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深い河
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深い河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全13件 1~13 1/1ページ
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現代の統合主義の試みもすべて同じこと。彼らが、使徒信経よりも大きなものをつくると、必ず何かを落とすことになる。神的な何かを落とすというのではない、人間的な何かを落とすのである。(中略)彼らは「宗教議会」を全人民の大合同と称するが、その実、全気取り屋の大合同にすぎない。(G・K・チェスタトン) 「変わった取り合わせですな」ハードカースルが眉をひそめて言った。「こういうものが古いキリスト教の建物のなかにあるなんて」 「また妙なことをおっしゃりたいんじゃないでしょうね」マウンティーグル令夫人が言った。「その取り合わせの妙がわたしたちの狙いなんですわ。東洋と西洋の偉大な宗教を、仏陀とキリストを一つに結ぼうという考えですの。すべての宗教は一つです。そのことを本当にあなた方にわかっていただきたいわ」 「もしそうだとすれば」ブラウン神父が穏やかに言った。「宗教を手に入れるためにアジアの真ん中まで行く必要はなさそうですな」 「奥様がおっしゃるのは、本来一つの宗教でも、この宝石と同じように、いろいろな局面があるということじゃないのでしょうか」ハードカースルが話し出した。 (中略) 「ああ!」ブラウン神父は鋭く叫んだ──「とうとうその問題にぶつかりましたな。あの人たちにはわからないし、またみなさん、わかろうともなさっていない問題です。すべての宗教は同じだとマウンティーグル夫人はおっしゃる。とんでもないことです! 宗教には非常にさまざまなものがあるというのが事実です。だから、一つの宗教に属する最善の人間が、別の宗教を奉ずる最悪の人間よりも、特定の問題について無神経であるというようなことにもなるのです。(『ブラウン神父の秘密』) 倫理協会とか宗教議会などで決まって繰り返される文句の一つに、当たりのいい寛容を標榜するこういう文句がある──「世界のさまざまの宗教は、祭式や形式こそちがっているが、その教えるところはみな同じだ」というのである。これは嘘だ。事実とは正反対だ。世界のさまざまの宗教は、祭式や形式では大してちがってはい”ない”。大いにちがっているのはその教えるところなのである。(中略)進歩的人士の言うように、問題は、宗教によって制度はちがうが精神は変わらぬなどという陳腐な決まり文句にあるのではない。まったく逆で、制度はいずれも似たようなものなのだ。世界の大宗教はほとんどどれもみな、外面的には同じ制度を擁している──同じく聖職者があり、聖典があり、祭壇があり、修道者の団体があり、特別の祭礼と祝日がある。いや、教義を説く方法まで同じである。ただちがうのは、その教えの内容そのものだ。 (中略) まだつい最近のことだが、ベザント夫人が面白い論文を書いて、世界には実はたった一つの宗教しか存在しないと論じているのを読んだことがある。夫人によれば、現実に存在しているあらゆる宗教は、この唯一の真の宗教を個々に反映したもの、ないしバラバラに歪んで映したものにすぎないという。では、その真の唯一の宗教とは何か、それも自分にははっきり説明できるという。彼女に言わせれば、この普遍的教会は要するに普遍的自我にほかならぬ。つまりわれわれはみな実は一人の人格であり、人と人との間に個人という人格の壁は実在しないという教義である。私流に言いかえれば、彼女は隣人を愛せとは教えない。われわれがすなわち隣人となれと説くのだ。この教えに従えば、すべての人間は全き調和を発見するという。これがベザント夫人の説くところの、深遠にして示唆するところきわめて多大な宗教のあらましである。生まれてから今日まで、私はこれほど猛烈に反対すべき教えを一度も聞いた覚えがない。私は隣人を愛したいと思う。だがそれは、隣人が私にほかならぬためでは断じてない。隣人が断じて私ではないという、まさしくそのためにほかならぬ。(『正統とは何か』) | ||||
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かなりシミがあって読む気持ちになれませんでした。残念です | ||||
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文庫本をクリックしていたが、注文がおかしくなって、キンドル版になった。読んでいない。 文庫本の注文をできないように画策して、キンドル版に誘導しクリックさせた。これは、明らかに詐欺である。ひどい。こんなことがあると、amazonを信用できなくなる。 | ||||
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日本人もインド人も描写がおざなり。作者のパッション、感動、動機が感じられません。日本人はインドで考えたくなる民族なのでしょうか? | ||||
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れる | ||||
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遠藤周作の本は総じて私の肌となじまないようですから、あてにならない主観的なレビューかも知れません。 もちろん名作で、良い小説であるという前提で話しますし、あくまでこういう意見もあるのだと気楽に構えていただければと思います。 歌で言えば、音程はあっているがリズム感がなく上手く聞こえない。という人はカラオケなど行くと見かけますが、それに近い印象を文体から受けました。一言で言ってしまえば好きな文体ではない。もっと露骨にいうなら下手と感じているのですが、「なら書いてみろ」と言われれば私の筆力など到底及びませんので、あまり強くは言えません。 宗教や神、戦争を題材に比較的重たいテーマを扱い、作中にも重苦しい描写も散見されますが、どうも内容ばかりが先に立ってしまい、文学を味わうという没入感を私は得られませんでした。遠藤周作の思考を露骨に読まされているようで、物語に入り込むというより、「ああ、筆者はこういうことが言いたいのか、伝えたいのか」というのが先に来てしまいます。 話の筋もぶつ切り感があり、言いたいことを書くために章立てをしているような印象があります。また、狙いや伏線が透けて見えているところが気になります。登場人物の動き方が理路整然としていて、「迷う、悩む」という描写があっても、その「迷う、悩む」という行為自体に悩みがありません。登場人物は遠藤周作の手によって、意図的に動かされています。つまり、登場人物が全員遠藤周作に見えてくるのです。そのため、物語が予定調和で進んでしまっています。作者がここで悩ませよう、苦しくさせよう、涙を流させよう、例えば三篠にはしきりに不満を言わせて、宗教をまるで理解しない一般市民代表にさせようなど、意図が見えてきてしまって、私は感動できませんでした。(もちろん感動することが小説の目的ではありませんが) 日本人はどんな宗教をも飲み込むような国民性ですので、深い河に出てくる人ほど宗教に嫌悪感を示さないのではと思います。登場人物はどうでも良い、関心がないと言いつつ、宗教を意識しています。結局は全員遠藤周作な訳で、本当の一般人というのは、自分に迷惑がかからないなら、どんな宗教も勝手にやっていてくださいというのが多くの日本人の本音に思います。美津子のように神と呼ぶのさえ滑稽だから、玉ねぎと呼ぶという嫌悪感、それは関心の裏返しです。つまり、登場人物はどこかにいそうな人間でも、高尚な人間像でもなく、まさに遠藤周作の分身。作者の顔が前面に出てくる論文のような印象を受けるのです。 文体も表現にも硬さがあって、例えば三島由紀夫のあっと驚く表現や、村上春樹の独特の比喩や、川端康成の官能的な言葉選びなどは皆無で、非常に実用的なものの言い回しをしています。小説風論文というわけで、くどくどした表現や描写はいいから思想や内容、結論を求める読者にはとても好ましい作家といえます。 長々と拙文を書きなぐりましたが、素晴らしい小説に違いはありません。宗教は奥深く、それを信仰するしない以前に、とても魅力的な人間の創造物に思いますから、その主題に自身の生い立ちも相まって、生涯考え抜いてきた遠藤周作の思想には価値がありますし、宗教を知る上で欠かせない一作となるのではないでしょうか。 | ||||
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作品としてはとても良いかもしれない そんな皆さんのように文学やらに強くないのでその点の評価はできませんが、バラナシに行くぞってなり、事前に読んだ方がいい!と言うものでもない バラナシは実際行って見て凄く深いところで、考えさせられるものも深くあるが 小説のような夜中まで外で飲んだからられるような場所ではないし 重苦しい街でもない その街に溶け込めるような、一体になれるような不思議な魅力の街だった そういった意味で、バラナシに行くぞ!でお勧めするものではない | ||||
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得られるものが何もありませんでした。期待していただけに残念です | ||||
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風呂敷広げてきちんとたたまない(たためない?)感じ。 エンディングに向けてまとめるのが面倒くさくなったような唐突な終わり方に不満が残る。 わずかに美津子だけが心の変化を受容するが、 他の登場人物の心の変化はさほど描かれず、 全編を通して動きのあるシチュエーションの描写にも筆が足りず、消化不良。 磯辺には生まれ変わり(の確証)を見つけて欲しかったし、 大津のその後(最期?)も描ききってほしかった。 取り上げたテーマを料理しきれなかった、 力量・気力不足を露呈した残念な作品。 | ||||
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主人公の一人:大津の思考が理解できなかった。 異端的な信心を持っているのに、 どうしてカトリックの職業である「神父」を目指そうとするのか、 理由が明確に語られていないように思えた。 純粋にキリストを信じたいなら、他にもやり方はあるのではないか。 カトリックにしがみ付く理由が分からない。 その挙句にインドで死体運びに従事する羽目になるとは、完全な迷走である。 キリストに倣って苦行にあこがれるキリスト信者のイメージに適ってはいるが、だからなんなのか。 何がやりたいのか、全然伝わって来ない。 他の登場人物らの話も総じて消化不良だった。 死亡した妻の転生をインドに求めた男の話は完全に尻切れであったし、 太平洋戦争で人肉食の苦難を味わった男も、ガンジスまでわざわざ来た意味が不明瞭に感じられた。 全体的に大風呂敷を広げてはみたけれどうまく閉じられなかった……という物語だと思う。 | ||||
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宮沢賢治も三島由紀夫も遺作は転生や生と死について読者に投げかけてくるが、遠藤周作もまた同様だ。 アプローチはキリスト教のエッセンスを使い、「深い河」ガンジスが中心になり、日本、ヨーロッパ、アジア、インドをまたがる話となっている。 遠藤周作の作品にはミツ、ミツコという名前が数多く出てくる。この作品も「真昼の悪魔」「私が棄てた女」を彷彿させる美津子という女子大生が登場する。彼女は何人かいる主人公のうちの一人であり、読者の我々と供に「ある何か」、を探求する重要な役割を担っている。 美津子はミッション系の大学に通いながらも、無神論者であり酒と男にまみれた自堕落な生活を送っていた。しかし、ある男子学生との出会いから、「ある何か」を追いかける事になるのだ。 「おばかさん」のガストン氏も登場し、今までの作品の集大成を思わせる。さながら銀河鉄道の夜のようだ。まだ氏の作品をすべて読破していないので、まだ散りばめられた過去の登場人物がいるかもしれないが、、、 クリスチャンである作者が意図したことであるかはわからないが、無神論者の美津子とともに日本の文化とキリスト教との関係を書くことで、ほとんど特定の宗教を持たない自分にも、「ある何か、」(作中では「たまねぎ」と表現されているのだが、、、)に対しての探究心がでて、最後まで読みきることができた。 読み終えた後、ぐっと滲み出る感動とともに深い思索に入らざるを得なかった。 神がいるかどうかは、私にはわからない。しかしどの作中人物の心情は無理なく共感できるものだ。神の存在に対して否定も肯定もしないこの作品の性質だろうか、私は無理なく純文学として読める作品であると思う。 読んで自分が感じたことだが、「たまねぎ」は人の中に若しくは人の行為のなかに現れるのかもしれない。 悩める人に、是非。 あの河を渡り、集いの地へ。 | ||||
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インドへの旅行者ツアーに参加した人たちのそれぞれの背景を通して「死とは」「人生とは」を問いかける。著者70歳を過ぎての作品であり、それまで描いてきた「愛」「神」といったテーマを集約してきたように思われる小説である。 太平洋戦争の経験を背負った世代、大学紛争直後の大学に通った世代など、登場する人物は多彩であるが、これまでの著者の作品と同じく、みなそれぞれの思いを重く抱えている。「悲しみの歌」にも登場するお人よしの外人ガストンも病院のボランティアとして登場し、「道化師のように」して病人を慰めている。 やはり大きなテーマは「神」だろう。ツアーの訪問地の一つでも、苦しみを背負いながらも乳を与え続けるインドの女神が紹介される。しかし彼女は「聖母マリアのように清純でも優雅でもない」。さらに、司祭になろうとしてフランスに留学するが「異端」といわれ、ついにはインドにまで来てしまう男が登場する。彼は「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」と言ったことで「異端」といわれてしまったのである。マハトマ・ガンジーの語録集の言葉も引用し、著者はこの作品で著者自身の至った「神」の考えをここに記したのだろう。この考え方が「正統」カトリックとしてはどう評価されるのかは別の問題として、日本人のキリスト教徒としての問題、例えば「沈黙」で出された「日本に本当のキリスト教は根づかないのか」という問いも、ここではこのような形で描かれているのである。 遠藤周作さんは小説家としてのはじめから「神」や「愛」、「罪の意識」といったテーマをくり返しくり返し問いかけてきた作家である。幾つかの作品を経て、これらのテーマがこの一冊に流れ込んでいる。タイトルになったガンジス河の沈黙する深い流れのように。 | ||||
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遠藤先生のキリスト教に関する本はほとんど読みましたが、「私のイエス」 「私にとって神とは」等のエッセイ本がいいと思います。先生の小説は文章がいまいちで、本書の場合は特に内容が散漫に思えたのと、読者の感動を先読みして書いているようななんだか白けた気分にもなりました。 | ||||
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