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ブラフマンの埋葬の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.95pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全57件 41~57 3/3ページ
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「博士の愛した数式」以来の小川洋子さんの小説を読みました。 ブラフマンは、ブッダの物語の人物ではなく、「私」が森で助けた動物の名前。 「私」とそのブラフマンが過ごした短い夏の日を、さわやかなタッチで描いています。 ブラフマンは、猿なのか、犬なのか、猫なのか、アライグマなのか、それとも架空の動物なのか、結局でてこなかったのですが、ブラフマンはブラフマンという、なんというのか、それで納得して読んでいってしまうほど生き生きと描かれています。 タイトルの通り、最後、最愛のブラフマンは夏の終わりに死んでしまうのですが、淡々と描かれるその光景ゆえに、「私」の感じた想いが伝わってきました。 こういった感じでの切なさの表現ってあるんだなあって。 150ページ弱の短いお話ですが、二度と訪れない夏の日をみずみずしく、さわやかに、そして切なく描いたよい小説です。 | ||||
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著者の小川洋子については「芥川賞作家」ということしか知りません。『博士の愛した数式』の方が売れているようですが、「ブラフマン」という言葉に引かれて、こっちを読むことにしました。 インドのウパニッシャド哲学でブラフマンは宇宙の究極的実在を指すそうです。ブラフマンが埋葬されるんだったら「アートマン」(個人の究極的な実在)はどうなるんだろう。何か哲学を命題にした小説なのかなぁ。……という私の予想は全く当たりませんでした。 「ブラフマン」は、ケガをして森からやってきた小さな動物です。ケガの手当てをしてやったり、エサの心配をしてやったり、トイレの躾をしたり。ブラフマンを自分の部屋に入れることによって、単調だった「僕」の生活は張りのあるものになります。 「僕」は芸術家が滞在する「創作者の家」の管理人をしていて、傷の癒えた愛くるしいブラフマンをかわいがります。静かな生活の描写が続いたあと、突然ブラフマンは死を迎え、静かに埋葬されてこの物語は終わります。 ブラフマンは何者だったんでしょう。最初は犬のようにも思わせる描写もありますが、指の間に水かきがあったり、ながーい尻尾を持っていたり。最後まで「森からやってきた小さな動物」ということ以外は明かされません。 「僕」の住んでいる町も、日本の軽井沢あたりを連想させる描写もありますが、「川に流された亡き骸を埋葬する人が集まった」というのが町の成り立ちですから、何とも不思議な場所です。 実在しなさそうな場所で不思議な小動物を可愛がったある青年の一夏の経験。何の寓意もなさそうな、静かな静かな物語。 ちょっとだけ心が温かくなったような……。 | ||||
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愛しいものを失ったあと、ひとは何を思い出し、どう生きていくのだろうかという疑問にひとつの答をくれる小説かもしれない。 たとえば突然別れた恋人、先だった子供、とうに亡くなった両親、ペット、などを思い出すとき、人は何を思い浮かべるだろうか。失くしたものの食べものの好みやそれを食べるしぐさ、はじめて一緒に車で出かけたときのこと、自分をたいせつに思っていてくれる気持ちがわかった時のこと、などを詳細に、しかし偏った詳細さで、記憶しているのではないだろうか。その周りにいた人々の名前などより、今は無いものの爪のかたちの記憶のほうがずっと強く残っているのではないだろうか。 ”僕”の暮らしのなかで一時期最も大きな存在だったブラフマンは死んでしまった。しかし”僕”は、ある日ドアを開けるなり見えた”彼”の表情やしぐさについては、手に持ったかけらを取り落としたタイミングまで詳細に覚えている。”彼”が他人から何に分類されていたかは記憶にのぼらなくても、その体温ははっきり記憶している。 市場で手に入れてきた見知らぬ古い家族写真をみた”僕"は、写真のなかのひとりずつが家族を失っていった気持ちを想像する。それがこの先の”僕”のずがたに重ならなくも無い。 著者のもつ、読者の感情への働きかけに対するはにかみに似た節度に好感と安心感を覚えます。大切な者をなくした方、これから失う不安をどこかにかかえた方、安心してお読みください。 | ||||
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夏のはじめのある日〈創作者の家〉の裏庭に傷ついた小さな動物が助けを求めるように身を縮めていた。芸術家たちの集まる〈創作者の家〉の管理人を勤める主人公「僕」と「ブラフマン」と名付けられた動物の優しく、温かく、そして切ない物語。 ブラフマンはどんな種類の動物なのか、作中では明らかにされていない。ただ、精彩に活き活きと描かれたブラフマンの行動や習性から私は自分が好きな動物だと勝手に思いこんで読んでいた。 タイトルから想像すれば、やはり悲しい場面があるのだと覚悟はしていた。それは以前、飼っていたペットが老齢で日に日に弱っていく姿を見て“寿命だから仕方がないんだ…”“今日はすごく元気だね。明日も明後日もまだまだ大丈夫だよね?”と祈るような気持ちで毎日を送っていたような覚悟だった。 そんな風にページ捲り、いつの間にか「僕」と「ブラフマン」の物語が「僕とブラフマンと私」の物語になっていた。 ブラフマンの愛くるしさと〈創作者の家〉を中心としたオリーブ林、泉などの透明感ある風景がとても印象に残る作品。 | ||||
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早速、読んでしまった。 ある朝、突然やってきて、主人公の人生に入り込んだ不思議な動物。彼はそれを「ブラフマン」(サンスクリット語で「梵」の意味)と名付ける。ブラフマンに関する描写は饒舌なまでにあるのだが、ブラフマンがどんな動物なのかは最後まで分からない。がしかし、その愛くるしいイメージは豊かに読み手の中に拡がる。 主人公の僕についての生い立ちは一切語られないのだが、彼が路上のガラクタ売り場から、古ぼけたどこかの家族の肖像写真を購入して、部屋の一角に飾るところが印象的である。 「人の心をうつ文章には悲しみが必要だ」と私の恩師がよく言っていたが、小川洋子の作品にはいつも根底に悲しい何かが流れている。それは決して饒舌ではなく、控えめで、淡々としているのだが、確かにそこにある何か悲しいもの、なのだ。 感情的な悲しさとは違う透明な悲しさ。 先日、私の英語の先生と話をしていて、彼女の話題になり、彼もたまたま「ニューヨーカー」(週刊文芸誌)で彼女の短編を読んだところだが、彼の記憶する限り、権威ある「ニューヨーカー」に日本人作家の作品が掲載されたのは、村上春樹と大江健三郎に続いて3人目だとか。ちなみにその作品は「夕暮れの給食室と雨のプール」 | ||||
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この本は、主人公である「僕」の世の中に接する感じの希薄さと ブラフマンに対する描写の優しさが印象的でした。 芸術家の集まる家では、人も自分の要求に素直なため、動物の 毛の嫌いなレース編み作家が出てきた時は、ギョッとしましたが 無事に乗り切ったと思った矢先に。。。タイトルから悲劇的結末 を予想できたためにページ数が減ってくるとちょっと読み進めたい 気持ちと今ここで読み終わったほうがよいような不思議な葛藤が ある稀有な本だと思います | ||||
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ブラフマンは単調な毎日を送る僕にふってわいた物。 それが毎日少しずつ僕に染み込んで大切な存在になってゆく。 ずっと続くと思われたその関係はその出会いのように突然終わる。 現実の世界でも大切なものにはふとしたことで出会う。 最初はそうなるとも知らずに。 そして失うときもそうとは知らずにふとしたことで別れがくる。 人や物は知らぬ間に自分にとって大事な存在になってゆくし なんらかの形で別れも来る。 主人公である僕がブラフマンを失うきっかけになったのは、 僕が密かに想いを寄せる娘であったことに皮肉を感じた。 大切なもの比べをしてしまい、 僕が間違った選択をしてしまったかのようだ。 同時に2つのものを同じように愛することはできないと 諭されているような気にもなった。 暖かくやさしいが切なく悲しくもなる。 そんな色々な感情を呼び起こす本です。 | ||||
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ブラフマンが何か、最後まで明かされることはありません。 また、ブラフマン以外の登場人物『僕』や『娘』、『碑文彫刻師』の名前も出てきません。 私はブラフマンは何らかの動物である、という説と共に 『僕』の中の何かではないかと踏んでいます。 とにかく相変わらず表現、描写が素晴らしくさくさくと読め、 読後はじっくり温かい世界に浸かることが出来ます。 この本でがんばって読書感想文書きます。笑 | ||||
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物語に登場する「どうぶつ」が滅法愛らしく思えるのはなぜだろう。ささやかな仕草や何気ない素振りが描写されていると、たまらないものを感じる。活字という媒体に生きる「どうぶつ」は、自分の中にある理想の「どうぶつ」像とスムースにつながるからなのかも知れない。ある日の夜更け、主人公の青年のもとに迷い込んで来たブラフマン(本書では具体的などうぶつの種は示されていない。それがまた想像の余地を生んで、より魅力的たらしめる)との一夏の交歓がふわふわとしたやさしい文体でサラリと描かれている。これほど愛しいどうぶつがこれまでに存在したであろうか! カレ(雄)の一挙手一投足から字義通り目が離せない。いつまでも眺めていたい、ふれ合っていたい、ファンクラブを結成したい・・・。 | ||||
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著者の本を読むといつも「いったいどこの国なんだろう」と考えさせられます。 主人公は日本人って言う感じを受けるのですが、「創作者の家」は日本ではない???と言う感じなのです。 イメージ的には南フランスの田舎町とかそういう感じでしょうか。 そして、ブラフマンは何の動物であるのか、結局謎のままで読者の想像にお任せという感じです。 私の中では「きっとアレ!」と思っているのですが、もしかしたら、実在しない著者の創造した生き物なのかもしれません。 どんなにブラフマンが部屋を汚しても、いたずらをしても、主人公の彼への愛は不変です。 そんな彼の埋葬の場面では、どこまでも透明で、あたり一帯にホルンの音が鳴り響く、とても美しいのです。 まるで映画を見ているよう。とても気持ちがいいのです。埋葬のシーンだというのに。 活字の小説では、読み手によって場面の光景は様々に想像すると思うのですが、この著者の描く限りなく澄みきっている風景・光景は、みんな同じものを想像しているのではないかとさえ思います。それだけ、描写が繊細です。 | ||||
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不思議な静けさと透明感に満ちた僕とブラフマンとの物語。この物語のなかで唯一、名前というものを与えられているのは“ブラフマン”だけなんですね。僕とブラフマンとの偶然でありながら必然ともいえる出逢い、楽しかった蜜月の日々(レース編み作家にはさんざん文句を言われたし、雑貨屋の娘にはいい顔をされなかったけれど)、そして別離。僕が管理人をしている<創作者の家>がある村も、不思議な地形をしています。気になるのは、古代墓地です。おどろおどろしくはないけれど、死の気配がいつもあるような土地柄が作品の基調低音として流れている気がしてなりません。いとしいものへの愛と、その死を受け入れる僕の心。普通なら張り裂けんばかりの悲しみが描かれるところを、「ブラフマンの埋葬」の儀を描くことによって、僕のブラフマンへの愛と敬意を、とても上手に昇華させていると思いました。じわじわと胸うたれ、静かな余韻に、私はひたっています。 | ||||
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ブラフマンの正体は明かされない。 これは大切なことだと思いました。 ほとんどのかたが経験あるであろう、“家族”とのひととき。 すでにその“家族”を亡くしたものにとって(ボクもその一人)、そのものが、正体の分からないブラフマンに乗り移ります、 ブラフマンと主人公の信頼関係は、ボク達にとってのひとときが、ただの楽しいときだけではなく、強い絆で結ばれていたことを、教えてくれます。 なんだか、最愛の“家族”が戻ってきて、横にいるような感覚に陥りました。 主人公の淡々とした埋葬する姿は、読み手が耽った世界に水を差すことなく、むしろこれで良かったと思います。 | ||||
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この作品に、意味を求めるのは野暮なのかもしれない、と感じました。 ブラフマンは可愛くて、管理人はブラフマンを愛していた。 碑文彫刻師もまたブラフマンを大切に想い、レース編み作家がブラフマンのためにレースを編んでくれた。 娘の存在も、管理人の想いもどうでも良い。 ブラフマンも管理人を求め、互いに相手を愛して失うことを懼れ、体を寄せ合い一緒に眠った。 ただそれだけ。それでおしまい。 『それから』は無い。後も前も無い。 静かな村のひとかけらが切り取られたもの。私たちはその切り取られた部分しか見られない。 そんな感じがしました。 小さな愛しさしかない、けど、それだけでいいとも思います。 何も、ひとつも無いわけじゃない。ブラフマンの存在と、管理人や碑文彫刻師の愛しさがあったから、私は最後に哀しくて泣いたわけで。 スリルは無い。すっきりはしない。でも、これはこれで良いと思いました。 | ||||
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デビュー以来作り上げてきた無機質、静謐でいながらも読むものの心を温かくする小川洋子の世界が味わえる秀作。 主人公と生活をともにする謎の生き物ブラフマン。ブラフマンとはサンスクリット語で「梵」を表す言葉で宇宙的真理を表す。アートマン(個我)はこの梵から生まれたとされている。 まさに小説では、ブラフマンという生き物と過ごした時間の中で、主人公が自分自身を見つめていく過程を描き出していて、タイトルのつけ方とストーリーのマッチングが絶妙だ! | ||||
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ブラフマンという言葉や文章の端々に宮沢賢治的な無国籍な匂いのする本です。 夏の初めにやってきたブラフマンは体中ひっかき傷だらけで、抱き上げた時に彼だとわかった。 言葉の使い方がとぎすまされていて、うまい人だなあと思いました。 主人公は創作者の家といわれる芸術家の集まる家の管理をしていますが、 それぞれの人たちとの関わりもあっさりとしていて、思いこみが深くないところがいいです。 楽しく読めた小説ですが、何故かはわかりませんが、読み終わったあとに、 この人の本をもっと読みたいという欲求にかられることはなかったです。 なにが物足りないのかはわからないので星は4つで止めました。 | ||||
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やっぱり気になった。最後までブラフマンって何なんだろう?って。 初めは犬かな、いやリスかもしれない。犬やリスは潜水は得意ではないはず。 ならば水棲動物。ビーバーかな。ビーバーの生態なんてよく知らないし。 と、堂堂巡りをしながら、登場人物のなかで誰一人「それは何?」などと 質問したりしないことにやっと気が付いた。 著者は意図的にブラフマンの正体を隠しているのです。 ブラフマンと命名する時の僕と碑文彫刻師の会話の中に答えは出ている。 謎は謎のままでいいではないか。 この作品は時間も場所も霞がかかったようにぼんやりしている。 自動車もファクスもあって現代のようで何故かレトロな雰囲気が色濃い。 場所も国内のようでいて石棺がごろごろ並んでいる景色はどうも日本とは 思えない。登場人物にも謎が多い。主人公の僕からして年齢不詳、前歴 不詳。 この時空を超え場所を越えたところに、この物語のきらきらと輝く幻想的で 柔らかなそしてはかなげな静謐と哀しみが成立しているのです。 タイトルで予告されているとおりあっけなくブラフマンは死んでしまう。 その埋葬に立ち会う人物の選定が絶妙です。僕、碑文彫刻師、レース編み 作家そしてホルン奏者。石棺に納まりレースを纏いホルンの音に送られる。 まるで中世ヨーロッパの貴族の葬列のような荘厳で様式美をたたえた雰囲気 ではありませんか。 世評高く感動的でアイデアの勝利でもあった前作『博士の愛した数式』と 本作を比較することはほとんど意味のないことです。 個人的嗜好からいえば『博士・・・』より本作に一票を投じたい。 読者ひとりひとりが自分のブラフマンを心に育てていけばいいのです。 再読に耐えるいや何度でも新しい感動を得られる傑作です。絶賛します。 | ||||
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『博士~』との比較は酷なのですが、最後にここちよい余韻が残る美しい作品です。ある日捨てられたイキモノを拾う「僕」、ブラフマンと名づけられたそのイキモノと僕との短く、かつ、温まる日々の話です。ブラフマンの描写が秀逸。とはいえ、ブラフマン、君は何者なの? | ||||
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