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ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編
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ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.08pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全102件 41~60 3/6ページ
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僕の愛読書のひとつです。 村上作品は全部読んでますが、エネルギーの質はこの作品が一番好き。 喪失、再生を描く圧倒的筆力で、グイグイ引き込まれます。 純粋に、出会って良かったと思える小説です。 この小説が与えてくれるものを、まずはしっかりと受け止め考察しましょう。その上で、「私はそんな風には思わない」という結論に至れば、その考えもまたあなたの財産で、この作品を読んだ価値があるというもの。 でなければ、時間とお金がもったいない。けっこう長いしね。 | ||||
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第1部が強烈だっただけに最終的にどんな結末なんだろうと期待してしてしまったので、最後まで読むと「?こんな感じ?」という感覚がないでもない。第1部はそもそもの発想も歴史的な事件も常人の想像を超えた感じで、第2部はその結末への通過点として読み、第3部はとてつもなく現実から遠のいたように感じたが、結局とても現実的なところにおさまり、想像していた広がりではなかったように思う。 ただ、村上春樹ファンとしてはここまでの力作を途中でやめるわけにはいかないと思うので、最後まで読むべきということででこの評価。 | ||||
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第3部ではこの作品を終わらせるための、そしてこれからのハルキ・ムラカミの作品につなげるための重要なキャラが続々と登場する。ウシカワしかり、ナツメグとシナモンしかり・・・・・。 中尉と獣医は単なる語呂合わせか、満州の新京動物園は繁盛していたのか、ノモンハンはアナタハン? 読者に様々な想像力を要求しつつ、物語は大団円に・・・・・といいたいとこだが、何ら何も一つも解決しないままずるずると・・・・・ 「僕」はクミコを再び満足させることができるのか、そして、夫婦の危機は解消されるのか・・・・・・・こちらも何ら何も解決しないままずるずると・・・・・ | ||||
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複雑で難しい部分もあり、全部を理解した、とは思えません。 それでも、深さ、を感じました。 さらに大切だと思ったのは、面白い、と思ったことです。 難解でも面白さを提供してくれる村上春樹さんの作品は素晴らしいと思っています。 他の作品も読んでいこうと思います。 ただし、本筋とははずれるかもしれませんが、この作品を、中国、モンゴル、ロシアの方が読んだらどう思うんだろう、と心配になりました。こんな風に描かれたら、気分を害するのだろうと思います。もちろん、”全ての人が賛成する意見”などどこにも無いのだとは思います。それでも、暴力や残酷さの描写はやりすぎなのではないかと心配になりました。 | ||||
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意識と無意識の世界、複数の人間の、時空を超えた内面世界が、融通無碍に交錯する、村上春樹の小説の中でも最大のスケールをほこり、おそらく最も深いレベルで物語の可能性を追求した作品。 当初は「第1部」「第2部」で完成させるはずだった本作。それらと「第3部」との間には、執筆期間のブランクがあることもあって、作品の色合いのようなものが両者の間で若干違っていますが、この「第3部」を書ききることによって、作者はこの物語にさらなる深みと救いをもたらしています。 年末から読み返した本作、3回目です。 抗うことのできないような、この世の中に確実に存在する(あるいは存在した)圧倒的な暴力の、息苦しくなるほどの生々しい描写、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界との間を自在に往復させる筆致が印象的でした。 実は、10代のときに初めて読んだときは、「なんだかよく分らないな」という印象を持ったのだけれど、そうした印象が読み返すたびになくなっていくのは、世界に存在する圧倒的な暴力や抗い難い理不尽さ、無意識の世界の深み、独りで闘うということ、そういうものについて思いを馳せるようになったからかもしれない。 これからも読み返すことになるであろう、人生で出会った最も大切な小説のひとつ。 | ||||
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僕にとってこの作品はすごく大事なものであるし、何度読み返しても色あせることのない輝きが作品の中にある。 この物語の最も大きなテーマはたぶんワタヤノボル的な世界に対してオカダトオルがどのように振る舞うかということだと思うのだが、そこが理解に難しい。簡単な文章や比喩を多用することで読みやすいものになっているが、内容は難解なテーマを扱っているために、1度読んだだけだと読み終わったときに疑問点がかなり残ってしまう。 読み進めていくことで「暴力」というのがキーワードであることに気づく。現代の暴力の象徴であるワタヤノボル。そして過去(戦争中)の暴力の象徴である皮剥ぎボリス。 思想がなく、考えが浅いが頭が非常によい人間の発する言葉というのは概して影響力がある。自分には守るものがなく、相手を攻撃する方法を考え付くことが出来るから。そしてどうすれば自分がよく思われることが出来るかということがわかって行うから。 そのような人の発言というのは周囲の人間自身の判断を出来なくさせる。彼(彼女)が言っていることが正しいのだと思ってしまうから。その発言に力があるというだけで。 ワタヤノボルという存在はそのように描かれている。彼は非常に頭がよく、自分の立ち振る舞い方が完全にわかっていた。そしてマスコミというツールによって世間は判断なしに彼を受け入れさせられた。 主人公は自分で深く考えることによって判断するタイプの人間なので、ワタヤノボルの本性がわかり、そのためにワタヤノボルは彼を無視できなくなったのだろうと思う。 妻を取り返すという行為はそのようなワタヤノボルが作り出した暴力的な世界と関わりを持たなくてはならないことであり、それには危険が付きまとう。しかし彼はギリシャに行くのではなく妻、つまり自分の作り出した世界を取り戻そうとする。ここがこれまでの村上作品と大きく違うところだと思うし、それが僕がこの作品を最も気に入っている理由でもあります。 それ以外でもたくさんの場面で心を動かされました。妻がいなくなり、手紙が届くシーンはとても心が痛むし、サワラが返ってきたシーンは本当にうれしくなります。また、最も好きな登場人物が笠原メイなのですが、彼女の言葉は本当に大好きです。 「茶碗蒸しのもとを入れてチンして、それがマカロニグラタンに変わることもたまにはあるのよね」 | ||||
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3巻では新たに、ナツメグとシナモンの姉弟が登場し、あの「1Q84」でも出てくる「牛河」さんも登場します。それから、1巻で出てきた、あの残酷な「皮むきロシア人」も登場するし、井戸での体験もクライマックスを迎えます。この作品は1、2巻がまず刊行され、作者の村上春樹は、それで終わりにもできたのですが、謎解き編であり、1、2巻の成長版として3巻を書いたようです。1、2巻を読んだ読者にとって、いろんな伏線が集約され、面白いです。物語も一回り大きくなって現れます。やはりこの3巻は書かれていてよかったと思います。 現実と言うのは不条理で、混沌としていて、ときには戦争など圧倒的な暴力が個人の人生を飲み込んでしまいます。できれば、そんな社会や歴史とかかわることなく、自分の真実の道を進みたいのですが、主人公は、結局、愛する妻を探しに、ノモンハンやシベリア抑留などの歴史の中に踏み込んでいきます。 この小説を一つの焦点に、作者は、次は歴史ではなく、あのオーム事件や阪神大震災という現実の世界におきた大事件と向き合うことになります。 | ||||
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僕たちはこれだけ世の中の不穏な状況とか未来への不安とかを目の前にしても、やっぱりどこか世界は首尾一貫したものだと思ってるし、そう思おうとしているのかもしれない。 この作品はその「一貫性」に対して真っ向からの疑問を投げかけている。 システム側が我々に提示する「経済的有効性」は戦後〜高度経済成長期にまでかけて実務的な規範として敷衍するのに強力なテクスチャーとして機能していた。 だがバブルがはじけた今もシステム側から提示されるバブリーなメンタリティは衰えず、「経済的有効性」以外の哲学、精神性は生み出されることはあまりなかったといえる。 このメタファーこそが「綿谷ノボル」の存在である。 村上は「海の真ん中で遭難して方向を失ったときに、チカラのある熟練したこぎ手が揃っていても無意味」と書いている。 つまり、必要なのは遭難からどうやって脱するか、必死で考え想像する。 それこそが今の時代に必要な「こぎ手」であると思うし、僕たちが獲得しなきゃいけない「規範」なんじゃないか。 | ||||
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とにかく物凄い作品だ。 カオスが溢れる。 その混沌は徐々に法則性をもちはじめ、 やがて幾重にも重なるレイヤーとなり、 レイヤーに横たわるパーツと、別のレイヤーに横たわるパーツが リンクしたかと思うと、レイヤーが持つ時空の境界を全く無視し、 いつの間にかそれらは同一化している。 人間の持つ深淵という、やがて何者かへと変貌を遂げる運命を背負ったカオスを ここまで描ききった作品は今後なかなか現れることはないだろう。 人間にとっての本当の救済とは、何なのだろうか。 それはもしかしたら死という至極単純な現象かもしれない。 それはもしかしたら愛という至極使い古された表現かもしれない。 自分の頭でものを考えられる全ての人間に読んでほしい一冊。 | ||||
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というよりむしろ、 私はそうやってアリさん的にわき目も振らず働くことによって、 だんだん「ほんとうのじぶん」に近づいるような気さえしちゃうのです。 なんというのかな、 うまく説明できないけれど、 自分について考えないことで 逆に自分の中心に近づいていくというみたいなところがあるのね。 私が「ちょっと変」というのはそういうことです。 現実的にまったく何の指標も持たずに人が行動することは不可能である。 そこには少なくとも暫定的・仮設的なプリンシプル・モデルが必要とされる。 日本という国家が現在の時点で提供できるモデルはおそらく「効率」くらいのものである。 しかし、「効率性」は方向性が明確なときに有効な力がある。 ひとたび方向の明確さが消滅すれば、それは瞬時に無力化する。 海の真ん中で遭難して方法を失ったときに 力のある熟練した漕ぎ手が揃っていても無意味なのと同じだ。 効率よく間違った方向に進むのは、 どこにも進まないより悪いことである。 正しい方向性を規定するのは、より高度な職能をもつプリンシパルでしかない。 しかし我々は今のところ、それを欠いている。決定的に欠いている。 「だから、どうすればいいのだ?」 | ||||
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主人公は本当に正しい思考をしているのか問答を行い、物語は終幕を迎えます。人は無意識下で救われる事を望み、誰かに救いの手を差し伸べてもらう事を心の奥底に抱いているのかもしれません…。 「そうね?そしてあなたはその過程でいろんな人たちを救った。でもあなたは自分自身を救うことはできなかった。そして他の誰も、あなたを救うことはできなかった。あなたは誰か別の人たちを救うことで力と運命を使い果たしてしまったのよ。その種は一粒残らず、どこかべつの場所に蒔かれてしまった。袋の中にはもう何も残ってはいない。そんな不公平なことってないわよね」 | ||||
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とにかく長くて難解なストーリーだ。 最後にたどり着くまでに何度も「やれやれ」と思う。 クリーニングに出しておいたワンピースとともに突然姿を消した妻を探し、岡田トオルの果てしない苦闘が始まる。 その妻探しの過程で幾度となく登場し、行く手を阻むのが義兄の綿谷ノボル。 学者にして、その後衆議院議員となる彼はまったくつかみ所がないが、読む者の心の奥になにやら「イヤ」な感じを残し続ける。 家の裏にある路地を抜け、空き家の井戸に降りるところから物語は様々な方面に波及し、つながっていく。 空き家の向かいに住む笠原メイ。 いなくなった猫を探す加納マルタと妹のクレタ。 預言者の本田さんとノモンハンで一緒だった間宮中尉。 謎の事業を行なうナツメグと話すことが出来ないシナモン。 長編かつ展開が複雑であるために、何度読んでもこの物語の主題がわからない。 間宮中尉から送られてくる長い長い手紙は、何を暗示しているのだ。 井戸の中と右頬に出来たアザには何の関係があるのか。 ギターを持った男とバットと綿谷ノボルに何の関係があるのか。 最後にはすべてのツジツマが合うかのように物語は終わる。 そして、読んだ者の心の中にはある種のうまく説明できない違和感が残る。 いつかまた読んでみたら、ふと謎が解けるのではないかと考えてしまう。 何か重要なことを読み落としているのではないか、と不安になる。 こんな気分になるのは村上春樹の作品の中で「ねじまき鳥」だけである。 きっといつかまた読み返してしまう。 | ||||
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妻がひとことの理由も言わず家出するという夫への精神的「暴力」、男が女を犯す「暴力」、子供が子供をいじめるという弱い者からさらに弱い者へと向かう「暴力」、終局的には殺人に繋がる戦争の中の「暴力」、傷つけられた者がバットを持って立ち上がる正義の意味合いを帯びた「暴力」、そして正義側の人物の心底にもある、人を思い切りこらしめてやりたいという本能的「暴力」……。 本作では、現代で考えうるかぎりの、ありとあらゆる暴力が描かれる。種々雑多な暴力をストーリー的につなぐキーワードが、前作『ノルウェーの森』にも描かれた「井戸」だ。主人公の「ぼく」は、空き家となった近所の家の庭に空井戸を発見し、そこに潜って、「もうひとりの僕」に出会う。半世紀以上も昔のノモンハン戦争で日本兵が放り込まれた井戸と、現代の井戸が繋がる。蓋を閉めれば井戸の底は闇だが、開ければ夜なら月光が差し込み、昼ならばまぶしいほどの光が井戸底に満ちる。その光は、闇との対比により、ページが真っ白く見えるほどの明るさを以って読む者を照らす。 だが、底にいる僕は、手を延ばして井戸の蓋を開け閉めすることはない。他者が閉めたり開けたりするのを待つだけだ。自分では何もできないで井戸底にいるだけの「僕」の心情こそ、現代で誰もが受けている暴力に近いのではないかと思えた。 サカキバラ事件以降、たくさんの作家が暴力をテーマにフィクションを書いたけれども、畢竟、それらは上にあげた無類の暴力の「ひとつ」に過ぎないかったのかもしれない。すべての暴力を統括して一冊の中でつなげようという作者の執念に驚きました。手法としてはジョン・アーヴィングに似ているけれども、テーマが圧倒的に暗いので、読み進むのに、アーヴィングよりはるかに時間がかかるのは確か。 考えてみれば、ここに描かれた暴力をひとつひとつに分解すれば、一冊ずつの本になる。子供のイジメだけでも十分一冊になるし。 「創作する者は、出し惜しみしてはいけない。一作に自分のすべてを込める。そうすれば、自分は空になることができ、また、次の作品を創ることができる」 誰かがそのように言っていたのは、こういうことだったのかと、本作を読んで痛感した。 悩みの果てに唐突に救われてしまうなど、甘いところもあるけれど(しかしそれがなければ本作は救われなかったと思う)、ものをつくる人ならぜひ読んでおくべき本だと思う。 90年代に書かれた本なので、現代を席捲する、バーチャル世界から受ける暴力(ネットなど)は描かれていない。それが含まれればリメイクも可能なくらい、普遍性をもった作品だと思います。 | ||||
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前から村上春樹という作家に興味は持っていたのですが、 今回始めてこの作品を読んでみて、最終的に、3巻読了後、 今まで味わったことのない、深い満足感を味わいました。 この小説の主人公は、自分の内面に深く深く、これ異常ないほどに入り込むことによって、 自分を取り巻くカオス(混沌)を解決しようと試み、全面解決とは行かなくても、 外に現れている現実、事象を変えることに成功する。 世の中には、こんな考え方、物事の捉えかた、因果関係の捉えかたをする人がいるんだ、 少なくとも虚構としてであっても、人の内面の世界と、外側の世界には、何らかの因果関係があって、 人の内面の世界はすべてつながっていて、内面が変わると、即座に外的環境も変わる、という何らかの法則を表現しているのかな?と感じました。ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』のように。 少なくともそういう見方ができる人、そういう考え方に慣れ親しんでいる人には、この作品は、 充分に楽しめる本であると思います。 僕はこの作品を読んで、この世の中も、まだまだ捨てたもんじゃないな、と思いました。 こういう小説を書ける人がいるだけで、この日本、この世界もまだまだ懐が深いな、と感じました。 そして、ところどころに出てくる、満州での兵役中の衝撃的な回想録が、真に迫ってきて、 現実味があり、引き込まれました。シベリア抑留についてや、満州での日本兵の中国人虐殺についてなど、 もっと知りたい、という気にさせられました。 全体の満足度としては、1,2巻目は60%で、3巻目読了後に120%に到達。 最後の最後に謎か解ける、というパターンですね。 | ||||
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読んでいくと、物語のせかいへ、入り込みます。 表現の仕方が好きです。 | ||||
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この3部作に出会えたことで、現在or未来の夫婦が例え一握りでも、離婚という形を取らず、また形骸化した夫婦関係でなく、お互いを支え愛し合える夫婦でいられたなら、小説とは何と大きな力を持ち得るのでしょう。 ある種の人間が持ち得てしまう歪んだ欲動、それは本書の第2次大戦中のソ連の将校・皮剥ぎボリスの欲動であり、自らの妹(主人公の妻の姉)を少女期に死に追い込み、更にその妹(主人公の妻)をそのsurrealな力で性的な方向感覚を狂わせて心身を破壊する兄(ワタヤノボル)が持つ欲動。そしてその歪んだ欲動に魅入られ絶望的な状況に追い込まれる夫婦。 そんな中、弁護士事務所で便利屋として働いていた負け組足る夫(=主人公=オカダトオル)が、エリート一家にあって孤独感を抱えながら育った妻(クミコ)への果てなき愛、何が起こっても何を言われても信じて疑おうとしない自らへの妻の愛、そして自らの力、それらを信じ、底知れぬ遠い暗闇の世界から妻を救い出す物語。 私は本書を読み初めて自らの罪の本当の深さと意味を、そしてそれが取り返しのつかないことを悟りました。もっと早く本書に出会っていれば主人公が妻を救い得たように私のそれもまた違っていたのかも知れません。この救済の物語に出会い、一組でも多くの現在or未来の夫婦が救済されることを願ってやみません。それはまた村上さんの意思でもあるように思えるのです。 | ||||
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期待感のない小説だ。ノーベル賞をとっても驚きはしないからだ。また読みおえた人を不幸にする小説だ。これよりよいものにめぐりあうことは今後そうないと思えるからだ。それ以外けなしようがないほどの大傑作。これ一冊で村上春樹の偉大さが十分わかる。 奇妙な鳥の声に気づくと間もなく愛猫が姿を消す。主人公岡田トオルの平凡な日常は徐々に変貌し、ついに妻クミコまで謎の失踪をとげる。何かが狂ってしまったなら、もとに戻すしかない。ねじまき鳥の声が止まると、岡田トオルの静かな戦いが始まった。行く手を阻むは綿谷ノボルほかに象徴される悪。時空をこえ世界を支配する強大な敵だ。普通人、岡田トオルは、はたして勝てるか。だが魂の彷徨を続けるなか、彼は多くの人にめぐりあい、学び、力をつけていく。登場人物、エピソードはそれぞれが深い洞察に満ちたメタファーだ。複雑なこの世のすべてが記されているといっていい。さまざまに読みとけるだろうし、それ自体また楽しい。この本の魅力を語るだけで分厚い本が書けるだろうし、事実、出版されている。 一見シュールで難解だが、愛するものを奪還すべく悪と戦うシンプルさが核。古典的で普遍的なテーマを追求した清々しい物語だ。多くの読者をひきつけてやまないゆえんだろう。意味不明だがとにかくこの話が好きという人が多いのは、頭ではなく魂で読む優れた読者をそれだけとりこにしているあかしだ。 物語同様、簡潔な文章は、澄明で流麗。だから読みやすい。これからもより多くの人に愛されることを願う。 | ||||
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とても壮大で複雑怪奇で取り留めのないような作品ですが実は色々なことが絡み合いリンクしているんだなと思いました。よく読んでいけばヒントが隠されていたりしますし。でもそのヒントも読み手によって違うし感じ方も違うんじゃないかと思います。でもそういう作品なんだと思いました。多くの謎を謎(一般的にみれば)のまま終わらせているのもそのためじゃないかと思いました。一回読んだくらいじゃまだほんの一部を触ったくらいなのかなとも思いました。日常はえてして非日常にすぐ飲み込まれるんだなってすごく感じましたしとりあえず登場人物が味のあるキャラばかりで作風も好きでした。 | ||||
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一年くらい前に読んだねじまき鳥クロニクルを再読しました。 三部構成で長い小説であるにもかかわらずスラスラと読んでしまえるのはやはり村上さんの力と言えるのではないでしょうか。 読み終えた感想といたしましては、二回目という事もあり一回目の「わけが全然わからない、けれど面白い!世界観が好き」というところから「なんとなく流れがつかめてきて、漠然と、うっすらと理解できそう。そして、やはり面白い、やっぱり好きな世界観だ!」という感じに変わりました。 たぶんきっと何回読みなおしても、本当に言いたいことや、これこれこう、だからこう!というような事ははっきりとワカラナイような気がします。 オシイマモル監督が昔TVでいっていた言葉の中に「わからない物はわからないで良い。それを解ってしまった時はもうそれを卒業する時だ!!」って言うような事をいっていましたが何だかそんな感じがします。解らないからもういいや!ってなるのではなく、解らないからもう一回読んでみよう!ってなるこのねじまき鳥クロニクルはやはりすごい作品であるのだと思います。 ちなみにかぶれやすい私はカティーサークのオンザロックを飲むようになり、ロッシーニのアルバムを買い、「どろぼうかささぎ」を聴き、クラッシックも良いなぁー、なんて思っている今日この頃です、 | ||||
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読み終わった。 長かったけど、あっという間だった。 彼の作品にしては珍しく、拡散しまくるストーリーがある程度解明され、謎解きされ、収束に向かい、そして完結する(とはいっても、いわゆる普通の小説のようにストーリーが「完結」するわけではないが)。 とは言え、読売文学賞を受賞し、春樹の代表作ともいえるこの作品をより良く解釈するために、いくつかの評論を読んでみた。 その中でも僕の心を打った批評を書いたのは、やはり吉本隆明であった(『消費のなかの芸〜ベストセラーを読む』)。第2部のレビューに書いたが、この作品は1・2巻が同時に発売され、3巻はその1年後に発売された。つまりこの第3部は恐らく執筆当初は構想に入っていなかった物語であり、番外編に近い。 ではなぜ第3部を春樹は書いたのか? 吉本は言う。 「この第三巻目は全体的な印象で言えば、親切極まりない「解決篇」ということだとおもう。(中略)わたしにはこの第三巻は親切すぎて蛇足に近いとおもわれた。」 ではその理由は? 吉本は二つの点を指摘する。 @主格の変化 「本来(第1部・2部)では主人公「ねじまき鳥」が「僕」と言う一人称で物語が展開してきたのに、この第三巻に至って、章によって転々と主格が変わり、その都度、あれ、この文章は誰(何)が主体になっているのかと確かめなければならなくなる。そういわれなくても、主格の変転は、読む者に散漫な印象を強いる。その上作品が通俗化された印象も加わってくる。」 A文体のリズムの弛緩 「わたしは近年の村上春樹の半分の魅力は、文体のリズムがそれ自体で持っている詩的な語りの流露のこころよさにあるとおもってきた。だがこの第三巻は主格の転変がこのリズムを分断してしまっていることと相俟って、テンポが大幅に弛緩しているとおもえた。」 またさらに、吉本は、「物語としてここは展開があると感じたところが2箇所(@「僕」とナツメグの父の獣医とを重ね合わせる工夫をしているところ A第三部の終盤で、「僕」がいつも降りてゆく井戸の底からバットが消えている、という設定のところ)しかなく、そのせいで、この作品は、様々な挿話が複雑に工夫されて挿められているのに、単調な感じがして仕方がないという感想を禁じえない」と言う。 まさにその通り。 僕がこんな超超大作を、こんなにあっという間に読めたのは、そのせいだったのか。彼の文章が読みやすいからと言う単純な答えではなかった。 つまり総括すれば第3巻は必要だったのか?ということになる。春樹らしくない「収束性」をもった物語にする必要があったのか?と言うことだ。 だがきっと、春樹には何らかの意図があったのだろうし、何らかの使命感を持ってこの小説を「簡潔」させたのだろう。 ただ、「この作家は現役の作家の中では、頭一つ抜いたなと感じた。」と、@・2部を読み終えた吉本が言ったように、村上春樹はやはり、それでも、偉大な作家であると感じざるをえない3部作であった。 | ||||
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