■スポンサードリンク
ノルウェイの森
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
ノルウェイの森の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全558件 241~260 13/28ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
実は村上春樹作品に手を出したことがなかったんですが、映画化を期に読んでみました。なんというか、あたたかくて儚い。比較的読みやすい作品だと思うので、普段あまり本を読まれない方でも楽しめるかもしれません。なんで?て感じる部分は、何度かありました。だからこそいいと思います。主人公をはじめ、直子も緑もみんなノルウェイの森という作品の中で生きています。村上春樹にゾクッとさせられた一冊でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
普段はまんがばかり読んで居ます。 まんがの中の恋物語が日常的なモノだと感じ取って居ました。今回映画化され注目を集めた事もあって興味本位で買いました。レビューでは途中で止めた、等の酷評もありますが、私は逆に上巻の途中から一気に吸い込まれる様に読んで気が付いたら読み終わって居ました。生(性)と死を取り上げた純愛物語。 酷評された方は何が厭だったのか? 精神的病いや性的描写が理解出来なかったのでしょうか。 私自身、鬱病で通院してます。なので読んで違和感はありませんでした。 セックスだって世界中の誰にも当て嵌まる行為です。この作品にはその描写が美しく表現されていて厭味が無くて本当に純粋な作品だと感じました。 何度も読み返したい。映画は未だ観ていません。 いつか映画の方も観て、原作との違いを確かめてみたいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
映画化されるということで読んでみました。私は好きです。人間の冷たい心と温かい心が丁寧に丁寧に描かれていると思いました。特に印象に残っているのは、直子の姉が自殺したことに対して父親が言った「家系なのかな」という言葉。冷たすぎて泣けました。私にとっては、「心」に何が必要なのかを考えさせてくれる本でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
60年代の恋愛小説です。映画を見ました。良い映画でした。映画を見終わった後に、ビートルズのCD (ラバーソウル)を買いました。村上春樹は、なぜ、この歌を小説のタイトルにしたのだろう?この小説で何を伝えたかったのだろう?愛に哀しみはつきものだろうか?恋愛するのは人間だけだろうか?いろいろと考えたくなる小説でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この人はある意味、「本能的」な作家ではないかと私は思う。理屈は語るけれど、どうも頭で理屈を考えながら文章を書いている感じではない。自分がどうしてこんな文章を書いたかわからない、というような不思議な体験はよくあるが、村上小説にはそういう矛盾のようなものがところどころに感じられる。なんだかよくわからないけれど、理屈では触れられるはずのない「何か」に間違えて触れてしまうような感じである。だから、そこに形のあるもの(はっきりとした「言葉」とか、自分の理解の範疇におさまりきるスケールのもの)を見出そうとする読み手には、「何も見つからなくて腹が立つ」というような反応をひき起こすのではないかと思う。よい小説というのは、読み手ひとりひとりに対して違う「効果」を及ぼすものだと私は思う。それは言うなれば、読み手自身の人間的な「深さ」や「世界観」の反映である。(小説が一方的に「深さ」や「世界観」を提供してくれると考える人は、おそらくテレビの観すぎだと思う。)そしておそらく、日本人にしか響かない「日本文学」と、いろんな国の人々に(なぜか)響いているという「村上文学」との違いも、そこにあるのではないかと私は思っている。日本人にしか響かない、ということは、日本人には理解できて他の国の人には理解できない「スケール」に収まっているということだと思う。思考の「枠組み」そのものが、知らず知らずのうちにローカルなカラーに染まっているのだ。それとは逆に、いろんな国の人々に「響く」ということは、そこに我々が普段それと気づかずに採用している「日本人的枠組み」を超えた何かを表現できているということに(理論上)なる。世界には「自分の知らない何か」があるかもしれないと思える人にしか、そういうものを感じとることはできない。(それはたとえば、他人にものを教わることができるかどうか、というようなことと重なる部分が多い。)「自分がいま理解しているもの」が「世界のすべて」だと思っている読み手に見えるのは、ただの空虚な言葉の羅列と、自分自身の世界観の貧困さだけである。というわけで、私はここにあるレビューを見て、村上文学がどうやら「本物」ではないかなという印象を持ちました(笑) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本を読んだのがいつだったか覚えていないが、確か一連の「羊」作品の後だったように思う。他作品に比べてテーマが恋愛に特化されたのか「純愛小説」と銘打たれたこの作品には正直少々物足りない思いをした記憶があるが、自分なりの問題意識を持って読めば必ず共通のテーマが見えてくるあたりはやはり村上作品だなあという印象が残っている。ぽっかりと空いた心の空洞、喪失感、ふらふらと誘い込まれるようなダンスステップで森の暗闇に迷いこむ感覚。暗闇の連鎖反応。喪失感のロンド。何故何年も前に読んだこの作品のレビューを書く気になったのかというと、このほど映画化されたからではなく、友人が自殺したからだ。頭の中でこのところ、ビートルズの「ノルウェーの森」がリピート状態になっている。(「羊」シリーズやノルウェーの森などこの頃の村上作品での共通の設定として、主人公の友人の自殺というのがある)自分の想像だが村上春樹の小説の起点はここから始まっているのではと感じる。「死」や「暗闇」が、例えば「ダンス・ダンス・ダンス」では古く懐かしい過ぎ去った人や物、彼らのいる「壁」に優しく吸収されはまり込むと抜け出せないような比喩で表わされ、「ノルウェーの森」では「森」という暗喩になっている。「ダンス〜」より若い頃に「ノルウェー〜」が描かれていたのだと思うが、「死」に対する茫漠とした不安が「ダンス〜」ではやや具体的に、そしてより親しみ易い世界になっている。この暗闇への思いを、恋愛という状況に当てはめればこうなる、というのが自分なりに考えた「ノルウェーの森」成立過程だと思った。「喪失感」=「死」ではないが、ある種の弱さを共有した者を亡くす体験が足元を崩されるように引きずり込まれてしまう感覚は、経験したものでないとわからない。そしてこの作品でも、それを乗り越えて「生きる」「再生する」ということは痛い。恋愛状態においてはセックス描写にも「生」と「死」の違いを描き分けていたように思うが、自分なりの解釈でいえば「自分のため」の行為か否かの差のように感じた。評価・好き嫌いの分かれる村上作品だが、サリンジャーやレイモンド・カーヴァーなど寧ろアメリカ現代作家との比較で語られるとそのアウトラインが見えてくるのではないだろうか。最近の村上作品は未読だが、「あり得ない」と言われていた映画化でこの感触は見いだせるのだろうか。 ちなみに、ビートルズの「ノルウェーの森」は、歌詞の前後関係からどうやら「ノルウェー製の家具」とかいった意味の方が正しいそうです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹モノはほぼ完読しているほどのハルキストです。まぁ色々な方が厳しい意見を述べていますが、やはり彼は単純に面白い。そして非常に文章が巧い!これだけは言えますね。そして飲んだあとのラーメンのようにスルスルと入ってしまう独特の世界観、これはまさに文学と言うよりは「大人の童話」なんですね。メルヘンを忘れてしまった現代のお父さんたちに、ぜひ読んでもらいたい。しかし……驚いたのは、放送禁止用語である「女性器の名称」をそのまま伏せ字なしで載せている小説だったなんて、みなさんご存じでした?どんな場面に出てくるのか、それを楽しみに読むだけでも価値があったりして? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
僕はビートルズのファンなのですが、題名にひかれてこの作品を読みました。僕は中一なのですが、性描写が多い小説なので、「こういう本か」と思いながら読んでいたのですが、20ページほど読んだとこで、そういう感情など頭のどこにもありませんでした。僕が考えていた恋と、この作品に描かれていた恋はまったくの別物で、人を愛する難しさなどが、恋愛無経験の僕にとても強い影響を与えてくれた作品だと、僕は思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昨日映画をみたのですが、なぜこんなに長く映画化(の話もたくさんあったであろうに)されず、20年もたってこのような不完全なかたちで映画化されるのかと疑問ですが、大方の予想通りでした。 この人の小説の魅力は、その軽快なエスプリのきいた会話の妙に多分にあるとおもうのですが、映画のではまったくそれが生かされておらず、(というよりも、会話量がすくなすぎるため、それぞれの登場人物の人となりが十分につたえられないまま上滑りに話がすすんでいく)原作の面白さがまったくでていない。(もしかして、外国人監督だから、日本語で理解もしくは日本語版で熟読してないのでは????)しいて言うなら、松山ケンイチさんにニュートラルなたたずまいがあるので、60−70年代背景の作品の中でも自然な感じがでてました。そのほかは、多分、すべてミスキャスト。(女優さんがわるいというのでなく、(女優陣はそれぞれに魅力的なんですが、)脚本と演出と人選の悪さ。) 一番のミスキャストはレイコさん、その次ミドリ その次直子、ハツミさん。 レイコさんは外見はもっとボーイッシュで、人生の哀感を軽いジョークで流すような、痛々しさのあるもっとも魅力的な登場人物だと思うんですが、キャステイングされた女優さんはなんだか女性っぽすぎて、そういう、笑顔の下にある乾いた哀愁が感じられない。ミドリはもっと現実的でジーンセバーグのような雰囲気の、軽快さのある生き生きとしたイメージで、この点が、この小説の中で、直子の非現実的な静的な美しさのある陰の世界と、ミドリの現実に根を張った動的な魅力の間で主人公が行き来するという対比をなしていると思うのですが、映画ではそのメリハリがでてない。 永沢さんは(ちょっと年齢はちがうが、)イメージとしては佐藤浩市さんっぽいもっと骨太な凄みのある感じで、やはりナメクジのエピソードははずしてはいけなかったと思う。なにより、療養所で3人がもつ、「親密であたたかな」心のつながりを描かなくてはこの話の意味そのものが描けない。また、僕と直子が誕生日を祝った夜に直子が延々と異常なまでにしゃべってぷっつりと糸が切れたようになったところとか、僕とレイコさんが二人で歌って直子の弔いをしたシーンを省いては、そのあとにつながる、関係をもつことの意味が説明できない。 もし原作を読んでない方は、原作は読んで、映画は見ない、もしくは少なくとも映画を先に見ないことをお勧めします・・・・。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
1Q84で初めて村上春樹さんの作品を読みました。それまで、松本清張さん、宮部みゆきさん、堂場瞬一さんらの作品を多く読んでいました。村上春樹さんの作品は”すかした純文学”というイメージで食わず嫌いでした。読後の感想は”深さのある現代の純文学”でした。”純文学”と思ったのは夏目漱石さんの作品と共通するものを感じたからです。”現代の”と感じたのは、夏目漱石さんの作品よりも身近に感じたからです。”深さ”を感じたのは、自分自身の事を振り返って考えさせられたからです。登場人物たちに、共感出来る部分と共感出来ない部分はありましたが、「生きていくって大変だ」と思いながら、楽しく最初から最後まで読みました。1Q84のレビューで「性描写が不適切」という感想を複数見ました。この作品にもそういう点があると思いました。しかし、「不可避な性から逃げていない」と感じられ、その点についても私は好感をもっています。他の作品も読んでいきます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
評価が1か5が多くを占めるのが興味深いです。評価が低い人は、文学とはみたいな堅苦しさに囚われている気がします。ビートルズやビーチボーイズがお洒落な言葉か、セックスの描写は必要なのか?読み手のコンプレックスに感じます。ビートルズやビーチボーイズはお洒落な人じゃなくても聴きます。パスタくらい家で作って食べます。誰かの事を笑います。そして村上春樹が過去に書いているように「人はほっといても人と寝ます」それらはただの日常です。生活です。そして、「死もその一部」なのです。ただの人間です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ずっとベストセラーを続けていたので、気になり読みました。じわじわと私の心に滲み込んでくる不思議な感覚が忘れられません。この感覚は、他の村上作品でも感じられる独特な「感触」とでもいうか・・・小説を読まなくなった多忙な現役世代におすすめします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この小説が大流行したのは学生の時だ。読もうかどうしようか迷ったが、友人が「エッチなシーンばかり多くて気持ち悪い小説だ」と言ったので読むのをやめた。ベストセラーへの反発もあった。それから、20年近くを経て、今初めて読んだ。読んでよかったと思った。とはいえ学生時代によんでいなくてよかった、あのころなら、なんてふしだらな人たちばかりの小説だと呆れていただろう。登場人物たちの行動は、あまり納得できるものではないし、私から見て、理解に苦しむ行動を繰り返している。正直言って、親しく付き合いたいような人間は出てこない。あまりお近づきになりたくないと思う人の方が多い。だが、それぞれの人物の感性、ものの見方、人生への向き合い方のようなものは、たとえ突飛ではあっても一貫性があり、よって、描かれている人物像はすべて、強烈な輪郭を持っている。後半を読み終えた後で書いているので、前半のみの感想をあえて書くのは難しいが、「直子」の感性は一生かかっても理解できないだろうと思った。そして、「緑」のたくましさに魅かれた。同級生に「緑」がいても、友達になれるとは思わないが、いろいろな大変さのなかで自分を貫き、家族との不和を抱えながらも地に足をつけて生きている。それから脇役ではあるが、地図を愛する「突撃隊」くんに共感を覚えた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹という作家はまるで大人の為の絵本作家のようだ。どの作品も叙情的で、人が年を重ねる毎に得る当り前の感受性を表現している。とりわけ、この「ノルウェイの森」の上巻は、片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれるまで、日本小説単行本の発行部数トップであった。圧倒的な喪失を秘めたこの作品は手にしているだけで自分が失くす喪失を埋めてくれる、だから人はこぞってこの作品を手にした。僕が初めてこの作品を読んだは十代の頃、それ以来、二十代、三十代になった今読み返しても喪失の物語は筆者に主人公同様の喪失感を感化される、恋人と離れ、恋人を亡くす事、村上春樹自身もこの作品を友人の死を知らされた飛行機の中で執筆を始めた。本人が後の執筆物の中で「結果として書かれるべくして書かれた小説」と書いている通り、この作品の持つ圧倒的な喪失感は万人に通じる価値観として今の時代にも通じるものである。 僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べなかった。料理を作ってるとね、作ってるだけでもうおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。食事が終ると彼女は食器をかたづけ、テーブルの上を拭き、どこかからかマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。「花瓶に移さなくていいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずグラスにさしてあるっていう感じがするもの」「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。緑はくすくす笑った。「あなたって本当に変わってるわね。冗談なんか言わないって顔して冗談言うんだもの」緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にきゅっとこすりつけるようにして消した。けむりが目に入ったらしく指で目をこすっていた。「女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。「それじゃ木樵女みたいだ。無理に消そうと思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくんだ。そうすればそんなにくしゃくしゃにならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。それからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事しているときに三カ月一枚のブラジャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女の子は」「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきをかきながら言った。「どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある?」「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」「いいのよ、べつに。どうせ何吸ったって同じくらいまずいんだもの」と彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハード・パッケージをくるくるとまわした。「先月吸いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみようかなと思ってね、ふと」「どうしてそう思ったの?」緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考えていた。「どうしてもよ。ワタナベ君は吸わないの?」「六月にやめたんだ」「どうしてやめたの?」「面倒くさかったからだよ。夜中に煙草がきれたときの辛さとか。そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」「まあそうかもしれないな」と僕は言った。「たぶんそのせいで人にあまり好かれないだろうね。昔からそうだな」「それはね、あなたが人に好かれなくたってかまわないと思っているように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」」と彼女は頬杖をつきながらもそもそした声で言った。「でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。「何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」 そこで2010年ついに映像化されることになった「ノルウェイの森」映画化までの経緯は相当な苦労があったが、誰しもが、この作品の登場人物を演じる俳優のイメージが違うと思う、しかし先日、TBS系列で放送された「情熱大陸」で緑役を演じる、モデルの水原希子の500日を追っていたが、小林緑という、作中、僕、直子、キズキの関係性とは別にワタナベに寄り添う緑の活発で気まぐれな性格を、演技経験のない水原希子は見事に具体化していると感じた。ワタナベと緑のやり取りで好きな本文引用部。緑はまるで1789年に起きたフランス革命でレジスタンス達が吸っていた「ゴロワーズ」のようにマルボロを吸う。僕が映画化で期待することは緑の煙草の吸い方だ、僕が監督なら「17歳のカルテ」のウィノナ・ライダーのように煙草を吸わせる。モデルというフィルターを通し、緑を遊ばせた、水原希子の起用は映画を観る前から的を得ていると感じた。映画化に合わせ本作を読む人は、筆者のようにフェチズム的な観点から原作と映画の違いを観る事を薦める。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
何年か前にこの本を読んだことがありましたが、その内容をすっかり忘れていました。 最近マスコミで著者の名前を何回か耳にしたので、その代表作をもう一度読んでみることにしました。 改めて、文章の巧みさ、読み応えさと言うものに、感動しました。 登場人物は、大学生が中心ですので、特別な境遇の人間では、ありません。我々の近くにいる人かもしれません。でも、それぞれの登場人物の、物の考え方は、非常に深いものがあります。 きっと、著者は、自身の考えを、いろいろな登場人物に言わせているのだな〜と思いました。 私の勝手な見方で、あたりまえなことですが、著者は、鋭い観察力と、考察力を持ってみえるのでしょうね。それらを作品を通して、知ることができ、味わえるのは、素晴らしい経験でした。 ただ、一つだけ気になるのは、では、著者は、この作品を通して、我々に何を訴えているのかと言う点です。著者の訴えが今一つ心に残らなかった私ですが、それは、きっとまだ私自身が著者の作品を読みこんでいないせいなのでしょうね。別の作品も読んでみたいと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
わたしは高校生の17才のときにノルウェイの森を図書室で借りて読みました。我が強く、将来を展望していたあの頃。人に流されたくなかった、人に感情移入したくなかったので本は久しく読んでなかったのですが、赤と緑の装丁に目が止まり、久々に「読書」しました。あまりにも斬新で新鮮な描写でした。そして無機質で流されるままの主人公。すごいもの読んだ!と読んだあと余韻があったのは久しぶりでした。10代でこの本に出会えたわたしは幸せです。ぜひ若い皆さん読んでください。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
15年前、白くて柔らかい、哀しさが美しい小説だという印象でした。しかし大人になり読み返すと、こんなにグロイ性描写だったっけ?と。あの頃の憂鬱は本当は輝きだった?小説よりリアルに哀しい気持ちになりつつ、読み返す度に変化し、成長というか退化している自分と出会うのでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この小説は1987年に刊行されたと記されていますので、既に20年以上の風雪に耐えてきたわけですが、依然としてヒヤリとするような瑞々しさを保持しています。村上氏の作品について、文体のことが良く指摘されます。伝統的な日本文学とはいささか異なる翻訳調で、フィッツジェラルドやサリンジャーなどアメリカ文学を彷彿させます。この文体によるパッケージが鮮度を保っている重要な要素ではないかと思っています。ベタな表現ですが、冒頭の書き出しによって、読み始めるとビートルズの「ノルウェイの森」が聞こえてきます。本を開いている間、頭の中で鳴ってしまいます。村上氏は必ずしもこのタイトルが気に入ったものではないそうですが、これほど印象を決定付けているタイトルも珍しいのではないかと感じています。資本経済社会の規格の中に押し込められた若者達の青春像という捉え方をしています。他人にも自分にも距離を感じ、自分がしていることさえリアルに感じられない感覚。自己を客観的に観察し、すべての行動に理由付けをしてしまう自由な世界に生きる不自由さ。村上氏の文学が描くのは、現代に生きている人々のある種共通の感性ではないか、と思い始めています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
死んだ人は、生きている人の中で生きていて、生きている人の生き方を動かす力があるようで無いようで、じゃあ、生きている人は自分としてどこで生きているんだろう?、と「何のために生きているんだろう?」と考えさせられる読後感です。ワタナベ君の20歳前後の日常の生活が淡々と進んでいって、終りが無いように終わってしまう話なのに、自分の気持ちの中にドンドン入り込んでくる不思議な感じがしました。別の感想としては、登場人物は全て、ちょっと普通じゃない人ばかりというが、世間ずれしているというか、少なくとも私の周りに大勢いるギラギラした人達とは別世界にいる人たちとの印象でした。普通世の中には、永沢君のように考える人がごく一般的なのになあ(頭が良いということは除いて)と、強く思いましたが、もしかしたら私のいる世界が違うのかなとも思ってしまいました。それから、笑えるところが沢山あったのが、とても意外でした。突撃隊のラジオ体操についてのコメントだとか、緑の「生理ナプキン燃やしている」発言などで、読みながら声を出して笑ってしまいました。みなさん、村上春樹って笑えるんです。。。この状況で何で性描写のシーンが出てこなければいけないのかなど、「意味わからん」というところも多いのですが、小説としては満点ですね。最後に、一番印象に残ったところは、緑が言っていた「苺のショートケーキ」に関する言葉です。ワタナベ君は「君みたいな考え方をする女の子に会ったのは初めてだな」って言いましたが、私は、女性って、そういうところがあるよなあと、ひたすら感心してしまったのでした。緑が何と言ったか気になる人は、是非この本を読んでみて下さい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今年の冬に映画化されるということで、手にとってみました。村上春樹の作品は不思議な世界観があり、読者の中でも好きか嫌いかがはっきりと分かれることが多いと思います。この作品は他の作品に比べ、読みやすいように感じました。特に驚きのある話の展開というわけでもないのですが、主人公やその周りの登場人物の心情やその変化が共感出来ない部分はあっても不思議と魅了されて読み終えるまで止まる事がありませんでした。上巻を読んだあとには、下巻をすぐに読みたくなるくらいでした。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!