読んだ私にとって、この変わり映えのない日常を生きる彼らの物語を読むには実に最適だった。
月曜日が始まったかと思うといつの間にか金曜日を迎え、そして土曜日になり一週間が終る。1日の休みを経てまた月曜日が始まるが、さしてテレビ番組を見るわけでなく、また塀に囲まれた中で暮らすだけの毎日ではどこかに行くことさえも許されない。
朝起きて仕事をして帰って日本から持ってきた録画を観て、読書をし、ウェブ鑑賞した後は床に就き、そしてまた朝が始まるだけの日常。そんな同じことの繰り返しを生きる私の生活と彼らの生活は非常に似通ったものを感じた。

この奇妙な世界での飛行機乗りたちの物語はまだ序章といったところだろう。
途中でカンナミたちの同僚となったエースを自負する三ツ矢碧は果たしてキルドレなのか?
かつて草薙の上司であった凄腕の敵パイロット黒豹との対決は?
などまだまだ語られるべき話は残っている。

地面から5センチほど宙に浮いたような感覚で読み進めた本書だったが、最後になってどうにかその世界へと着陸することが叶った。
森氏が開いた新たな物語世界。次作からじっくり読み進めていくことにしよう。


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新装版-スカイ・クロラ-The Sky Crawlers (中公文庫, も25-15)
森博嗣スカイ・クロラ についてのレビュー
No.580: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

こんな時代もあったね、と。

まだ法月綸太郎氏が後期クイーン問題に頭を大いに悩ませていた頃に放ったロジック全開の短編集。

まずホテルの一室で男女の切断死体が発見される「重ねて二つ」はただの2つの死体ではなく、上半身が女性、下半身が男性という衝撃的なシチュエーションで幕が上がる。
冒頭から実に奇妙な事件の登場である。上半身女性、下半身男性の死体。しかももう片方は見つからない。こんな奇妙な状況で刑事は見事に看破する。
ただ密室といい、男女混合の死体といい、それらが犯人の自己顕示欲の強さだけでこんな奇妙な死体を生み出したという動機がなんとも弱い。
単に密室を作りたい、衝撃的な死体を作りたいという脆弱な動機を法月氏は成功していない。第一、死体から流れ出る血の問題とか死臭のことを考えるとトリックありきの作品としか思えない。

「懐中電灯」は倒叙ミステリ。
ギャンブル場でしか繋がりのない男2人による現金強奪事件。ATMへの入金の機会を狙って借金で銀行の金を横領した行員が手引きし、見事強奪に成功するが現金の独り占めを企んで一方がもう一方を山中で殺害する。事件としては実に典型的な展開。
このいわばどこにでもあるがしかし犯人逮捕が難しい事件をある小道具が完全な証拠となって発覚する一連のロジックは実に小気味よい。
葛城警部の尋問もミスリーディングの妙を思わせる様は、右手に集中させながら左手に注意を背ける、見事なマジックを見ているかのよう。見事な佳品である。

3編目の「黒いマリア」はカーの作品を彷彿させるようなオカルトめいた作品。
鍵のかかった事務所のソファで亡くなった男、その中の金庫に閉じ込められた窃盗犯の死体、鍵のかかったキャビネットに閉じ込められた女性事務員。
三重密室の状況でさらに夜中の警視庁に訪れた黒づくめの婦人と実にオカルトチックな設定だが事件の真相そのものはさほどでもない。
事件そのものもさほどオカルトめいてないし、また七森映子との面談も葛城が仮眠中に起きたような状況だが、雰囲気としてはそぐわない事件だったと思わざるを得ない、ちょっと背伸びした感のある作品である。

「トランスミッション」は葛城警部が登場しない誘拐事件に巻き込まれた男の物語。
児童誘拐の間違い電話というシチュエーションの妙が面白い。電話を受け取った僕はそのまま本来の相手に伝えるメッセンジャーに成りすます。しかし単なるメッセンジャーに終わらず、事件に興味を持ってしまったことが彼の人生を変えてしまう。
何とも不思議な話である。

続く「シャドウ・プレイ」も「トランスミッション」で登場した推理小説家と思しき男、羽島彰が登場する奇妙なミステリ。
小説家の友人が電話越しに語るドッペルゲンガーを扱ったミステリの話をし出す。その小説には作者と同名の人物が登場し、おまけに聞き手の友人も同名で登場する。この新作の話が登場人物が同名であるがために次第に創作の世界と現実の世界の境が曖昧となってくる。
もはや何が真実で何が虚構なのか。乱歩の有名なあの夢と現の反転を謳った名句が浮かぶような作品だ。

もはやこれはロスマクの隠れざる新作かと思わされるほどの筆達者ぶりを見せるのは「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」だ。
金満家の家庭に纏わる忌わしい家族の過去に本格ミステリの定番である密室を絡め、そして題名が著すようにフィリップ・K・ディックを彷彿とさせる妄想的SF作家が登場し、さらにはロスマクの本名ミラーやチャンドラーと云った名前が出てくるなど法月氏のパロディ精神が横溢した1編。
畳み込むような意外な真相の乱れ打ちの末、明かされる密室トリックはもはやギャグ以外何ものでもない。
さてこの真相を読んで本書を壁に投げつけるか、予想外のアイデアだとして苦笑いするかは分かれるところだろう。

本書で最も長い「カット・アウト」は2人の画家を巡る物語だ。
2人の画家と1人の舞踏家の女性の若き日の出逢いから既にこの世からいなくなった2人の男女の死の真意を1人の残された画家が遺された作品から悟る物語。
本書の題名は本書の中でも語られるジャクスン・ポロックというアクション・ペインティングという全く新しい技法を編み出した前衛画家の代表的な作品だ。
色とりどりの絵具をランダムな飛沫で何重にも塗り込み、時にはチューブから直接絵具を捻り出して塗りたくる。その塗りたくったキャンパスを人の形に切り取ったのがこの「カット・アウト」という作品だ。つまり本来作品である極彩色の絵が逆に背景になり、切り取られたキャンパスの地が強調されて主従が逆転するのだ。つまり不在であるからこそ実在性が強調されるジレンマを抱えた作品である。
本書はそれがモチーフになっていることを考えると桐生正嗣の最後の作品も容易に想像がつく。
他の作品以上に書かれた記述の密度の濃さは濃厚な芸術家たちの波乱に満ちた人生が凝縮されており、実に読ませる。
また芸術を極めんとする画家が狂気の先に行ったかと思いきや、人間性の豊かさに行き着いたという事実もなかなかである。
ただ今まで読んだ法月氏のいわゆる人間の心が織り成す精神の極北を辿るミステリ群の中にあっては上に書いたようにモチーフがあまりに明確過ぎたため、サプライズに欠けた。しかし力作であることは間違いない。

最後の「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」に登場するのは法月綸太郎。ある場末のバーでの物語。
本編はミステリではない。ただその中に込められた暗喩は実に興味深い。この短編の感想は後に述べるとしよう。なお題名はNirvanaのアルバム“In Utero”のボーナストラックの曲名だ。


パズルそしてロジックに傾倒する法月綸太郎氏の短編集だが題名はパズル崩壊。しかしこの短編集を指すにこれほど相応しい題名もないだろう。

法月綸太郎氏の短編集には『法月綸太郎の~』と謳われていることが通例だが、本書はそれがない。つまり本書は探偵法月綸太郎が登場しない本格ミステリの短編集かと思いきや彼は最後の短編に登場する。しかしその登場は実に思わせぶりである。そのことについては後で述べよう。

各短編を読むとどこかいびつな印象を受ける。

例えば最初の3編は警視庁捜査一課の刑事葛城警部が探偵役を務める純粋な本格ミステリなのだが、これもどこか不自然さが伴う。

例えば「重ねて二つ」はその動機と密室の必然性、そして犯人が警察の捜査中の現場に死体と共にいるなど、遺体の血液や死臭の問題など普通思いつくような不自然さを全く無視して、男女の遺体が上半身と下半身とで繋がれた死体が密室で見つかるという謎ありきで物語を創作したことが明確だ。
次の「懐中電灯」は完全犯罪が切れた電池を手掛かりに瓦解するミステリでこれは実に端正なミステリであるのだが、その次の「黒いマリア」になると、亡くなった女性が葛城の許を訪れて解決した事件の再検証を求める、オカルトめいた設定になっているのだが、事件の内容とオカルト的設定がどうにも嚙み合っていない。これもカーの某作をモチーフにして強引に書いたような印象が否めない。

次は推理小説家の羽島彰が登場する2編について。1編目の「トランスミッション」は―これが厳密にいえば明確に羽島彰の名前が出ているわけではなく、推理小説家で探偵羽佐間彰シリーズを書いている作家と称されているだけだが―自身が誘拐事件に巻き込まれるのだが、最後の結末はなんとも奇妙な味わいを残す。どこか地に足が付かない浮遊感を覚えてしまう。
そして2編目の「シャドウ・プレイ」はドッペルゲンガーをテーマにした自分の新作について友人に語っていくのだが、次第に虚実の境が曖昧になっていく。この辺からミステリとしての境界もぼやけてくる。

そして「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」ではパズラーの極北とも云える密室殺人が扱われているが、アーチャーシリーズやその他周辺の諸々を放り込んだそのパロディはその真相においてはもはやパロディどころかパズラーの域を超え、いや崩壊してしまっている。

かと思えば本書で最も長い「カット・アウト」は2人の作家とその間にいた1人の女性を巡る物語でなぜ死体をアートにしたのかという謎について語られる。ここには本来のロジックを重ねて法月氏独特の人の特異な心の真意を探るミステリが見事に表されている。

しかし問題なのは最後の短編「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」だ。これはミステリではなく、法月綸太郎のある夜の出来事を綴った物語である。しかし本作こそ本書の題名を象徴しているようにも思える。

まず編集者による法月綸太郎の創作態度に対する批判が3ページに亘って書かれている。懇々と説教される内容は当時の彼の姿を正直に投影しているように見えて実に興味深い。
この頃の法月作品は作者と同名の探偵役を出すことで自分の心情と苦悩を必要以上に吐露させ、そして自身の目指すミステリについて思い悩む様が殊の外多いのだが、それが明らさまに揶揄されている。当時後期クイーン問題に直面し、自身のミステリの方向性を模索し、悩みに悩んで創作が覚束なかった法月氏を第三者の目で明らさまに批判し、探偵法月綸太郎とは訣別すべきだとまで云われる。そんな回想に耽っている時に女に世話を任される一人の男。女は終電に間に合うために法月に男の後始末を頼むのだ。

終電に間に合うように去る女。女優の卵である彼女は物にはならないだろうとマスターは云う。「終電に間に合う」女とは陰りを見せる新本格ブームにどうにか間に合う形でデビューした新人作家を指すのか。そしてそんな斜陽のブームに乗っかろうとする新人は長続きしないと云っているのだろうか?

そして去った女が置いていった男は工藤俊哉。このデビュー作の主人公工藤順也と小鷹信光が生み出した探偵工藤俊作を思わせる男の風貌と為人はチャンドラーの『長いお別れ』に登場するテリー・レノックスを彷彿とさせる。
つまりこれはミステリ作家法月綸太郎が本格ミステリからハードボイルドへ移行しようとする宣言とも取れるのだ。つまり工藤俊哉と法月が初めて出逢った夜とは本格ミステリへの惜別の夜とも読み取れる。
この頃の法月氏は確かチャンドラーの後継者と評された原尞氏の作品に没頭していたはずだ。彼の目指す道は原氏が書くような作品だと思っていた頃で、つまり法月綸太郎から工藤俊哉という新しい探偵へ移行し、作風も変えようと思っていたのではないだろうか?

はてさてこれは悩める作者の世迷言か?
それともミステリの可能性を拡げる前衛的ミステリ集なのか?
もしくはパズラーへの惜別賦なのか?
ともあれ奇書であることは間違いない。

パズル崩壊とは正しく評するならば法月崩壊か。悩める作者は本書を書くことでそこから脱却しようとしているが、更なる深みに嵌っているようにも思える。一作家として何を書くべきか。その方向性はこの時点ではまだ定まっていない。

ただ現在の法月氏の作品から解るように、彼は本格ミステリの道を進むことを決めたようだ。
そして彼ならでは本格ミステリを追求し、昨年も『挑戦者たち』という様々な文体模写による「読者への挑戦」を数多用いた作品を著し、注目を集めたばかりである。
現在の活躍ぶりと創作意欲の旺盛さから顧みると、本書は一旦法月綸太郎を崩壊させ、ロス・マクドナルドやチャンドラーなどの諸作をも換骨奪胎することで彼の本格ミステリを再構築させたのだ。つまり本書は現在の法月氏への通過儀礼だったのだ。
今ではその独特のミステリ姿勢から出せば高評価のミステリを連発する法月氏だが、この世紀末の頃は悶々と悩んでいた彼の姿が、彼の心の道行が作品を通じて如実に浮かび上がってくる。これほど作者人生を自身の作品に映し出す作者も珍しい。
一旦崩壊したパズルを見事再生した法月氏。つまり本書はその題名通り、本格ミステリの枠を突き抜けて迷走する法月氏が見られる、そんな若き日の法月氏の苦悩が読み取れる貴重な短編集だ。
こんな時代もあったんだね。


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パズル崩壊  WHODUNIT SURVIVAL 1992‐95 (角川文庫)
法月綸太郎パズル崩壊 についてのレビュー
No.579: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
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マイ・アンフェア・レディ。その名は香具山紫子

Vシリーズ第6弾は豪華客船の上で起こる密室での人間消失と絵画盗難を扱った、これまた本格ど真ん中の作品である。
前作『魔剣天翔』ではアクロバットショーの飛行機のコクピットという、恐らく世界最小の密室での殺人事件だったが、前回の舞台が空なら今度は海。なかなかヴァラエティに富んだ舞台設定である。

そんな非日常の舞台で起きる事件は次の通りだ。

たった3部屋しかない宿泊エリアの一番端の部屋から銃声が響いて何かが鉄に当たる様な音がして海に男が落ちる。現場にはピストルが落ちているが、その部屋から出入りしたのは隣室の男のみ。しかもその男は事件の後に部屋に入ったと証言しており。その宿泊エリアから出た人はいないことはフロントで確認済みである。更に真ん中の部屋の宿泊客が持っていたスーツケースには絵画が入っていたが、鍵が掛かっていたにも関わらず忽然と消えてしまう。

つまり密室状態の船室から落ちた男の謎と消えた絵画の謎がごく狭いエリアで繰り広げられる。しかもそのエリアにいたのはまず男が落下した部屋S3室には被害者の建築家の羽村怜人とその恋人の大笛梨絵のみ。隣のS2号室には保呂草が絵画を盗もうと狙っている鈴鹿幸郎と息子の明寛とさらにその息子の保と秘書の村松直美の4人。そして残りの一番大きなS1号室には鈴鹿幸郎の取引相手でフランスの富豪のクロウド・ボナパルト氏とボディガード3人に保呂草に盗みを依頼した各務亜樹良の計5人という非常に狭い範囲での事件である。
こんな限定された状態でかつ謎としても比較的なシンプルな状況でどんな真相が待ち構えているのか興味が高まった。

なんせ前作『魔剣天翔』ではたった2人しかいない曲芸飛行機のコクピットの中での密室殺人で意外な真相を展開した森氏である。今回もどんな真相が現れるのか、期待したくなるのも当然ではないか。

さて今回は今まで道化役でしかなかった香具山紫子にスポットが当てられる。背の高い女性であまり風貌については取り立てた記述はなかった紫子はコメディエンヌとしてとにかく三枚目を演じることが多く、読んでいる当方も同情が禁じ得なくなるほど不遇なキャラクターであったが、今回は、保呂草の本職である泥棒稼業の手伝いとはいえ、とうとうヒロインの役を仰せつかる。口は達者だが、本番に弱いメンタリティの弱さを持つ彼女が一念発起して保呂草の妻役に挑む。

てっきり香具山紫子のシンデレラ・ストーリーになるかと思いきや、さにあらず、やはり小鳥遊練無と瀬在丸紅子のマイペースに翻弄されて結局いつも役割に。
保呂草との甘い夜を過ごすはずの船室は紅子の独断で、恋人が船から落とされて傷心中の大笛梨絵の部屋に女性3人で泊まることになり、保呂草と練無が元々の船室に泊まって寸断される。しかも今回の自画像略奪計画の相棒として保呂草の手伝いをさせられるのだが、その目的は知らされず、事件そのものについても一切関わることはなく、結局はただの付き添いで済んでしまい、その後は自棄酒に溺れ、結局いつもの冴えない役回りを仰せつかるのであった。
恐らく保呂草としては想定外の事態に備えての保険的役割として紫子を配したのではないか。保呂草自身も紫子が自分にほのかな想いを寄せているのに気付いているはずだが、それを敢えて利用する冷静冷徹さに不満と紫子への報われなさに同情を禁じ得ない。
「マイ・フェア・レディ」になり損ねた紫子が報われる日はいつ来るのか。それともずっとこのままなのだろうか。「わたしの人生っていったいなんやろ」と一人気落ちせずに頑張れ、紫子!

さてミステリとしては標準並みの謎の難易度で全てではなくとも謎の一部は私にも途中で解ってしまうほどの物だったが、今回は事件の謎よりも物語の謎、いや保呂草という男の行動こそがメインの謎だったように思う。

この考えの読めない探偵兼泥棒の、常に客観的に物事を冷静に見つめ、目的のためには人を利用することも全く厭わない(その最たる犠牲者が香具山紫子なのだが)、あまり好感の持てない人物だが、彼の信念というか、信条が本書では意外な形で明らかになる。

恐らくそれまで保呂草嫌いだった読者の彼に対する評価は本書で大なり小なり好感を増したのではないだろうか。実際私はそうなのだが。

今回はミステリのためだけに作られた無理のある事件だったという感想は変わらないが、この保呂草の意外な温かさが最後胸に響いた。

ところで題名『恋恋蓮歩の演習』とはどういった意味だろうか?
まず目につくのは「演習」の文字。これは前作で保呂草が盗み出すように依頼された幻の美術品「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)」から想起されるのは当然だし、登場人物も各務亜樹良と関根朔太と共通していることからも繋がりを連想させる。事実その通り、物語の最後は現在の関根朔太に行き当たる。

一方「恋恋蓮歩」という四文字。これは森氏独特のフレーズで造語かと思ったら実は「恋恋」は「思いを断ち切れず執着すること」、「恋い慕って思い切れない様」、「執着して未練がましい様」という意味で、一方の「蓮歩」は「美人の艶やかな歩み」という意味らしい。

この2つの単語を繋げたのは森氏の言葉に対する独特のセンスなのだが、つまり「恋恋蓮歩の演習」は「恋い慕って思いが募る女性が行う艶やかに歩く訓練」ということになる。
う~ん、そうなるとこれはやはり大笛梨絵、瀬在丸紅子ではなく、今回保呂草の計画に一役買った香具山紫子を表した題名になるのだろうか。

しかし一方で英題“A Sea Of Deceit”は“偽りの海”という意味。邦題と英題を兼ね合わせる人物はとなると大笛梨絵になるだろうか。
いずれにしても色んな解釈ができる題名ではある。

最後に読み終わった後に保呂草自身のプロローグに戻ると、文字に書かれた時点で現実から乖離し、全ては虚構となる、そして全てが書かれているわけではなく、敢えて書かないで隠された事実もあるし、今回はその時点における意識をそのままの形で記述することを避けるとも謳われている。知っているのに知らないふりをすると云うのは現実によくあることだ。
森作品、特にこのシリーズにおいてこの「書かれていること全てが本当とは限らない」というメッセージが通底しているように思われる。それはやはり保呂草潤平という謎多き人物がメインを務めているからかもしれない。
それはつまり、自分の直感を信じて読めばおのずと真実が見えてくるとも告げているように思える。ただ読むだけでなく、頭を使いなさい、と。
だからこそ森ミステリには敢えて答えを云わない謎が散りばめられているのかもしれない。それこそが現実なのだからだ、と。


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恋恋蓮歩の演習―A Sea of Deceits (講談社文庫)
森博嗣恋恋蓮歩の演習 についてのレビュー
No.578: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

変則的な誘拐物と見せかけて

誘拐ミステリも数あるが、今回歌野氏が仕掛けたのは狂言誘拐。それも夫の愛情を確かめたいがための誘拐という、ちょっと浮世離れしたお嬢様育ちの容姿端麗の人妻の変わった依頼で幕を開ける。

1992年というバブルの名残ある時期に書かれた本書。そこここに時代を感じさせる記述が散見されて懐かしさを覚えた。
偽装して現れた誘拐の捜査をする警察官が来ていたのがアルマーニ調のスーツ(となぜかアタッシェ・ケースにクマのぬいぐるみを携えての登場と、逆に目立つような恰好なのがよく解らないのだが。とにかくパーティーや女性へのプレゼントが横行していた当時こんなアンバランスな恰好が普通だったのか?)だったり、まだ携帯電話は普及しておらず、自動車電話やショルダーフォンがセレブの持ち物となっていた時代だ。そんなまだアナログ社会で狂言誘拐を頼まれた便利屋が立てた方法がなかなか機知に富んでいて面白い。

警察からの逆探知を逃れるために今では災害時に使われるようになったNTTが提供する伝言ダイヤルサービスや今は無き悪名高いダイヤルQ2を利用して、録音やパーティラインによるやり取りで直接電話を繋げないようにしたり、自宅ではなく会社の方に電話したりするなど、工夫が凝らされていて読み手の予想の斜めを行く展開でどんどん読まされてしまった。

しかしそんなコミカルなムードも物語半ばで一転する。

若奥様の旦那への嫉妬から悪戯心で起こした狂言誘拐、それを利用して大金をせしめた便利屋、それが殺人事件に発展するという展開は悪事が雪だるま式に転がって肥大していく様を思い描かされる。
最初はほんの悪戯だったのが、金が絡み、そして人の命を奪うまでに発展する。本書の中でも云っているが悪い事はできないものだ。そして悪い時には悪い事が重なるものだ。そんな人生転落劇のような様相を呈してくる。

便利屋が負うことになった死体遺棄の一部始終は息詰まる内容であり、更に自分に捜査の手が及ぶまでにその後事件の発覚を恐れて殺人者を見つけ出して殺害することを決意するなど、物語のトーンはどんどん暗くなっていく。
しかし便利屋による犯人捜査の顛末は私立探偵による人捜しの面白さを彷彿させる。

さらにその後の展開も読者をさらに迷宮に誘う。

誘拐する側とされる側の側面で描きながら、いつしか殺人の罪を着せられ、やがて殺人事件の捜査へと転じるツイストの効いた作品。
そう、本書は誘拐あり、殺人あり、人捜しありの実に贅沢なミステリなのだ。

しかしこの頃歌野氏は本書の前に『ガラス張りの誘拐』という同じく誘拐を扱った作品を書いている。誘拐ミステリはなかなか数多く書かれるものではないのでこれは非常に珍しいと思える。
そしてそちらも本書同様意表を突く展開でなかなか事件の様相が掴めなかった。しかしその反面アイデアに走り過ぎて作品としてのバランスに欠けるような印象も拭えなかった。

しかし好評を以って迎えられた乱歩の文体を模した『死体を買う男』を経た本作は『ガラス張りの誘拐』で覚えた消化不良感を払拭する出来栄えでとにかく謎から謎の展開でクイクイ読まされてしまった。
ただやはり結末の付け方は慌ただしく、読書の余韻としては物足りなさを感じた。アイデアはいいものの、物語としては不十分。つまりこの頃の作品には『葉桜~』に至る以後の歌野晶午作品の萌芽が見られる貴重な作品群といえるだろう。

信濃譲二というシリーズ探偵物でデビューした歌野晶午氏の本質はそういった典型的な本格ミステリよりもこのように二転三転して読者の思いもかけなかった事件の様相が明らかになる、サスペンス風本格ミステリの方にあるように思えてならない。現代の歌野ミステリのルーツは『ガラス張りの誘拐』や『死体を買う男』と本書へと連なっていると思われるのでまずは『長い家の殺人』以降の3作品よりもこちらを読むことをお勧めしたい。
まあ、私が信濃譲二をあまり好きではないことも一因としてあるのだが。


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さらわれたい女 (角川文庫)
歌野晶午さらわれたい女 についてのレビュー
No.577:
(7pt)

チャーリーの持つ真の“かがやき”とは

キング長編6作目はまたもや超能力者の話だ。その題名が示すように念力放火の能力を備えた少女チャーリー・マッギーが主人公である。
彼女は生まれながらの能力者であるのだが、今まで登場してきた『シャイニング』のダニー、『デッド・ゾーン』のジョンと異なるのは両親が共に超能力者であり、しかもその両親も秘密組織≪店≫によって特赦な薬物を投与されて能力が開花した人たちであることだ。

そして人工的に作られた超能力者であるアンディとヴィッキー。前者の持つ力は“押す”力、即ち相手を自己催眠に掛けて思い通りに操ることが出来る能力で後者は物を離れた場所から動かすことの出来る念動力である。
この2人が結ばれて念力放火の能力を持つチャーリーを生んだときのエピソードがまた壮絶だ。

生まれながらの超能力者だったチャーリーはお乳を欲しがって泣くと発火し、お気に入りのぬいぐるみが燃え始める、おしめが濡れて泣くと衣類が燃え上がる、また不機嫌になって泣くと赤ん坊自身の髪が燃える。家の各所にはいつ何時何かが燃えてもいいように消火器と煙感知器が備えられている。通常の子育てでもストレスで大変なのに、それ以上に命の危険と隣り合わせの子育てが彼らは強いられていた。
このような生活に密着したエピソードが単なる超能力者の物語という絵空事を読者にリアルを感じさせる。

組織によって作り出された超能力者が組織の魔の手から逃げ出し、逃亡の日々を続ける。そして追いつめられた時に超能力者はその能力を発動して抵抗する。しかし組織は新たな刺客をまたもや送り込む。
ふと考えるとこれは日本のヒーロー物やアメコミヒーローに通ずる題材だ。
つまりキングは既に昔から世に流布している子供の読み物であった題材をもとにそこに逃亡者の苦難と生活感を投入することで大人の小説として昇華しているのだ。これは従来のキング作品が吸血鬼や幽霊屋敷と云った実にありふれた題材を現代のサブカルチャーや読者のすぐそばにいそうな人物を配して事象を事細かに書くことによって新たなホラー小説を紡ぎ出した手法と全く同じである。つまりこれがキングの小説作法ということになるだろう。

物語は≪店≫にチャーリーの念力放火の能力が発覚してさらわれるのをどうにか防ぎ、追手からの逃亡生活を1年経た時点から始まる。
このチャーリーの誘拐劇の顛末は衝撃的だ。
妻が拷問の末、殺害された死体を見つけて既に連れ去られたチャーリーを血眼になって探す様子、その後も銀行の口座を閉鎖され、自分の“押す”力で1ドル紙幣を多額の紙幣に思わせてタクシーに乗ったりモーテルに泊まったりするなどしてどうにか逃亡生活を続けている辺りは開巻するや否やクライマックスが訪れているほどの迫真性を湛えている。

一方チャーリーは幼い頃から発動した能力を父親と母親から“いけないこと”だと云い聞かされ、念力放火をするのを嫌がっているが、一旦発動してしまうとそれがこの上もなく楽しいことだと感じ始めている。

そんなアンディとチャーリーのマッギー親子の前に立ち塞がるのは≪店≫が差し向けたインディアンの大男ジョン・レインバード。生きた妖怪、魔神、人食い鬼と評され、上司のキャップさえも恐れるこの大男はベトナム戦争で地雷によって抉られた一つ目の顔を持つ異形の殺し屋だ。彼はどこか超然とした雰囲気を備えており、チャーリーに異様な関心を示す。そして凄腕の評判通り、彼は見事にマッギー親子を手中に収めることに成功する。

しかしその後の彼は圧倒的な支配力を発揮するわけではない。雑役夫としてチャーリーが監禁されている部屋の掃除を毎日行って彼女の閉ざされた心を開かせようとする。それはまるで一流の心理学者が行うアプローチのようで、チャーリーの信頼を得るために同調と共感を時間を掛けて構築して徐々に彼女の頑なな精神の壁を開かせようとする。
作中ではそれは金庫破りで例えられている。一流の錠前・金庫破りの名人からレクチャーを受け、師を超えるほどの技量を持つようになったレインバードは師が彼に与えた言葉、「金庫は女に似ている。道具と時間さえあれば絶対に開けられない金庫はない」を忠実に守り、実に粘り強くチャーリーという金庫に鑿をこじ入れていく。それもあくまで慎重に。

そして彼は≪店≫が望むようにチャーリーに念力放火の実験に協力させた後、事態が収拾付かなくなる前に親しい友人、雑役夫のジョンとしていつものように接し、彼女を和ませた瞬間に鼻柱に拳を食らわせ、脳髄まで骨片を叩き込んで死に至らすことを至上の目的として任務に就いている生粋の歪んだサディストだ。
このレインバードのような、心細い時に親身になってくれたと見せかけて実はいつでも命を落としてやろうと虎視眈々と狙っている相手が一番恐ろしい。

しかし一方でこのレインバードのような殺し屋が実は≪店≫にとっても一縷の望みであるのだ。それは実験するごとに増してくるチャーリーの念力放火の能力である。どのような耐火施設を建て、また零下15℃まで冷やすことの出来る工業用の大型空調施設を備えてもチャーリーの能力が発動すればたちまちそこは灼熱の地となり、全てを燃やし、もしくは蒸発させ、気化させ、雲散霧消させてしまうのだから。チャーリーの発する温度は既に3万度にも達しており、ほとんど一つの太陽と変わらなくなってきており、このまま能力が発達すれば地球をも溶かしてしまう危険な存在だからだ。
日増しに能力が肥大していく彼女を抹殺することは実は世界にとって正しい選択肢であるとさえ云えるだろう。

しかしこのマッギー親子が望まずに超能力者になった者であるがために、チャーリーやアンディが危険な存在だと解っていてもどうしても肩を持ってしまう。常に監視され、実験道具にされたこの不幸な親子に普通の生活を与えてやりたいと思うのだ。

物語のクライマックスは宿敵レインバードとマッギー親子の対決に端を発し、そこから自らの能力を存分に発動したチャーリーの≪店≫の施設の破壊劇となる。

キングの作品が特徴的なのは通常の物語ならこれらの破壊劇で幕を閉じるところなのに、その後があることだ。

しかし終始どこかしら哀しい物語であった。
上にも書いたように通常ならば人の心を操るアンディと無限の火力を発し、核爆発までをも容易に起こすことの出来る少女チャーリーはまさに人類にとって脅威である。しかしそんな脅威の存在を敢えて社会に遇されないマイノリティとして描くことで同情を禁じ得ない報われないキャラクターとして描いているのだ。
特に今回は望まずにマッド・サイエンティストが開発した脳内分泌エキスを人工的に複製した怪しい薬品にて開花した超能力ゆえに安楽の日々を送ることを許されなかった家族の物語として描いていることに本書の特徴があると云えるだろう。

アンディの生計は自らの能力を生かした減量講座教室の講師である。減量できずに悩む生徒を少し“押す”ことで食欲を減退させ、ダイエットに成功させることを商売にしている。何とも超能力者にしては慎ましい生活ではないか。

思えばデビュー作の『キャリー』以来、『呪われた町』とリチャード・バックマン名義の作品を除いてキングは終始超能力者を物語に登場させていた。
キャリーは凄まじい念動力を持ちながらもスクールカーストの最下層に位置するいじめられっ子だった。
『シャイニング』のダニーは自らの“かがやき”を悟られないように生きてきた。
ジョン・スミスは読心術ゆえに気味悪がれ、厭われた。
キングは超能力者の“特別”を負の方向で“特別”にし、語っているのだ。一方でそれらの特殊能力を“かがやき”と称し、礼賛をもしている。

このどこか歪んだ構造がキングの描く物語に膨らみをもたらしているのかもしれない。
しかしチャーリーに関しては念力放火よりも彼女が最後に大人たちを魅了するとびきりの笑顔こそが“かがやき”だとしたい。これからのチャーリーの将来に幸あらんことを願って、本書の感想の結びとしよう。


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ファイアスターター (上) (新潮文庫)
No.576:
(7pt)

シンプルな邦題が読後、色んな意味を伴って心に響く

ウェクスフォード警部シリーズ10作目は謎めいた一人の年輩の独身女性を巡る物語だ。

田舎の片隅の小道で何者かに刺された50歳の女性。その顔にはどこか嘲笑うかのような微笑が遺されていた。調べていくうちに彼女が誰にも自分の住所を明かさなかったことが解ってくる。
50歳の独身女性、しかも処女のまま死んだ女性の人生を巡るのが本書の物語だ。

本書でも語られているように変死体で見つかった彼女はもはやただの無名の存在ではなくなる。彼女を殺害した人物を探るために過去を一つ一つほじくり返され、人間関係がその為人が暴かれ、好むと好まざるとに関わらず、1人の人間の伝記が出来上がっていく。
しかしこの被害者の女性ローダ・コンフリーは調べども調べども住所さえも明らかになっていかない。彼の父親や叔母にでさえ自分の住所を教えなかった女性。

やがて捜査線上に一人の男性が浮かび上がる。作家のグレンヴィル・ウェスト。最初は年増女が勘違いして熱を挙げただけの存在かと思われたが、たまたま手に取った彼の著作の献辞にローダの名前を発見して、その関係性に太い繋がりが見えてくる。
ウェクスフォードの捜査の手は彼の方に伸びていくが、フランス旅行中というのは大きな嘘でイギリス国内に留まり、行方を転々としているのだ。ウェクスフォードは今度はグレンヴィル・ウェストという謎めいた男に囚われてしまう。

しかしそれはある一つの言葉でこれら1人の女性と1人の男性の謎めいた人生が氷解する。

このように一人の女性の死が人生という名の迷宮に誘う。
私や貴方が普通に言葉を交わすご近所相手、もしくは会社で一緒に働く相手は彼ら彼女らの多数ある生活の側面の一面に過ぎない。いつも見せる顔の裏側には数奇な人生の道程が隠されているのだ。

また本書ではこの50代の独身女性の謎めいた死を巡る謎と並行してもう1つの物語が語られる。
それはウェクスフォードの長女シルヴィアの夫婦不仲の問題だ。本書が発表された70年代後半は折しもイギリスではウーマン・リブ旋風が吹き荒れていたらしく、シルヴィアもその風に当てられて、家庭に籠って一生を終える人生に異を唱え、女性の自由を高らかに叫び、家庭に閉じ込めようとする夫に反発する。

そしてこのサブテーマが本書の核を成す事件と密接に結びつくのがこのシリーズの、いやレンデルの構成の妙だ。
容姿端麗のシルヴィアは歩けば周りの男が振り返り、口笛を吹かれるが、そこには敬意の欠片も感じられないことに苛立ちを覚えており、子供と夫の世話で明け暮れる自分の人生を悲観し、住み込みの女中を雇って社会進出したいと願うが、結局自分には夫が必要であると気付き、彼女は諦めて夫の許に戻る。

今や自立する女性が当たり前になり、結婚適齢期が20代の前半から後半、そして30歳でも独身で社会の一線で活躍する女性が普通である昨今を鑑みると、現代の風潮が生まれる黎明期の時代に本書が書かれたことが判る。
男が働き、女が家を守る。
当たり前とされていた価値観が変革しつつある時代においてレンデルは昔ながらの夫婦であるウェクスフォード夫妻と現代的な考えに拘泥する彼の長女夫婦の軋轢を通じて時代を活写する。
未だに解決しないこの男女雇用、機会均等の問題を上手くミステリに絡めるレンデルの手腕に感嘆せざるを得ない。

しかし『乙女の悲劇』とはよく名付けたものだ。この一見何の衒いもないシンプルな題名こそ本書の本質を突いているといっていいだろう。

なお原題は“A Sleeping Life”。作中で引用されているボーモントとフレッチャーの戯曲の一節にある“眠れる生”を指す。

50歳の無器量な女性の変死体から濃厚な人生の皮肉を描いてみせ、更には女性の社会進出という普遍的なテーマを見事に1人の女性の悲劇へと結び付けたレンデルの筆の冴えを今回も堪能した。
今更ながらやはりレンデルの作品も順を追って読み直してみたい衝動に駆られた。既に物故作家となり、数多ある未訳作品の刊行も尻すぼみになりつつある現状を考えると、このまま忘れ去られるには非常に惜しい作家だ。
亡くなった2年前に刊行された『街への鍵』の高評価は決して餞のランキングではないはずだ。
絶版作品共々、再評価され再び書店の棚に彼女の作品が、別名義のバーバラ・ヴァイン作品も併せて並ぶことを願ってやまない。


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乙女の悲劇 (角川文庫 赤 541-4)
ルース・レンデル乙女の悲劇 についてのレビュー
No.575: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

映画産業にはよくあることらしい

ヘンリー・メリヴェール卿ことHM卿シリーズ第10作目で『読者よ欺かるるなかれ』の後に書かれた、まだディクスンが脂の乗り切った時期に書かれた作品である。しかしこの作品は長らく邦訳されず、創元推理文庫、ハヤカワミステリ文庫のラインナップからいずれも漏れていた作品であり、初邦訳となったのがなんと1999年でしかも新樹社から刊行された。本書はそれを底本にして全面改稿された文庫化作品である。

田舎娘が初めて書いた小説がいきなり大ヒットとなり、それを契機にロンドンに出てきて映画会社で脚本の仕事にありつくというシンデレラストーリー的設定に、当時のイギリス映画業界の内幕を絡めたストーリー展開にすぐさま引き込まれてしまった。

脚本家の卵として田舎町からロンドンに来たモニカはカートライトの人柄に魅かれながらもなかなか素直になれず、年不相応の髭について不平不満を並べ、遠ざけようとする。一方カートライトはそんな田舎娘に次第に魅かれていく。
その間に立つのはハリウッドから招聘された名脚本家のティリー・パーソンズ。この50代初めのヴェテラン女性脚本家が2人の恋路を取り持っているのか邪魔しているのか解らない奔放さが実にいいアクセントになっている。

しかし彼女もまたモニカ殺人未遂の最重要容疑者とみなされる。彼女の筆跡がモニカに送られた脅迫状その他と酷似していたからだ。しかしティリーもまた毒入り煙草によって昏倒し、病院に運ばれることになる。

このモニカとカートライトを中心にした映画業界の人々を巻き込んだ殺人騒動で物語は進行し、シリーズの主人公であるHM卿が登場するのは150ページ過ぎと物語も半ばを過ぎたあたり。
しかしそれでもHM卿は事件解決に乗り出さず、戦時下という状況故か、映画会社が失った海軍の主要戦力となる軍艦が撮影された8000フィートものフィルムの行方を気に揉む次第。情報部々長という立場故、戦時下で軍の機密情報が敵国に知れ渡ることの方がHM卿にとって非常に重要なのだ。

残ること約50ページになってようやくHM卿は現場に乗り出し、快刀乱麻を断つが如く名推理を発揮して瞬く間に一連の騒動の犯人を名指しする。

カーター・ディクスンは事件関係者の勘違い、もしくは想定外の出来事で殺人計画が捻じ曲げられ、それがために不可解な状況が起こるという、ジャズ演奏で云うところの即興、インプロビゼーションの妙をミステリに非常に巧みに溶け込ませるのを得意としているが、本書においてもそれが実に巧く効いている。

本書で唯一不可能状況下での犯罪は封も開けていない、モニカが駅で買った煙草にどうやって毒入り煙草を忍ばせたかという物だが、案外無理があるトリックだとは感じる。

題名が差すように一人の男が殺人を犯すまでに至った一連の騒動こそがこの物語だが、本書が書かれたのが1940年。4年後にクリスティーが犯行に至るまでを描いた『ゼロ時間へ』を著しているが、私は彼女が同作を著すときに本書のことが頭にあったのではないかと考えている。
つまり本書はディクスン版『ゼロ時間へ』なのだと。そう考えるといかにもディクスンらしい味付けが成されているなぁと感心してしまう。

そしてだいたい作者が映画業界を舞台にした作品を書くときは作者自身がその業界に関わったことがあるからだからだが、やはりディクスン自身もその例に洩れず、解説の霞氏によれば本書が発表される2年前の1938年にイギリス映画界で脚本家として携わったらしい。その時の経験は散々だったようで、そのことが作品にも色濃く表れている。特に最後の台詞
「映画産業にはよくあることだ」
はその時の思いがじっくりと込められているように思える。

また余談だが前年の1937年に映像をふんだんに物語に取り込んだ『緑のカプセルの謎』が刊行されているのもまたこの時の経験が関係していると考えると非常に興味深い。

私はその後のHM卿シリーズも読んでいるわけだが、なにせ時系列的に読んでいないため、各作品での繋がりに対する記憶がほとんどない。本書に登場するHM卿の部下ケン・ブレークとスコットランド・ヤードの首席警部ハンフリー・マスターズ以外の登場人物は私の中では消失してしまっている。
その原因はカーター・ディクスンならびにディクスン・カー作品の訳出のされ方にもある。例えば近年新訳で刊行されたHM卿の作品は以下の通りだ。

2012年『黒死荘の殺人』;第1作目
2014年『殺人者と恐喝者』:第12作目
2015年『ユダの窓』:第7作目
2016年『貴婦人として死す』:第14作目
2017年本書:第10作目

このように順番はバラバラである。この辺が改善されると今後の読者も系統だってシリーズを読めるので助かるとは思うのだが。
しかしこうやって見ると上には書いていないが、ジョン・ディクスン・カー名義の作品も合わせると毎年コンスタントに新訳が出されていて、ファンとしては非常にありがたい状況ではある。ただ贅沢を云えば上に述べたようにシリーズが前後しない刊行のされ方をしてもらいたい。

また新訳となって実に読みやすく、しかも平易な文章で解りやすいのだが、一方で昔の訳本に載っていた注釈が全くないのが気になった。原作に挿入されていた原註はあるが、訳者による注釈は皆無である。
登場人物たちが引用する固有名詞は、例えばラリー・オハロランの絞首刑などと唐突に挟まれる比喩はその内容自体が解らないため、そのまま読み流すような形になったのが惜しい。恐らくは注釈を入れることで読書のスピードを削がれるのを懸念したためにそれらを排除したのかもしれないが、新たな知識や蘊蓄を得るのもまた読書の醍醐味であると思っているので、これらについてはきちんと注釈を入れてほしかった。勘繰れば逆に訳者がそれらの手間を省いたとも取られかねない。

いやもしくはWEBが発達した現代では注釈などは必要なく、興味があれば読者の方で検索サイトで気軽に情報を得ることが出来るから、注釈は不要とみなしたのかもしれない。

時代の流れともいうべきか。単純に昔の訳書を読みなれた者にとっての贅沢とすべきか。なかなか難しい判断である。

しかしやはり長らく文庫化されなかったカーター・ディクスン/ジョン・ディクスン・カー作品がこのように刊行され読めることは実に嬉しいことだ。まだまだ絶版の憂き目に遭って読めないでいるカー作品をこれからもコンスタントに刊行してくれることを東京創元社には大いに期待しよう。


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かくして殺人へ (創元推理文庫)
カーター・ディクスンかくして殺人へ についてのレビュー
No.574: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

スキーのように、スノボのように駆け抜けよう!

実業之日本社文庫から文庫書下ろし刊行されているスキー場を舞台にしたこのシリーズも早や3作目。新たなシリーズとして定着しつつある。ちなみにこのシリーズは『スキー場シリーズ』と呼ばれていることを最近になって知った。

今回も登場するのは前作、前々作に引き続いて根津昇平と瀬利千晶の二人。そして瀬利は既にプロスノーボーダーを引退していることが判明する。

このシリーズでは今まで『白銀ジャック』、『疾風ロンド』で見られたように読者にページを速く捲らせる疾走感を重視したストーリー展開が特徴的だが、本書も同様に冤罪の身である大学生の脇坂竜実と彼の協力者で友人の波川省吾の2人が警察の追手から逃れて自分の無実を証明する「女神」を一刻も早く捕まえなければならないというタイムリミットサスペンスで、くいくいと物語は進む。
ウェブでの感想を読むと謎また謎で読者を推理の迷宮に誘い込むのではなく、非常に解りやすい設定を敢えて前面に押し出してその騒動に巻き込まれる人々の有様を描いているこのシリーズに対する評価は賛否両論で、特にストーリーに深みがないと述べている意見も多々見られるが、それは敢えて東野氏がこのシリーズをスキーまたはスノーボードの疾走感をミステリという形で体感できるようにページターナーに徹しているからに他ならない。それを念頭に置いて読むと実に考えられたミステリであることが判る。
単純な設定をいかに退屈せずに読ませるか、これが最も難しく、しかもこのシリーズでは最後の1行まで演出が施されていて飽きさせない。
もっと読者は作者がどれだけ面白く読み進めるように周到に配慮しているか、その構成の妙に気付くべきである。東野氏は数日経ったら忘れてしまうけれど、読み終わった途端に爽快感が残るような作風を心掛けていることだと理解すべきである。

特に本書では一介の大学生脇坂が同じ大学で法学部の友人波川と共に自分の無実を証明する証人を捜すために里沢スキー場に向かうわけだが、この波川を配置したことで警察が行う捜査の常套手段を先読みして次から次へとその裏を潜るように行動を指示しているところが小気味良い。
また警察もさるもので大学生が思いつく抜け道をすぐに察知して次の手を打つ。
この逃走者と警察の騙し合いがまた愉しい。
特に有力容疑者として目された脇坂が友人と共にスノーボードを持って逃走しているという不可解な事実に対して警察やその手伝いをする女将さんがいろいろな理由を考えつくのもまた面白い。その人その人の価値観で警察は捜査を攪乱するためのフェイクだと推察し、スキー場を愛する女将さんは逮捕される前の最後の晩餐、最後に極上のパウダースノーを存分に愉しんでから自首しようと思ったりと人間の考え方のヴァラエティの豊かさが垣間見える。

またただ軽いというわけではない。東野氏がスキー場を舞台にしたミステリを文庫書下ろしという形で安価に提供する目的として自らもスノーボードを嗜む氏が経営困難に瀕している全国のスキー場に少しでも客足が向くように読者に興味と関心を与えていることだ。

従って、ただの爽快面白エンタテインメントに徹しながらも物語の所々にスキー場で働く人たちの心情や厳しい現状が綴られている。

例えば主人公の1人瀬利千晶にしても、プロボーダーを引退した後の去就は両親が経営する保育園を継ぐことを決意し、今回のゲレンデ・ウェディングを自分のスノーボード人生の最後の花道とし、今後は一切にウィンタースポーツには関わらないと決めていること。
また根津は建築士として父親が経営する建築事務所で働いており、いつかアミューズメントパークのようなスキー場を作ることを夢見ているが、現実の厳しさに直面し、ほとんど手付かずの状態である。

また今回容疑者の脇坂竜実を追う所轄の刑事小杉をサポートする居酒屋の女将川端由季子も旅館も経営しているが先に逝かれた夫の後を継いで女手一つで両方を経営し、スキー場に少しでもお客の足が向くように笑顔でサービスに努めている。だからそんな大切な場所に刑事が大勢詰めかける前に事件を解決したいと願って小杉に協力するのだ。

またスキー場のパトロール隊員は滑降禁止エリアの立入を厳重に監視しているのも怪我なく楽しんでお客さんに帰ってほしいがためだ。彼らは注意するときは決して高圧的でなくむしろ懇願しているかのようだとも書かれている。スキー場を愛するが故の行為であるからだ。

さて冤罪を逃れるために脇坂たちが探す幻の女―書中では「女神」と称されている―。なかなかその正体は判明しない。

また今回は冤罪に問われた脇坂と警察との鬼ごっこが前面になっているため、福丸老人を殺害した真犯人の捜査がなかなか進まないのも特徴的。

しかし何とも甘い結末である。やはりゲレンデは恋の生まれる場所ということか。
リゾートの恋は長続きしないから気を付けないと、などとついつい余計なことを思ってしまった。
このシリーズが終焉を迎えるかは解らないが、シリーズの舞台はあくまでスキー場。東野氏がウィンタースポーツを愛する限り続いていくような気がする。
さて次はどんな事件がゲレンデで起こるのか。不謹慎ながらも次作を期待して待とうとしよう。


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雪煙チェイス
東野圭吾雪煙チェイス についてのレビュー
No.573: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ただひたすら歩くだけの物語がこれほどまでに深くなるとは…

ロングウォーク。それは全米から選抜された14~16歳の少年100人が参加する競技。
ひたすら南へ歩き続ける実にシンプルなこの競技はしかし、競技者がたった1人になるまで続けられる。歩行速度が時速4マイルを下回ると警告が発せられ、それが1時間に4回まで達すると並走する兵士たちに銃殺される。

最後の1人となった少年は賞賛され、何でも望むものが得られる。

この何ともシンプルかつ戦慄を覚えるワンアイデア物を実に400ページ弱に亘って物語として展開するキングの筆力にただただ圧倒される。

その始まりも実にシンプルでロングウォークが始まるまでの葛藤や家族とのやり取りなどは一切排除され、いきなり物語開始わずか13ページ目でロングウォークは始まる。しかも始まるまでに上に書いたような設定に関する説明は一切なく、登場人物たちの会話や独白から推察するしかない。つまり純粋に死の長距離歩行のみが物語として語られるのだ。

100人の少年による決死行。その中の1人レイモンド・ギャラティを中心に物語は進む。出身地は出発点であるメイン州であるため、通り道では彼を応援する人々で溢れている。

その彼と共にウォーキングを共にするのがピーター・マクヴリース。無駄口を叩きながら時に励まし合い、またお互いの身の内を話しながら歩を進めていく。

その他にもロングウォーク終了後はその体験を1冊の本に纏めようと出場者全ての名前を記録し、話を聞くハークネスに、終始周囲に毒をまき散らしながら疎まれるバーコヴィッチ。そしていつも一人でしんがりを歩きながらも最初の出発時以外警告を貰わず、淡々と歩き、時にギャラティたちに過去のロングウォークについて訳知り顔で語る正体不明のステビンズとが交錯し、この単純な物語に様々なエピソードを添えていく。

しかしとにかくシンプルかつ残酷なイベントだ。ひたすら歩き続けることが生存への唯一の道。しかもその間睡眠さえも許されず、用足しも歩きながら、または警告覚悟で極力最小限の時間ロスで行わなければならない。

そんな極限状態での行脚でレイモンドはしばしば意識朦朧となり、過去の思い出が蘇る。
それは恋人ジャンとの出逢いだったり、小さい頃にいた隣人のジミーと2人で女性のヌードカレンダーをこっそり隠れてみて女の裸について語り合ったことなどが時折挟まれる。人は死ぬ前に過去を思い出すというが、この死の長距離歩行は黄泉の国への道行であるから当然なのかもしれない。

ただひたすら歩くという単純な行為は思春期の少年たちに様々な変化をもたらす。

馬鹿話からそれぞれの恋話、色んな都市伝説。思春期の少年たちが集まっては繰り返す毒にも薬にならない他愛のない話が交わされるが、やがて1人また1人と犠牲者が増え、次は我が身かと死がリアルに迫るにつれて、そして疲労困憊し、意識が白濁とし出すにつれて口数は少なくなり、意識は内面へと向かう。時にはそれは死と生について考える哲学的な思考に至りもする。

そしてどんどん人々が死んでいくに至り、彼らもリアルを悟るのだ。
ロングウォークの通知が来た時に彼らは自らが英雄に選ばれたと思い、即参加する者もいれば躊躇しながらも最終的に参加を決めた者もいる。また不参加表明のために直前になって参加意向の問い合わせが来た補欠選手もいる。

しかしそんな彼らはあくまでこれは年一回のイベントであり、最後の1人になるまでの死のレースであると解っておきながら、どこかで勝利者以外は死ぬという事実を都市伝説のように捉えていた参加者も少なくない。
しかし現実にどんどん脱落者が目の前で射殺され、脳みそが飛び散る風景が繰り返されるうちに明日は我が身かもというリアルが生まれ、変化していく。

とりわけその中でもハンク・オルソンという少年が印象的だ。
レースが始まる前の集合場所では訳知り顔でロングウォークに関する色んな話と攻略法などを述べ、更に威勢のよさを見せつけるようなパフォーマンスをしていたが、やがて足が痛み、レース継続困難になるにつけて寡黙となり、内に内に籠っていく。そしてもはや飲食をも忘れ、排便も歩きながら垂れ流し、ただただ前に向かって足を交互に出すだけの存在と化していく。

突然の腹痛に襲われ、リタイアを余儀なくされる者、足が麻痺して歩くなり、悔しさを滲ませながら銃殺される者。色んな死にざまがここには書かれている。

また印象的なのはこの生死を賭けたレースを通り沿いにギャラリーがいることだ。
時に彼らは参加者を応援し、思春期の少年たちの有り余る性欲を挑発するかのようにセクシーなポーズを取る女性もいれば、違反行為と知りながら食べ物を振る舞おうとする者、家族で朝食を食べながら参加者に手を振る者もいる。さらに彼らが口にした携帯食の入れ物をホームランボールであるかのように記念品として奪い合う者、参加者が排便するところをわざわざ凝視して写真を撮る者もいる。
死に直面した若い少年たちを前に実に牧歌的で自分本位に振る舞う人々とのこのギャップが実は現代社会の問題を皮肉に表しているかのようだ。

今目の前に死に行く人がいるのにもかかわらず、それを傍観し、または見世物として楽しむ人々こそが今の群衆だ。
テレビを通して観る戦争、その現実味の無さにテレビゲームを観ているような離隔感、リアルをリアルと感じない無神経さの怖さがここに現れている。彼らはこの残酷なレースを行う政府を批判せずに年一度のイベントとみなしている時点でもはや人の生き死にに無関心であるのだ。

一応本書はアメリカを舞台にしながらも現代のアメリカではない。裏表紙の紹介には近未来のアメリカと書かれているが、これは正解ではないだろう。地理、文化とも実在するアメリカではあるが我々の住んでいる世界とは別の次元のアメリカでの物語である。
それを裏付ける叙述としてこのロングウォークの参加取消の〆切が4月31日となっているからだ。つまり現実にはそんな日は存在しないことから本書の舞台が我々とは地続きでない世界であることが判る。
しかしここに書かれているこの奇妙な現実感は一体何なんだろうか。若い命が死に行くことを喜ぶ様は、そうまさに我が子を戦争に送り出し、それを勇気ある行動と称賛する風景に近似している。そう考えるとこの荒唐無稽な物語も単なる読み物として一蹴できない怖さがある。

シンプルゆえに考えさせられる作品。
解説によればこれを学生時代にキングは書いた実質的な処女作であるとのこと。だからこそ少年たちの心情や描写が実に瑞々しいのか。
この作品が現在絶版状態であるのが非常に惜しい。復刊を強く求めたい。


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バックマン・ブックス〈4〉死のロングウォーク (扶桑社ミステリー)
No.572: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

残酷ショーのオンパレードだが、しかし…

綾辻行人氏、容赦なし!

まさに王道のスプラッター・ホラー。綾辻氏のスプラッター・ホラー好きはつとに有名だが、その趣味を前面に満遍なく筆に注ぎ込んだのが本書だ。

TCメンバーという、年齢も性別、国籍、職業も無関係である一つの条件を満たしていれば入会できる親睦団体の、東京第二支部として集まった面々。

中学教師の磯部秀二と真弓夫妻、会社員の大八木鉄男、自称カメラマンの洲藤敏彦、大学生の沖元優介、OLの千歳エリ、女子大生の茜由美子、中学生の麻宮守がそのメンバーである。それぞれに色んな過去を抱えており、ある者は自分の息子を事故で亡くし、またある者は母親を事故で亡くしている。

まずこの手の連続殺人鬼による殺戮劇にありがちなセックス中の殺人で幕を開けるところが笑える。しかしその笑いも束の間でその死にざまの惨たらしさに思わず目を背けたくなる。

都合15ページ亘って描写される殺人鬼による殺戮ショーの凄まじさはまさに戦慄ものだ。
木杭で下半身同士を打ち付けられ、身動き取れないまま、男は首を斧で刈られ、女はまず左足を太腿から切断された後、左腕を肘から切られ、そして首を刈られるという凄惨さ。その描写が実にリアルで凄まじい。

その後も綾辻氏による殺戮ショーは続く。3人目の犠牲者は焚火の中に顔を押し付けられ、焼け爛れされた後、頭を斧によって割られる。

4人目の犠牲者は両足を切断され、逃げられなくなったところを2人目の犠牲者の左腕を喉にねじ込まれる。

5人目の犠牲者はさらに凄惨だ。天井から逆さに吊るされた状態で眼球を錐で繰りぬかれ、視神経が付いた状態で自身の口の中に入れられる。更には腹を掻っ捌かれ、流れ出た腸を口の中に咥えさせられ、もはや正常な判断が出来ないまま、生に執着した犠牲者は己の腸とは知らずに生きるために貪り食って死ぬ。

6人目の犠牲者は頭を両手で挟み込まれ、親指を両目に押し込められて潰された上、首を180度捻じ曲げられた状態でぺしゃんこに潰される。

7人目の犠牲者は手首を切られた後、馬乗りにされ、片手をぐいぐいと口の中に押し込まれ、何と食道の壁を突き破り、胃を鷲掴みにされて口から引き抜かれる。

どうだろう、この残酷ショーのオンパレードは。
この徹底した残酷さはなかなか書けるものではない。生半可な想像力ではこれほど凄まじい殺人方法が浮かばないからだ。
それを着想し、生々しい描写で執拗に描き続ける綾辻氏。
本書を書くとき、彼の中に一己の殺戮マシーンが心に宿っていたのではないだろうか。つまり作者自身が殺人鬼になり切っていた。そう思わせるほどの怖さと迫真さに満ちている。

しかもこれほどの典型的なスプラッター・ホラーに綾辻氏はある仕掛けを施している。

最後の生存者1人になった時、その仕掛けが判明する。

このある条件は最後の方で解った。

典型的なスプラッター・ホラーを綾辻行人氏が書くわけがない、何かあるはずだと期待して読んだのだが、その期待が最後で萎んでしまった。
むしろ逆にシンプルに徹底したB級ホラーぶりを愉しむが如く、存分に筆を奮ってほしかったくらいだ。最後の真相を読むとなおさらそう思う。

しかし本書はこれでは終わらない。今回発見されなかった双葉山の殺人鬼が再び姿を現す『殺人鬼Ⅱ』が控えている。
このような出来すぎな結末になっていないよう、更に上のサプライズを今度こそ期待したい。


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殺人鬼  ‐‐覚醒篇 (角川文庫)
綾辻行人殺人鬼 についてのレビュー
No.571: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ディーヴァーにしては遅すぎたテーマか

キャサリン・ダンスシリーズ3作目の本書は休暇中に旅先で遭遇する友人のミュージシャンのストーカー事件に巻き込まれるという異色の展開だ。
従って彼女の所属するカリフォルニア州捜査局(CBI)モンテレー支局の面々は登場せず、電話で後方支援に回るのみ。彼女の仲間は旅先フレズノを管轄とするフレズノ・マデラ合同保安官事務所の捜査官たちだ。
しかしリンカーン・ライムシリーズも3作『エンプティ―・チェア』ではライムが脊髄手術で訪れたノースカロライナ州を舞台にした、勝手違う地での事件を扱っていたので、どうもシリーズ3作目というのはディーヴァーではシリーズの転換期に当たるようだ。

そして出先での捜査、しかも地方の保安官事務所の上位組織であるCBIは彼らにとっては目の上のタンコブのようで最初からキャサリンに対して物見遊山的に捜査に加わろうとする輩と色眼鏡を掛けて見ており、全く協力的ではない。これは定石通りだが、彼らがキャサリンと手を組むのは早々に訪れ、事件発生の2日目、ページ数にして170ページ辺りで訪れる。この展開の速さは正直意外だった。

さてストーカー行為は現在日本でも問題になっており、それが原因で女優の卵や若い女性が殺害される事件が最近になっても起こっている。一番怖いのはストーカーが自己中心的で相手を喜ばそうと思ってその行為を行っており、しかも彼ら彼女らが決して他人の意見や制止を認めようとしないことだ。
自分の信条と好意に狂信的であり、しかもそれを悪い事だと思ってない。実に質の悪い犯罪者と云えよう。

本書に出てくるエドウィン・シャープも実に薄気味悪い。見かけは185~190センチの長身で身ぎれいにしたヘアスタイルに服装で好男子の風貌だが、その目の奥にはどこか狂信的な輝きが潜んでおり、常に何かを探ろうとじっと対象物を見つめている。そしてなぜか初対面にも関わらず、相手の名前を、場合によっては近しい人しか知りえぬファーストネームさえも知っている男。
この底の知れないところと快活な風貌がアンバランスで逆に恐怖を誘う。

そして作中にも書かれているようにストーカーのようにあることに対して妄信的に信じて疑わない人々、また嘘を真実のように信じて話す人々には人間噓発見器のダンスが得意とするキネシクスが通用しないのだ。
事件発生後の3日目の火曜日にダンスはエドウィン自らのリクエストによって尋問を行うが、彼の得体の知れない笑みに惑わされて本領を発揮できなく、時には先方に主導権を握られそうになる。結局彼が犯人か否かを判定できずに終わる。

余談になるが、このキャサリン・ダンスシリーズは彼女の得意とするキネシクスがほとんど機能せずに物語が進む。つまりダンスは自身のシリーズになるとただの優秀な捜査官に過ぎなくなり、“人間噓発見器”としての特色が全く生きないのだ。
一方のリンカーン・ライムシリーズがライムの精密機械のような鑑定技術と証拠物件から真相を見破る恐るべき洞察力・推理力を売り物にしているのとは実に対照的である。

そしてライムと云えば、これまでこのシリーズにもカメオ出演でチョイ役で出ていたが、本書ではとうとうフレズノに赴いて捜査に加わる。そして彼の鑑定技術がその後の捜査の進展に大きな助力となり、犯人逮捕の決め手になるのだ。
この演出はファンサービスとしては上等だが、一方でこれでは一体どちらのシリーズなのかと首を傾げたくなる。

また本書ではディーヴァーお得意の音楽業界を扱っているところもポイントだ。ディーヴァー自身が元フォーク歌手を目指していたことはつとに有名で、本書で挿入されるカントリー歌手ケイリーの歌詞ではその片鱗を覗かせている。

まず今回ダンスが事件に巻き込まれる発端が休暇を利用して自身で運営しているウェブサイトを通じて著作権を取得する手伝いをし、さらに販売までする世間にほとんど認知されていない在野のアーティストの曲を収集する“ソング・キャッチャー”としての旅であることだ。このことからも本書が音楽に纏わるあれこれをテーマにしていることが判る。

またこのケイリー・タウンだが、私の中では彼女をテイラー・スウィフトに変換して読んでいた。特にケイリーがカントリー・ミュージック協会の最優秀賞を受賞したときのある事件のエピソードに関してはテイラーの2009年のグラミー賞に纏わるカニエ・ウェストとの騒動を彷彿させる。そうするとまさにぴったりで、後で調べたところ、作者自身彼女をモデルにしているとの記述があり、大きく頷いてしまった。

また音楽業界の変遷についても筆が大きく割かれている。
17世紀の、まだ録音機器がない時代にコンサートやオペラハウス、ダンスホールなどで生演奏を楽しんでいた時代に始まり、エジソンによって発明される蓄音機によって家庭で音楽が楽しめるようになり、そこから技術革新で様々な音楽媒体が生まれたことが説明されているが、やはりとりわけ筆に熱がこもっていると感じられるのは最近のウェブを利用しての音楽配信サービスに移行してからの無法地帯と化した音楽業界の実情だ。
合理主義のアメリカ人は利便性を優先するがためにレコードやCDといった物として音楽を聴くことから単にデータとして自身のパソコンやスマートフォンなどに取り込んで、しかも超安値で何百万曲も自由に、違法音楽配信サービスを利用すれば無料で好きな曲だけチョイスして楽しむという現状を、ミュージシャンを志した作者自身が嘆いているように感じられる。

アメリカでは既にタワーレコードは潰れてしまったが、物その物に価値を見出す日本人はまだ大型レコード店が廃業するまでには至っていない。特に渋谷のど真ん中で複層階のビルが1棟まるまるレコード店であるというタワーレコード渋谷店は外国人にとって驚きの対象らしい。

さらに本書で挿入され、事件に大いに関係するケイリー・タウンの楽曲も実際にウェブサイトで公表され、販売されているとのこと。単に題材をシンガーにしただけでなく、実在するかのようにアルバムまで1枚作ってしまうディーヴァーのサーヴィス旺盛さには驚いた。

他にもザ・ビートルズの未発表曲がある、ケイリーに隠し子がいて、それが姉の娘であった、等々音楽業界にありそうなエピソードが満載されている。

そしてもはや定番と云っていいどんでん返し。

本書のどんでん返しはミスディレクションの魔術師ディーヴァーだからこそ安易な誘導には引っ掛からないと疑いながら読む読者ほど引っ掛かるミスディレクションだろう。

しかしストーカーという人種はどうしようもないなとつくづく思う。相手が「自分だけ」を特別な誰かだと思っていると思い込み、そしてそれは「自分だけ」が理解していると思い込む。相手にとってそんなワン・アンド・オンリーであると思い、自己愛をその人物への愛へと変換する。どんなに相手が異を唱えても、邪険に扱っても愛情の裏返し、周囲に対する恥ずかしさからくるごまかしとしか捉えられない。

そして自分が作り出した「偶像」を愛していると気付くと一転して至上の愛から強姦魔、殺人魔に転換する。「自分だけ」の物にならなかったら他の誰の手にも渡らぬようにしてやる、と。

まさにエドウィン・シャープこそはその典型。いつの間にか結婚したことになっていたりと実に思い込みが激しい。
人は辛い時に希望にすがってその痛みを和らげようとする。正直私も過去の恋愛で振られた時は連絡不通になっても忙しいだけだ、電源が偶々切れているだけだと都合のいいように解釈していた。別れて半年ぐらい経ったときに再びその女性と逢って食事することになった時には、逢えばまた寄りを戻せると信じて疑わなかったが、逢って話しているうちに彼女の中で自分は既に過去の男になっていることに気付いた。逆にそのことで吹っ切れた。
自分自身の経験を踏まえてこのエドウィン・シャープという人物のことを考えると人というのは紙一重で普通から狂人へと変わるのだなぁと痛感する。自分がこのシャープほど人に執着することはないとは思うが、例えば私は他人よりも読書、洋楽がディープに好きなのだが、この対象が人になったのがストーカーなのかもしれない。欲しい本を求めてあらゆる書店やウェブサイトを時間かけて逍遥することに何の苦労も感じないから少しだけだがシャープの執着ぶりも理解はできる。

ただやはり題材が古いなぁという印象は拭えない。今更ストーカーをディーヴァーが扱うのかという気持ちがある。
たまたま今まで扱ってきた犯罪者にストーカーがなかったから扱ったのかもしれないが、今までの例えばウォッチ・メイカーやイリュージョニストを経た今では犯罪者のスケールダウンした感は否めない。遅すぎた作品と云えよう。

読了後、ディーヴァーのHPを訪れ、本書に収録されているケイリー・タウンの楽曲を聴いてみた。いやはや片手間で作ったものではなく、しっかり商業的に作られており、驚いた。
書中に挿入されている歌詞から抱く自分でイメージした楽曲と実際の曲がどれほど近しいか確認するのも一興だろう。個人的には「ユア・シャドウ」は本書をけん引する重要な曲なだけあって、イメージ通りの良曲だったが、かつて幼い頃に住んでいた家のことを歌った感傷的な「銀の採れる山の近くで」がアップテンポな曲だったのは意外だった。
物語と共に音楽も愉しめる、まさに一粒で二度おいしい作品だ。稀代のベストセラー作家のエンタテインメントは文筆のみに留まらないのだなぁと大いに感心した。

さて既に刊行されているダンス・シリーズの次作『煽動者』の帯には大きく「キャサリン・ダンス、左遷」の文字が謳ってある。またも慣れぬ地での捜査となるのか、色々想像が広がり、興味は尽きない。


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シャドウ・ストーカー
No.570: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ライトからディープへと見事な戦略の勝利!

2011年に刊行されるや一気にブームとなった古書店を舞台にしたライトノヴェル。ドラマ化もされたので本を読む人以外でもその名を知っているほどの有名な作品をようやく手にしてみた。
第1巻である本書は4つの短編で構成された短編集である。

主人公は五浦大輔と篠川栞子。
五浦大輔は大学を卒業したものの就職先が決まっていない就職浪人。篠川栞子は北鎌倉に店を構える「ビブリア古書堂」を亡き父の跡を継いだ店主。この2人が出逢う話が第1話目の「夏目漱石『漱石全集・新書版』(岩波書店)」である。
シリーズの幕開けを告げる本作はいわばビブリア版『マディソン郡の橋』とも云うべき適わぬ恋の物語だ。昭和の女性として飲む打つ買うの三拍子好きだった祖父にひたすら耐えるように連れ添った厳しかった祖母が棺まで持って行ったたった1つの本当の恋愛が死後1年経って、その蔵書から解かれる。
平凡と思われた家族にも何かしら隠された秘密はあるものだ。
そして五浦はこの事件がきっかけでしばらく古書堂のお世話になることになる。

第2話「小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)」は五浦がビブリア古書堂で働き出して3日目の事件を扱っている。
本作のミソは依頼人の志田が盗まれた本が新潮文庫だったという点だ。
これを大切なプレゼントの応急処置としたところが作者の着眼点の妙だろう。本作で挙げられている作品『落穂拾ひ』が本書の話と絡むのは当然のことながら、文庫をこのような小道具としたところを賞賛したい。本に纏わる話を考えていると取り上げる作者の経歴とかテーマとなる話そのものから物語を考えるので、なかなか本作のような発想は思いつかないものである。天晴れ。

3話目「ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』(青木文庫)」はある夫婦に纏わる話だ。
紳士の暗い過去を知られないために本を処分するという動機の方が味わい深いと思わせながら、最後にさらに夫婦の仲が深まるエピソードに落とすあたりはなかなか。
謎と云い、物語と云い、小粒感は否めないが、それは本作が最後のエピソード「太宰治『晩年』(砂子屋書房)」への橋渡し的な役割を果たしているからだ。
古書に纏わる事件と云えば狂信的な収集家が起こす事件が定番だが、ラノベである本書では敢えてそのディープな内容を避け、本に纏わる日常の謎について語ってきたのだが、最後の事件になってようやく核心的な謎について触れられている。
1冊の本のために数百万もの大金を出し、手に入らないと解れば持ち主を殺してでも奪おうとする狂信的な書物愛こそが古本マニアの本質だ。最後に登場した栞子の宿敵とも云える大庭葉蔵の正体は正直意外だった。
また掉尾を飾るエピソードとあって、それまでの話に出ていた登場人物が登場する。2話目で志田と親しくなった女子高生小菅奈緒はビブリア古書堂の常連に、3話目に登場した坂口夫婦も登場し、更に1話目で判明した五浦の出自も意外な形で物語に関わってくる。
しかしこのコレクター魂こそが収集狂の典型とも云える。


冒頭にも書いたように既にドラマ化もされ、文庫も版を重ねたベストセラーシリーズの第1弾。旬も過ぎたかと思われたこの頃になってようやくその1巻目を手に取ることにした。

私は熱心なライトノヴェル読者ではないのでそれほど同ジャンルの作品を数多く読んでいる訳ではないのだが、色んなメディアから見聞きした昨今の業界事情から考えるとキャラクター設定としては決して突飛なものではなく、ミステリを中心に読んできた私にしてもすんなり物語に入っていけた。

人見知りが激しいが、いざ書物のことになると饒舌になり、明敏な洞察力を発揮する若き美しい古書店主というのは萌え要素満載だが、いわゆる“作られた”感が薄いのが抵抗なく入っていけた点だろう。また古書店主というのが本読みたちの興味をそそる設定であることもその一助であることは間違いでないだろう。

しかし扱っているテーマは古書というディープな本好きには堪らないが普段本を読まない中高生にはなんとも馴染みのない世界であるのになぜこれほどまでに本書が受け入れられたのだろうか。

上にも書いたがこういった古書ミステリに登場する古書収集狂は最後のエピソードにしか出てこないことが大きな特徴か。
本に纏わる所有者の知られざる過去が判明する第1話。
その文庫しかないある特徴を上手く利用した、本自体を物語のトリックとして使用した第2話。
夫が大事にしていた本を突然売ることになったことでそれまで隠されていた過去が判明する第3話と、1~3話まではいわゆる本を中心に生きてきた狂人たちは一切出てこらず、我々市井の人々が物語の中心となっていることが特徴的だ。従って古書を扱っていながらも所有者の歴史を本から紐解くという趣向がハートウォーミングであり、決してディープに陥っていない。

しかしそれでも1話目から作者自身が恐らく古書、もしくは書物に目がないことは行間から容易に察することができる。従って作者は話を重ねるにつれて読者を徐々にディープな古書の世界へと誘っていることが判ってくる。
例えば1,2話では現存する出版社の本であるのに対し、3話目からは青木文庫、砂子屋書房と今ではお目に掛かれない出版社の書物を扱ってきており、そこからいわば古書ミステリのメインとも云える収集狂に纏わる事件となっていく。

しかしそれでも作者自身もこれほどまでに世間に受け入れられるとは思っていなかっただろう。なぜならば本書にはシリーズを意図する巻数1が付せられてなく、また話も五浦の出生に纏わる過去が最後で一応の解決が成され、更に五浦がビブリア古書堂を去るとまでなっていることからも本書で一応の幕が閉じられるようになっていたことが判る。

しかしその作者の予想はいい方向に裏切られ、現在7巻まで巻を重ね、人気シリーズとなっている。これはビブリオミステリ好きな私にとっても嬉しいことだ。

そしてそのことが拍車をかけたのか、作者も古書の世界をさらにディープに踏み入り、そしてミステリ興趣も盛り込むことで『このミス』にランクインするほどまでにも成長した。

ラノベという先入観で手に取らなかった自分を恥じ入る次第だ。このシリーズがたくさんの人々に古書の世界への門戸を開くためにバランスよく味付けされた良質なミステリであることが今回よく解った。
次作も手に取ろうと思う。
栞子さん目当てでなく、あくまで良質なビブリオミステリとして、だが。


▼以下、ネタバレ感想
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ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫)
No.569:
(7pt)

フリーマントルですら舞台を中国にするのは難しいようだ

本書の裏表紙の概要にはシリーズ第9作というのは実は間違いで本書は10作目に当たる。9作目の“Comrade Charlie”は未訳なのだ。そしてどうもそれがいわゆるそれまでのシリーズの総決算的な内容で、正直本書からはシリーズ第2部とばかりにキャラクターも刷新されている。

まずチャーリーのよき理解者であったイギリス情報部々長のアリスター・ウィルソン卿は2度の心臓発作により部長職を退き、ピーター・ミラーが上司となり、さらに直接の上司として女性のパトリシア・エルダーがチャーリーの指導に当たる。

また相手側も実際に解体されたソ連からロシア連邦となっており、まだ政治的な混沌の中での国際的対応が強いられている様子。そしてシリーズ1作目から登場していたチャーリーの宿敵ベレンコフが既に失脚しているという状況。
第8作ではベレンコフがチャーリーと縁のあるナターリヤを使って罠を仕掛けようと不穏な空気を纏った中で物語が閉じられるので、いきなりのこの展開には面食らった。なぜ第9作が訳されなかったのだろうか。これは大罪だなぁ。

そんなソ連が解体された時代1993年に発表された本書の舞台は中国。
まだ西欧諸国にとって未知で理解不能、しかも明らかに容貌が違うためにどこに行くのにも目立ってしまう西洋人にとって自分たちの原理原則論が全く通じないワンダーランドである中国に潜伏しているフリーランスのエージェントに中国の公安の者と思われる人物より嫌疑がかけられているとの情報を得て、チャーリーが育てた新任のジョン・ガウアーが単身中国に乗り込む。

まず最初の読みどころはチャーリーが教師となって新人の局員ガウアーを教育するくだりだ。
優秀な成績を修め、自信満々で乗り込んできたガウアーの出鼻を挫くかの如く、悉く彼のやり口を否定するチャーリーの鋭敏さが小気味よい。チャーリーが教えるのはそれまで彼が長年の諜報活動で培ってきた生きる術、即ち彼独自で編み出した「生存術」だ。それは人間の心理、スパイの定石を知り尽くした彼だからこそ教えることが出来る現場における実践術だ。
しかしそんなチャーリーの生存術も風貌が西洋人と全く異なる中国では通用しないようだ。なぜならあっという間に彼は中国の公安部にスパイ容疑で拉致されてしまうからだ。

さて北京オリンピック後の中国を知る今となっては西洋人がかの国に多数いても驚きはしないのだろうが、当時はまだ経済的に発展しておらず、また西洋人に珍しい眼を明らさまに向ける国民ばかりだからスパイ活動というのは得てしてやりにくかったに違いないし、また中国政府側も目立つ西洋人の常に監視している、なかなかに緊迫した状況で物語は進む。

そしてジョン・ガウアーが拉致され、劣悪な状況で監禁と尋問を繰り返される辺りは意外にも手ぬるいと感じてしまった。
いや確かに自身がそのような境遇に置かれるともう2日と持たないだろうと思うのだが、今まで読んできたいわゆる監禁を扱った小説に比べると実に生温く感じるのだ。決して肉体的な苦痛を与えられるわけでなく、蠅がびっしりたかり、穴からネズミがはい出てくるトイレ、混ぜると何かが浮いてくる食事、口に含むだけで下痢となる水、誰かの体臭が染み付いた囚人服といったアイテムには嫌悪感は増すものの、もっと凄まじい環境が今まで読んできた小説にあったのは確か。それらと比べるとなんとも大人しいなぁと思ってしまった。
ただそれでもどうにか自身の正体を偽り、生き延びようとするガウアーの姿は胸を打つ。これが諜報の世界の厳しさだ。

また一方でロシア側も情報局の新局長となったナターリヤの昇進を快く思っていない次長のチュージンによる執拗な上司の身辺調査により、彼女と前夫との間に出来た不肖の息子エドゥワルドが麻薬や闇物資の密輸の主犯としてロシア民警に拘束されている情報をキャッチする。ナターリヤは自らのキャリアの保身のために民警と情報局双方にとって最善の道を模索するが、それを権力の私的濫用としてナターリヤを陥落させようとチュードルが画策する。

またチャーリーも現場復帰が適わず、新人の情報部員の教育係という閑職に甘んじている現状が我慢できず、新上司2人の身辺を洗い、2人が不倫関係にあることを突き止めるが同時にロシア人と思われる情報員たちの監視対象になっていることも偶然突き止めてしまう。

情報を扱う任務に携わっている人々は自らの保身、また昇進という野心のために上司の身辺を調査することが英露両国とも共通しているのが面白い。
日本でも上位職の人たちの人事に目を配り、どこのポストに空きが出来、そしてそこに収まった時に誰が上司になっているのかと想像を巡らすサラリーマンはいるものだが、本書に出てくる登場人物がどこまでのリアリティを持っているかは解らないけれど、常に虚実の入り混じった情報を相手にし、国際政治を左右する状況に置かれている任務に携わっている人々はこのように自分の職場での立場を少しでも優位にするために上司のプライヴェートまで踏み込んでいくのかもしれない。
いやはや人間不信にたやすく陥る職業である。

またチャーリーが今回宛がわれた業務が新人のスパイ教育であり、今まで現場の最前線で世界を股にかけて仕事をしてきたチャーリーがこれを閑職とみなして腐っているが、実は上司たちは彼のスパイとしての数々の実績を評価しており、またその高い生存率にも注目した上での配属であるのだ。なにせ一度自国の情報局員として勤務しておきながら、自分を消そうとした組織に仕返しをして自ら辞職した後、スパイとして旧ソ連に捕まっていながら見事に元の英国情報部に返り咲いたという異色の経歴の持ち主である。
そんな数奇な運命を辿りながら現職のスパイであるチャーリーのスパイ術を後進の者たちに伝授するのは組織にとっても有益なのだから全く以て閑職ではないのだ。

しかし私が勤務する製造現場を持つ会社でも年を取っても現場がいいという人間はおり、出世して本社や支社勤務になるとデスクワークばかりが耐えられないという。
従ってチャーリーの抱く窓際感は解らなくもないが、実際諜報活動では若い頃のように動けないこと、年々衰える記憶力によって失敗することで大きな国際問題に発展しかねない職場であるから、ヴェテランはある時期が来たら管理部門に異動して現場から離れるべきだろう。つまり今現在でも続くこのシリーズで既に老境に入ったチャーリーが現場の最前線に立つこと自体が諜報の世界では異常なのだ。

そして本書のメインであるチャーリーの中国潜入が始まるのはなんと下巻の170ページ辺り。つまり上下巻合わせて約660ページの本書においてなんと75%が過ぎたあたりからチャーリーのお出ましとなるわけだ。

それに至るまではまさに上に書いたように管理的仕事に回されたチャーリーのグチと上司の監視、またロシアでのナターリヤに訪れる地位陥落を企む部下のチュージンとの覇権争いが繰り広げられる。

フリーマントル作品の醍醐味の1つに高度なディベート合戦が挙げられるが、本書でもその期待が裏切られることはない。鉄壁の防御を誇る情報局部長と次長の秘書のガードをどうにか崩していくチャーリーの駆け引きなども含めて大小様々なディベートが繰り広げられるが、本書の白眉はやはり息子の逮捕によって窮地に陥ったナターリヤの審問会の場面だろう。
息子に便宜を図ろうとしていたところを危うく部下のチュージンに嗅ぎつけられ、それを証拠として局長の座から陥落させようと企む彼が付きつけるあらゆる証拠を僅かに残された糸のように細い手掛かりを手繰りながら自らに降りかかった嫌疑を晴らしていくプロセスは実にスリリング。インテリジェンスを扱う者はそれを武器にする者とそれに溺れる者とに分かれるがまさにこのナターリヤとチュージンの2人の構図はそれをまざまざと見せつけてくれる。

ということで考えるとチャーリーの中国潜行がメインと書いたが、ストーリーにおける全体の25%に過ぎないとなるともはやメインではないだろう。
本書は中国での英国の諜報活動、ロシア連邦という新体制下で情報局の局長に就任したナターリヤの動向と新体制の英国情報部のお披露目といったインタールード的要素を持ちながら、その実チャーリーが中国に乗り込むまでのそれぞれの状況全体に仕掛けた叙述トリック的作品とも読める。

ただ今まで東ドイツ、旧ソ連と東側の大敵を相手にしてきたフリーマントル作品が、東西ドイツ統合、旧ソ連の解体と歴史的転換期を迎えたことで確固たる敵を見失っているような感じが行間から感じられた。

今回フリーマントルが選んだ新たな敵は中国であるのだが、この全く風貌の異なるアジアの国で西洋人がスパイ活動をすることの難しさが述べられるだけで小説としてはなんとも実の無さをストーリー展開に感じざるを得ない。つまりこの中身の薄さは作者自身が中国の情勢と文化に造詣があまり深くないからではないだろうか。

それを裏付けるように本書の前後に書かれたのは米国のFBI捜査官とモスクワ民警の警察官が手を組む新シリーズカウリー&ダニーロフがあり、本書の次のチャーリー・マフィンシリーズ『流出』はロシアを再び舞台を移して西側への核流出を阻止するために米露の情報部と手を組むという、自らの得意領域に再び戻っているからだ。

この後も中国を舞台にした作品が見受けられないことを考えるとやはり冷戦後の安定期に移りつつある世界情勢でスパイ小説の書き手たちが題材に迷っていたが、フリーマントルも例外ではなかったということのようだ。

何はともあれ、ようやく未訳作品を除いて本書にて全てのチャーリー・マフィンシリーズを読むことが出来た。2006年1月25日に第1作の『消されかけた男』を手に取って足掛け約11年。実に長い旅であった。
『魂をなくした男』以降のシリーズ作品が出るかは作者の年齢との相談にもなるだろうが、とことん最後まで付き合っていくぞ!


▼以下、ネタバレ感想
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報復〈上〉―チャーリー・マフィンシリーズ (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル報復 についてのレビュー