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深い河
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深い河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全166件 141~160 8/9ページ
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死を感じるとき、神を信じることが出来るひとがいる。 その神は、どんなものでも受け入れる何かなのかもしれない。 生きている私たちは、諍いをする、それはもう、あらゆることに。それは、愛せず、信頼できないことによるのだろうか。 最後に危篤になる青年は、何を思っただろう。もし、全てを受け入れていくものに安らかに導かれたなら(きっとそうだろう)、この現世に残された、いつのまにか作品に出てくるカメラマンの青年のように生きてしまうかも知れない私たちは、取り残されたような恐ろしさに襲われる。 私たちの中に、深い河を持ちたいと思う。恐ろしさをも、受け入れるために。 | ||||
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ご存知のように、遠藤周作は、キリスト教作家です。 日本人でありながら、キリスト教一家に生まれ、キリスト教作品を書き続けた遠藤周作。 しかし、その遠藤周作が、最後にいきついたのは? なぜ、遠藤周作は最後までキリストを描かなかったのでしょうか? なぜ、遠藤周作はインドに?ガンジスに?キリスト教以外の宗教の話を? なぜ? 『ダ=ヴィンチ=コード』より、深い謎と、宗教問題がここに提示されています。 キリスト教作家遠藤周作が最後にいきついた答えとは・・。 日本が誇るべきキリスト教作家遠藤周作渾身の傑作。 | ||||
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宗教、思想、生命、戦争、愛・・・ とても深く考えさせられる作品でした。 様々な目的を胸にインドへ旅立った人々。 ラストに向けそれぞれの答えを見出す事が出来た、その矢先にあの衝撃的な最後。 遠藤周作の作品を今回初めて読んだ私でも、とても読みやすく面白かったです。 登場人物の観光客のように、初めて触れるインドの文化に私達も目を背けてしまうかもしれない。 だけどそれは最初だけで、読み進めていくうちに この本、そしてインドそのものに深くはまってしまいました。 | ||||
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宮沢賢治も三島由紀夫も遺作は転生や生と死について読者に投げかけてくるが、遠藤周作もまた同様だ。 アプローチはキリスト教のエッセンスを使い、「深い河」ガンジスが中心になり、日本、ヨーロッパ、アジア、インドをまたがる話となっている。 遠藤周作の作品にはミツ、ミツコという名前が数多く出てくる。この作品も「真昼の悪魔」「私が棄てた女」を彷彿させる美津子という女子大生が登場する。彼女は何人かいる主人公のうちの一人であり、読者の我々と供に「ある何か」、を探求する重要な役割を担っている。 美津子はミッション系の大学に通いながらも、無神論者であり酒と男にまみれた自堕落な生活を送っていた。しかし、ある男子学生との出会いから、「ある何か」を追いかける事になるのだ。 「おばかさん」のガストン氏も登場し、今までの作品の集大成を思わせる。さながら銀河鉄道の夜のようだ。まだ氏の作品をすべて読破していないので、まだ散りばめられた過去の登場人物がいるかもしれないが、、、 クリスチャンである作者が意図したことであるかはわからないが、無神論者の美津子とともに日本の文化とキリスト教との関係を書くことで、ほとんど特定の宗教を持たない自分にも、「ある何か、」(作中では「たまねぎ」と表現されているのだが、、、)に対しての探究心がでて、最後まで読みきることができた。 読み終えた後、ぐっと滲み出る感動とともに深い思索に入らざるを得なかった。 神がいるかどうかは、私にはわからない。しかしどの作中人物の心情は無理なく共感できるものだ。神の存在に対して否定も肯定もしないこの作品の性質だろうか、私は無理なく純文学として読める作品であると思う。 読んで自分が感じたことだが、「たまねぎ」は人の中に若しくは人の行為のなかに現れるのかもしれない。 悩める人に、是非。 あの河を渡り、集いの地へ。 | ||||
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私が、インドに行くきっかけになった本です。 19の時にこの本に出会い、生も死も、両方だきしめるガンジス河、ヒンドゥー教ではこの河に入ることが一生の目標にもなる聖なる河に、どうしても入ってみたくなった。 実際ウ゛ァラナシには、オレンジの服を着たガンジス河を目指し、遠くの町から歩いて来た人がたくさんいた。 水を飲む人もたくさんいる。本当に、日本にはない、インド人の想いがつまった河だと思い知らされた。 あの、夜明けの礼拝の祈りの声と、薄やみにはえるオレンジの服を見て、この本のことを思っていた。 この本に出会って良かった。 まったく違う、文化、価値観に触れるきっかけとなった忘れられない本だ。 | ||||
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「その一人一人に人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背中に背負って生きている。ガンジスの河のなかで彼等は浄化せねばならない何かを持っている」・・・・憎しみとエゴイズムしかない世の中においても、「信じるもの」をひたすら追求していった大津と、それを蔑みながらも心の中ではその生き方をどこか望んでいた美津子の「不可解な糸の結びつけ」が特に印象的だった。 | ||||
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何だろう,この本を読み終えた後の無常観は.一体何処にこの物語の救いはあるのだ?かつて著者は沈黙という作品で信者と共に苦しむ神を描いた.この作品ではそのような描写すらない.無力で弱々しい一人の堕ちた神父が登場するだけだ.信仰とは一体何なのだろうか. 全てを飲み込む大いなるガンジスの流れ.その前には全ての物事は無きに等しい・・・ | ||||
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インドへの旅行者ツアーに参加した人たちのそれぞれの背景を通して「死とは」「人生とは」を問いかける。著者70歳を過ぎての作品であり、それまで描いてきた「愛」「神」といったテーマを集約してきたように思われる小説である。 太平洋戦争の経験を背負った世代、大学紛争直後の大学に通った世代など、登場する人物は多彩であるが、これまでの著者の作品と同じく、みなそれぞれの思いを重く抱えている。「悲しみの歌」にも登場するお人よしの外人ガストンも病院のボランティアとして登場し、「道化師のように」して病人を慰めている。 やはり大きなテーマは「神」だろう。ツアーの訪問地の一つでも、苦しみを背負いながらも乳を与え続けるインドの女神が紹介される。しかし彼女は「聖母マリアのように清純でも優雅でもない」。さらに、司祭になろうとしてフランスに留学するが「異端」といわれ、ついにはインドにまで来てしまう男が登場する。彼は「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」と言ったことで「異端」といわれてしまったのである。マハトマ・ガンジーの語録集の言葉も引用し、著者はこの作品で著者自身の至った「神」の考えをここに記したのだろう。この考え方が「正統」カトリックとしてはどう評価されるのかは別の問題として、日本人のキリスト教徒としての問題、例えば「沈黙」で出された「日本に本当のキリスト教は根づかないのか」という問いも、ここではこのような形で描かれているのである。 遠藤周作さんは小説家としてのはじめから「神」や「愛」、「罪の意識」といったテーマをくり返しくり返し問いかけてきた作家である。幾つかの作品を経て、これらのテーマがこの一冊に流れ込んでいる。タイトルになったガンジス河の沈黙する深い流れのように。 | ||||
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登場人物がインド旅行に、それぞれの訳ありで出発する。その旅行記をまとめた、小説。 一番印象に残ったのは、ガンで死に逝く妻が、夫に、「私、生まれ変わるから。生まれ変わった私を見つけて。」という場面。 自分を忘れられたくない、切ない女心と、それを聞かされた男心。 絶妙な対比と、心理描写。遠藤氏ならではの表現。 その夫は、インドに日本から生まれ変わった記憶を持つ少女がいる事を聞き、インド旅行に参加する。 そんなに早く生まれ変わったんじゃ、世の中が大変なことになる?だろうし、馬鹿馬鹿しいって笑う人もいるだろう。 しかし、小説の中でその男は本当にインドへ向かい、真剣に妻を探す。 インドで登場人物たちは、母なる河、カンジスと向き合い、人生やら、愛やら、色んなものと、向き合う。 私たちは、どこに向かって流れていくのか。 人生って河の流れのようなものかもしれない。 | ||||
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「愛」とか「神様」とかそんなものは嘘っぽくて、遠い存在だと思ってきたけど、少し身近に感じて、涙が出る。そんな作品です。 ガンジス川のほとり。混沌の中にあって、でもそこには偽善はない。と主人公の一人美津子は、言っています。 安易なヒューマニズムばかりのこの世の中で、どうしても空虚感を感じてしまう、美津子の気持ちがよく分かるなぁ。と思いました。 | ||||
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妻の臨終の言葉に導かれてインド訪問を決意した「磯部の場合」では「転生輪廻」を、若い頃の苦い思い出の対象である大津を心の端に求める「美津子の場合」では「心の充足」を、幼少期の心の痛みから妻にさえ苦しみや悲しみを打ち明けらることができない童話作家「沼田の場合」では「人生の孤独」を、第二次世界大戦中の出来事から苦悩の内に死んでいった戦友、塚田を思いやる「木口の場合」では「罪と許し」を、純粋な心の持ち主ゆえいかなる体制にも収まりきれない「大津の場合」では「無償の愛」を説いているが、決して説教くさくなく、それぞれの人生や気持ちが魅力的に描かれている。 私は若い頃は氏の「沈黙」が好きだったが、今は「深い河」の混沌というか歯切れの悪さのほうが性に合う。「人間のやる所業には絶対に正しいと言えることはない。逆にどんな悪行にも救いの種がひそんでいる。(仏教のことばでは善悪不二というそうである。)」という木口の言葉が含む自己に対する謙虚さと他に対する受容が胸に響く。生き方を法律や(宗教の)戒律で厳格に縛りつけることは決して、世の平和、心の平安にはつながらないと思う。 この小説では映画化されているが、小説と映画では大津の死ぬ理由も、何に満足して死んでいったかも異なる。私は小説のほうに軍配を上げたいが、少々、ストイックさを求めすぎるかな。 | ||||
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個人的に仏教に親しんでいるので、 キリスト教色の強いらしい遠藤文学は敬遠していました。 しかし、インドが舞台となっている本作は、 意外とキリスト教に密着した作風ではなく、非常に読みやすかったです。 本筋はまず、「磯辺」「美津子」「沼田」「木口」の場合というように、 それぞれの主人公の視点で、インドへ向かうまでの経緯が描かれます。 そして転生した妻を捜しに、学生時代の知り合いを捜しに…… それぞれの思いを胸に、皆はインドへ到着します。 と、そこに独立して、もう一人の、或いは真の主人公「大津」の場合が挿まれます。 彼は神父を目指していたにも関わらず、「神は人それぞれの中に存在する」 という信念のため、異端視され、結局インドへとたどり着きます。 仏教では「仏は人類、宇宙と同一である」という考えもあり、 キリスト教と仏教的な思想を混在させる意外な視点に、 遠藤さんの幅広い宗教への知識と理解を感じました。 信じている宗教に関係なく、様々な宗教への理解を深められる稀有な傑作です。 | ||||
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インド、特にガンジス河のほとりのバラナシを舞台にした純文学。 妻を亡くしてから初めて愛や妻との縁について考え始めた磯部、本当の自分を誰にも出せず九官鳥等の鳥にだけ本心を話すことのできた沼田、太平洋戦争時にビルマで地獄のような体験をした木口、結局自分は誰のことも愛することなどできないのだと考える美津子、そして美津子の大学の同窓生でキリシタンながらヨーロッパ的な善と悪を峻別する考え方に共感できずにいる大津、それぞれの人生を微妙に絡めつつ、裕福な者から貧しい者まで全ての者を分け隔てなく受けとめる母なる河・ガンジス河が彼らをいざなう。 人生とは愛とは、そして神とは…不思議とそんなことを考えたり語りたくなってしまうバラナシ、そしてガンジス河。 「他の国・民族が持つ信仰とはもちろんのこと、たとえ自分の周りの人々が持つ信仰とは違えども、その人がその人の育った環境や価値観から培った信仰であれば、それは人それぞれであって良い」とこの本に教えてもらった気がする。 インド(特にバラナシ)へ行ったことのある方は共感しながら読めるであろうし、行ったことのない方が読んだらインドへ1度行ってみたいと思うような本であると思う。 ソレデハ… | ||||
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本書の主人公は、絶対に対する信仰は、すべからく懐疑を招き、 ニヒリズムに陥ると洞察したニーチェの存在すら知らぬまま生涯を終えたのだろう・・・ 信仰というロマン(理想)を徹底的に殺すことで、リアル(現実)の厳しさが浮上し、 生の交換不可能性、生の一回性と否応無く向き合わされる設定となっており、遠藤周作氏の作品の中では群を抜く秀作である。 教養と云われた往時を忘れそうになるほど、文学は娯楽化してしまっているが、 必要な人だけに生の糧を与える文学の醍醐味は、本書の結末の如く、救いのなさにこそ存在する厳しいものである。 | ||||
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ストーリーをおっていく楽しみ方は、この作品には向いてない様におもいます。 自分自身「人間とは何か?死は何を意味するのか?」等に悩む青年に成り切って読むと面白いと思います。 日本人ではこれらの悩みを、実際の宗教になぞらえて考えるのは難しいし、具体的な宗教を勉強するのは億劫でもあり、またそれらを論じるのは失礼ではないかと考えてしまうと思います。 この作品はそんな人でも世界の宗教を身近に感じさせてくれるものです。 小説として物足りないと感じるのは、テーマ、試みがとても大きい割にボリュームが少ないためです。登場人物も多いので、各人物が記号的に使われてる感が否めません。無制限で書いたら凄い大作になっていたと思います。 | ||||
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死後どうなるかの扱いについて、キリスト教は天国に行き、仏教は転生へと進むと単純に考えていましたが、この本を読んでその両者が融合できた感じがしました。 善人の描写は良いのですが、わがままな人間の描写にリアリティを欠くように感じました。その点が満点でない理由です。 この作品から遠藤周作に入っていくのもいいのではないでしょうか。 | ||||
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登場人物が多いせいか、「海と毒薬」「沈黙」などと比べると、 内容の薄い印象がある。 ラストもいまひとつ、しっくりこない。 とはいえ、遠藤周作の思想の集大成とも言える内容で、 著者に興味があるなら、読んでおきたい一冊。 おなじみのガストンも登場します。 | ||||
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遠藤先生のキリスト教に関する本はほとんど読みましたが、「私のイエス」 「私にとって神とは」等のエッセイ本がいいと思います。先生の小説は文章がいまいちで、本書の場合は特に内容が散漫に思えたのと、読者の感動を先読みして書いているようななんだか白けた気分にもなりました。 | ||||
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インドへのツアー旅行、それぞれの思いを抱えて旅をする人々。 人って、誰しも「救い」を求めていて、それを見出す先は実は何でもいいのではないか、って思いました。 神学生大津の言うように「たまねぎ」でもいいんです。 童話作家の沼田のように鳥でも、モノでも、何でも。 大津の台詞にある、「日本人に合ったキリスト教」っていう考え方が好きです。 仏蘭西の神学校で、違和感を拭い去れない大津。 長い西洋の歴史の中に育まれた思想に、全然バックグラウンドの違う人間がすんなりと入り込める訳がない。 人は自分の国・民族・家族、そして自分自身の人生の中で培った価値観の中でのみ、救いを求め、それを見出せるのだと思います。 この本で、作者に「それでいいんだよ」と言われた気がします。 | ||||
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様々な過去を背負って生きている人。 人生に苛まれ、今もなお答えが導き出せないでいる人々。 みんなその手がかりを求め、インドへと足を、心を踏み込む。 俺はいまその跡を追ってインドに触れようとしている。 俺はこの本の新たな登場人物としてインドに、ガンガーに、確固たる魂を持って踏み入れようとしている。 この本は俺をインドへと導いてやまない。 | ||||
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