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野火
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野火の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.47pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全88件 61~80 4/5ページ
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大岡昇平氏の作品を初めて読みました。「戦史小説」のつもりで読み始めたのですが、読後は何かとても大きな文学作品を読んだ気がしました。非常に大きな衝撃を受けた気分です。氏の文体も気に入りまして、これからしばらく氏の作品をいろいろ読むつもりです。 | ||||
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戦場と飢餓という極限状況、そしてそこにおいてぽっかりと、恰も颱風の眼のように立ち現われた解放空間における主人公の思索と行動を通じ、人間の実相と魂の救済を描いた第一級の世界文学。本書については、何を語っても贅言になってしまう。世評のみで済まさずに、とにかくテキスト(原典)を読んでみなければ分からない一書であると思う。 「「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」 兵隊は一般に「わかる」と個人的判断を誇示することを、禁じられていたが、この時は見逃してくれた」(6頁)。 「行く先がないというはかない自由ではあるが、私はとにかく生涯の最後の幾日かを、軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである」(11頁)。 「私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。「猿の肉さ」」(141頁) 「しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲すつもりで、実は彼等を食べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった。もし私が私の傲慢によって、罪に堕ちようとした丁度その時、あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば− もし神が私を愛したため、予めその打撃を用意し給うたならば− もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば− もし、彼がキリストの変身であるならば− もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば− 神に栄えあれ」(176頁)。 遠藤周作『沈黙』とも通底するモチーフを感じた至高の作品でした。 | ||||
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人間というものは、高潔にも卑劣にもなれる だが、どちらにせよそれを極めるのは難しく、相反する感情があるから一線を越えたときに壊れてしまうのだろう 人間すべてを信じられなくなり、それでも自分の見いだした神だけは賛美する その姿は悲しいくらい孤独だ 刹那的な感動を求めて本作の根幹を見失っている人もいるかもしれない。 ライトノベルや娯楽小説が溢れる世の中にあっても、このような作品は読み継がれていかねばならない | ||||
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日本人が日本人を食べて戦地で生き延びた事は参戦した兵士の 多くが知っていたのでしょうが、それは暗黙で誰も口外しなかった 事でしょう、それを敗戦後7年も経たずに敢えて小説として発表した 著者の勇気に感謝しながら読ませていただきました。発表後60年以上 経っていますが少しも色あせていません。 小説家が自分自身と向き合って結実させた傑作です。 | ||||
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古い話ほど人間の深いところを語りかけるのではという良い例でしょう。 | ||||
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タイトルに興味があり買ってみました。よんでみて楽しかったです | ||||
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田村一等兵が生死の淵をさまよいながら、彼の頭をよぎる想念がどこから来ているか。その源を出来るだけ探ってみる(カッコは章番号)。 (エピグラム)「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」ダビデ:詩篇 第23編 (12)「「恋愛とは共犯の快楽である」のごとき西欧のカトリック詩人の詩句」:ボードレール『赤裸の心』 (14)「「デ・ブロフンディス」突然その唇が言った」/「われ深き淵より汝を呼べり」De profundis clamavi:ボードレール詩集「悪の華」から「深淵からの叫び」−原典はラテン語訳の聖書詩篇第130 (14)「私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた……」:Henri-Louis Bergson,1859.-1941『創造的進化』 (18) 「われ山にむかいて目をあぐ、わが助けはいずこより来るや」:讃美歌21(詩編121:1‾8) (18)「書架の中に……2冊のエドガー・ウオーレスを認めた」:Richard Horatio Edgar Wallace, 1875-1932,ミステリ作家『キングコング』が有名 (19)「ドストエフスキーの描いたリーザの著しい類似が……」:『罪と罰』の金貸し老婆の妹リザヴェータ・イワノヴナのことか (20)「昨夜のように山鳩がベエトヴェンの交響曲の主題を二小節鳴いた」:ベートーベン交響曲6番『田園』第1楽章 (28)「しかしもし私が古典的な「メデュース号の筏」の話を知っていなかったなら……」:フランスロマン主義派の画家・版画家テオドール・ジェリコーによる油彩画。 (29) 「汝の右手でなすことを、左手をして知らしむることなかれ」:マタイ伝第6章3節 (29)「「起てよいざ起て…….」と声は歌った」:賛美歌第380番 (30) 「野の百合はいかにして育つかを思え……」:マタイ福音書6:28 (35)「声が聞こえた「ここに働かざりしわが手あり」:ヴェルレーヌ 「英知」 ここから判るように田村一等兵は非常なインテリである。キリスト教の造詣も深い。だが信仰は知識ではない。鈴木大拙は、神が信じられるためには「個人的宗教体験」が必要だと言う(『善の研究』。この書を田村の「個人的宗教体験」物語として読むのはどうだろうか。 幼い頃教会に通っていた田村だが、“神を信じる欲望”を、長ずるに従って得た「無神論」的“合理思想”で押さえつけて来た。死を覚悟した彼が、山上から海岸の部落の屋根に光る十字架を見た時、“抑圧”が解かれ、それがなければ味わっていたはずの経験が「既視感」として彼を捉え始める。 田村は村の教会で棺に収まった自分を見て当惑する。思わず「われ深き淵より汝をよべり、主よ願わくばわが声を聞き……」の詩句が彼の頭をよぎる。田村は心のなかに神を呼び込んだと読める。 しかし数時間後、彼は全く卑小な嫉妬心からフィリピン女を殺してしまう。罪の意識がキリストを更に身近にする。彼は始終キリストに見られていると感じる。実際にキリストとおぼしき人物も彼の前に立つ。「俺を食べても良いよ」と右腕を差しだす将校だ。彼は将校の血を吸った蛭を食べ、腕を切り取ろうとするが、その右手を左手が押さえる。彼はキリストが禁じたと思う。すぐ後で再会した永松に貰った人肉を神は拒否しない。そこには彼がキリストの血肉が与えられたと考えるに足る時間的連続がある。この解釈以外に「人を殺したが食べなかった」という彼の主張は理解できない。 キリストはもう彼から離れない。山中でゲリラに後頭部を殴られ捕虜にされた時、彼は確かに「生かされた」と感じる。だが何故彼は生かされたのか判らない。神はそこまで親切ではないのだろう。帰国した母国では性懲りもなくまた開戦の噂だ。彼は、「野火」の下で死んでいった、殺されていった人間を思い浮かべながら武蔵野の精神病院で過ごすのが最も適切な「生かされかた」だと考える。インテリに相応しい、一つの「回心」のあり方と納得できる。 | ||||
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餓死寸前の兵士が「共食い」を選択すべきか否か葛藤する姿が、極めてリアルに描かれている。 この本から私が得られたものは2つ。 ・戦争が一般人に与えた残酷な現実を、他の多くの本のような美化的表現は一切無しに知ることができた ・これまで宗教の必要性を実感したことが無かったが、極限状態に追い込まれた精神を救うためには必要であることを理解できた | ||||
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だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、 主の死を告げ知らせるのです(『コリントの信徒への手紙 一』11章26節)。 「病院へ帰れ。……どうしても入れてくんなかったら――死ぬんだよ」 太平洋戦争末期、食糧の枯渇したレイテの前線、結核を患い、隊を追われた「私」は、 「病院へ行くのである。無駄な嘆願を繰り返すためではない。あそこに『坐り込ん』でいる 人達に会うためである。……ただ私と同じく行く先のない彼らを、私はもう一度見たかった」。 立ち去る「私」に差し出された6本の芋、「私の生命の維持が、……この6本の芋に 尽きていた」。死を半ば運命づけられた「私」、「私はとにかく生涯の最後の幾日かを、 軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである」。 もし本作をキリスト教倫理、受肉論のアレゴリーとして解釈しようとするのならば、 少なくとも私の読む限り、この物語の寓意が正確に機能しているとは思えない。 「殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の 意志では食べなかった。だから私はこうして彼等と共に、この死者の国で、黒い太陽を 見ることが出来るのである」。 「私以外の力の結果」、「私」の不能性、不可能性、「太陽」。 そんなキーワードを見れば、ソクーロフ『太陽』やカミュ『異邦人』などが想起される ところであるが、そうしたモチーフがこの『野火』の中で、一貫したイメージとして叙述 されているか、この文章が敢然たる説得力を持ち得ているか、と問われれば甚だ疑問。 それでもなお。 血に、肉に、抉るように突き刺さる本作の文体表現の見事さは、そうした欠落をも はるかに凌ぎ、本作の価値を崇高に担保する。 「林の中は暗く道は細かった。樫や檪に似た大木の聳える間を、名も知れぬ低い雑木が 隙間なく埋め、蔦や蔓を張りめぐらしていた。四季の別なく落ち続ける、熱帯の落葉が 道に朽ち、柔らかい感触を靴裏に伝えた。静寂の中に、新しい落葉が、武蔵野の道の ようにかさこそと足許で鳴った。私はうなだれて歩いて行った」。 例えば冒頭間もなくの、これほどに濃密な記述が息切れなく畳みかけてくるというのに、 どうしてのめり込まずにいられようか。 何を書くか、よりも、どう書くか。 肉を領することばの凄み、身体性をも触発する文体の迫力、その一点で類い稀なる佳品。 | ||||
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実家から帰る高速バスの中で一気読みしたが、読了した後に周りの風景が60年前の戦場に変わったかのような衝撃を受けた一冊。極限下において人間はどこまで獣になるのか?国家と個人の関係とは?当時の軍部が立てた作戦の難点とは?…そんな幾つかの問いが頭の中を駆け回った。(私も含めて)「特亜何するものぞ」的な勇ましい言動を撒き散らす「自称保守」なネットユーザーがインターネット上で跋扈する昨今だが、この作品を読んでも同じ言葉を吐くことができますか?…などという問いをそんな人々に突きつけたくなった。 | ||||
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人間の根本にあるものは善なのか、あるいは悪なのか。心の芯に抱えている ものがむき出しにされるような極限的な状況など我々にはほとんど縁がないから、 そんなことを考えてもあまり意味がないのかもしれないし、そもそも確かめる 術がないのだが、例えば自分はどこにもヨコシマなところなどない小市民である はずなのに、ときに自身でも怖くなるほどのどす黒い気持ちを胸に抱いてしまう とき、例えば誰の賞賛も浴びないようなささやかな善行を、手間も体力も かけながらきまぐれで行ってみるとき、そんな出所のわからない感情を覚えた 経験をいくつも積み重ねるうちに、いつの間にか私たちは、そうした善と 悪の衝動のどちらがより深いところからやってきたものか、考えてみたりする。 そして、出来れば善の方がより根幹に近ければいいなあ、と祈ってみる。 『野火』は、戦争という状況を通して一人の人間が、自分を奥底で突き動かして いる何者かへと肉薄していく物語である。常識や倫理といったものがそぎ落とされ、 代わりに生への渇望を含めた欲望が浮き上がってくる。どんな非人道な行為だって、 とがめる者はどこにもいない。何をしても許される。そのはずなのに、いざ行為に 及ぼうとすると、それを戒める何者かが自分の中にいる。まだ何かを捨てきれて いないのか、それとも、それはそもそも放棄することなど出来ない、自分自身 そのものなのか。ときに己の生命を維持するための行為にさえ逆らおうと するその何者かの正体は、果たしてなんなのか。 昨今、他人の罪と非道徳とを糾弾することばかりが多いように思う。けれど本当に 大切なことは、まず自分自身の善性の根拠を問い、己の悪しきところと向き合うこと なのではないだろうか。50年以上前に大岡昇平の手によって、自身を切り開き、 そしてさらすべく書かれた『野火』の言葉の刃が、今こそ人々の手に 取られるのを待ちわびて輝きを放っている。 | ||||
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「人肉を食らう事を天皇陛下はお命じになるのだろうか?」といった問題提起は、この小説にはない。小銃に刻印された菊の紋を、×で削るという描写があるだけで、面倒な思想批判が、この苛烈な戦場に介入されることはない。 いったい同胞を、その人体を食する為に撃つとは、どういった状況なのだろうか?ここに描かれているのは、我々の想起する極限や限界などといった認識を、遥かに越えている。しかも冒頭のセリフのような問題提起が無いにも拘わらず、読者は主人公に代わって、強く思うのである。 “一体全体、誰がわれわれを此処へ連れてきたのか?” 主人公が図らずも殺人を犯した後に陥る、任意と必然の内的な相克や、同胞の死体を前にしての、右手と左手の、いわゆる本能に対する理性の抗いなど、この作家はなんという洞察力の持ち主だ。いや、想像などではない実体験だ、などといった論争もあったらしいが、それは些事にすぎない。 肺を患い本隊を放逐され、ジャングルをさまよった田村一等兵が、友軍に出会い、思わず落涙するシーンは此方も泣けてきた。また、決して低くない教育を受けてきた彼が、空腹の為、将兵の衰弱死体のもとに舞い戻る場面には、やり場のない憤りを感じた。 終戦後、復員した彼は、いわゆる戦争神経症により、サナトリウムに入る。妻と主治医との不貞を疑うなど、次第に気難しく、卑俗になっていく。 フィリピンの極限状態で彼は、神の姿を認めるが、この病室で彼が認めたのは、格段に劣った神だった。この点では、最後にカタルシスに陥った船長が、神憑り的に善と悪を逆転させた、あの作品の方が、嘘っぽいが劇的だ。 | ||||
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「神に栄えあれ」で終わるこの小説は、数々のメタファーに満ち溢れ、特に最終章の意味するところは「深すぎて」消化しきれないものだった。 戦場で生き残り、飢えと乾きに朦朧としながらも野火の方角へ歩き続ける一等兵がいる。一等兵は人肉で飢えを満たすという欲望に突き動かされながらも、すんでのところで踏みとどまる。神の声を聞いたため、神が宿った左手が喰おうとする右手を押しとどめたため、と彼は考える。しかし日本兵を殺して喰っていた戦友永松から、無理やり「肉」を口に押し入れられ、久しぶりの脂肪を味わってしまう。このとき悲しみながらも「左右の半身は、飽満して合わさった」と一等兵は感じる。 野火を目指して歩いたのは、そこにいるであろう人間共を懲らしめ食べたかったのではないかという。しかし彼は死後、彼が殺した者達とともに「黒い太陽」を笑いながら見る。彼らが笑っているのは一等兵は彼らを「私の意志では食べなかった」からである。 戦場で人を殺しても、知らずに人肉を食べてしまっても、自分の意思で人肉を食べさえしなければ神に赦されるということなのか。このとき「自分の意思で人肉を食べない」ということは何かのメタファーなのか。 当分脳裏に留めておかねばならない気がする。 | ||||
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本書は、生還率3%と太平洋戦争中最も苛酷な戦場となったレイテ島において、 実際にあったと言われる兵士同士の人肉食いがテーマとなっている。 こういう事態が起こった背景には、補給を殆ど無視した軍の無謀な作戦によって 多くの兵士が飢餓状態に陥ってしまったという事実がある事を一応指摘しておきたい。 本書で描かれた兵士同士の人肉食いを通して、 極限状態に置かれた人間が、どこまで人間としての尊厳を保つ事が出来るのか? そもそも人間性とは何かについて考えさせられる。 そして「人間はどんな異常の状況でも受け容れることが出来るものである」 という本文中の言葉から、人間性を超えた生命力の凄まじさを感じた。 文学作品としても再度棒線を引きながら熟読してみたい程、 文学的完成度の高い傑作だと思う。 | ||||
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『俘虜記』『レイテ戦記』とともに一度読んだら忘れられない作品.人が死を覚悟するとき,なお意味あるものとして見えるのは何なのか,を精確なカメラでみるように,映し出す.逃れるために,研ぎ澄まされた作者の目に映る,様々な山中の地形.その不安なパノラマの中に出現する得体の知れぬ野火.その火に向かって野を分け入ってゆくときの戦慄. 必要最小限の描写にもかかわらず,行ったことも見たこともないフィリピンの自然と地形が,フィリピンの山中の木々が,今そこにあるように,文章の中から立ち現れてくる.その地形の描写が,背後にある主人公の死の意識を照らし出すその喚起力の確かさ(hauntingという言葉はこのような経験を描写する言葉ではないだろうか).主人公の山中の彷徨を,抑制された筆で,「自然科学的に」たどる,その記述のもたらす緊張感は,何度読んでも感嘆するしかない.傑作. | ||||
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大岡さん自身、青山学院時代に キリスト教に傾倒していた頃があり、それがよく作品に表れています。 神について、外国と同じように論じることが目標だったと インタビューで述べていましたが、随所にキリスト教を彷彿とさせます! 大岡さんも、実際にフィリピンに行っているので、 祖母の兄も、このような中で死んでいったのかなと悲しくなりました。 体験を背負って記述されているので 物語でも真実がこもっているように思います。 生死をかけた中で、昔の女性を思い出したり、 子供時代に通った教会と聖書の言葉を思い出し、 神の呼びかけを聞こうとしても、神は沈黙したまま、 何か道しるべを見出そうとする様子は、絶品でした。 まさに、戦中の日本人によるヨブ記という感じです。 実際、この本の冒頭で、聖書の引用が使われている点にも注目です。 | ||||
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太平洋戦争で召集され、敵地で捕虜になりながら脱走して復員してきた叔父に戦争中の話を聞かされたことがある。その叔父も故人となり戦争体験を直接話してくれる人も周囲には殆どいなくなった。 政治家や軍人から見れば、避けられなかった戦争かもしれないし、彼らなりに大義名分が有ったのかもしれないが、戦争の進め方、終わらせ方が褒められたものでなかった。 ましてや、召集され、戦地で国家から死を強制された一般の国民にとっては、おきてほしくなかったものだった筈だし、今後も戦争は二度と起きてほしくないものだと思う。 物語は、一兵卒の戦地での絶望的な話だが、薄っぺらなナショナリストたちの被害者・加害者論や、表面的な善悪論などを遥かに超えた、極限状態での人間の精神の普遍性を見事に描ききった貴重な文学作品だと思う。 戦争や飢餓が遥か遠くのものになったと思い込んでいる若者や、好戦的な態度が普通の国家などと主張している自称文化人は、今の時代だからこそ本書を読むべきだと思う。 | ||||
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人間の生命力は、自身が思っているよりずっと偉大だ。自意識や、倫理や、観念などといったものは、生命力の爆発を前にすると、いとも簡単に消え去ってしまう。 いわゆる戦争の悲惨さを描いた小説とは少し違う。 この本を読んでいると、「生命力」という名前のおっさんに正拳突きを叩き込まれます。 その衝撃は心の奥まで届き、そこにある見えない何かが、ぶるぶると震える。 この本に出会えてよかった。 | ||||
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アジア・太平世戦争において、日本軍兵士の死亡原因の約6割は、食料や薬の不足が招いた飢えや病気による「広義の餓死」とされている。それだけを頭の片隅に置いて手に取ったが、読了後、この客観的な数字だけで、戦争末期の戦場と餓死まで追い詰められた兵士の悲惨さを理解しようとしていた自分が、あまりに未熟すぎたと感じた。200ページ足らずの紙に、これでもかと言うぐらいの緻密な心理と風景の描写、そして人間関係。よくここまで言葉に変えて文字におとせたものだ。 戦場において、法、倫理、道徳といった人間社会の建前が蜃気楼に化した時、そして飢えによる死に面したとき、人は何を考え、行動したのか、もしくは行動しなかったのか。とある一兵士の真実がここにつまっている。 | ||||
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作品としては当然星は5つですが、解説を含めた書物全体としては減点する必要があるのではと感じました。作品が刊行された2年後に書かれた解説のようですが、いつまでも残す必要がある解説ではないと思います。作品を読んだ後の充実感にケチをつけられたみたいな気になって不満が残りました。 人間とは何か、人間にとって神とは何かという大きな問題に正面から取り組んだ小説なのに、解説はこういう中核の主題を避けて単なる小説技術論(それもどうも納得しがたい小手先だけの技術論)を論じるだけで、作品に正面からぶつかることから逃げている。そのくせ、自分はこの著者の作品を「解説」できるだけの力を持っていることを何とか見せようと色々細工をしかけていて、読んでいていい気持ちがしません。 わたしのように本編の後の解説を楽しみに読む人は少ないのかもしれないですが、時間が経って改めてこの作品の大きな意義を考え直す必要も出てきていると思いますし、解説を新しくするくらいのことをやってもよいのではないでしょうか。 | ||||
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