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スプートニクの恋人
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スプートニクの恋人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全132件 61~80 4/7ページ
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ぼく・すみれ・ミュウ。このメインの登場人物三人は、それぞれ孤独を抱えている。 ぼくはすみれのことが好きで、すみれはミュウのことが好きで、ミュウはすみれのことがちょっと好き。 でも、それぞれはすれ違い続ける。結びつけば楽なのに、孤独ではなくなるのに、くっつきそうでくっつかない。 何かが起きそうで起きない、終始、切なくもどかしい。 なのに、おもしろくてすらすら読めてしまう不思議な小説。 荒野の中に一人いるような誰からも孤絶した孤独ではなく、 友達はいるけど、孤独。セックスフレンドはいるけど、孤独。夫はいるけど、孤独。 この「軽い孤独」が現代にあっているのかな。 舞台のギリシアの描写もとてもいい。孤独だけど。 | ||||
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この物語に登場してくる人物は、主に僕とすみれ、そしてミュウだ。 アンバランスな人物ミュウの出現により、僕とすみれの運命は巡り出す。結果僕とすみれは成長し結ばれるのだが、ミュウは… 私は三人の中でミュウに一番自分を重ねてしまいました。 喪失や不全を抱えているために、自分にはこれ以上望むべくもない何か… ミュウという存在は僕とすみれを再び巡り会わせる為のトリガーに過ぎなかったのでしょうか。 とはいえ、若い男女がささやかだけれど真の絆を見つける事が出来たのだから、素敵な物語だとも思いました。 二人の絆の結合が地球を、ミュウがスプートニクを現しているのかな、と私は解釈しました。 「素直に生きる」というのは、なんて孤独で儚いのでしょう。 | ||||
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日本人離れした巧みな比喩とユーモアが全編を覆っている。どのページを無作為に開いても気の利いたセンテンスが必ずあって、これらは翻訳によってスポイルされることがないだろうから、村上春樹があらゆる言語で愛されている理由のひとつになっていると思う。 彼が大きな影響を受けたトルーマン・カポーティも比喩の巧みな作家だった。そして、本書に出てくる女性すみれは、カポーティの『ティファニーで朝食を』の主人公ホリー・ゴライトリーに少し似ている。ホリーが自分の名刺に「トラヴェリング(旅行中)」と刷っているように、すみれは家の留守電に「旅行中です」とメッセージを吹き込んでいる。すみれは同性のミュウを「スプートニクの恋人」と呼ぶ。スプートニクは英語で「トラヴェリング・コンパニオン」の意味。ふたりは文字通り、長い旅行に出かける。 ギリシャのある島の別荘で、引き上げるタイミングを計って「わたしとしてはいつまでもこうしていたいけれど」というミュウに、すみれが答える台詞が暗示的だ。「でも仕方ないわね。すてきなことはみんないつか終わるもの」 断定的なことをいうと熱烈な春樹ファンに怒られるかもしれないけれど、これは「トラヴェリング」の小説であり、トラヴェリングとは「揺らぎ」なのだと思う。ドッペルゲンガーやパラレルワールドの描写を幻想譚としてとらえることもできるが、僕は人間が持つみずみずしい(そして厄介な)揺らぎを描いているのだと読んだ。 物語の語り手である「ぼく」は、本や音楽を最良の友として、とりたてて寂しさも感じず、「人間というのは、結局のところ一人で生きていくしかないもの」と諦観していた。それが、すみれに会い、「ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった」。ここにも人生の「揺らぎ」、魂の「トラヴェリング」がある。 「ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ」。村上春樹を読む喜びと哀しみは、こうした比喩にこそある。 人生は何度でも揺らぐ。そのたびごとに、僕たちは出会いや別れを繰り返し、理解や共感や諦観や寂寥を味わう。決して同じところにはとどまれない。とどまりたければ、ひとつの夢を延々と見つづけるしかない。 「ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪(さんだつ)されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったく違った人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手をのばして定められた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として――場合によってはとても手際よく。そう考えるとぼくはひどくうつろな気持ちになった」。生きていくとは、そういうことなのかもしれない。 | ||||
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これ、一番完成度が高かった気がします。 てか、今がこれ? すごくよくわかるよ。 ある種の人間にとっては救いになる場面があります。ある映画で私も救われましたが、ああそういえばこの作品でも救われてた、と思い出しました。 出逢って良かった一品でした(^-^) | ||||
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この本の題名に、主人公とその想い人の名前を挙げるのではなく、第三者を使っている事がおもしろい。 でも、読んだ後に印象に残っているのは、あの奇妙なミュウのイタリアでの経験と、その後のミュウ。 彼女は、主人公とすみれが、社会を遠く感じているよりも、もっともっともっと遠くに感じているのではないかな?と思う事ができる。一番悲しいのはミュウ。 ミュウは、あっちの世界ととても近い所にいる。 かろうじて生の世界に残って繋がることのできた二人、主人公とすみれ。 すみれはミュウに惹かれた。ミュウが、その消えてしまった猫に惹かれるように。 主人公が、ギリシャの小島ですみれが小さな井戸に落ちて出られないのではないかと心配したように。 しかし、すみれは、生と死の世界をダイナミックに行き来して、結局主人公の前に姿を現す。 ミュウのストーリーがあれば、読みたい。 なぜ彼女はそうなったのか? とても不吉でした。 | ||||
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世界から一歩ひいた雰囲気のある二十代半ばの「ぼく」が物語の主人公だ。 彼が片思いしている「すみれ」とは、不思議な友人関係が続いている。 小説家を目指している突拍子ないすみれだったが、彼女が初めての恋に落ちたのは年上の女性だった。 すみれが想い人につけたスプートニクの恋人というあだ名が物語のキーワードになっている。 精神的な話と現実的な話の絶妙なミックスって村上作品の特徴のひとつだと思う。 特に今回は井の頭公園とか出てくる場所が自分の生活圏とかぶっているので余計に現実的に思えた。 だからこそ最初にこの物語を読んだときには、ストーリーの非現実的なところが気になってよくわからなかった。 しかししばらくたって読み直したとき、感覚が遊離しているような不思議な感覚があった。 自分という殻の中に確かに存在するひとつの世界を認識させられた。 それを誰かと共有できると思うことが幻想で、実際にはスプートニクのように何もない空間に浮いているかのようなものなのだろう。 入ってくるのは通信の断片でしかない。 そばにいると思っていても、たまたま軌道が交わっただけにすぎない。 空虚感なんだけど、ラストにそれだけじゃないものがあった気がする。 | ||||
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私の文章力では皆さんのようにうまく表現できませんが、村上作品の中で一番好きです。 ラストのすみれと主人公の会話のシーンがとてもせつなく、何度読んでも身体のどこかが震えます。 きっと死ぬまで何度も読み返すと思います。 | ||||
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高校生の頃に読んで以来、久しぶりに読んでみた 印象的な場面が多く、読んだ後に心に残る 前に読んだ時は、ミュウの観覧車の場面が印象的で、ドキドキして読んだのだか、あれから8年経って読んでみると、そういう非現実的な世界よりも、日常のエピソードの方が心にしみた 特に、担当の生徒が万引きをした後でその生徒、にんじん、に自分の子供だった頃の話をする場面で、ひとりごとの様に自分が感じている事を話し、にんじんが万引きした鍵を渡した場面が印象的で、何か(上手く言葉には出来ないのが、もどかしいのだが)を象徴している様な気がして心に残った もしかしたら、にんじんは、主人公が子供だった頃のもう一人の自分、今でも心のどこかには存在しているもう一人の自分、に重ねて話していたのかもしれないな、と思った。 そして、もう一人の自分も、今の自分の状況を、ある程度受け入れ、心を赦してくれたのなら、良いなと思った 多分、これからも何度も読み返して、その度に色々な事を考えたくなる作品だ | ||||
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前半の、僕とすみれの出会い、すみれとミュウの出会いでは、淡々とした始まりからすみれとミュウが親しくなるにつれて、僕とすみれとの関係がより深くなっていきます。そして、すみれとミュウが海外に出かけることで、新たな出会い、つまり、僕とミュウが出会うことで、話は大きく展開します。僕やすみれと同じ程度、あるいはそれ以上にミュウのことが全体の大きな割合を占めるようになることで、ストーリーはどんどん大きくなっていき、惹き込まれていきます。 3人の中で最もしっかりしていると思っていたミュウが、実は壊れていた人物であったり、すみれは心配していたけど、案外確り生きていたりと、ストーリーの意外性が興味を引きます。 でもでも、最後にミュウは死ななかったし、すみれも僕の所に戻ってきたのですが、本当にそうなのか、村上ワールドだから非常に気になります。最後にすみれが戻ってきたシーンでは、「あー、戻ってきて良かった」という感情は湧かず、「何故こういう結末にしたの?」という疑問で一杯になりました。 実は、僕がすみれがこちらの世界に戻ってきたと誤解をしていて、ミュウもすみれも既にいなくて、僕が『あちらの世界』に行ってしまって、その結果として、ミュウを見かけ、すみれと話したのではないかと考え込んでしまいます。それから、何故僕は先生である必要があったのだろうと疑問です。にんじんは今頃どうしているんだろうなぁ。僕のアドバイスで立ち直ったのだろうか。。。 | ||||
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1999年、私はこの本の発売日に、この本を購入し、そして、途中でやめました。 それはすみれが私と年が少し近く、私も精神的に大人ではなかったために、読むことが苦しくなってきました。 でも、ふと、昨日、本の整理をしていて、読んでみようと思ってページを開くと、あっという間に1日で読めてしまいました。 とても、ミステリアスな物語ではあるけれど、心に深く染み入る話しだったと思いました。 とても、面白く、深みがあり、やさしくて、かなしくて、弱くて、そして強い、そういう生きていく手がかりになるような物語だったような気がします。 あの、買った日に、読んでおけばよかったなぁとおもいました。 | ||||
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途中、退屈に思いました。すみれの文章の辺りです。しかし、その後、一気に盛り上がり、読後感は非常に心地良いです。世界の一人一人の人生がより大切に感じられました。それぞれの人間関係がかけがえのないものだと感じさせてくれました。途中の退屈ささえも”人生の中には退屈な面もあるけど、それもひっくるめて全て大切だ”と思わせてくれました。終わり方も好きです。自分にとっては、最高のハッピーエンドだと感じました。村上春樹さんの作品群は、他の方々とは違うものを感じさせてくれます。奇をてらうのではなく、ショッキングな事が起こるのでもなく、技巧だけに走るのでもなく、さりげなく、人生の深さを感じさせてくれていると思います。これからも読んでいきます。 | ||||
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村上春樹さんは、2010年もノーベル賞受賞できませんでしたね。もはや、「受賞するかしないか」ではなく「いつ受賞するのか」というレベルで語られるほど作家としてあまりにも有名すぎるため、辛口の批評も多くなりがちです。でも、この作品は村上春樹作品のなかでは、どちらかというと万人受けしやすいストーリーとラストなのでは。明示されてはいないけれど、「救い」を感じさせる終わり方だと思いました。 | ||||
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気になるのはすみれの所在/不在だ。責任ある回答は次のようなものであろうか。 'すみれは海岸で猫を追っていくうちに、係留されている漁船の船倉に閉じ込められてしまう。漁船は出港してしまう。帰ってきたのは数ヵ月後だった。 'すみれは海岸で瀕死の老婆に出会う。世話を焼いているうちに老婆の家族の住む大きな家から離れることが出来ずに数ヶ月を過ごしてしまう。 | ||||
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なんだこれは。結局何が何だか全然分からないのに、わかった気になる。恋愛の感情の動きを象徴的に描くとこうなるのかなー二つの世界、別の世界という表現が印象的でした。淡々と、静かに、でも力強く物語は進んでいく。さらさらとページは進み、なんだかよくわからないうちに終わるけど、いい余韻が残る。「国境の南、太陽の西」に似ている。欲望をデフォルメして、そのままありのまま書いている。というより、村上春樹の作品は全部こんな感じなのか。わけわからないが、満足感はそこそこある。 | ||||
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1999年にリリースされた本書は、ムラカミ・ハルキ作品の中にあって、完成度の高い小説としてきわめて重要な位置を占めると思う。ラブ・ストーリであり、ミステリーであり、スリラーであり、不倫小説でもあるという、いつもながらの読者フレンドリーなムラカミ小説のこと、幾通りにも読める。 タイトルには、びっくりしたなあ、もう。青山南の新訳がチョイ前に出た不良ナンパ小説「オン・ザ・ロード」の作者ケルアック。かれが、ビートニク作家であるということと、ソ連の最初の人工衛星スプートニクとを語呂合わせ気味に取り違えたミュウのああ、勘違い。 ヒロインが突如蒸発してしまうのは、「国境の南、太陽の西」のイズミ、「1Q84」のふかえりに通じるところであり、いまや、ムラカミ作品の定番手法! | ||||
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最初、物語がごちゃごちゃしていて「最後まで読めるかな?!」という不安があったんですが最後にはすっきり。ひきこまれました。 | ||||
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村上春樹さんの作品を初めて読みました。色々勉強させていただきました。ペダンティックで性欲の強い作家だと友人から聞いていましたが、僕は表現が豊かで知識を増やしてくれる作家さんだと思います。スプートニク号であったり観覧車のような円を運命に例える作品はほかにもある。でも、ロシア語で旅連れを意味するスプートニク使うあたりはさすがだと思いました。 | ||||
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最初読んだ時は、好きではありませんでした。 しかしタイトルと表紙の絵が好きだったからか、何度か読み返していくうちに段々と良さが分かった気がします。 なぜだろうと考えてみても、はっきりとした答えが浮かばないのですが、そういう曖昧な領域こそがこの小説の魅力ではないかなとも思います。 本文中に、「理解とは常に誤解の総体にすぎない」という言葉があります。その言葉の意味に注意しながら読んでいくと違った世界観が感じられると思います。それはミュウが閉じ込めれていた世界であったり、すみれが入っていってしまった世界だったり、また読者がいつの間にか迷い込んでしまった世界だったり・・・・。 | ||||
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「僕」が帰ってきたとか、そんなことはどうでも良いです。 年齢も性別も超えて、ただ純粋に恋に落ちて、誰かに死ぬほど恋焦がれるなんて、 ロマンチックじゃないですか。 すみれみたいな理屈も保身もない恋、 一度でいいからしてみたいものです。 | ||||
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当初、単行本で発売当時(10年くらい前)に読み、同著者の「ダンスダンスダンス」や「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に比べてあまりよい作品とは思えなかった。物語のカタルシスがなく、単調なストーリーに思えた。 今回、文庫本で再読すると、自分に変化があったのか、前回のような印象はまったくなかった!村上春樹の文章そのものが魅力的で、『気の毒なお月様が使い古しの腎臓みたいにぽこっと浮かんでいる」や「くだらない冗談を燃料にして走る車が発明されたら、あなたはずいぶん遠くまで行けるわよね」といったフレーズにあたると、目を閉じて、ゆっくりその言葉を味わって楽しめた。 スプートニクという人工衛星からイメージする無重力の広大な宇宙空間で絶対的な孤独と、大切なものを失う喪失感、それらにすべて許容して生きていかなければならない悲しさと勇気が与えられるような小説だった。 | ||||
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