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仮想儀礼
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仮想儀礼の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全102件 41~60 3/6ページ
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文庫が出るまで我慢して、古本ではなく新品で購入した数少ない作品のひとつです。 それだけ期待が大きかったのですが。。。 落ちぶれた二人組がゲームの原作を経典として宗教を起こす。「それほど簡単に行くものか!?」という感は否めませんが、上巻は惹きつけるものがあり、下巻へと読み進めました。 | ||||
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どうも結末がしっくりこない印象でした。 鼻から宗教を全く信じていない人間が、徐々に自らの創りだした虚構に引き込まれるということなのですが、どうしてもそう簡単に引き込まれるとは思えないのです。 詐欺師は最後まで詐欺師で終わるのではないでしょうか。 女性信者たちに集団で犯されるシーンは怖かった。。。 古来巫女さんも当然女性なわけですが、女性には憑依を受けやすい資質があるのでしょうか。 | ||||
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元は公務員だった男が、四次元産業として金儲けのために、新興宗教を立ち上げる。 自ら作った虚構の神、教義、教祖としてそれらしい振る舞いで、救いを求める信者を集めるのに 成功した。金は集まり、 最初は上手く行くように思えたが、徐々に歯車が狂い始めて、制御しがたい自体に陥り 最後は悲惨な終焉を迎えるに至る。 日本人は、いまだにオウムを宗教団体扱いする程度の認識だから、 宗教なんてこんなもの・・なんてしたり顔する人もいるかも。 でも結局信仰に対する冒涜への罪と罰の物語ととるべきだろう。 結末は、因果応報、当然の報いだと思う。 | ||||
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宗教をテーマとした作者のものとしては「聖域」「ゴサインタンー神の座」「弥勒」などを読んできたが、これは新興宗教と本格的に取り組んだものだ。公務員である鈴木正彦は編集者矢口誠に係ることで、金儲け目的の自身が教祖となる新興宗教を設立するに至る。他のと違うところは、なんだかんだと高い会費などで信者から巻上げるシステムをとらない。つまりお寺のようなお布施のみである。 しかしホームページなどで信者が増え、会社社長が後援するころからは順調に大きくなってゆくのであった。しかし所詮金儲けのための宗教であり、やがて転落への道を歩むのだが、その様はイェスの方舟やオウム真理教と家族の争いを思い起こさせた。主人公の正彦は信仰者でもないのに、言うことは全て頷けるものばかりで、何時尻尾を出すのかと思って読んでいたが、これはまともな人物だからそうはならないのかなとも思わせた。 果たして最後まで残った熱心な信者により逆洗脳?され・・・。なお作者の得意なホラー性は極力抑えられている。イェスの方舟やオウム真理教が土台としてある訳だが、オウムの場合は沢山の真面目な弟子が死刑になり、教祖は責任逃れの一手だ。そのような状況を生み出した世間への批判の書でもあると捉えた。 | ||||
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上巻も稀に見るエンターテイメント性を備えながら、一気に読ませる筆力があるが、 この下巻にこそ本作の真髄があるといえる。 上巻では、わらしべ長者的を思わせる新興教団の成り上がりについて、 ジェットコースター的スピード感で一気に読ませるが、 下巻での、逃亡劇とそこで営まれる女性信者の狂気の沙汰は、 作者の力量を十分に発揮した、まさに圧巻の地獄絵図。 逃亡劇のくだりは、後年大佛次郎賞を受賞する名作「悪人」(吉田修一)を思わせる。 他のレビュアーの方々も書かれているように、一気読みです。 | ||||
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1995年の例の事件以降、既成の宗教教団ではない、いわゆる新宗教は悉く「カルト」として扱われるようになった。メディアが垂れ流すそうした浅薄な宗教観は、自己矛盾を呈している。神社仏閣は世界遺産にもなる一方で、新宗教の本山はワイドショーレベルの扱いしか受けないというのはいかなる理由においてか? どちらも宗教であることに変わりはない。既成宗教は「本物」で、新宗教は「偽者」? では本物と偽物の違いとは何か? どちらも所詮、虚構の物語を集合的に保持する「場」であることに変わりはない。 『仮想儀礼』は、その道の素養を特に持つわけでもない一般人が教祖を騙る物語を展開させることで、教団が(メディアのいわゆる)「偽者」であることが読み手にはあらかじめ明らかにされる。「教団の化けの皮が剥がれ、集金組織の素顔がさらけ出される」というステレオタイプな物語の逆であるわけだ。その意味で最初から手の内は明かされている。しかもこれは、本作が「宗教ビジネス」におけるシミュレーションであることをも意味する。いわば「誰にでもできる易しい宗教」。現代において教団を立ち上げたらどうなるか、ということの一つの実験。ただ宗教の難しい点は、それがビジネスとして成り立つためには「本物」であると思われなければならないということだ。 だから『仮想儀礼』の教祖は、教義において、儀礼において、そして語る言葉において、なるべく「本物」らしくしようと努める。そして「本物」であろうとすればするほど、それはやがて「本物」に近づいていく。当然である。宗教において絶対的な「本物」など存在しないからだ。それゆえ教団によって「救われた」と考える信者が現れ、組織は次第に拡大してゆけば、それは「本物」同然のものになりゆく。しかし教祖は本性として善人であり、より「資本主義的な」人物(ということはステレオタイプな「教祖」である)の登場によって危機的状況に陥ることになる。攻撃は執拗に行なわれ、教団は崩壊へと向かっていく。下巻後半部はその墜落の軌跡が実に異様な濃密さを持って描かれる。平凡な作家ならば物語は破滅で終わるだろう。多少有能ならばもしかしたら「Deus ex Machina」を登場させるのかもしれない。しかし本作はそのいずれでもない。読み終えて言えるのは、そこに展開されていたのは墜落の軌跡でもなければ破滅への前進でもなく、「純粋な信仰の一つの有り様」なのだ、ということである。「信仰」とは心の問題であり、その前で現実と肉体はいかなる意味も持たない、そのような「信仰」のあり方もまた可能である、ということなのだ。 | ||||
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失業した男二人がゲーム感覚で立ち上げてしまった宗教が、偶然からあれよあれという間に大きくなっていってしまう。 今に何かが起きると嫌な予感、こうでなくては小説は成り立たないのだが、がしながら上巻を丸一日で読んでしまった。上巻の終わりごろには嫌な予感が的中。不幸は後回し下巻は翌日に。 全くの金儲けで、自分たちの経済的安心のために始めた宗教がが、桐生という男をどんどん浄化させていく。気持ちの中では、「この馬鹿が」「何やってんだ」と相手を見下したりののしったりするのだが、教条には出さず、落着いた風を装っている。ここが金儲けのためなのか、それとも彼の本来備えている常識人なのか、頭の回転よろしく穏やかにことを進める。 それが読者と同じ支店なので、読むのが快適であった。 上下巻ともに四百ページ以上あるのに、読みやすくはらはらしながら一気呵成に読み終えた。 | ||||
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良くも悪くも柴田錬三郎賞に相応しいベテラン円熟の傑作。ただ正直バランスは今一つ。後半が著者真骨頂なのはもちろんなのだが、作品としては前半の戯画タッチをとことん貫いて欲しかったところ。「教え」あるいは「救い」については、「ゴサインタン」の深みにはやや及ばないのでは?あと篠田氏に限らないが女流作家には「女(の怖さ)」は書けても「オヤジ(のキモさ)」は書けないのはないものねだりか?(もちろん男性大家の描く女性も同性から見れば噴飯ものが少なくないのだろうが) | ||||
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この本のすごいところはいろいろあると思いますが、 まるで人生そのもののように、悲喜劇が繰り返され、 それがごく自然に物語を織りなしているところが もっとも感銘を受けた点です。 出だしは、なんだかある意味で安っぽいエンタメ小説 見たいな書き口ですらすらっと読めるような導入であるのに 偽宗教を興し、詐欺師をたびごとに自認する主人公の 心理描写が実に「常識的」でときに驚くほど真摯であり、 周囲の人物は”教団”に寄ってくる信者たち以外にも それぞれに個性のある魅力的だったり腹が立ったりする ところが描かれています。 だんだんに教団が大きくなっていくところは、読むと 「もうその辺でやめときなよ」といいたくなるし、 周囲との軋轢が生じては「違うんだよ」とかばいたくなるし どんどんこの本の世界に入ってしまいました。 自分の体験しない違った人生・世界を体験するのが 読書の醍醐味だとすればこの本は僕にとってその見本です。 (なにしろ宗教にはまったく無縁ですし) 上下1200ページですが、苦にはならないと思います。 | ||||
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宗教をビジネスと割り切って、桐生正彦は新興宗教を立ち上げる。 詐欺まがいのゲーム関連出版社と甘い見通しのために、家庭も職も失うゼロ・スタート。 それが確かな経営ビジョンでぐんぐん成長していく。上巻はサクセス・ストーリー。 宗教というよりビジネスの側面に光を当てている。清泉真法会は、日本人の宗教観を的確に捉え、ニッチにしっかりと食い込んでいく。 あたかも実在する、あるいは実在したいくつかの新興宗教のように。 感情に流されない作者の筆力が、生臭い素材を、癖のない高級料理に仕上げた。 | ||||
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どちらかといえば良識派の宗教集団が、崩壊暴走していくまでの転落を、丁寧な筆致でまとめあげた下巻。 オウム真理教やイエスの方舟、その他のカルト教団が起こした殺人・過失致死事件を巧みに織り込んでいて、既視感を覚える。 不吉な予感を覚えながらも、彼らの最期を見届けるまではページをめくる手が止まらない。 | ||||
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2009.6 上・下で1000頁弱の長い小説でした。 読み終えれるかな?と心配でしたが大丈夫でした。 うん。まぁ良かったかな。最後まで読めたし。★4ほどでしょうか 誰か読んだ人、どうでしたか? コレと言ってレビューは無いかも私。 | ||||
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2009.6上・下で1000頁弱の長い小説でした。読み終えれるかな?と心配でしたが大丈夫でした。うん。まぁ良かったかな。最後まで読めたし。★4ほどでしょうか誰か読んだ人、どうでしたか? コレと言ってレビューは無いかも私。 | ||||
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結構分厚い上下2巻の単行本を5日で読了。 1998年の著作「夏の厄災」以来、久しぶりに著者の作品を堪能させてもらった。 自らの過失によって職を失い行き倒れ寸前まで身を持ち崩した二人の男が、あこぎな金儲けを企んで新興宗教を立ち上げる。 そして本人達も戸惑うほどのスピードでそれが大きな宗教団体に成長し、やがて...。 身内の法事などを除き普段ほとんど宗教に縁の無い生活をしている自分にとって、怪しい新興宗教を取り巻く魑魅魍魎たちの世界がまず何よりも新鮮で惹き付けられた。 しかも、控えめながら克明な筆致によって著者はそのおどろおどろしい世界に見事なリアリティを与え、まるで実在するモデルを元にしたドキュメンタリーのような印象を読み手に抱かせる(卓越したその技法は「夏の厄災」でも遺憾なく発揮されていた)。 作品の核をなしているのは、「教祖」である男の心理描写だと思う。 宗教団体立ち上げ当初の脂ぎった野心から始まり、それは自信、躊躇、良心の呵責、達観、絶望と、様々に形を変えて変遷を繰り返す。 新興宗教という題材からすればオカルト的で軽薄な展開に陥りそうなものだが、その生々しい心理描写がこの作品に深淵で味わい深い厚みを加えている。 結局著者が語りたかったことは、「信じる」ということの無限のパワーと、それが究極の形をとった時の恐ろしさではないだろうか。 その人間心理の闇を見誤った「教祖」を襲う結末が、圧巻である。 | ||||
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小林信彦『ぼくたちの好きな戦争』プロローグに、ベルガウル島で玉砕を覚悟した中隊長が、傍らの少尉に辞世の句の披露を促す場面がある。少尉からお先にと譲られ、ではと聞かせたのが〈環礁に寄せ来る波を眺めつつ皇国の栄祈らむ我は〉。続いて少尉が〈大君の御楯となりて捨つる身と思へどなほも神風を待つ〉と詠むと、次の行に「む、む」。これはお笑いコントの一つの定型だが、小林は説明抜きでその笑いを成り立たせるだけの歌を作っている。 何でこんな話をするかと言えば、本書に落ちぶれた性格破綻の元・芥川賞作家が登場し、主人公の教祖がこの男に教団機関紙への短文寄稿を依頼する件りがあるのだが、期待せずに受けとったその文章について次のように描写される。「そこで使われていることばの一つ一つに、美しい狂気が宿っている」「明らかに普通の人間の文章力とは格段の差があった。ほとんど天才的と言っていいような、きらめきにあふれていた」「絶望の淵で聖泉真法会と出会う、その感動が、素人臭い泣かせではなく、煩悩から逃れられぬ人間の弱さと悲しさを通して主知的に描かれ、仏教説話をからませて、単なる告白録を越えた一編の物語として仕上がっている。しかも枚数はわずか三枚半だ」(上p198)。しかしもちろん、そこには男の書いた文章そのものは1行たりとも引用されていない(他方、宗教分野に強いらしい安藤という「ルポライター」(下p234)がいて、彼が教団について書いた文章は引用されている(下p263)。ただし引用の直後、主人公は「何もわかってねえ」と呟くのだが)。 実はこの種の描写は小説にはよくあることで、確か村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』のハシの歌について、小説なら「その歌に聴衆は魅了された」で済むが、映画では嘘がつけないみたいなことを書いていた気がする。ただ、言葉の有するそのような虚構性というか、いやむしろ出鱈目さとか荒唐無稽さと呼ぶべきかもしれない性能に意識的であることは、ジャンルを問わず、現在を生きる作家が備えるべき美徳ではないだろうか。 端的に言って、元・芥川賞作家の文章を空疎で無意味な形容を連ねて表象しようとする作家の言葉が、他の箇所では何らかの意味を持つ充実した表現や描写に到達していると考えるのは難しい。ただし、この小説の言葉がそのような知性や強度を欠いていたとしても、まさしくゲームのように、いったん中に入り込んでしまえば終わりまで駆け抜けたくなるように仕上がっているという意味では、達者だと思う。 | ||||
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小林信彦『ぼくたちの好きな戦争』プロローグに、ベルガウル島で玉砕を覚悟した中隊長が、傍らの少尉に辞世の句の披露を促す場面がある。少尉からお先にと譲られ、ではと聞かせたのが〈環礁に寄せ来る波を眺めつつ皇国の栄祈らむ我は〉。続いて少尉が〈大君の御楯となりて捨つる身と思へどなほも神風を待つ〉と詠むと、次の行に「む、む」。これはお笑いコントの一つの定型だが、小林は説明抜きでその笑いを成り立たせるだけの歌を作っている。 何でこんな話をするかと言えば、本書に落ちぶれた性格破綻の元・芥川賞作家が登場し、主人公の教祖がこの男に教団機関紙への短文寄稿を依頼する件りがあるのだが、期待せずに受けとったその文章について次のように描写される。「そこで使われていることばの一つ一つに、美しい狂気が宿っている」「明らかに普通の人間の文章力とは格段の差があった。ほとんど天才的と言っていいような、きらめきにあふれていた」「絶望の淵で聖泉真法会と出会う、その感動が、素人臭い泣かせではなく、煩悩から逃れられぬ人間の弱さと悲しさを通して主知的に描かれ、仏教説話をからませて、単なる告白録を越えた一編の物語として仕上がっている。しかも枚数はわずか三枚半だ」(上p198)。しかしもちろん、そこには男の書いた文章そのものは1行たりとも引用されていない(他方、宗教分野に強いらしい安藤という「ルポライター」(下p234)がいて、彼が教団について書いた文章は引用されている(下p263)。ただし引用の直後、主人公は「何もわかってねえ」と呟くのだが)。 実はこの種の描写は小説にはよくあることで、確か村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』のハシの歌について、小説なら「その歌に聴衆は魅了された」で済むが、映画では嘘がつけないみたいなことを書いていた気がする。ただ、言葉の有するそのような虚構性というか、いやむしろ出鱈目さとか荒唐無稽さと呼ぶべきかもしれない性能に意識的であることは、ジャンルを問わず、現在を生きる作家が備えるべき美徳ではないだろうか。 端的に言って、元・芥川賞作家の文章を空疎で無意味な形容を連ねて表象しようとする作家の言葉が、他の箇所では何らかの意味を持つ充実した表現や描写に到達していると考えるのは難しい。ただし、この小説の言葉がそのような知性や強度を欠いていたとしても、まさしくゲームのように、いったん中に入り込んでしまえば終わりまで駆け抜けたくなるように仕上がっているという意味では、達者だと思う。 | ||||
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これだけ分厚い本で、しかも上下巻ともなると、内容はかえって薄いんだろうな、と思っていたのですが、どうしてどうしてw 無駄な文章や場面はまったくなく、しかもスムースに読み進めてしまえます。 これは明らかに作者の力量の凄さなのでしょう。 現代社会では宗教に限らず、株やパチンコ、競馬、酒、携帯電話?など個人がはまり込んでしまうものがたくさんあります。 宗教の話と思わずにぜひ一読して欲しい本です。 | ||||
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これだけ分厚い本で、しかも上下巻ともなると、内容はかえって薄いんだろうな、と思っていたのですが、どうしてどうしてw 無駄な文章や場面はまったくなく、しかもスムースに読み進めてしまえます。 これは明らかに作者の力量の凄さなのでしょう。 現代社会では宗教に限らず、株やパチンコ、競馬、酒、携帯電話?など個人がはまり込んでしまうものがたくさんあります。 宗教の話と思わずにぜひ一読して欲しい本です。 | ||||
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とんでもなく過酷な状況に直面することによって、凡庸で卑俗な男が、現代では困難に思われる、純粋な宗教的境地にまで到達する。 この枠組みは1998年に出版された同じ作家の手になる『弥勒』と同じです。 しかし『弥勒』が日本人にとって明らかに別世界であるチベット周辺を舞台にしたのと異なり、本作は現代日本が舞台であるため、より一層リアルであり、読者は嫌でも自分をかえり見なくてはなりません。 篠田節子の描く人物は、完全な善人でも完全な悪人でもなく、完全に愚かでもなければ、完全な賢者でもありません。まさに現実の人々の等身大モデル、あり得る我々です。 にもかかわらず、主人公は否応もなく人間的成長を遂げてしまう。 状況があまりにも過酷であり、それが避けようがなく、まさしく実際に起こりそうなことだから。 とても残酷な話でありながら、この結末に、読者はある種独特の感動をえることになるでしょう。 | ||||
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宗教の内容は難しくてわかりずらい。 が、とにかく、展開の速さ、えぐさに引き込まれる。 最後の終わり方も楽しめる。 集中したい人にはオススメです。 でも、宗教の説明が長いので、めんどくさがりやの方にはオススメできません。 | ||||
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