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深い河
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深い河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全166件 121~140 7/9ページ
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この世は、色々な人間が存在しており、環境、生き方も様々で、 他者の事は、わかるようでわからない人間模様がある様子が描かれている。 この本は、題名のごとく、どんな人間をも受け入れるという、宗教的な 内容もあるが、自分が住んでいる環境ではありえないガンジス河の姿に 解り得る自分と、そうでない自分とがあり、複雑な気持ちになった。 | ||||
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読み終わったときに思ったことは「え!?これで終わり?なんも解決してねぇ!!」と思ったが、よくよく考えて見るとここまでで大切なことは書かれていた。 クライマックス(最高潮)は最後に来るものだと先入観があったせいだろう。 結果、誰も救ってはくれないし、誰も助けてはくれない。 それでも他人と苦しみや悩みを共有することで孤独からは救われる。 愛で罪も苦痛も全て包んでくれる河。自分もいつか流されて大海にでるのだろう。 真実はいたるところに無数にあってその全てに価値があった。 | ||||
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『深い河』とはガンジス川のことだが、著者はそこに神、宗教の本質を見たように思う。 善も悪もなく、生も死も苦しみも悲しみもすべてを受け入れるが、何もしない。ただ雄大に流れるだけ。 「大津」は、イエスを投影しているように思う。神父になろうとするが、修道院から毛嫌いされる。 なぜなら、キリスト教とかヒンズー教とか仏教とかに捕らわれず、イエスの本質を見ようとしていたから。 彼は、イエスだったらこうしていただろうと考え、ガンジス川に行こうとして命を落とした弱き者を背負い、火葬場に連れて行く。 『沈黙』『イエスの生涯』と読み進めてきたが、イエスは、弱き者苦しんでる者たちの同伴者たろうとしているだけで 自己への崇拝など望んではいない、というキリスト教聖職者への批判を感じる。 キリストの精神を、不完全な人間が不完全に広めてしまったというニュアンスが文中引用されている。 今まで遠藤周作をガチガチのキリスト教信者と思って避けてきたが、神やキリストの考え方に共感できた。 もっと遠藤作品を読んでみたいと思っている。 | ||||
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晩年のエッセイなどで良くでてきた素材が散りばめられています。 なので、コアな読者には陳腐な感じがしなくもありませんが・・・ 「日本人とキリスト教」、これが遠藤周作の生涯のテーマだったかと思います。 自分の身の丈に合わないキリスト教という服をどう着るのか、たしかこんな感じのことをどこかで書いてました。 そして晩年に辿り着いたのが、日本人には日本人のキリスト教がある、という思いだったかと。 その思いをもう一人の主人公大津に語らせてます。そして彼は異端のレッテルを貼られインドに辿り着きました・・・ 遠藤さんの作品に特徴的な愚直な人間像が余すことなく描かれてます。 遠藤さんの軌跡と同じように読者も彼の作品の一番最後に読んでほしい作品です。 | ||||
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遠藤周作さんの本には必ず神が出てくると言って過言ではないと思う。 そこに、他宗教のものが侵入すると不快感がいなめないものとなる。 旅人の言葉に 「宗教・政治の話はすべきではない」 という言葉がある。 それほど、喧嘩などに結びつく話題なのである。 インドに行く時、泥沼のようなガンジスに身を投げる姿をみて、 あなたはどう思うのか。 何も知らない旅人がマネをして、赤痢を患うことがありすぎる。 本書の中に投影されている情景と信仰の深さ、倫理観について 小説としては傑作だと思える。 しかし、これを読んで、 インドに行ってはいけない。 インドから帰ってから読んでほしい。 純粋な心からどう思ったのかということと、 この小説を比較してみるととても素直に受け止められるかもしれない。 | ||||
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得られるものが何もありませんでした。期待していただけに残念です | ||||
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一人旅でインドに行ったことがある。 暑くて、汚くて、騒々しくて、臭くて、ずるくて・・・。 なんなんだこの国!と叫びたくなる。 暑くて、汚くて、騒々しくて、臭くて、ずるくて・・・。 なんでこんな国に来てしまったんだ、と後悔したくなる。 でも夕暮れ時になると、インドのすべては、ガンガーへとたどり着く。 ガンガーは、暑さも、汚さも、騒々しさも、臭さも、ずるさも、すべてを受け入れる。 その細い体ですべてを背負い、疲れきっているのにすべてを抱きしめる。 ヒンドゥ教的輪廻観も、仏教的輪廻観も、キリスト教的観念も、ガンガーは愛する。 人々の毒素を、苦しみを、思想を、限界を、現実を、ガンガーは包み込む。 なんという深い河だろうか。 暑くて、汚くて、騒々しくて、臭くて、ずるくて・・・。 でもガンガーに受け入れられたくて、懲りずにまたインドへ行くのである。 | ||||
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風呂敷広げてきちんとたたまない(たためない?)感じ。 エンディングに向けてまとめるのが面倒くさくなったような唐突な終わり方に不満が残る。 わずかに美津子だけが心の変化を受容するが、 他の登場人物の心の変化はさほど描かれず、 全編を通して動きのあるシチュエーションの描写にも筆が足りず、消化不良。 磯辺には生まれ変わり(の確証)を見つけて欲しかったし、 大津のその後(最期?)も描ききってほしかった。 取り上げたテーマを料理しきれなかった、 力量・気力不足を露呈した残念な作品。 | ||||
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本作発売は何時の頃でしょうか、確か15〜6年ほど前に若い者には珍しい病気で入院している折りに近所の本屋へ無断で出掛けて買ったのが最初だと記憶しています。 妻を亡くし今まで顧みることもなかった妻との生活、妻の居ない自分、老後。 様々な事を考える時間をもとめていた中で旅先に選んだインド。 ガンジス川のほとりで汚い水の中沐浴をする多くの人々、その横で人間の屍体をそのまま流す葬儀屋。 市民の生活にも使われある時は洗い場、ある時は風呂、ある時はトイレ。 それでもそんな河を人々は神聖なモノでありそこに在るのが自然なモノとして受け入れ崇める。 旅をともにした日本人ツアーの他のメンバーとの打ち明け話などを含めて徐々に今までの自分とは違う自分を感じるようになる主人公。 大きな泣き所のある訳でも、説教臭いわけでも、インド崇拝をしている訳でもありません。殆どが日常生活の目線で描かれ、人々の日常が自分にとってはドラマであり、他人にとっては普通の出来事でしかないという現実を洗い出していく。 遠藤周作作品いろいろ読みましたがクリスチャンである氏の作品にしては珍しい宗教色薄い作風に驚いたのと、20歳前半に読んだので年齢的に死など遠い世界の話と普段は気にも止めず感情移入も出来ない作品だったのでしょうが入院中であり同じ病室のお爺ちゃんが入院中に亡くなられたこともあり死と隣り合わせの場所に居た現実が本書の世界を近づけてくれました。 以来、人にあげたり、亡くしたり、都合4冊までは買い足したことを覚えています。 今手元にある単行本は装丁が画像と異なりますが私にとって何代目の「深い河」なのでしょうか。 一生、手元に代替わりしつつ残しておきたい一冊です。 | ||||
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様々な立場や、考え方、そして思いを胸にインドのガンジス河に向かう旅行者の群像劇です。妻に先立たれ、妻の最後の一言に生きる「かすかなしるし」を見出そうとする磯辺、磯部の妻の看護を通して知り合うことになった自身の殻が厚く、その厚みに困惑している女成瀬、童話作家で身代わりの鳥に何らかの供養を必要としている沼田、第2次世界大戦でビルマを敗走した経験を持つ木口、共に欲望と思考に段差の無い三條夫妻、そして汎神論者であり、かつカトリックであることを求める大津...それぞれの意味で、それぞれにとっての深い河が、立場が、また決意が見られます。納得のいくものもあれば、なかなかうけいれられない現実があったり、少し作者の作為が透けすぎる行動をとる登場人物もいますが、おおむね納得できる物語でした。 意味を持たせるなら、作者の作為が感じられなくなるくらい作りこんだものを好む傾向に私はあることを自覚しておりますが、素朴さからしか立ち上がりえない何かがあるのもまた事実です。私個人としては1番気になったのはやはり「成瀬さん」なのですが、成瀬さんのモノローグがあるにも関わらず、いまひとつ釈然としない、あくまで小説の中の登場人物のような作者の想いを代弁させられている感がありましたが、それでも何事にも心を強く動かされることの無いリアリティは感じられましたし、そこはかなり良かったです。 時代として『そういうものであった』と言われてしまえばその通りなのかもしれませんが、それでも私は想像することが出来なかった、あるいはその機会を捉えなかった以上はその重みを背負うべきに感じさせる磯辺さんと妻の関係性について、特に気にかかる部分でした。非常に都合よい解釈が続く中で個人的には悲しむべき資格が無いように思いましたが、それでもなお、行動させられる磯辺さんそのものについての「どうしようもなさ」には共感も出来ました。未来が見えないからこそ、どんなに想像を巡らせていても有りえるであろう予想外の何かが起こったとき、そしてそれに深く後悔を思うときに、突き動かされる心の動きが。 そして大津さんのあくまで愚直な、生活の中から浮かび上がる信仰の行く先にも、考えさせられました。カトリックや信仰そのものに対しての理解が私はまだまだ少ない私でも、汎神論をキリスト教的異端として扱われるものに、違和感を覚えますし、感情として何かを感じ取るという生活を変えることは信仰のチカラをもってしても難しいものであると思います。感じる心、感覚をなくすことが唯一神への信仰であるならば、たとえその行き着く先に幸福が待っていようとも、なかなか難しいことになりそうですし、「論理だけではありえない何か」を感じるには「論理で説明できるものには、論理を徹底させた」後でしかありえないと私は思います。唯一神の思惑は常に人の思考の先であるはずですから、様々なものに、その唯一神の何かが波及していると捉えることも可能であろうかと思いますし。「玉ねぎ」という比喩はとても面白い比喩であると思いました。 最後の終わり方には、非常に驚かされましたし、このような小説を書かれる方からは想像できない(私には)最後でしたが、とてもよい終わらせ方だとも思います。 信仰に興味のある方に、インドに興味ある方に、オススメ致します。 | ||||
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主人公の一人:大津の思考が理解できなかった。 異端的な信心を持っているのに、 どうしてカトリックの職業である「神父」を目指そうとするのか、 理由が明確に語られていないように思えた。 純粋にキリストを信じたいなら、他にもやり方はあるのではないか。 カトリックにしがみ付く理由が分からない。 その挙句にインドで死体運びに従事する羽目になるとは、完全な迷走である。 キリストに倣って苦行にあこがれるキリスト信者のイメージに適ってはいるが、だからなんなのか。 何がやりたいのか、全然伝わって来ない。 他の登場人物らの話も総じて消化不良だった。 死亡した妻の転生をインドに求めた男の話は完全に尻切れであったし、 太平洋戦争で人肉食の苦難を味わった男も、ガンジスまでわざわざ来た意味が不明瞭に感じられた。 全体的に大風呂敷を広げてはみたけれどうまく閉じられなかった……という物語だと思う。 | ||||
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久しぶりに読んでみた。 言葉に出来ない想いがずっと横たわっている。 最初に読んだのが恐らく10年以上前だと思うけども、やっぱりそれから歳を重ねると、書いてあることの受け止め方と重みがぜんぜん違うし、とても良かったぞ。 ましてや、あの時はインドに行った直後に読んだので特に印象深い本であったのだ。 遠藤周作は、ご存知のようにカトリックの信者であった。戦後初の交換留学生としてフランスに渡り、そこで彼が感じた西欧カトリックの歴史の中での「在るべき」姿から、自分の形に信仰を落とし込むまでの苦悩が遠藤周作にはあったようだが、その彼の姿がこの本にも主人公に変えて書き込まれている。 カトリックでは認められない「輪廻転生」という概念と、現在のインドでのヒンズー教信仰。どこでそれがつながっていくのかという人間と人間。そこには全ての宗教をも包み込む概念としてのガンジス河があった。 インド人にとっては母なるガンジス河。すべての人生の苦悩と矛盾を抱えながらその河に流されいく死者。そこにカーストをも外れた人間のために自分を差出すカトリック神父。イエス・キリストが全ての人間の罪を背負って最後は十字架を背中に受けながら歩く姿に、その神父は死を待つ人間を背負いながらなぞるのだと告白する。 人の心の美しさや、信仰というものからあえて目を逸らしてきた女性に、この神学生は「神がかたくるしければ、”たまねぎ”と言い換えてもいい」と彼は神を語っていた。 「神は存在というより、働きです。 たまねぎは愛の働く塊なんです。」 | ||||
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何でも受け入れてくれる「深い河」=ガンジス川。 妻を亡くした男、人を愛せない女、友人の苦しみを理解したい男…さまざまな登場人物が、何か「意味」を求めてインドへ向かう。宗教観というものを持たない日本人が、何かにすがり、信じる人々を見て、「信じる」とは何かを考える物語。「これでもか」というほどにノー天気に描かれた三條夫妻が良いスパイスに。。 インドに行ったことはないけれど、いつか行って自らの目で「深い河」を見てみたいと思わされた。 | ||||
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「必ず生まれ変わるから」と言い残した妻の言葉のため。 大学時代、弄んだ男にもう一度会うため。 人生の節目で自分を救ってくれた九官鳥に恩返しするため。 ビルマで死んでいった戦友を弔うため。 それぞれの想いを抱えてインドへと向かう人々と、全てを包むガンジスの物語です。 宗教色が強いのかな、と始めは敬遠していたんですが、読み始めると面白くてちっとも気になりませんでした。 一方的に押し付ける感じもなく、人々が信じるものをそれぞれ真摯に見つめていて、読んでいて胸が熱くなります。 キャラクターや時代背景も綿密に計算されていてよかったです。 それぞれの想いをすべて飲み込んでゆったりと流れていくガンジス河。 見てみたい、と思いました。 | ||||
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「深い河」を買ってみたものの、1年ぐらい読んでいなかったが、たまには小説でも読むかという気になって、この3日で読んでみた。 遠藤の経歴(満州引き揚げ、リヨン留学、フランス文学、キリスト教への葛藤)を、登場人物に写した、私小説的なものなのかと、最後に載っていた 年譜をみて思った。私からいわせると、遠藤はカトリックにとどまり続けながら葛藤している軟派な煮え切らない作家(失礼)だと思っていたのだが、そういいきってしまうのももったいないとは感じさせるものだった。人間社会の中でどうしても発生する罪や死、破壊的な情念、などを、キリスト教的な枠によってさえぎられずに、できるだけリアルに書かれている点で、よくここまで書いてくれたとは思う。しかし、ガストンや大津にみられる広い意味でのキリスト者としての生活が、リアルに書くとあそこまでおとしめなくてはならないほどのものになるのだという点に、納得させられると同時に、遠藤の無責任さも感じられた。それは、イエスが人の罪を背負って、彼の言葉を信じるものに救いを与える というキリスト教のおせっかい-無責任な構造にもつながるものだ。イエスの基本的人権はどうなるのだ?あるいは、彼を信じ彼の真似事を真剣に行うものの現実的な尊厳は? 霊の喜び、神の国へ行けること、最後の審判で救われることなどの 概念装置で、支えようとはするが・・。罪を背負う、背負わせるという救いのありかた自体の無理を、感じさせる小説だと思った。最後に大津が危篤で終わるということに、彼の微笑みを遠藤が描けなかったことに、リアリズムと共に、 真正のキリスト者として生きることの深い悲劇を感じざるをえない。しかし、もしかしたら、ここから遠藤は愛というよりも慈悲を、燻蒸させようとしていたのかもしれない。 | ||||
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書物との出会いが人生を変える。この作品との出会いは、確かに私の人生を変えた。 私は遠藤の作品をすべて読んだわけではないが『海と毒薬』や『沈黙』をはじめとして、その代表的な作品には幾許かの飽き足らなさを感じていた。これらの作品に共通する命題のひとつは「神の救いはあるか」ということだと思うのだが、遠藤はいつもこれに答えずにウヤムヤのままに作品を終えてしまう。ゆえに読んでいて救われぬ思いを禁じ得ずにいた。 遠藤が晩年に著したこの『深い河』は違う。この作品において遠藤は初めて答えを出す…「神の救いなど存在しない」と遠藤は叫ぶ。すなわち、大津は暴民のなかで無意味に死んでゆき、磯辺は最愛の妻と再会することもなく物語は終わる。 しかし、この全く救いのない現実のなかで、遠藤が伝えたい真実は明らかである。「真似事の祈り」しかできなかった美津子が口に出して言うまでもなく「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景」なのであり「その人たちを包んで、河が流れていること…人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっている」のである。 さらに遠藤は童話作家の沼田を描くことで「人間の深い河の悲しみ」が人間だけではなく、ありとある生物、生命に繋がっていることを暗示する。このような汎生命主義の立場は従来の遠藤にはなかったもので、人が人を喰う地獄を見た木口が唱える阿弥陀経の一節「彼国常有種々奇妙雑色之鳥」がまことに印象的である。 幾人もの登場人物を描出しながら、物語はきわめて精緻に展開される。畢生の大作という言葉がふさわしい驚異の書である。 | ||||
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複数の人物の物語を平行して進行させ、それらをお互いに絡み合わせようという野心的な構想だが,いかんせん文庫本で350頁ほどの分量、どの物語りも中途半端に終わってしまった感が否めない。磯辺と美津子の出会い,美津子と大津の関係,三条夫妻の存在など,かなり不自然で強引な印象を受けた。 個人的に一番良く書けていたと思うのは磯辺が死んだ妻との思い出をポツリポツリと思い出していく過程である。やや奇をてらった感のある他の登場人物より、こういうどこにでもいる、それでいて他人には決して共有できない悲しみを背負った人間が一番胸に迫った。 しかしこの本のなんとなくまとまりの悪い感じは混沌としたヴァラナシの街、さらには人間そのもの,そしてそれらすべてを包んで流れる「人間の河」、ガンジスの流れのイメージへとつながっているようにも思う。 結局この本のメッセージは「ガンジス川へ来い」ということかも知れない。私はこの本を読んで、来年の休暇はヴァラナシに行くことに決めた。 | ||||
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人生に意味を求め、インドに向かう日本人観光客ら。 この本の中で、登場人物たちは答えを見つけたのか。 「はい、これが答えですよ」とは書かれていない。 だから、読んだ人はきっとインドに行きたくなります。自分で確かめてみようか、ガンジス河のほとりにたたずんで、心静かに、自分の生き様を見つめようかと思わせる本です。 | ||||
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キリスト教に汎神論をくわえた遠藤周作独自の解釈がストーリーの芯になっている。主題の性質上、死、愛、宗教、輪廻など、いわゆる「重い」題材が多く含まれているけれども実は読みやすい。 物語の主な舞台をインドにしたことも含めて、やはり遠藤周作は素晴らしい書き手だと思う。僕は、遠藤周作が『イエスの生涯』で示した「『奇跡』抜きでもちゃんと成立するキリスト観」が大好きなので、この本も一気に読んでしまった。 登場人物の「ヨーロッパの考え方はあまりに明晰で論理的(中略)、東洋人のぼくには何かが見落とされているように思え、従いていけなかったのです」という言葉と、「善悪不二」という仏教用語が印象的。 読みやすさとの引き換えだから仕方ないのだけど、そんなにドラマチックにしなくてもと思ったのと、あと少しだけ話のつづきを書いていて欲しかったので★4つ。 | ||||
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インド出張に合わせ読んでみました。 妻をなくした主人公の一人がその妻の生まれ変わりを捜して インドの辺境の村を訪ねるまで、また、戦争中ビルマのジャングルで 飢えと一緒に戦った戦友の秘密に迫るまで、等それぞれの独自の物語 が進行し、ぐいぐい引き込まれます。一人一人が持っている宿命や業 をすべて引き受けるかのように深い河が流れている。読みながらとても 静謐な時間を持ち続けていたような気がします。 著者はいわずとしれたキリスト者ですが、その彼が最後にたどり着いた テーマの舞台がヒンズー教のインド、というところが面白く、でも 不思議に納得がいきました。 | ||||
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