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沈黙



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沈黙の評価: 4.41/5点 レビュー 388件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.41pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全337件 261~280 14/17ページ
No.77:
(5pt)

沈黙ではない「沈黙」


読むまでは沈黙という題名から沈黙する神がテーマかと思っていましたが、全く違っていました。
私達のすぐ傍にいるキリストをキリシタン禁制の時代の信仰を扱いながら強烈に描いている作品です。

遠藤氏の作品はどれもキリストは高い所におられるのではなく我々と共に苦しまれる方として、登場します。「沈黙」においてもキリストにあなたが生きるためには自分は踏まれてもそれで良いのだと語らせています。過酷な状況の真っただ中で凍える魂を温めるキリストのぬくもりが読者の心にも広がります。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.76:
(5pt)

神様は沈黙などなさっていない

このタイトルは、私たちが神様の御声を聞きたい、幸せになるにはどうしたらよいかを教えてほしい、と切に願いながらも、神様の御声がその肉の耳には決して聞くことができないというジレンマを象徴しているように思いました。
 物語は、長崎県での島原の乱が鎮圧されて間もない日本を題材としています。キリスト教徒は徹底して弾圧される真っ只中の日本に潜入したポルトガル人宣教師ロドリゴが主人公で、ともに潜入した友人が磔にされて海水で溺れ死んでいく姿を目にしたり、ロドリゴはまるでユダの裏切りに遭ったイエスのように日本人信者であるキチジローの裏切りに遭い、役人に捕らえられ、徐々に信仰を捨てる淵に追いつめられていきます。
 自分が踏み絵をしなければ、捕まっている他の日本人信徒たちが恐ろしい拷問に遭って、次々と死んでいってしまう。しかし信仰を捨てることなどしたくない。「神様!」と、何度祈っても神様の言葉は返ってこない。嗚呼。神様は本当に存在するのだろうか・・・。
 そして、終にロドリゴが踏み絵をしようとしたその時、危機に直面するたびに何度も祈り願ったイエス・キリストの言葉がようやく聞こえたのでした。

 高校で現代文のテキストとして配られたこの本のラストシーンは、とても衝撃的であり、また一種の救いを感じる素晴らしい作品として、その感動は今も鮮烈に記憶していました。今回はそれを思い出して、はじめて手に取って最初から最後までを読みました。
 ロドリゴが踏み絵をしたことで教えられたもの。それは、神様は私たちが犯す一切の罪をどこまでも許してくださっているということでした。そこへ目を通すたびに涙が溢れでてきます。何か苦しい場面に遭遇しては読み返す、私の愛読書になるという予感がしています。
 あわせて遠藤作品からお奨めしたいのが、『イエスの生涯』『キリストの誕生』という二部作。キリスト教の教義の本である『聖書』には、予言者イエスが徹底して神聖化されていて私には長年にわたり味気なく感じていたのですが、ここに描かれるのはひとりの人間であるイエスと、その教えを受けた信徒がイエス死後を伝道ひと筋に生きぬいた物語です。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.75:
(5pt)

ロドリコは死ぬべきでは

著者は、神への崇拝と人の命はどちらが尊重されるべきかという問いかけをしたのではないか。

熱心な信者ほど、踏み絵という偶像に過ぎないものを拒み、弾圧されたことに

強い怒りを感じたのではないか。

幕府によるキリスト教徒迫害の是非はさておき、

キリストは自分への崇拝を求めてるのではなく、人々を救うことのみを

願っていることを思い起こすべきだと言いたかったのではないか。

題名『沈黙』とは、キリストを超える大きな存在として絶対的な神がいて、それはすべてを知ってるが

なにもしない、文中にキリストの声のようなものが出てくるが、それが神とキリストの区別を明示

していると思う。(私もキリスト教徒ではないが、神は信じる)

主人公のロドリコ司祭よりも、簀巻きにされ海に落とされた信者を救うべく死んでいったガルベ司祭

に共感した。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.74:
(5pt)

破られない、神の『沈黙』

キリスト教の信仰をテーマに書かれた物語。

主人公のポルトガル人司祭ロドリゴは、かつての師として仰いだ司祭が日本で
棄教したという噂を聞く。
日本での宗教弾圧・迫害を覚悟しながらも、その噂は真実であるはずがないという
希望を胸に、ロドリゴは日本へ向かう。

日本で待っていたのは、想像を超える絶望。そして、祈っても祈っても、
祈りにこたえてくれない神の『沈黙』であった…

本当に深く、切ないまでに司祭の心情を丁寧に描いている。
私個人は、信仰を持つ人の考え方、感じ方を知ることができた。
強い信仰心をもつと自負している司祭と、彼を何度も裏切っては
再び現れ、罪の許しを請うキチジロー。
この二人を見比べると、どちらが罪深く、弱い人間なのか、それは一見キチジローのように
見えて、実はわからないな…と思ったりした。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.73:
(5pt)

現代の聖職者や信徒のうち、いったい何人が踏み絵を拒めるでしょう

自分の内面を打ち明けることの難易度を考えてみました。

1. 自分はカトリックの信者である
2. 自分はカルト宗教の会員である
3. 自分は同性愛者である

3は勇気がいると思います。下手をすれば職場にも居辛くなるかもしれません。2は一部の人から嫌われるかもしれません。1はどうでしょう。悪いイメージはないと思います。気取っている、エリート意識を持っているなどと誤解されるのではないか。打ち明ける前に心配するのはその程度です。自分のようなものが信者と名乗れば、カトリックとはその程度のものかと思われるのではないか。そう心配する人もいるでしょう。

ですが、それは現代の日本の話です。この本の舞台の封建時代なら、逆に3は問題ないかもしれませんが、1は生死に関わります。そこまでいかなくても、もしも今の日本で「カトリックである」ことが「同性愛者である」ことと同じ評価を回りから受けるとしたら、どの程度の人が打ち明けるでしょうか、入信するでしょうか。

カトリックの信者の一部にはおかしなヒエラルキーがあります。幼児洗礼は成人洗礼より上、成人洗礼でも洗礼が古ければ古いほど上。でも、「自分はこの年になって初めて神を知りました」という人が一番偉いと思います。人生経験を積んだ上で選んだんだから、一番信仰が強いと思います。ピカピカに輝いています。そういう人は踏み絵を拒むと思います。

信仰の強さ、神学の知識、洗礼の有無は全く別のことだと思います。洗礼を受けていても秘蹟の意味を知らない人はいます。神学の知識があっても真の信仰のない人はいます。洗礼も受けず神学も知らず、それでも強い信仰を持つ人もいると思います。

現代のキリスト教徒の中で踏み絵を拒める人は何人いるでしょう。聖職者であってもです。

著者がこの本で伝えたかったことを、未熟な私がすべてを理解できたとは思えません。代わりに、この本を読んで考えたことの一部を書きました。もっとたくさんのことを考えさせられましたが、とても書き切れません。

宗教とは、信仰とは、神とは、人間とは、人生の目的とは、ということを改めて深く考えさせられます。忙しい現代を慌しく生きる人には、日常と離れた視点から様々なものごとを、特に宗教を信ずる人であれば信仰を、考え直す良い機会を与えてくれます。

遠藤周作さんは「信者を見てキリスト教を判断しないでほしい」と何かに書いていました。もしも身近に鼻持ちならないキリスト教の信者がいる人ならば、そういう人にこそ、真のキリスト教を考える(理解する、ではなく)ためにこの本をお勧めしたいと思います。

[追記]
遠藤周作さんは「カトリックの信者が増えたのはミ−ハ−な女が洗礼を受けたからだ」という意味のことを何かに書いていて、それを読んだときは反発を感じたものです。ですが、もしもアジアの宗教のままだったら、宗教的な美術や音楽がなかったら、興味を持つ人は少なかったのではないかと思います。戦国時代や江戸時代に、ヘンテコな顔つきで訛りの強い言葉を話す見ず知らずの人の話に耳を傾け、その教えを受け入れ、最後は命をも賭した信者たちの動機に興味があります。当時の日本はヨーロッパと比べ文化の違いはあっても、文明の差は少なく、病気を治したり珍しいものを見せたりという方法は使えなかったはずです。

現代にあって、キリスト教を信ずるというのは大変難しいことだと思います。遠藤周作さんのようなインテリならなおさらです。処女が妊娠する。死者が復活する。パンと葡萄酒がキリストの体と血になる。キリスト教徒だから信じられるというのは安易すぎます。懐疑を克服して初めて credo (我信ず)と言えるのです。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.72:
(5pt)

神が沈黙を守っているのはなぜか

この作品は日本のキリスト教史とキリスト教徒の苦難を伝えるためと、棄教した神父の名誉回復のために書かれたのだと思う。遠藤周作は弱者の視点を作品のテーマにすることが多い。
神が沈黙を守っているのはなぜかは多分各人で考える必要がある。主人公ロドリゴも自分で考えて、物語終盤までの苦難は「あるもの」のためだったんだと思い至っている。この作品とともに遠藤周作が自身の棺に入れるように言い残した『深い河』の中で大津が言ったように、神とは「働き」(目に見えにくい作用)であり、日常的常識に反する奇跡をもたらす存在ではないようだから、なぜ神が沈黙しているのかと思わざるを得ない状況は誰にでもあると思う。それならば、やはり各人がそれについて考えて答えを見つけないといけない。多分遠藤周作を含む他人から「こういう理由ですよ」と言われて納得できるものは得られないだろう。
神についてのこの考え方は唯一絶対神教の本来のキリスト教とは相容れないものであり、多分に(「日本化」したキリスト教徒である)遠藤周作的な示唆だと思う。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.71:
(4pt)

いろいろ考えさせられる

神父のフェレイラが背教したという知らせを聞いた
ロドリゴ神父は本当にそうなのかと思いつつ日本の地に
降り立った。
しかしそこは確かに想像を絶するような、切支丹弾圧の
暴力、殺人が行われていた。

日本の歴史にうとい私は切支丹弾圧が行われたと知っていても
踏み絵を拒否すれば殺されたらしい。という軽い見地しかなかった。
しかしここに書かれていることを知り、ここまで人間は凶暴になれる
ものなのか…とショックをうけた。同じ日本人として理解できない。

ロドリゴが捕えられ牢獄で聞いた『鼾』は実は穴吊りにされた信徒の
うめき声だった…。自分が背教すれば、苦しみの中にる信徒たちを
助けられる。祈るロドリゴ…「沈黙」する神。
神とは?人間とは?命とは?信仰とは?
あらゆる意味において考えさせられた作品である。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.70:
(4pt)

ロドリゴに真の救いは訪れるのか?

沈黙とは、神の沈黙の意である。
 極東の地で、日本人キリスト教徒がお上から棄教を迫られ拷問を受ける最中、主人公であるポルトガル司祭ロドリゴが救いを求めてどんなに祈りを捧げても、ひたすら沈黙を守る神。神は本当に居るのか?もし居るなら、何故こんな過酷な受難の最中も、主は救いの手を差し伸べるどころか、励ましの言葉さえかけてくれないのか?牢に入れられ、転ばぬ自分の身代わりとなって穴吊りの刑に処せられる棄教者らの呻き声を耳にして、ロドリゴがひたすら唱える祈りの言葉にも応えることなく、沈黙を守る神。それでも転ばぬロドリゴに師フェレイラは、転ばぬ理由は教会を裏切ることを恐れるからに過ぎず、もしキリスト自身が同じ立場であったとすれば、きっと転んだ筈だと諭す。ついに踏み絵に足をかけたロドリゴの眼に映ったキリスト像は、哀しげに『踏むがいい』と語りかけていた。そして生き延びたロドリゴは、教会を裏切っても、キリストを裏切りはしなかった、と自らに言い聞かせる。
 キチジローが言うように、もしこんな迫害さえ受けなければ、彼らは真っ当なキリスト教徒として、その救いを頼みに現世の苦難に耐えながらも、幸せな人生をおくることが出来ただろう。しかし現実には、キリスト教徒であること自体が苦難の元になると言う、理不尽な境遇に追い込まれる日本人教徒ら。そして、自らの存在が教徒らに苦難を齎すことになってしまう、という矛盾に苦しめられるポルトガル司祭たち。
 著者が長崎で見た、実物の踏み絵に喚起された想像力が、史実を元に生み出した小説。無論、ロドリゴのモデルとなった現実のポルトガル司祭が如何なる思いで棄教したかは、知る由も無いが、主人公ロドリゴが自らに言い聞かせた理屈は、著者遠藤のクリスチャンでありかつ作家としての解答であろう。
 本当は、ロドリゴはどんなに日本人が苦しめられようと、転ぶべきでは無かったろうか?どんなに過酷な拷問にかけられても決して棄教せず、死んで行ったトモギ村の教徒らのことを思えば、理屈の上ではその選択肢もあった筈であろう。今風に言えば、人質を盾に自らの要求を通そうとするテロリストの脅しには、断固妥協すべきではない、という立場だ。確かに、一度でも要求を呑めば、テロの連鎖は止まらなくなる恐れがある。そもそも、教徒らを苦しめているのは、司祭らではなく、お上である井上筑後守らであり、司祭らではない筈だから。しかし、実在の司祭も小説中のロドリゴもその選択肢は選ばなかった。
 なぜか?
 恐らく実在の司祭は、神の存在など腹の底では信じてはいなかったのではないか。だから教徒らが拷問に合い、自ら殉教に身をゆだねることに意味を見出せなかったのでは無いか。何故なら、本来殉教は神の国への切符を約束している筈なのに、敢えてその切符を拒ばむのは、本当はそんな切符など与えられはしないと分かっていたからではないのか。でなければ、神の国を棄ててまで、教会を裏切る理由が分からない。しかも、苦しんでいるのはキリスト教徒ではなく、それを棄てた者たちなのだから。つまり、実在の司祭は、極めて現世的な価値基準に従って行動したのではないかと思われる。
 一方、小説中の司祭ロドリゴは、逆に神の救いを信じていたとしても教会を信じてはいなかった可能性がある。それが、ロドリゴの最後の言葉にいみじくも表明されている。
 『聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない』
しかしこの言葉は、極めて危うい言葉だ。何故なら、この言葉は、誰にも証明できないから。ただ、ロドリゴがひとり心で思っているだけだからだ。他人から見れば、先の実在の司祭と同じように現世的な価値判断をしただけだ、と受け取られ兼ねないのだ。否、これは自分にとっても証明できないとも言いうる。つまり、自己欺瞞の危険すら孕んでいるのだ。意識ではそう思っていても、無意識に自己防衛本能が働き、保身に走ったとも言いうるのだ。
 そういう意味で、私にはこの結末はやや不満が残る。このままでは、ロドリゴが極めて小さな人間のまま終わってしまうように思えてならないのだ。つまり、本当の所は別なのに、自分が自分にそう言い聞かせているように思えてしまうのだ。そういう意味で、先のロドリゴの最後の言葉は、自ら語るのではなく他者から語られるべきだったと思う。でなければ、ロドリゴに真の救いは訪れることは無いのではないか?私には、そう思われてならない(H22.3.14)。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.69:
(4pt)

沈黙の先に

島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリスト教徒に対する弾圧は激しさを増していった。司祭という立場に置かれながら、神の存在、背教の心理、文化の違いによる思想の断絶などの問題と対峙する。

祈りという一方向的な事柄に対する沈黙は、認識の差こそあれ相互的な事柄へと昇華できる可能性を秘めているのかもしれません…。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.68:
(5pt)

キリスト教を知るためには・・・

キリスト教の信者になろうかどうかと迷っているときに、この本に出会った。
わたしはミッション系の女子高を卒業したが、それが返って反面教師になっていて
キリスト教に対する誤解というか、思い込みのようなものがあった。
それを払拭してくれたのが、この本だった。
宗教家の間には、賛否両論あるだろう。しかし、私にとってはキリスト教を
納得するのに一歩近づけた本だった。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.67:
(4pt)

日本的

史実(!)を基にした物語です。江戸幕府が切支丹の弾圧をはじめ、高名な神父フェレイラが拷問によって棄教し『転んだ(=キリスト教を捨てること)』ことに非常に驚き、その弟子である司祭ロドリゴなど3名を日本に布教する宣教師として潜入(この当時は既に渡航は事実上不可能)するところから始まります。司祭ロドリゴは神父フェレイラが素晴らしい神父であったことを考えると棄教が信じられず、自ら志願して日本への布教を切望し、命の危険を冒して日本にいるキリスト教信者の為、そして神父フェレイラの真実を確かめるため、日本に渡航する決意なのです。しかし彼らロドリゴの予想を裏切るような日本での生活が彼らを待っています。日本に渡るための最終地点マカオで知り合う1人の日本人キチジローの弱さと狡さ、キチジローを頼らねばならないロドリゴたち。日本での布教と司祭としての責任や重みを噛み締めた上での日本への潜入を誓う神父ロドリゴの見た日本とキリスト教の関係は?また非常に重いテーマでタイトルにもある「神は何故沈黙し続けているのか?」という根源的問いに様々な角度から光が当たります。

史実を基にした構成で、なおこのキリスト教の布教ということに関して困難な時代の、さらに困難な目的の中でより鮮明になる重いテーマに対する明確な著者からの答えがわかりやすい形で示されているわけではありません。様々な角度から、時には掘り返してでも問題を意識させ、そのうえ考えさせるその手腕には小説家「遠藤 周作」の上手さだと思います。当然著者なりの考えがあると思うのですが、どうとでも取れる解釈を提示してくる部分など、かなり凄いです。信仰を持たない私のようなものでも、どう捉えるのか?を考えないわけにはいかないようにある意味苦しめてきます。その取りこぼしの無さはすさまじいとさえ言えます。

また、構成がとても考え抜かれていて、まえがき、書簡(1人称)を経て書かれる本文、そして最後の記述に行くあたりにも凄さがあると思います。非常に練られた構成です。

ある一人の男の生涯という意味においても、読ませる物語(結果は史実)、たとえ神に、信仰に、特にキリスト教に興味がなくとも、日本人であるなら、オススメしたいです。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.66:
(5pt)

宗教に関係なく、強く印象づけられる作品

解決不能な問いを我々に投げかける、重い作品だ。
 宗教が無ければ戦争はもっと少ないはずだと言われるし、布教が植民地化と同義であった時期もある。しかし、現場の布教と弾圧の狭間に生きた人々の、信仰と苦しみというのがどんなものであったかと言うことは歴史では習わない。
 本書では宣教師の過酷な運命を通じて、異境の中で「信仰する」とはどういうことであるのか、「救い」とはなんなのかと言うことを強く問いかけてくる。別にキリスト教徒でなくても容易に理解できて、考えさせられる作品だ。私は主人公の苦しみの果ての選択を否定する気は全くない。
 主人公の司祭は困難に際して「あなた」と「主」に呼びかけて、救いを求める。「主」はそれに「沈黙」を持って答えるわけだが、対話によって信仰が成り立つというキリスト教の宗教としての作法にはちょっと違和感がある。さらに対話の先に奇跡による救済を期待している点に至っては、現実の世で救いが具現化するのを期待するよりは、来世に期待する宗教観の方が健康的な気がした。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.65:
(5pt)

究極の挫折と、究極の愛の追体験をした

彼は自分の宣教師としての人生(そしてそれは彼の人生の全てだった)を全否定する
という究極の挫折の象徴である踏み絵を行った時に

イエスの究極の愛を始めて体験することができた。パラドックスだが、それは
キリスト教でもっとも大切なことかもしれない。

旧約聖書にすでにこういう記述がある。
「主(神)は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。 」

遠藤周作はイエスを「奇跡を行えなかった人」と彼の数々の著書の中でも
書いていて、それは論争になっている。

しかし受難の中、圧倒的多数の人に蔑まれ、痛めつけられ、裏切られ、誤解されても
何も言い返さなかったばかりか、最後の最期まで神に彼らの罪の赦しを嘆願した
イエスの、この聖性と慈愛が完全に両立された人格の持ち主が、人間の全てのmessを
背負おうと、人間の無知と暴力にただ従ったことこそ最大の奇跡に思える。

彼は人生の中で奇跡を数多く「行えなかった」のではなくあえて
「行わなかった」のではないか。

人の目を奇跡に向かわせるよりも、魚くさい貧しい村人の様な人の生活のmess、
宣教師の踏み絵行為であり、キチジローの裏切り行為でもある人の内面のmess
の中にイエス様が裸一貫で入ってきて寄り添い続けたという
とんでもない慈愛に気付いて、応えて欲しかったのではないか。

このような人の全ての暗い部分の一つ残らずを自分の苦しみとして
どこまでも共に負い、時には身代わりになってくれる存在にどれだけ多くの人が
救われてきたのだろう?
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.64:
(5pt)

作品の構成の上手さ

高校生の時に読んで以来、久し振りに読みました。

内容的には覚えていたものの、小説の構成など全く予想外のものでした。それだけ、当時は内容に圧倒されてしまっていたのでしょう。

歴史書のような「まえがき」から始まって、主人公の書簡の形式、そして客観的な観察の文章と、その構成が徐々に変わってゆきます。
この主観と客観の間の押したり引いたりのころ合いが絶妙で、非常に重たいテーマ(「神の不在」)を受け入れやすくしているように思います。つまり、テーマよりも物語の進行、なりゆきに、より関心が移るように上手く構成されているように思います。そうでないと、このように重いテーマですので、なかなか一気に読みとおすということが難しいと思います。

内容は、タイトルが「沈黙」と言う通り、「神の沈黙」(「神の不在」)です。
作品中、主人公のロドリゴが、何度も「主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。」と呟きます。
これだけの切支丹の弾圧がありながら、民衆の苦しみを救えない自分のもどかしさ、宗教の無力感、それは自分が信じてきたキリスト教への疑問です。

この本は、最初から最後まで、ロドリゴのこうした「神の沈黙」に対する心の動揺を延々と描いています。それでいながら、全く退屈せず一気に読ませてしまうのは、作者の筆の力でしょう。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.63:
(5pt)

信じる者こそ救われない

農民たちが迫害にさらされている間ずっと沈黙を守り続けていたくせに、ロドリゴが踏み絵を踏む瀬戸際になって
「踏むがいい。…私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
などとのたまうことに相当な違和感があります。
そして、五本の足指が愛するものの顔の真上を覆った瞬間、この激しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかったとありますが、ホント、人というのは、とどのつまり何でも自分に都合よく解釈する不思議な思考回路をしているもんだな…と。

信仰というのは、その結果が明確な現証として顕現しなけりゃ意味がないと思ってますので、信仰ゆえの苦難に沈黙するでしかない無慈悲かつ非力な神に怒りが込み上げ、やはりキリスト教の教義など絵に描いた餅でしかないと改めて認識した次第。

もちろん、物語の主題はもっと深いところにあると思いますので、改めて読み返し、自分なりの思索を重ねたいと思います。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.62:
(5pt)

「沈黙」がテーマでは無く

この本は、
「神の沈黙」‥
神はなぜ黙っているのか
が書かれているように見えて‥‥
本当は 「キリストの愛」‥
キリスト・イエスが、いかに人間を愛しているか
が書かれた本のように思います
主が沈黙していると思い苦悩する主人公に
キリストは、
「私はお前たちを見捨てはせぬ」と言い
共に苦しんでいたと話します
最後には
踏み絵を前にした主人公に対して
「踏むがいい」 「私はお前達のその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
と言います
キリストは沈黙しているかに見えて、
深い愛を持って人を愛し、
常に人と共にいて、苦しんだり悲しんだりしているのだ‥と
読み解く事ができます。 ただ‥
遠藤周作は、
この深い「キリストの愛」は、
もしかすると‥
主人公のように「苦難」を通さなければ
人間には、見る‥感じる‥知る事ができないものでは無いか‥
という、重いテーマを
読者に投げかけているように思うのです
但し、それで終わりではなく
最後には主人公が
キリストへの新しい愛の形を見つけたように、
人間は苦難を通して
「キリストの愛」を知った時、
キリストとの新しい関係が始まる
と言う事も、
遠藤周作は書きたかったのではないでしょうか
いや
主が遠藤周作に
書かせたかったのかもしれません‥
だとすれば
この本は、
私達が弱くて、どのような苦難にあっても、 他の人に捨てられ苦しめられても
逆に自分が愛した者を裏切り絶望の中にあっても、
一筋の光がさす事を教えてくれる
「希望の書」
ではないでしょうか

(すべて彼を信じる者は、失望に終る事がない。新約聖書ローマ10ー11)

※何故キリストがそこまで人を愛しているのか? キチジローはどうなるのか? 拷問され死んで行ったキリシタンは無駄死にか? と疑問を感じた方は、近所の教会で神父や牧師に聞いてみて下さい
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4101123152
No.61:
(5pt)

信仰とは、宗教とは、信仰者とはなにか?

私が小学生のとき、オウムのサリン事件がTVのどのチャンネルでも流れていた。

「宗教って怖いものなの?」そういう問いが、無条件に肯定されそうな、そんな空気だった。
 
人を殺すことを、「良いこと」と言える考えってなに?
 いったい、「信仰」とか「宗教」ってなに?

 私は、宗教というものが不思議でたまらなかった。
仏教の本、イスラーム解説本、新・旧の聖書、道端で配られる現代宗教の冊子…手に入るものを、読み続けた。
 でも、わからない。どの本も、みな同じことを言っているのに、どれも互いを否定する。
 そして、高校生の時にこの本に出会った。
 宣教師が見たモノはいったいなんだったのか?神などというものは、存在するのか?

 「信仰すること」「信仰している人」について、この本は鮮やかに私に提示してくれた。
 けして謎が解けたわけではないけれど、ここから私は社会学と宗教学に興味を持つようになった。
 
社会学、国際社会学を学ぶ学生、宗教学を学ぶ学生は一読した方がいいと思う。
 文字だけの存在だった、「信仰者」たちに、きっとこの本で触れることができるから。

 

 
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.60:
(4pt)

壮絶な歴史モノとして・・・

鎖国した日本において、キリスト教を拡めようとした司教の物語です。

 信仰心と慈悲の間で揺れ動く人間の心模様が印象的です。

 かくも生真面目な生き方は現代的ではありませんが、ちょっと昔の生き方としてはある意味、共感します。
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4101123152
No.59:
(5pt)

「信じる」とは?

この本を初めて読んだのは高校生の時でした。
吸い込まれるように読んだ記憶があります。

「信じる」とは何なのか。
「信じる」ことによって人は救われるのか?

戦争には,その背景に宗教観の問題も含まれています。
人間が神によって生かされているのであれば,なぜ,戦争なんてするのでしょう?
神とは「自分こそが正しい」ことを武力をもって照明するような人間くさい存在なのでしょうか?

この本は,「信じる」ということの深さをまざまざと見せ付けてくれる一冊です。
私は誰かを信じぬけるのか?

恋に迷った時に読んでみるにもお勧めの一冊です。

また,この本を片手に長崎を旅してほしい。
外海から長崎市内へ海を眺めながら旅してほしい。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152
No.58:
(5pt)

いちどは読むべき名作。

主人公と一体になって、読み手のわたしも苦しんだ。

読後、10年以上が経過したのに、
この小説を思い出すと、いまでも胸が痛む。

こういう作品を、真の名作と呼ぶのだと思う。
沈黙 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:沈黙 (新潮文庫)より
4101123152

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