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深い河
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深い河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全166件 61~80 4/9ページ
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再読です 一神教と汎神論がテーマでしようか。宗教は人間が作りあげたもので完璧なものではないために宗教論争が発生 していることを作者は示唆しているかと感じさせられました。それがためインドを舞台にしたのではは? | ||||
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久々にかじりついてスラ2読めました! 死を"隠し事"の様に遠くに置き、宗教の話しを対立を避ける意味合いで日常語らない日本社会...後半はこれと真逆な聖地ヴァラナシを舞台に宗教や生き方、死について剥き出しになって行く感じ...圧巻でした! この本を読み終えて思ったのはその宗教が既に"答え"を与えてくれていたとしても、従順なだけでなく、中世と違い色々な宗教の成り立ちも学べる現代は疑ったり悩んだりする"過程"...これが一番大事だと思いました!例え"答え"が一緒だったとしても"過程"は十人十色だと思うので...タイトルの"深い河"ですが、昔ヴァラナシで夜に屋上から観たガンガーの不浄の地とされる暗い対岸はまるで深い宇宙の様だと感じた事を思い出しました、静かに深かった。 | ||||
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遠藤周作氏の神に対する持論とインドの魅力を知らしめてくれる大作。 | ||||
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神の母性的愛のみを礎に、キリスト教の聖職者になりえるのだろうか。死を間近に向かえたアウト・カーストの人をガンジス河まで運ぶという愛の行為は、神の父性的厳しさをも受容した人でないと為し得ないのではないだろうか。神学校で学び神父までになった大津が、神の母性的愛のみを拠り所にキリストへの信仰を持ち続けてきたのならば、私はどうしても違和感を感じる。一人のキリスト信徒の宗教観を示した小説として読めればいいけれども、この作品をキリスト教神学と捉えてしまったら(そんな人はいないかもしれないけれども)、誤解を生じさせるかもしれない。 | ||||
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非常に良い本でした。登場人物は全員日本人ですが、時代が違いすぎてまるで海外文学を読んでいるようでした。 たまたま終戦記念日の直前にこの本を買いました。木口老人が語るビルマ戦線の様子は生々しく、臨場感があって、恐ろしいのに読むのを止められませんでした。 登場人物はそれぞれに心の闇を抱えていますが、巻末の遠藤周作年譜を見ると、登場人物に作者の経験が反映されていることがわかりました。 宗教、生と死という難しい題材に真っ向から向き合った作品です。重厚なのに読みやすく、読んだ後は誰かと語りたくなります。 | ||||
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20年ぶりにふとインド旅行でバラナシを再訪することになり、読み返してみた。 ヒンズーの世界を、清浄と不浄、神聖と卑猥、慈悲と残忍とが混在して共存している、というのがよく表している。何もかもを飲み込むガンジス川、沐浴する人、泡を立てて体を洗う人、洗濯する人、観光のボートに乗り込む旅行客、家畜とか色んな物が混じったたまらない匂いの中で、それぞれの宗教を重んじる日本的な多様性は、遠藤周作が書いたころも今も変わらぬ日本人の美徳だと思う。 | ||||
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続きが気になって仕方ないので、短期間で読み終えました。でも、ラストは期待したものとは違って深いため息が出ました。だからいいんでしょうけど。 | ||||
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おもしろいですが、展開が読めてしまうので☆四つです。 遠藤先生には、生きる意味のついてもう少し深い考察をしてほしかったと思います。 | ||||
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まず本書を読むなら佐伯彰一氏の後書きと付録の著者経歴から読んで欲しい。 小説の読み方としては非常に邪道であるが、それは本書が日本人とカトリックと言う間に苦しんだ遠藤周作の答えだからである。 遠藤周作の代表作として沈黙がある。 そこで遠藤は登場人物であるキリスト教徒の改宗(迫害)を仕事とする井上筑後守に「神とは困った時に都合よく助けてくれる存在ではない」と言わせている。 キリスト教徒の言う神とはその人の習慣、生き方を守るための指標なのだそうだ。 故に遠藤は日本人でありながら日本人の持つ困った時に助けてくれる神様像に非常に苦しんだ。それは本書の末に書いてある経歴から10歳で無自覚洗礼を受けていた事に起因する。 そうして日本人でありながら日本人的でない思想と苦しみながら生きた遠藤が至った一つの考え方がジョン・ヒックの宗教多元主義である。宗教多元主義についてレビューで書くとスペースが足らないが、掻い摘んで言えば「神様は色々な姿があって、色々な姿でその人の心の中にいる」と言う物である。物語途中にチャームンダーと言うヒンドゥーの女神の一説が出てくるが、正と邪、生と死、愛と憎、という相反する全てを包括したその醜くも必死な姿、それこそが神である、遠藤はそう言いたかったのではないだろうか(チャームンダーがカトリックで言う主であると言う意味ではなく神の多面性の意) そうした色々な姿を自覚していない5人の人物達が清濁併せ呑むインドに赴き、各自の神の片鱗に触れる物語が深い河である。登場人物達の背景がいずれも遠藤の経歴に関係するので、後書きと付録の著者経歴から読む事により、この人物が持つ苦悩は遠藤がいつ経験した事か、と言う事がわかるであろう。 5人の持つ心の闇に触れながら読み進めて欲しい。 | ||||
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5人の登場人物の人生が語られ、それぞれが何かを求めてガンジス河を訪れます。とても読みやすく一気に読んでしまいました。 私は、本書に書かれている磯辺夫妻の夫婦関係に心が引かれました。同じような場面が訪れたときに、私の妻も同じようなことを言ってくれるか。。。今以上に妻と会話を持ちたいと思いました。 私は本書が書かれる前の80年代、学生時代にバラナシを訪れました。 当時、火葬場を眺めていたところ、火葬場の係と思われる者が棒を振り回して”Tourist,get out!”と立ち退かされました。それほど人間の最後の儀式は厳格なものであったと私自身認識していました。 その後本書に出会い、私自身違った角度でガンジス河を見たくなりました。 先月、インド出張が入ったため、現地で休みを取りバラナシを訪れました。日の出の瞬間は、80年代と変わらず厳かなものでした。しかし、日が昇り観光客が動き出すころに火葬場を訪れてみると、火葬している間近まで観光客の姿が。。。また、川辺であるため、観光客を乗せたボートが複数集まり火葬を眺めていました。私もその一人でしたが、当時と様子が一変していたのに衝撃を受けました。 インドでは魂が抜けた体は「モノ」であると故人を見送りに来ていたインド人から聞きました。火葬をしているのは、衛生的な理由で政府の規制があるからだそうです。そういえば、前回訪れたときは水葬された遺体が河を流れていたのを見ましたが、今回は見ませんでした。 肉体の形がなくなる瞬間を多くの観光客に見送られるのが現代のバラナシの姿かもしれません。インド人と日本人の死生観の違いをあらためて感じました。 本書は、再度私をバラナシに導いてくれました。良い本に巡り合えたと思います。 今回バラナシで撮影した写真を貼ります。 | ||||
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インド文化の深さにただただはまった。 一気に読み終わる。 | ||||
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読みやすい作品であった。 作品を通して「神とは何か」「人間とは何か」を考えさせられた。 他の神父から異端視される大津の信じているキリスト教は、私から見て違和感がなく常識的である。全ての宗教は同じ神から発しており、大津の場合たまたまキリスト教であった。汎神論も語られ、遠藤周作の宗教観が分かる。キリスト教には詳しくないが、違和感を抱くクリスチャンは多いはずである。 ガンガーを通して、登場人物は生と死や自身の中のエゴを考え、区切りをつける。そうした描写も読み応えがあった。また読み返したい作品である。 | ||||
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人生の岐路で重荷を負った人がインドの深い河で見たものは何か。来世、転生などの人生の神秘、神の愛を問い続けた登場人物は、生活の中で交わった人もいたが、人生の中で触れ合った人も思い、最後はすべてを受け入れたのでは無いだろうか。遠藤さんの著作から、潜在意識、心理学、禅仏教、東洋思想を読みはじめたことが思い出される。 | ||||
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世界でも、多くの読者を持つ本書ですが、ノンクリちゃんの空しさが良く描かれていました。聖霊に満たされ、神様の祝福に溢れた、信仰者の姿が描かれていなかったのが、残念です。 | ||||
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読み応えありました。最後まで読んだからと言って決してハッピーエンドでもないし、何かを教えてくれる訳でもないし、何かが分かるわけでもない。生と死とはなにか。宗教とは。輪廻転生とは。 いろいろと考えさせる事は多いが、誰の人生にもストーリーがあり、ガンジス河はそんな誰のことも暖かく受け入れてくれる場所である。きれいな河と聖なる河とは別である。 | ||||
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作品としてはとても良いかもしれない そんな皆さんのように文学やらに強くないのでその点の評価はできませんが、バラナシに行くぞってなり、事前に読んだ方がいい!と言うものでもない バラナシは実際行って見て凄く深いところで、考えさせられるものも深くあるが 小説のような夜中まで外で飲んだからられるような場所ではないし 重苦しい街でもない その街に溶け込めるような、一体になれるような不思議な魅力の街だった そういった意味で、バラナシに行くぞ!でお勧めするものではない | ||||
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対照的な神が描写されているのが印象に残った。日本人留学生の大津が通っていたリヨンの神学校の神父たちが信じる絶対的な一神教の神。その大津は自然の全てに神が宿っているという汎神論的な信条を持ち、それを神学校の教師に知られ神父失格の烙印を押されて放逐された後、最後にはインドに流れ着き、ガンジス河のほとりで、貧しさのために葬ってもらえなかった人々の死体を火葬して河に流す仕事にたずさわっている。その大津の信じる神。どちらも神なのだが、後者に圧倒的な共感を覚えた。キリスト・イエスが伝えた神の姿はどちらだったのか。大津の最後の姿が塩狩峠の鉄道員の信夫の姿とダブって見えた。 | ||||
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宗教を「ごく普通の人間の倫理」と理解している人でも、作家となると一行で書くわけにはいかないのですかね。 | ||||
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遠藤周作さんの小説が大好きで久しぶりに買いました。 とても深い内容で、読んでいると鮮明な映像が頭の中に浮かぶようで、遠藤さんの鋭い描写が生きているので、久々に感動した小説でした。 暫く余韻が残り、益々他の遠藤さんの作品を読みたくなりめした。 | ||||
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中3息子の国語の読解問題(ある高校の過去問)を観ていて、出会ったのがこの深い河。ちょうど美津子がそそのかされて大津を飲み会に誘い泥酔させてしまうというくだり。毎日祈祷する大津に「そんなの棄てなさいよ」と迫る美津子に対し、「ぼくが神を棄てようとしても、、神は僕を棄てないのです」という大津のセリフが強烈に心に残りました、WIKIPEDIAでこの書のことを調べ、美津子が再び旅先で大津に再会する、と知り、物語の行方と遠藤周作の宗教観に興味を持ち、中学生がほんとに理解できるのか?という気持ちでぽちっとオーダーしたわけです。 読み始めると時系列が激しく前後し、登場人物もガンガーを舞台とした複数の人たちのそれぞれのストーリーで別個に進み、なんだ短編集か?と一瞬誤解するほどですが、冒頭、磯辺の妻をガンで亡くしていくところや、木口の壮絶な戦争体験は臨場感をもって読むことができ、十分なつかみがあります。大津と美津子のその後の交流やからみは、恋愛でもなく、精神交流でも知的交流でもないのですが、乾いた関係が展開され、逆に物語としての面白さが大いに増しました。 また、遠藤周作の宗教観が大津に投影され、西洋的排他的唯一神的キリスト教批判的で、キリスト教はもっと寛容的でよろずの神の中にいるべきもの、という考え方が興味深く読み進められます。 なのに著者は大津をこれほどまでに愚直に描いてしまったのが残酷なまでに良いです。フランスでは思想的に疎外され、神父になかなかなれず、大津の宗教観を美津子に書いておくる手紙は彼女の心にまったく響かない文章で、結局はインドに行きつきバラナシでアウトカーストの死体を運ぶところまできてしまう。さいごは旅行客が怒らせたインド人に止めに入ったら逆に自分がボコられて危篤に。でもここで話は終わっているので、死ぬところまで描写していないところに一筋の光が見えます。 ただし、美津子という女性にはリアリティもシンパシーも感じにくい。とりまきの学生からあいつをたぶらかしてみろよ、と言われただけでこの愚直までにどんくさい男を、”神でなくわたくしを取りなさいよ”と初対面で誘惑するものなのか、イケテる女性ならそんなことはしないだろう。そして、人を愛することができず、見合い結婚して離婚、そんな彼女が旅先まで追っかけさせるほど大津に翻弄されてるのか?というところなども実感なし。彼女をここまで行動させるなら、もう少し細かい描写が欲しいところです。(大津に関して言えばあんな人は回りにいないけれども、あれだけ背景的説明があって細かい描写があり、ぶっ飛んだ性格も非常に理解できるのです)。美津子に関しては私が理解できないだけかも、ですが、感情移入ができません。正直、磯辺の妻などの控えめな良妻賢母タイプ以外の女性については、どうも空想的すぎて、遠藤周作という作家の古典的な女性観を垣間見ます。が、最終的にはこの美津子の存在が、物語のファンタスティックな部分を深めていけるんでしょうね。 バラナシとガンガーという舞台の描かれ方が幻想的、おとぎ話的なところを強化しているとも思います。バラナシはそんなに素晴らしいところでも壮絶な場所でもなく、みんながみんな”悲しみを背負ってくる”場所でもないのです。もちろん多くのインド人がいつかこの地に行きたい、いつかこの地で死にたい、というあこがれの聖地には変わりありません。でもインド人にとってはごくごく当たり前の日常が繰り広げられる場所です。訳アリの外国人たちが何かを求めても癒される場所ではないのです。しかし、我々外国人は書物やテレビやネットや映像で、まだ見ぬインド、に過大な期待を抱いてしまいがちです。実際には、ガンガーに訪れて衝撃を受けるのは、まず最初に「肩透かし」ではないでしょうか。ガンガーは、心の深い悲しみを解決し、失ったものを見つけてなんかくれない。それはもちろん、この書を読めばそういうことはわかりますが、表面的にはこちらが気恥ずかしくなるくらい、描かれ方がドラマチックで大げさかなあと思います。 つまり、この書が発行された1993年にはインド本は腐るほどあって、バラナシ、ガンガーに、深い闇をもってやってきた登場人物という背景が、今更ながら、やや陳腐感を出しているんだろうなと思います。違う舞台のほうがよかったのかもと思います。 とはいえ、やはりこの小説の要はやはり美津子と大津であり、汎神的キリスト教観を通じた2人の心の通い合いや成長は、秀逸に描かれた良作であると、ぜひご一読をお勧めします。 | ||||
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