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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数142

全142件 121~140 7/8ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
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No.22:
(1pt)

やはりダメダメ

今回も自分の感性にそぐわなかった。饒舌な語り口が物語の牽引力にならなくて、寧ろプロットを曖昧にする煙幕として機能しているようだ。そのため、どういう話を読んでいるのか掴めなくなり、一週間後には全く記憶に残っていないという状態になる。
また、結末も結論を保留した形を採り、どうにも煮え切らない。
確かに寝不足で夢うつつの最中の読書だったがそれを考慮に入れても、やはり筆者の側に非があるんじゃないか?
犬博物館の外で (創元推理文庫)
ジョナサン・キャロル犬博物館の外で についてのレビュー
No.21:
(3pt)

やっぱり相性が悪いみたいだ。

導入部を読んだ時は期待大だったが、結局、何がなんだかさっぱり解らなかった。
空に浮かぶ子供 (創元推理文庫)
ジョナサン・キャロル空に浮かぶ子供 についてのレビュー
No.20:
(2pt)

やっぱり解らん!

解らん!結局オイラにはこういう世界を楽しむだけの創造力とゆとりが欠如しているってことらしい。
月の骨 (創元推理文庫)
ジョナサン・キャロル月の骨 についてのレビュー
No.19:
(2pt)

う~ん、わからん。

何がどう怖いのかよく解らない。世評とのギャップが大きすぎて正直戸惑っている。
我らが影の声 (創元推理文庫)
ジョナサン・キャロル我らが影の声 についてのレビュー
No.18:
(3pt)

どうしたんだ、シミタツ!?

雨の降る夜に拾った女、というドラマの1シーンを切り取ったかのようなベタな始まり方をする本書。しかし物語はなんとも行き当たりばったり感が拭えず、消化不良。シミタツ節もこれといって特に感じず、どうしたんだ!?と叫ばずにはいられない凡作。
題名からどうしても読んでいる最中にカーペンターズが流れてしまうのだが、全く内容とは関係がない。
オンリィ・イエスタデイ (新潮文庫)
志水辰夫オンリィ・イエスタデイ についてのレビュー
No.17:
(1pt)

何がしたかったのか解らない。

私が竹本氏の作品を集めだした時はほとんどが絶版状態で、唯一この作品が文庫新刊で発売されたという状況だった。数少ない最近の作品ということで期待して手に取った。

幼馴染に誘われて夏休みに故人の怪奇幻想作家のベルギーの古城を訪れたあなた。しかし気晴らしに来たはずなのに、謎の少女に出会ってから次々と怪事が起こる。

本書の最たる特長は二人称叙述で書かれているところだ。つまり主語が「あなた」なのだ。私は主語が「あなた」で書かれた作品は法月氏の『二の悲劇』と中学生の頃に夢中になったゲームブック以外、読んだことなかった。この二人称叙述で書くことの狙いは読者自身を物語の世界により没入させることにあると思う。ゲームブックはまさに自身が主人公になって物語に参加する趣向の作品だから、当を射ているといえよう。
また作品がミステリの場合はこの二人称叙述を使った叙述トリックが想定される。しかしこれは一人称、三人称叙述と違い、かなり高度なテクニックを要するように感じる。

しかし本作はそんな企みとは全く無縁。単に二人称叙述で書きましたというだけに留まっている。解説者はまるで自分が物語の世界にいるような錯覚を覚える、などと絶賛しているが、全然そんな風には感じなかった。
また本書はゴシック趣味溢れた幻想小説風なミステリであり、なんだか曖昧模糊としたイメージが常に付き纏っている。以前にも書いたが私はこの手の少女漫画趣味的な世界は苦手で、それだけでもう物語に没頭できないのだ。

文体も私が驚嘆した『狂い壁狂い窓』のような凝ったものではなく、実に平板。本当に同じ作家が書いたのだろうかというくらい違っていた。
書かれた年代が違うとこれほどまでに作風が違うのかと落胆したりもした。
結局当時はこれに続く文庫作品が出ていなかったので10年以上もこの作家の作品から離れることになる。

カケスはカケスの森 (徳間文庫)
竹本健治カケスはカケスの森 についてのレビュー
No.16:
(1pt)

自分には全く合わなかった。

横溝正史賞受賞後第1作の本書はなんとも幻想味溢れるミステリ。

熱海にある「蔦屋敷」と呼ばれる洋館をひょんなことから訪れた画家の山崎淳はそこで百合という美少女に出会う。12年後、淳の腹違いの兄の婚約者として百合と再会して以来、奇怪な事件が続発する。画廊で火事が起こり、淳の絵が焼失し、画廊の主人が焼死してしまう。さらに百合の兄はドライヴ中に事故を起こし、百合を半身不随にしてしまう。

全編貫かれるのはデビュー作『時のアラベスク』の世界観を更にもっとディープに耽美の方向へ推し進めた幻想的なミステリ。『時の~』はちょっとBL系の香りが漂っていたが、本作ではロリコン趣味を巡る兄弟の狂気の愛という味わい(すみません、こっち系の世界は疎いので、独断と偏見で書いてます。大いに勘違いしていたらゴメンナサイ!)。
森に佇む洋館にそこに住まう美少女という設定からして禁断の匂いを感じさせるし、その彼女に恋する腹違いの兄と父親の弟子と主人公の三つ巴というのも既にカタストロフィの予兆の足音が聞こえてくるのが解る。一種毒気ともいえるこの怪しい世界はなんとも現実離れしている。綺麗なバラには棘があるというが、本書はまさにそれ。
こういうのが好きな人には本書は堪らないかもしれない。秘密の果実の味わいに加えて、ミステリとしての謎と真相が盛り込まれているのだから、没頭すれば没頭するほど、陶酔感とカタルシスが得られるだろう。

しかしやはり私はこういうのはダメ。どうにものめりこめなく、生理的に受け付けない。好きな作家トレヴェニアンでさえ、同趣向の『バスク、真夏の死』は受け付けられなかった。
従って本書の評価は完全に私の趣味と嗜好の違いによる物だ。
本書の表紙も天野氏であるが、既に絶版である。私も既に売ってしまい、手元にない。作者もすでに亡くなっている事から、本書もまた出版界の奔流に飲まれて消え去る1冊になっていくだろう。もし持っている方がいれば、もはや手に入らない1冊なので、私の評価を参考せず、新しい目で読むことを願っている。

罪深き緑の夏 (角川文庫)
服部まゆみ罪深き緑の夏 についてのレビュー
No.15:
(3pt)

世間の感覚と合わないのだろうか?

この『グリッツ』もレナードのレナードの傑作の1つとされている。

マイアミ・ビーチ警察のヴィンセント・モーラは強盗に撃たれ、プエルトリコで療養中だったが、そこである女性アイリスと懇意になる。一方、以前モーラが刑務所にぶち込んだテディが出所し、復讐を企んでモーラの身辺をうろつくようになった。
やがてアイリスはモーラの制止も聞かず、カジノ・ホテルへホステスになるために向かうが、2週間後、ビルから不審な転落死を遂げる。

確かにいきなり主人公が撃たれる導入部は一気に物語に放り込まれ、怪我の静養中の主人公を襲う殺し屋の存在などハラハラする要素もあるが、なんせこの主人公がやたら女にモテるので、あまり感情移入できない。
タフではあるが、それほどいい男に見えないだけどなぁ。
レナード物では珍しく刑事が主人公なのだが、その特長を十分に活かしているようには思えず、いつものレナードストーリーが繰り広げられるだけだ。
面白くなる予感はずっとあったんだけど、その予感だけで最後まで行ってしまった、つまりレナード作品にありがちな肩透かしを食らった、そんな感じだ。
どうもレナード作品に関しては世間の傑作という下馬評と私の求めている物とは大きな隔たりがあるようだ。残念。

グリッツ (文春文庫)
エルモア・レナードグリッツ についてのレビュー
No.14:
(3pt)

どうしてここまで捻るのか

『このミス』の過去のランキングを見ると、ランクインしたレナード作品の多くは文藝春秋社から出版されたものが多い。文春文庫のレナード作品を手に取ったときは扶桑社→創元推理文庫→HM文庫→角川文庫と渡り歩いてようやく本道に入った感があったものだ。
文春文庫のレナード作品は本作で出てくる主役の1人スティックが出てくるその名も『スティック』という作品が刊行番号が1番となっているが、当時私がレナードに手を出した時点で既に絶版となっており、これについては未だに入手できていない。数年後、私が海外に赴任して初めてその作品と遭遇する。先人の残した書籍の山にあったのだ。その感想については既に述べているのでそちらを参照されたい。
で、本作は文庫刊行番号2番の作品で、『スティック』の1つ前の作品となる。つまり原書の刊行は『スワッグ』の後に『スティック』となっているわけだ。エルキンズの作品の時にも述べたが、日本の出版社は手っ取り早く固定客を掴むために、その作家の有名作やベストセラーの作品を最初に訳出するという、シリーズ物を順番に読むことを好む読書好きにとっては非常に嫌な販売戦略がある。商売の原則から云えば、確かにそれが正しいのだろうけど、書籍販売が文化事業の一環であるとの認識から通常の商売の原理をそのまま適用するのとはちょっと違うところがある。まあ、この辺について語ると返本精度や価格固定販売にまで論が広がる恐れがあるのでこの辺で止めておこう。

ひょんなことで知り合った自動車泥棒スティックとフランク。一番手っ取り早く大金を稼ぐ方法を考えていたフランクはまた“成功と幸福をつかむための十則”という独自の成功哲学を持っていた。そして大金を稼ぎ、なおかつその十則を適用した酒店やスーパーを標的にした武装強盗を2人で組んで乗り出すことになる。
これが予想以上に上手く行き、たちまち生活が豊かになる2人。やがて野心家のフランクはさらにでかい勝負に出ようと特別なプランをスティックに明かすのだが、それが運命の分かれ目だった。

この武装強盗というアイデアはなかなか面白く、彼らがたちまち小金持ちになっていくあたりは痛快だった。しかし物語はレナードのこと、このままでは行かず、またもや予想外に、ひねって歪んで展開する。
ピカレスク小説としてこのまま描いて欲しかったというのが本音だが、それをレナードに求めてはやはりいけないのだろう。
また主人公の1人フランクに、感情移入できなかったのも私が本作の評価を低くすることにもなった。なんせ私のお気に入りキャラ、チリ・パーマーを読んだ後だから、その落差が激しかった。

しかしフランクという名前も多いな、レナード作品には。

スワッグ (文春文庫)
エルモア・レナードスワッグ についてのレビュー
No.13:
(3pt)

まだまだ発展途上の作品

レナードの作品にはある一定のテーマパターンがあって、その1つには夫婦関係というものがある。『マイアミ欲望海岸』では既に夫婦という関係が失われた後で、その呪縛に縛られる未亡人が物語の中心だったが、外から見るには何不自由ないと思われる夫婦、家族の間は実は冷え切っていて、そこに非日常性、つまり事件が介入することで今まで知らなかった自分、もしくはかつてそうであった自分を取り戻す、というのが隠れたテーマになっている。
で、この『ザ・スイッチ』はまさにその典型。

不動産会社を経営して裕福ながらもその関係は冷え切ってしまっていた夫婦。その妻が前科者2人組に誘拐される。2人の悪党は巨額の身代金を要求するが、事態は思わぬ方向へ進む。

まあ、冷え切った夫婦の片方が誘拐され、巨額の身代金が要求された時に夫はどうするかという、非常に人間くさいところを上手く突いたところが面白い。今の日本人ならば案外同調するところがあるかもしれないが、個人主義の発達したアメリカ人ならではの展開というところか。
そしてこの事件をきっかけに妻も変わる。題名どおり「スイッチ」が入るが如く。身内しか解らない夫の秘密を暴き、逆に攻め側に転じるのだ。
こういう物語のツイストこそレナードの真骨頂。しかしまだこの作品では本領が発揮されていないように感じた。

本書に出てくる悪党オーディルとルイスは後のレナード作品にも登場する。この三文悪党がけっこう気に入ったらしいが、私自身はどうにもピンとこなかった。はったりばかりが強くて、一本芯が通っていない、いわゆる背骨の無い連中だなぁというのが漠然とした印象。レナード作品に登場する悪党には妙なこだわり、マニアックな趣味という物を備えていて、それがキャラクター造形に一役も二役も買っているのだが、この2人にはそれが希薄。
誘拐事件をこのように展開するレナードの妙には感心はしたが、キャラクターが弱かった。『キャット・チェイサー』の後、続けて読んだ2作があまり琴線に響かなかったので、このときの私の心には微妙な空気が流れていたのだった。

ザ・スイッチ (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
エルモア・レナードザ・スイッチ についてのレビュー
No.12:
(1pt)

これはいただけない

クライムノヴェルの大御所と呼ばれるレナード。私にとってクライムノヴェルは初体験であり、合うかどうか不安な状態で読んだら、これが当りだったので、勢い込んでとりあえず当時出ていた全てのレナード作品を買い込んで、しばらくレナード漬けになることにした。
『キャット・チェイサー』の面白さに機嫌よくした私は引き続いてこの作品を読んでみた。

亡くなった元ギャングのボス、フランクの未亡人が莫大な遺産を相続することになった。そしてそういう輩の奥さんというのは得てして美人というのが相場だが、このカレンもそう。美人でしかも金持ちとくれば、男達が群がるのも当然だが、フランクは遺産管理者に命じてカレンをフロリダから出してはいけないこと、浮気をしてはいけないことを条件に遺産を相続させることとし、しかも用心棒をつけて男どもを近づけさせないようにさせた。しかしそれでも言寄ってくるタフな男2人、ローランドとマグワイア。この2人の争奪戦の行方は?

タフな男、一攫千金、美女というのはレナード作品の三本柱だというのが後々作品を読んでいくうちに解ってくるのだが、本書はまさにその典型だといえる。それらのキャラクターが織り成す権謀詐術、プライドを賭けたやり取りが物語にツイストを与え、全く予想もつかないストーリー展開を見せるところにレナードの真骨頂があるのだが、この作品はなんだかグダグダ。
カレンの天然とも思えるあっけらかんとしたキャラクターはよしとしても、レナード作品で要とも云える一流、二流、三流の悪党たちの造形がなんとも響かない。
そしてあんぐりのラストは途中で作者がストーリーを変えたのか、いやもっと云えば途中で放棄してしまったとしか思えなかった。
題名もすごくチンケだし(ちなみに原題は“Gold Coast”。マイアミの海岸とカレンの遺産をかけたらしい)、それも含めやっつけ仕事としか思えない駄作だ。

マイアミ欲望海岸 (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
エルモア・レナードマイアミ欲望海岸 についてのレビュー
No.11: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(1pt)

後出しジャンケン感満載の作品

ミステリ黄金期にはミステリプロパー以外の作家もミステリを発表する動きがあったことは以前述べたが、このメースンもその中の1人。
元々は彼は劇作家であり、そちらの方の分野の小説は現代でも高い評価を受けており、21世紀になって彼の書いた“Four Feathers”が『サハラに舞う羽根』と題され再映画化されたのにはビックリした。私は同原作も読み、そちらは予想以上に面白く読めた。

で、そのメースンが創作した探偵が本書に出てくるアノーだ。第1作は国書刊行会にて訳出された『薔薇荘にて』で、本書は第2作に当る。しかしながらこのアノーはフランス人という特長以外、特段特筆すべき個性を備えていないというのが私の印象。特に古典ミステリの探偵役は往々にして論理や状況をこねくり回す傾向にあり、そのくせ掴んだ証拠や閃いた推理はもったいぶって最後まで開陳しないという、実際にいたらあまり付き合いたくない人種なのだが、このアノーもその例に洩れず、それゆえ、英国人作家によるフランス人名探偵というとクリスティのポアロがつとに有名だが、一説によるとポアロのモデルはこのアノーらしい。しかしながら後世の評判から推し量るに亜流が元祖を上回ったようだ。

本書で語られる事件は実にオーソドックス。フランスにある館「グルネル荘」の主人が亡くなり、その遺産が養女に相続されるが、それを不服に思った義弟がその養女を毒殺したかどで告発する。その無実を晴らすべく、養女が救いを求め、名探偵名高いアノーに白羽の矢が立つといった内容。

事件の調査を依頼されたアノーはセオリーどおりに捜査を展開する。既にあった事件を調べるだけという純粋な推理小説である本作は舞台が館のみでほとんど展開すること、続いて事件が起こらないことから、現在のミステリを読み慣れた読者にはかなり退屈に感じるだろう。また登場人物も凡百の小説同様、非常に類型的だ。
そしてその退屈な読書の末に明かされる真相は、それまでの苦難を解消されるとは決して云いがたく、言葉が過ぎるかもしれないが時間を無駄にしたと思われること必定だろう。
私が本書を手にした経緯は歴史に残る名作という謳い文句に惹かれてのことだったが、読後の今ではこれは全くの嘘だと断言する。本書は歴史に残すだけの価値はほとんどない。
特に私は最後に明かされるある仕掛けにすごくアンフェア感を覚えた記憶があるこの仕掛けは読者に推理する材料が十分与えられているわけではないので、読者が看破する余地がない。それが最大の不服なのだが、実は島田荘司の某作でも同様の仕掛けが盛り込まれていた。しかしこちらの場合は確かに、手がかりはあるものの読者が全てを推理して見抜けるものではなかったが、それを補って余りある物語世界を展開してくれている。つまり逆にこの仕掛けが作者の想像力に思わず感嘆してしまうほどの内容であるから、全く不満を抱くことがないのだ。
しかし本書の場合は事件は地味な上に、明かされる真相も地味。それに輪をかけて読者の推理が介在しない仕掛けを持ち込んでいるがために、傷口にどんどん芥子を塗りこむが如く、悪い方向へ行っている風に取れてしまう。
さらに明かされる犯人も私があまり評価しないカーの某作を思わせ、それが本書の悪印象に拍車を掛けてしまった。
また最後に犯人を糾弾する段階にいたって、アノーが「実は最初から犯人は解っていた」というような言葉を吐くにいたり、この後出しジャンケン的な割り切れの無さも不快感を及ぼした。
もし読んでみようかなと思っている方がいたら、止めておいた方がいい。ミステリ研究家、マニアの方のみお勧めする。


矢の家 (創元推理文庫 113-1)
A・E・W・メイスン矢の家 についてのレビュー
No.10:
(3pt)

恐らく復刊はないだろう

フェル博士シリーズでは後期に属する作品で、比較的地味な作品である。私がカーの諸作を集めだした時はたまたま店頭に並んでいたが、現在では絶版で入手困難となっている。

大学で起こる数々のいたずら事件が次第にエスカレートし、しまいには殺人事件まで発展してしまう。しかもそれが密室殺人だというから正に純度100%のカーミステリと云える。
さらにカーはこの密室事件に更なる味付けを加えている。それはこの密室事件がウィルキー・コリンズが書き残した書簡に書かれた状況とそっくりだというのだ。

大学で頻発するいたずら騒動といえば、セイヤーズの傑作『学寮祭の夜』を思い浮かべるし、またいたずら騒動が事件の端緒になるという点では、同じくカーのHM卿シリーズであるバカミス『魔女の笑う夜』が挙げられる。
これら2つの作品は傑作・駄作と作品の質は違うものの、それぞれ印象強い特徴を持っているが、本作はなんとも上に書いた色々な趣向を盛り込んでいる割には凡庸であり、盛り上がりに欠ける。その最も大きな要因となっているのが解りにくい密室トリックの解説である。識者によれば本書のトリックの解説には明らかに訳者による勘違いの誤訳があり、それが読者の混乱を招いているそうだ。私もカーが今回やりたかったトリックは凡そ理解できたものの、果たして本当に出来るのかと懐疑的なところがあった。本稿を書くに当り、ネット書評家の感想を当ったが、それで合点が行ったくらいである。

さて後年カーは『血に飢えた悪鬼』でウィルキー・コリンズ自身を探偵役にしたミステリを著している。知っている方は多いと思うがウィルキー・コリンズは最初期の最長推理小説として名高い『月長石』の作者だが、この偉大な先達に対してカーは独自に研究をしていたのかもしれない。今となっては想像の領域を出ないが。
最初に長らく絶版となっていると書いたが、それは多分に上に書いた誤訳によるところが大きい。が、しかし改訳して復刊すべきほどの作品かと問われれば今まで述べたように首を傾げてしまう。恐らく当分この作品が復刊されることはないだろうと思われ、そうなると私の持っている本書はコレクターからしてみれば貴重な1冊となり、なんだか妙にこそばゆい感じがしたりしているのである。

死者のノック (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-11)
ジョン・ディクスン・カー死者のノック についてのレビュー
No.9:
(1pt)

カーマニアのみお勧め

カー晩年の作品。なんと云ったらいいんだろう、題名のようにぼんやりしたような作品だ。
一応ブレイクという名前の作家が同姓の下院議員候補への取材行で起こる不可思議な出来事と、彼の旧友が自殺と思われる状況で死んでしまうという事件を扱っている。

事件自体にあまり魅力もなく、しかも物語もミステリの謎そのものよりも1912年当時のニューオーリンズの風俗や謎の女の登場とその女と主人公とのロマンスなども描かれる。が、これが逆に物語に厚みをもたらすというよりも、冗長さを感じさせ、単なる贅肉のようにしか思えない。これも謎自体にあまり興趣が注がれないことが一番大きいのだろう。
またカーの歴史ミステリはそのサービス精神と迫真のアクションシーンなども挿入され、実に読み応えのある作品となっているのだが、本作はもうアイデアの出枯らしのようになっており、リーダビリティさえもなくなっている。

本書は『ヴードゥーの悪魔』、『死の館の謎』と併せて“ニューオーリンズ三部作”と位置づけられている。『死の館の謎』の出来もさんざんだったので、果たしてこれらが書かれるべき作品だったのかどうか、今になると判断に苦しむところがある。
作家は引き際も肝心だなと痛感する作品である。

亡霊たちの真昼 (創元推理文庫 (118‐23))
No.8: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(2pt)

バランス悪くない?

この作品は正直十分理解したと云えない所がある。カーの作品の中でも随一の難解さを誇る作品だからだ。それは視点人物が誰なのか、非常に判りにくいこと、事件もなんだかぎくしゃくしていること、そしてなによりも冒頭にアンフェアとも取れる表現があることだ。

一応事件を要約すると以下のようになる。
フェル博士が友人のメルスンと共にカーヴァー邸を訪れると、巡査が急いだ様子でカーヴァー邸に入るところだった。不穏な空気を察知した2人が邸に入ると、死体と銃を持った同居人ボスクーム、その友人の警部スタンレーの姿があった。しかし死体には銃創はなく、大時計の針が突き刺さっていた。ハドリー警部が駆けつけ、死体を見た途端、その正体がエイムズ警部だと判明する。彼はデパートで起きた殺人事件の捜査中でもあった。彼エイムズは事件の有力な情報を掴んで、カーヴァー邸を訪れたようで、焦った容疑者が彼を殺害したようだった。
事件は明白のようだったが、奇妙な凶器がそれを阻んでいた。

とにかく人の出入りが激しく、内容は件のデパートの事件も語られ、頭の中を整理するのが非常に困難な作品である。そして皮肉なことにメインの事件よりも語られるデパートの事件の方が面白いのだ。
そして先にも述べたがアンフェア感漂う表現。これはミスリードとは呼べないだろう。単に意外な犯人をこしらえるために、故意にそう書いたように思える。原文がどのように書かれているか解らないが、この文章にどこに力点が置かれているかによって、フェアかアンフェアか判断が分かれるところだろう。ミステリが犯人当てをメインとし、本書もまたその趣向の作品であることを考えると、作者の意図と反して、これはやはり嘘をついたとしか私には思えない。
バランス、叙述、そして内容など全てにおいて、カーの中では出来の悪い作品であると云えよう。

死時計 (創元推理文庫 (118‐22))
ジョン・ディクスン・カー死時計 についてのレビュー
No.7: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(1pt)

豪腕過ぎた…。

題名からスポーツミステリのような雰囲気があるが、そこはカー、いわゆる一般的なスポーツミステリではなく、雨上がりのテニスコートの真ん中で発見された死体の謎を扱っている。
雨上がりのテニスコートに横たわる死体には発見者の婚約者の足跡しか残されていないという「開かれた密室」を扱っている。

この事件に加えもう1つ事件が起きるが、本書のメインはやはりこの事件のトリックにあると云えよう。この「開かれた密室」物もしくは「足跡トリック」物ではすでにカーは『曲った蝶番』や『白い僧院の殺人』という傑作を物にしており、既読であればその先入観から、本作も斯くやとばかり期待が膨らむに違いない。
しかしこのトリックは、なんというか、噴飯物である。私はこのトリックの真相を読んだ時に浮かんだのはキン肉マンの超人がリング場で繰り広げる荒唐無稽な必殺技である。特に浮かんだのはザ・ニンジャの技(マニアックですみません)。そのくらい現実味がないトリックだと思った。多分実行は不可能ではないだろうか?そしてまたこれがテニスコートの中央で殺すことになんの意味をもたらしていないのが痛い。こんな危ない橋を渡るならばもっと簡単に毒殺なり直接的に手を下すなりした方がまだ無難である。まさにトリックのために作られた作品だ。
犯人はかなり意外だが、トリックがアレなので、これも意外性を狙いすぎたと穿った見方になっていまうのはしょうがないところだろう。

しかし一方、島田荘司の豪腕トリックには逆に狂喜する私がいることも白状しなければならない。では本作のトリックと島田氏のそれとは何が違うのかと問われれば、なんと答えたらよいか解らないところではあるのだが。自分自身でもよく解らないこの心情、なんとも不思議なことである。

テニスコートの殺人【新訳版】 (創元推理文庫)
No.6: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

デビュー作にしてカーのエッセンスたっぷり

カーのデビュー作で、カー初期の作品で主役を務めていた探偵アンリ・バンコランが主人公。人狼の異名を持つ殺人鬼の噂漂うパリを舞台にした、カーの怪奇趣味が横溢した作品だ。奇妙な題名だが、これは人狼と呼ばれる殺人鬼が夜に犯行を起こしていたに起因する。

デビュー作にその作者の全てがある、とよく云われるが、正にこの作品は正鵠を得ており、前述したカーの怪奇趣味、そして事件も密室殺人とその後のカーの作家業の本質が既に表れている。
当時私は文庫の発行順に読んでいた関係で、すでにこの作品を読む前にここまで感想を挙げてあるカーの諸作を読んでおり、自分なりにカーの(というか訳者の)文体に慣れ、またそれらが醸し出すカー独特の作品世界の雰囲気を掴んでいたつもりだったが、それでもなおこの作品はなんとも云い様の知れぬおどろおどろしさを感じ、難儀した記憶がある。小さい頃にテレビで観た横溝正史の『八ツ墓村』の重苦しさに似た感じとでも云おうか。しかも本作で主人公を務めるバンコランも悪魔のような雰囲気を備えているという非情さを持った人物で、それまで読んでいたフェル博士とは全く違ったキャラクター設定であることもこの思いに拍車を掛けたように思う。
またデビュー作だからか、妙に文章も力んだところがあり、精緻に描写するあまり、全体がよく掴めない所も多々あった。まあこれは訳が古いことも大きいのだが。

そんなこともあり、本作はあまり印象に残っていない。そのせいで私の中ではバンコラン自体、カー作品の中ではもっとも影の薄いキャラクターになってしまった。探偵らしからぬ非情さのみが強く心に残っているぐらいだ。
この作品も読み返すべきかもしれないなぁ。

夜歩く【新訳版】 (創元推理文庫)
ジョン・ディクスン・カー夜歩く についてのレビュー
No.5:
(1pt)

さすがにこれはナシ!

怪奇性を前面に押し出したような題名だが、中身はそんなオカルト趣味に走っていなく、むしろカーの作風の1つ、ドタバタコメディタッチの色合いの方が濃い。調べてみるとどうやらこの題名は必ずしも正確ではなく、ハヤカワ・ミステリ版の『死人を起す』が正解らしい。

友人との賭けで無銭旅行を南アフリカからロンドンまでしてきた青年が、空腹でホテルの前で休んでいたところ、上からホテルの朝食券が降ってくる。天の恵みとばかり朝食にありつき、ホテルの従業員に勘違いされて、券に書かれていた番号の部屋に案内される。しかしそこにあったのは顔をつぶされた女の死体だった。
本作はこのように巻き込まれ型の事件を扱っており、そのシチュエーションはカー独特のウィットに富んでいて面白い。実際、私は『曲がった蝶番』を読んだ後でカーに対してさらに好印象を持っていたものだから、期待が高まっていた。

が、しかし結論から云えば本作は駄作といわざるを得ない。なぜならほとんどの謎がアンフェアに解かれるからだ。メインの謎が実は××だった、おまけに犯人もあまりに意外すぎて、唖然としてしまう。恐らくカーはこの着想を思いついたときは思わずほくそ笑んだことだろうが、独創的すぎて誰も付いていけないというのが実情だろう。逆にこれだからこそカー!と讃えるファンもいるだろうが、あいにく私はそこまで寛容ではない。もしくはルパンシリーズに触発されたのかとも思ったが、それは勘繰りというものだろう。

しかしカーという作家はどうしてこんなに作品の完成度に差があるのだろう。『帽子収集狂~』で面白さを知ったと思ったら、続く『盲目の理髪師』、『アラビアン・ナイトの殺人』は凡作。どうせ次も同じだろうと思って読んださほど有名でない『曲がった蝶番』が意に反して傑作と、非常に高低差がありすぎる。しかもこれらは1933年~38年という5年間に書かれており、『帽子収集狂~』が33年で『曲がった蝶番』が38年である。つまりほぼ時系列に読んでこれほどの違いがあるのだ。例えばエラリー・クイーンは初期は作品を発表するごとに出来が良くなり、『Yの悲劇』や『エジプト十字架の謎』あたりを頂点としてそこから下り坂に差し掛かり、再度『災厄の町』で盛り返すという、作品のクオリティについて大きな波がはっきりしているが、カーは景気不安定な時の株価指数や為替相場のように作品ごとにそれが乱高下している。
やはり異色の作家だ、カーは。この作品は自身のカーマニア度を測るのに、リトマス試験紙的な役割を果たす作品かもしれない。

死者はよみがえる【新訳版】 (創元推理文庫)
No.4:
(1pt)

これは全く合わなかった

『帽子収集狂事件』が私のツボにはまり、嬉々としてすぐさま次の本書に取り掛かったのだが、これが全くの期待はずれだった。とにかく終始ドタバタで途中から何が事件で何を解決しなければならないのかが全く見えなくなってしまい、単純に義務だけの読書になってしまった、つまり最後のページに辿りつくことだけを目的にした流し読みになったことを告白しよう。

一応備忘録的にあらすじを書くと、客船に乗り込んだアメリカ青年の荷物に政治家の醜聞に纏わるフィルムが紛れ込んでおり、それを処分するよう頼まれるが、船内でそれが盗まれ、探しているうちに瀕死の女性が現れ、さらに別の盗難事件も発生し、加えて船内には稀代の悪党「盲目の理髪師」が乗り込んでいて、それら複数の事件が錯綜して船内はやがてパニックに・・・といった感じだ。

カーの作品の特徴の一つに笑劇(ファルス)というのがある。しかし彼のサービス精神は旺盛で、数ある笑劇の中でもとりわけスラップスティックコメディの色が濃くなるわけだが、本書はそれがほとんど全編を覆い尽くしており、非常に物語が散漫な印象を受ける。
この笑劇の要素を好む人、またカーの独特の作風が好きな人はこの味は妙味となって堪らないのだろうが、まだこの頃はカーの作品を読み始めて間もない頃で、単に悪ふざけとしか思えなかった。前作『帽子収集狂事件』でカーの本質が解ったと思っていたが、彼の作風の一面であるこの笑劇趣味が過分に出たこの作品では前作で感じた半ば呆然、半ば感心の域を遙かに越え、呆れてしまった。
初期の作品だが、本書を読むにはある程度カーの作品を通読した方がこの作品の味わいとカーのコメディ作家としての特質がよく解るのかもしれない。実際、本書は本国アメリカでも不評だったというから早すぎた作品だったと云えよう。また日本で“カーキチ”と呼ばれるカー信奉者にはカーの作品で面白かった物として本書を挙げる人もいるくらいだ。
ではカーの作品をほとんど読破した私はと云えば、やはり初読時の悪印象から再度本書を手に取るには二の足を踏んでしまう。尊敬する作家の誰かがどこかで本書を激賞しているのを目にすれば、多少は手に取ろうと気になるかもしれないが、当面その気は起こりそうにない。

盲目の理髪師【新訳版】 (創元推理文庫)
ジョン・ディクスン・カー盲目の理髪師 についてのレビュー
No.3:
(1pt)

現代海外ミステリデビューは苦かった。

私がミステリ読書の羅針盤として活用した色んな情報誌の中に、恐らくミステリ読者ならば避けては通らない『このミステリーがすごい!』があったのは今まで述べてきたとおりだが、このムックにはご存知のように国内ミステリと海外ミステリの2つのカテゴリーでランキングが記載されている。海外ミステリのランキングを読んでいるうちに、海外ミステリ、それも現代作家のミステリも読んでみようかなと思うのにはそう長くはかからなかった。なんせ当時は海外ミステリの投票者の方が多かったのである。10人くらいの開きはあったように記憶している。現在ではこれが逆転していた。まあ、あまり大した差ではないのだが。
その頃の私は高校の頃の空隙を埋めるべく、古典ミステリを読むことに腐心し、さらに島田荘司作品を始め、新本各作家と呼ばれていた新進のミステリ作家達の諸作を追いかけていたのは既に述べたと思う。これは久々に読んだブラウン神父シリーズが非常に刺激になったことが大きく、今まで読まなかったことを後悔したことによる。国内作家は感想にも書いたように友達が貸してくれた島田作品との出逢いがきっかけになった。今思うと、この読み方は非常によかったと思う。新本各作家たちは古典ミステリにも精通しており、有名作品を換骨奪胎した作品群が多く、それを知ることで自然に原典である古典ミステリにも興味を覚えることが出来、十数年経った今、系統だったミステリの読み方が出来るようになった。これは思わぬ副産物だった。しかし現代海外ミステリまでには手が伸びてはいなかった。
当時、書評家の中には日本のミステリと海外のミステリとは10年の開きがある、まだまだ国内ミステリは海外作品には到底及ばないなどとのたまう人もいて、へえ、そんなにいいもんかね?と懐疑的だったが、そこまで云うのならば読まないのも、人生の損失だからいっちょ読んでみるかと一念発起した次第。
それでまずどこから手をつけようかと悩んだところ、やはりブラウン神父シリーズでミステリに回帰したからには、老舗の東京創元社から始めるのが妥当だろうということで、近くの本屋に行ったところ、そこの平台に置かれていたのが本書だった。

しかし本書は創元推理文庫ではなく、今は無き創元ノベルスという、当時東京創元社が新たに始めた冒険小説を中心にした文庫シリーズだった。まずこのブランドからは今なお傑作といわれるボブ・ラングレーの『北壁の死闘』が上梓されたこと、その名作とシチュエーションが似ていること、そして本作がこの作者の邦訳第1弾であったこと、といった簡単な理由で手にした。しかしその期待は見事に裏切られる。もうほとんど内容は覚えていないのだが、たしか本作は冬山で息子を亡くした男の復讐譚というべき内容で、狩りかなんかに巻き込まれて死んだ息子の敵を取るため、父親がその連中を殺すべく冬山へ銃を手に乗り込む、そんな内容だったように思う(違ってたらゴメンナサイ)。
復讐譚といえば、法月綸太郎の『頼子のために』で既に経験済みで、しかも面白く読めたので、これは面白いだろうと思い、読んでみたが、大いに期待外れだった。
もうほとんど印象とでしか残っていないが、終始陰鬱で動きに乏しい話だった。銃を持った復讐譚という割には活劇も少なく、いつ面白くなるんだろうと思いながら読んだ印象がある。
確か最後の方にちょろっとそういう活劇めいた物があっただけで、それがそれまでの退屈を埋め合わせるには全然足りなかったように記憶している。

とまあ、最初の現代海外ミステリデビュー(ちなみにシドニー・シェルダンはミステリとして読んでいなかったので、デビューと考えていない)はさんざんな思いがした。しかし、私は諦めの悪い男で、一度手にした作家は最後まで付き合うことにしている。特に先に挙げた3つの理由のうち、青田買いともいうべき最後の理由で、いつかこの作家が日の目を見るに違いないと思い、とりあえずこの作家の作品を買い続けることにした。今思えば、ポイヤー作品は私のミステリ読書歴の中でも仇花ともいうべき存在。一応この後刊行された全ての作品を読んでいるが、記憶も不鮮明だということもあり、今後感想を挙げていくかどうか非常に迷っているのである。

冬山の追撃 (創元ノヴェルズ)
デイヴィッド・ポイヤー冬山の追撃 についてのレビュー