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深い河
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深い河の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全166件 41~60 3/9ページ
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ありがとうございました。 | ||||
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若い時から遠藤周作さんのエッセイを読んだり、出演されているテレビを見たりしていた私でしたが、あまり馴染みのないキリスト教のお話がよく理解出来ませんでした。 それでも、あたたかい方だな、とずっと気になる方ではありました。 遠藤さんも亡くなられ、若かった私も50になり、縁あってテレビでこの本を知りました。 手を尽くして取り寄せ、一気に読みました。 まるで導かれたように。 『神に至る道はひとつではない。』 不器用に生きる登場人物たち。 ひとりひとりが抱える苦しみや哀しみ。 そのなかでそれぞれが懸命に生きている。 どこにも属していなくとも、信心深く生きることはできる。 「その日」が来るまで精いっぱい生きよう。 ラストメッセージ、確かに受け取りました。 ありがとうございました。 | ||||
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文庫本をクリックしていたが、注文がおかしくなって、キンドル版になった。読んでいない。 文庫本の注文をできないように画策して、キンドル版に誘導しクリックさせた。これは、明らかに詐欺である。ひどい。こんなことがあると、amazonを信用できなくなる。 | ||||
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登場人物のひとり大津は、「日本人の心にあう基督教を考えたいんです」と言いますが、これは、遠藤周作さん自身も同じようなことを言っています。けれども、ふたりは、キリスト教を日本人向けにしたのではなく、むしろ、世界のどんな人間にも通じるものをキリスト教から絞り出したのではないでしょうか。 「あの樹が言ったの。命は決して消えないって」 「わたくし……必ず……生まれ変わるから、この世界の何処かに。探して……わたくしを見つけて……約束よ、約束よ」 「玉ねぎ(神、あるいはイエスのこと=引用者注)はある場所で棄てられたぼくをいつの間にか別の場所で生かしてくれました」 「玉ねぎは彼らの心のなかに生きつづけました。玉ねぎは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです」 「玉ねぎは今、あなたの前にいるこのぼくのなかにも生きているんですから」 「あの方(イエスのこと=引用者注)はエルサレムで刑にあった後、色々な国を放浪しておられるのです。今でさえも。色々な国、ですが。たとえば印度、ベトナム、中国、韓国、台湾」 「少なくとも奥さまは磯部さんのなかに」「確かに転生していらっしゃいます」 「彼(イエスのこと=引用者注)は他の人間のなかに転生した。二千年ちかい歳月の後も、今の修道女たちのなかに転生し、大津の中に転生した」 これらの言葉は、新約聖書がイエスの復活と語っていることを、あるいは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という一節を、さらには、他の宗教が転生と語ることを、どんな宗教の人にも、あるいは、宗教を持たない人にも、伝えようとしているのではないでしょうか。 神についても、本書ではおなじ試みがなされています。 「それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」 「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」 「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」 インドのその河は、誰をも何をも、すべてを受け入れます。 「ぼくが神を棄てようとしても……神はぼくを棄てないのです」 「おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」 「日本人にとってキリスト教とは何か: 遠藤周作『深い河』から考える」という本で、若松英輔さんが遠藤周作さんを読み解いていますが、ぎゃくに、「深い河」では遠藤さんが若松さんを語っているようにも思えます。「深い河」は小説であり、若松さんの名前は出てきませんし、若松さんの出版活動が始まるずっと前の作品なのですが。 | ||||
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インドのガンジス川であらゆる過去を持つ人々が交差する。好きなタイプな小説と思い手に取ったが、大正解だった。 後悔や懺悔、悲しみを背負った登場人物が救いを求めている中で、ひとり信仰心を持たない美津子が、物語を牽引している。 宗教の混沌とした矛盾そのものが、世界に争いや災いももたらしているわけで、なぜそこから脱げ出さないのかと説得する美津子こそ常識的に考えると正論な訳だけど、やはり人は後悔や懺悔、悲しみを乗り越えるためには、説明のつかない矛盾に満ちた探求や試行錯誤を経なければ救いの境地に辿り着けないということだろう。 たとえそれが救いのない結末であったとしても、それを認め、受け入れるのがガンジス川に象徴されるなにかであろう。 それをひとは神と呼んだり、たまねぎと呼んだり、もしくは愛と呼ぶ人もいるでしょう。 遠藤周作はちょっと重そうで避けて通って来たけど、普遍的なテーマなのかとても現代の心にも馴染み良い素晴らしい作品でした。 | ||||
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日本人もインド人も描写がおざなり。作者のパッション、感動、動機が感じられません。日本人はインドで考えたくなる民族なのでしょうか? | ||||
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日本人にとってのキリスト教、母なるもの、西洋の合理的なものと曖昧な日本の対比に加えて、インドの混沌。キリスト教の神が、仏教やヒンズー教の神と相入れないものではなくて、すべてを包み込む存在であること。— それまでに作者が書いてきたキリスト教についての考えが集約され、昇華している印象。 ラストシーンの後、美津子はどうしたのだろう、どうするだろうと作者は考えていたのだろう。三條は、美津子から聞かなくても、人生のどこかで事の顛末を知ることになるのではないかという予感。それぞれの登場人物の立場に寄り添えば、何度でも読み返して、何度でも違うことを考えるだろうと思う。 第二バチカン公会議からだいぶ経ち、遠藤周作のキリスト教感は、現代の教会ではどれぐらい受け入れられるようになったのだろうか。 | ||||
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れる | ||||
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遠藤周作の本は総じて私の肌となじまないようですから、あてにならない主観的なレビューかも知れません。 もちろん名作で、良い小説であるという前提で話しますし、あくまでこういう意見もあるのだと気楽に構えていただければと思います。 歌で言えば、音程はあっているがリズム感がなく上手く聞こえない。という人はカラオケなど行くと見かけますが、それに近い印象を文体から受けました。一言で言ってしまえば好きな文体ではない。もっと露骨にいうなら下手と感じているのですが、「なら書いてみろ」と言われれば私の筆力など到底及びませんので、あまり強くは言えません。 宗教や神、戦争を題材に比較的重たいテーマを扱い、作中にも重苦しい描写も散見されますが、どうも内容ばかりが先に立ってしまい、文学を味わうという没入感を私は得られませんでした。遠藤周作の思考を露骨に読まされているようで、物語に入り込むというより、「ああ、筆者はこういうことが言いたいのか、伝えたいのか」というのが先に来てしまいます。 話の筋もぶつ切り感があり、言いたいことを書くために章立てをしているような印象があります。また、狙いや伏線が透けて見えているところが気になります。登場人物の動き方が理路整然としていて、「迷う、悩む」という描写があっても、その「迷う、悩む」という行為自体に悩みがありません。登場人物は遠藤周作の手によって、意図的に動かされています。つまり、登場人物が全員遠藤周作に見えてくるのです。そのため、物語が予定調和で進んでしまっています。作者がここで悩ませよう、苦しくさせよう、涙を流させよう、例えば三篠にはしきりに不満を言わせて、宗教をまるで理解しない一般市民代表にさせようなど、意図が見えてきてしまって、私は感動できませんでした。(もちろん感動することが小説の目的ではありませんが) 日本人はどんな宗教をも飲み込むような国民性ですので、深い河に出てくる人ほど宗教に嫌悪感を示さないのではと思います。登場人物はどうでも良い、関心がないと言いつつ、宗教を意識しています。結局は全員遠藤周作な訳で、本当の一般人というのは、自分に迷惑がかからないなら、どんな宗教も勝手にやっていてくださいというのが多くの日本人の本音に思います。美津子のように神と呼ぶのさえ滑稽だから、玉ねぎと呼ぶという嫌悪感、それは関心の裏返しです。つまり、登場人物はどこかにいそうな人間でも、高尚な人間像でもなく、まさに遠藤周作の分身。作者の顔が前面に出てくる論文のような印象を受けるのです。 文体も表現にも硬さがあって、例えば三島由紀夫のあっと驚く表現や、村上春樹の独特の比喩や、川端康成の官能的な言葉選びなどは皆無で、非常に実用的なものの言い回しをしています。小説風論文というわけで、くどくどした表現や描写はいいから思想や内容、結論を求める読者にはとても好ましい作家といえます。 長々と拙文を書きなぐりましたが、素晴らしい小説に違いはありません。宗教は奥深く、それを信仰するしない以前に、とても魅力的な人間の創造物に思いますから、その主題に自身の生い立ちも相まって、生涯考え抜いてきた遠藤周作の思想には価値がありますし、宗教を知る上で欠かせない一作となるのではないでしょうか。 | ||||
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Twitterで話題になっていたから読んだが、結局インドなのか、と思った。 インドのガンジス川にすべての宗教を包含するものを見出すと言う考え方は、 インドに行ったことのない人間にとっては、なんとなく聞き古した結論のように思われた。 遠藤周作の時代には、目新しい発想だったのだろうか。 頭の中に、自分探しの若者やバックパッカーたちのイメージがちらついて、 インドに行けば人生変わるよ! と言うキャッチフレーズも思い浮かぶ。 こういうことを言われると天邪鬼な人間なので、ますますインドから足が遠のく。 インドが舞台の映画は「きっと、うまく行く」「裁き」「スラムドッグ・ミリオネア」あたりしか見たことがないが、裁きと通じる空気感を感じた。合う人は合う、合わない人は合わない。 登場人物の中で美津子には共感できた。空疎な自分を抱えて彷徨う、何かになりきれない自分。ただ結婚観や男女観において全体的に人物設計が古く、令和の時代においては、昭和気質の人々には感情移入するというところまではいかない。そうか、戦争を知らない世代と知っている世代がこんなふうに交錯していたのか、と思う程度である。 塚田が人肉を食らったという告白も、置かれた状況を思えば容易に予想がつくし、そこまで衝撃的でもない。悔やむべきは、あの時代、戦争軍人に適切なカウンセリングを受ける術がなかったことだ。 遠藤周作は、沈黙、海と毒薬、王妃マリー・アントワネット、悲しみの歌を読んだが、好きな作家である。彼は人の悲しみをとらえるのが上手い。如才なく生きることができない人間の気持ちをよく描いている。またクリスチャンである彼は、近代以降の日本人の運命ー日本人の中に植え付けられたヨーロッパが、決して本物のヨーロッパたり得ないこと、常にその違いに苦しみ続けることーをよく知っている。陰を抱えて生きざるを得ない人間に優しい小説家である。 ただ、古いのだ。鼻につくのだ。大津をからかいたくなる、美津子の気持ちはよく分かる。小説自体がまるで大津のようだ。今どき宗教なんて、カトリックの司祭が小児虐待スキャンダルで権威が揺らいでいる時に、フランスのカトリック教会だなんて。 世界は遠藤周作の時代から比べると狭くなった。だから、前提の異なる話を読んでも、共通するものは見出せないよ、と感じた。 | ||||
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学生のころ「沈黙」を読んで感動したことを覚えています。その後だいぶ経ってから「海と毒薬」を読みました。重い主題と真正面から取り組んだ作品にまた感動しました。私の中では遠藤周作氏は尊敬する作家でした。しかしどういうわけかその後しばらくの間は作品を読んでいませんでした。辛うじて文芸雑誌に掲載されていた「狐狸庵先生」のものを読んで笑い転げたくらいです。そして先述の作品とあまりにも違う内容にビックリでした。 同じ人が書いたとは思えないくらいでした。カトリック信者としてのまじめな作品とちょっとお下品な笑いをとる数々の作品。氏の心のバランスを崩さないためだったのでしょうか。 「深い河」は「沈黙」と同じような系統の作品だと思います。神学生の大津の人物像に共感しました。特別に不器用で正直でそのために損ばかりしているひと。世間的に見ればなんて馬鹿なんだろうと思いますが、その純粋さに惹かれます。 インドには行ったことはありませんが当時の状況に心が痛む思いがします。今はどのくらい変わっているのでしょう。インドに惹かれていく人が多いと聞きますが、ガンジス河の聖も濁も併せて飲み込んだ行くその大きさと深さに魅せられるのでしょうか。読後 海のように広くて茶色に濁った水が滔々と流れる様が目に浮かぶようでした。 | ||||
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ガンジス河には、文字通りの意味で死に場所を求めて歩いて来る人たちがいるらしい。 生と死をくっきり分けて考えていた自分としては、そんな考え方があるのか!と思った。 ガンジス河に行ってみたくなった。 | ||||
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宗教文学に興味があり沈黙を学生の時に読んで遠藤周作さんが、自分の棺桶に沈黙とこの本を入れてくれと言われた事を知り、読みました。 色々な登場人物の思いがあり、インドとガンジス川に興味を持ちました。 あらためて、神のことを考えさせていただきました。 | ||||
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生きていれば傷のない人なんていない。 誰しもが必ず どこかで自分と向き合う場面に遭遇するのではないかな。 インドは人の心を鎮め 浄めるような何か大きな力があるんだろうな。生きるって切ない。折に触れて読み返していきたい大切な一冊。 | ||||
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たとえば以下のような描写。2020年なら全く問題ないことが、当時は殴られるリスクがあるほど反社会的な行為だったらしい。 「そんな飢えや貧しさをまったく知らないこの若夫婦は、飛行機のなかでも平気で凭れあったり、肩に手をかけ合った。もしビルマのジャングルで彼と悲惨な退却をした戦友たちがここにいたら、きっと撲りつけたろう。」 また以下の描写などには夫婦愛の欠片も感じられない。これが一般論として語られていることに違和感があります。 「結婚生活とは彼にとって、たがいに世話したり面倒をみたりする男女の分業的な助けあいだった。同じ屋根の下で生活を共にして、惚れたはれたなどという気持が急速に消滅してしまえば、あとはお互いがどのように役にたつか、便利かが問題になるのだ。」 | ||||
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友達の愛読書のため、気になって購入。 言葉は難しいところもありますが、のめり込む魅力あり。これは読むといいです。 | ||||
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高校の時に「決戦の時」を読んで以来の遠藤周作の作品。人それぞれに様々な苦悩があり、その先に何があるのかをガンジス河に求めてインドを目指す。物質的な豊かを超越した人生の意味を小説を通じ考えさせられた。 | ||||
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遠藤氏の著作は好きで多くを読んでいますが、こちらは初めて読む方にも受け入れやすい内容になっています。信仰とは、愛とは、矜持とは何かを問う内容ですが、時代背景や登場人物も現代に近く入りやすいので、是非全ての方に読んで頂きたい内容です。 | ||||
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遠藤周作が命をかけて書いた小説。これ書かなければ、ノーベル賞もらってたかも 笑。 素晴らしい。 | ||||
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世界のどの宗教であれ、無心論者の自分が宗教色の濃い本に向かうと受け止めきれなくて挫折することが大半なのだけど、これは旅行ジャーナル的な要素も多く、また作者の伝えようとせんとするところもとても分かりやすくて余裕で読破できた。 また、言及する宗教が1つでないことも人間が作り出した観念であるところの「神」という存在のとらえ方というか認識の仕方が少し自分の中でクリアになった。 しばらく時間をおいて再読を重ねるのが良い作品だと思う。 | ||||
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