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悪魔の手毬唄
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【この小説が収録されている参考書籍】
悪魔の手毬唄の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.29pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全68件 41~60 3/4ページ
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今から30年ほど前に初めて読んだときは、長編を読み切った達成感で、内容についてあまり理解していなかった。 あれから、久しぶりに読んでみると随所に伏線やミスリードの箇所が丁寧に書かれている。 犯人や手毬唄にはやや大掛かりな感はするが、熟練された横溝正史の技量が存分に味わえる。 見事!な作品。 また、しばらくしたら読んでみたい。 | ||||
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昭和の戦後の田舎の空気を味わえる 横溝正史はは本当に文章が上手で、彼の作品は繰り返し読んでしまう | ||||
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つのだじろう氏の作画なので、恐怖新聞のイメージが強いです。 原作では昭和30年の事件ですが、本作では昭和50年の事になっており、金田一も上下揃いの丸眼鏡口髭と原作のイメージはありません。 昭和50年と云えば、丁度日本全体でオカルトブームだった頃ですが、その所為か泰子・文子・千恵子の狙われた3人組がトップレスの衣装で歌を歌うアイドルグループになってたり、犯人を問い詰めるのにイタコの力を借りるとか警察巻き込んでやるし、今の時代で読むと却って笑える展開になってます。 しかし、私は原作重視なので星3つです。 | ||||
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映像作品よりも原作の方が数倍面白いというのは定番ですが、こちらもしかり!物語の深さや複線、映像作品では大幅にカットされた磯川警部の心情描写等、練りに練った傑作です。 レビューを書いてはいるものの、実は読み終えてはいないのです。 読み終えることが辛い作品は本当に久方ぶりです。 確か映像作品では、何故手毬歌を使った見立て殺人にしたのかという説明はされていなかったと記憶していますが、原作ではおそらく解明されるのでしょうね。 続きが気になって大雑把に読んで、再読と言う手もあるけれど、この作品はそれをするのが勿体なくてできません。 | ||||
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どこかホンワカ、フンワリした雰囲気が、実は金田一耕助ものの魅力。 市川崑監督作品以外の、オドロオドロしさを強調する映像作品とはかなり違うんですよね。 金田一も神の如き明察の名探偵ではなく、言わば進行役と最後の説明役。 読者と大きな違いもなく、モタモタするところに共感が持てる。 金田一ものが長く長く読み継がれているのも、この同位同質性のためだと思う。 「獄門島」と同じ趣向の見立て殺人。 「獄門島」よりは納得できるストーリーになっていると思いますね、私は。 もちろん「獄門島」も名作ですが。 | ||||
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金田一が主役の大長編です。大長編だけなら「病院坂」(都会)「悪霊島」(田舎)もありますが、昭和三十年の岡山という金田一らしい舞台にしたというと本作は白眉でしょう。 「八つ墓村」があるとはいえ、あそこの金田一は脇役です。 本作は未解決事件がある村に金田一が訪れて、やおら犯罪計画がスタートするという作りになっています。 映画やドラマで有名な「仙人峠」の場面は犯罪計画が整った、いわばスタートの合図に等しいものです。 おりん婆さんが死んでいると聞かされてから鬼首村に取って返す金田一は既に犯人によって「鬼首村物語」の一つの駒にされています。 「獄門島」や「本陣」のような本格的なトリック小説ではありませんし、冒険ロマンとしてもロマンスとしても「八つ墓村」に劣ります。 それでも本作を推す人が多いのは、本作が「失われた恋の物語」だからではないでしょうか。 愛を得る「八つ墓村」の満足感よりも、深い喪失感を味わえる本作に軍配を上げたくなるのは、何故なのでしょう。 | ||||
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期待通り! めちゃくちゃ面白い作品です! 他の作品もオススメです。 | ||||
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金田一耕助の本は初めて読みましたが、活字でも迫力満点、読み応えたっぷりでした。 はじめ登場人物がたくさんで、少し混乱しましたが、前に戻りながらも、引き込まれてしまって、あっという間に読み終わりました。 私は、東京都出身で田舎と言うものがないので、地方の風習、文化に馴染みはないのですが、そういう物を色々考えると、妄想が尽きないですね。今でも、私達の知りえないところで、何か恐ろしい事が起こっていたりするのでしょうか? 方言もなかなか良かったです。『・・・つかわさい。』が耳に残ります。 この話しは美男美女がたくさん出てくるので、最近の俳優で映像化したら絶対見ちゃう。文章だけで、こんなに気味の悪い世界を作り出せるなんて、横溝正史、流石です! | ||||
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おどろおどろしいあの雰囲気をしっかり描写してらっしゃいますね。お見事です。 手毬唄ファンなら損しませんよ。どうぞ買ってらっしゃって | ||||
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昭和32年8月から34年1月にかけて推理小説雑誌『宝石』に連載された、作者最後の 傑作とも云われる。県境の山間にある鬼首村で、古くから村に伝わる手毬唄の通りに 次々と村の娘が異様な構図を取らされて殺害されていく。偶然(偶然にすぎるが・・・)、 村に居合わせた金田一耕助は、23年前の未解決殺人との関連を探るうちに、重大な 真相にたどりつく。ホラー要素の散りばめられた横溝作品らしさ満載の本格推理もの。 怪しげな謎の詐欺師、因縁めいた旧家、赤痣の少女、正体不明の老婆、そして曰く ありげな手毬唄・・・いかにも横溝ドラマの世界だが、実際に映画やドラマになっている。 この時代の因習や閉鎖的な空気感が物語を覆っていて、陰鬱さを伴う恐怖感が演出 されている。横溝作品を読むのは久しぶりなので、すっかり忘れていたが、金田一は 推理を小出しにしない。そのため最後は畳み掛けるように真実が明らかになるので、 持続された緊張感からの落差が大きく感じる。なお推理には村の地理の知識が必要 だが、文章による説明だけだと把握しにくい。地図を添付したほうがより妙味も増した はずである。さらに登場人物が多く、関係が複雑を極めているから誰がどうだったか 分からなくなる。人物一覧もつけたほうが整理がつき、理解がスムースになるだろう。 | ||||
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色々な出来事が起きるが、最後の30ページくらいで、バラバラだった出来事が一気に一本の線に繋がった。横溝先生、さすがです。 人にはそれぞれコンプレックスがあり、それが色々な事に影響しているんですね。自分で意識していなくても、それが自分の生活や性格に大きな影響を及ぼしている。そんなことを、改めて実感させられる一冊でした。 | ||||
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昭和52年に犬神家の一族を筆頭に横溝正史の大ブームが起こった。この漫画はその当時に発刊され“「恐怖新聞」の”つのだじろうの筆によるものだったからホラー漫画として取り扱われたのではないかと思う。 原作を昭和50年代後半に移して鬼首(おにこうべ)村出身の3人の娘が(何とトップレスの!)オカルトポップスグループとして故郷に凱旋して、あとは原作をご存知の方は察してられる通りの事件が起こるわけである。意外にも横溝正史の描く詩情あふれる日本の原風景はそのまま損なわれることなく描かれている。 星五つとしたが実は重要な欠点がひとつある。恐怖である。 オカルトソングを歌うという設定がある。もちろん横溝作品の恐ろしさを漫画で表現する上で工夫をした結果と思うが、大人からすれば横溝作品のほうが怖い。その理由が難しいのだけれども。殺人が起こる蓋然性に起因するのかなあ。残忍さは原作以上だけれども大人に伝わる怖さがないのは残念。 解説の二階堂黎人氏は1959年東京生まれということで本作が出版されたころは中学生だろうか。きちんとつのだじろうの解説をされています。 | ||||
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『サンショウウオが○○に効く』なんて、作中ではそんな事は書いてない。 あれは市川崑監督の映画の中で言っていることで、作中では『○○がつく』と書いてある。 もちろんどちらも何の根拠もない俗説ですが、映画がヒットしたお蔭でそう信じている人が沢山いるらしい。 | ||||
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市川崑監督で製作された映画のイメージから、犯人の悲劇性が印象深いようですが、実際には、原作はずいぶん説明不足のところがあって(きちんと説明するとすぐに犯人がバレるからだと横溝さん自信が言い訳してます)、映画がそれをカバーしてますね。 本作の売りになってる見立て殺人にしても、獄門島や犬神家の一族に比べると必然性、つまり、何故犯人がそんなことをわざわざしたか、それをすることによって犯人に何らかの利益があったか、には無理があります。それどころか、犯人が無理に見立てにこだわったために致命的なエラーをしてしまい、かなり早い段階で金田一さんに見抜かれてしまってます。だから、この作品の肝は見立て殺人ではなく、20年前の殺人事件の真相の方にあると思います。それがわからなかったからこそ、金田一さんも犯人を見抜いていたにもかかわらず警察にそれを指摘できなかったので(ちょっと苦しいかな?)。 もう一つ、私が本作を評価しているのは、私が初めて読んだ横溝作品というからだけでなく、登場人物のキャラクターについてかなり細かい点まできちんと書いている点に好感が持てるからです。それこそ、絶対この人は犯人ではあり得ないというくらいの脇役まで、どういう人物かということをわざわざ筆をさいて説明してます(本多先生の息子の嫁さんとか)。その割には、磯川警部があの女性を愛していたというのを私は最後までわかりませんでしたけど。 というわけで、この作品はどこに評価点を見出すかで傑作か凡作かが決まります。人により、評価が分かれるとしたらそれが理由でしょうね。 | ||||
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見立て殺人という、「無理」を「合理」にするのにさまざまな推理作家が試みて、多くは失敗している。 その中で、この作品は珍しく成功の部類に入れてよいと思う。 結末まで続く気味の悪さは格別だが、最後はホロッとさせられるような落ちとなる。 まとめかたも良いと思う | ||||
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初めて読む横溝正史の作品。 これまで、(少し前の)日本人作家のミステリを読むことは、敢えて避けてきたが、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』での巻末の解説に名前があったので、試しに読んでみた。表現や、細部でのやや荒っぽい所(つまり、最近の作品のようなある意味での神経質さは感じられない)など、そういった所はどうしてもめにつく所はある。ただ、そういった枝葉について気にしなければ、物語としては、文句無しで面白いと思う。こういった以上とも言える世界を作り、その中で展開していく物語、というパターンは今もよく見られる。その意味で、この作品は、現在でも十分に通じるものを持っていると思う。 個人的な好みをいうならば、作者も力を注いだ童謡、すなわち、手毬唄(巻頭にあるため読者は見ることが出来る)を、物語内でももっと早く登場させた方が面白いように思う。『僧正ー』では、マザーグースを通じて、殺人者の不気味な意志を感じることが出来た。今作でも、同様の効果を得られたと思う。 また、この出版芸術社の選集では、本編に加えて、どういった経緯で本作が書かれたかなどの、解説というか補足的な情報もあるので、そちらも面白いかもしれない。 | ||||
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はっきり言って、もう「古典」であろう。映画を見てそれでおしまい、という人も多いのではないか。それではかなりもったいないと思うので、あえて書く。レビュアーは本格の愛好家が多いようだが、あれこれ突っ込みどころはあっても面白いよ、これ。もうこういう雰囲気を出せる作家は出ないだろう。本読みがいる限り消滅することはないと思うが、あまりにもマニアックなレビューが多いので心配になった。映画は、できたら昔のヤツ(岸恵子さんが出る方ね)を見て、それから原作も読もうね。 | ||||
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本書は昭和32年〜34年にかけて執筆された、作者「最後の傑作」であり、以後の作者の作品には傑作と呼べる作品はない。 作者はヴァン・ダインの『僧正殺人事件』のような童謡殺人を書きたくて、かつて『獄門島』を書いて作品については満足したが、「童謡殺人事件という意味では、わたしはまだまだ物足りない思いをもっていた」とのことで、深沢七郎の『楢山節考』をヒントに、ストーリーに合う手毬唄を創作して組み立てたのが本書であるということが、旧版巻末の解説に記されている。 そうして完成した本書は、文字通り「手毬唄」のとおりに殺人が起きる作品で、いくつも交錯する謎、作品全体に漂う不気味なムード、構成の見事さ、謎解きの論理のいずれにおいても、過去の名作群にひけをとらない出来映えである。 とくに泰子殺しの際、滝つぼに置かれていた枡と漏斗から犯人に見当をつけたという金田一の推理には、非常に感心した。 ただ、それだけに、逆にその後に続く連続殺人を阻止しなかった金田一の行動には納得できない。一言、「念のために、○○に見張りをつけてください」と警察に頼むだけで間に合ったはずである。 それと、本書は細かな部分できめ細かさに欠けている。 泰子殺しの際、泰子と「おりん」は桜の大師の裏側を通る間道を、金田一と磯川警部は表側を通る本道を歩いていたのに、「もう少し足をはやめていたら、泰子と老婆に出会っていたかもしれない」との矛盾する記載が見られる。 他にも、辰蔵が「なぜ六道の辻から、桜の大師のうらへ通ずる間道を利用しなかったのか」と、二回も思わせぶりに書かれているのに、結局その解答はどこにも記されていない。 また、本書の舞台である「鬼首村」は兵庫県と岡山県の県境の村で、『夜歩く』の後半の舞台と同じ名前だが、そこは岡山県と鳥取県の県境にある、八つ墓村の向こうの別の村である。(金田一は『夜歩く』の事件の後、八つ墓村に立ち寄ったと『八つ墓村』に記されている。) だが、別の村であるとはいえ、金田一は『夜歩く』で既に鬼首村という名前を知っているので、なのに「これ、何と読むんですか。珍しい名前ですね」と磯川警部に聞いているのもおかしな話である。 | ||||
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世評の高い作品ですが、パズラーとしては問題がある思います。再読してみると、犯人が童謡殺人を行う必然性が薄いという点が気になります。その辺を差し引いても、犯人の行動に無駄がありすぎて、どうも納得がいかない。都筑道夫氏の言葉ではありませんが、「昨夜の本格」の典型です。パズラーでなく、スリラーとして読むべきでしょう。そう割り切ってみると、中々捨てがたい。かなりの登場人物がでてきますが、巧みに書き分けていて小説家「横溝正史」の最高の仕事というひとがいるのもうなずける。 もっとも、パズラーとしては、問題がありすぎます。『悪魔の手鞠唄』が先行作品として意識したヴァン・ダインの『僧正殺人事件』がパズラーとして問題があるのと同じ結果に陥っています。『悪魔の手鞠唄』『僧正殺人事件』はともに詩や歌の通りに人が死んでいくサスペンスを楽しむべきでしょう。もっとも、『僧正殺人事件』は犯人像の異常性、『悪魔の手鞠唄』は現在進行形の事件と20年前の事件の繋がりを探るところと見どころに違いがあり、その点を読み比べるのも一興かと・・・・・ | ||||
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金田一シリーズのなかでも傑作と言われる一冊。 読んでみて、確かに納得させられた。怪奇趣味、意外な犯人、ミス・ディレクションの巧みさ、あっと驚く真相と、どれをとっても申し分ない。 横溝作品には、いまいち冗長なものも多いのだが、本書は飽きずに読むことが出来た。 しかし、良く言われる金田一の無能さも実感。犯人が分かってるんなら、殺人を防ぐ努力をしてよ。 | ||||
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