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深い河
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深い河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全166件 21~40 2/9ページ
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人が生涯を通じて抱える葛藤。複数の登場人物を通じて、ありありとした描写でその苦悩が表現されている。特に、美津子の生き様には、深く感じるものがあった。自らが抱える自分でもどうしようにもない「欠落感」。大津に対する感情。後半部のインドにおける記述は圧巻である。2023年の今、この小説を読んでも全く色褪せる事はない。遠藤周作氏のその才能・手腕に深い尊敬を覚えた。 | ||||
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かなりシミがあって読む気持ちになれませんでした。残念です | ||||
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友人に勧められましたが、遠藤周作先生の本と思い、身構えましたが、そんなことはなく、読みやすく、そして深く、興味深い本でした。これから、何度も読み返すでしょう。面白かったです。 | ||||
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信仰者としての自己の苦悩、問題意識を複数の登場人物の姿に投影して深く抉り出し、普遍的な神の存在を描きだしている。ヨーロッパ的な信仰理解に対し、アジア人、日本人の一人としての信仰理解について問題提起をしつつ、その理解をインドの旅、ガンジス河とのかかわりの中から再度自己の信仰を振り返った素晴らしい作品である。 人として、ぜひ読んでおくべき書籍の一つに値すると考える。 | ||||
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様々な宗教の中で一番に信じれるのはキリスト教であると思う。一方日本に古来から受け継がれている神とは何だろうという疑問が払しょくできないでいたが、作者が言わんとしていることに触れて大変共感している。 | ||||
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テレビの番組でこの本をしりました。本当にこの本に出会えてよかったと思い ます。けして明るい気持ちにはなりませんが、生きるということを深く考える事を導かれる時間をもらいました。お勧めしたいです。 | ||||
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数多の男に愛されながら何も感じないなら、この際思いきって女に奔ってみてはどうかね? | ||||
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昔から読んでましたが、改めて読んでみると、ハマりました。やはり、良いものは良いですね。 | ||||
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面白い | ||||
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遠藤周作という、作家の、たどり着いた信仰の行方、人としての愛とは、胸に、静かに、伝わる作品 | ||||
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やり場のない喪失感に苛まれている。そんな時に心を浄化してくれる小説です。 この小説が発表されたは1996年です。当時まだ学生だった私にとって、遠藤周作は、そのキリスト教信仰に基づいた物語が縁遠いものに思われて、食わず嫌いの作家でした。 そこから二十数年経ち、人生の山と谷を多少は経験し、この小説のメッセージに共感できる年齢になりました。出会いと別れを経験するほどにこの小説は心に響くのでしょう。 登場人物たちは皆、逃げたい現実や生き苦しさをそれぞれの心に秘めています。と同時に、これから先の人生に何か意味を見出したいというささやかな希望を持ち、自分なりの答えを探しています。そんな人達がインドへのツアー旅行を通じて邂逅。全てを包み込み流し去る「母なる」ガンジス川のほとりでそれぞれの答えを見つけるのです。 人生に迷ったときにじっくりと読み返したい小説です。 | ||||
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宗教の垣根を超えて、私たちにとって「神」とは何かを問い続けるもの。 | ||||
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オススメされて読みましたが、「信じる」と言う言葉を考えさせられる話でした。 主人公の妻が癌で亡くなるところから始まる話。 そのシーンはとても感慨深く、泣いてしまいます。 作者がキリスト教を信仰しているからか?キリスト教も関わりますが、それ以外にもヒンズー教が関わったりしてて。 『神とは何か?』と、思わせるような話です。 | ||||
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人はどうして現実を超えたものを求めるのだろうか。理解を超えたものを知りたいと思うのだろうか。あるのかないのかもわからないものを確かめたくなるのだろうか。どうしても白黒をつけたい。それは自分も同じなのだ。 メインとなる登場人物はそれぞれが悲しみを抱えてインド旅行に参加する。悲しみや苦しみを比較することは出来ない。それぞれなのだ。自分は美津子だと感じた。神から大津を奪ってみせるという考えをもった美津子なんだ。蔑みながら大津を追い続ける美津子。確かめずにはいられない。ひとりひとりのエピソードが、書かれている言葉以上のものを深く感じさせるのだけど、自分は断然美津子が気になったのだ。 ガンジス河がすべてを包み込む。生老病死を。ここにたどりついて死にたいという人々。屍体が浮き、灰が流され、その横で生活が営まれる。この河の存在を見ることで、仏教の生きたルーツ、人間の伝えようとした大事なことを感じられる様な気がした。 著者はキリスト教徒。自分は真宗。宗教という観点からは同じく見ることが出来る。登場人物の大津はキリスト教徒で神父になるためフランスに留学までしながら、日本的汎神論を棄てることができずにキリスト教の世界を出て、インドへと。ガンジス河にたどり着く前に力尽きたアウトカーストの人々をその場へ連れて行き火葬する。 自分は宗教は最後たどり着くところは同じだとは「いえ」ない。それは検証することはできないから。ただひとつ思うのは、人間が「求める」ことは同じかもしれない。登場人物はそれぞれがちがうものを求めている。だけれども、それは自分が納得したいなにかなのだ。そうだとうなずけるもの。そしてそれはニセモノではない。本物でないといけないのだ。うなずけるほんものがほしい。 本人が意識するしないにかかわらず、自分を超えるものを求める瞬間を見せられる。自分の心も痛むし、揺さぶられるし、緊張の中でどういうことか自分のなかで答えがでないままストーリーが進み、そして小説は終わる。ただ読んでいる自分の前で消えた感じがする。その続きは紙の上じゃないところでまだ続いている。自分の中で続いている。 | ||||
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大学時代に、何気なく手にして読んで以来の再読。若い時にはあまり深く読めていなかったが、今は歳を重ねたせいなのか、日本人にとってのキリスト教という観点から感慨深く読めている。 | ||||
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ジョンヒックの宗教多元論からの関連で読んだが、宗教観とプロットもさることながら、叙景叙情描写における数々の種類の対比によるコントラストを使った、人間が確たる生の実感を得るとはこう言うことだと言う具体描写が素敵でした。具体的体感と空虚観を時系列と並行時間の両方ならべているのが、リアリティと親近感を感じるところでもありました。 | ||||
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遠藤周作の最高傑作だと思います。読み終わると、まるで一本の映画を観終わった感覚。 | ||||
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それぞれの理由でガンジス川を目指す日本人と、それぞれの立場からの信仰について描かれる小説。 妻に先立たれた人が妻の生まれ変わり追い求め、本当に人を愛したことのない女性がかつて弄んだ敬虔なクリスチャン男性に自分にはない何かがあると探しに、インパール作戦を生き残った元兵士の贖罪に、それぞれが信仰に対する想いを持ちながらインドへと向かう。信仰の功だけでなく罪といったどの時代にも通じる普遍的なテーマが投げかけられる。 この小説はクリスチャンの間では物議を醸したらしいが、著者が決して自身の信仰を妄信せず、多面的に宗教について考えようとする姿勢がわかるため、信仰を持たない人にもお薦めできる。 | ||||
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美貌と才智と富に恵まれながら虚無感と孤独感を抱える美津子、愛する妻の死に輪廻転生を模索する磯辺、瀕死の病床で自分の身代わりのように死んでいった九官鳥を思う沼田、ビルマ戦線の極限下の罪悪感に苛まれて死んだ戦友の供養を願う木口。 それぞれの心に重荷を抱えてインド旅行に参加した人々の物語が、曼荼羅のように響き合い、河の流れのように悠揚と進行する。 美津子はそこで、墓場で人々の痛苦と悲しみを背負い萎びた乳房から人間に乳を与えるチャーナンダー女神像や、かつて自分が捨てた大津が、神父になったにも関わらずヒンズー教徒のアーシュラムに住み行き倒れた人々を背負ってガンジス川に運ぶ姿に出会う。 そして美津子はガンジス川に全身を浸し、 「でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ」とつぶやく。 いつしか彼女は、 「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、この深い河で祈っている光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです」と、祈りのような言葉を捧げていた。 虚無、孤独、罪、悲しみ、病苦それぞれの重荷を抱えてガンジス川で祈る人々の「人間の河」。 その時美津子は、眼前のガンジス川の流れの彼方に、世界のさまざまな所、さまざまな状況で、それぞれの辛さを背負って、無数の人々が祈り続けている光景・・・目に見えない大きな「人間の河」が、この世界にあること・・・それを発見したのではないだろうか。 キリスト教や仏教やヒンズー教の違いを越えて、人生の悲しみや痛苦の中で祈りを捧げる世界中の人々の、目に見えない大きな河。 「そのなかに、わたくしもまじっています」と、美津子は言う。 そして、 「(信じられるのは)、その人たちを包んで、河が流れていることです」 時間と空間を越えて、人々を包んで流れて続けている、「深い河」。 それは、 「何か大きな永遠のものかもしれなかった」 やがてガンジス川は、磯辺、沼田、木口にもそれぞれの形で、人生の深い出会いをもたらす。 終盤では旅行客達、インドの人々、大津の人生が絡み合い、大きく展開し、激流となって結末に流れ込む。 遠藤周作が晩年に渾身の力を込めて指し示し、自分の後に生きる人々に託そうとした思いがひしひしと伝わってくる名作である。 (蛇足を言えば、ヒンズー教の女神像はこの作品に出てくる悲痛な女神像ばかりではない。現代のヒンズー教徒の家々に飾られている女神の画像は色彩鮮やかで美しく、ヒンズー教のお祭りは朗らかで楽しい。ヒンズー教は現代も、人々の生活に根ざして親しまれ、生きているのだ。 「玉ねぎ(永遠なるもの)がヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです」という大津の言葉に深く共感する。) | ||||
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いい小説でした。一気に読みました。色々考えさせられました。描写も美しく、表現に深みもあり、さすがだなと思います。ただ、これはあくまで私の未熟さゆえだと思いますが、結局「善」を押し付けられるようにも感じます。作品中で大津は「悪の中に善があり、善の中に悪がある」と言いますが、美津子に棄てられた後の大津は「善」そのものじゃありませんか。それがキリスト教の教科書的な善からはかけ離れていても。美津子が虚しさの更に奥にあるものを探しても、結局見つめているのはキリストを模範に生きる大津です。この本のモチーフは全てを受け入れる深い河ですが、結局キリスト以外は受け入れられていない気がします。最後の修道女達の「それしか知らない」という言葉にも息苦しさを覚えました。遠藤周作の汎神論的な考え方には共感を覚えますし、堅い二元論的なキリスト教に疑問を抱くことにも共感するのですが、最終的に「全ての人間の苦しみを引き受けたボロボロのキリスト」というイメージには疲れを覚えました。とはいえ、大津はやはり幸せなのだと思います。あの生き方は彼の運命なのでしょう。だから、大津の生き方を引き受けるようなキリストの存在が多くの人々にとって救いになるのは理解できます。あくまで私個人の感想です。 | ||||
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