■スポンサードリンク
沈黙
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 141~160 8/17ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を見てから 今回 購入し、もう一度読み返してみました。 若い頃には 暗くて残酷なことについていけず あまり読後感はよくなかったのですが、今回映画のあと読むことによって 主人公ロドリゴ、またキチジロウなどの心情のバックグラウンドが読み取れてよかったです。 年月を置いてから 読み直す本の魅力を感じました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
生涯でめったに出会えない、感動する本。生き方を深く考えさせられる本です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
予想を裏切られて泣きました。 これほどの信念をもって自分も生きてゆけるのだろうか。 映画も見てみようと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
良かったです。 個人的には、考えさせらる内容でした。 奥深いです。 時間が出来たら、今、再版している本をもう一度読みたいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公は、ロドリゴという名のイエズス会士。彼は、棄教したと伝えられる恩師の消息を求めて、遙かポルトガルから危険を冒して、禁教下の日本に潜入する。そしてもうひとりの主人公は、キチジローと呼ばれる日本人。転び伴天連の素性を隠しながらロドリゴの潜入を手引きしたキチジローは、結局、弱さのゆえにロドリゴも隠れキリシタンたちも役人に売り渡してしまう。 最初、気性も境遇も水と油のようだった二人だが、禁教下の過酷な日々の中で、いつしかコインの裏表のような関係になっていることが暗示される。彼らを括る共通項は「弱さ」であろう。 自分を匿ってくれたキリシタンたちが、過酷な迫害の中で死んでいく姿を見たロドリゴの胸中に「神はなぜ沈黙を続けるのか」という問いが生じる。初めそれは「神は本当にいるのか」という問いと共にやってきた。しかし、最後に彼は、踏み絵のキリスト像の眼に「踏むが良い。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ」という訴えを見る。それは確かに存在する神の、計り知れないほど深い愛と赦しの表れであった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「沈黙」の小説を読んだことがあってスコセッシの「沈黙」を見た人は多いだろうが、私は逆で、映画を見て衝撃を受けて小説を読み始めた。 正確に言えば、小説は既に買ってあったのだが、重くて手ごわくて、つい脇に置いて、何年もが経ったものだ。 この本のエッセンスを知りたいと思ってはいたが果たさずにいた状況なので、今回の映画は大変ありがたいものだった。 小説の時代(1640年前後)は、既に切支丹禁止令が出され、宣教師が追放された、3代将軍家光の時代である。 映画は原作に基本的に忠実であると考える。キャスティングも見事であったと考える。 映画を見てかつ本書を読んでみての感想は、見る前の予想とは全く異なるものであった。 ・司祭が「転ぶ」というのは、拷問などの圧迫によりやむなく棄教していたと思っていた。 ここで「転ぶ」理由は、信者を救うためという直接的な理由もあるが、拷問を受ける信者への自らの無力感と神の沈黙に対する懐疑である。 ・ほかの信者を救うために「棄教」することはキリストの教えにかなうとの宗教観の是非についてフェレイラと私(ロドリゴ)は結論を出したわけだが、キリスト教全体としてどう扱われるべき問題なのか、ここでは触れられてないが、どうなのだろうか? 小説中では、「お前は彼らのために死のうとてこの国に来たという。だが事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ」と通訳に語らせている(P.213)。その人を救えなくて何のための宗教であり、信仰なのかという問いは本質的に厳しい。 ・ヨブ記ならずとも、神の不在ないし沈黙は古典的テーマであると感じる。日本以外では同じようなことは起らなかったのだろうか。日本固有の出来事なのか、そのあたりが気になるところである。 例えば、マサダ要塞の陥落の際には、神の存在と神の沈黙はどう理解されたのだろうか? つい先年、島原、雲仙を旅行したが、雲仙が拷問の現場になっていたというのは知らなかった。 原城も行程上どうしても組み入れられなかったのだが、見ておけばよかったと後悔した。 なお、映画でもそうだが、原作でも鍵を握るのは狡猾な仕置き人である「イノウエ」こと「井上筑後守」である。 あと、映画の冒頭・エンディングでは虫の音が効果的に静寂を強調している。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ここまで深く人間の魂の領域に触れた物語に感動を覚えました。3年ほど前に長崎県外海の遠藤周作記念文学館に足を運び、遠藤周作氏をしのび、その作品群を見学、キリスト教と文学について考えてきました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
遠藤周作の作品は今まで読んだことがありませんでした。途中で暗すぎる部分があり2-3日読むのをやめましたが、その後を読んで作品の扱う対象のスケールの大きさに感嘆しました。もっとこの作家の作品を読もうと思っております。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
マーチン・スコセッシ監督の映画を観た後、原作買って読みました。キリスト教文学最高峰だそうです。すごいです。江戸時代のキリスト教弾圧の話ですが宗教と関係ない人も信念や愛が揺らいだとき人はどう生きるのか考えるヒントが書かれています。人生のこととかじっくり考えるのがイヤな人は読む必要はないです。 欲を言えば最後の日記の部分の口語訳があった方が良かったかな。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
映画の公開で話題になって、原作を知り読んでみました。内容は重く、暗く、救いようがなかったけど、そんな日常を家畜のように働いていた農民達にとっては、切支丹のみが心の拠り所、救いなのだと理解できます。 最後に「転んだ」ロドリゴが死ぬまで日本で暮らし、火葬されたと一番最後に記述がありました。非常に悲しい終わりです。なぜなら本文中に切支丹は火葬してはいけない、土葬しなくてはならないとあったからです。 物語の舞台の場所とは違うのかもしれませんが、世界遺産候補となっている長崎の教会群に行ってみたくなりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
マーティン・スコセッシの映画『沈黙』を見てから原作を手に取った。というのも映画を見て非常にモヤモヤしたからである。映画が伝えていることは小説が伝えていることなのだろうか、日本原作の作品が残念な形でハリウッドで映画化されてしまったのではないだろうか。特に、日本人の残虐な迫害のシーンが多く、宣教師=善、幕府=悪という簡単な図式にしているように思えた。歴史の事実を考えると、イエスズ会はキリスト教を布教しながらアメリカ大陸の原住民たちを殺しまくり、野蛮だと当地の文化を見下し駆逐していった。もし日本に国力がなければ同じ運命を辿っていたのは間違いないわけで、キリスト教の弾圧は自国を守るためにはしかるべきであったと思っている。事実、島原の乱が起きてから取り締まりを厳しくしている。国の侵略を防ぐのは国としてはしかるべきである。なので、そこを説明しないまま映画を進めるのは卑怯じゃないか、スコセッシ!と思ったわけである。しかしながら、映画は原作に忠実だった。宣教師の本当の意味の問題はここではあまり関係がないのかもしれない。本題は「信仰」というところにあった。 さて、小説に戻ろう。まずはじめに遠藤周作は「日本で迫害された宣教師ってまるで、キリストそのもの!」と思ってこの小説を書こうと思ったのではないかと思う。そう、迫害される者たちは十字架で吊るされ、街中を馬で引き回されて、人間に石を投げられる。ゴルゴダの丘に向かうキリストにそっくりなのである。キリストの経験したことが400年前の長崎にあったのだ。主人公は何度も何度も自分の人生にキリストを重ねる。そこから、この小説の本題「信仰」に洞察を加える。ここからが遠藤周作ならではの切り込み方である。 切支丹が、仲間が、自身が迫害を受ける、でも、神は沈黙している。つまり、奇跡はずっと起きない。そして、主人公の信仰心は揺らいでいく。そして、最後に神の言葉を聞く。ぼくは考える。主人公はキリストになりたかったのだ。聖者になりたかったのだ。その英雄になりたいという気持ち、それこそが、イエスズ会の本質、傲慢さではなかろうか、と。これは信仰ではなくエゴなのかもしれない。迫害されて、結果、主人公ロドリゴは神になれなかったのだ。ロドリゴは最後まで神の奇跡を求めていた。 最後にドストエフスキーの言葉で結ぼう。 「キリストよ、人々がお前をからかい、あざけりながら『十字架から降りてみろ、そしたらおまえだと信じてやる』と叫んだときも、おまえは十字架から降りなかった。おまえが降りなかったのは、改めて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだ。奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。囚人のような奴隷的な歓びではなかった。自由の身になった人間たちは、ひざまずくべき相手を少しでも早く探し出そうとするぐらい、たえまない心労はない。しかし、人間というものは常にひざまづく相手を常に求めている。それも、申し分のない、すべての人間が膝を折ることができる、そんな文句無しの相手だ。なぜなら、こういう惨めな人間たちの心労というのは、単に自分や他人がひざまずける相手を探せばよいという訳ではなく、だれもがその相手を信仰し、だれもがかならずいっしょにひざまずける相手を求める、という点にこそあるからだ。まさしくこの、いっしょにひざまずける相手を求めるということが、有史以来、個人のみならず、人類全体のもっとも大きな苦しみだった。普遍的にひざまずける相手を探し求めようとして、彼らはたがいを剣で滅ぼしあってきた。 〜人間というこの不幸せな存在にとっては、生まれながらに授かった自由という贈り物をだれにいち早く手渡すべきなのか、その相手をみつけるための心配ほど、苦しいものはないのだ。〜人間というものは、神よりもむしろ奇跡を求めているからだ。自分自身で勝手に奇跡をこしらえて、まじない師の奇跡や、女の魔法にすぐひれ伏してしまう。」 そう、「沈黙」は人間が神を求める真摯な話。神に仕えるものが神を求める人間らしい話。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
沈黙の意味について、遠藤周作のキリスト教価値観を詳細に語るペンテコステ派の牧師・青木によれば<「神は沈黙していたのではない。私たちと共に苦しんでいたのだ」主人公は「宣教師」という肩書きを捨て去る(棄教する)ことで、真にキリストの福音を伝える、否、福音を生きる者となることができた、>ということである。 このような遠藤周作のキリスト教価値観に基づく「声無き声」は多くのクリスチャンにとって納得ができる唯一の筋書きとも考えられる。確かに「教理」としての信仰からの脱却と「実践」としての信仰への転化という側面は認められるだろう。 しかし、それがキリスト教における主の「沈黙」といえるだろうか。果たして疑問である。 解釈は聖書に委ねられるべきだからである。 遠藤のキリスト教価値観は弱者に対する思いやりがその神髄であると読み取れるが、その点に重きを置きすぎているきらいがある。シモーヌ・ヴェイユは『神を待ち望む』で神への呼びかけに対する「沈黙」は「真空」だと述べる。真空に光が差すのはキリストの受難の調べを聞くことという。 「彼は……我々の不義の為に 砕かれたのだ。 彼は自らこらしめを受けて, 我々に平安を与え その打たれた傷によって 我々はいやされたのだ(イザヤ書53・5)」 この調べと不幸への同意こそが信仰に対する告白なのであるとする。 そうだとすれば、沈黙は信仰に対する告白であるとデカルト演繹的に導かれる。そこからは、遠藤のいう沈黙すなわち棄教、実践としての信仰への転化という結論は直ちに導き出されないことになる。 しかし、ロドリゴは神から「踏め」と教示を与えられている。これは沈黙を破ったことであり、信仰に対する告白は虚空に変わる。最後のシーンで十字架を握っているのは紛れもなくその事実と激しく矛盾する。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
正直、遠藤周作の作品は「宗教色が濃い」と、取っつきにくい印象をもっていました。 しかしマーティン・スコセッシ監督による映画化をきっかけに読んだところ、 ページをめくる手が止まらないほどストーリーに引き込まれてしまいました。 わたしは無宗教ですが、いや無宗教だからこその読み方がある本だと思います。 タイトルの「沈黙」をめぐって、人の心の深遠をのぞいた気がします。 ちなみに映画の方は、後半パートがよりミステリアスに描かれているなと感じました。 原作から読んでも、映画から鑑賞しても、どちらも素晴らしい体験ができると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ロドリゴの意識が全て。彼を襲った強烈な圧力。これはキリストの最後の日に重ねているのでは、という思い。 ピラトと井上、ユダとキチジロー。なんとなく、ロドリゴを巡る外部環境、村民や長崎の描写などはどこかおざなりです。 ロドリゴの心理に読者を誘います。神の沈黙への疑問。これについて、遠藤さんは何の答えも用意していません。読者の判断に。 井上、通詞、キチジローや責められる農民たちなど、日本人の意識は殆ど描かれていません。映画の書評で日本人の意識の描写がない、というのを読みましたが、原作にもないよね。だから、迫害する側、される側の意識は遠藤さんが議論するつもりではなかったのですね。 中編小説で、思ったほどカトリックの教義に対する議論がされることはなく、普通の文学作品のように読める本です。私は、覚悟した重さがなく、意外にさらっと読めたので、むしろ驚きでした。カトリックの方はどう読まれたのでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
若い頃からいつか読みたいと思ってなかなかチャンスがなかった作品でした。今回映画化とキンドル入手した事で読みました。 とてもとても深い感動がありました。 私は、キリスト教の事は、ほとんど知りませんが主人公は、たとえ人々に軽蔑されて屈辱の中で現世を生きても最後の時は、いちばん優しい神様の愛の手に抱きしめられて召されると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ポルトガル宣教師が布教先の極東の島国で突然消息を絶った。 音信不通。生死不明。 宣教師は原住民たちによって 邪教に転向させられたという驚愕の情報も。 師を救出するため、 弟子たちは異国宗教者の惨殺が繰り返されている 極東の島国へ決死の潜入行を試みる――。 スコセッシの「沈黙ーサイレンス」を観た後 原作を読んだ。 冒険小説として楽しんでしまったが、 これは正しい読み方なのかどうか。 ひとつの宗教が異国の風土や風習にさらされるうち、 なんだか分からないものに変容して オリジナルとは異なる姿かたちになってしまう。 ということは確かにあるだろう。 その布教に取り組んだ者も 変容から逃れることはできなかった という物語と受け取ることもできる。 信仰を持ち続ければ、 死後はパライソで永遠の安楽が約束される。 キリスト教は、このような宗教ではないのだが、 そう信じる人々にとって、 棄教とはパライソ行きチケットを手放すことであり、 「踏み絵」とはチケット購入代金の積立を 反故にする行為と考えていたのではないか。 などと考えながら小説を楽しんだ。 コンラッド「闇の奥」 コッポラ「地獄の黙示録」と重ね合わせてしまった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
映画を観てとてもよかったので、改めて原作を読んでみました。大変深い物語で、信仰について考えさせられました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
初めて読んだのは中学生の時でした。読みやすい文章のため中学生でもすいすい読めましたが、30歳を超えて再読し、その内容の深さに感動しました。 以前はユダを象徴していたかのように思えていたキチジローが、最後の最後までロドリゴの側にいて、実はキリストを象徴しているのではないかと思えてきました。 またキリスト教を布教させようとした宣教師たちを日本を近代化させる目的で、一神教である天皇制を導入し、それが意図せざる方向に進んでしまった当時のインテリ達の挫折を描いているようにも読めました。執拗なキリスト教への弾圧は戦時中の言論弾圧と置き換えても読めるような気がします。私がキリスト教やヨーロッパの歴史に知識が浅いのでこれらを知るとより深く理解できるのでしょう。 あらゆる解釈の幅を残しつつも、難解になりすぎず物語に引きずり込む文章にこれぞ名作だと感じます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
スコセッシ監督によって映画化されたということで、改めて読むことにしました。 慶應義塾大学文学部を卒業した遠藤周作さんは、キリスト教という宗教を深く考え、祈りのように言葉を綴っていたのだな、と感動します。 日本が世界に誇れる作品であり、少しでも多くの方に読んで貰いたいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
映画になり話題になっているようなので、読んでみた。徳川家光の時代に長崎に潜入したポルトガルの宣教師が主人公である。当時の厳しいキリシタン弾圧の様子が何度も出てくるため、映画はアメリカではR指定されているようだ。すでに島原の乱は鎮圧され、鎖国とキリシタン禁制が定着しつつある時代。厳しい監視の目をくぐり抜けまだ多くの信者が隠れキリシタンとなって潜んではいるが、宣教師による日本での新たな布教はもう絶望的な状況である。厳しい試練。裏切り。連行される百姓たち。過酷な取り調べ。狡猾な要求。そして究極の選択。主人公の問いかけに、神は沈黙を守る。 主人公の宣教師とともに、この物語を立体的なものにしているのは、キチジローの存在だろう。キリストのユダを明らかに連想させるこの男は、本書のテーマにおいて決定的に重要な役割を担っている。 非常に重い作品だった。しかし、同時に、沈黙の意味が明らかにされてゆくとき、深い感動がこみあげてゆくのを禁じえなかった。 読み終えて、日本の江戸時代のキリシタン禁制下の弾圧という特殊な状況でのカトリックの宣教師の葛藤をテーマにした本作品が、海外でどのように受け止められるものなのか、ちょっと気になってAmazonの米国のサイトをのぞいてみた。映画化効果もあり、これを書いている時点でAmazon.comに掲載されている英語訳版のレビュー本数はAmazon.co.jpの日本語版のレビュー本数を大きく上回っており、うち78%が5つ星をつけている。内容的にも、高く評価するものが多かった。いずれにせよ、傑作中の傑作であるように思う。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!