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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 161~180 9/17ページ
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此の拙い書評などではとても語りきれない、魂に響く物語である。神の存在を問い、神々の沈黙から神性の否定という禁忌に踏み込む、文学史に残る名作。 日本での基督教の布教は、伝来以来主に西日本で栄えたが、豊臣秀吉以降禁教令が強化され、徳川家光の頃に鎖国が完成される。日本の信徒達は激しい迫害に曝され、司祭達も信徒と共に地下に潜伏したが捕らえられ、或る者は殉教し、或る者は棄教した。 ポルトガルのイエズス会司祭セバスチャン・ロドリゴは、師のクリストヴァン・フェレイラ教父が激しい拷問の末、棄教したという信じ難い報告に衝撃を受け、自らの目で真実を確かめるべく、遥かな日本を目指した。1638年3月25日に本国を出港、7月25日喜望峰通過、10月9日ゴア到着、1639年5月1日澳門(マカオ)へ到着。航海中に日本では島原の乱が発生、鎮圧され信徒は皆殺しとなり、日本での布教は絶望的な状況となっていた。 司祭達は、『基督は美しいものや善いもののために死んだのではない。美しいものや善いもののために死ぬことはやさしいのだが、みじめなものや腐敗したものたちのために死ぬのはむつかしい』という、鉄の信念を抱いて、激しい迫害の待つ日本へ、数多の先達伝道者達の足跡を慕い、自ら踏み込んで行った。 首尾よく日本潜入を果たし、キチジローの先導で潜伏信徒に会い、暫くの間、洗礼、告悔やミサを続けていたが、遂に役人の探索が及び、信徒が逮捕され、棄教を拒む者には激しい拷問が加えられる様になる。 「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」キチジローの此の言葉は、基督教の司祭達が最も怖れる疑念を問いかけるものであった。ロドリゴもまた激しく苛まわれる。その書簡の言葉を借りれば『迫害が起って今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。』信徒達が殉死しても尚、黙した儘何の奇蹟も起きる事はなかった。つまり、神の沈黙である。 疑念は愈々深まる。トモギ村の信徒2人が水磔で殉教し、遺体を焼かれて海に捨てられるのを見た時、ロドリゴ自身がキチジローの裏切りで逮捕され、牢の中から信徒の斬刑を見た時、共に潜入してきた司祭ガルペが信徒の命を救う為に殉教するのを見た時、神はやはりその犠牲を前にして沈黙していた。ロドリゴの胸に悲惨な殉死の強い衝撃と共に、激しい神の沈黙への疑問が突き上げて来る。 『何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教をーーたとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭を吹くような赫かしい殉教を夢みすぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような赫やかしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。』『この海の不気味な静かさのうしろには私は神の沈黙をーー神が人々の歎きの声に腕をこまねいたまま、黙っていられるような気がして……。』 「しかし、現実に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中のまとっている襤褸と同じように、みすぼらしく、あわれだった。」 井上筑後守や、棄教して今や沢野忠庵となった師のフェレイラに、数多の信徒の拷問や棄教への説得を繰り返され、ロドリゴは祈り、恐れ、慄き、それらを打ち捨てて更に強く祈れども、何故か神は沈黙した儘であった。精神が崩壊する瀬戸際まで追い詰められ、最後に聴かされたのは穴吊りされた信徒の呻き声であった。ロドリゴは狂乱せんばかりに懊悩する。 井上筑後守はいう『お前は彼等のために死のうとてこの国に来たと言う。だが事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ』 フェレイラはいう『彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで(中略)神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。(中略)日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。(中略)日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない』 『わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ。(中略)役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、繩もとき、薬もつけようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬかと。役人は笑って教えてくれた。彼等はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬかぎり、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと。』 フェレイラは、ロドリゴの信念は教会を裏切る事、教会の汚点となる事への恐怖に過ぎず、信仰は誤魔化しであると告げ、教会の信仰と真実の愛とは別であるという決定的な選択を迫る。 『わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら(中略)たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう。(中略)基督は、人々のために、たしかに転んだだろう。(中略)基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても』 そして混濁する意識の中、誰もなしえなかった一番辛い愛の行為を、最も大きな愛の行為をするのだと、師に促されたロドリゴは、踏み絵に足をかけた。哀しげな銅版の基督はロドリゴへ語りかけた。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ、と。 ロドリゴ(史実ではイタリア人司祭ジュゼッペ・キアラ)は岡田三右衛門という刑死した男の名と、その未亡人を賜り、江戸小日向町の切支丹屋敷に移った。延宝9年7月26日(1685年8月25日)、64歳で逝去。基督教では禁忌の火葬で葬られた。戒名入專淨眞信士。 | ||||
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久しぶりに読み返したが、何度読んでも思い。神は心の中にだけ。 | ||||
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現在上映中の映画沈黙-サイレンス-を見る前に見ておきたいなと思い手に取ったのがきっかけです。 私はすーっと文章が入って来てとても読みやすかったです。 日本にもこのような宗教弾圧があった歴史を知ることができたのと、主人公のパードレ・ロドリゴの心の描写がリアルにつたわって来ました。とても悲しい内容だったけど好きな作品でした。 | ||||
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かつて日本で起こった宗教弾圧。 今の平和な時節だからこそ、眼をそらさないで欲しい。 世界での宗教紛争と重ねて、読んで欲しい。 | ||||
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まずはじめに、思うことは、人は生きている間に何度も厳しい選択を迫られる。 それはある意味「踏み絵」である。 「踏み絵」は時代の「踏み絵」でもあった。 例えば、美しいもの、希望、夢を戦争や言論弾圧で多くがねじ伏せられ、踏み絵を踏んだ。生きていかなければならなかったからだ。 現代でもなお「踏み絵」は踏まされているのだ。 厳しい選択の中でも、ねじ伏せられず、踏み絵を踏まずに死んでいった人がいる。 殉教である。 殉教した人は強く立派である。 では「踏み絵」を踏んでしまった弱い者は生涯浮かばれないのであろうか? 純朴な村の衆が踏み絵を迫られて言う言葉 「足ばかけんやったら、わしらだけでじゃなく、 村の衆みんなが同じ取り調べを受けんならんごとなる。 ああ、わしら、どげんしたらよかとだ」 むごい拷問の数々にも屈服せず、殉教したものがいるかと思うと、愛する者や家族の命、村の衆と引き換えにすることができず踏み絵を踏む者たちがいる。 踏み絵を踏んだものは「転んだ」もの。つまり棄教したのだ。 殉教した人たちは強かったが、それでは踏み絵を踏んでしまった弱い者たちはどうか? キリシタン迫害史の中で、殉教できずに転んだ(棄教した)人々。 彼らは単に教えを棄てたというのではなくて、ほんとうに自分が愛したものを棄てる事への苦悩の中に生きていかなければならない。 弱きものの代表者として裏切り者のユダのような存在のキチジロウの言葉を引いてみよう 「わしはパードレを売り申した。 踏み絵にも足をかけ申した。 この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。 強か者はどげん責め苦にもめげず、パライソに参れましょうが、 俺(おい)のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責め苦を受ければ、、、」 果たしてこのキチジロウを軽蔑できるだろうか? 私がこの時代に生きていたら、きっと私もキチジロウと同じであろう。 愛するものや家族のため、誰かのために踏み絵をきっと踏むだろう。 そして今も、踏んでいる。 それは私が弱い人間だからであり、生きていくためには踏絵を踏む人間であるからだ。 いつの世も、弱い者の声はとりあげられない。沈黙のままである。 最後の部分で主人公ロドリゴに「踏むがいい」と声をかける『沈黙』のイエス。 「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。 今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。 だがその足の痛さだけでもう充分だ。 私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。 そのために私はいるのだから。 強い者も弱い者もいないのだ。 強い者よりも弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」 主人公ロドリゴに「踏むがいい」と声をかける『沈黙』のイエスの心。 愛し、赦し、共に苦しんでくれるイエスに胸がつまる。 キリスト教迫害のわが国の歴史を背景に、殉教できずに転んだ(棄教した)人々。 いい変えるなら、いつの世にもいる弱きものの声なき声を掬いとろうとしたのが本書のテーマなのではないだろうか。 どんな苦難の中でも 「私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」 と共に苦しんでくれる人生の同伴者たるイエスの愛と赦しの語りかけがこだまするのである。 | ||||
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昔、職場の同僚から「日本文学屈指の名作」として薦められたが、当時キリスト教には殆ど関心が無く、読まないままになっていたが、 今年スコセッシ版の映画を鑑賞し、その内容に深く感動したので、原作小説も読む気になった。 で、読んでみると映画が原作に非常に忠実な作りになっている事に驚き、ページをめくるたびに、映像が脳内に甦って来て二度目の感動。 この作品に関しては、文字だけからではイメージが湧きにくい箇所が多いかと思われるので、「映画→小説」の鑑賞順序がお薦めです。 ただ、原作で惜しいのはエンディング、映画での感動的な演出が原作では無味乾燥な古文書スタイルで、数ページだけだが読み通すのに苦労。 ただ原作を先に読んで評価していた方々には、あのスコセッシ監督のエンディング脚色は評価が分かれる所かもしれない。 | ||||
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映画も公開と言う事で久々に読みたくなり購入。 遠藤周作はやはり良い‼︎ ネタバルするので内容は書きませんよ、是非読んでみて下さい。 | ||||
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映画の予告編を見てこの小説を知り、映画を見る前に読んでみました。なんとなく途中で終わってしまったような印象がありますが、この物語が映画の中でどのように表現されているか見るのが楽しみです。 | ||||
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初めて神様とは何か考えさせられた作品です。自分が思っていた神様とは、なんてぼんやりしたものだったのか... そんな風に感じました。深い河など続けて夢中になって読んだことを思い出しました。必ず一度は読んでほしい一冊です。 | ||||
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遠藤周作さん。なぜかキリスト教関係の本を出されてる方というイメージしかなかったのですが、今回映画化をきっかけにプロフィールを目にすることがあり、ご自身がキリスト教徒であるという事を知り、それならばと思い読んでみました。とても面白かった。教科書の中の数行でしか知らなかった鎖国下の日本での布教で、宣教師達が苦しむ貧しい日本人達にほんの少しでも心の安らぎをもたらすため、死をも覚悟し海を渡って来ていた事を考えたことがなかったが、この本を読み胸が熱くなった。結果我慢できず映画も観に行ったが、映像を観ながら引き込まれる反面、踏み絵の場面などコントの様に感じてしまった。日本人であり無神論者の私は所詮信心について心から共感する事が今のところできないらしい。 | ||||
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遠藤周作氏が大きなテーマを読者に問いかけるような一冊。読了しても答えはなくむしろ泥沼に沈んでくかのように考えてしまう。 | ||||
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これまで読まずにきたが、スコセッシ監督による映画化のことを聞いて、読んでみた。心から、読んでみて良かったと思う。 キリシタンが禁止された江戸時代に長崎地方に来た宣教師の苦悩の物語で、キリシタンたちが弾圧・拷問されるシーンも多い。 にもかかわらず、読んだ後に、清々しい気持ちに満たされる。それは最後に主人公が、誰を恨むこともなく全てを受け入れるからなのか。 イエスがユダに言った言葉に関してずっと疑問に思っていた主人公が、物語の最後のほうで、その言葉の意図に気づく場面は、感動的だ。そしてその感動は、キリスト教徒だけが感じられるものではない。この主人公の苦悩とは比べものにならないほど小さいものでも、人は誰でも多かれ少なかれ、大きな力によって、自分の信念を表向きは曲げざるをえなかったり、夢を諦めざるをえなかったりしている。しかしそれでも、それによって初めて見える景色もある。初めて深い理解に達することもある。そんな希望を、この本は知らせてくれる。 | ||||
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本作は1966年に発表され、谷崎潤一郎賞を受賞した、遠藤周作(1923 - 1996)の代表作です。 ずいぶん前に読んだのですが、マーティン・スコセッシ監督の映画が公開されるのを期に再読しました。 江戸時代のキリシタン弾圧下における長崎で、ポルトガル人司祭ロドリゴが迫害されながらも、信仰とはどうあるべきか探し求めていく物語です。主人公ロドリゴ、彼の師フェレイラ、彼がマカオで会う巡察師ヴァリニャーノ、キリシタンを迫害する井上筑後守をはじめとして、登場人物たちは実在の人物がモデルにされています。 遠藤周作が長く苦しい闘病生活の後、長崎に旅したさい、一枚の踏絵についた黒ずんだ指の痕を眼にし、信仰をつらぬけなかった人々に思いをはせたことが、本作執筆のきっかけだといいます。それゆえ遠藤は本作で、ロドリゴと裏切者キチジローの二人が苦闘し苦悶する姿を、救済者キリストと背教者ユダの関係に重ねることで、信仰とは何か、背教とは何か、救済とは何か、を追求しました。 また本作の語りの形式は四つ。順番に、「まえがき」(疑似ノンフィクション的な記述)、「セバスチャン・ロドリゴの書簡」(一人称による叙述)、三人称による叙述、「切支丹屋敷役人日記」(疑似歴史資料的な記述)とあり、趣向がこらされています。 真ん中の二つはともにロドリゴの視点で語られますが、主観視点と客観視点とに区別されています。出来事が起きて間がない段階での緊迫感を伝えるのに効果的で、読み手が語り手の内面に没入しやすい書簡体形式では、ロドリゴに感情移入しながらサスペンスルフルな展開を読むことができます。一方で、少し離れたところから冷静に人物を描写する三人称では、心理的な距離をとってロドリゴの内面的な変化を読むことができます。 最初の疑似ノンフィクション的な記述、最後の疑似歴史資料的な記述。この二つの俯瞰的な視点は、物語のリアリティを強調するうえ、前者はヨーロッパ側の視点、後者は日本側の視点と両方の立場が設定されています。とくに後者は『査祆余録』という実在の資料にもとづいており、読者がこの物語の歴史性を実感して読み終わることができる仕掛けになっています。しかも、そこで示唆される内容にはわずかな救いがありつつも、それを「資料」という客観的かつ淡白な体裁で描くことで、湿っぽさを徹底的に排除しています。 以上のように語りの形式を使い分け、読者と登場人物の「距離」を巧みにコントロールする術には舌を巻かざるをえません。 今回再読して感じたのは、本作が様々な読み解きが可能な作品ではないかということ。迫害されるキリスト教側から見れば、異なる宗教に対する不寛容さ。迫害する日本側から見れば、西欧が非西欧に「布教」するという西欧側の驕り。両者ともに共通するのは、異質な文化や民族どうしが衝突したときのひずみだということです。そう考えると、特定の宗教を信奉する人々への差別、あるいは、「自由」「平等」「民主主義」という美名に隠された西欧文明による非西欧文明への干渉、といった現代の世界情勢にも通じるメッセージを読み取ることもできると思いました。 | ||||
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歴史的事実の要素もありながら小説の魅力が完成された本当の名作と感じました。題名は「沈黙」なので、黙して語らぬ神という概念で書かれているのか、という疑念を持って読んだのですが、良い形で裏切られて、やはり「語る神」が描かれているとはっきり確信しました。生きてはたらくイエス・キリストがはっきり浮かび上がる、信仰的にも読み解ける作品だと思います。 | ||||
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江戸時代、鎖国中の日本では隠れキリシタンが密かにキリスト教の信仰を続けていたが、そうした人々にとって現世はあまりにも過酷であった。本書は、九州に密入国したポルトガル人司祭の立場から日本社会におけるキリスト教徒の葛藤、神とは、本当の信仰とは何かを描いた歴史小説である。著者の遠藤周作は日本におけるキリスト教に関する作品を多く残した小説家である。 本書の主題は先にも述べたとおり日本社会におけるキリスト教徒の葛藤、許し、神の存在、本当の信仰心とは何かということである。隠れキリシタンが密かに集合し本来のキリスト教の方法とは違った独自の本法で礼拝をおこなっている様子や、役人によるキリシタンへの卑劣で残酷な拷問の様子、結局は日本では土着の信仰により本来のキリスト教が根付かないという宣教師のあきらめの様子を描写することで日本社会におけるキリスト教徒の葛藤を示していると考えられる。また、キチジローという心の弱く裏切りを繰り返す人物を登場させることで、「許し」への葛藤をあらわしている。さらに、ポルトガル司祭ロドリゴの心情を丁寧に描写することで神への思いや、自らの信仰心に忠実に生き、他者のために背教者になることを選ぶ心理など、神、本当の信仰とは何かという点についても深く触れていると考えられる。そしてロドリゴは神との自分の心の中での対話により、ただひたすらに沈黙していたとおもわれた神の深い愛を感じた。 本書における重要な点は以下の二点であると考えられる。第一にイエスとユダを思わせるような、キチジローという人物を登場させた点である。弱い心のために何度も裏切りを繰り返しては許しをこうキチジロ―を登場させたことで、当時の日本社会においてキリシタンでいることの苦悩や、「許し」というテーマを際立たせたといえる。第二に、ロドリゴの心情を丁寧に描写したことである。キリスト教宣教師であることに誇りを持っていたロドリゴが最終的に棄教するに至るまでの彼の心境の変化をあらわすことによって神という存在とは、本当の信仰とは何かという主題が見えてくると考える。 最終的に何か結論が出るわけでなく始終苦しく救いのない話ではあるが、本書は当時の日本社会とその中で生きるキリスト教徒の葛藤を知り、信仰とは何かと考えることの出来る必読の書だといえるだろう。 | ||||
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ヨーロッパの貴族出身などの裕福な宣教師が、なぜ、日本を目指したのか? 豊臣秀吉が、キリシタン弾圧した理由、 宣教師たちが、棄教した理由、 主イエス・キリストは、沈黙されていたのではないのです、 そして今、我が国は、日本国憲法20条 宗教の自由の権利を得ているのです。 | ||||
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苦しいです。読んでいてとても苦しいです。 島原は私の生まれた町。島原の乱に始まり切支丹の弾圧に続く町。パライソはあるのか、無いのか。一筋の光を求めて祈り続けるだけ。そこに救いはあるのかなあ‥ 市川森一さんの「幻日」の後に読むとより歴史が分かりやすいと思います。 | ||||
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遠藤周作氏の本もエッセイも昔から好きでしたが、「沈黙」だけは読むのを避けていました。 拷問シーンが怖かったからです。 しかし、やはり、読むことにしました。 ロドリゴは棄教していません。むしろ、神を掴みました。フェレイラだって本当に棄教したかは本人にしか分かりません。 痛めつけられていうものを救うのは司祭らしい行為でした。 キリシタンとして彼もガルペも立派でした。 踏み絵をしたからこそ、棄教していないとも言えます。 モキチの殉教シーンは哀れでしたね。 「パライソの寺へ参ろうや…」歌声の悲しさで胸がいっぱいになりました。 なんと哀れな最期だったでしょうか、その辺りの文章はさすが、の一言です。 著者は以前、ご自分の事を「キチジローは私だ」とおっしゃっていたように思います。 キチジローを誰が責められるでしょう。信仰心はあれども、拷問を恐れ、踏み絵をし、家族を亡くし、帰る場所もなく、 そして、心の中では棄教しきれていない。 キチジローがなぜ踏み絵をしながらも、ロドリゴを売りながらも棄教しきれなかったか。 そこに信仰の意味を見ることも出来るような気もします。 ある意味、彼はイエスに捕まったのかもしれません。「深い河」の大津のように。 信仰の深さ、強さを感じます。 間違いなく、イエスはキチジロウを許した、と思うのです。 「俺ぁ、弱か、殉教さえできぬ」、いい加減なキチジロウですがこの言葉は真実に思えます。 まだまだ書きたいことはあるのですが、ちょっと考えがまとまりません、 物語がとても深いからだと思います。 キチジロウの事を今回、書きました。 次に書くことがあればロドリゴを書きたいです。 | ||||
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私の中では最高の部類に入る本。 映画公開を前にキンドル版を購入して読み直しました。 読み終わるとしばらく放心状態です。 | ||||
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いい年をして小説を読んで感動に震えました。ノーベル賞候補にもなったようですが、普遍的な価値があるのでふさわしいと思います。 | ||||
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